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2023年9月28日木曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑨

ボバニプル(4)

ボクル=バガンの家に住んでいる時に、初めて、ポッド=プクルにあるボバニプル水泳クラブ (1) に、水泳を習いに行った。その頃、プロフッロ・ゴーシュ(2) が、身体に油を塗って76時間泳ぎ続け、世界記録を更新したばかりだった。そしてほとんど同じ頃、世界チャンピオンのアメリカ人水泳選手、ジョニー・ワイズミュラー(3) が、ターザン役で演技して、ぼくらをびっくりさせたのだ。水泳クラブの部屋に行き、額縁に入ったワイズミュラーのサイン入り写真が壁に飾ってあるのを見て、ますますクラブ贔屓になった。日曜の朝、何年にもわたって通い続けた。竹を掴みながら足をバタバタさせるのから始まり、しまいには、池のこちら岸からあちら岸へ、難なく泳ぎわたれるようになった。

健康増進のために、子供の時体操をする習慣が、今日どれくらい行われているか知らないが、ぼくらの時代には普通だった。朝、逆立ちや腕立て伏せをする人が多かった。身体の健康に普通よりも気を遣っている人たちは、ダンベルやエキスパンダーも欠かさなかった。ぼくは、自分では体操にあまり乗り気ではなかったけれど、プロモドロンジョンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの末弟)の手に落ちては、逃れるすべはなかった。お祖父ちゃんは、自分から望んで、人跡未踏の山や密林で測量の仕事をした。向こう見ずの冒険家の人生を送ったのだ。男が女々しくするのを、お祖父ちゃんは、まったく我慢することができなかった。タゴールが肩まで髪を波打たせているのにさえ、文句を言っていた。お祖父ちゃんにはたくさんの男の子がいて、みんなぼくより歳上だったけれど、誰もが例外なく体操をしていた。それにぼくが加わったので、ますます仰々しいことになった。

体操の話のついでに、ぼくが柔術を習った経緯についても、ここで書いておこう。もっともこれは、1934年、ぼくがボクル=バガンを離れて、ベルトラ・ロード(4) に移った後に起きたことなのだけれど。

柔術というものを最初に見たのは、シャンティニケトンだった。その時、ぼくの年齢は10歳かそこら。シャンティニケトンのポウシュ月祭(5) に行ったのだ。新しいサイン帳を買った。その最初のページに、タゴールに詩を一つ書いてもらおうと、意気込んでいた。

ある朝、母さんと一緒にウットラヨン(6) に行った。サイン帳を渡すと、タゴールは言った、「このまま置いて行きなさい。明日の朝来て、持って行きなさい。」

言われた通り、翌日、サイン帳を取りに行った。テーブルの上は手紙、ノート、本が山積みになっていて、その後ろにタゴールがすわっていた。そして、ぼくを見るとすぐ、その山の中に、ぼくのちっちゃな紫色のサイン帳を捜し始めた。3分あまりひっくり返したあげく、ようやくサイン帳が出てきた。それをぼくに渡すと、母さんの方に向いて言った、「この詩の意味は、この子がもう少し大きくなったらわかるだろう。」

サイン帳を開いて読んでみると、今日多くの人が知っている八行詩(7) だった:––

長かりし日々 はるかな道のり

費(ついえ)あまたに 国々を巡り

聳(そび)え立つ 山並み 望み

沸き返る 大海 訪(おとな)う。

眼(まなこ)開きて 見ることも無し

家の外 わずか数歩の

稲穂の先に 揺れ動く

ひとしずくの 露を。

1336年ポウシュ月7日(西暦1929年12月22日)

シャンティニケトンにて

ロビンドロナト・タクル

 

 

その時初めて、柔術または柔道を、この目で見たのだ。大昔、中国のラマ僧たちが、盗賊たちに対抗するために、手に武器を持たずに闘ったり自衛したりする技術を編み出した。この柔道は、中国から日本に行き、その後日本から世界中に広まった。タゴールは、日本に行って柔道を見て、シャンティニケトンの学生たちにこれを教える段取りをつけなければならないと、決心したのだ。時を経ずして、柔道の専門家タカガキ(8) がシャンティニケトンにやって来て、柔道の授業が始まった。でも、どういうわけか、この授業は、4年以上は続かなかった。しまいには、タカガキはシャンティニケトンを後にし、カルカッタにやって来ると、バリガンジのスインホー通り(9) にある、ぼくの義理の叔父さんの一人、ドクター・オジトモホン・ボースの家の一階を借り、そこで柔道を教える手筈を整えた。

何の前置きもなく、ある日突然、下の叔父さんシュビモル・ラエ(父シュクマル・ラエの末弟)(10) がぼくらの家に現れて、こう言った、「柔道を習うのは、どうだろう?」

