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2026年7月30日木曜日

般若心経の迷い道 その八

伝え、伝えて般若心経 

三蔵法師玄奘の生年がはっきり分からないが、600年説、602年説がある。没年は664年である。般若心経の訳出は649年。大般若経600巻の訳出は663年に終えたので、その功績を讃え太宗皇帝から「大唐聖教序」を賜る。褚遂良が書いて大慈恩寺に立てられた碑は、初唐の楷書の名品と賞賛される。 

 これに対して、弘福寺の僧懐仁は王羲之の字を集字してその全文を書くことを企て、さらにそこに集字般若心経を加えた。この碑は玄奘没後8年にして完成し、これが玄奘訳般若波羅蜜多心経の最も古く、また確かなテキストである。流布本とは訳字の使い方などが異なる。 

なお、般若経典群を集大成した大般若経600巻の中に般若心経、通称多心経は納められていない。これはまじないの文句だから別枠と考えたのか。  

第2回の遣唐使船に乗った学問僧の道昭は玄奘に師事し、660年に帰国したので、おそらく玄奘訳般若心経を持ち帰ったと思われる。 

吉備真備、阿倍仲麻呂と共に第8回遣唐使船に乗って、717年に渡唐した僧の玄昉は智昇の開元釈教録(720年)に基づく一切経5000巻を真備と共に携えて、天平7(735)年に帰国した。真備も暦など貴重文物を伝え、宮廷の中の中心人物となった。 

光明皇后がこれを底本に五月一日経と呼ばれる一切経の写経を推進した。それ以前も度重なる飢饉や大地震、疫病の流行により、また、男子誕生を願って大般若経の写経や転読が行われている。 

 

隅寺心経 

皇后は父である藤原不比等の広大な屋敷跡に総国分尼寺、「法華滅罪の寺」として法華寺を創建し、その隅に海龍王寺を設けて写経所とした。この素敵な名は、玄昉が帰国の際大嵐に遭い、航海の安全を祈って海龍王経を読んだことに由来する。皇后はここを玄昉に与え、角にあることから隅寺といわれた。天平写経の代表として知られ隅寺心経もここで書かれた。古くは弘法大師が書いたと信仰されていた。上手な字はすべて弘法大師だと。 

先日、十一面観音の御開帳があったので、初めて法華寺と海龍王寺を訪ねた。法華寺の十一面観音は、光明皇后の姿を写しインドの仏師が刻んだと伝えられる。海龍王寺では住職自らが門の前の詰め所で受付をしていたので驚いた。他に誰もいないワンオペだ。檀家がないので名刹とはいえ経営は大変。寺院のメンテナンスは一般住宅の何倍も経費が掛かるので、本堂修復のため寄付を募っている。 

https://readyfor.jp/projects/114105 

 玄昉は玄宗皇帝から紫衣を賜るなど評価が高く、おそらく密教や仏教医学も学んできたことだろう。疫病退散の祈祷をし、聖武天皇の母宮子の病気を回復させるなどの功績があったが、このことにより関係が疑われ太宰府の観世音寺に追いやられる。政争に敗れて汚名を着せられたというのが真相だろう。 

一切経を携えて図書寮、今でいえば国会図書館にもたらした。その功績は聖徳太子より大きいだろう。名誉は回復されないといけない。もたらされた経典、新訳の『金光明最勝王経』は国分寺の塔に納められ、国家建設の基となった。 

隅寺心経が日本で行われている般若心経写経の標準とされた。玄奘訳には「遠離顚倒」とだけあるのに、「一切」を加えて「遠離一切顚倒」とする。また、経題に「摩訶」を付ける。真言宗の場合はさらに「仏説」を付け加えて「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」をタイトルとする。最後に功徳文を書き加える。健康や長寿を祈ったり、親の回忌を追善供養したりする。 

 

写経生の暮らし 

写経生は下級官僚、帰化人の子孫が多い。写経生となるのには試験があって選別される。植村和堂『日本の写経』(理工学社、1981年)によると、東大寺文書の中にその試字の答案が残るが、不採用になった答案でもかなりのものだそうだ。美しさのみならず、スピードと正確さの両方が必要とされる。 

浄衣や紙、墨、筆が支給される。礼仏師が唱える経を聞き、仏前に香を焚き写経に従事する。 

日の長さにより勤務時間は異なるが、およそ、1日に7紙、17字詰めで25行として1日に3000字である。般若心経に換算して10枚ちょっとである。勤務時間としては長くて10時間程度か。 

一枚の書写料は4文5文、腕の良い写経生が金字銀字で書写すると7文から10文。誤字脱字があると罰金だ。金銭ではなく40枚の書写に対して調布一反ということもあった。料紙も貴重品なので厳しく管理され、筆は兔毛筆、1本で150枚から200枚、あるいはそれ以上というから随分長持ちである。写経所には筆工もいてすぐに修理できる。 

正倉院文書には、浄衣が汚れたので新しく変えて欲しいとか、黒飯ではなく中品の精食を支給して欲しいとか、いつも机に向かって書写しているから胸が痛み、足がしびれる、3日に一度は酒を支給して欲しいとか、ほほえましい陳情書が残っている。 

役所から借金した証文も残っているが、これがなかなかの高利らしい。経生のほか校正専門係、料紙に罫線を引く界師、筆工、洗濯係、食事係もいた。 

写経所は官立のほか、大寺院にもあった。木版印刷が出来るまでは、ひたすら人間書写機として手で書き写した。印刷術というのもまた、寺院中心に広まった。 

 

梵文般若心経 

サンスクリット語の般若心経は法隆寺に伝えられたものが世界で最も古い。インドの気候風土では多羅葉パームリーフは200年程度しか持たないので古いテキストはない。その点、紙と墨は2000年持つのだから凄い発明である。 

法隆寺本「梵本心経並びに尊勝陀羅尼」は重要文化財である。貝葉本といい伝えられたが、実際は木の皮のようである。書き手はインド人ではなく、音韻の間違いから推測して唐僧の手になるのではないかと思われる。 

これを写して校訂したのが江戸時代中期の霊雲寺の浄厳で、元禄7(1694)年に書写された。こちらも重要文化財に指定されているが、私はこれは手控えだと思っている。何カ所かの書き損じに、書き忘れの語句があり、小さく書き足している。清書は何本も書いて、将軍綱吉や柳沢吉保、皇室に献上したと思われる。 

