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2026年4月27日月曜日

シルクロードの東端で、インド仏教の時間を歩く(その二)

興教寺:玄奘三蔵が眠る静寂の地 

翌日は、西安郊外に位置する興教寺(こうきょうじ)へと向かった。タクシーで1時間以上の道のりだが、中国のタクシーの安さには驚かされる。前日の草堂寺への往復(待ち時間を含め4時間半以上)でも約200元(約4,500円)。この手軽さが旅の助けになる。 


興教寺外観 
 

ここ興教寺には、玄奘三蔵の遺骨(舎利)が祀られている。聞くところによると、文化大革命時、宗教活動は停止させられたものの、建築物の被害はなかった。これは周恩来の指示によるものだという。まさにこの旅の初めに再会した教え子のことが、いまになって静かな重みを帯び、この地での体験とつながってきた。 

境内を一巡りし、一番奥にある釈迦像を祀った慈恩塔院(Jie’en Pavilion)へお参りした後、いよいよ玄奘が眠るストゥーパ(仏塔)へ。大慈恩寺の大雁塔をひと回り小さくしたようなその塔は、満開の桜並木に囲まれ、えもいわれぬ静寂の中に佇んでいた。 

本堂は修復中だったが、その他の場所はすべて開放されており、偉大な先駆者の魂に深く手を合わせることができた。玄奘三蔵の情熱は、常に私のインスピレーションの源だった。思えば、彼の物語への憧れから、私はいつしか「異文化に懸ける橋でありたい」という夢を持ち始めたのだ。時を超えた再会に感謝を込め、静かに合掌した。 


玄奘の舎利塔。この塔と脇に建つ玄奘の2人の弟子の舎利塔は2014年にシルクロード:長安-天山回廊の交易路網の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。 
 

大興善寺:密教の興隆と生存戦略 

次に向かったのは、前日に訪れた大慈恩寺からほど近い大興善寺(だいこうぜんじ)。ここは、インドで7世紀頃から広まり始めた「後期大乗仏教」、いわゆる密教(金剛乗)の拠点である。 


大興善寺。抽象的な論理を超え、人々の願いに応えようとした密教のダイナミズムが息づく。 
 

当時、ナーランダ僧院などの学問寺院では、唯識などの教理研究が高度に専門化し、一般民衆の信仰から乖離しつつあった。同時に、勢いを増すヒンドゥー教に圧倒され始めた仏教は、独自の生存戦略として「密教化」を推し進めることになる。 抽象的な論理だけでなく、呪術やマントラ(真言)を用い、煩悩をそのまま悟りに変える「即身成仏」を説く。民衆の現世利益的な願いに応えることで、仏教はその存在を繋ぎ止めたのだ。 

大興善寺は、インドから渡来した金剛智(こんごうち)、善無畏(ぜんむい)、不空(ふくう)といった名僧たちが経典を翻訳した、中国密教の根本道場である。境内ではたくさんの白い鳩が舞い、観光客が憩う穏やかな光景が広がっていた。 


中国でよく見かける「社会主義核心価値観」。この国では宗教施設も含めて社会全体で同じ価値観を共有するという立ち位置が示される。 
 

だが、その静けさの中で、ふと私は別のものに目を留めた。山門の脇に、「社会主義核心価値観」と記された看板が、まるで風景の一部のように掛けられている。様々な寺を訪れるたび、私はこのような同じ光景に出会った。香の煙はゆるやかに立ちのぼり、人々は静かに手を合わせている。その傍らで、言葉だけが少し異なる時間を生きているように見えた。 

はじめ、その取り合わせに戸惑いを覚えた。けれども、いくつもの寺を巡るうちに、その違和感さえも、やがて風景の中に溶けていった。ここでは、祈りもまた現実と切り離されることなく、ひとつの秩序の中に息づいているのだろう。中国共産党の掲げる言葉は、信仰のためのものではない。それでもなお、寺はそこにあり、人は祈る。 

そのことの静けさを、私はしばらく立ち止まって見ていた。 

 

青龍寺の奇跡:空海が見守った「3月21日」 

長安の旅のクライマックスは、不空三蔵に師事した恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の寺、青龍寺(せいりゅうじ)だ。 タクシーで寺の名を告げると、それまで無口だった運転手が急に饒舌になり、いかにそこが素晴らしい場所かを熱心に語り始めた(息子の通訳でその熱量を知った)。 


