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2024年3月22日金曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑭

カルカッタの外で(4) 
 
ぼくがアラーに、こうして初めて滞在していた頃、もう一つの大きなグループが、後から加わった。ぼくの遠縁のお祖父ちゃん、プロモダロンジョン・ラエ (1) 8人の子供たちの中の4人か5人。ぼくらがボバニプルに住んでいた頃、このお祖父ちゃんも定年になって、ボバニプルのチョンドロマドブ・ゴーシュ・ロード (2) に住んでいた。お祖父ちゃんは政府の測量部門に勤めていて、その仕事のため、アッサムやビルマの人里離れた密林や山に出かけた。もちろん、ぼくがこのお祖父ちゃんと親しくなったのは、定年退職してからだ。ものすごく厳格な人だったので、それでたぶん、身体を鍛錬することに、いつも目を光らせていたのだろう。誰かが背中を丸めて歩いているのを見ると、すぐその背中をどやしつけた。お祖父ちゃんの高笑いは、道の端から端まで響き渡った。お祖父ちゃんが口笛を吹くと、隣近所の誰もの脾臓を、縮み上がらせることができた。 
 
そのお祖父ちゃんの子供たち、つまり遠縁の叔父さんや叔母さんたちは、みんな勉強がすごくよくできた。3人姉妹の2番目のリル叔母さん (3) (現在、『ションデシュ』誌の編集者の一人)は、その頃は挿絵画家として知られていた。叔父さんたちのうち、コッラン叔父さんはおとなしい性格で、明け方4時に眠りから覚め、夜には、両手でパタパタ叩きながら炙ったローティ (4) を、22枚食べた。その下のオミル叔父さんは、大掛かりな切手蒐集家だった。そのまた下のショロジュ叔父さんは、その当時、ラエ家の中では一番背が高かった。一番下のジョトゥ叔父さんは、自分の見てくれに少々意識過剰で、側に鏡があると、一度は流し目で自分の姿を見る欲望を抑えられなかった。 
 
一番上のプロバト叔父さんは、計算にかけては、めちゃくちゃ頭の回転が速くて、ぼくはこの叔父さんと一番仲が良かった。その理由の一つは、下の叔父さん (5) みたいに、プロバト叔父さんも、親類縁者の家々を訪れて回る習慣があったから。そのことを、叔父さんは、多くの場合、歩いて果たした。プロバト叔父さんにとって、6~7マイルの距離を歩くことは、何でもなかった。ぼくらの家にも時々来て、ターザンの物語をベンガル語にして読み聞かせてくれた。ぼくのことを、プロバト叔父さんは、「小叔父」と呼ぶのが常だった。 
 
4番目のショロジュ叔父さんは、その頃、ある創立して間もない学校から、大学入学資格検定試験を受けて、合格したばかり。末弟のジョトゥ叔父さんは、まだその学校に通っていた。その学校がいい学校だと聞いて、母さんはぼくを、そこに入学させることに決めた。 
 
学校のことは後で話すとして、今ここで言っておきたいことが一つある –– 「休暇」というものがどんなものか、その楽しさがどこにあるか、そのことは、学校に入るまで、知ることができない。ただでさえ、日曜に加えていろんな祭日がある上、夏休みとプージャー休み (6) もある。この二つの大きな休暇が始まる何日も前から、心は喜びの調べに湧き立った。休暇の間、カルカッタにとどまっているなんてことは、その頃、あまりなかった。 
 
二つの休暇のことを、すごくよく覚えている。 
 
一度、ぼくらの一族、ラクナウ在住の母方の2番目の叔父・叔母とその男の子たち、ぼくの下の叔父さん、その他何人かの親戚で大きなグループになって、ハザーリーバーグに行ったことがある。「キスメット」という名前のバンガローを借り切った。食事はどれも新鮮で安く、素晴らしく健全な環境だった。キャナリ丘陵の頂上に登ったり、ラジラーッパー (7) へピクニックに行ったり、ボーカーローの滝を見に行ったり –– すべてがまるで黄金に包まれた日々だった。日が暮れるとペトロマックス(圧力式灯油ランタン)の明かりの下にみんな集まって、二つのグループに分かれてのいろんな遊び。何より面白かったのは、シャレードだ。この遊びにベンガル語の名前があるのかどうか、知らないが、タゴールの少年時代、タゴール家でもこの遊びが行われていたことを知っている。二つのグループに分かれてしなければならない –– 交替で、片方のグループが演じ、もう片方が観客になる。演技のグループは、2つかそれ以上の言葉を組み合わせた単語を選ぶ。たとえば、「コロ=タル」(小さなシンバル)、「ション=デシュ」(甘菓子)、「ション=ジョム=シル」(抑制のきいた)。「ション=ジョム=シル」を選んだとすると、演技グループは、4つの小さな場面を次々に演じて観客グループに見せなければならない。最初の場面は「ション」(共に)、2つ目は「ジョム」(抑制)、3つ目は「シル」(〜の性質をした)をそれぞれ演じ、最後に全部を合わせて演じて見せる。シャレードには2種類ある –– 「無言のシャレード」と「しゃべるシャレード」。「無言のシャレード」をする時は、黙ったまま演じて、その言葉を伝える。「しゃべるシャレード」の場合は、演者たちの会話の合間に、ちょっとだけ、ヒントになるような言葉を差し挟む。観客グループは、4つの場面の演技を見て、全体の単語を見出さなければならない。グループが大きい方が、この遊びは盛り上がる。ぼくらは、みんなで10人から12人ほどだった。遊びに熱中して、夕暮れ時、時間がどうやって過ぎていったか、気が付きすらしなかった。 
 
もう一つの思い出深い休暇は、シュンドルボン (8) への蒸気船の旅だ。ぼくには一人、物品税弁務官の義叔父さんがいた。義叔父さんは、時々シュンドルボンに行かなければならなかった。一度、かなりの人数の親類縁者を引き連れてそこに行くことがあって、その中には、ぼくと母さんも含まれていた。義叔父さんと叔母さんの他に、4人の従姉とロノジット兄(ダー)がいた。ロノジット兄、またの名をロノ兄は、狩猟家だった –– 銃と山ほどの薬莢を持って行った。マトラ川に沿って、そのまま河口まで行かなければならなくて、船は、その合間合間に、シュンドルボンの運河や湿地帯の中を巡って行く。全部で15日間の旅だ。 
 
船旅の間、ほとんどデッキにすわって風景を見ながら過ごした。マトラ川 (9) は川幅がものすごく広く、両岸がほとんど見えない。船の水先案内人たちは、時々、水の中にバケツを下ろす。水から引き上げると、その中には、水と一緒に、ほとんど透明なクラゲが見えた。船が運河の中に入ると、風景はガラリと変わる。遠くから見渡すと、運河の岸辺に列をなして鰐が日向ぼっこしていて、その背中には、白鷺がのんびり安らっている。すぐ側まで行くと、鰐たちは、水の中へスルスル入って行く。鰐たちがいる側の岸辺には木は疎らで、ほとんどの木が小ぶりだが、その反対の岸辺は巨大な木が立ち並ぶ深い密林で、その中には鹿の群れが目につく。鹿たちも、船の音を聞くと、慌てて逃げ去った。 
 
ある日、ぼくらは船から降り、小舟に乗って陸に上がり、深い密林の中を通って、ずっと昔に打ち捨てられたカーリー女神の寺を見に行った。根のようなものが、地面を裂いて、槍のように頭をもたげている。手に持った杖を頼りに、その隙間を縫って、足を下ろしながら進まなければならない。銃を持った同伴者が二人 –– なぜなら、この一帯は虎の縄張りで、虎様がいつ姿を現すか、予測がつかないからだ。 
 