下の叔父さんを見たことのある人なら、誰にだってわかるだろう –– 体操とか格闘技とかいったものと叔父さんとの間に、何らかの繋がりを想像するのが、どんなに難しいか。痩せぎすで弱々しい体格、いつもぼおっとしていて、修士号を取るとすぐ学校の先生になった。こんな人が、柔術を習う必要が、どこにある? そもそも、こんなことをしようという願望が、どうして頭に浮かぶのか? でもその願望が、どうやらある日、現実のものになろうとしていた。そして、ぼくも叔父さんと一緒に市電に乗って、バリガンジのスインホー通りに向かったのだ。日本人柔道家と話をするために。

今のバリガンジと、1934年のバリガンジが、どんなに違っているか、見たことがない人にそれを想像するのは難しい。ラシュビハリ・アヴェニュー(11) を少し進み、モハニルバン修道場(12) を過ぎてからは、石造りの家はほとんど見当たらない。道の両側には、マンゴー、ムラサキフトモモ、パラミツの木々が生え、その周りを藪や茂みが覆っている。ほとんど田舎の光景だ。

ゴリアハト(13) の交差点で降りて、泥池、竹藪、ウチワヤシとココヤシでいっぱいの野原を過ぎ、ようやくスインホー通り。たぶん、電話で前もって知らせてあったのだろう、義理の叔父さん一家の家を探し当て、一階の居間にすわり、紫色の着物を着た柔道家タカガキとの間で話を決めるのに、何の支障もなかった。タカガキの年齢は、たぶん40歳くらい。丸刈りの漆黒の髪に、黒い眉と口髭が似合っていた。ぼくは、叔父さんが柔道を習いたいと言うのを聞いて、タカガキが笑い飛ばすかもしれないと思っていた。でもそうしたことは一切なかっただけでなく、叔父さんは柔道の生徒としてまったく申し分ない、とでも言わんばかりだった。話し合いが終わると、仕立て屋が来て、柔道着を作るために身体のサイズを測って行った。生成りの綿のように厚ぼったい白い布で作られたジャケット、帯、そして短いパエジャマ(緩いズボン)。ジャケットの胸のところに、JUDOという大きな字が、黒糸で縫い付けてある。

柔道着ができると、25センチほどの厚さの畳を敷いた部屋で、柔道の授業が始まった。45年後の今、柔道の二つの技だけ、いまだに覚えている –– 「背負い投げ」と「一本背負い」(14) 。初めのうちは、ただひたすら、投げ飛ばされ方と、相手を投げ飛ばすことの練習。投げ飛ばされた時、どうやって衝撃を受けないようにするかが、柔道で、まず最初に学ばなければならないことだ。タカガキは言った –– 地面に落ちる時、身体から完全に力を抜くんだ、そうすれば苦痛も少ないし、骨を折る可能性も低くなる。 投げ飛ばすとは、完全に頭の上まで持ち上げて投げ飛ばすこと。柔道の技を使えば、12, 3歳の子供でも、太っちょの人間を難なく投げ飛ばすことができる。それは、まったく驚くべきことだ。

 

 

ぼくらが授業を受ける日に、男性があと二人やって来た。一人はベンガル人で、一人は白人。ベンガル人の方は、ぼくらと同様、初心者だったけれど、白人サヘブの方は、ウィリアム要塞に駐屯している軍人、キャプテン・ヒューズ(Captain Hughes)。この人はボクサーで、カルカッタのライト=ヘビー級チャンピオンだった。なかなかの美男子で、角張った顔、短く刈った波打つような金髪。柔道で彼が学ぶことは、何もなかった。すでに、柔道のエキスパートだったのだ。カルカッタには、彼の相手になれる人がいなかったので、タカガキを相手にしばらく闘って、自分の技を少々磨くために、ここにやって来たのだ。二人の闘いは見ものだった。ぼくらは、まるで呪文にかかったみたいに目を見張っていた。技また技、投げ飛ばすかと思えば投げ飛ばされ、しまいに、二人のうちのどちらかが押さえ込まれると、右手で畳の上を2回続けて叩いて相手に知らせ、相手は自分の技を緩めて、負けた方を許すのだった。

授業の後、タカガキはぼくらに、オバルチン(15) を振舞った。その後ぼくらは、夕闇の中、茂みに覆われた野原を通り、ボバニプル行きの市電に乗って、それぞれの家に帰り着いたのだ。

訳注

(注1)1917年創立。ポッド=プクル(「蓮=池」の意)は、南カルカッタのボバニプル地区、ボクル=バガンの北に位置する。

(注2)Prafulla Ghosh (1900-1980)、著名な水泳選手兼サーカスの曲芸師。1932年、ラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)のRoyal Lakeで、79時間24分、泳ぎ続けた。