タクシーの運転手が熱弁を振るった聖地。1200年前、若き空海が密教のすべてを託された歴史の特異点 
 

到着すると、そこは大変な人だかりだった。青龍寺は、日本の空海が恵果阿闍梨から法を受け継ぎ、日本に密教を伝えることになった真言宗の原点である。 しかし、ここで予期せぬ事態が発覚した。あまりの人気ゆえ、数日前のオンライン予約がないと入場できないというのだ。全員が落胆に包まれる中、ふとスマホで日付を確認して驚いた。 「3月21日」――なんと、この日は空海様の御命日ではないか。 

「今日という日に、お参りせずには帰れない」 私は決意を固め、祈るような思いで翻訳機を役人に向かって突き出した。「日本からこの日のために来ました。今日は特別な日なのです、どうか、どうか入れてください!」 執拗なまでの熱意が通じたのか、奥から出てきた上役が、顎で「さあ、入れ」と合図を送り、門を開けてくれた。空海様が導いてくださったのかな?と感謝の念が込み上げた。 


桜吹雪の中、大勢の観光客でにぎわう青龍寺 
 

桜の下のダイナミズム:継承される「生きた教え」 

境内は、まるで上野公園の桜シーズンのような賑わいだった。満開の桜の下に出店が並び、大勢の中国人観光客はお花見気分でスマホを向けている。中には日本のアニメのコスプレで自撮りをする若い女性も沢山いた。 

そんな観光気分満載の喧騒の中にあって、境内の一角には荘厳な空気を纏った空間があった。日本の仏教団体が寄贈した記念碑や、恵果が空海に法を授ける瞬間の像が建っている。 延暦24年(805年)、遣唐使として長安に渡った空海を迎えた恵果は、「私はお前が来るのをずっと待っていた」と告げ、即座に弟子として迎え入れたという。通常20年はかかるとされる密教のすべてを、恵果は自らの死期を悟り、わずか数ヶ月で空海に授け切った。師から受け継いだ貴重な曼荼羅や経典は、今も「請来品(しょうらいひん)」として日本に息づいている。真言宗は、間違いなくここで産声を上げたのだ。 


恵果から空海へ。国境と時間を超えて「智慧」が手渡された瞬間 
 

こうして私は、長安という街が、初期仏教から大乗、そして密教へと至るインド仏教の全軌跡を飲み込み、昇華させてきた歴史を肌で感じることができた。 長安での巡礼を終え、翌日は西安西駅から寝台列車に乗り込んだ。次の目的地は、はるか東の寧波(ニンポー)。23時間に及ぶ、鈍行列車の旅が始まる。(次号につづく) 


西安から寧波へ。23時間の揺れは、かつての求法僧たちが歩いた「距離」を噛みしめるための、贅沢な時間だった。 
 

 

藤倉健雄 

Ph.D 教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク幹事 

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2026年4月20日月曜日

日本寺inブッダガヤ 今昔・あれこれ⑥

仏教が繋ぐ日本とインドの文化交流を多面的にご紹介するこのコーナー。今回は若き僧侶、林田徹順師による最新のインド仏跡巡拝紀行をお届けします。

祈りの地を歩く七日間

横浜市鶴見区 慶岸寺 副住職
林田徹順

【第1日――3月5日 デリー】 

添乗員の上田さんに案内されてデリー空港を出ると、日本とは異なる空気を感じました。はじめに感じたのは暑さです。この時期、日本では高くても15度ほどですが、インドでは30度にも達します。夜の到着であったにもかかわらず、日中の熱気が残っていたのか、羽織っていた上着を脱いでしまいました。 

次に目に入ったのは、野良犬が道路に我が物顔で寝そべっている光景です。インドには野良犬が多いと聞いてはいましたが、空港を出てすぐに出会うとは思いませんでした。しかもどの犬もとても大きく、そのことにも驚かされました。パリア犬と呼ばれる犬種らしいのですが、日本の柴犬よりも一回りほど大きく見えました。 

手配されていたバスに乗り込み、あとはホテルへ向かうだけだと思っていたところ、突然、耳をつんざくようなクラクションの音が響きました。インドではこれが日常の風景のようで、車が進むたびに四方から音が重なります。インドで運転することはできそうにないと感じました。 

今回の旅は16人での巡礼です。23歳から49歳まで、さまざまな宗派の僧侶の一行でしたが、同じ目的のもと同じ場所へ向かうことで、不思議な連帯感が生まれていました。それぞれが旅への期待を胸に抱きながら、窓の外に広がる異国の風景に目を向けていました。 

ホテルに到着すると、本格的なインドカリーやナンを味わいながら、これから巡るお釈迦さまの足跡に思いを馳せました。 

 