ぼくらはこの時、虎を見ることはなかったけれど、ロノ兄は、鰐を一頭仕留めたのだった。運河の縁の陸の上のある場所に鰐がたくさんいるのを見て、船を繋留させた。ロノ兄は小舟に乗って出かけた、3人のお供を連れて。息を殺して半時間ほど待っていると、銃声が一つ響いた。狩りの一隊は、船からかなり離れた場所まで行かなければならなかった。 
 
さらに半時間経って、鰐の死骸をひとつ乗せて小舟が戻ってきた。船の下のデッキで、その鰐の皮が剥がされた。ロノ兄は、その皮でスーツケースを作った。 
 
7日して、ぼくらはタイガー・ポイント (10) に着いた。目の前には底知れぬ大海、左手にはちっぽけな島が一つ、その上には砂山。ぼくらは、波のない海の水で水浴した後、砂山で長い時間過ごしてから、船に戻った。人跡から遥か離れた場所だったことは言うまでもない。混じり気のない喜びと言えば、45年前のシュンドルボン行の、この何日かの追憶が、ぼくの心のかなりの部分を占めている。 
 
 
訳注 
(注1)父方の遠縁の祖父。5世代前のクリシュノジボンには、ビシュヌラムとブロジョラムの二人の息子があり、レイの祖父ウペンドロキショルは兄のビシュヌラムの家系、プロモダロンジョンは弟のブロジョラムの家系に遡る。 
(注2Justice Chandra Madhab Road 南カルカッタのボバニプル地区の中心にある。チョンドロマドブ・ゴーシュ卿(Sir Chandra Madhab Ghosh)は、カルカッタ最高裁判所(1862年設立)最初期のインド人判事の一人。 
(注3)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 19082007) 著名な女流作家。児童文学作品を中心に、小説、伝記、料理本、翻訳作品など幅広い分野に活躍。レイとともに『ションデシュ』誌を編集。 
(注4)全粒粉で作られた平べったい丸パン。火に炙って膨らませたもの。 
(注5)シュビモル・ラエ、レイの父親シュクマルの末弟。『ぼくが小さかった頃』③、⑩参照。 
(注6)ドゥルガー祭祀(プージャー)の後、カーリー女神・ラクシュミー女神の祭祀が続き、1ヶ月間の長期休暇になる。 
(注7ハザーリーバーグの南東に位置するヒンドゥー教の聖地。ボーカーローの滝は、そこのベラー川がダーモーダル川と合流する地点にある『ぼくが小さかった頃』⑬参照。 
(注8)インド西ベンガル州南部とバングラデシュ南部を覆いベンガル湾に至る、広大な森林地帯。 
(注9)シュンドルボン西部を貫通し、ベンガル湾に注ぐ、主流の一つ。 
(注10)シュンドルボンの東部にある、マングローブの密林に囲まれた孤立したビーチ。 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき) 
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。 
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。 
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年3月14日木曜日

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

第10回 アジアの舞踊の研究家ベリル・ド・ズーテ 

ベリル・ド・ズーテの名前はウォルター・シュピースとの共著『バリ島の舞踊と演劇』(1938年)によって、バリ島の研究者にはよく知られている。元々がバレエ・ダンサーであり、舞踊研究家として、ジャワ島の舞踊、スリランカのキャンディアン・ダンス、南インドの舞踊についてもそれぞれ見聞録を出しているのだが、どれも絶版である。 

1931年にロンドンでウダヤ・シャンカルの舞踊を見て、また、ヴァンセンヌの森におけるパリ国際植民地博覧会でバリ舞踊を目撃して、アジアの舞踊に興味を持った。源氏物語の英訳で知られるアーサー・ウェイリーといい関係にあったようで、日本や中国、能や世阿弥についても知識がある。 

幸い、米アマゾンを探検したら1953年、わたしの生まれた年に発行されたBeryl De Zoete, The Other Mind/A Story of Dance in South Indiaを入手できた。こんなことに興味を持っているのは日本では私くらいのものなので、ここに報告したい。 

ズーテは初めてジャワ、バリを訪れた後、ロンドンへの帰途、1935年3月にインドに立ち寄った。詩人ワラトール・ナーラーヤナ・メノンがケーララ文化称揚のために創設したカタカリ舞踊劇の殿堂ケーララ・カラーマンダラムを訪ね、タゴールと並び称されるその南インドの詩人にも親しく会っている。49年に再訪したときには亡くなっていた。 

この本には、ズーテの何人かの友達や公的機関が記録した写真が収められている。前々回取り上げたシャーンターの写真は腰が落ちていて素晴らしい。カタカリは勿論のこと、オッタム・トゥッラルやヤクシャガーナ、祭祀芸能であるブータ、テイヤムの古い写真が掲載されているので、とても貴重な記録だ。 

私が40年前にケーララの芸能を追いかけて、1988年に出版した『カタカリ万華鏡』の偉大な先駆者である。南インドの芸能者や文人に会って聞き及び、世界で初めてケーララの特色ある芸能を紹介している。旅の記録のなかにカタカリで演じられる神話を割り込ませている所も似ている。何年に何があったか記している所もあるが、ズーテの年譜を作成するのは困難である。 

これはシャーンターについてもいえることで、第8回では1925年生まれとの説を採り、14歳頃にカラーマンダラム入門としたが、ズーテによると12歳の時だそうだ。本によって、12歳違うのは珍しくない。 

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=FChXM3LAtuc&fbclid=IwAR0tCYYfC7YLQcdQqpaRgJ8qBaPouIrObqa6eaJES5JFe-efEfB2a8zaU-E 

また、金持ちの家に生まれ育ったシャーンターは、師ミーナークシ・スンダラムの家を小屋と表現したが、ズーテはhutではなくちゃんとした家だと訂正を入れている。 

ケーララ・カラーマンダラム 

カタカリは王様の軍隊が余興で始めたものといわれる。インド人は何でも伝説や神話を作って説明するので、真偽のほどは分からないが、カタカリはバガヴァティー女神の神前の庭カラリと密接な関係がある。カラリでは寺子屋のように読み書きを習ったり、遊戯や武術カラリパヤットゥの訓練が行われたりし、お祭りの時は遊戯が繰り広げられた。そんな中からカタカリ舞踊劇が発達したのだろう。 

タゴールがバウルを取り上げベンガルの文化を称揚したように、ワラトールはカタカリ、クーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムなどケーララの芸能を保持すべく、1930年、ケーララ・カラーマンダラムという教育機関(今は芸術文化大学)を設立した。ワラトールは20代で耳が悪くなり聞こえなくなったので、役者や家族とムドラーで会話したとズーテは記す。ズーテ自身もカタカリとそのムドラーを習ったというから、片言のムドラーでワラトールと話したか。 

https://www.kalamandalam.ac.in/  

カタカリに昔は女性のダンサーもいたとか、緑のメイクではなくマスクを着けた、セリフもあったとズーテは聞き及んだようだ。カタカリの様式がきちんと確立する前は様々なスタイルがあったのだろう。マスクといってもスリランカのコーラムのような堅い仮面ではなく、椰子で作った被り物マスケットではないか。 

チェルトゥルティのカラーマンダラムに初めて私が訪れたのは写真で確かめると1985年1月1日。オフィス・アジアの主催するケーララ・カルナータカ・ツアーに参加したときだ。コーディネーターはドクター・アヴァスティ、日本側は能楽の研究家で能管を吹くリチャード・エマートが務めた。

 

スレーシュ・アヴァスティは、1970年、音楽学者の田辺秀雄らがデリーとボンベイを訪ねたときのサンギート・ナータク・アカデミー所長で、親切にあちこち手配した。翌年、日印協会は文化使節団調査団を派遣し、東洋音楽学会も協賛し、榊原帰逸らとインド芸能の調査を行った。日本とはそれ以来の付き合いだ。なかなか個人でのインド旅行が難しかった時代、日印協会主催で音楽舞踊ツアーを行っていた。沖縄から舞踊団が訪印することもあったようだ。 