(注3)Johnny Weissmuler (1904-1984)、オーストリア=ハンガリー帝国生まれの、アメリカ人水泳選手。後に映画俳優に転向、ターザン・シリーズで、ターザン役を演じた。

(注4)Beltala Roadは、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。

(注5)タゴールが創設したビッショ=バロティ大学で、ポウシュ月7日(12月21~22日頃)から3日間催される、学園祭。露店が立ち並び、近郊からは歌い手・芸人・修行者などが集まる。タゴールの父デベンドロナトが、1843年のポウシュ月7日にブラーフマ教に入信したのを記念して、1891年のこの日に、シャンティニケトンにブラーフマ寺院を建設。1894年のこの日から、毎年、寺院の横の野原で、祭りが開かれるようになった。ビッショ=バロティ大学の前身、ブラフマ修養学舎が創設されたのも、1901年のポウシュ月7日。

(注6)Uttarayan(「夏至」の意)は、もともとは、1919年に、タゴールがブラーフマ寺院の北側に建てた、土造りの家の名前。後にこれは石造りの家に建て直され、コナルク(Konark, 「太陽の隅」の意)と命名された。サタジット・レイが訪問したのは、おそらくこの建物。その後、この家の周辺に、タゴールやその家族等のために、家が次々に建てられた。現在、この場所全体がウットラヨンと呼ばれている。

(注7)この詩は、後年、未発表の詩を集めた詩集『火花』に収められた。同詩集164番の詩。

(注8)高垣信造(1898~1977)は、1929年から2年間の契約でシャンティニケトンに滞在。女学生を含む学生たちに柔道を教えたほか、インド各地に柔道を広めた。その後、ネパール、アフガニスタンにわたり、戦後も講道館国際部長として、アジア各地や南米で柔道を指導した(我妻和男『タゴール [詩・思想・生涯]』による)。

タゴールは、実は、高垣信造の前に、佐野甚之助(1882~1938)を日本から招聘している。佐野甚之助はシャンティニケトンに1905年から1908年まで滞在、日本語と柔道を教えた。帰国後も、タゴールの来日時に交流があり、1924年には、長編小説『ゴーラ』の、詳しい解説付きの優れた翻訳本を出版した。

(注9)バリガンジ(Ballygunge)地区は、ボバニプル地区(南カルカッタ)の東隣に位置する。スインホー通り(Swinhoe Street)は、その南東隅にある。

(注10)『ぼくが小さかった頃』③参照。

(注11)Rashbehari Avenueは、バリガンジ地区の南側を東西に走る大通り。

(注12)聖者ニットゴパル・ボシュ(Nityagopal Basu, 1855-1911)が創設した修道場。

(注13)南カルカッタの南東側に位置する、大市場。

(注14)原文では「ニッポン・シオ」とある。「一本背負い」の誤りか。

(注15)Ovaltine、粉末の麦芽飲料

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2023年9月14日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記④

Dance Villageでの舞踊のレッスンは、まずはガウリ・マから直接習うことができた。

その後、日本でいう人間国宝に値するPadma Vibushan ケルチャラン・モハパトラ・グルジの息子さんである、ラティカント・モハパトラ=シブ・グルジから。

その後、ビチットラナンダ・スワイン グルジ=ビチ・グルジも来てくださった。。。

シブグルジは、パカワジというオディッシーならではの横叩きの太鼓を叩いては、ステップレッスンをしてくれた。とってもシビアな指導ではあったが、レッスンの合間には、私達生徒と共に、ふざけた格好をさせては写真をとったりなどジョークいっぱいの時間も過ごした。

 

シブグルジのアレンジによるユニークショー

 

また、時には、なんともありがたいことに、大御所ケルチャラン・モハパトラ・グルジ=バレグルジ(大きなグルジ)自体が何日か滞在して下さり、指導や、グループコンポジションをして下さった。(最後にして下さったのは、ラーマーヤナで、私は鹿の役だった!)

 

ケルチャラングルジにポーズを直してもらう私

 

彼の滞在時のとても貴重な思い出は、夕方、日が暮れてくると、毎日オイルランプに灯をともし、お線香を炊いてはパカワジや、マンジーラ(小さなシンバル)と共に、バジャンを歌ったこと。

彼の敬虔な姿や、巧みなパカワジ演奏、そして特にゴービンダ ゴービンダ ゴパーラナーデ♪とクリシュナ神を讃えたある一曲は、私の中のdevotionalな部分が鼓舞されてか、泣きそうになるくらいに大声で歌い捧げていたのが思い出される。

 

ケルチャラングルジによるレッスン風景

 

あと、堅苦しい日本人気質がひっくり返されたのは、ホーリー祭りの日。

色とりどりのカラーの粉や、水をみんなに思いっきり投げつけあい、挙句の果てには、ウォータータンクに飛び込む!のだった!!!!!