 【第2日――3月6日 ナーランダー/ラージギル 霊鷲山】 

「ここが玄奘三蔵が使っていたとされる部屋です。」 

ガイドのアッシムさんの説明を聞きながら、私たちは順番にその部屋を見学しました。 

この研修旅行で最初に訪れたのは、ナーランダー仏教大学跡です。世界最古の大学ともいわれるこの地には、広大な敷地の中に煉瓦造りの建物が静かに残されていました。かつてここで多くの僧侶が学んでいたことを思うと、深い感慨を覚えます。 

私は以前、長安(現在の西安)で玄奘三蔵が翻訳活動を行っていた寺院を訪れたことがあります。飛行機はおろか車もない時代に、長安からインドまで歩いて来たことを思うと、玄奘三蔵の強い意志が伝わってきました。 

その後、ホテルへ向かう途中で王舎城跡を訪れました。ここは『観無量寿経』に説かれる聖地です。ビンビサーラ王が幽閉された牢獄跡に立ち、王と同じように霊鷲山を見上げました。お釈迦さまに会いたいと願った王の気持ちが、ほんの少し理解できたように感じられました。 

  

【第3日――3月7日 霊鷲山/ブッダガヤ】 

5時。眠い目をこすりながら、ホテルのロビーへ向かうと、早朝にもかかわらず誰一人遅刻することなく集合していました。 

こんな早朝に集まった目的はただ1つ。これから霊鷲山へ向かい、ご来光を拝するためです。バスでふもとまで移動し、そこから頂上を目指して歩き始めます。まだ暗い中、一歩一歩足元を確かめながら進んでいきました。 

 

徐々に空が白み始めた頃、頂上に到着しました。頂上には「香室」と呼ばれる場所があります。ここはお釈迦さまが説法を行い、『無量寿経』をはじめ多くの経典が説かれた場所と伝わります。この地に多くの人々が集まり、お釈迦さまの言葉を一言一句聞き逃すまいと耳を傾けていたことを思うと、二千五百年の時の重みを感じずにはいられません。私たちはこの霊鷲山の香室でおつとめをさせていただきました。それぞれが、お釈迦さまへの深い思いを胸に抱いていたことでしょう。 

下山の途中、雲の切れ間から突然光が差し込みました。その光は、日本で見る朝日よりも強く、どこか特別なもののように感じられました。 

その後、バスで南へ向かい、ブッダガヤへと到着しました。 

バスから降りると、まるで私たちのことを待っていたかのように、現地の人に囲まれました。何事かと驚いていると、その手には菩提樹の葉や仏像などが握られ、しきりに私たちに買わないかと勧めてきました。しかも、多くの方が日本語で私たちに話しかけてくるのです!インドでこのようなことが起こることは知っていましたが、まさか聖地であるはずの場所でも、現実の営みが強く入り込んでいることに、わずかな戸惑いも覚えました。 

ブッダガヤはいうまでもなくお釈迦さまが悟りを開かれた地です。目の前には大塔がそびえ、その周囲には多くの仏教徒が集まっていました。その光景から、仏教が今もこの地に息づいていることが、はっきりと伝わってきました。 

大塔の裏手には、聖菩提樹と金剛宝座が祀られていました。多くの参拝者の間を縫うように菩提樹の周りを歩いていると、一枚の葉がゆっくりと舞い落ちてきました。私はそれを拾い、この旅の記念として大切にすることにしました。 

その後、私たちは日本寺へと向かいました。日本寺は、公益財団法人日本仏教興隆協会によって運営されている寺院です。現在は浄土宗と臨済宗の僧侶が駐在しており、この日は浄土宗の中野蓮音上人から説明をいただきました。 

日本寺でもおつとめをさせていただきました。お釈迦さまがおさとりを開かれた土地でお念仏を称えさせていただけることを大変光栄に思いながら、一生懸命に称えさせていただきました。 

 

【第4日――3月8日 ベナレス(ヴァーラーナシー)/サールナート】 

4日目の朝は、ガヤ駅から始まりました。この駅から特急列車に乗り、ベナレスへ向かいます。列車の出発まで少し時間があったため、ホームを散策していると売店があり、卵が山のように積み上げられていました。「これは何だろう」と不思議に思って見ていると、ちょうど現地の人が注文をしました。店員さんは手際よく卵をフライパンに割り入れ、その場でオムレツを作り始めました。その光景に思わず目を丸くしましたが、このオムレツは日本での駅蕎麦屋のような、手軽な食事として親しまれているそうです。 

