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2026年4月15日水曜日

シルクロードの東端で、インド仏教の時間を歩く(その一)

旅の始まり:二十歳の息子の一言 

3月17日から10日間、中国を旅した。きっかけは、二十歳になった息子の何気ない一言だった。 「世界中がインフレなのに、中国はデフレ。行くなら今じゃない?」 

その言葉に背中を押され、「じゃあ行くか」と軽く応じたものの、行き先を考えるうちに旅は次第に輪郭を持ち始めた。せっかく行くなら、ただの観光では終わらせたくない。私の中に浮かび上がったのは、「インドから伝わった仏教が、中国でどう展開したのか」という時間の流れを、自らの足で辿ってみたいという思いだった。 

かつてシルクロードの東の終着点であった長安(現・西安)。そこには、時代ごとに異なる思想を携えた僧侶が集い、膨大な経典を翻訳し、思索を深めていった歴史がある。彼らの足跡を順に辿ることは、仏教という巨大な思想の成長過程を身体でなぞる旅になるのではないか――そんな予感があった。 

 

北京という「入口」 

まずは首都・北京に入る。万里の長城、天安門広場、北京大学。いずれも中国という国の歴史の厚みを感じさせる場所だ。 

その夜、かつての大学の教え子である中国人女性と再会した。日本の大学で学び、その後、私の授業のアシスタントも長年務めてくれた彼女と北京ダックを囲んでいると、ふとした会話の中で彼女が言った。「実は、私の家系は周恩来(しゅうおんらい)の親族なんです」思わず箸が止まった。教科書の中の歴史的人物と、目の前の現実がつながる瞬間。歴史の持つ不思議な重みを感じる再会となった。 

 

長安へ:圧倒的なスケールの違い 

北京西駅から高速鉄道(ガオティエ)に乗り、西安へ向かう。時速350キロという速度もさることながら、窓の外に延々と続く高層マンション群に圧倒された。一つの街が終わっても、すぐに次の巨大な街が現れる。国土の広がりと人口規模の凄まじさを思い知らされた。 

到着した西安は、かつての「長安」である。命を懸けて海を渡った日本の僧侶たちが、憧れ続けた聖地だ。駅に降り立つだけで、すでに巡礼が始まっているような高揚感に包まれた。 

今回の旅の軸は、インド仏教の発展段階を辿ることにある。 

 

 1.初期仏教(部派仏教): 釈尊の教えを忠実に守る段階 

 2.初期大乗(中観思想): 「空」の論理による執着の打破 

 3.中期大乗(唯識思想): 「心」の構造を解明する緻密な体系 

 4.後期大乗(密教): 象徴や儀礼を通じた実践的覚醒 

 

この流れは単なる年代順の記録ではない。「世界とは何か」「心とは何か」を問い続けた人類の思索が、深まり、変容し、実践へと回帰していくダイナミズムそのものだ。長安はこのすべてを受け止めた都市であり、ここを巡ることは仏教思想を体験的に理解することを意味する。 

 

鳩摩羅什(くまらじゅう):思想が「言葉」に変わる場所 

最初に訪れたのは、西安郊外にひっそりと佇む草堂寺(そうどうじ)だ。ここには、偉大な訳経僧・鳩摩羅什[注1]という僧のストゥーパ(仏塔)がある。竹林が鮮やかな赤いお堂に生えて実に美しい境内だった。 

 

 

彼の存在は中国仏教において決定的だった。それまでの中国では、仏教を儒教や道教的な枠組みで解釈する「格義(かくぎ)仏教」が主流であり、本来の教えとはズレが生じていた。そこへ現れたのが鳩摩羅什である。インド人の父を持つ彼は、サンスクリット語の経典を正確かつ流麗な漢文に訳し、仏教を「生きた中国語」へと昇華させた。 

 


 

彼が伝えたのは、龍樹(ナーガールジュナ)[注2]が体系化した「空(くう)」の思想である。「すべてのものは固定した実体を持たない」というこの世界観は、あらゆるものが関係性の中で成立していることを示す、柔軟で開かれた知恵だ。『法華経』や『阿弥陀経』など、今も日本で親しまれている経典の多くが彼の翻訳によるものだと知ると、この静かな古寺の空気が一変する。ここは、思想が言葉に生まれ変わった「聖誕の地」なのだ。 

 

 

鳩摩羅什は晩年、「私の翻訳に偽りがなければ、死後も舌だけは焼けないだろう」と言い残したと伝えられる。実際に彼の「舌」を祀ったとされるストゥーパの前で手を合わせながら、その伝説の真偽に思いを馳せ、言葉を尽くして真理を運ぼうとした一人の男の、愛すべき意地を感じて、少しだけ微笑んでしまった。「本当かな?笑」 

 

 

玄奘(げんじょう):知への執念が刻まれた地 

午後、大慈恩寺へ向かう。ここは、あの『西遊記』の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘三蔵の拠点だ。幼い頃、映画で孫悟空や玄奘を知り、仏教に触れるきっかけとなった私にとって、ここは特別な場所。境内に足を踏み入れた瞬間、感極まるものがあった。 

玄奘は、当時の仏典の曖昧さに満足できず、国禁を破ってまでインドへ向かった。「真理を突き止めたい」という執念に突き動かされた彼は、インドの最高学府・ナーランダ僧院で100歳を超える高僧・戒賢(かいけん)に師事し、約5年間にわたり「唯識(ゆいしき)」を学んだ。 

17年後、彼が持ち帰った唯識思想[注3]は、仏教の中でも極めて精緻な心理体系である。 

 

  • 世界は自らの「心の認識」によって成立している。 
  • 心の奥底には「アーラヤ識」という経験の蓄積がある。 
  • 私たちの経験は「種子(しゅうじ)」となり、未来を形作る。 

 

つまり、私たちは「ありのままの世界」を見ているのではなく、「自らの心が作り出した世界」を見ているというのだ。 

 

 

大雁塔(だいがんとう)に収められた膨大な経典を前に、私は圧倒された。私自身、たった一冊の専門書を翻訳した際にもその労力に疲労困憊した経験がある。一生を捧げてこれほどの分量を訳し続けた玄奘のエネルギーは、もはや知識の域を超え、真理に近づこうとした人間の凄絶な痕跡そのものに思えた。この深遠な思想を翻訳という過酷な作業を通じて中国、そして日本へと繋いだ玄奘のエネルギーに、改めて深い敬意を表さずにはいられなかった。 

 


 

西安の夕暮れ 

ふと気がつくと、陽は傾きかけ、空は茜色に染まり始めていた。夕陽を浴びて黄金色に輝く大雁塔、そしてその麓に立つ玄奘三蔵の像。その二つのシルエットが夕闇に溶け込み、重なり合う姿は、まるで玄奘の不屈の精神そのものが、この地に深く根を下ろしているかのようだった。その荘厳で美しい光景に、私はしばし時を忘れ、静かに手を合わせた。 

 

 

宿に戻り、名物の「ビャンビャン麺」を食べる。幅広の麺を豪快にすする感触は、この土地のスケールの大きさに重なる。 

「この麺の味や食感も、すべて私の心が作り出した幻なのだろうか?」 今日触れた唯識の教えを反芻しながら、ユニークな名前の麺を啜り、長安の夜は更けていった。(次号に続く) 

 

 

【補注】 

[注1]):インド人の僧を父としてもつ西域出身の僧です。亀茲国の王族であった耆婆(ジーヴァー)を母として亀茲国に生まれる。360年代 仏教における学問の中心地であったカシミールに遊学。原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。彼はまず部派仏教:かつて「小乗仏教」と呼ばれていた初期の仏教を学び、その後、大乗仏教へと転向しました。そして大乗仏教の中でも、龍樹が体系化した「中観派」の思想を深く研究しました。401年に来長、翌年から翻訳を始めました。なお、晩年は還俗し僧院を出て十人の妓女を娶って妻帯し、私邸に居住するようになったという。 

 

[注2]:龍樹(ナーガールジュナ)2世紀頃の南インドで大乗仏教の根幹を築き、「空」の論理を確立した高僧で、八宗の祖とも称されます。 

 

[注3]:中期大乗仏教の思想で、5世紀頃にインドの僧であった無着(アサンガ)とその弟世親(ヴァスバンドゥ)によって大成されました。 

 

 

藤倉健雄 

Ph.D 教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部、および上智大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク幹事

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2026年4月9日木曜日

般若心経の迷い道その五般若心経とヨーガ・スートラ

お釈迦様のお悟りとは 

お釈迦様は菩提樹下でお悟りを開いたといわれるが、悟りとは何だろう。おそらく個人的なもので一人一人その内容は違うのではないか。お釈迦様の悟りというのは、実は、誰にも分からない。 