浄厳は伽藍修復のため法隆寺出開帳に協力し、綱吉と生母桂昌院から法隆寺への寄進を引き出した。 

校訂しないで、コピー機のようにそっくり法隆寺本を模写したのが天台僧宗淵で、これは『阿叉羅帖』全五巻に納められている。唐僧のもたらした梵字とか、今では失われた寺院秘蔵の高僧の梵書を写した貴重な版本であるが、マニアックにも虫食いとか汚れをそのまま再現した。 

湯島の霊雲寺からほど近い上野寛永寺の邦教は、おそらく浄厳の弟子から教わったと思われるが、世界で初めて、延享元(1744)年、梵文般若心経の校訂出版をした。これは澄仁本と呼ばれる最澄や円仁が持ち帰った梵文般若心経の系統である。慈雲は法隆寺本に基づいて、宝暦12(1762)年に阿弥陀経、普賢行願讃と共に心経を校訂出版している。 

明治になって南条文雄がイギリスに留学し、石川舜台、岩倉具視等がマックス・ミュラーのもとに般若心経梵本を届けた。ミュラーは漢文の読める南条と共同で般若心経を校訂し、オックスフォード叢書アーリアン・シリーズ第1巻第3に浄厳、邦教、慈雲の3本をデーヴァナーガリ文字にして掲載している。1884年のことなので日本の方が100年以上早い。 

 

インドから中国へ伝えたのは誰だ 

日本へは遣隋使、遣唐使の一行が般若心経を携えてきたと思われる。今でも、本屋のレジに小さな心経の経本があるように、お守りのような意味が大きかったのではないか。誰も梵文が読めないので、法隆寺本には漢字で多心経と書き添えてある。それは梵字と同筆と思われる。 

玄奘三蔵がインドへ向かう旅の途中で病僧から教えを受けたとされるが、一体それは、漢文なのか梵文なのか。はたまた、それは経という体裁をなしているものなのか、あるいは真言のみなのか。 

敦煌で発見された不空訳とされる『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』(大正蔵巻8、No.256)は、サンスクリット語を漢字で表記したものであり、その序分に由来が書かれている。天竺に向かう玄奘が益州空恵寺にて、病僧から口授された。ナーランダ寺に着くとその僧と再会し、我は観音菩薩なりと告げて空中に消えたという物語が記されている。 

玄奘三蔵ほどの大秀才ならば、一度聞いて覚えることは不可能ではないが、梵文だとすると容易ではない。外国語の歌を聴いて一度で覚えられるかということだ。 

漢文だとすると、それは一体誰が訳したものを唱えたのかということになる。羅什訳があったとされるが、初めて記録に現れるのが開元釈教録で玄奘訳より70年も後のこと。いつも唱えながら行きなさい、いざという時にこれを唱えなさいというのなら、それは経文ではなくて真言だろう。 

独立した真言なら、伝記や伝説に登場する僧のみならず、何人もの僧侶が旅のまじないとして真言を覚えて伝えたに違いない。実際、ギャテイギャテイの句は般若心経本文とは別に、陀羅尼集経にも収録されている。 

梵文にしろ漢文にしろ般若経から字句を取り出して簡略版、真髄版を作り、それに真言を付け加えるという試みは、何人かによって幾度か試みられ、そして改訂されてきたに違いない。いわゆるカバー・ヴァージョンを何人かが作った。小本では舞台設定が明確ではないので、大本ではそこを補う。 

その出来のいいものが残り、それこそが般若心経である。般若心経は、もともと、一つではなく、真言のみが共通ということなのかもしれない。 

梵文般若心経の成立は密教化が始まった4世紀頃と考えられる。3世紀前半の支謙訳『摩訶般若波羅蜜呪経』は開元釈教録に名前だけ残り、内容は不明だ。あったとしたら本文に相当するようなものはなくて、呪に前書き、効能書きを付けたようなものだろうか。 

鳩摩羅什訳についても同様に疑問があるが、その用語は羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』(大正蔵巻8、No.223)習応品(403年訳出)に近い。義浄もわしもやってみるかと義浄版般若心経を作ったかもしれない。弘法大師は『般若心経秘鍵』で義浄版について言及するが、どこにも残っていない。 

 

どれが本当 

現在、広く使われている梵文テキストは中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、1960年)によっているが、その元になったのは前述のマックス・ミュラー本であり、明治40年には京大教授で真言宗僧侶の榊亮三郎が『解説梵語学』で校訂している。中村版般若心経もまた、決定版ではなく、作業仮説だ。 

大きな違いは法隆寺本に基づくviharati citta aavaranaの所で、マックス・ミュラーの解釈では、人は意識の中に包まれて住するとあって不明瞭だ。アーバラナとは障碍のことであり、榊と中村は心無圭礙という玄奘訳に合わせacitta aavaranaと否定字のアを付けて心を覆うもの(心配、憂い)がなく住していると解釈する。 

ビハール州は僧院を意味するビハーラから来ていると思うが、動詞vi√hrは住する、生活するという意味があるが、取り去るという意味もある。大宮孝潤は法隆寺のテキストそのままに読んで、心の凝滞を徹底的に除去すると理解している。(一島正真・河野亮仙編『梵字悉曇教本』USS出版、2016年) 

玄奘訳は法隆寺本の訳ではなく、別のテキストに基づいていて、それは、勿論、残っていない。そこで、いくつかの般若心経の小本と大本に基づき、般若経にある類似語句から類推し、何人かが再構成してサンスクリット語の校訂本を作った。その試みは、まだ、続けられている。 

玄奘訳(大正蔵巻8、No.251)もまた、玄奘の解釈による作業仮説で、どの梵文テキストにもない「度一切苦厄」という語句が挿入されている。経文を調えるための潤色である。厄除け、救済の経典、まじないであることが強調されている。そして、玄奘本にはない「一切」の語が流布本では「遠離顚倒」に付け加えられて、「遠離一切顚倒」となっている。 

鳩摩羅什訳とされる『摩訶般若波羅蜜大呪経』(大正蔵巻8、No.250)では「離一切顚倒」と訳され、また、「度一切苦厄」の句も挿入されていて両者は近い。玄奘三蔵の使う訳語「観自在菩薩]などを鳩摩羅什三蔵の訳語である「観世音菩薩」などに変えただけ、羅什の死後、後世に作った経とも考えられている。 

般若心経は一つではなく、成長変化し続けてきた。謎だらけ故に「わたしの般若心経」を皆が考えつく。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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2026年6月17日水曜日