特急列車に揺られること約3時間、ベナレスに到着しました。ここはさらに暑く、気温は33度にも達していました。思わずバッグから水を取り出し、喉を潤します。このベナレスから、初転法輪の地であるサールナートへ向かいました。 

サールナートでは、静かな空気の中に歴史の重みが感じられました。遺跡の間を歩いていると、ここで初めて仏の教えが説かれたという事実が、次第に現実味を帯びて迫ってきます。華やかさはありませんが、お釈迦さまが初めて教えを説かれた地として力強さを感じる場所でした。 

 また、ここには日本人画家である野生司香雪が釈尊伝の壁画を描いたムーラガンダ・クティ寺院があります。ここはスリランカ人の方が多く参拝をする寺院ですが、恐れ多くもこちらの寺院でもおつとめをさせていただき、この世界で多くの教えを説いてくれたお釈迦さまのことを思いながら、お念仏を称えさせていただきました。 

 

【第5日――3月9日 ガンジス河】 

5日目の朝、4時15分にモーニングコールで目を覚ましました。3日目と同じくらいの時間ですが、疲れが出てきたのか、少し起きるのに時間がかかってしまいました。 

この時間に起きるのには理由があります。ヒンドゥー教の聖地、ガンジス河へ向かうためです。ホテルからバスで少し移動しますが、心なしか皆の表情にも疲れがにじんでいるように見えました。 

バスを降りると、まだ暗い道を歩き始めます。この道が世界有数の聖地へと続いていると思うと、期待と緊張が入り混じった不思議な感覚に包まれました。河に近づくにつれて、巡礼者の姿が少しずつ増えていきました。 

やがて視界が開け、目の前に大きな河が現れました。早朝にもかかわらず、その場には多くの人々が集まり、独特の熱気が漂っていました。手配されていたボートに乗り、河へと漕ぎ出します。周囲を見渡すと、多くの人々が静かに水の中へと身を沈めていました。その姿には、言葉にできない強い祈りが込められているように感じられました。 

ふと遠くを見ると、煙が立ち上っているのが見えます。そこでは火葬が行われており、その後、遺骨はそのまま河へ流されるといいます。日本では見ることができない文化に圧倒されました。 

ボートを降りて改めて河と向き合うと、こちら側の河岸と対岸とでは、どこか異なる世界のように感じられました。聞くところによると自分が立っている場所が此岸で、向こう側は彼岸のように捉えられているそうです。 

ガンジス河からの帰り道、ガイドのアッシムさんに勧められて露店でチャイを飲みました。これまでも何度か口にしてきましたが、できたてのチャイは格別で、ひときわ印象に残る味でした。素焼きの茶色い器で提供されましたが、なんと現地では飲み終えるとその場で割るのが習慣だそうです。せっかくなので、私は記念に持ち帰ることにしました。 

 

【第6日――3月10日 アーグラ】 

観光最終日の今日は、アーグラを訪れました。ここには、世界的にも有名なタージ・マハルがあります。 

白い大理石の建物は、遠くから見ると霞の中に浮かんでいるようでした。近づくにつれて、繊細な彫刻が静かに姿を現します。巨大でありながら威圧感はなく、むしろ一つの静かな感情が形になったような印象を受けました。墓でありながら、心が澄んでいくような不思議な感覚が残ります。 

周囲の庭園には色とりどりの花が咲き、多くの人々が写真を撮ったり、散策を楽しんだりしていました。穏やかでありながら、どこか特別な時間が流れているように感じられました。 

観光を終え、バスに乗って目を閉じると、次に目を開けたときには、デリーの空港に到着していました。意識しないうちに疲れていたようです。空港で最後にお土産を買い、羽田空港行きの飛行機に搭乗します。振り返れば、一週間という時間は長いようで、広大なインドを知るにはあまりにも短いものでした。いつか再びこの地を訪れることを心に誓い、静かに目を閉じました。 

 

【第7日――3月11日 帰 国】 

「まもなく羽田空港に到着いたします。」 

6時35分、飛行機は予定通り羽田に到着しました。 

日本の空気はまだ冷たく、インドで感じたあの温かな風とはまるで違っていました。 

 インドで過ごした一週間はあまりにも日本とは異なる体験で、見てきた景色も、人々の表情も、街に満ちる音も、すぐに言葉にはできません。ただ一つ確かなのは、あの地で流れていた時間が、今も自分の中に静かに残っていることです。 