ドクター・アヴァスティは東京外国語大学AA研に招かれ、山口昌男と研究会を行っていたので、84年末からのツアーには様々な人物が参加した。音楽学者の姫野翠、演劇・舞踊の評論家である市川雅、石井達郎、宮尾慈良、伊達なつめ(徳丸素子)、当時は横浜ボートシアターの演出助手をしていた吉見俊哉。彼はもう退職したが、東京大学副学長にまで出世した。 

カラーマンダラムを卒業するとカラーマンダラムという称号を得ることができる。ズーテの本にある写真のクレジットによるとカタカリの写真の多くがカラーマンダラム・クリシュナン・ナイルの写真なので驚いた。私は彼の晩年に何回か見ている。晩年は、弟子に手を支えられてよいしょと立ち上がり、ステップを踏んでいた。メイクをしているので分からないが80歳前後だったのだろう。 

ズーテが最初に彼に会ったのは20代ということになる。当時、祭りに出ると、主役級で1、2ルピーもらったそうだ。1ルピー100円程度か。感覚的には百円玉いくつのおひねり、若手は5円という感じ。当時は1ルピーの16分の1のアンナ・コインがあったか。多い月には20回くらい出演するだろう。カタカリ劇団を一晩雇おうと思ったら数万円か。他に準備するものがあるだろうから、一公演に十万円かそこらの経費がかかることになる。現在は円安でインドも物価高なので正確な話ではない。 

デーヴァダーシー 

もう一度、ズーテの本に戻る。ズーテはバラタナーティヤムの本質は音楽であるという。踊りに音楽を付けたわけではない。歌を踊りで語るのだ。歌が基本である。 

デーヴァダーシーは歌と踊り、そして読み書きを習った。一般女性は習うことができない。インド舞踊一般は、ほとんど踊りだけだが、クチプリの場合は歌うこともある。それが元々の形だろう。音楽を意味する語サンギート、共に歌うという意味で、そこには踊りと演劇も含まれ、それぞれ不可分の関係にある。 

https://www.britannica.com/art/kuchipudi 

ズーテはフランス人宣教師デュボアの本からデーヴァダーシーについて記述している。18世紀末ポンディッシェリーに至り、それから30年以上インドで布教活動をし、民俗を調べた。その一部の訳が重松伸司『カーストの民/ヒンドゥーの習俗と儀礼』として東洋文庫から出ている。見聞きしたことの報告なのであまり正確でない所もあるが、貴重な記録である。 

デーヴァダーシーとは神に捧げられた下僕の女性形。人と結婚して夫が先に死ぬと不吉だが、人間ではなく神と結ばれているため常に吉祥であるとされ、魔を祓う力を持つ。ヒンドゥー寺院を訪ねると朝、夕のお勤めプージャーに際してガンガンと鐘を鳴らし灯明を捧げるアールティーという儀礼に当たることがある。デュボアによると邪視を退ける、悪意のある目つきからの影響を避ける意味があるという。光によって闇を滅するということなのだろう。今は男が勤めているが、元々はデーヴァダーシーの役だった。未亡人は不吉なので参加することが出来ない。 

神と結婚するといっても、実質的には寺のバラモンの妻、あるいはめかけのような存在だ。給金をもらっているが、少ないので売春をするとも説明されている。結婚式などの行事に赴いて福を招く。デュボアはデーヴァダーシーが最も上品に衣装を身につけていると記す。 

またデュボアは、ヴィシュヌ神のダシャ・アヴァターラ(十化身)を上演する放浪の旅芸人について、淫らで馬鹿げた道化芝居と記す。その多くは街頭で脚木の上に板を渡して舞台とする。人形芝居も演じるが、嫌らしい仕草でナンセンスという。 

そんな大衆的で下卑た十化身劇もあったかもしれないが、本来、宗教劇であるダシャ・アヴァターラ・アーッタムが、カタカリやヤクシャガーナ、路上劇のテールクートゥ、そこから発展したバーガヴァタ・メーラー、クチプリの前身となっている。ネパールの路上でも十化身劇は行われた。 

また、ズーテは1870年にショート博士がロンドン人類学会で読んだ論文を引用する。デーヴァダーシーは結婚しない。5歳から歌と踊りの厳しい訓練を受ける。寺から給料はもらうが、月に1、2ルピー程度で、ほかに給食というか、ボウル一杯のご飯を一日、一回貰うという。 

19世紀の月給1ルピーがいくらの換算になるのか、食べていく最低限の保障だろう。援助がないと生活できないというレベルなので、お祭りやら結婚式やらの行事への参加で足りない分を補ったのだろう。カタカリやヤクシャガーナの役者と同じだ。 

またショート博士は、ステリア・クートゥと呼ばれるアクロバット的なダンスについても記している。子供をさらって後継者にしているという噂もある。今でいうブレークダンス、ブレーキングには及ばないが、反っくり返って、つまり、ブリッジでお金を拾ったようだ。イギリス人には正統的なバラタナーティヤムよりこちらの方が受ける。金を稼げる。 

ズーテは、そのような大道芸的な踊りをインドにおいてではなく、パリの植民地博覧会で見たようだ。 

バーラサラスヴァティーの復活 

ズーテがインドを再訪した頃は、バラタナーティヤムのカマラーが天才少女として売り出し中だった。アメリカ人のインド舞踊家ラーギニー・デーヴィーと共に観覧した。会場は満員で、先に着いていたラーギニーは、あらここよとばかりにズーテを見つけ席を作った。舞踊家たるズーテは、形は整っているけれど心の内なる炎が見えない。目で表現できていないと手厳しいが、15歳なんだから大目に見てやってくれ。後に大成する。 

https://www.google.com/search?q=kamala+lakshman+bharatanatyam&rlz=1C1TKQJ_jaJP1057JP1057&oq=kamala+&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqDggBECMYExgnGIAEGIoFMgYIABBFGDkyDggBECMYExgnGIAEGIoFMg0IAhAAGIMBGLEDGIAEMgcIAxAAGIAEMgcIBBAAGIAEMgcIBRAAGIAEMgcIBhAAGIAEMgcIBxAAGIAEMgcICBAAGIAEMgcICRAAGIAE0gEJOTYwMGowajE1qAIAsAIA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:05a97bd0,vid:8VFQVW7lFAY,st:0 

1918年生のバーラサラスヴァティーは、デーヴァダーシーの家系である。31歳とまだ若いのに、リューマチと心臓病のため、何年かステージに立っていなかった。入院したりして太ってしまったので、誰も踊ってくれと言わなくなった。 

ズーテは、世界的に有名になった舞踊家ラーム・ゴーパルと共にバーラの家に訪れ、踊ってくれるように懇願し、ようやくのことで承諾を得る。しかし、ズーテはインド人の軽い約束に何度も裏切られていて懐疑的だった。その朝がやって来る。バーラの兄弟から電話があった。もしや。 

ズーテはバーラの母と娘、兄弟と共に車に乗り込んでマイラポールの劇場に赴いた。師であるカンダッパ、歌手のエラッパら伝説的な音楽家がホールで待ち構えていた。映画のワンシーンみたいだ。 

ズーテはなんといってもそのアビナヤ、絶妙な表情に惹かれる。ため息が出るような美しさ、ステップ、仕草の完璧なコントロール、音楽が身体に染み込んで動きと共に波紋を広げる。絵にも描けない美しさというか、写真は残っていない。ズーテの隣でラーム・ゴーパルがムドラーの解説をしてくれたそうだ。なんと贅沢なひととき。 

その後、1961年にバーラは「イースト・ウェスト・エンカウンター・イン・トーキョー」で来日した。これは東京文化会館のこけら落としのコンサートではないか。翌年、アメリカのウェズリアン大学に招かれる。1967年には、ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンと共にハリウッド・ボウルでのコンサートに出演している。 

こんな素敵な話が、なんで映画にならないのかと思う。 


 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年3月12日火曜日

松本榮一のインド巡礼(その10)

ポタラ宮―極奥の神殿

 