幼い頃から結構マジメ少女だったわたし。ここまで、ぶっ飛んだことをしたことがなかった。まさに青天の霹靂だった!!!

 

ホーリーで色とりどりに染め上がった私達

 

「言葉はどうしたの?」とよくきかれる。

インドの各地から来た生徒の中には、ヒンディー語を話さない人もいたため、私もいることだし、と英語を共通語にして下さったおかげで、日常生活のことばにはあまり問題がなかったのは、幸いだった。

また、ここでは、深い井戸からの安全な生水を飲むこともでき、インドに居ながらも、いろんな意味でとても楽に生活することができたのだ。

もちろん、たまには、生活慣習の違いから、ひとり取り残された感覚になり、さみしい思いをしたこともある。

しかし、私の夢を見てくれたというガウリ・マは、ある意味、私のインドでのお母さんのような存在だった。彼女は、他の人からマッサージを受けるのはあまり好まなかったといいながら、私のマッサージは、プロ並みだと気にいってくれて、ちょくちょく、彼女が寝ていたテントに夜、マッサージに行き、彼女が寝たのを見計らって自分の部屋に帰る、ってことをさせてもらった。

また、ケララ出身のナヤール・ジのお料理は、とても美味しかった。朝から、マサラ・ドーサ(スパイス炒めのじゃがいも入り米粉クレープ)や、ウプマ(セモリナ粉の卯の花みたいなもの)、イドゥリ(米粉の蒸しパン)+ココナッツ・チャトゥニ(ココナッツペースト)やサンバル(辛味スープ)などなど。。。

南インド料理は、小麦ではなく、米の文化。特に、ケララでは、ココナッツやバナナをたくさん使った料理で、わたしはとっても好きだった!

そんな訳で、未だに、やっぱり南インド料理派なのです。

 

ビチットラナンダ・グルジ達との食事風景

 

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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天竺ブギウギ・ライト⑤/河野亮仙

第5回 競技スポーツとして定着したカバディ

「カバディ、カバディ」と連呼することだけが知られていた「インド発祥・謎のスポーツ」が、大分、定着しました。4年に一度のアジア競技大会の年には取材が増えてテレビにも出演します。

冬季オリンピックの時だけ注目を浴びたカーリングもまた、マイナーとはいえないくらいの人気スポーツになりました。お菓子を食べてほっこりする、ゆるいスポーツと思われていましたが、藤澤五月選手のボディメイクコンテストにおける活躍で、背筋や体幹の強さを必要とし、厳しい筋トレを行っていることが知られました。筋肉は一日にしてならず、です。

マンガ『灼熱カバディ』のおかげで、カバディも珍スポーツではなく、ちゃんとした競技スポーツとして認識され、愛好者が増えてきました。コンタクトスポーツなのでコロナ禍においては、他のスポーツ以上に対応が大変でした。

「カバディ、カバディ」と声を出すから危ないなどともいわれ、息も絶え絶えでしたが、ようやく息を吹き返してきた感じです。

さて、カバディの歴史については以前に書きましたので、今回は2023年7月22日、23日に行われた東日本大会のことをレポートします。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%8a%b1/

今回は参加チームが増えて男子18チーム、女子5チームの参加です。協会が公開で毎月練習会を開催しているのでその参加者も多く、カバディをよく知っています。逆にいうと、初期にはルールも知らない急造チームも参加していたのです。

初めてカバディが正式種目となった1990年。北京のアジア競技大会に参加した日本代表チームは、今の高校生にも負けると思います。ここ数年は、女子の参加が少なく試合を組むのにも苦労していましたが、やっと格好が付いてきました。

大学でカバディ部があるのは大正大学だけなので、平成の間は大正大学がカバディ界をリードしていましたが、令和のコロナ禍で部員募集もままならず、今回、大正大学のチーム、大正マイトリーは初戦で敗退しました。高校でカバディ部のある自由の森学園も、高校生であるのにかかわらず、常に上位入賞していましたが、栃木ガーナレンズに初戦敗退。

そのかわり、自由の森学園OGを中心として新チームを結成した摩耶が女子で初優勝。男子決勝は常に優勝争いに食い込むAKSABHIJIT KABADDI SANGA)とBUDDHAの闘いとなり、BUDDHAに軍配が上がりました。

茨城や栃木、新潟や鹿児島からもチームがエントリーし、カバディが各地に広まって新しい風が吹きました。

国際的にいうと、ほとんどアジアだけの競技なので、オリンピックに参加するのは難しい現状です。もともとベンガルなど北インドで流行っていたので、初期にはインド、パキスタン、バングラデシュが三強で、そこにネパールや日本が続くという格好で、日本も2010年広州大会で銅メダルを獲得しました。