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2026年4月15日水曜日

シルクロードの東端で、インド仏教の時間を歩く(その一)

旅の始まり:二十歳の息子の一言 

3月17日から10日間、中国を旅した。きっかけは、二十歳になった息子の何気ない一言だった。 「世界中がインフレなのに、中国はデフレ。行くなら今じゃない?」 

その言葉に背中を押され、「じゃあ行くか」と軽く応じたものの、行き先を考えるうちに旅は次第に輪郭を持ち始めた。せっかく行くなら、ただの観光では終わらせたくない。私の中に浮かび上がったのは、「インドから伝わった仏教が、中国でどう展開したのか」という時間の流れを、自らの足で辿ってみたいという思いだった。 

かつてシルクロードの東の終着点であった長安(現・西安)。そこには、時代ごとに異なる思想を携えた僧侶が集い、膨大な経典を翻訳し、思索を深めていった歴史がある。彼らの足跡を順に辿ることは、仏教という巨大な思想の成長過程を身体でなぞる旅になるのではないか――そんな予感があった。 

 

北京という「入口」 

まずは首都・北京に入る。万里の長城、天安門広場、北京大学。いずれも中国という国の歴史の厚みを感じさせる場所だ。 

その夜、かつての大学の教え子である中国人女性と再会した。日本の大学で学び、その後、私の授業のアシスタントも長年務めてくれた彼女と北京ダックを囲んでいると、ふとした会話の中で彼女が言った。「実は、私の家系は周恩来(しゅうおんらい)の親族なんです」思わず箸が止まった。教科書の中の歴史的人物と、目の前の現実がつながる瞬間。歴史の持つ不思議な重みを感じる再会となった。 

 

長安へ:圧倒的なスケールの違い 

北京西駅から高速鉄道(ガオティエ)に乗り、西安へ向かう。時速350キロという速度もさることながら、窓の外に延々と続く高層マンション群に圧倒された。一つの街が終わっても、すぐに次の巨大な街が現れる。国土の広がりと人口規模の凄まじさを思い知らされた。 

到着した西安は、かつての「長安」である。命を懸けて海を渡った日本の僧侶たちが、憧れ続けた聖地だ。駅に降り立つだけで、すでに巡礼が始まっているような高揚感に包まれた。 

今回の旅の軸は、インド仏教の発展段階を辿ることにある。 

 

 1.初期仏教(部派仏教): 釈尊の教えを忠実に守る段階 

 2.初期大乗(中観思想): 「空」の論理による執着の打破 

 3.中期大乗(唯識思想): 「心」の構造を解明する緻密な体系 

 4.後期大乗(密教): 象徴や儀礼を通じた実践的覚醒 

 

この流れは単なる年代順の記録ではない。「世界とは何か」「心とは何か」を問い続けた人類の思索が、深まり、変容し、実践へと回帰していくダイナミズムそのものだ。長安はこのすべてを受け止めた都市であり、ここを巡ることは仏教思想を体験的に理解することを意味する。 

 

鳩摩羅什(くまらじゅう):思想が「言葉」に変わる場所 

最初に訪れたのは、西安郊外にひっそりと佇む草堂寺(そうどうじ)だ。ここには、偉大な訳経僧・鳩摩羅什[注1]という僧のストゥーパ(仏塔)がある。竹林が鮮やかな赤いお堂に生えて実に美しい境内だった。 

 

 

彼の存在は中国仏教において決定的だった。それまでの中国では、仏教を儒教や道教的な枠組みで解釈する「格義(かくぎ)仏教」が主流であり、本来の教えとはズレが生じていた。そこへ現れたのが鳩摩羅什である。インド人の父を持つ彼は、サンスクリット語の経典を正確かつ流麗な漢文に訳し、仏教を「生きた中国語」へと昇華させた。 

 


 

彼が伝えたのは、龍樹(ナーガールジュナ)[注2]が体系化した「空(くう)」の思想である。「すべてのものは固定した実体を持たない」というこの世界観は、あらゆるものが関係性の中で成立していることを示す、柔軟で開かれた知恵だ。『法華経』や『阿弥陀経』など、今も日本で親しまれている経典の多くが彼の翻訳によるものだと知ると、この静かな古寺の空気が一変する。ここは、思想が言葉に生まれ変わった「聖誕の地」なのだ。 

 

 

鳩摩羅什は晩年、「私の翻訳に偽りがなければ、死後も舌だけは焼けないだろう」と言い残したと伝えられる。実際に彼の「舌」を祀ったとされるストゥーパの前で手を合わせながら、その伝説の真偽に思いを馳せ、言葉を尽くして真理を運ぼうとした一人の男の、愛すべき意地を感じて、少しだけ微笑んでしまった。「本当かな?笑」 