例えば、王と長島、大谷の獲得したバッティング技術は違うし、大谷と山本、ダルビッシュの投球術も異なる。それぞれの来歴や身体性によって悟りがあるのではないかと思う。果たして生成AIにお悟りはあるのだろうか。 

そもそも悟というのは中国語であり、菩提bodhiは、正覚、覚悟、開悟、得道と訳される。そんじょそこらの悟りとは違うお釈迦様の悟りは、無上にして完全な悟り、阿耨多羅三藐三菩提と音訳される。 

 

八支ヨーガ 

佐保田鶴治『解説ヨーガスートラ』平河出版社、1980年によると、第2章29のスートラは次の通り。瞑想の伝統はウパニシャッドの時代以来で、仏教でもバラモン教でも修行者の知識、技術は共有されている。 

「ヨーガは次の八部門から成る。禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧」。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティアーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディとするするサンスクリットが出てくる方はインド通。 

ヨーガの実践家であるアーネスト・ウッズの凝念、静慮、三昧に対する英語訳はconcentrationmeditationcontemplationである。彼は19歳で神智学協会に入会し、インドにおいて高校、大学の学長となり、長年にわたり奉仕活動を行った。 

瞑想は、まずは集中から始まる。凝念の段階では心を特定の所に結びつける。ヨーガというのは心が散漫にならないよう結びつけること、心に軛を付けること。ろうそくや梵字の阿の字、オームとかマントラ、あるいは呼吸に集中する。 

静慮、禅那とは、凝念から引き続き同一の場所を対象とする想念が、一筋に伸びていくこと。 

瞑想を続けると三昧に至る。思念する客体ばかりになり、自体(主観の存在)をなくす。ヨーガスートラ第1章43佐保田訳によると、 

「定の心境からさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である」 

主客が未分化となり、至福アーナンダに満たされる。ここまで来ると悟りであろうか。そのまた先に無上等正覚があるようだが。ヨーガでは一切が止滅する無種子三昧を説く。 

アーナンダというのは世俗の喜びではなくて宗教的な微妙な喜び。ヨーガを続けていると自分の奥から微妙な喜び、愛が湧き出てくる。それは「私」のない喜び。周りの人に移り、いい環境が周囲にできる。それがヨーガの本当の狙いだと佐保田鶴治はいう。 

 
脳内で起きていること 

マーク・ロバート・ウォルドマン『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか』ナチュラルスピリット、2019年によって略述する。彼が自らfMRI(機能的磁気共鳴画像法)のスキャナーに入り、我流の瞑想をすると頭頂葉の活動が低下した。 

頭頂葉の働きというのは、脳に入ってくるすべての感覚情報を取り込み、自意識を作り出し、自分と自分以外の世界との関係を確立すること。この働きが鈍ると自分自身と周囲の世界との境界があやふやになる。 

ふつう、人が聖なるイメージに集中するとき、前頭葉の活動は活発になる。ところが前頭葉の活動も低下していた。そこで、異常な神秘体験や悟りを経験するにはこの異常な活動低下が必須ではないかと想定した。 

悟りは脳の異なる部位への血流の流れの極端な変化によって引き起こされる。すると新しい見方で世界を見て、驚異的な感動を伴うことも多い。このような認知上のシフトは主観的なものなので言葉では表現しにくい。 

 

ヨーガ・スートラ 

ヨーガ・スートラ第1章の1は「これよりヨーガ解説をしよう」。2番は「ヨーガとは心チッタの働きヴリッティを止滅すること」citta vritti nirodhaであると示されている。ニローダの意味は抑制するということだが、むしろ、三昧サマーディに近いニュアンスである。心に何もないという状況に至ると輪廻を断ち切れる、解脱し涅槃に至ると考え修行した。 

毎日、瞑想を続けていると、だんだん深くなってきて、はっと気がつくと何時間も経っているということがある。また、宇宙と一体となる感覚があり、大宇宙の果てまで隅々を把握できる。いわゆる天耳通、天眼通である。 

第3章には凝念、静慮、三昧の三者を修することによって智慧プラジュニャーの光が輝き出ると記される。すると、過去と未来を知り、前世を知り、他人の心を知り、宇宙の運行を知る、千里眼、天耳通を得るとされる。 

超自然的な能力を肯定するのは、経験する世界のすべての事象は、物理的なものも心理的なものも、一つの根源的実在の各瞬間ごとの休みない転変の上に成り立っている、心と物質に区別を立てないというヨーガ・スートラの極めてインド的な考え方による。 

般若の光が輝き出すのが釈尊の悟り、無上等正覚であろうか。それは、その近くまで修行した沙門たちには理解できても、普通の人に説くことは難しい。 

 

お悟りの内容は十二因縁か 

バラモン教の主神であるブラフマー神が釈迦に説法してくれと頼んだのは、世間一般の人々のために法を説いて救いの道を示してほしいということだから、まずは出来ないと断ったことだろう。微妙にして深遠な法は、貪欲にまみれ、暗闇に覆われた者は見ることが出来ないと。 

しかし、再三要請されて、迷妄を捨てた心ある者に微妙なる正法を説くことを決意する。  

それなら諄々と当たり前のこと、分かりやすいことから人々に説けばよいと考えた。それが生老病死、四苦八苦であろう。 

教科書的には十二因縁や八正道を説いたということになるが、それは釈尊の説法を後の人が理論的に再構成したものだ。悟りの内容も鹿野苑での初転法輪も当事者にしか分からない。教えを理解させようと、大変、上手に演出された脚本、釈尊劇がお経であり、阿弥陀経や維摩経も釈尊劇のスピンオフ・ドラマである。般若心経は観音経のアンサーソングだ。 

比丘たちよ、両極端に親近してはならない。快楽を貪ってもいけないし、極端な苦行も自分を苦しめるだけであって、聖なる行いではないと不苦不楽の中道を説く。苦集滅道の四聖諦を説明し、道諦として苦を逃れるための道筋、八正道を列挙する。それが正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。 

 
四苦八苦 

赤子にとっては真っ暗な羊水に漂っているのは安定した状況で、そこから追い出され窮屈な膣道を通ってまぶしい外の世界に出ること、生れるのは大冒険であり苦痛である。生から苦が始まる。 

時間軸において成長することは老いることでもあり、病原菌など外界からのアタックに対抗して病ということが起き、それは修復作用であっても苦痛である。そして、必ず訪れるのが死であり、分からないもの、未知なるものは恐い。 

四苦八苦というのはこの四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)、愛しいものとは必ず別れがあり、怨憎会苦(おんぞうえく)、憎きものとは必ず相対することがある。求不得苦(ぐふとくく)、何でも手に入ると思ったら大間違い、五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊とは色受想行識、五つの働きによって成り立つわたしは、生きている限り苦のてんこ盛り。名言である。 

仏教は苦しみの元を十二縁起(十二因縁)として説明した。それは無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)をいう。 

風が吹けば桶屋が儲かるというように、「無明によって行がある」から始まって老死が最後にやってくる。これを克服するにはどうしたらよいのか。 

無明とは迷いの根本であり、これを滅すると次は行である。行とは無明から作り出された善悪の行業。無明を滅するとこの無意識のうちに働きかける苦をもたらす心作用、行を滅することができる。 

行が滅すると識、認識の活動を滅することができる。識が滅すれば、名、すなわち形のない精神的な要素と色、形を持つもの(身体)を滅することができる。名色が滅することによって六入、六つの感覚器官、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意を滅する。六入が滅すれば触という感覚が滅する。触がなくなれば受、感受作用が滅する。受ということがなくなれば、愛が滅する。 

愛というのは西洋的なラブではなく、トリシュナー、タンハーで渇愛と訳される。ストーカー的な飽くなき欲望である。この偏愛をなくすと取、執着ということがなくなる。執着がなくなれば有、輪廻を繰り返す存在を滅することができる。 

生存がなければ生まれることもない。生まれさえしなければ、当然、老死もない。無明を滅ぼすことができれば、最後は老死もなくなる、輪廻しないで解脱できる。 

環境の厳しい地において、インド人は生まれ変わり、すなわち、生は苦しみという諦観を持っている。生まれ変わったら誰それと結婚してお菓子を作って、一緒に喫茶店を経営してケーキを売りたいなどという甘ったれた考えはしていない。 