その後、身体能力の高いイランがインド人コーチを招き、インドに迫るほどのチーム力をつけました。どちらもコシティというレスリングの土壌があります。韓国もセミプロ的な強化策を講じて上位を構成し、台湾も格闘技系の選手が多く参加し、力をつけてきました。

日本チームは今年6月の韓国・釜山における男子アジア選手権で韓国に勝つことができ、インド、イランに次いで、台湾と同率三位を獲得しました。終盤の競り合いで負ける傾向があるので、これを克服すればアジア競技大会でもメダルに手が届きます。

インドは「オレがオレが」という個人技で勝負していますが、日本はチームプレイで守りながら点をコツコツ取る闘い。ここに二、三人飛び抜けたレイダー、攻撃手が若手の中から育つとメダルにぐっと近づきます。サッカーでも点取り屋がなかなか現れないように、日本は組織で戦うチームです。

インド、イラン以外のタイ、マレーシア、インドネシア、韓国、台湾、日本は、やってみないとどちらが勝つか分からない状況です。混戦から抜け出してメダルを獲得するには選手強化が必要で、そのためにはスポンサーを獲得しないと運営が難しい。皆様に物心共に支援をお願いします。

 

日本カバディ協会

公式ホームページ https://www.jaka.jp/

Twitter https://twitter.com/jaka_kabaddi

 

 

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年9月7日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記③

NRITYAGRAMを創設したのは、プロティマ・ガウリ・ベディProtima Gauri Bediという著名なodissiダンサーだった。

彼女は、ボンベイ生まれで、カビール・ベディというとても有名な映画男優の妻として知られていた。だが、ケルチャラン・モハパトラ グルジのodissiを観て、彼女の人生は一変。すべてを捨ててオリッサに出向き、odissiに身を捧げたと聴いている。

 

プロティマ・ガウリ・ベディ女史のフライヤーから

 

そんな彼女が、インド古典舞踊においても、かつて存在していたguru shisha parampara ——日本でいう内弟子制度のようなものが途絶え、単なるお稽古事になってしまっている状況を憂い、再復興させようと創設したのが、このNRITYAGRAM(ヌリッティアグラム=ダンスヴィレッジ)だった。

いろいろなスポンサーをあたり、辿り着いたのが、このカルナタカ州、バンガロール郊外のこの村だったのだ。

私達は、彼女のことを敬愛を込めて、ガウリ・マと呼んだ。なので、ここでも、以下、ガウリ・マと呼ばせて頂く。

 

ガウリ・マ in NRITYAGRAM

 

NRITYAGRAMは、荒野を開拓して作られたダンスヴィレッジ。

バンガロールから20キロ程離れたhessaragatta村のそのまたはずれにあり、隣はたった一軒家があるのみ。

1990年 2月頃だったか、たどり着いたNRITYAGRAMは、まだ建築がまだ完了していず、そこにいたのは、ガウリ・マと、ゴア出身のジェラード(Gerard da Cunha)という建築家、そしてカルナタカ州の村から来たウダエという最初の男性生徒だった。

ダンスヴィレッジの素晴らしい点の一つは、その建築にあった。西洋のシュタイナー建築を彷彿させるような、曲線に満ちた建物。土、ココ椰子などの自然素材だけですべてが作られていた。

 

ダンスヴィレッジの門(奥に見えるのはヨガセンター)

 

私達、生徒の部屋は2畳あるかないか、くらいだっただろうか?

作り付けの石の棚にマットレスを敷いたベッドと、備えつけの土の机があるのみ。

私は、女性で最初の生徒だったので、一番好きな部屋を選ぶことができた。とっても小ぢんまりした部屋だったけれど、とってもキュートで大満足だった!

 

インドの建築雑誌より

 

さて、どのようにレッスンが始まったんだったかなぁ〜 はっきり思い出せない。

でも、住込みで料理を作ってくれたナヤール一家の三女であるアニータと、バンガロール市から来たシルパと共に、4人の生徒でレッスンが始まったと記憶している。いま、NRITYAGRAMを継いでいるスルパは、しばらく後でやってきた。

最初の数ヶ月は、踊りの演目を教えてもらうことはなく、ひたすら、基本のステップの練習ばかり。odissi独特のチョーカとトリバンギという2つの直線的、曲線的ポーズに基づく10のステッピング練習、それぞれのステップでは、1st speed、2nd speed、3 speedと、どんどん速くステップをとっていくのだった。

また、目や首、胴の動きをする練習など、いろいろだったが、インド舞踊独特の首を左右に動かす動きは、私にはとても難しく、1年位かかってようやくできたように記憶している。

 

オディッシー・グルクルの屋上へ向かう階段にて

 