 

 

玄奘(げんじょう):知への執念が刻まれた地 

午後、大慈恩寺へ向かう。ここは、あの『西遊記』の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘三蔵の拠点だ。幼い頃、映画で孫悟空や玄奘を知り、仏教に触れるきっかけとなった私にとって、ここは特別な場所。境内に足を踏み入れた瞬間、感極まるものがあった。 

玄奘は、当時の仏典の曖昧さに満足できず、国禁を破ってまでインドへ向かった。「真理を突き止めたい」という執念に突き動かされた彼は、インドの最高学府・ナーランダ僧院で100歳を超える高僧・戒賢(かいけん)に師事し、約5年間にわたり「唯識(ゆいしき)」を学んだ。 

17年後、彼が持ち帰った唯識思想[注3]は、仏教の中でも極めて精緻な心理体系である。 

 

  • 世界は自らの「心の認識」によって成立している。 
  • 心の奥底には「アーラヤ識」という経験の蓄積がある。 
  • 私たちの経験は「種子(しゅうじ)」となり、未来を形作る。 

 

つまり、私たちは「ありのままの世界」を見ているのではなく、「自らの心が作り出した世界」を見ているというのだ。 

 

 

大雁塔(だいがんとう)に収められた膨大な経典を前に、私は圧倒された。私自身、たった一冊の専門書を翻訳した際にもその労力に疲労困憊した経験がある。一生を捧げてこれほどの分量を訳し続けた玄奘のエネルギーは、もはや知識の域を超え、真理に近づこうとした人間の凄絶な痕跡そのものに思えた。この深遠な思想を翻訳という過酷な作業を通じて中国、そして日本へと繋いだ玄奘のエネルギーに、改めて深い敬意を表さずにはいられなかった。 

 


 

西安の夕暮れ 

ふと気がつくと、陽は傾きかけ、空は茜色に染まり始めていた。夕陽を浴びて黄金色に輝く大雁塔、そしてその麓に立つ玄奘三蔵の像。その二つのシルエットが夕闇に溶け込み、重なり合う姿は、まるで玄奘の不屈の精神そのものが、この地に深く根を下ろしているかのようだった。その荘厳で美しい光景に、私はしばし時を忘れ、静かに手を合わせた。 

 

 

宿に戻り、名物の「ビャンビャン麺」を食べる。幅広の麺を豪快にすする感触は、この土地のスケールの大きさに重なる。 

「この麺の味や食感も、すべて私の心が作り出した幻なのだろうか?」 今日触れた唯識の教えを反芻しながら、ユニークな名前の麺を啜り、長安の夜は更けていった。(次号に続く) 

 

 

【補注】 

[注1]):インド人の僧を父としてもつ西域出身の僧です。亀茲国の王族であった耆婆(ジーヴァー)を母として亀茲国に生まれる。360年代 仏教における学問の中心地であったカシミールに遊学。原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。彼はまず部派仏教:かつて「小乗仏教」と呼ばれていた初期の仏教を学び、その後、大乗仏教へと転向しました。そして大乗仏教の中でも、龍樹が体系化した「中観派」の思想を深く研究しました。401年に来長、翌年から翻訳を始めました。なお、晩年は還俗し僧院を出て十人の妓女を娶って妻帯し、私邸に居住するようになったという。 

 

[注2]:龍樹(ナーガールジュナ)2世紀頃の南インドで大乗仏教の根幹を築き、「空」の論理を確立した高僧で、八宗の祖とも称されます。 

 

[注3]:中期大乗仏教の思想で、5世紀頃にインドの僧であった無着(アサンガ)とその弟世親(ヴァスバンドゥ)によって大成されました。 

 

 

藤倉健雄 

Ph.D 教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部、および上智大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク幹事

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2026年4月9日木曜日

般若心経の迷い道その五般若心経とヨーガ・スートラ

お釈迦様のお悟りとは 

お釈迦様は菩提樹下でお悟りを開いたといわれるが、悟りとは何だろう。おそらく個人的なもので一人一人その内容は違うのではないか。お釈迦様の悟りというのは、実は、誰にも分からない。 

例えば、王と長島、大谷の獲得したバッティング技術は違うし、大谷と山本、ダルビッシュの投球術も異なる。それぞれの来歴や身体性によって悟りがあるのではないかと思う。果たして生成AIにお悟りはあるのだろうか。 

