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2023年12月24日日曜日

天竺ブギウギ・ライト⑧/河野亮仙

第8回 インド舞踊の揺籃期/シャーンター・ラオのデビュー

昔、日印協会が八重洲にあったときはよく行った。茅場町に引っ越してからは数回しか行ってないが、麹町に引っ越すに当たって書棚を整理するというので出掛けた。誰も興味を持たなくても、私には貴重な本と雑誌を段ボール二箱譲り受けた。

その中にDANCES OF THE GOLDEN HALLという本があった。1971年にパドマシュリーを受賞した孤高の舞踊家、シャーンター・ラオ(1925-2007)の評伝である。1982年8月インディラ・ガンジー首相が来日した際、日印協会に寄贈した本の中の一冊でICCR発行だ。ガンジー首相は親のネール首相の代からシャーンターの信奉者だった。126ページの半分近くがスニル・ジャナによるシャーンターの写真からなっている。

https://www.youtube.com/watch?v=TxEso78EIJA

シャーンターという名は偶然にも大智度論における一角仙人の話に登場する遊女と同名だ。尼なら寂尼、白拍子なら静御前といったところだ。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e3%83%96%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%82%ae%e3%83%bb%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e2%91%a5%ef%bc%8f%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99/

始まりはタゴール

イギリスの統治時代、踊りは売春婦のやるものとして、寺院におけるデーヴァダーシーの舞も禁止された。一方、インドの伝統を大事にしようという動きもあって、ラビンドラナート・タゴールは、1917年、自身の大学のカリキュラムに舞踊を加えた。マドラスの弁護士E.クリシュナ・アイヤーは、女が駄目なら、男ならいいんだろうということか、自身も舞踊を習って踊り、バラタナーティヤムの復興に寄与した。イギリスからの独立とインド文化の再興は密接に関係していた。

その頃、ルース・デニスとテッド・ショーンの舞踊団が1925年にインドを訪れて刺激を与えた。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/

1932年にルクミニー・デーヴィーはパンダナルール・シスターズの踊りを見て感激し、それがバラタナーティヤムを志すきっかけになった。そして、1934年、パンダナルールからその師であるミーナークシ・スンダラム・ピッライをアディヤールに招く。同年、クリシュナ・アイヤーはデーヴァダーシーの家系のバーラサラスヴァティーをバナーラスのオールインディア・ミュージック・コンファランスの舞台に乗せた。これもタゴールの尽力による。

1935年、ルクミニーは神智学協会創立50周年の祝いの席でバラタナーティヤムを披露する。シャーンターはルクミニー・デーヴィー(1904-1986)に続く世代の舞踊家である。ラーム・ゴーパル(1912年生)と共に世界ツアーを行った。ゴーパルは初めケーララ・カラーマンダラムに学んだ。シャーンターは1918年生のバーラサラスヴァティー、ムリナリニー・サラバイより若く、チャンドラレーカーと同い年のようだ。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ae/

シャーンターはボンベイに住む、由緒ある先進的なハイソサエティのバラモンの家に生まれた。子供の頃は身体が弱かったともいい学校は休みがちだった。カタックやマニプリー・ダンスに興味を持っていた。マニプリー・ダンスのザベリ・シスターズがボンベイで活躍していて、タゴールの元に預けようかとも相談していたようだ。

しかし、ケーララのカタカリ学校カラーマンダラム(1930年設立)に行くといって親を慌てさせる。14歳頃の話である。ラヴンニ・メノンに学び、1940年にはカタカリを踊ってデビューしている。女がカタカリを学ぶのは初めてのこと。カラーマンダラムでは女の舞であるモーヒニーアーッタムもクリシュナ・パニッカルから習っている。

カラーマンダラムでは1931年から3年ほどカリヤーニ・アンマがモーヒニーアーッタムを教えた。クリシュナ・パニッカルがナットゥヴァンガムで小さなシンバルを叩いて全体を指揮した。伝統的には男の舞踊の師が小シンバルを打つ。カリヤーニは後にタゴールに見いだされて、タゴール大学でも教えるようになる。フォーダンスのカイコーティカリを教えたようだが。

https://www.youtube.com/watch?v=f8hLN1LdsLg

容赦ないしごき

カタカリの訓練は格闘技のトレーニングと同じくらい厳しいので、初めは女性を受け入れることを拒んだ。しかし、女だからといって手加減しないけれどいいのか、と念を押して入学を認めた。