ポタラ宮は、インドに亡命している元チベット国王であり、チベット仏教の法王ダライ・ラマの居城であり、同時に歴代ダライラマの墓廟でもあります。

チベットの都だったラサの西北マルポリの丘にぽっかりと浮かぶようにそびえるポタラ宮は最盛期のチベット文化を象徴する壮麗な建造物です。

全幅約400m、面積にして13000平米、基部から13階のこの建物は、一つの建築物としては世界最大級であり、1642年から十数年の歳月をかけて建てられました。

 

1649年、白宮が完成し、当時のダライラマ五世はこの新宮殿に居を移した。

 

やがて1682年、ダライラマ5世が亡くなると、その遺体をミイラにして黄金の霊塔に収め、壮大な廟を白宮の西隣に立てた。これが紅宮である。そして5世から後のすべてのダライラマの遺体はミイラにされ、紅宮に収められているのである。(ただし6世は青海で客死したため、ポタラ宮には6世の霊塔はない。)

1959年、ダライラマ14世は、中国の圧迫にヒマラヤを超えてインドに亡命し、北インドのダラムサラで亡命政府を作っている。

 

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2024年2月26日月曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑬

カルカッタの外で(3)

カルカッタの外での休暇で、どこよりも楽しく過ごせたのは、父方の2番目の叔母さんの家だった。義叔父さんは、州の副行政官だった。職場はビハール州。勤務地はしょっちゅう変わった –– ハザーリーバーグ、ダルバンガー、ムザッファルプル、アラー (1) –– こんな具合に、あっちこっち回るのが仕事だった。ぼくが最初に叔母さんを訪れた時は、ハザーリーバーグに住んでいた。叔母さんには、ニニとルビという二人娘がいて、その他にも、両親を亡くした従兄姉のコッランとロトゥがいた。みんなぼくより歳上だったけれど、誰もがぼくの友達だった。

ハザーリーバーグには、この後も、さらに何度か行った。最初に行った時、覚えているのは、義叔父さんに、緑色のオーヴァーランド車 (2) があったこと。その頃の車の、ちっぽけで不恰好な姿を見れば、今時の人たちはおかしく思うだろうが、このオーヴァーランドがどんなに強力で、どんな困難に出会っても、いかに車としての務めを立派に果たしてきたか、その話を義叔父さんの口から聞いたものだ。

まさしくこの車に乗って、ぼくらはラジラッパー (3) に行ったのだ。ハザーリーバーグから40マイルほど離れていて、ベラー川を渡り1マイルあまり歩くと、ラジラッパーに着く。そこには、寒気を覚えるほど無気味なマハーヴィディヤー女神の寺院 (4) があり、それを囲むようにして、ダーモーダル川の滝と砂岸、彼方に森や山を望む、驚くべき風景が広がっていた。

帰り途に、ブラーフマンベーリアの山裾で、車が故障した。その山には虎や熊がウヨウヨしているとのことだった。でも、車を修理するうちに夜になったけれど、虎や熊の姿を見ることはなかった。

車でどこかに行く計画がない時は、夕方、みんなと一緒に散歩に出かけた。食事の時間の直前に家に戻った。ランタンや灯油ランプのチラチラする明かりの下で、お話やゲームに、すっかり熱中した。カード遊びは、「鏡と金貨」と「盗人ジャック」 (5) 。「盗人ジャック」は誰でも知っているけれど、「鏡と金貨」は、その後、やっている人を見たことがない。それに、それがどんなゲームだったかも、今となっては思い出せない。

他の遊びの中で、もう一つ面白かったのは、「囁き遊び」。五人が丸く輪になってすわる。一人がその左隣の人の耳に、一つの言葉をヒソヒソと囁く。一度だけしか言っちゃいけない。その一度だけ聞いた言葉を、その人はそのまた左隣の人の耳に囁く。こうして耳から耳へと伝わった言葉が、初めの人のところに再び戻ってくる。この遊びの面白さは、最初の言葉が、最後にどんな言葉になってしまうか、にある。ぼくは、最初、左の人に「財産無しの、10人息子(ハラドネル・ドシュティ・チェレ)」と囁いたことがある。それが最後にぼくの耳に戻ってきた時には「でっかい耳に、象が笑う(ハングラカネ・ハティ・ハンシェ)」になっていた。10人以上になれば、この遊びはもっと面白くなる。

ハザーリーバーグの次はダルバンガー、その次はアラー。この二つの場所は、どちらも、ハザーリーバーグに比べれば大したことはないけれど、だからと言って、楽しいことに変わりはなかった。この時までに、ニニとルビのもう一人の従妹、ドリがやって来たので、遊び仲間がまた一人増えていた。

ダルバンガーの家は、ものすごく大きな敷地を持った、バンガローのような平屋だった。敷地の一方には背の高いシッソー紫檀 (6) とマンゴー、その他にも、いったい何本の木があったことか。家の左側の空き地には、もう一本、大きなマンゴーの木があった。そこにはブランコが吊るされていた。

ぼくらが行ったのは雨季だった。雨が一頻り降った後、ブランコが下がった木の下の、草のない地面の狭い水路や溝を通って、雨水が勢いよく走り、ドブの中に落ちた。ぼくらは紙の船を作って、溝の水面に漂わせた。溝は、いまや川となる。船は川の流れに乗り、ドブの海の中に落ちる。

この船が、時にはヴァイキングの船になることもあった。千年前、ノルウェイには海賊がいて、ヴァイキングと呼ばれていた。ぼくらは、ヴァイキングの誰かが船に乗ったまま死ぬと、その屍を船の上で焼くのだ、と想像した。紙で海賊を作り、紙の船の上にそれを寝かし、その顔に火をつけて船を雨水の中に解き放った。これがヴァイキングの葬式だった。もちろん、船も、ヴァイキングもろとも、燃えてしまった。

アラーへ行ったのは、ぼくが9歳の時だ。義叔父さんの家は、赤煉瓦の宏大な屋敷だった。真ん中の庭を囲んで、随分たくさんの部屋があった。思い出す限り、その内のいくつかの部屋は、使われてもいなかった。二階にもいくつか部屋があって、その内の一つが義叔父さんの作業室だった。屋敷の広さに見合った庭もあった。

コッラン兄(ダー)は、ぼくより6歳以上歳上だったけれど、ぼくの特別の友達だった。切手を集めていた。兄さんを真似て、ぼくも収集を始めた。ヒンジ (7) を買い、トゥイーザー (8) を買い、虫メガネまで買った –– 切手に印刷の間違いがないかどうか、見るために。間違いがあれば、その切手の価値は、すごく高くなる。国内のものも、外国のものも、切手が手に入ると、すぐに虫メガネを目に当ててそれを見た。 –– いいや、こいつには何の間違いもない –– こいつにも、だ –– こんな調子で、どんな切手にも、一度も間違いを見つけることはなかった。それがたぶん理由で、しまいには飽きて、収集するのをやめてしまった。

コッラン兄には、もう一つの役割があった –– そのことを、ここで話しておく必要がある。

クリスマスというものに、子供の頃から惹かれていたことは、前に述べた。サンタクロースという髭を生やした老人がいて、クリスマスの前夜に幼い子供たちの部屋に入って、寝台の枠に吊るされた彼らの靴下の中を、おもちゃでいっぱいにする –– このことを、ぼくはたぶん、そのまま信じていたのだ。

2番目の叔母さんの家での楽しさときたら、他のどことも、比べようもない。なのに、この楽しさからクリスマスが除外されるなんてことが、どうしてあり得よう? それが12月である必要が、どこにある? クリスマスが何月にあったって、いいじゃないか!