そもそも悟というのは中国語であり、菩提bodhiは、正覚、覚悟、開悟、得道と訳される。そんじょそこらの悟りとは違うお釈迦様の悟りは、無上にして完全な悟り、阿耨多羅三藐三菩提と音訳される。 

 

八支ヨーガ 

佐保田鶴治『解説ヨーガスートラ』平河出版社、1980年によると、第2章29のスートラは次の通り。瞑想の伝統はウパニシャッドの時代以来で、仏教でもバラモン教でも修行者の知識、技術は共有されている。 

「ヨーガは次の八部門から成る。禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧」。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティアーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディとするするサンスクリットが出てくる方はインド通。 

ヨーガの実践家であるアーネスト・ウッズの凝念、静慮、三昧に対する英語訳はconcentrationmeditationcontemplationである。彼は19歳で神智学協会に入会し、インドにおいて高校、大学の学長となり、長年にわたり奉仕活動を行った。 

瞑想は、まずは集中から始まる。凝念の段階では心を特定の所に結びつける。ヨーガというのは心が散漫にならないよう結びつけること、心に軛を付けること。ろうそくや梵字の阿の字、オームとかマントラ、あるいは呼吸に集中する。 

静慮、禅那とは、凝念から引き続き同一の場所を対象とする想念が、一筋に伸びていくこと。 

瞑想を続けると三昧に至る。思念する客体ばかりになり、自体(主観の存在)をなくす。ヨーガスートラ第1章43佐保田訳によると、 

「定の心境からさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である」 

主客が未分化となり、至福アーナンダに満たされる。ここまで来ると悟りであろうか。そのまた先に無上等正覚があるようだが。ヨーガでは一切が止滅する無種子三昧を説く。 

アーナンダというのは世俗の喜びではなくて宗教的な微妙な喜び。ヨーガを続けていると自分の奥から微妙な喜び、愛が湧き出てくる。それは「私」のない喜び。周りの人に移り、いい環境が周囲にできる。それがヨーガの本当の狙いだと佐保田鶴治はいう。 

 
脳内で起きていること 

マーク・ロバート・ウォルドマン『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか』ナチュラルスピリット、2019年によって略述する。彼が自らfMRI(機能的磁気共鳴画像法)のスキャナーに入り、我流の瞑想をすると頭頂葉の活動が低下した。 

頭頂葉の働きというのは、脳に入ってくるすべての感覚情報を取り込み、自意識を作り出し、自分と自分以外の世界との関係を確立すること。この働きが鈍ると自分自身と周囲の世界との境界があやふやになる。 

ふつう、人が聖なるイメージに集中するとき、前頭葉の活動は活発になる。ところが前頭葉の活動も低下していた。そこで、異常な神秘体験や悟りを経験するにはこの異常な活動低下が必須ではないかと想定した。 

悟りは脳の異なる部位への血流の流れの極端な変化によって引き起こされる。すると新しい見方で世界を見て、驚異的な感動を伴うことも多い。このような認知上のシフトは主観的なものなので言葉では表現しにくい。 

 

ヨーガ・スートラ 

ヨーガ・スートラ第1章の1は「これよりヨーガ解説をしよう」。2番は「ヨーガとは心チッタの働きヴリッティを止滅すること」citta vritti nirodhaであると示されている。ニローダの意味は抑制するということだが、むしろ、三昧サマーディに近いニュアンスである。心に何もないという状況に至ると輪廻を断ち切れる、解脱し涅槃に至ると考え修行した。 

毎日、瞑想を続けていると、だんだん深くなってきて、はっと気がつくと何時間も経っているということがある。また、宇宙と一体となる感覚があり、大宇宙の果てまで隅々を把握できる。いわゆる天耳通、天眼通である。 

第3章には凝念、静慮、三昧の三者を修することによって智慧プラジュニャーの光が輝き出ると記される。すると、過去と未来を知り、前世を知り、他人の心を知り、宇宙の運行を知る、千里眼、天耳通を得るとされる。 

超自然的な能力を肯定するのは、経験する世界のすべての事象は、物理的なものも心理的なものも、一つの根源的実在の各瞬間ごとの休みない転変の上に成り立っている、心と物質に区別を立てないというヨーガ・スートラの極めてインド的な考え方による。 

般若の光が輝き出すのが釈尊の悟り、無上等正覚であろうか。それは、その近くまで修行した沙門たちには理解できても、普通の人に説くことは難しい。 

 