しかし、心経の本文には「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道」とあり、この観法をも無であると否定している。四聖諦、苦集滅道も否定している。「無智亦無得」と知る働きとそれによって真理を得ることも否定している。ならどうすりゃいいのということになる。禅宗の公案のようにショック療法で悟る人もいるかもしれない。 

悟りの智慧さえ、そして、空そのものも空じて無上菩提に至る。般若波羅蜜によって菩提薩埵は心が無明に覆われることなく、こだわりなく、恐怖もなく、間違った考え方を超克して涅槃に赴く。 

たたみかけるように、現在過去未来の三世の仏たちも般若波羅蜜多に依って、心の中に何も対象がなく、無上の完全な正覚を得るという。菩提薩埵、菩薩とは私たちのことであり、仏たちと重ね合わせられている。 

「以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」
 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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般若心経とヨーガ・スートラ
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2026年3月9日月曜日

デリーの熱気のなかで考えた―インドはなぜ「AIの母国」なのか

2026年2月16日、私は息子とともにデリーにいた。ニューデリーのBharat MandapamにおけるIndia AI Impact Summit 2026の開幕の日であり、この会合は世界各国の政府関係者、研究者、企業、スタートアップ等を集める大規模国際イベントとして企画され、インド首相府はこれを「世界最大かつ歴史的なAI Impact Summit」と表現した。2025年のStanford Global AI Vibrancy Toolでインドは世界3位とされたことをインド政府も大きく発信しているが、このたびの各種報道も、Google、OpenAI、Anthropic などの世界最先端の生成AIのグローバル企業トップが集まり、世界最大のAIイベントがインドで開催されたとして報じた。 

 
デリーにおける、AIサミットの熱気 

空港を出た瞬間の、この独特の匂い、砂塵、スパイス、オートリキシャのエンジン、そして説明不能の「インドそのもの」が混ざったような空気。日本の冬の空気から一気に別の喧騒の文明圏へ移った感覚に、頭より先に身体が納得する。ここには躍動する生命力が満ちている。最先端のAI技術は、こうした中で鍛えられるのかもしれない、とも思う。 

UBERタクシーで市内を走ると、私が家族とともにデリーで生活していた5年前にはRajpathと呼ばれていた大統領官邸とインド門を結ぶ大通りが、いまはKartavya Pathになっている。Rajpathは直訳すれば「統治・支配の道」、英国植民地期のKingswayを引き継ぐ権力の大通りだった。それがKartavya Path「義務の道」に変わった。政府はこの空間を、国家が国民を見下ろす場ではなく、国家も国民もそれぞれの責務を果たす共和国の空間として再定義し2022年の改称時、モディ首相は植民地的象徴からの脱却と「国民のduty」を強調した。国民と国家がそれぞれ責務を果たす民主主義の空間であり、インドがいま自らを「国民の義務と参加によって動く国家」として語り直そうとしていることは確かだ。 

 
紀元前2500年の文明と、4500年後のAI 

デリーに来ると、毎回国立博物館にも足を運ぶ。今回も息子を連れてインダス文明の展示を見に行った。国立博物館はハラッパー・モヘンジョダロの大規模コレクションで知られ、公式サイトや紹介資料でも、その収蔵の厚みが強調されている。印章、装身具、サイコロや車輪のついた玩具、そしてインダス文明を代表する紀元前2500年の遺物「踊る少女」。ガラスケースの中の小さな少女は、数千年前にこの地に高度な都市文明が存在し人々が生活していたことを、静かに、しかし、圧倒的に語ってくる。 

4500年前の都市文明の遺物と2026年のAIサミットが、同じ首都で重なっている。この時間の振幅こそがインドの魅力だと思う。一方には、まだ解読されていない4500年前のインダス文字があり、そのすぐ隣で、生成AIが自然言語を操り世界のグローバルテック企業のトップや政治家が数週間で進歩するAI技術を論じている。この対比は、少々出来すぎているほどに象徴的だ。今回のIndia AI Impact Summit 2026の開会にあたり、モディ首相は、AIを一部の人のための技術ではなく公共のための技術として位置づけた。テーマとして掲げられたのは “Sarvajan HitayaSarvajan Sukhaya”、万人の利益、万人の幸福である。会合の焦点も、単なる性能競争ではなく、経済成長、公共サービス、教育、医療、農業、包摂、安全で信頼できるAIなど、社会実装の文脈に広く置かれていた。そして、何より登壇する顔ぶれが豪華だった。初日にもサプライズで登場し会場警備も大混乱となったモディ首相の登壇はもちろん、GoogleのSundar Pichai、オープンAIのSam Altman、アンソロピックのDario Amodei、ディープマインドのDemis HassabisらのCEO陣が登壇し、フランスのマクロン大統領も名前を連ねた。ここでインドが示したかったのは、単に「AIで経済成長する」ということだけでなく、AIをめぐる国際秩序、規範、包摂的なルール形成においてインドが軸になる、という意思表示である。 

 
インドは、なぜ「AIの母国」と言えるのか 

では、インドは本当にAIで世界の先頭に立ちつつあるのか。総合的なAI競争力では、Stanford HAI の Global AI Vibrancy Tool で、2025年時点のインドは米国、中国に次ぐ世界3位とされている。インド政府もこの順位を積極的に発信している。これは、研究、人材、インフラ、活用の総合力で、インドの存在感が急速に増していることを示している。ベンガルールに行けば、世界の主要ITベンダーやテクノロジー企業の研究所、R&D拠点、グローバル能力センターが幾重にも集積している。マイクロソフト、グーグル、IBM、インテル、アマゾンなど、世界のデジタルインフラを支える大企業群が、インドを開発・研究・実装の中核拠点として位置づけてきたことはよく知られている。 

さらに日本政府における政策資料の分析を重ねてみると、インドの強みはさらに別の角度から見えてくる。文部科学省の科学技術・学術審議会情報委員会で説明されたJST-CRDS の2025年10月の資料では、2024年時点で「総論文数に占めるAI関連論文数の割合」はインドが19.77%で世界1位とされている。さらに、同資料では AI 関連論文の総数でもインドは60,984 本で、中国に次ぐ水準にあり、米国の60,666 本を上回っていることもわかる。 

ここで重要なのは、インドが単にAI専門家を抱えているというだけではなく、AIを研究全体のなかへ深く浸透させている、という点である。情報委員会資料でも、日本が国際潮流に遅れているという危機感の中で、中国やインドを含む各国の投資動向が分析されたが、つまり、インドは「AIを研究し、AIを使い、AIを社会の隅々まで流し込む力」が非常に強い国なのだ。 

私はここに、インドを「AIの母国」と感じる理由があると思っている。それは新技術を最初に発明した国という意味ではないが、新技術を社会の毛細血管にまで流し込む国、という意味での母国である。 

その社会へのAI活用の土台になるのが、Aadhaar(アーダール/アドハー)だ。Aadhaar は、インド個人番号庁UIDAIが運営する世界最大の生体認証ID基盤であり、2024-25年度の年次報告書では、既存の Aadhaar保有者データベースは約13.3億人規模と発表され、インド国民をほぼ網羅。また、2024-25年度の認証件数は270億件に達したとインド政府は公表している。これは、もはや単なる「IDカード」というより、世界最大のデジタル認証インフラとなっていると言える。銀行、通信、各種サービス、行政からの給付が接続された基盤インフラであり、さらに興味深いのは、この巨大システムを日本の技術が支えていることだ。NECがこのAadhaarシステムに生体認証技術を提供し、指紋、顔、虹彩を組み合わせた最先端の日本の技術が、インドのデジタル公共基盤の奥深くで働いているというのは、まさに日印の協力を象徴する。 

インドをこういったAI技術やITの社会活用の「母国」と感じさせるもう一つの良い例が、電子投票の早期からの普及である。インド選挙委員会の資料によれば、EVM は1977年に着想され、1980年に試作、1982年に試験導入され、その後段階的に広がり、2004年の総選挙では全選挙区で使用された。日本で「電子投票」と聞くと、すぐに不安や慎重論が前面に出る。しかしインドでは、巨大な民主主義を回すための現実的な技術として、長年の運用と改善が積み重ねられてきた。 

 
日印協力の現場―日印M2Smartプロジェクトと都市データ活用 

この「まず動かし、問題を抱え込みながら改善する」姿勢は、交通や都市のデータ活用にも表れている。 

日印科学技術協力の代表的な案件の一つとして筆者も深く関わっていた、名古屋電機工業のJST・JICA の SATREPS による M2Smart プロジェクト。このプロジェクトは、名古屋電機工業、日本大学、東京工業大学、インド工科大学ハイデラバード校やアーメダバード市などが連携し、モバイル端末、交通センシング、ビッグデータ解析、ネットワーク技術を組み合わせて、都市交通の状況をより正確に把握し、公共交通へのモーダルシフトを支える研究開発を進めた。 