午前2時半起床で目の運動から始め、お昼頃まで練習する日課だった。比叡山の行などでも午前2時頃に起きて、水浴びして一日が始まる。インドの夏は長くて暑いので、寺院では夏安居といって活動を控える養生のための修養期間がある。カラーマンダラムにも長い夏休みがあるのだが、驚くことにシャーンターはマドラスにバラタナーティヤムの師を探しに行く。

そして、たどり着いたのがクンバコーナムに近い辺鄙な村、パンダナルール。そこにはルクミニー・デーヴィーの師でもあるミーナークシ・スンダラム・ピッライがいた。そこでもまた、容赦ないしごきのような訓練が行われる。シャーンターは次のように語る。

朝は師より早く起きあがって、5時半から8時まで朝のレッスンがある。小屋みたいな家なので同じ部屋に起居している。師は30分ほど朝のお祈りをしてその後に朝食となる。そして、お昼までレッスンは続くが休み時間を与えない。喉が乾くと水を飲むことだけが許される。水浴びして再びお祈りをしてからランチとなる。サラスヴァティー・プージャーとか特別な日には1、2時間儀式をして、その間シャーンターはおなかを空かして待っている。ランチの後は半時間ほど休める。

3時からまたレッスンで、5分休憩でコップ一杯のミルクを飲むことが許され、6時まで続く。7時からはハスタ・ムドラー、手印の練習で、これは坐って行う。1時間半ほど続けて、ようやく軽い夕食を取り、お休みの時間となる。老人なのに教える方もたいしたものである。パンダナルールとカラーマンダラムのあるショールヌールを往復してこんな生活をしていた。どんだけーーっという感じだ。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e3%80%8c%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ad%e3%80%8d/

 

 

シャーンターは1943年、マドラス・ミュージアム・シアターでバラタナーティヤムを披露した。昔の正式なお披露目アランゲットラム、舞踊家デビューはこれ位大変なことだった。

ミーナークシ・スンダラム・ピッライはラーム・ゴーパルやムリナリニーら幾多のバラタナーティヤムの著名人を教えているが、シャーンターの踊りは、先にカタカリを習ったためか、とても力強いステップを踏み、男性的で特異なスタイルだった。

ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンの紹介者として知られるバイオリニストのユーディ・メニューインは、1952年にボンベイでシャーンターの踊りを見て、1955年、アメリカに連れて行っている。1957年にシャーンターはカタカリ舞踊団を連れて訪米し、イスラエルも訪れている。

https://www.youtube.com/watch?v=FChXM3LAtuc

1964年にはユーディ・メニューインの紹介でウィンザー祭に参加し、英国の他、イスラエル、ドイツ、ネパールを訪れ、1978年には3ヶ月にわたる日本ツアーをしていたとチャテルジーは記すが、不詳である。可能性があるのは民音の「シルクロードの音楽」のシリーズであるが分からない。この本には年度の間違いがあるように思う。

今日、シャーンター・ラオの名を知る人は少ない。カラークシェートラやダルパナのような学校で教え、弟子を育てることをしなかったからだろう。ヴェンパティ・チンナ・サティヤムにクチプリを習い、スリランカにも行ってキャンディアン・ダンスを習っている。南インドの舞踊のルーツは何かと身をもって体験しながら探ったのであろう。我が道を真っ直ぐ歩む求道者であった。数少ない昔の映像がYouTubeに上がっているのは幸いである。

参考文献

Ashoke Chatterjee, Sunil Janah, “Dances of the Golden Hall”, Indian Council for Cultural Relations, New Delhi, 1979.

Beryl De Zoete, “The Other Mind/A Story of Dance in South India”, London, 1953.

G. Venu, Nirmala Paniker, “Mohiniyattam”, Natana Kairali, Kerala, 1994.

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年12月21日木曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑫

カルカッタの外で(2)

7歳になった頃、初めてダージリンに行った。母方の3人の叔母さんの家に、交替で滞在することになった。全部で何日滞在するかは決めていなかった。ダージリンに行く途次、明け方、汽車の中で眠りから醒めて、窓を通してヒマラヤを目にした時、息を呑んだ。シリグリ (1) では、マヤ叔母さんが自動車を迎えに寄越してくれた。なぜなら、まず初めにこの叔母さんの家に滞在することになっていたから。運転手はベンガル人だった。山裾に沿って、くねくね曲がる道が、上に向かっている。上に行けば行くほど、雲と靄が濃くなり、ぼくらの運転手はますます車のスピードをあげる。彼に言わせれば、道のどの曲がり角も完全に頭に入っているので、怖がる必要はない、とのことだった。