こういうわけで、アラーでは、6月に、コッラン兄がサンタクロースになったのだ。ぼくの寝台の枠に靴下が吊るされた。夜、ぼくは眠ったフリをして、寝床の中に入っていた。コッラン兄は、綿を顎髭と口髭に見立てて、顔に糊でくっつけた。背中には袋を担がなけりゃならない、なぜなら、その中に贈り物が入っているから。それに、サンタクロースがやって来ることを、知らせる必要がある。それで、袋の中には、他の物と一緒に、いくつもの空き缶が突っ込まれていた。

半時間ほど黙って横になっていると、ジャンジャン、ジャンジャン、音が聞こえた。

その少し後、半分閉じた目で薄闇を見透かすと、サンタクロースの服を着込んだコッラン兄が、袋をぶら下げて入って来て、寝台の枠の側で立ち止まった。そして、そのすぐ後に続くカタコトいう音で、ぼくの靴下の中に何かを入れているのがわかった。何もかもが作り事なのは自分でもわかっていたけれど、それでも、楽しいことといったら、なかった。

その時は、ぼくらがアラーに滞在中に、ドンお祖父ちゃんもやって来た。ぼくら兄弟姉妹はみんな揃って、夕方、お祖父ちゃんと一緒に外出した。アラー駅は、ぼくらの家から1.5マイルほど離れていた。ぼくらは、駅のプラットフォームに立って、日が暮れようという頃、インペリアル急行 (9) が、あたり一帯を震撼させて、ぼくらの前を汽笛を鳴らしながら走り去るのを見た。この巨大な汽車の客車の外側は薄黄色で、その上は黄金色の模様で飾られていた。他のどんな汽車にも、こんな派手さ、豪勢さはなかった。

ある日、みんなで駅の方に向かって歩いていた。お祖父ちゃんはフェルトの山高帽をかぶり、手にステッキを持って、完全に白人サヘブ風の服装で、ぼくらを従えて進む。そんな時、どこからか、一頭の牛が、角を振りかざし目を赤くして、ぼくらに向かって駆けて来た。こんな獰猛な牛を、ぼくはそれまで見たことがなかった。お祖父ちゃんは即座に言った、「おまえたち、畑の中に下りるんだ!」

畑に下りようとすれば、センニンサボテン (10) の柵を越えなければならないのだが、お祖父ちゃんは、そこまでは気が付かなかった。ぼくらも、だ。センニンサボテンの藪を抜けて、畑に下りた。棘に引っ掛かって手足がどれだけ傷ついたか、その状況下では、そんなことに気づく余裕すらなかった。ぼくらは藪の隙間から、息を呑んで見つめていた –– お祖父ちゃんは、牛の方に向かって両足を広げて立ち塞がると、手に持ったステッキを飛行機のプロペラのようにブンブン振り回す。牛の方も、角を振りかざして2メートルばかり離れた場所に立ち止まり、この奇妙な人間の奇妙な振舞いを目にして、釘付けになっている。

ドンお祖父ちゃんのこの威勢の良さを目にして、さすがの気狂い牛も、ものの1分と我慢することができなかった。

牛が立ち去ると同時に、ぼくらは勇気を奮って、それ以上身体を傷つけないように気をつけながら、藪の蔭から出て来た。

 

訳注

(注1)ハザーリーバーグとダルバンガーは、現在のジャールカンド州。また、ムザッファルプルとアラーは、現ビハール州にある。

(注2)アメリカの自動車製造会社。1903年に創立。

(注3)ハザーリーバーグの南東65 kmに位置する、ヒンドゥー教の聖地。ベラー川がダーモーダル川と合流する地点に、大きな滝がある。

(注4)ヒンドゥー教性力(シャークタ)派の聖地。マハーヴィディヤーは、シヴァ神の妻サティー女神の10の化身の総称。シヴァ神が怒りにまかせて、死んだ妻サティー女神の骸を抱えて踊った時、そのバラバラになった身体部位がインドの51箇所に落ちた。ラジラッパーはその一つで、サティー女神の首が落ちたと伝えられる。

(注5)4枚あるジャックの一枚を抜き、残りのカードをプレーヤーに均等に分配する。互いにカードを取り合い、同じ数字のカードが2枚揃うと除いていく。最後にジャック一枚を手元に残した人が盗人(負け)となる。

(注6)英名 Bombay rosewood マメ科の落葉高木。高いものは20mを超える。円形の滑らかな葉をつける。材は美しい濃褐色か紫褐色で非常に硬く、高級家具やタブラーの胴等に使われる。

(注7)切手を直に触れるのを避けるため、切手の裏に貼り付ける、蝶番型の紙片。容易に貼ったり剥がしたりできる。

(注8)切手をつまむためのピンセット。

(注9)ボンベイ港とカルカッタの間を、郵便物と、限られた人数の一等乗客を運ぶために運行した、急行列車。1897年に始まり、1926年からは新しい車両が設置され、インドで最も豪華な汽車となった。ボンベイーハウラー(カルカッタ)間を、片道40時間前後で往復した。

(注10)サボテンの一種、2メートルほどの高さに生育する。黄色や赤みがかった花を咲かせる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年2月14日水曜日

天竺ブギウギ・ライト⑨/河野亮仙

第9回 インド祭の時代


もう古い話になるが、1988年にインド祭があった。ヨーロッパで製造したエアバスをインドが買って、そのお礼としてインド祭を始めたとか聞いた。英仏米ソ連に次いで、景気の良い日本でもやってもらおうということになったのだろう。


具体的には1985年のラジーヴ・ガンジー首相来日時に、中曽根首相と合意したものらしい。開催時は竹下首相。三井銀行の小山五郎が日本委員会の委員長となり、財界に声を掛けて基金を募った。それが楽にできた時代だった。


ちなみに、日本アマチュアカバディ協会ができて初の全国大会を行ったのは翌年の平成元年1986年だったが、その時も大手企業が協賛して広告を出してくれた。いつの間にか撤退して、今は年度末には現金が底をつく。


インド祭日本委員会事務局長は松本洋で、そこにミティラー美術館の長谷川時夫がボランティアで手伝いますと飛び込んだ。その後長谷川は、ポストインド祭を考える会を結成。考えるだけではなくて全国津々浦々を回って音楽・舞踊イベントを繰り広げた。
http://www.mithila-museum.com/directorTH/data/list_post.pdf


それが今日のナマステ・インディアにつながる。2023年の4月にはナマステ・フランスというイベントが、かつてパリ万博が行われたセーヌ川沿いで開催されたらしい。
https://www.euronews.com/culture/2023/07/04/namaste-france-2023-festival-to-showcase-the-best-of-indias-art-culture-and-cuisine

ソ連のインド祭
資料を探していたら、何と“Festival of India in the USSR”のパンフレットが出てきた。幸い英語版だ。1987年7月から88年7月にかけて開催された。ソ連とインドは昔から仲が良いので日本より大規模に催された。


オープニング・スピーチはゴルバチョフ大統領である。おーっという感じ。クレムリンで行われたと思われるオープニング・アクトがすごい。スブラクシュミー、ビスミラ・カーン、イムラット・カーン、ラルグディ・ジャヤラーマン、チッティ・バブ、パドマー・スブラマニヤム、マニプリーの舞踊団、ヤクシャガーナ、セライケラ・チョウなど。行きたかった。


引き続いて、グル・ケールチャラン、ウマー・シャルマ、ビルジュ・マハーラージ、ヤーミニー・クリシュナムールティ、ショーバー・ナイドゥ、V.P.ダナンジャヤンの豪華舞踊陣、ダーガル兄弟、アムジャッド・アリ・カーン、ハリプラサード・チャウラシア、シヴクマール・シャルマ、ラーム・ナーラーヤン等々のリサイタル。知らない人には単なるカタカナの羅列だが、人間国宝級のお歴々、うらやましくてため息が出る。この時、ソ連は大国だった。今やインドの方が大国だ。

ケーララの諸芸能 
インド祭の準備段階で、オフィス・アジアはクリシュナーッタムを招聘するつもりでいた。これは サンスクリット詩の『ギータ・ゴーヴィンダ』(12世紀)のケーララ版であり、それに舞踊を付けたものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=pTFe0B1F08U