デリーの道路を見ていると、渋滞、割り込み、バス、オートリキシャ、人、バイクが、まるで非線形方程式の可視化のように絡み合っている。秩序だった都市でのモデル化とも異なるこのインドの密度と複雑性を持つ現場で鍛えられた技術は、別種の強さを持つ。この日印共同研究で培われた高精度の位置情報解析や交通分析の高度な技術は、さらに発展して一般社団法人移動行動イノベーションフォーラム(Mobei Forum : Mobility and Behavior Innovation Forum)に引き継がれ、すでに日本国内において神戸市のバス交通の解析等に応用され、さらには日本のフラッグシップスーパーコンピュータ富岳での利用に向けても検討いただいてる。 

 

 
多様性の中の統一と、インドならではのAI観 

息子と歩いたデリーで、私は何度も、インドという国の時間の重なり方を感じた。 

数千年前の文明の遺物があり、二十世紀型の雑踏があり、同時に二十一世紀後半を先取りするようなデジタル国家の実験がある。日本はしばしば「秩序の国」として優れている。しかしインドは、「未完成のまま前へ進む力」において圧倒的だ。AIの時代には、その違いが思いのほか大きいのではないか。完璧な設計図を描いてから始める国よりも、社会の混沌の中でまず動かし、調整し、スケールさせる国が強い場面が増えるからだ。 

インドのAIを考えるとき、もう一つ見落としてはならないのが、この国の多言語・多宗教・多民族という文明的条件である。 

インドでは、言語や信仰の違いは単なる文化的背景ではなく、行政、教育、医療といった国家の各種運営実務そのものにも深く関わっている。だからこそ、インドにおけるAIは、異なる言語を話し、異なる習俗をもち、異なる価値観を生きる人々のあいだをつなぐ仲介者であることを、あらゆる場面で強く求められている。 

ここで思い起こすのが、インドを語る代表的な理念である “unity in diversity 多様性の中の統一” である。これは単なる美辞麗句ではない。近代インドの建国期以来、ネルーらが繰り返し語ってきた国家統合の核心であり、違いを違いのまま抱え込みながら、なお一つの共和国として生きる という理想を示す言葉である。日本ではしばしば、インドは宗教対立の国だという誤解が先に立つが、インドが継続して掲げてきた国家理念は、多様性を認め、それを保ったまま統一を形づくることにある。私は、インド国内でAIが経済効率化の道具ではなく、人と人、社会をつなぐ公共技術として語られやすい理由には、このネルー以来の”unity in diversity 多様性の中の統一”の理念、また、アンベードカルの語った”fraternity 友愛”の思想的背景が脈打っているように思う。 

インド政府は2025年11月、電子情報技術省を通じて India AI Governance Guidelines を公表した。そこではAIを単なる産業競争の武器ではなく、安全で、信頼でき、包摂的で、しかもイノベーションを阻害しない形で社会実装するための原則が整理されており、その冒頭から目標を “innovation, adoption, diffusion, and advancement of AI” と置いている。つまり中心語が「禁止」「審査」「認可」ではなく、AIそのものを横断的に規制するEU型のコンプライアンス枠組みを作る発想ともかなり異なる。 

EUはAI Actを中核に、リスク分類・義務・監督体制を強く打ち出すコンプライアンス中心。米国は2025年11月のGenesis Mission大統領令がわかりやすいが、規制より民間イノベーションと分野別対応を重視する分散的かつ自由で資本主義的な取組である。中国は生成AI規則やアルゴリズム規制のように、国家主導で迅速にルールを敷く中央集権的統制モデルの色が濃い。米国がAIを合理主義的で競争的な経済フロンティアとして、中国が中央集権的な管理の発想と国家能力として鍛えているとすれば、インドはそれを、“unity in diversity” を壊さずに支える公共技術 として育てようとしているように見える。多様性を一つに塗りつぶすのではなく、多様性を多様性のままつなぐための知的基盤としてAIを位置づけている点に、インドらしさがある。 

その意味で、インドのAIは単なるツールではなく、人と社会のあいだに立つパートナーへと進化する可能性を秘めている。私はそこに、ヒンドゥー教や仏教を生み、多様な思想と共同体を抱え込みながら歴史を積み重ねてきたインド文明の奥行きを感じる。そして、その方向性においてこそ、今も人間中心の価値を掲げ、公共性を重んじてきた日本は、インドと深く響き合える余地をもっているのではないか。 

 
日本とインドが、共につくる「みんなのためのAI 

ベストシーズンとされる2月のデリーの快適な空気の中で、私はあらためて思った。 

これから日本がAI for Scienceやデジタル公共基盤、都市データ活用を本気で進めるなら、インドは「学ぶ相手」であると同時に「共につくる相手」でもある。しかもそこでは、日本の強みである信頼性、精密な現場実装、長期的な品質管理等が生きてくる。逆にインドの強みは、規模、実装速度、社会実験の大胆さ、そして新技術を現場の熱の中で回してしまう力にある。インドのスケールと熱気、日本の精度と持続性。その組み合わせは、次の時代の世界の標準を生むのではないか。 

AIの未来は、デリーの雑踏の中で、Aadhaarの認証端末の前で、電子投票機の積み重ねられた運用の歴史の中で、ハイデラバードやアーメダバードの交通データの現場で、そして Bharat Mandapamの混雑した通路の中で、次の時代を動かすプロトコルはすでに形を取り始めている。そのように考えると、今回の滞在で私が感じた「AIの母国」という言葉は、決して誇張ではなかったのだと思う。 

そして私は、今回の息子と歩いたデリーの街でひそかにこう願っていた。いつか彼の世代が新しい時代の「みんなのためのAI」を日本とインドで一緒に形づくれますように、と。 

 

栗原 潔(くりはら・きよし)
2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。
2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。
帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。 

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2026年2月16日月曜日

般若心経の迷い道 その四

ニューエイジ・サイエンスと東洋思想 

般若心経を量子論で説明しようとする人がいる。分からないことをもっと分からないことで説明されても、文化系で数学も物理も苦手な私は困るのだが。 

玄侑宗久は『現代語訳 般若心経』筑摩新書、2006年の中で次のようにいう。 

量子力学では物質のミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とします。測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけですが、端的に、それが「色」と「空」なのだと考えても、基本的に間違いではないと思います。 

中略 

しかし私は、じつはこれと同じことをさっきから申し上げています。 

「色即是空」でしかも「空即是色」だと。 

「般若波羅蜜多」が実現すれば、そういう実感になるのだから仕方ありません。 

オッペンハイマーに師事した理論物理学者デヴィッド・ボームは、暗在系という言葉を使う。 

この宇宙を理解するのに二重構造を想定し、われわれがよく知っている物質的な宇宙の背後に「もう一つの見えない宇宙」の存在を想定する。 

目に見える物質的な宇宙を「明在系(explicate order)」、もう一つの目に見えない宇宙を「暗在系(implicate order)」と呼ぶ。 

湯浅泰雄・竹本忠雄編著『ニューサイエンスと気の科学』青土社、1993年で、ボームは次のようにいう。 

時間と空間を超えて、その中に空間と時間の系が抽象として含まれている。その考えを発展させ、「暗在系」は、「明在系」の中にのみ包まれている、という代わりに、われわれが自分の前に見ているふつうの系(秩序)が暗在系の中に包み込まれている。つまり、すべての物質、精神、時間、空間などが全体としてたたみ込まれていると考える。 

ボームは鈴木大拙の禅の影響を受けているので華厳経の考え方も入ったのだろう。インドラ神の網の結び目にちりばめられた宝石は互いに映し合い、その一つ一つの宝石の光が互いに映し合っている。つまり、部分の中に全体があるのだ。また彼は、神智学協会から独立したジッドゥ・クリシュナムールティとも親しくしていた。 

ボームはまた、ダライ・ラマの教えにより、 

仏教における「空」の問題というのは、すべてのものの究極の本質は空である、というものでした。これは、すべてのものは相互依存的な関係の中で起こる、というのと同じことです。事物は、それ自身の本質から生じるのではなく、すべてのものは全体から生じ、全体へと還帰するわけで、これは「暗在系」の考え方に近いのです、と語る。 