マヤ叔母さんの旦那のオジトさんは、ダージリンでは著名な医者だった。(この人のカルカッタの家にぼくは柔術を習いに行ったのだ。(2)その息子のディリプ・ダーはぼくより5歳ほど歳上で、生粋のネパール人みたいにネパール語を話し、家の門の横で足を伸ばしてすわっては、ネパール人たちとカード遊びをしたものだった。それに、乗馬の腕前ときたら、チンギス・ハーンさながらだった。彼は、後にしばらく、ダージリンのレボン競馬場 (3) で騎手だったことがある。ダージリンの歴史の中で、ベンガル人で騎手を務めたのは、たぶん彼だけだろう。

ディリプ・ダーとは「キャラム」で盛り上がった。それに、ディリプ・ダーのところには、コミックの本が山ほどあった。ぼくはごく幼い頃からコミックの熱烈なファンだった。ぼくが熱を出すたびに、母さんはニュー・マーケットから、4アナを払って、新しいコミックの本を何冊か買ってきてくれた –– 中でも一番面白かったのは、『コミック・カッツ』と『フィルム・ファン』 (4) だった。

マヤ叔母さんの家から、モヌ叔母さんの家に移った。この叔母さんの旦那こそ、ショナ叔父さん (5) が働いている生命保険会社の社長だった。家の名前は「エルギン・ヴィラ」と言って、家の前には山の頂を削って作られたテニス・コートがあった。息子たちもこの義理の叔父さんと一緒にテニスをしたのだ。

このオビナシュ叔父さんについては、ちょっと別に述べる必要がある。なぜなら、子供の頃のぼくらの追憶の多くが、叔父さんのカルカッタのアリプル地区 (6) のニュー・ロードにある、宏大な館と切り離せないから。

オビナシュ叔父さんは、単なる事務員から巨大な、インド帝国生命保険会社(Empire of India Life Insurance Company) (7) の社長にまで、のし上がった。その時には、叔父さんの立ち居振る舞いは、完全にサヘブだった。叔父さんを見て、その最初の頃の様子を想像するのは不可能だ。叔父さんにはたくさんの子供がいて、そのうち、長男のオミオは、ショナ叔父さんの友達だった。二人が一緒になって、絹糸に結ばれた凧を、ボクル=バガンの屋上から揚げるのを見たものだ –– 凧揚げするのはぼくの歳頃で、二人はそんな年齢をとっくに過ぎていたにもかかわらず。ニュー・ロードの館で結婚式があるたびに、どんなに派手で大掛かりなことになったか –– ぼくは、他のどこでも、あんな贅沢は目にしたことがない。招待客にご馳走を振舞うだけじゃない、それと同時に彼らを楽しませる娯楽も用意されていた。長女の結婚式の時、一度、叔父さんが、チットロンジョン・ゴッシャミ教授 (8) を招いたことがある。その当時、チットロンジョン・ゴッシャミ氏は、カルカッタでは誰よりも有名なお笑い役者だった。こうしたものは、今日では姿を消そうとしている。一時間以上にわたって、一人の役者が、いろんな滑稽な芸を見せて観衆を笑わせ楽しませ続ける –– こんな能力は、今日、もはや、誰一人として持っていない。チットロンジョン・ゴッシャミは、そうしたことが難なくできた。アリプルの結婚式で彼が見せた芸の一つを、ぼくはいまだに覚えている –– なぜなら、それを聞いて、ぼくは、父さんが書いた劇、『無敵の槍に打たれたラクシュマナ』 (9) のことを思い出したから:––

 

         ラーヴァナが 長靴を履き 戦場にやって来た。

         (そして)ハヌマーンは彼を 殴る、蹴る、肘鉄かます ––

         (神の御名に 栄光あれ! ラーマの御名に 栄光あれ!)

 

これから始まり、最後の方では:––

 

         ドスっと刺さる 円盤が ラーヴァナの胸に

         あれよ、あれよ!と 叫ぶ声、 目の前は まっくらくら。

         (神の御名に 栄光あれ!)

         20の手にカラスウリ 10の口に角笛 (10)

         見る見るうちに ラーヴァナは トカドヘチマを引っこ抜く。

         (神の御名に 栄光あれ!)