縁結びには『スヴァヤンヴァラ』の場面を、子宝を望む時はクリシュナ誕生の物語を、立身出世を志す者は戦いの場面をリクエストする。グルヴァユールのクリシュナ寺院に、たんまりお布施をして上演を依頼する。八場面に分け、一場を一晩かけてクリシュナの物語を上演する。一晩チャーターするのにいくらと聞いたか忘れてしまった。何ヶ月も先まで予約が入っていたそうだが、今はどうなのだろう。


『ギータ・ゴーヴィンダ』の詩にはラーガとターラの指定があって、詩歌の朗詠というより歌われていた。それに振り付け、舞踊を付けたいと考える人が出てくる。ジャガンナート寺院で演じられていたようだ。伝承は失われ、今のオリッシー・ダンスとは、直接、つながらない。


クリシュナの物語は面白いし、ラーダー達の舞い、ラース・リーラーは見応えがある。しかし、カタカリと同じように化粧を施す、グルヴァユール寺院だけで行われている男子のみによる舞踊劇は、カタカリと何処が違うのかとインパクトがないかもしれない。

古典語劇
クーリヤーッタムは見かけこそカタカリに近い。カタカリ役者はしゃべらないが、クーリヤーッタムは基本的に古典語、インドで伝承されてきた唯一のサンスクリット語劇であり、セリフがある。もっとも聞いて分からないが、ムドラーでサンスクリット語の格変化まで示せるなど、カタカリ以上に複雑な体系を持つ。世界最古の舞踊劇で門外不出、地元の人以外は知らなかった。能や伎楽、歌舞伎との比較で、日本人はこういうのが好き、というか、能楽とともに2008年、ユネスコの無形文化遺産に選ばれている。


クーリヤーッタムもカタカリも基本的には王家がスポンサーであって、その寺院の本尊に向かって奉納する儀礼として上演するのが本来の形だ。大小の王家や富裕な地主や寺院は、それぞれカタカリやそれに類似する緑色に顔を化粧する役者たちを抱えていたのだろう。かつてはラーマナーッタムというラーマーヤナ専門の劇もあった。コーイルとかカブと呼ばれる小規模な寺院を回ってゆく芸能者もいる。


もともとは顔に赤や黄色、肌色の化粧を施す祭祀芸能のテイヤムが古くからあった。ローカルな神格を降ろしてお告げをする、シャーマン的な性格を持つ低カーストの芸能者の祭礼があった。


それをベースにラーマーヤナやマハーバーラタ、プラーナなどの大伝統に取材した舞踊劇を上演するときには、緑を基調とするメイクを施したようだ。例によって何がいつ頃から始められたかは分からない。


テイヤムの萌芽は紀元前後にあるのかもしれない。クーリヤーッタムのようなサンスクリット語劇は1000年以上前から行われていたと思われるが、いつから緑色にメイクしたのかは全く分からない。


顔に化粧を施し、女形の活躍する演劇形態として、歌舞伎とカタカリは早くから西欧に知られ、日本でもしばしばカタカリ劇団は招聘されている。その本家本元?としてクーリヤーッタムを招聘できたのは、まさに、画期的なことだった。


演出家・役者として劇団を率いたG.ヴェーヌは、その後も何回か役者、舞踊家を連れて来日した。ヴェーヌの組織する研究所ナータナ・カイラーリは亡くなられたアマヌール・チャーキヤールが指導していた。
https://www.youtube.com/watch?v=38vY4hqJ7PY


そこにバラタナーティヤムから転向した入野智江が、日本人として初めて飛び込んでナンギヤール・クートゥを習った。カタカリの演者が男だけであるのに対し、クーリヤーッタムの場合、男優はチャーキヤールというバラモンに準じるカーストの男が演じ、女優はナンギヤールと呼ばれる。


チャーキヤール家の女は芸能に関わらず、打楽器奏者であるナムビヤール・カーストの女性がナンギヤールといって女優を務めるのが伝統だ。アランゲットラムという女優デビューのお披露目をしてナンギヤールを名乗れる。ナータナ・カイラーリには岡埜桂子も入門してモーヒニーアーッタムを習い、現地でも公演活動を行っている。ケーララは気候も人々も温暖で、とても居心地のいい所だ。
https://www.youtube.com/shorts/-RUKo75TvNY


岡埜の師ニルマラー・パニッカルはヴェーヌと共にモーヒニーアーッタムの本を著し、単著でナンギアール・クートゥの本を1988年に出した。20年以上本棚に眠っていたが、読んでみるとケーララ舞踊史といってもよい優れた著作だ。


ニルマラーはモーヒニーアーッタムをカラーマンダラム・カリヤーニクッティ・アンマらに付いて習っている。アンマの元には、私の『カタカリ万華鏡』を片手にケーララに向かった安達(渡辺)尚代が飛び込んだ。30年以上前の話だ。元々はオリッシーの故高見麻子と共にかんみなの元でタゴール・ダンスを学んでいた。今も元気に活動中である。モーヒニーアーッタムでは多芸多才な丸橋が賑やかに活躍中。チャーキヤールの元でも修行した話は『おしゃべりなインド舞踊~ケララに夢中』に詳しい。


原初的な芸能
ケーララには地方色豊かな民俗芸能が多く伝承されている。最も原始的な芸能はサルパン・トゥッラルで、サルパンは蛇、トゥッラルはぴょんぴょん跳ねる踊りのこと。カラムといって地面に5色で蛇の絵を描く。梓弓のように弓をビンビン鳴らして、蛇の神を讃える歌を歌う。彼らは放浪の芸人プッルヴァンで、そのオリジンは呪医であるという。
https://www.youtube.com/watch?v=K0NY42Cjq9I


元々は毒蛇に噛まれたときなどの治病儀礼で、蛇さんあんたは偉いと慰撫して緩和処置を依頼するもののようだ。蛇が多産であることから、子宝を望むときにその娘を中心に行った。今では家族の繁栄を願って乙女を選び出す。歌が佳境に入ってくると5匹の蛇の霊が5人の娘に乗り移り、ぴょんぴょん跳ね回って踊り、最後に娘達は地面にのたうち回ってカラフルな蛇の絵を消し、蛇と一体になりお告げをする。


カラリパヤットゥの研究家で実践者でもあるフィリップ・ザリリの奥方デボラ・ネフがその研究をして抜き刷りをもらったが、どこに仕舞い込んだやら。


カラムというのはケーララ寺院の前庭で、カラリパヤットゥのカラリと意味は同じだった。そこで儀礼を行い、子供達は読み書きを習い、武術を鍛錬し、時には祭礼を催した。その多くがバガヴァティー女神の寺だ。


バガヴァティー(バドラカーリー)女神の大きな絵を地面に描いて、女神が魔を滅ぼす劇を演じるムディエットという芸能がケーララの南にある。ムディというのは冠のことだが、やはりカタカリのような化粧をする。カンバセーションの故芳賀詔八郎と話して、世田谷美術館でやろうと企画したが実現しなかった。今となってはできない。惜しいことであるが、今はYouTubeで見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=DNxIKWHvGHc

同じくケーララの南、コチ、クイロンの辺りにパダヤニがある。これも顔を緑に塗るが、椰子で造った仮面を付けたり、大きなかぶり物を付けたりする激しいステップが特徴だ。これは早稲田銅羅魔館の森尻純夫がハヤチネ・フェステイィバルに招聘し、本場の早池峰神楽や韓国のムーダンと競演した。1987年7月のことだった。
https://www.youtube.com/watch?v=dyeO9f02yDg


ケーララの北にはテイヤムがあり、隣接するカルナータカ州南部にはブータという祭祀芸能がある。テイヤムは神という意味、ブータは霊とかお化けの意味だが芸能として両者はよく似ている。
https://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/teyyam/teyyam2.htm#NO1
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspeconf/55/0/55_647/_pdf