それを受けて天外志朗は、『般若心経の科学・改訂版』祥伝社黄金文庫、2011年で、「色即是空」を「ホログラフィー宇宙モデル」として説明する。 

それは、「空」=「暗在系」=「あの世」ということなのです。「空」というのは、たんなる物の見方や心の持ちかたではなく、厳然と物理的に存在する目に見えないもう一つの宇宙、という解釈も可能です。 

したがって、「色即是空」ということは「明在系」=「暗在系」、あるいは「この世」=「あの世」という意味になります。 

中略 

「明在系」あるいは「この世」のすべてが、「暗在系」「あの世」に、たたみ込まれているわけですから。 

天外志朗はペンネームで、本職はCDを開発したソニーの技術者だった。一度どこかでお目に掛かったことがあって名乗りを受けた。 

 

ホログラムとしての宇宙 

記憶について考察していた脳外科医のプリブラムはあるとき「世界は一つのホログラムだ」と思うに至った。 

ホログラフィー(完全写像記録装置)とは、平面に写し取るフォトグラフィーとは違って全体を撮ろうとする技術である。光の干渉と回折を利用して物体の3次元情報を記録・再生する技術で、レーザー光を使って物体が反射した光(物体光)と基準となる光(参照光)の干渉縞を記録し、再生時に同じ参照光を当てると立体像が浮かび上がるものだ。 

われわれが知覚するのは独立した実体と考えているが、知覚されているのはイメージ(知覚像)であり、それに意味を与えるのは内面から想起される記憶イメージである。音楽というのは物理的には単なる音の波であり、過去の記憶と合成することによって音楽が成立する。 

人がいなかったら世界も成立しない?色=実体と思っている世界は空なのだろうか。 

ボームのいう暗在系をプリブラムは潜在的次元(potential order)という。そこには空間の境界もなく、時間の境界もなくすべてのものがそこに包み込まれていると考えた。脳は宇宙の一側面であると。 

 

大天才たちのタゴール詣で 

およそ百年前、何人もの大天才たちが熱い議論を交わして論文を仕上げ、量子力学が形成されていった。エルヴィン・シュレーディンガーの波動方程式が提案されたのは1926年である。量子力学といっても統一された理論があるわけではなく、解釈の幅があり論争は今も続いている。意外と東洋思想にヒントを得た物理学者が多い。 

ハイゼンベルクにはギリシア哲学のバックグラウンドがあり、プラトンを研究した。インドの講演旅行に出かけた1929年、タゴールの家に滞在してウパニシャッドの哲学について聞いた。 

人間の介在しない真理は存在しないとタゴールは述べた。世界は相互に関連するイベントの織物である、観測者と物理現象の結びつきが重要であると聞いて、観測者が観測対象に影響を与えうるという自身の奇妙な考え方に自信を深めた。 

不確定性原理というのは、素粒子の位置と運動量、あるいは波動性と粒子性などについて、観測によってその一方を決定すると他方が全く不定になってしまうことを明らかにした。観測者によって作用されるという問題で当時の客観主義との矛盾に悩んでいた。 

ハイゼンベルクはピアニストになろうか物理学者になろうかと迷うほどだったが、物理学の将来に賭けた。宇宙の根底には何か中心的秩序が隠されていると考えた。数学、物理学はそれを解析する術だが、音楽によってこそ中心的秩序に近づけると。音楽、特に器楽は瞑想に近い。 

アインシュタインがタゴールと対話したのは有名だが、それは1930年7月14日、ベルリン郊外カプートのアインシュタインの別荘で初めて行われ、生涯4回対話した。 

 

https://ishikawa.math.keio.ac.jp/KoaraWest/KoaraWest09_06.pdf 

https://www.amorc.jp/causality-a-discussion-by-einstein-and-tagore/ 

 

アインシュタインは数学の定理や物理法則は、人間界のあるなしに関わらず成り立つと主張し、タゴールは真理というのは人間精神によって認識される、宇宙は人間の意識と切り離せないとする。 

例えば、音楽の美は人間の感性が生み出すとタゴールは考え、アインシュタインは音楽の調和には数学的構造があるので、それは人間とは独立して存在すると考えた。数学者は、しばしば、この世に数学の定理、数字の世界は実在すると考える。幾何学というのは自然を記述するものではなく、自然の本質そのものだと古代ギリシア人は考えた。 

アインシュタインは夏の別荘で自らヴァイオリンを弾いて音楽会を催し、文化人と歓談した。奈良ホテルにはアインシュタインが弾いたピアノが保存されている。しかし彼の音楽観は、とても西洋音楽的な捉え方だ。インド音楽も数学的だが、日本の音楽がそのように分析されるかは疑問。 

それはともかく、ここに観察者の問題が出てくることが重要。 

エルヴィン・シュレーディンガーは1930年、アインシュタインの招きによりカプートの別荘で、タゴールと出会った。アインシュタインがベルリン大学の教授だった頃、定期的に音楽家、文化人、科学者を招いて演奏会を行っていた。その中に、量子論を形成したマックス・ボルン、マックス・プラントもいた。 

ゲッティンゲン大学のボルンの元で助手に採用されたシュレーディンガーは、ボルンと共にピアノの演奏を楽しんだという。音楽サロンで物理学を発展させるとはなんと優雅で楽しい時間だ。 

観測者の意識が現実を形作るという量子力学の解釈は、タゴールのいう、現実は人間の意識を離れては存在しないという立場に近いと考えた。 

シュレーディンガーは、物質的宇宙が独立して存在するという科学的な見方は、観察者の限界に過ぎないと考えるに至った。 

世界は客観的な物質の集合ではなく、主体(意識)と客体(世界)が一体となっている、つまり、アートマンとブラフマンの一致というウパニシャッド由来のヴェーダンタ哲学の一元論に共鳴した。 

ニールス・ボーアはキルケゴールとウィリアム・ジェームスの影響を受け、また、ウパニシャッドを読み、『易経』に熱中したという。ハイゼンベルクの不確定性原理によって「相補性」という概念を生み出した。 

1947年、ナイトに叙せられたとき、易の陰陽のシンボルを用いて示し、これを家紋とした。宇宙は二つで一つ。海のような波であり、ビーチの砂のような粒子でもある。どちらか一方ではなく二つの現象が結びついている。「相補性」、つまり、波動であって粒子であるという矛盾する側面が、共に現象を理解するのに必要と考えた。彼は中国に行って啓発されたのだった。 

湯川秀樹も老荘思想の影響を受け、老子のいうタオ、道は素粒子が分化する以前の原初的状況を示す象徴的表現であると解している。兄の貝塚茂樹は東洋史学の泰斗だ。 

 

死のダンス 

原子爆弾を開発したオッペンハイマーは、サンスクリットを学びバガヴァッド・ギーターを読むことが出来た。原爆投下の後、クリシュナがアルジュナにその真の姿を見せる一説を思い出した。上村勝彦の訳(岩波文庫、1992年)によると、第11章32の詩節に、 

「私は世界を滅亡させる強大なカーラ(時間)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう」 

時間の神であるカーラは死をもたらすことができるのだ。 

1971年の夏、お金がないのでアムステルダムにおける国際物理学会議に参加費を払わないで潜り込み、夜はヒッピーとして公園に寝袋に入って野宿したフリチョフ・カプラは次のようにいう。 

素粒子の世界のエネルギーのパターンは、安定した原子構造、分子構造を形成し、そこから物質が生まれ、巨視的には固い外観を呈する。その結果われわれは、それがある種の物質的な実体でできていると考えてしまう。巨視的なレベルでは物質という概念もきわめて有効だが、原子のレベルではもはや意味をなさない。原子は粒子からなっているが、その粒子はいかなる物質からもなってはいない。粒子を観察しても物質らしきものはなく、見えるものはたがいに絶え間なく変化するダイナミックなパターン--絶えざるエネルギーのダンス--である。 

中略 

コズミック・ダンスという比喩は、ヒンドゥーの舞踊の神、シヴァ・ナタラジャの像に最も美しく表現されている。現代物理学者にとって、シヴァの踊りは素粒子の踊りである。ヒンドゥー教の神話にあるように、それは全宇宙の創造と破壊の絶えざる舞踊--あらゆる存在とあらゆる自然現象の基盤--である。(スタニスラフ・グロフ編 吉福伸逸編訳『個を超えるパラダイム』平河出版社、1987年) 

また、彼の『カプラ対話篇 非常の智』工作舎、1988年によると、1982年にインドでサンジュクタ・パーニグラヒとグル・ケールチャランのオリッシー・ダンスを見ている。『タオ自然学』工作舎、1981年は世界的ベストセラーである。 