 

無論、この歌を、チットロンジョン・ゴッシャミのように歌える人は、他にいない。喜劇を見せてぼくらのお腹の皮を捩れさせたあげく、彼は最後に、29個のロショゴッラ (11) を、次々に口の中に放り込む。

オビナシュ叔父さんには、一台の、イタリア製の車があった –– その名をランチアという。車が走る時、ボンネットの先端にあるガラスの蜻蛉の身体から、バラ色の光をピカピカ発した。

ぼくらがダージリンに行った時、母さんはまだカルカッタで職に就いていなかった。ダージリンで何日か過ごす間に、急に「女王女学校」 (12) の教師の職を得て、ぼくもこの学校の生徒になった。奇妙な学校で、教室毎に分かれていない。ぼくは大きなホールの隅っこにすわっていて、向こうの片隅のもう一つのクラスで母さんが算数を教えているのが見えた。何日この学校に通ったか、覚えていない。本当に何か勉強したのか、それとも母さんがクラスを終えるまでただ黙ってすわったまま、ほっておかれたのか、それすら覚えていない。

その一方で、気分はすっかり沈んでいた –– なぜなら、雲と靄のために、来てから一度もカンチェンジュンガを見ていなかったから。カルカッタの家の壁には、お祖父ちゃんが描いた色鮮やかなカンチェンジュンガ (13) の絵が掛かっていた。絵に描かれたカンチェンジュンガと、本物のカンチェンジュンガを比べてみたくてウズウズしていた。ついに、エルギン・ヴィラにいたある夜明け時、母さんがぼくを起こしてくれた。窓際に駆けつけた。

お祖父ちゃんの絵では、左側から、夕方の陽射しが、雪の上に落ちていた。そして今、目の前に見えるカンチェンジュンガは、右側から次第に色づき始めている。

口をポカンと開けたまま、陽射しの色がバラ色から黄金色、黄金色から銀色に移り変わるのを見つめていた。この後、インドだけでなく、地球上のいろんな国のいろんな有名な美しい景色を見たけれど、この夜明けと日没の時のカンチェンジュンガほど美しい景色には、お目にかかったことがない。

訳注

(注1)シリグリは西ベンガル州ダージリン県南部の町。アッサム州、ブータン、ネパールに至る要衝。ここから、車、ないし狭軌道の山岳鉄道に乗って県都ダージリンに至る。

(注2)『ぼくが小さかった頃』⑨ 参照。

(注3)Lebong Race Course。ダージリンの北郊外にある、当時、世界でもっとも標高の高い、最も小さな競馬場だった。1880年代に、イギリス軍駐屯地の中のパレードの場所として開かれた。1980年代に軍に撤収され、現在は競馬場としては使われていない。

(注4)’Comic Cuts’, ‘Film Fun’ 詳細は不明。4アナは、1ルピーの4分の1、25パイサに当たる。

(注5)レイの母親の3番目の弟。『ぼくが小さかった頃』⑥、⑦参照。

(注6)カルカッタ南部、フグリ河畔の高級住宅街。

(注7)1897年ボンベイで設立。

(注8)Professor Chittaranjan Goswami 1930年代に活躍したお笑い役者。

(注9)サタジット・レイの父、シュクマル・ラエの遺作。羅刹王ラーヴァナの「無敵の槍」に打たれて死にかけた、ラーマ王の弟ラクシュマナを主題にした、ナンセンス劇。

(注10)ラーヴァナは10の顔と20本の手を持つ。「カラスウリ」、「角笛」、「トカドヘチマ」は、韻に合わせたナンセンスな言葉。

(注11)ミルクを煮てとった上澄み(チャナ)を丸く練り、熱した砂糖水で煮て作る。ベンガルで最もポピュラーな甘菓子の一つ。

(注12)Maharani Girls’ High School ブラーフマ教徒シブナト・シャストリの娘、ヘムロタ・ショルカルにより、1908年初等学校として創設。1911年には高等学校となった。コチビハル藩王国の女王シュニティ・デビと、その妹でモユルボンジ藩王国の女王シュチャル・デビが設立資金を提供したため、この名がある。(この二人の女王は、いずれも、ブラーフマ協会改革派(インド=ブラーフマ協会)の頭領、ケショブチョンドロ・シェンの娘。)

(注13)カンチェンジュンガは、インドシッキム州とネパールの境に聳えるヒマラヤ山系の主峰。サタジット・レイ中期の映画作品『カンチェンジュンガ』 (1962) は、この山を背景に、ダージリンに滞在したベンガル中産階級家族の心理劇を描く。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2023年12月5日火曜日

松本榮一のインド巡礼(その7)

シルクロード 1:長安からインドへ    

紀元前2世紀から、15世紀まで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6400キロメートル以上のこの交流路は、東西の経済、文化、政治、宗教の交流に中心的な役割を果たした。

とりわけ私たち日本人にとってシルクロードが意識されるのは、仏教伝来の道である。

シルクロードがなければ、日本に仏教の伝来は非常に困難だったに違いない。

この道を通った仏教僧 玄奘三蔵の活躍が、この道がいかに仏教伝来に大きな役割を果たしたことを物語っている。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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