般若心経の迷い道 その七

スマナサーラとダライ・ラマの般若心経 

スマナサーラはスリランカから来た上座部の長老で、若い時、駒澤大学に留学して道元について研究し、1994年に日本テーラワーダ仏教協会を設立した。先日、初めて協会のウェーサーカ祭に参加したが、多数のボランティアが協力し、日暮里サニーホールが満席なので驚いた。 

有志がお布施するため、昼食のお弁当付きで会費は無料である。再生成ったサンガ新社が出店をしているほか、それに負けないような立派な施本を無料で配布している。263ページもある『日常読誦経典パーリ語ノート』は、テキストと訳と注が付いているのでとても有り難い。そんな組織を作り上げたことに、まず、敬意を表する。 

師は『般若心経は間違い?』(宝島新書、2007年)という本を出版した。上座仏教からすれば、お釈迦様の金口説法が経典なので、大乗経典は単なる物語だ。彼らの信奉する慈経を宣伝したいためか、般若心経をケチョンケチョンにけなす。インド流の論争術か。 

般若心経にはこれが真実というメッセージもなく、このようにしなさいという般若波羅蜜の実践論もなく、向上への躾もない。作品として矛盾だらけで前後がつながっていないと酷評する。 

主な相違は3点。 

まず、釈迦生存時にはいなかった観音菩薩の存在を認めないし、菩薩が阿羅漢の舎利弗に説教するのはありえないとする。確かに、般若心経小本には、観音菩薩が発話したとはどこにも書いていない。一般には大本の解釈から観音菩薩の言と理解される。 

玄侑宗久との共著『仏弟子の世間話』(サンガ、2007年)によると、「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色云々」という経文は、「観音さんは頭の中で、お釈迦様がサーリプッタ尊者におっしゃった空の教えを思い出した」という引用だとする。 

次に、空即是色はいいとして、色即是空はありえない、間違っているとする。「肉体は空である」は正しいが「空は肉体である」は間違い。「リンゴは果物」であるが「果物はリンゴである」は成り立たない。 

この点が古来問題で、誰も彼も解釈が異なる。これは座禅の公案のようなもので、なんだこりゃという問いかけをして、はっと悟った人がいるのかもしれない。そんなことにとらわれてはいけないよと。あるいは、「私だけが真実を発見した」という謎解きの面白さ故に支持されているのか。空はダークマターだという物理学者もいる。 

最後に真言。上座部でまじないは認めないので、これは原始人の宗教だという。しかし、宗教を信じない人でも困った時、危機に陥ると、おかーーさーん助けてーと叫ぶので、困った時の神頼み、救いの文句というのは誰でも欲しいものだ。 

そのお母さんが仏母般若波羅蜜多菩薩ということなのだが。 

 

細菌学者の般若心経 

吉田眞一『細菌学者の般若心経と相即の知』(花乱社、2023年)という面白い本がある。「哲学する医師を育てる」という産業医科大学微生物学の教授を務めた後、九州大学に転じた方だ。西田哲学を学生時代から長く学んでいる。「絶対矛盾的自己同一」といわれるとびびってしまうが。 

わたしも京都大学文学部哲学科出身なので、学生時代は西田幾多郎『善の研究』とか田邊元、西谷啓治、久松真一、上田閑照とか多少かじったが、硬くて消化できなかった。部活では久松真一創設の心茶会に入部し、岐阜の久松邸にお邪魔して短冊を頂戴したが、どこかへいってしまった。仙人のような方だった。 

吉田はいう。「花が存在する」の主語述語を逆にいってみよう。「存在が花している」!? 

妙に哲学的に聞こえるではないか。一つの存在がある時、花として表象されて目の前に映る。個々の存在があるのではなく、一続きの縫い目のない世界という意味での存在だ。 

すると、自己と世界、主観と客観が溶けてなくなり主客が合一する。自己が空ぜられ、それが色即是空、空即是色だという。 

科学では事物を切り分けていくけれど、ものごとには「異なっているけれど分けられない、一つであるけれど分けられない」ということがある。 

光は粒子の性質と波の性質という矛盾する二つの性質を持つ。それを吉田は矛盾的相即的関係と呼ぶ。呼吸は吐く息と吸う息とからなっていて、その方向も役割も違うが一つで分けられない。心臓も心室が収縮する時、心房は弛緩し、心室が弛緩する時は心房が収縮するというように二つの働きが一体となって心臓として機能する。 

井筒俊彦の『イスラーム哲学の原像』(岩波新書、1980年)では、空と色は同じということを、イブン・アラビーの神秘主義的哲学の「存在一性論」によって説明する。それは、 

「観想によって開けてくる意識の形而上学的次元において、存在を窮極的一者として捉えた上で経験的世界のあらゆる存在者を一者の自己限定として確立する立場」 

「この窮極的一者を存在と呼ぶ」 

「実在の絶対的無分節が自己分節して、現象界が成立する」 

「コトバの枠をはずすと、無分節の一つの世界が現れる。境目もない、名もなかったら、一つの世界。あるがままに見るということは、名前をつけずに見る、名前を呼ばずに見るということ」 

犬や猫の見る世界、あるいは眼のないミミズの捉える世界だ。ミミズにあなたは誰ですかと聞いてみよう。生後間もない赤ちゃんは触覚や匂いから世界を認識し、やがて目や耳の機能と連携して事物を切り分けて世界像を形成する。自分の名前を認識するようになるのは生後何ヶ月だろうか。猫と犬の違いが分かるのは何歳くらいからだろうか。 

この根本の一者を老子は「道」といい、名付けようがないので「無明」とも呼んだ。 

これは吉田や井筒が言っていることではないが、中国に話を移すと太極図というのは陰と陽からなり、陰と陽は対立せず一つであって補い合い、絶えず流動し、混じり合って循環している。 

 

ダライ・ラマの般若心経 

チベットに入った般若心経は大本系である。ある時、釈尊が霊鷲山において大勢の比丘たちに囲まれてという序分があり、教えを広めましょう、大きな功徳があります云々と結びの言葉、流通分があるという経典の型を踏襲している。小本の足りないところを補っているので、後から付け足したと思われる。 

ダライ・ラマは熱心に「空」を説く。般若心経は読むだけではだめだ、写経だけではいけない、空を理解しろと言い続ける。とはいえ、東日本大震災に際して、インド中のチベット寺院に般若心経の読誦を指示しているので、除災招福の機能を否定しているわけではない。 