朝5時半くらいに起き、ジョギング、そしてヨガ。

朝食後 8時から13時は 朝のクラス。昼食 お昼寝、午後のガーデニング、17時〜20時は夕方のクラス 晩飯、時には、夜のクラスも、、、

と、1日8時間、またはそれ以上レッスンする毎日だったけれど、これ程まで踊りに明け暮れていられる喜び、そして自然に囲まれ、ほぼ裸足で過ごすここでの生活は、とても幸せに満ちていた。

 
 

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAM(The Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiを Padma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年9月3日日曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑧

ボバニプル(3)

ショナ叔父さんは、アースキン・セダン車 (1) を手に入れた。今のフィアットやアンバサダー (2) の時代に、この車の名前を知る者は、ほとんどいない。夕方になると、この車に乗って、時々マイダーン (3) まで出かけたのだ。その頃、マイダーンでは白人たちがゴルフをしていて、安心して車を走らせる環境ではなかった。ゴルフボールが、いつどこから弾丸のように飛んで来るか、知れたものではなかった。一度、少しぼおっとしていて、気付かないうちに、ボールが一つ、すごい勢いでぼくらに向かって飛んで来たことがある。運転手のシュディル・バブー (4) が、ぼくの身体を掴んで、急にぐいっと横に逸らした。ゴルフボールはぼくら二人の耳元をかすめ、道を越えてヴィクトリア記念堂の柵の方に飛んで行った。

シュディル・バブーは、ぼくらの家の屋上の部屋に住んでいた。その頃は、マハートマー・ガーンディーの不服従運動が続いていた。ある日、突然、巨大な紡錘とひとかたまりの綿を買って来て、自分の部屋で綿糸を紡ぐ作業を始めた。これももちろん、不服従運動の一環だった。その後、あっという間に、綿糸を紡ぐ作業が、そこら中の家々に伝染病のように広がったのだ。ぼくらの家でも、家族一人一人のために、紡錘が持ち込まれた。ぼくにも、だ。1ヶ月あまりのうちに、ぼくも、難なく綿糸を紡げるようになった。でも、シュディル・バブーは、ぼくらのチャンピオンだった。自分で紡いだ綿糸で、フォトゥア(前開きの緩い上衣)を作るなんて、他に真似できる人は、誰もいなかった。

 

 

その頃、カルカッタでは、大掛かりな愛国祭(スワデーシー・メーラー)が催されていて、ぼくらはみんなで、それを見に行った。エルギン・ロードの交差点の傍に、その当時は、広大な野原が広がっていた。「ジムカナ・クラブの野」 (5) と呼ばれていた。(今では、そこに家が建ち並んでいる。)その野原で愛国祭が開かれたのだ。

愛国祭の何よりの目玉は、インドの指導者たちの蝋人形だった。それらの人形の特徴は、機械仕掛けで、その頭や手足が動くことだった。仕切られたひとつひとつの部屋に、別々の光景があった。ある部屋では、マハートマー・ガーンディーが、監獄の独房の床にすわったまま何かを書いていて、扉の外には武器を持った見張りがいる。マハートマー・ジー (6)の手にはペン、膝の上にはメモ帳。手はメモ帳に何かを書いているように動き、それにつれて頭も左右に動く。別の部屋では、「母なるインド」 (7) の巨大な像があり、「国の友」チットロンジョン・ダーシュ(8) の屍を、両手で捧げている。「母なるインド」は「国の友」の方を凝っと見つめ、次の瞬間には目を閉じて悲しげに頭を左右に振る。誰がいったい、こうした蝋人形を作ったのか、覚えていない —— おそらく、ボンベイのどこかの職工だろう —— でもそれらは、本当に生きているように見えた。カルカッタの市内でも、これらの肖像は、ずいぶん評判になったものだ。

***************

ぼくの母方のお祖母ちゃんは、ぼくらと一緒に、ボクル=バガンの家に住んでいた。色白で細身の美人だった。素晴らしい歌声を持っていた。お祖母ちゃんが歌ってくれた、モエモンシンホ (9) 地方の歌、「糸車が踊るのを、おまえたち、見て行きなさい」は、今でも耳に残っている。

たぶん1926年だったと思う —— ぼくの母方の叔父さん・伯母さん、その連れ合いや子供たちが、カルカッタに一堂に会したことがある。こんなことは、めったに起きない。2番目の叔父さんはラクナウに住んでいたし、一番上の叔父さんはパトナー(ビハール州都)だったし、上の伯母さんは、東ベンガルのカキナに住んでいた —— 旦那が、カキナにある地主領の、管理人だったのだ。