パラダイム・シフトとかニューサイエンスと呼ばれ、日本ではニューアカデミズムが話題になった懐かしい時代である。ニューミュージックも懐メロになった今、ニューアカはどこへ行ったのでしょう。工作舎の『遊』で編集長として活躍した松岡正剛も亡くなった。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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2026年1月26日月曜日

天竺ブギウギ・ライト㉑/河野亮仙

第21回 天竺ブギウギ・ライト
聖なる踊り子たち 

デリーのコンノート・プレイスで、しばしば、女装の男たちが商店前にたむろしているのを見た。彼ら、いや彼女ら?はヒジュラと呼ばれる公称半陰陽のグループだ。生物学的に両性具有者はそれほど高い確率では出現しないので、ほとんどは去勢している。トランスジェンダーである。 

去勢手術は非合法であり、出血や尿道感染で死に至る事もある。カルーセル麻紀もモロッコで手術して死にかけた。少なく見積もる者もあるが、デリーに一万人以上住んでいるようだ。 

ヒジュラは、元々、ウルドゥー語で半陰陽、または宦官を意味する。中国のみならず、イスラームの宮廷にもいた。インドに宦官がいなかったわけではないが、007の映画『オクトパシー』のように宮廷の警護は女性、あるいは高齢者を採用したようだ。当時、40過ぎれば高齢かとも思うが、不惑だろうか。 

ヒジュラの本職はダンサーであり、お祝い事、結婚式や出産に駆けつけ、歌い踊ってお祝いする。門付け、あるいは押しかけをするほか、男性相手に売春をする者もいる。踊り子としての自覚が高く売春を認めないグループもある。疑似家族としてグルの元、何人かの弟子と一緒に住む事が多い。 

女装する芸人については古くから記録がある。前2世紀の文法家パタンジャリは、素行が芳しくなく、社会的地位が低く、男で女に扮する者をブルークンシャとして記述するが、ヒジュラとの関係は不明である。 

インドにも遊牧民の去勢文化はあるが、ヒジュラという特異な形態が古代からあるのか、何世紀頃に発達したのかは、例によって分からない。 

昔、テレビでヒジュラのお祭りを取材した番組を見たが、どこにそのビデオがあるやら。今回は写真家石川武志『ヒジュラ/インド第三の性』青弓社、1995年と文化人類学者セレナ・ナンダ『ヒジュラ/男でも女でもなく』青土社、1999年を資料とした。主として80年代の取材に基づく。わたしが、毎年、インドに出入りしていたのもその頃だ。 

デリーの商店街で、お祝いでも何でもないのに店の前で踊られると営業妨害になる、あるいは呪いが掛かるといやだと思って、仕方なしに少額を渡す。それじゃ足りないとなると、また踊り、時には毒づくので何十ルピーかをバダイとして払う。 

出産祝いの儀礼をし、赤子の前世の汚れ、カルマをヒジュラが引き受けるなど、宗教職能者としての側面を持つ。厄を受ける仕事だ。 

建前としては去勢故に性行動を放棄した苦行者であり、物乞いではなく宗教的托鉢者である。祝福であれ呪いであれ、その言葉が真実となる力を神から授かっている。 

結婚に際しては、祝福して多産、特に男の子が生まれて家族が繁栄するよう祈る。出産でヒジュラが駆けつけて祝福するのは男の子のみである。バフチャラという母なる女神の力を授ける。 

オールド・デリーの有力なナーヤク、すなわちグルたちのリーダーの一人であるチャマンは、いい顧客を持ち豪華な調度品のある家で裕福な暮らしをしていた。ダンスの名人としてあちこちに呼ばれて評価された。 

石川によると「シンボー・マハラージという有名なプロのダンサーに、インドの古典舞踊のレッスンを受ける」とある。これはカタックの大家シャンブー・マハーラージの事に違いない。ビルジュ・マハーラージの父はアッチャン・マハーラージで、彼はバーイー・ジー、芸妓も弟子に持っていた。アッチャン、ラッチュー、シャンブーは兄弟である。 

一方、ニュー・デリーで石川がヒジュラの後を追っていくと、駅の構内に勝手にずんずん入り、操車場のような所に行く。暗がりのなかプラットホームに上がり歩いて行くと、2、30人のヒジュラが、浮浪者とともにプラットホームに寝ていた。 

彼らはラームナガルの貧民街に依拠していた。貧民相手なので。出産も結婚も門付けも実入りが少ない。同性愛者に売春をする事もある。コンノート・プレイスまで3、4人のグループで出かけ、太鼓とシンバルを叩き、店先で踊るのは彼らである。午前中に3、40軒回る。物乞いする沙門のようにも見える。 

また、ラージャスターンのアジメールにおいてヒジュラはお行儀が良く、お布施は20から40ルピーくらいらしいが、商店で拒絶される事もあまりない。街を歩いていると足下にひざまづく者もいて、その場合は手をかざして祝福する。聖者のごとくである。 

誕生の儀礼として1時間ほど歌や踊りが続けられる。曲は映画音楽や民謡などから選ばれている。その中で妊娠から出産までをコミカルに寸劇のように歌って踊る。石川が観察した家で、お布施は1000ルピーだったが、踊っている間、参加者から2ルピー、5ルピーのおひねりを次々と貰って幸福や長寿を祈る。 

石川は結婚式後のお祝いにも立ち会う事も出来た。注目すべきは、パフォーマンスの間、花嫁は奥に引っ込んでいる事だ。生殖能力のないヒジュラの穢れが移らないようにするためだ。 

終了するとグルからお米を頂戴する。結婚してからの多産と家の繁栄を約束する。花嫁の頭に手を差し伸べ、花嫁はひざまづいてその力を授かる。踊り子の寿ぐ力が物語られている。 

81年、パンジャーブにおけるセリナの取材によると、男児の誕生祝いに対するバダイは、101から151ルピー(必ず奇数)。他に小麦粉、お菓子、甘藷糖、布地やサリーが付けられる。 

第三の性といってもヒジュラの場合、男性の機能かマイナスになっているのに対し、デーヴァダーシーは男性の権利がプラスになっている。すなわち、読み書きや学問を習い、財産を相続する。 

 

ラーイー 

ハーフナーの描く旅の踊り子一座を紹介する前に、国際交流基金と日本文化財団による公演「アジア伝統芸能の交流’84」に参加したラーイーについて述べたい。 

インド中央のマッディヤ・プラデーシュ州とウッタル・プラデーシュ州にまたがるブンデルカント地方から来日した。ベーリニーと呼ばれる踊り子は、元々、どこか他の地方からやってきて住み着いた流れ者で下層階級に属す。風評では売春婦とも見なされた。 

一方、楽師はというとバラモンであるとされ、伝統的なレスリングのトレーニングをやっていて、踊り子と絡みアクロバティックな動きを見せる。寸劇も行う。いつも舞踊の格闘技起源説を唱える私としては、もともと宮廷の兵士かと想像する。そこに呼ばれた踊り子といつしか共同作業を行うようになったのか。 

両者は別々のコミュニティなので何キロも離れた村に住み、催しがあるとベーリニーは馬車に乗ってやってくるというから、まるでジプシーだ。旋舞し、跳躍し、駆け巡る。 

結婚式、誕生祝い、名付けの儀式、その他の伝統的な行事に招かれ、夜通し踊る。YouTubeにいくつか映像が上がっているが、84年の来日アーティストの方が遙かに素晴らしかった。今頃、この時の美少女は孫どころかひ孫までいるかもしれない。 

https://en.gaonconnection.com/english/bundelkhand-jhansi-uttar-pradesh-bundeli-rai-dance-folk-culture-tradition-dubai-narendra-modi-51023/ 

 

旅の一座 

さて、話は200年遡る。ハーフナーは、しばしば、旅の一座について言及する。元々は村の有力者などが一座を招いて村人と共に楽しんだのだろうが、西洋人が入ってくるとその宿舎などにやってきて公演依頼をする。あちこちで踊り子一座の施主となって楽しんでいたようだ。 

ハーフナーは1780年頃、マドラスの南20キロのサドラスの商館に勤めていた。イギリス人によって商館は奪われ、サドラスは荒廃したが、それを振り返ってデーヴァダーシーの学校、養成所の模様を記している。それ以外に女子の学校というのはありえない。 

10人ちょっとの大きな子供たちが大きな声で暗唱していたり、インド式の二桁九九を大きな声で唱えたり、声を出しながら砂の上に字を書いたりしていた。 

デーヴァダーシーについての注は、「寺院の内外での儀式に際し、神像の前で踊り歌う若い女性のことで、彼女らのいない寺院はなかった。何人かの娘を持つ貧乏人は一般に末娘を寺院に仕えさせることに決められ、結婚適齢期になるまで、娘を寺院に捧げなければならなかった」とある。 