空とは縁起のことで何も存在しないといっているわけではない。そのもの自体の独立した実体はなく、他に依存して成立している現象を空と呼ぶ。 

すべてのものは、その一つ一つを取り出して独立した客観的なものとして捉えることはできない、リアリティーは存在しないということで、量子論に通じるという。 

ダライ・ラマの本として宮坂宥洪訳『ダライ・ラマ 般若心経入門』(春秋社、2004年)は、専門家によるとてもしっかりした本だが、その分硬い。茂木健一郎との対談も載った『空の智慧、科学のこころ』(集英社新書、2011年)は、新書版ということもあり読みやすい。 

チベット語訳の経典はインド由来の正当性を示すため、チベット語の経題にサンスクリット語も併記され、それは「バガヴァティー・プラジュニャーパーラミター・フリダヤ」女尊バガヴァティーたる般若波羅蜜多、すなわち完成された智慧の心髄と訳される。世尊はバガヴァーンで、福持つもの、その女性形だ。漢訳では聖仏母ともいい、仏の母とされる。 

フリダヤはここでは般若経の心髄と解釈されている。インド・アーリヤ語族の言葉と違って日本語と同じようにチベット語の名詞にはジェンダーの区別がない。プラジュニャーパーラミターという女性形が女神を示すという意識は弱いようだ。 

全体の構図として、世尊が「深遠な悟り」という深い瞑想に入り、瞑想の力によって観音菩薩と舎利弗の対話をもたらしたと考えられている。菩薩は智慧による悟りの獲得に向けて精進する。 

最後の「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スワーハー」については、宮坂宥洪の訳によると「行け、行け。越えて行け、悟りの土台に留まれ」である。マリア・リンチェンの訳によると「行け、行け、彼岸に行け、彼岸に正しく行け、悟りを成就せよ」 

 

般若心経によって悟りに至る道 

般若心経には悟りに至る修道論が込められている。京都精華大学の招きによって行われた講演も収録した来日講演集である、マリア・リンチェン訳『ダライ・ラマ智慧と慈悲』(春秋社、2000年)によると、ガテー以下の五句を、資糧道、加行道、見道、修道、無学道という五つの修行の道に当てはめる、チベット独自の解釈が示される。 

煩悩を滅するためには五つの段階を経て達成できるとする。 

1.資糧道、修行に必要な資糧を集める段階 

2.加行道、見道には入るための準備の段階 

3.見道、直接体験によって真理を見る段階 

4.修道、直接体験で得た真理について瞑想し、心を馴染ませていく段階 

5.無学道、これ以上学ぶことのない段階 

冒頭のスマナサーラのいう「般若波羅蜜多による実践の道が示されていない」という解釈とは異なる。本文に込められているわけではなく、口伝により師から授かる教えということか、苦しみの止滅に至る実践道に関する真理、すなわち道諦が示されている。とはいえ、般若の悟りに至るのは大変そう。 

 

日本における般若経の信仰 

天変地異や飢饉が起きた時、あるいは疫病が蔓延した時、嵯峨天皇等自ら般若心経を書写して除災を祈った。 

また、玄奘三蔵訳大般若経六百巻は、さすがに読むのも大変なので、転読といってパラパラとめくって般若の風で厄を祓うという法会が、今日でも盛んに行われている。 

https://www.youtube.com/watch?v=__1SXi1AWbI 

面白い風習として、江戸川区東葛西には雷の大般若祭というのがあり、二月末の日曜日に行われている。女装して大般若経六百巻を6人で担いで街を駆け巡るお祭りだ。江戸時代末にコレラが蔓延し、和尚等が女装して歩いたのが始まりとも、結核の妹の代わりに兄が長襦袢を着て女装し厄除けをしたともいう。 

https://www.google.com/search?q=%E9%9B%B7%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%A5%AD&rlz=1C1VDKB_jaJP1177JP1179&oq=%E9%9B%B7%E3%81%AE%E8%88%AC%E8%8B%A5&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBwgCEAAY7wUyBggAEEUYOTIKCAEQABiABBiiBDIHCAIQABjvBTIKCAMQABiiBBiJBTIKCAQQABiABBiiBDIKCAUQABiABBiiBNIBCjE1MzMxajBqMTWoAgiwAgHxBcRfmTJFolng8QXEX5kyRaJZ4A&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:90696813,vid:6B8jlZdp0Lg,st:0 

ここでは聖仏母般若波羅蜜多という意識はないだろうが、般若経+妹の力で厄除けするのが面白い。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

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2026年5月20日水曜日

般若心経の迷い道 その六

般若心経は観音経の続編!? 

般若心経の不思議なところはいくつもある。突拍子もなく観自在菩薩(観音菩薩)で始まるのはいささか奇妙である。それは観音様に人気があったからと説明されている。また、何故、観音菩薩が法を説くのか。お経の教主は釈迦牟尼仏であるのに、玄奘訳に登場するのは観自在菩薩と舎利子のみ。 

一般には側にいるはずの釈尊の意を受けて、代わりに観音が声聞の代表である舎利子(舎利弗)に向かって説法したといわれる。般若経の伝統では釈尊と解空第一の須菩提が対話することが多い。智慧第一と謳われた舎利子は、法華経においての対告者、教えを聞く第一の聴聞者、話し相手となっている。 

般若心経では、何故か、観音菩薩が登場して舎利弗に語る。観音菩薩は悟りを目指す大乗菩薩の代表で、慈悲の心に基づいて利他行を行う菩提薩埵の象徴である。 

舎利子は大乗側からいうと、自分だけの悟りを目指す小乗仏教、上座部の代表なので、心経は大乗仏教が優越するという宣言をしているともいえるし、法華経を受けているともいえる。 

般若心経はとても短いお経で、お経ではないという人もいる。お経というのは、ある時お釈迦様が霊鷲山に千二百五十人の比丘たちと共にいてというような序文で始まる。そして、流通分といってまとめをして、お釈迦様が良きかな、善哉、善哉といって終わるという型がある。 

多かれ少なかれお経というのは前世も含めた釈尊一代記であり、阿弥陀経、維摩経はそのスピンオフ・ドラマ。般若心経というのは救いのお経ということでつながり、密教化しつつある般若グループの手による、観音経に対するアンサーソングである。 

紀元前後から般若経が語られ始め、それに続くように法華経のグループが活動する。空だ空だと唱える般若経グループはクールでマハーヤーナ、皆の乗れる大きな乗り物、大乗ということを最初に唱えた。法華経グループはホットだ。そして、大乗ではなくエーカヤーナ、一仏乗、皆が等しく成仏することを唱える。無条件に阿弥陀様が救ってくださるという浄土教はウォームだ。 

 