こんな土俗的な芸能とバラモン文化が融合してゆく。12世紀の『ギータ・ゴーヴィンダ』が最後のサンスクリット詩の傑作で、その後は地方語によって文学、芸能が発展する。16世紀頃になってカタカリのような歌と舞踊が融合した演劇形態が形成されてきた。ケーララの諸芸能にその進化過程を見ることができて、さらに、そのほとんどを居ながらにしてインターネットで見られるようになったのだから驚きである。


参考文献
河野亮仙『カタカリ万華鏡』平河出版社、1988年。

「蛇神の祭礼」『季刊民俗学』48号、千里文化財団、1989年。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年2月8日木曜日

松本榮一のインド巡礼(その9)

ジャイプル サモードパレス

 

サモードパレスはジャイプル郊外の静かなサモード村にある宮殿です。もともと要塞でしたが、約500年前、この村の領主によって宮殿に建て替えられ、コロニアル様式と、インド伝統様式を取り入れた、小ぶりですが、素晴らしい宮殿です。

また近くには、サモードバーグという名の美しいプールのある庭園もあります。

この宮殿の素晴らしさは、全館にサラセン文化の彩色が施され、その命の花の彩色された壁面は、絢爛たる花園に紛れ込んだようです。

この宮殿の花柄のモチーフは、ペルシャの影響といえるでしょう。それはジャイプルの布の名品である木版更紗のモチーフも、この宮殿と同じ、ペルシャから伝わったものだといえるのです。

 

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2024年1月9日火曜日

松本榮一のインド巡礼(その8)

シルクロード 2:ガンダーラの遺跡

 

アレキサンダー大王(紀元前326)が遠征したことで有名な、タキシラは、アレキサンダーの帰還に入れ替わるようにきた、インド・マウリア朝のチャンドラグプタの支配下(紀元前321)に入った。その孫であるアショーカ王はタキシラ最古の仏教遺跡ダルマラージカーを建設したと伝えられている。

紀元後の76年にはクシャーナ朝が成立し、ここからガンダーラ美術が開花した。

タキシラの発掘は、1872年イギリス人の考古学者アレキサンダー・カニンガムによって始まった。数多くのガンダーラ美術の傑作が、タキシラから発掘された。

今はイスラム教の国になってしまったパキスタンは、かつては強力な仏教文化が栄えたのだった。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2023年12月24日日曜日

天竺ブギウギ・ライト⑧/河野亮仙

第8回 インド舞踊の揺籃期/シャーンター・ラオのデビュー

昔、日印協会が八重洲にあったときはよく行った。茅場町に引っ越してからは数回しか行ってないが、麹町に引っ越すに当たって書棚を整理するというので出掛けた。誰も興味を持たなくても、私には貴重な本と雑誌を段ボール二箱譲り受けた。

その中にDANCES OF THE GOLDEN HALLという本があった。1971年にパドマシュリーを受賞した孤高の舞踊家、シャーンター・ラオ(1925-2007)の評伝である。1982年8月インディラ・ガンジー首相が来日した際、日印協会に寄贈した本の中の一冊でICCR発行だ。ガンジー首相は親のネール首相の代からシャーンターの信奉者だった。126ページの半分近くがスニル・ジャナによるシャーンターの写真からなっている。

https://www.youtube.com/watch?v=TxEso78EIJA

シャーンターという名は偶然にも大智度論における一角仙人の話に登場する遊女と同名だ。尼なら寂尼、白拍子なら静御前といったところだ。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e3%83%96%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%82%ae%e3%83%bb%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e2%91%a5%ef%bc%8f%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99/

始まりはタゴール

イギリスの統治時代、踊りは売春婦のやるものとして、寺院におけるデーヴァダーシーの舞も禁止された。一方、インドの伝統を大事にしようという動きもあって、ラビンドラナート・タゴールは、1917年、自身の大学のカリキュラムに舞踊を加えた。マドラスの弁護士E.クリシュナ・アイヤーは、女が駄目なら、男ならいいんだろうということか、自身も舞踊を習って踊り、バラタナーティヤムの復興に寄与した。イギリスからの独立とインド文化の再興は密接に関係していた。

その頃、ルース・デニスとテッド・ショーンの舞踊団が1925年にインドを訪れて刺激を与えた。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/

1932年にルクミニー・デーヴィーはパンダナルール・シスターズの踊りを見て感激し、それがバラタナーティヤムを志すきっかけになった。そして、1934年、パンダナルールからその師であるミーナークシ・スンダラム・ピッライをアディヤールに招く。同年、クリシュナ・アイヤーはデーヴァダーシーの家系のバーラサラスヴァティーをバナーラスのオールインディア・ミュージック・コンファランスの舞台に乗せた。これもタゴールの尽力による。

1935年、ルクミニーは神智学協会創立50周年の祝いの席でバラタナーティヤムを披露する。シャーンターはルクミニー・デーヴィー(1904-1986)に続く世代の舞踊家である。ラーム・ゴーパル(1912年生)と共に世界ツアーを行った。ゴーパルは初めケーララ・カラーマンダラムに学んだ。シャーンターは1918年生のバーラサラスヴァティー、ムリナリニー・サラバイより若く、チャンドラレーカーと同い年のようだ。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ae/

シャーンターはボンベイに住む、由緒ある先進的なハイソサエティのバラモンの家に生まれた。子供の頃は身体が弱かったともいい学校は休みがちだった。カタックやマニプリー・ダンスに興味を持っていた。マニプリー・ダンスのザベリ・シスターズがボンベイで活躍していて、タゴールの元に預けようかとも相談していたようだ。

しかし、ケーララのカタカリ学校カラーマンダラム(1930年設立)に行くといって親を慌てさせる。14歳頃の話である。ラヴンニ・メノンに学び、1940年にはカタカリを踊ってデビューしている。女がカタカリを学ぶのは初めてのこと。カラーマンダラムでは女の舞であるモーヒニーアーッタムもクリシュナ・パニッカルから習っている。

カラーマンダラムでは1931年から3年ほどカリヤーニ・アンマがモーヒニーアーッタムを教えた。クリシュナ・パニッカルがナットゥヴァンガムで小さなシンバルを叩いて全体を指揮した。伝統的には男の舞踊の師が小シンバルを打つ。カリヤーニは後にタゴールに見いだされて、タゴール大学でも教えるようになる。フォーダンスのカイコーティカリを教えたようだが。

https://www.youtube.com/watch?v=f8hLN1LdsLg

容赦ないしごき

カタカリの訓練は格闘技のトレーニングと同じくらい厳しいので、初めは女性を受け入れることを拒んだ。しかし、女だからといって手加減しないけれどいいのか、と念を押して入学を認めた。

午前2時半起床で目の運動から始め、お昼頃まで練習する日課だった。比叡山の行などでも午前2時頃に起きて、水浴びして一日が始まる。インドの夏は長くて暑いので、寺院では夏安居といって活動を控える養生のための修養期間がある。カラーマンダラムにも長い夏休みがあるのだが、驚くことにシャーンターはマドラスにバラタナーティヤムの師を探しに行く。

そして、たどり着いたのがクンバコーナムに近い辺鄙な村、パンダナルール。そこにはルクミニー・デーヴィーの師でもあるミーナークシ・スンダラム・ピッライがいた。そこでもまた、容赦ないしごきのような訓練が行われる。シャーンターは次のように語る。

朝は師より早く起きあがって、5時半から8時まで朝のレッスンがある。小屋みたいな家なので同じ部屋に起居している。師は30分ほど朝のお祈りをしてその後に朝食となる。そして、お昼までレッスンは続くが休み時間を与えない。喉が乾くと水を飲むことだけが許される。水浴びして再びお祈りをしてからランチとなる。サラスヴァティー・プージャーとか特別な日には1、2時間儀式をして、その間シャーンターはおなかを空かして待っている。ランチの後は半時間ほど休める。