かつては、神像を馬車に乗せ、行列を作って路上を牽いた。神像はたいまつや空に向かって打ち上げられた火矢によって照らされる。魅力的なデーヴァダーシーたちは像の前で素早い跳躍、技巧的で巧みな旋回や回転で踊った。バラモンたちは神々を讃える歌を大きな声で歌い、大勢の見物人は恭しく大地にひれ伏す。 

ハーフナーが同行のファウ船長とマスリパトナムからマドラスを目指す途中の宿泊所に着いた。彼らはいつもパンチを飲む。フルーツ・ポンチの語源であり、パンチは五つを意味する。ここに示されているのはアラック(蒸留酒)にレモンと砂糖を加えた簡単なカクテルである。宿泊所には商人、農夫、職人、セポイらが泊まりに来る。今でいうツーリスト・バンガローだ。そこに、旅芸人の一座がやって来た。 

踊り手は7人。辺りはもう暗くなっていたが、池で沐浴し衣装に着替え、第一舞踊手がハーフナーとファウの所にやって来て挨拶をし、花束を贈った。そして、踊る許可を求めた。回りのすべての客が二人の方を向いて期待している。夕食の後に呼ぶことにした。「マハーラージャ!」とか声が掛かる。 

噂はすぐに伝わり、眠りについた人も起き上がり、旅人のみならず村人まで集まってきた。宿泊所のレンガにはあちこち三角形のくぼみがあって、そこにラクシュミー神の象られた燭台が置かれる。 

ファウと共にマットレスを敷いて、ボウルにパンチを入れ、シガーをふかして待ち構える。ヴェールを被った踊り子たちに続いて楽師がやってくる。ハーフナーがいいよと合図をすると楽器が奏でられ、ヴェールを落とし美しく化粧された7人が立ち現れる。一列に並び、前に近づき一礼し、右手を胸に当てる。 

激しく音楽が高鳴る。楽器はシンバル、太鼓、一弦琴、ラッパ、シャーナイ、バグパイプ(マシャックとかトゥティと呼ばれる)。動きは緩急自在で身振り手振りが調和し、魅惑的な肢体を官能的にかがめる。慎み深さを損なうことなく、技巧たっぷりに魅力を伝える。 

彼女らはグジャラートのスーラトが生まれ故郷だという。これは驚きである。小沢昭一は放浪芸という言葉を使うが、当てもなく放浪しているわけではなく、基本的にはなじみの顧客の所を巡回して訪れるサーキット芸である。 

まずは言葉の問題がある。ヒンディー・ウルドゥー語圏からドラヴィダ語圏にやって来て言葉が通じるか。ハーフナーたちは駕籠に乗ったが、基本的には歩いて行かなければならない。それとも、スーラト生まれで買われて?南インドで巡回しているのか。あるいはスーラトが素晴らしい踊り子を擁する所なので詐称しているのか。 

彼女らが1時間ほど踊るとハンカチを与えて終わりにする。 

「きれいなお嬢様方有り難う、素晴らしい踊りに満足しました。ニンフのランバー女神もあなたがたのようにうまくは踊れないでしょう」と型どおりに賛辞を述べる。 

そして、回りに座って歌を歌ってくれるよう所望した。真夜中に至り、第一舞踊手にキンマの葉と実を添えて謝礼を渡す。彼女らは口々に気前の良さを褒めてお礼をいう。 

注釈して、ここで述べたような場合は11ルピー。もし、宴会に呼ばれ一晩中歌い踊るときにはかなりの謝礼となり、布や衣服が付けられる。お金はキンマの葉と実を一杯に盛った贈り物の台に載せて第一舞踊手に渡される。 

ハーフナーは宿泊所があまりに混み合っていたので、静かな駕籠の中入って休んだ。眠りに着こうとしたとき、踊り子たちの世話係であるダヤがやって来て謝辞を述べ、黄色いシャツとジャスミンの花輪を持ってきていう。 

「彼女があなたのために調えたキンマを受け取ってください。彼女はあなたの寝台の足下に座って指示を待っています」 

注釈して、「旅芸人であれ、町や村に住む一座や踊り子団であれ、ダヤと呼ばれる老女がいる。彼女は侍女の役をし、また踊り子の売春を斡旋する係でもある」自由恋愛の形を取った売春という事だろうか。この場は辞退した。 

ハーフナーは一座の15歳くらいの少女、マミアに惹かれ、気に入って注視していた。彼女の方もそれに気づいていた。そこで、さらに親交を深めたいとのだと察してダヤがやって来たのだった。なのに、愛のキンマを突っ返してしまった。失礼な行為だった。 

翌朝、一座はマドラスに向かうとのことで牛に荷駄を積んで出立するところだった。踊り子たちは一人一人丁寧に挨拶をして別れを告げ、ハーフナーたちの幸運を祈ったが、マミアはすねて来なかった。それでよけい慕う気になってしまった。 

明るい陽光のもとで見ると、あっさりした木綿の衣服をほっそりと形のいい肢体にまとった彼女は美しく、一層魅力的だった。マドラスでの再会を期待した。 

ハーフナー一行はマドラスに向かう道中、宿泊所が満員だったので野営することにした。夕飯のために米、魚の干物、卵、果物などを買い求め、火打金で火を付ける。ハーフナーが落ち葉をかき集めているとき中指に痛みを感じた。約20センチの毒蛇がぶら下がって指先をくわえていたのだ。焼いて消毒した。 

ナバブペーント(Nawabpet?特定できないがアーンドラとタミルの間辺り)の寺院に赴いたところ、沐浴場に少女たちがいてマミアが声を上げていたので駈け寄った。 

一行は宿泊所を訪ねてくれる約束をし夕刻にやって来た。ダヤとマミアを敷物に座らせ、贈り物の盆にキンマの葉と実、その他を載せて差し出し、過日の無礼を謝った。それには及ばないといって身の上話を始める。 

彼女はアーユルヴェーダの医師ヴァイディヤの家系に生まれたが、母を早く亡くし、父は彼女が8歳にもならないうちに父の友人と幼児婚をさせた。しかし、すぐに亡くなって未亡人となり、父も4年後に亡くなり遠い親戚に引き取られた。 

ひどい待遇だったので逃げ出して道に迷い、空腹で倒れ伏しているところ一座に拾われたのだった。 

マミアは父から教わった処方によりバザールで必要な物を集めて膏薬を作り傷の手当てをしてくれた。 

ハーフナーはマドラスに着いたら、旅芸人の座頭の女房からマミアを引き取るつもりだった。マミアは女奴隷ではなく、ダヤの養女でもなく、彼女が望むなら一座から離れることが出来た。 

ハーフナーはマドラスに到着すると高名な軍医で外科医のベイッセの治療を受けることが出来た。1786年の事である。ベイッセはハーフナーの親戚であった事が判明し、そこに滞在して、マミアやダヤとも交流する事が出来た。しかし、マミアは腫瘍のためかやせ細り死亡してしまい、恋物語は終わる。 

ハーフナーの書は昔のインドの様々な習俗について挿絵と共に描くので、18世紀のインドに興味のある方は、是非、図書館で探して読んでほしい。地名等を特定して年譜を作り、きちんとした注を付けた英訳があったらと思うのだが。もちろん邦訳もほしいが、当時のインド東海岸の事情に精通してオランダ語に堪能な人というのは日本にいない。 

https://www.facebook.com/reel/2102415463919497 

スリランカの祭りの行列で踊る踊り子。いかにもプロっぽい踊りだが、かつてのデーヴァダーシーもこうだったろうと思わせる。舞台芸術化したバラタナーティヤムでは、デーヴァダーシーを思わせるようなはしたない?仕草は避け、また、寺院前の行進、練って歩く踊りもなくしてしまった。 

 
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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2026年1月19日月曜日

般若心経の迷い道 その三

ない、ない、ないの般若経

沙門は世捨て人なので、余り物を頂戴し、自活しない他律的な生活を営む。もともとは岩山の洞窟や森の中の死体捨て場に住んで瞑想した。キプリングの描いたジャングルブックのように動物が友達だ。