お経の制作プロダクション 

一、二世紀に活躍した詩人アシュヴァゴーシャは、『ブッダチャリタ』という釈尊の伝記を詩で著し、スピンオフ・ドラマ『シャーリプトラ・プラカラナ』という舎利弗と目連が釈尊に帰依する戯曲の断片も残っている。お経スートラというものは、元々は、釈尊の言葉の要点をまとめたものだったが、その頃から文芸化し、法華経のような文芸大作が生まれることにつながる。 

私は般若心経というのは般若経グループによる観音経の続編ではないかと思っている。通称観音経は鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に「観世音菩薩普門品第二十五」として納まっている。元々、独立したお経が法華経に組み込まれたようだ。 

その法華経の成立過程を横目で見ながら般若経グループが創作した物語が維摩経である。そして、観音経より小粒でパンチの効いたものをと思って渾身の力を込めてまとめ上げたのが般若心経だ。 

浄土教グループの学僧も彼らと交流しつつ安楽国の夢物語を創作し信者を獲得する。浄土教では瞑目して集中するだけではない。日想観といって夕日を見つめ目を閉じてもそれが浮かぶように訓練し、ありありと極楽世界を目の前に描くに至る。ヴィジュアライゼーションの訓練をする。それは密教の観相法につながる。 

教団とは壮大な物語を生む、お経の制作プロダクションでもある。ジブリや虫プロ、さいとうプロダクションのようなものだ。なんていうと有識者に怒られるな。中国の訳経では鳩摩羅什や玄奘三蔵が監督して、サンスクリットを読み上げる係、訳す係、書き留める係、文章を練り上げる係などと役割分担している。今日のように机に向かってペンを執り、個人が仕上げる仕事ではない。 

経典の制作は、伝記や逸話に詳しい人、新しいネタを民間から見つけてくる人、それらを組み合わせて筋書きを構想する人、語学的文学的に練り上げる人、貝葉に刻む人などでチームを組んで創作したのではないか。それは常に改訂作業が行われ、だんだん増補されて長くなる。マンガが雑誌連載の時とテレビになる時、映画になる時とそれぞれ筋書きが変わるように工房によってアップデートされる。 

そのチームには、時々、客分として伝統教学に通じたバラモン、諸国を遍歴した遊行者や苦行者、大道芸人みたいな語り部が入れ替わり立ち替わり加わる。 

今、うちのチームでは新しい画期的なお経を創っとるんや、まだ、秘密やけどな。といいながら、ぺらぺらしゃべってしまうような輩もやって来る。そんな仏教サロン、オープンなサンガ、僧坊があったのだろうか。あるいは森の中で小鳥のさえずり、小川のせせらぎを聞き、マンゴーでもかじり、木の上から猿が見ているような所で、ゆっくり練り上げていったか。 

経典には重層的に様々な思想や信仰が流入してくる。 

 

観音経のアンサーソング 

観音様の由来もよく分かっていないが、彫刻としてはガンダーラやマトゥラーに登場し、グプタ期に流行する。二、三世紀頃成立の『無量寿経』には、阿弥陀如来の補佐をする脇侍として観音菩薩、勢至菩薩が現れる。四世紀頃になると漢訳経典に光世音、見音声などの名で記され、その原語はアヴァローキタスヴァラ、音声を観るに相当する。七世紀の玄奘訳では観自在菩薩、原語はアヴァローキテーシュヴァラ。 

インドで観音はローケーシュヴァラ、すなわち、世界、世間、ローカの主、イーシュヴァラとも呼ばれる。ヒンドゥー教の自在神イーシュヴァラであるシヴァ神、あるいは、ヴィシュヌ神の影響を受けている。ヴィシュヌ神のアヴァターラは十化身がよく知られ、観音様は三十三応現身とされる。負けるものかと数を増やす。 

観音経の冒頭にはこうある。聴衆の中から無尽意菩薩(尽きない智慧を持つという意味)が立ち上がり、仏に合掌してこう言う。「世尊(釈迦如来)よ、観世音菩薩は何で観世音と名乗るのですか」いわく、 

「善男子よ、この世に無量百千億の衆生がいて、それぞれ苦悩があるところ、観世音菩薩がいらっしゃるということを聞いて、一心にその名を唱えれば、菩薩はその声を観じて、皆、解決するのです」 

つまり、南無観世音菩薩と唱えれば救われると。観音経の最後には聴衆の中から持地菩薩が登場し、立ち上がって発言する。この、大地を持つ、支えるというのは地蔵菩薩を示す。お地蔵様がまとめの言葉を言います。 

「世尊よ、人々が皆この経にいうところの普門示現の神通力を聞くならば、その人の功徳が少ないことはない」 

普門というのは十一面観音のように、あらゆる方向に顔が向いている、つまり、観音様がすべての人々に神通力を示すということをいう。 

「すると、そこに立ち会った全員が無上の最高の悟りを目指す心を起こしました」 

悟り、すなわち菩提(ボーディ)を目指す衆生(サットヴァ)が菩提薩埵ぼだいさった、略して菩薩という。 

観音様を信仰し、その力を分けてもらいながら歩みを進め、観音様と同じように仏道を行く菩提薩埵となることを勧めている。いろいろと利益誘導をしているようで、実はこれが観音経の本筋なのだ。観音菩薩とは自分自身に他ならない。 

 

般若心経と観音様 

玄奘三蔵は危機に臨んで観音様を念じ、それでもだめな時は般若心経を唱え難を逃れたという。玄奘三蔵が般若心経を翻訳するのは帰国後なので、おそらくは「ギャテイギャテイハラギャテイ ハラソウギャテイ ボージソワカ」と真言を唱えたのだろう。火急の時に般若心経や観音経は読んでいられない。この真言自体は『陀羅尼集経第三巻』に般若大心陀羅尼第十六としてすでに知られている。 

私たちも菩薩摩訶薩、観音様と同じマハーサットヴァなので、「ギャテイギャテイハラギャテイ ハラソウギャテイ ボージソワカ」と唱えて智慧の完成を目指す。 

このまじないの真言は、実は、般若波羅蜜多菩薩という女神への呼びかけ。私たちも観音菩薩と同様に般若の智慧の完成、無上等正覚を目指す。 

つまり、南無観世音と唱えるかギャテイギャテイと唱えるかの違いで、発菩提心を起こす、智慧の完成、悟りを目指すという意味で観音経と般若心経の趣旨は同じ。 

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時で始まるが、それは昔々の話ではない。梵文では「チャリヤーム チャラマーノ」とあり、現在分詞で示される。観自在菩薩が大乗仏教の菩薩摩訶薩の代表であって、私たち大乗菩薩も悟りを目指し、迷いながらも般若波羅蜜(智慧という完成)の行を現在修行中ということなのだ。 