お悟りの内容は十二因縁か 

バラモン教の主神であるブラフマー神が釈迦に説法してくれと頼んだのは、世間一般の人々のために法を説いて救いの道を示してほしいということだから、まずは出来ないと断ったことだろう。微妙にして深遠な法は、貪欲にまみれ、暗闇に覆われた者は見ることが出来ないと。 

しかし、再三要請されて、迷妄を捨てた心ある者に微妙なる正法を説くことを決意する。  

それなら諄々と当たり前のこと、分かりやすいことから人々に説けばよいと考えた。それが生老病死、四苦八苦であろう。 

教科書的には十二因縁や八正道を説いたということになるが、それは釈尊の説法を後の人が理論的に再構成したものだ。悟りの内容も鹿野苑での初転法輪も当事者にしか分からない。教えを理解させようと、大変、上手に演出された脚本、釈尊劇がお経であり、阿弥陀経や維摩経も釈尊劇のスピンオフ・ドラマである。般若心経は観音経のアンサーソングだ。 

比丘たちよ、両極端に親近してはならない。快楽を貪ってもいけないし、極端な苦行も自分を苦しめるだけであって、聖なる行いではないと不苦不楽の中道を説く。苦集滅道の四聖諦を説明し、道諦として苦を逃れるための道筋、八正道を列挙する。それが正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。 

 
四苦八苦 

赤子にとっては真っ暗な羊水に漂っているのは安定した状況で、そこから追い出され窮屈な膣道を通ってまぶしい外の世界に出ること、生れるのは大冒険であり苦痛である。生から苦が始まる。 

時間軸において成長することは老いることでもあり、病原菌など外界からのアタックに対抗して病ということが起き、それは修復作用であっても苦痛である。そして、必ず訪れるのが死であり、分からないもの、未知なるものは恐い。 

四苦八苦というのはこの四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)、愛しいものとは必ず別れがあり、怨憎会苦(おんぞうえく)、憎きものとは必ず相対することがある。求不得苦(ぐふとくく)、何でも手に入ると思ったら大間違い、五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊とは色受想行識、五つの働きによって成り立つわたしは、生きている限り苦のてんこ盛り。名言である。 

仏教は苦しみの元を十二縁起(十二因縁)として説明した。それは無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)をいう。 

風が吹けば桶屋が儲かるというように、「無明によって行がある」から始まって老死が最後にやってくる。これを克服するにはどうしたらよいのか。 

無明とは迷いの根本であり、これを滅すると次は行である。行とは無明から作り出された善悪の行業。無明を滅するとこの無意識のうちに働きかける苦をもたらす心作用、行を滅することができる。 

行が滅すると識、認識の活動を滅することができる。識が滅すれば、名、すなわち形のない精神的な要素と色、形を持つもの(身体)を滅することができる。名色が滅することによって六入、六つの感覚器官、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意を滅する。六入が滅すれば触という感覚が滅する。触がなくなれば受、感受作用が滅する。受ということがなくなれば、愛が滅する。 

愛というのは西洋的なラブではなく、トリシュナー、タンハーで渇愛と訳される。ストーカー的な飽くなき欲望である。この偏愛をなくすと取、執着ということがなくなる。執着がなくなれば有、輪廻を繰り返す存在を滅することができる。 

生存がなければ生まれることもない。生まれさえしなければ、当然、老死もない。無明を滅ぼすことができれば、最後は老死もなくなる、輪廻しないで解脱できる。 

環境の厳しい地において、インド人は生まれ変わり、すなわち、生は苦しみという諦観を持っている。生まれ変わったら誰それと結婚してお菓子を作って、一緒に喫茶店を経営してケーキを売りたいなどという甘ったれた考えはしていない。 

しかし、心経の本文には「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道」とあり、この観法をも無であると否定している。四聖諦、苦集滅道も否定している。「無智亦無得」と知る働きとそれによって真理を得ることも否定している。ならどうすりゃいいのということになる。禅宗の公案のようにショック療法で悟る人もいるかもしれない。 

悟りの智慧さえ、そして、空そのものも空じて無上菩提に至る。般若波羅蜜によって菩提薩埵は心が無明に覆われることなく、こだわりなく、恐怖もなく、間違った考え方を超克して涅槃に赴く。 

たたみかけるように、現在過去未来の三世の仏たちも般若波羅蜜多に依って、心の中に何も対象がなく、無上の完全な正覚を得るという。菩提薩埵、菩薩とは私たちのことであり、仏たちと重ね合わせられている。 

「以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」
 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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般若心経とヨーガ・スートラ
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