基本は三衣一鉢といって、身を守る僧衣と食を乞う鉢だけで遊行するのが沙門、修行者だった。おこぼれ、拾いもので生きる。雨期の間だけ一所にとどまることが許された。

三衣は褐色カシャーヤに染められたので音訳して袈裟という。死体からはぎ取った布や、ゴミためから拾った布を継ぎ合わせ不鮮明な色に染め直した。

釈迦教団は近づきがたい苦行者ではなく、お行儀が良いので人気があり、寄進する有力者が増えた。すると教団に果樹園のようなすごしやすい所が寄進されて庵を結ぶ。それをアーラニャという。落ちた実を食べ、殺生につながる耕作や煮炊きは自分ではしない。

釈尊の時代から百年、二百年も経つと、吹けば飛ぶような草葺きの庵が堅牢な建物に変わる。金銀を受け取ることは禁止されていたが、通貨相当の布の寄進を受けていた。

新品のぴかぴかではなくて、わざと裁断して草木染めや泥染めで濁った色にし、パッチワークでベッドシーツより大きいくらいの一枚布にしてサリーのように巻き付けた。雑巾にくるまっていたわけだ。

前2世紀頃にギリシア人のミリンダ王と対話したナーガセーナ長老は、おそらくぼろ雑巾を着ていたわけではなく、それなりに綺麗な袈裟、サンガーティを纏っていたと思われる。ギリシア・ローマでも一枚布の外衣を着てドレープを綺麗に見せる。

マウリア朝アショーカ王(在位前268年頃?前232年頃)はカリンガ国を征服するときに大虐殺をしたことを悔いて仏教を保護した。この頃になると僧院も立派になったことだろう。仏教サンガの住居をサンガ・アーラーマ、すなわち僧伽藍と呼びそれが僧院に発展する。

アーラーマはお休み処で精舎と訳されるが、その遺構が確認されるのは前二世紀頃からなので、初期にはこんもりとした林の中にそれぞれが自分の住み処を作っただけなのだろう。木の実の取り合いにならないよう、お互い邪魔にならないように点在して住んだと思われる。

クシャーナ朝の1、2世紀には落ち着く場所、伽藍が整備され、修行と学問に励むことが出来るようになった。僧院が豊かになると、バラモンが出家して移り住む。学術、文芸にいそしむことが出来て、大乗経典が制作されるようになる。

戒定慧というが、僧院で身を律して禅定に入り、学問を学ぶ。無所有というのも執着心を捨てるためで、厳しいジャイナ教徒は素裸が悟りへの道とする。

これが自分のものなどと考えず、乞食しつつ遊行して自我を捨てる。自我という鎧を脱ぎ捨て、瞑想により全宇宙との一体感を感じる。空を観じて我と他者、世界を隔てる壁がなくなり至福を得る。そして、あれもない、これもない、ないもないと悟るのが般若経の教えだ。

それでは自我とは何か。犬は家族の中で、自分は主人の次に偉いとか序列を考えているかもしれない。しかし、家族が自分をどう捉えているかは考えない。一歳の赤子も家族の役割は認識するが、家族が自分をどう思っているかなどとは考えもよらない。

三、四歳になるとだんだん関係性が分かってきて、それが自我の目覚めである。他律的で食べさせてもらっている赤ん坊は悟りに近いのか。寝姿を見ていると平和そのもので、これがシャーンティ、涅槃寂静かと思う。

 

梶山雄一先生の般若心経

私はインド哲学史専攻だったので服部正明先生門下ということになる。梶山先生の授業は教養で受けただけで仏教学の購読は受けなかった。『ヨーガ・スートラ』を読むので精一杯、余裕はなかった。

私が大学にいたのは半世紀前。インド哲学史専攻の隣に仏教学と梵語梵文学の合わせて三講座。大変賑やかで同級生は他に真言坊主が印哲に二人、真宗坊主が仏教に二人。一学年上が大豊作で、もう記憶も定かでないが、印哲二人、梵文一人に仏教学が五人。

ところが京大文学部の会報によると、何年か前、印哲と梵文が一緒になってインド古典学、そして仏教学という体制になり、今年度は学部の学生がインド古典学に一人、修士、博士課程に二人ずつ、仏教はというと学部生ゼロ、博士課程は三人のうち一人がハンブルグ大学に留学中、修士には浙江大学からの留学生含めて二人。目を疑い読み直しました。よく、お家取りつぶしにならないものだと思いますが、それは先輩や後輩が世界的業績を上げているのが評価されての事でしょう。以下は敬称略とさせていただく。

手元には写経の本も含めて何十冊も般若心経の本があるが、梶山による心経本というのはない。おそらくあちこちから依頼されていたと思うが先生は急逝された。

平成12年夏に心臓手術をされた。16年、春の叙勲の候補となり、5月の伝達式と拝謁式には出席のつもりでいた。ところが、3月29日に突然亡くなられた。79歳で、もう少し頑張れたかと思うが、人の命は分からない。胃癌だった。

昭和28年4月から31年3月まで、ナーランダー・パーリ研究所に留学されていた。私の生まれた年に渡印したことになる。その後、ロンドン大学、ウィーン大学にも留学されている。『八千頌般若経』の翻訳があるので、般若経、空の専門家と思われているが、幅は広い。

おそらく、仏教学関係者は読んでいない『墨』第83号「般若心経 写経の鑑賞と実践」90年3/4月号から引用させていただく。私が拙い解説を書くより、遙かに有益と思うからである。前回の終わりの方で触れた述語について参照していただきたい。読みやすいように段落は変えてある。

 

十二処、十八界、十二因縁

心経は「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」といって十二処の範疇に実体はないと説き、「無眼界乃至無意識界」といって十八界を否定する。

十二処は眼・耳・鼻・舌・身(肉体)・意(心)という六種の認識器官とその対象である色(いろかたち)、声(音声)、香・味・触(触れられるもの)を挙げて、十二領域を数えたものである。

処とは領域・入口の意味である。十八界の界は種類の意味で、十二処に眼識(見る心)、耳識(聞く心)、鼻識(嗅ぐ心)、舌識(味わう心)、身識(触れる心)、意識(考える心)の六つを加えて十八界という。

十二処、十八界は広略の差はあるが、いずれもすべてのものを認識の世界として理解する範疇である。五蘊の場合と同じように、心経はそれらの範疇を実体とする小乗仏教の思想を批判して、十二処も十八界も無いというのである。

「無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽」というのは十二縁起の小乗的解釈の批判である。小乗仏教では無明(根本的な無知)・行(過去世の行為)・識(現在世に生まれた意識)・名色(心と身体)・六処(六種の認識器官)・触(認識器官と対象との接触)・受(感受)・愛(愛着)・取(執着して自分のものとして取り込むこと)・有(現在世の行為)・生(未来世に生まれること)・老死(未来世における苦の総称)の十二の連鎖を数えて、その系列を三世にわたる輪廻転生の過程と解釈した。

しかしそのような縁起説を釈尊が説いたとは思えない。そこで心経は十二縁起の項目すべてに実体は無い、というのである。

釈尊の説いた縁起説の一例は、苦・集(苦の原因)、滅(苦の消滅)、道(苦の消滅にいたる道)という四諦(四つの真理)で示される。苦には人の基本的無知と愛欲という原因があり、その苦の消滅である絶対の安らぎ(滅)は八正道の実践によって得られる(道)というものである。

しかしその四つの真理も実体的に執着されたときには否定されねばならない。だから心経は「無苦集滅道」というのである。

実在論的な思考は、ひとが事物を認識し、執着することに始まる。その認識・執着を「得」といい、事物の実体を認識しないことを「無所得」という。

事物の実体を認識しないことによって、いいかえれば、空の知恵によって菩薩はすべての障礙・恐怖・顛倒夢想を離れる。般若波羅蜜多つまり空の知恵によって彼は無上にして完全なさとり(阿耨多羅三菩提)を得る。

 

般若心経の位置付け

般若経は大乗経典の始まりで、紀元前後に比較的短い「小本般若経」が成立し、増広された「大品般若経」など長い経典が、300年頃までに次々と成立した。翻訳された経典は何十もある。

その後、『金剛般若経』など比較的短い経典が300年から600年頃までに現れてくる。その中でも般若心経は最も短く、おそらく4世紀前半には成立していたと梶山は想定する。伝統的に般若心経は般若経の精髄(フリダヤ=心臓)を伝えると考えられるので心経という。

梶山の論考は書道雑誌の般若心経写経特集にあるので、サンスクリットのテキストについては述べていない。また、釈尊の教説を考察したアビダルマを批判して、釈尊の空の知恵によって悟りを得ようという般若経の位置を確認する。般若心経によるお説教や人生訓には興味ないので、出版社から頼まれても、あえて心経本をお書きにならなかったのかもしれない。

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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