釈尊の弟子となった舎利子は、当時の旧仏教の代表であり、大乗仏教の菩薩の方がリードして空を説き、言い聞かせる形になっている。そして、最後に悟りの象徴であるプラジュニャー・パーラミター女神、般若波羅蜜多菩薩の心真言を示して祈るというのが般若心経の構成だ。 

4世紀頃からインド土着の大地の母、荒々しいエネルギー、シャクティに満ちた女神の崇拝が勃興し、ヒンドゥー教のみならず仏教も密教化していく。般若心経はその転換期、大乗仏教宣言としての祈念碑である。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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2026年5月12日火曜日

シルクロードの東端で、インド仏教の時間を歩く(最終章)

上海:37年の時を超えた再訪 

寧波での滞在を終え、再び高速鉄道に乗り、上海へと向かった。ここからは、私にとって別の特別な思い入れがある旅の始まりだった。 

今から37年前、私は上海の「美琪大戯院(マジェスティック・シアター)」という劇場の舞台に立っていた。日中友好協会の招聘で、北京オペラの面々と共に、笛の名手・横田年昭氏と共演し、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をパントマイムで上演していた。 

当時の上海は、宿泊した高層ホテルを除けば、全体に貧しい街並みが広がっていた。通貨も外国人用と市民用で価値が異なり、情報は壁新聞に限られ、英語の情報はほとんど入ってこない時代。リハーサルの合間、街に不穏な熱気とデモの足音を感じてはいたが、公演の忙しさで深く知る由もなかった。帰国から1週間後、あの北京の例の広場での大事件を知り、驚愕したことを今でも鮮明に覚えている。 

それから37年。目の前の上海は摩天楼がそびえ立つ光り輝く電脳都市の姿。金融・情報の最先端都市へと変貌を遂げ、かつての面影はどこにもなかった。あまりの変貌ぶりに、私はただ眩暈(めまい)に似た感覚を覚えながら、その眩い光の向こう側にある『影』を探していた。 

 


旅の終着点は、最も未来に近い場所。石造りの外灘と、電脳都市・浦東が交差するこの景色の中に、旅の全ての時間が重なり合っていた 

 

 

歴史の光と、その陰に消えた求法僧たち 

煌びやかにライトアップされた上海の街を歩きながら、私はこの旅で辿ってきた仏教史に思いを巡らせていた。 

これまで名を挙げてきた玄奘、空海、道元といった僧侶たちは、間違いなく時代のエリートである。命がけで真理を伝えた偉大な先駆者たちだ。その輝かしい業績は、歴史の表舞台で今も光を放っている。 

しかし、その輝かしい光の陰には、志半ばで力尽きた無数の僧侶たちがいたことを、私たちは忘れてはならない。船の難破や病に倒れた者、或いは情熱を持って長安にたどり着きながらも、政治や権力の波に飲まれ、せっかく持ち帰った経典や知見の多くが散逸していった者たちである。 

例えば、玄奘より遥か以前、還暦を過ぎてなおインドへ渡った法顕(ほっけん)。彼が伝えた初期仏教の律論は、その後の歴史に小さな波紋を残したに過ぎない。また、時代のタイミングや権力者の寵愛の差で、他の名僧の影に隠れてしまった真諦(パラマールタ)や功徳生(プニョーダヤ)。彼らが命を懸けて持ち帰った「原石」の多くが歴史の砂に埋もれていった。 

こうした人々の存在を思うと、歴史に名を刻んだ偉人たちの業績は、偶然の成功ではなく、多くの無名の志士たちの努力と連なって初めて形作られたものであることを、改めて実感させられる。 

上海の夜景を見つめる私の脳裏には、これまで辿ってきた道のりが走馬灯のように駆け巡った。 

  • 長安で触れた、鳩摩羅什や玄奘三蔵の「知」への情熱。 
  • 大興善寺や青龍寺で感じた、空海へと繋がる密教の「実践」。 
  • そして天童寺で体感した、道元が掴んだ「身心脱落」の悟り。 

すべては、2500年前に存在した「一人の人間・ブッダ」の教えから始まったのだというその事実が、心の底でひそやかに燃え続けているのを感じた。インドに生まれた真理への道。その道を、今でもなんと多くの旅人が歩き続けていることだろうか。 

 

巡りゆくバトン:息子に手を引かれて 

最後に、私事ながら一つ書き添えたいことがあります。 この紀行文は、以前このコラムに掲載させていただいた「アクティブ・ラーニング in 天竺 ~息子と共にインドを歩く~」の続編となっている。息子が8歳の時と12歳のとき、私たちはインドの仏跡を巡礼しました。その寄稿文で私はこう文章を結んでいる。 

「私の終活はまだまだ続けられそうです。もしかしたら、いつか息子に手を引かれて杖をついてくることになるかも知れません」 

まさか、その日がこれほど早く来るとは思いもしなかった。 幸い、まだ物理的な杖は突いてないのだが、今のデジタル化した中国を一人で旅しろと言われたら、私はお手上げだ。思った以上に英語が通じない上に、アリペイやWeChatによる完全なキャッシュレス社会。お寺のお賽銭ですらQRコード、浮浪者の方への施しもデジタル決済という徹底ぶりだ。 

二十歳になった息子が、地下鉄やタクシーの予約から支払、通訳まで全てをこなす姿を見ながら、私は確信した。「ああ、私は今、まさに息子に手を引かれ、杖を突いてもらっているのだな」と。 

 

インフレもデフレも、デジタルの数字すら、玄奘が説いた『唯識』の如く、私の心が描き出した幻影かもしれない。 

だが、隣でスマホを操る息子の手のぬくもりと、私たちが共に刻んだ足跡だけは、確かな実感として、そこに在った。 

かつての求法僧たちがそうであったように、私もまた、自分なりの歩幅で、この「仏教という時間の旅」を歩き続けていこうと思う。焦らず、弛まず、ゆっくりと、ただこの瞬間の確かさを足元で感じながら…        (了) 

 

 

インド仏跡巡礼から始まった息子との旅。果たして次回はどこへ導かれるのだろうか… 

 

 

藤倉健雄 

Ph.D教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク幹事 

 

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2026年5月11日月曜日

シルクロードの東端で、インド仏教の時間を歩く(その三)

「知」の巡礼から「行」の実践へ 

前回までは長安の寺々を巡り、インドからシルクロードを経て伝わった大乗仏教の壮大な思想体系を辿ってきた。それは、各時代の学僧たちが「人間とは何か」「この世の本質とは何か」という問いに命を懸けて向き合い、築き上げた「知」の結晶だった。 