みんながカルカッタに集まることになったので、お祖母ちゃんと一緒に集合写真を撮ることになった。その当時、カメラのある家は少なかった。もしあったとしても、4, 5ルピーのボックスカメラが、せいぜいだ。このカメラでは、あまりいい写真は撮れない。少なくとも、飾っておくに値する集合写真を撮るのは、無理だ。だから、何か特別の時には、白人の店に行って、集合写真を撮ってもらう習慣だった。ベンガル人の店がなかったわけではないけれど、それは、殆どが北カルカッタだった。白人の写真館の中では、二つの店が、かつて、カルカッタで一番よく知られていた。「ボーン・アンド・シェパード(Bourne & Shepherd)」 と、「ジョンストン・アンド・ホフマン(Johnston & Hoffman)」。この二つの店は、その頃、創業して70年ほど経っていて、昔ほど繁盛していなかった。この二つに代わって名を成したのが、当世風の「エドナ=ロレンツ(Edna Lorenz)」。この店は、チョウロンギ通りとパーク・ストリートの交差点にある、チョウロンギ・マンションの中にあった。ぼくら、お祖母ちゃん・母さん・伯母さん・叔父さん・その連れ合いと子供たち、全部で18人が、総出でこのエドナ=ロレンツ写真館に出向いたのだ。

前もって言ってあったので、白人店主は、集合写真を撮る準備を、何もかも整えていた。巨大なホールには、6脚の椅子が並べてあった。その真ん中の一つにお祖母ちゃんがすわった。男たちは全員列をなして後ろに立ち、母さん・伯母さん・義理の叔母さんたちは残りの椅子にすわり、上の叔父さんの二人の幼い娘たちは正面の腰掛けにすわり、ぼくはお祖母ちゃんと母さんの間に立った。白人写真家たちは、部屋の中で写真を撮るのに、フラッシュやライトを使わない。(当時は、そうした習慣がなかったのかも知れない。)片側に並ぶ窓から漏れてくる光で十分だ、と言うことだった。馬鹿でかいカメラで、レンズの前には蓋が嵌められていて、その蓋は、2秒間だけ開かれて、その後また閉じられることになっていた。その2秒間の間に、写真が撮られるのだ。その間、少しでも動くことはできない。

白人サヘブが準備完了を告げ、みんなは凍りついたようになった。目はカメラの方に釘付け。写真を撮る人の横に、もう一人サヘブがいて、その手にはシンバルを持ったカラクリ人形。おなかを押すと、カタンカタンと音を立てて、両手がシンバルを打ち鳴らす。この人形は、2番目の叔父さんの息子、幼いバッチュのために必要だったのだ。バッチュは生後たったの数ヶ月、母親の膝の上にすわっていた。そのバッチュの目がカメラから離れないようにと、サヘブはカメラの後ろに立って、シンバルを鳴らし始めた。そのタイミングに合わせて、もう一人のサヘブがレンズの蓋を開け、また閉じて、撮影を完了した。

この写真を撮ってから4, 5年のうちに、お祖母ちゃん、一番上の叔父さん、そして上の伯母さんの息子モヌ=ダーが亡くなった。ドンお祖父ちゃん (10) が、この集合写真の中から、この3人の写真を、別々に拡大したのだった。

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ボクル=バガンの家では、一番下の叔母さんが、ぼくらと一緒に暮らしていた。叔母さんは、歌手として、とても有名だった。もっとも、この叔母さんの歌を、家の外の人たちは、ぼくらが聞くようには決して聞くことがなかった。なぜなら、人びとの前で歌おうとしただけで、叔母さんの喉はカラカラになってしまったから。

ある日、叔母さんの歌がHMVレコードになることになって、その歌を録音するために、叔母さんは、グラモフォン社の事務所に行かなければならなくなった。お膳立てをしたのは、ブラ叔父さんだった。ブラ叔父さんは、グラモフォン社の、カルカッタで一番評判のいい店の主人だったので、グラモフォン社にとっては、重要人物であったに違いない。

ブラ叔父さんの赤い色のT型フォード (11) に乗って、ぼくも叔母さんと一緒に、会社の事務所へ行った。グラモフォン社の事務所は、当時、ベレガタ (12) にあった。(ドムドム (13) に移ったのは、もっと後のことだ。)サヘブの会社に行って歌わなくちゃならないと聞いて、叔母さんは、二日前から、夜眠れず食事も喉を通らない。ブラ叔父さんは、ただひたすら励まし続ける –– 何にも怖がることはない、すごく簡単なことだ。何もかもうまく行くさ。ブラ叔父さんは、歌を習ったことはまったくなかったけれど、竹笛でタゴール歌曲の調べを奏でたし、オルガン演奏が上手だった。

白人サヘブの会社は、支配人も白人、録音技師も白人。当時、マイクロフォンはなかった。細長い管に向かって歌わなくちゃならなくて、その歌は、隣の部屋の蝋製の円盤に刻み込まれた。