しかし、仏教にはそれらとは一線を画す、もう一つの大きな流れがある。それが今回訪ねた「禅」の教えだ。 

禅には「教外別伝(きょうげべつでん)」、あるいは「不立文字(ふりゅうもんじ)」という立場がある。真理や悟りは、言葉や文字だけで表し尽くせるものではない。理屈で理解するのではなく、自らの身体的な体験を通してのみ体得できる、という考え方だ。 

この教えは6世紀初頭、達磨大師によってインドから中国へ伝えられ、700年の時を経て、天童寺第31世住職・如浄(にょじょう)禅師へと受け継がれた。日本の道元禅師は、まさにここ寧波の天童寺で如浄禅師に師事し、その真髄を継承した。道元が受け継いだ「只管打坐(しかんたざ)」――余計な考えを脇に置き、ただひたすらに坐る伝統は、今も永平寺と總持寺の両大本山へと脈々と受け継がれている。 

 

天童寺天王殿。今にも降り出しそうな空のもと、この修行寺は静かに私達を迎えてくれた。 

 

雨の天童寺:時空を超えた師弟の語らい 

長安での「知を巡る旅」は、寧波での「行(実践)を巡る旅」へと深まっていく。 雨の降る寧波。市内からタクシーで1時間ほど走った太白山の麓に、天童寺はあった。観光地として賑わう西安の寺とは対照的な、修行寺らしい静寂が漂っていた。 

 


大雄宝殿(仏殿)。ここ大雄宝殿には阿難尊者(あなんそんじゃ)と迦葉尊者(かしょうそんじゃ)を脇侍として伴った釈迦如来像を中心に、左に薬師如来像、右に阿弥陀如来像が安置されている。 

 

タクシーを降り、寺専用の電動カートに揺られて山門を目指す。(後で気づいたのだが、運転手が裏道を通ったため、拝観料の窓口を素通りしてしまったようだ。如浄禅師、ごめんなさい!) 閉門1時間前、滑り込むように山門へ到着。今にも降り出しそうな曇り空の下、荘厳な山門をくぐると立派な伽藍が見えた。境内には巨大な「千僧鍋」や修行の合図を送る「魚板(ぎょばん)」など、かつて1000人以上の修行僧が切磋琢磨した面影が今も息づいていた。 

 


本堂より千仏塔を臨む 

 

1223年、24歳で入宋した道元は、1225年の初夏にこの天童山に到着した。如浄禅師が住職に就いたまさにその年だ。 今回の旅の途中、23時間の寝台列車内で読み耽った道元の著書『宝慶記(ほうきょうき)』には、二人の深い交流が赤裸々に描かれていた。如浄は道元に対し、昼夜を問わず、また正装でなくともいつでも自室に来て質問することを許した。「父親が息子を可愛がるように」接し、熱心に指導を行った両者の師弟愛に、胸が熱くなった。 

 

道元を揺さぶった「二つの出会い」 

天童寺での修行中、道元の人生を決定づけるエピソードが残されている。 

  1. 「身心脱落(しんじんだつらく)」:執着を脱ぎ捨てる

ある朝の坐禅中、隣の修行僧がついうとうとと居眠りをしていた。それを見た如浄禅師は厳しく叱打し、こう一喝した。 

「参禅は身心脱落なり、何ぞただ打睡(たすい)するのみならん!」 (坐禅とは心身の執着をすべて脱ぎ捨てることだ。なぜ眠ってばかりいるのか!) 

この一喝を聞いた瞬間、道元の心の中にあった迷いや「自分」という枠組みが音を立てて崩れ去った。文字通り、心も体も解き放たれる大きな悟りを開いた瞬間だった。 

  1. 老典座(てんぞ)との出会い

また道元は、食事係の責任者である二人の老和尚から、修行の本質を学んだ。暑い中、汗を流して働く老典座に、道元が「なぜ、誰か他の者に任せないのですか?」と尋ねた際、和尚はこう答えた。 

「他は是れ吾に非ず(たはこれわれにあらず)」 (他人が修行をしても、自分の修行にはならないのだよ) 

さらに「なぜ、そんなに急いで今やるのですか?」と問うと、和尚は笑って言った。 

「更にいずれの時をか待たん」 (今この瞬間を逃して、いつやるというのかね) 

道元は「日常のすべての営みが悟りへと通じている」という確信を得た。この思想は、後に彼が著した『典座教訓』の根幹となっている。 

 

 

「今、ここ」を歩く 

これらの逸話を胸に、私は天童寺の境内を「今、この瞬間」に意識を向けながら歩いてみた。 普段、あちこちに飛び回ってしまう自分の意識にそっと手綱を引き、一歩一歩の感覚を確かめる。すると、かつての禅師たちと共に瞑想しているような心地になり、不思議と心が凪いでいくのを感じた。 

天童寺は曹洞宗の聖地だが、実は臨済宗の祖・栄西や、画家の雪舟も滞在した歴史があるそうだ。宗派を超え、真理を求めた日本の先人たちがこの静寂に身を置いた事実を知り、自分の中の時間が、ふと止まった気がした 

長安から寧波へ。インドから中国、そして日本へ。仏教という壮大なリレーのバトンが、今もこの雨の寺に静かに置かれている。 

その感触だけが、静かに観られていた 

(次号に続く)

 

 

藤倉健雄 

Ph.D教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク幹事 

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2026年4月27日月曜日

シルクロードの東端で、インド仏教の時間を歩く(その二)

興教寺:玄奘三蔵が眠る静寂の地 

翌日は、西安郊外に位置する興教寺(こうきょうじ)へと向かった。タクシーで1時間以上の道のりだが、中国のタクシーの安さには驚かされる。前日の草堂寺への往復(待ち時間を含め4時間半以上)でも約200元(約4,500円)。この手軽さが旅の助けになる。 


興教寺外観 
 

ここ興教寺には、玄奘三蔵の遺骨(舎利)が祀られている。聞くところによると、文化大革命時、宗教活動は停止させられたものの、建築物の被害はなかった。これは周恩来の指示によるものだという。まさにこの旅の初めに再会した教え子のことが、いまになって静かな重みを帯び、この地での体験とつながってきた。 

境内を一巡りし、一番奥にある釈迦像を祀った慈恩塔院(Jie’en Pavilion)へお参りした後、いよいよ玄奘が眠るストゥーパ(仏塔)へ。大慈恩寺の大雁塔をひと回り小さくしたようなその塔は、満開の桜並木に囲まれ、えもいわれぬ静寂の中に佇んでいた。 

本堂は修復中だったが、その他の場所はすべて開放されており、偉大な先駆者の魂に深く手を合わせることができた。玄奘三蔵の情熱は、常に私のインスピレーションの源だった。思えば、彼の物語への憧れから、私はいつしか「異文化に懸ける橋でありたい」という夢を持ち始めたのだ。時を超えた再会に感謝を込め、静かに合掌した。 


玄奘の舎利塔。この塔と脇に建つ玄奘の2人の弟子の舎利塔は2014年にシルクロード:長安-天山回廊の交易路網の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。 
 

大興善寺:密教の興隆と生存戦略 

次に向かったのは、前日に訪れた大慈恩寺からほど近い大興善寺(だいこうぜんじ)。ここは、インドで7世紀頃から広まり始めた「後期大乗仏教」、いわゆる密教(金剛乗)の拠点である。 


大興善寺。抽象的な論理を超え、人々の願いに応えようとした密教のダイナミズムが息づく。 
 

当時、ナーランダ僧院などの学問寺院では、唯識などの教理研究が高度に専門化し、一般民衆の信仰から乖離しつつあった。同時に、勢いを増すヒンドゥー教に圧倒され始めた仏教は、独自の生存戦略として「密教化」を推し進めることになる。 抽象的な論理だけでなく、呪術やマントラ(真言)を用い、煩悩をそのまま悟りに変える「即身成仏」を説く。民衆の現世利益的な願いに応えることで、仏教はその存在を繋ぎ止めたのだ。 

大興善寺は、インドから渡来した金剛智(こんごうち)、善無畏(ぜんむい)、不空(ふくう)といった名僧たちが経典を翻訳した、中国密教の根本道場である。境内ではたくさんの白い鳩が舞い、観光客が憩う穏やかな光景が広がっていた。 


中国でよく見かける「社会主義核心価値観」。この国では宗教施設も含めて社会全体で同じ価値観を共有するという立ち位置が示される。 
 

だが、その静けさの中で、ふと私は別のものに目を留めた。山門の脇に、「社会主義核心価値観」と記された看板が、まるで風景の一部のように掛けられている。様々な寺を訪れるたび、私はこのような同じ光景に出会った。香の煙はゆるやかに立ちのぼり、人々は静かに手を合わせている。その傍らで、言葉だけが少し異なる時間を生きているように見えた。 

はじめ、その取り合わせに戸惑いを覚えた。けれども、いくつもの寺を巡るうちに、その違和感さえも、やがて風景の中に溶けていった。ここでは、祈りもまた現実と切り離されることなく、ひとつの秩序の中に息づいているのだろう。中国共産党の掲げる言葉は、信仰のためのものではない。それでもなお、寺はそこにあり、人は祈る。 

そのことの静けさを、私はしばらく立ち止まって見ていた。 

 

青龍寺の奇跡:空海が見守った「3月21日」 

長安の旅のクライマックスは、不空三蔵に師事した恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の寺、青龍寺(せいりゅうじ)だ。 タクシーで寺の名を告げると、それまで無口だった運転手が急に饒舌になり、いかにそこが素晴らしい場所かを熱心に語り始めた(息子の通訳でその熱量を知った)。 


タクシーの運転手が熱弁を振るった聖地。1200年前、若き空海が密教のすべてを託された歴史の特異点 
 

到着すると、そこは大変な人だかりだった。青龍寺は、日本の空海が恵果阿闍梨から法を受け継ぎ、日本に密教を伝えることになった真言宗の原点である。 しかし、ここで予期せぬ事態が発覚した。あまりの人気ゆえ、数日前のオンライン予約がないと入場できないというのだ。全員が落胆に包まれる中、ふとスマホで日付を確認して驚いた。 「3月21日」――なんと、この日は空海様の御命日ではないか。 

「今日という日に、お参りせずには帰れない」 私は決意を固め、祈るような思いで翻訳機を役人に向かって突き出した。「日本からこの日のために来ました。今日は特別な日なのです、どうか、どうか入れてください!」 執拗なまでの熱意が通じたのか、奥から出てきた上役が、顎で「さあ、入れ」と合図を送り、門を開けてくれた。空海様が導いてくださったのかな?と感謝の念が込み上げた。 


桜吹雪の中、大勢の観光客でにぎわう青龍寺 
 

桜の下のダイナミズム:継承される「生きた教え」 

境内は、まるで上野公園の桜シーズンのような賑わいだった。満開の桜の下に出店が並び、大勢の中国人観光客はお花見気分でスマホを向けている。中には日本のアニメのコスプレで自撮りをする若い女性も沢山いた。 

そんな観光気分満載の喧騒の中にあって、境内の一角には荘厳な空気を纏った空間があった。日本の仏教団体が寄贈した記念碑や、恵果が空海に法を授ける瞬間の像が建っている。 延暦24年(805年)、遣唐使として長安に渡った空海を迎えた恵果は、「私はお前が来るのをずっと待っていた」と告げ、即座に弟子として迎え入れたという。通常20年はかかるとされる密教のすべてを、恵果は自らの死期を悟り、わずか数ヶ月で空海に授け切った。師から受け継いだ貴重な曼荼羅や経典は、今も「請来品(しょうらいひん)」として日本に息づいている。真言宗は、間違いなくここで産声を上げたのだ。 


恵果から空海へ。国境と時間を超えて「智慧」が手渡された瞬間 
 

こうして私は、長安という街が、初期仏教から大乗、そして密教へと至るインド仏教の全軌跡を飲み込み、昇華させてきた歴史を肌で感じることができた。 長安での巡礼を終え、翌日は西安西駅から寝台列車に乗り込んだ。次の目的地は、はるか東の寧波(ニンポー)。23時間に及ぶ、鈍行列車の旅が始まる。(次号につづく) 


西安から寧波へ。23時間の揺れは、かつての求法僧たちが歩いた「距離」を噛みしめるための、贅沢な時間だった。 
 

 

藤倉健雄 

Ph.D 教育演劇学博士。 ニューヨーク州立大学修士課程を経て、ウィスコンシン大学演劇学部博士課程修了。現在早稲田大学国際教養学部講師。プロのマイム集団、カンジヤマ・マイム主宰。演劇的要素の教育的応用を常に研究の柱としている。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」の身体表現コーナー「パント!」の振付、監修を始め、様々な教育番組を振り付け、同時に出演している。日印文化交流ネットワーク幹事 

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