叔母さんが、朝から何杯水を飲んだか、数え切れない。録音室に入って、管の前に立たなければならず、ぼくは隣の部屋のガラス窓から、成り行きを見守っていた。若造の録音技師が来て、長い管を左右に揺り動かし、叔母さんをちょうどいい位置に立たせた。そうしてから、叔母さんの目の前でタバコを箱から取り出し、それを宙に投げ、唇で受け止めて火をつけると、部屋から出て行った。後でブラ叔父さんから聞いたところでは、女の歌手が来るたびに、録音技師は、歌手たちにこうした芸当を見せつけるのだ。サヘブのタバコ芸を見て、叔母さんの喉がますます乾いてしまったのは、間違いない。とにもかくにも、叔母さんは歌を歌った。それを聞くと、喉の緊張が完全になくなったのではないことがわかった。でもその歌はレコードになって、やがて売り出された。この後、叔母さんは、長い間にたくさんの歌をレコードにした。最初の頃の名前はコノク・ダーシュ。結婚してから、コノク・ビッシャシュになった。

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ボクル=バガンのぼくらの家から、歩いて5分の距離に、シャマノンド・ロードがあって、そこには父方の叔父さん(父シュクマルの次弟)、シュビノエ・ラエが住んでいた。この叔父さんが、その頃のある日、『ションデシュ』誌を新たに刊行したのだった。

1929年9月に父さんが死んでから、2, 3年のうちに、『ションデシュ』誌は廃刊になった。その頃、ぼくはまだ、この雑誌を読む年齢ではなかった。出版されたばかりの雑誌を、手に取って読む体験を得たのは、この二度目の出版の時だ。表紙には3色刷りの絵、象が二つ足で立ち、その長い鼻で、甘菓子ションデシュの入った壺を支えている。この二度目の『ションデシュ』では、創刊号から毎号、タゴールの『彼』 (14) が掲載された。リラ・モジュムダル (15) が最初の短編小説を書いたのも、この『ションデシュ』だ。その短編に合わせて、彼女は自分で面白い挿絵を描いた。他の画家の中には、今日有名になった、ショイロ・チョクロボルティ (16) がいた。彼の描き初めは、おそらく、この『ションデシュ』だったのだろう。

その当時、ぼくが愛読していた児童向けのベンガル語月刊誌が、もう一つあった。『虹』誌だ。『虹』の事務所は、ボクル=バガン・ロードとシャマノンド・ロードの交差点にあって、ぼくらの家から200メートル足らずの距離だった。この雑誌の編集長、モノロンジョン・ボッタチャルジョ (17) と知り合いになれて、とても嬉しかった。彼の書いた、日本人探偵フカカシが主人公の、『ルビー』と『ゴーシュ・チョウドゥリの時計』が、ぼくはとても好きだったから。

訳注

(注1)アメリカのスチュードベーカー社の社長、アルバート・アースキンの名を冠して、1920年代に売り出された箱型の車。

(注2)フィアットは、イタリアの小型車製造メーカー。アンバサダーは、ヒンドゥスターン・モーターズが生産した、インドの国民車。

(注3)フグリ川東岸、カルカッタの中心部に広がる緑地帯。北はイーデン庭園(Eden Gardens)、西はウィリアム要塞(Fort William)、南はヴィクトリア記念堂(Victoria Memorial Hall)に囲まれている。

(注4)「バブー」は、ベンガル人中間層のヒンドゥー教徒男性に対して用いられる敬称。

(注5)「ジムカナ」(Gymkhana)は、英領時代にできた、白人とインド人上流階級のための、スポーツを通しての社交クラブ。エルギン・ロード(Elgin Road)は、ボバニプル地区(南カルカッタ)の北側を東西に走る通り。

(注6)「ジー」は、インド人の主にヒンドゥー教徒に対する、親しみをこめた敬称。

(注7)「母なるインド」(Bhārat Mātā)は、インドを母神として人格化したもの。

(注8)Chittaranjan Das (1870-1925) は、著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」は、彼につけられた呼び名。過労のため、1925年に死去。

(注9)東ベンガル(現バングラデシュ)北部の県

(注10)レイの祖父ウペンドロキショルの、2番目の弟。『ぼくが小さかった頃』⑤参照。

(注11)フォード・モーターズが1908年に発売した大衆車。

(注12)中央カルカッタ、シアルダー駅の東側の地区。

(注13)北カルカッタ、現在カルカッタ空港のある地区。

(注14)タゴールの中篇小説。1937年出版。

(注15)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 1908-2007)、著名な女流作家。児童文学作家として名高い。

(注16)ショイロ・チョクロボルティ(Shaila Chakraborty, 1909-89)、著名なイラストレーター・漫画家。

(注17)モノロンジョン・ボッタチャルジョ(Manoranjan Bhattacharya, 1903-39)、児童文学作家。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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