3時からまたレッスンで、5分休憩でコップ一杯のミルクを飲むことが許され、6時まで続く。7時からはハスタ・ムドラー、手印の練習で、これは坐って行う。1時間半ほど続けて、ようやく軽い夕食を取り、お休みの時間となる。老人なのに教える方もたいしたものである。パンダナルールとカラーマンダラムのあるショールヌールを往復してこんな生活をしていた。どんだけーーっという感じだ。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e3%80%8c%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ad%e3%80%8d/

 

 

シャーンターは1943年、マドラス・ミュージアム・シアターでバラタナーティヤムを披露した。昔の正式なお披露目アランゲットラム、舞踊家デビューはこれ位大変なことだった。

ミーナークシ・スンダラム・ピッライはラーム・ゴーパルやムリナリニーら幾多のバラタナーティヤムの著名人を教えているが、シャーンターの踊りは、先にカタカリを習ったためか、とても力強いステップを踏み、男性的で特異なスタイルだった。

ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンの紹介者として知られるバイオリニストのユーディ・メニューインは、1952年にボンベイでシャーンターの踊りを見て、1955年、アメリカに連れて行っている。1957年にシャーンターはカタカリ舞踊団を連れて訪米し、イスラエルも訪れている。

https://www.youtube.com/watch?v=FChXM3LAtuc

1964年にはユーディ・メニューインの紹介でウィンザー祭に参加し、英国の他、イスラエル、ドイツ、ネパールを訪れ、1978年には3ヶ月にわたる日本ツアーをしていたとチャテルジーは記すが、不詳である。可能性があるのは民音の「シルクロードの音楽」のシリーズであるが分からない。この本には年度の間違いがあるように思う。

今日、シャーンター・ラオの名を知る人は少ない。カラークシェートラやダルパナのような学校で教え、弟子を育てることをしなかったからだろう。ヴェンパティ・チンナ・サティヤムにクチプリを習い、スリランカにも行ってキャンディアン・ダンスを習っている。南インドの舞踊のルーツは何かと身をもって体験しながら探ったのであろう。我が道を真っ直ぐ歩む求道者であった。数少ない昔の映像がYouTubeに上がっているのは幸いである。

参考文献

Ashoke Chatterjee, Sunil Janah, “Dances of the Golden Hall”, Indian Council for Cultural Relations, New Delhi, 1979.

Beryl De Zoete, “The Other Mind/A Story of Dance in South India”, London, 1953.

G. Venu, Nirmala Paniker, “Mohiniyattam”, Natana Kairali, Kerala, 1994.

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年12月21日木曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑫

カルカッタの外で(2)

7歳になった頃、初めてダージリンに行った。母方の3人の叔母さんの家に、交替で滞在することになった。全部で何日滞在するかは決めていなかった。ダージリンに行く途次、明け方、汽車の中で眠りから醒めて、窓を通してヒマラヤを目にした時、息を呑んだ。シリグリ (1) では、マヤ叔母さんが自動車を迎えに寄越してくれた。なぜなら、まず初めにこの叔母さんの家に滞在することになっていたから。運転手はベンガル人だった。山裾に沿って、くねくね曲がる道が、上に向かっている。上に行けば行くほど、雲と靄が濃くなり、ぼくらの運転手はますます車のスピードをあげる。彼に言わせれば、道のどの曲がり角も完全に頭に入っているので、怖がる必要はない、とのことだった。

マヤ叔母さんの旦那のオジトさんは、ダージリンでは著名な医者だった。(この人のカルカッタの家にぼくは柔術を習いに行ったのだ。(2)その息子のディリプ・ダーはぼくより5歳ほど歳上で、生粋のネパール人みたいにネパール語を話し、家の門の横で足を伸ばしてすわっては、ネパール人たちとカード遊びをしたものだった。それに、乗馬の腕前ときたら、チンギス・ハーンさながらだった。彼は、後にしばらく、ダージリンのレボン競馬場 (3) で騎手だったことがある。ダージリンの歴史の中で、ベンガル人で騎手を務めたのは、たぶん彼だけだろう。

ディリプ・ダーとは「キャラム」で盛り上がった。それに、ディリプ・ダーのところには、コミックの本が山ほどあった。ぼくはごく幼い頃からコミックの熱烈なファンだった。ぼくが熱を出すたびに、母さんはニュー・マーケットから、4アナを払って、新しいコミックの本を何冊か買ってきてくれた –– 中でも一番面白かったのは、『コミック・カッツ』と『フィルム・ファン』 (4) だった。

マヤ叔母さんの家から、モヌ叔母さんの家に移った。この叔母さんの旦那こそ、ショナ叔父さん (5) が働いている生命保険会社の社長だった。家の名前は「エルギン・ヴィラ」と言って、家の前には山の頂を削って作られたテニス・コートがあった。息子たちもこの義理の叔父さんと一緒にテニスをしたのだ。

このオビナシュ叔父さんについては、ちょっと別に述べる必要がある。なぜなら、子供の頃のぼくらの追憶の多くが、叔父さんのカルカッタのアリプル地区 (6) のニュー・ロードにある、宏大な館と切り離せないから。

オビナシュ叔父さんは、単なる事務員から巨大な、インド帝国生命保険会社(Empire of India Life Insurance Company) (7) の社長にまで、のし上がった。その時には、叔父さんの立ち居振る舞いは、完全にサヘブだった。叔父さんを見て、その最初の頃の様子を想像するのは不可能だ。叔父さんにはたくさんの子供がいて、そのうち、長男のオミオは、ショナ叔父さんの友達だった。二人が一緒になって、絹糸に結ばれた凧を、ボクル=バガンの屋上から揚げるのを見たものだ –– 凧揚げするのはぼくの歳頃で、二人はそんな年齢をとっくに過ぎていたにもかかわらず。ニュー・ロードの館で結婚式があるたびに、どんなに派手で大掛かりなことになったか –– ぼくは、他のどこでも、あんな贅沢は目にしたことがない。招待客にご馳走を振舞うだけじゃない、それと同時に彼らを楽しませる娯楽も用意されていた。長女の結婚式の時、一度、叔父さんが、チットロンジョン・ゴッシャミ教授 (8) を招いたことがある。その当時、チットロンジョン・ゴッシャミ氏は、カルカッタでは誰よりも有名なお笑い役者だった。こうしたものは、今日では姿を消そうとしている。一時間以上にわたって、一人の役者が、いろんな滑稽な芸を見せて観衆を笑わせ楽しませ続ける –– こんな能力は、今日、もはや、誰一人として持っていない。チットロンジョン・ゴッシャミは、そうしたことが難なくできた。アリプルの結婚式で彼が見せた芸の一つを、ぼくはいまだに覚えている –– なぜなら、それを聞いて、ぼくは、父さんが書いた劇、『無敵の槍に打たれたラクシュマナ』 (9) のことを思い出したから:––

 

         ラーヴァナが 長靴を履き 戦場にやって来た。

         (そして)ハヌマーンは彼を 殴る、蹴る、肘鉄かます ––

         (神の御名に 栄光あれ! ラーマの御名に 栄光あれ!)

 

これから始まり、最後の方では:––

 

         ドスっと刺さる 円盤が ラーヴァナの胸に

         あれよ、あれよ!と 叫ぶ声、 目の前は まっくらくら。

         (神の御名に 栄光あれ!)

         20の手にカラスウリ 10の口に角笛 (10)

         見る見るうちに ラーヴァナは トカドヘチマを引っこ抜く。

         (神の御名に 栄光あれ!)

 

無論、この歌を、チットロンジョン・ゴッシャミのように歌える人は、他にいない。喜劇を見せてぼくらのお腹の皮を捩れさせたあげく、彼は最後に、29個のロショゴッラ (11) を、次々に口の中に放り込む。

オビナシュ叔父さんには、一台の、イタリア製の車があった –– その名をランチアという。車が走る時、ボンネットの先端にあるガラスの蜻蛉の身体から、バラ色の光をピカピカ発した。

ぼくらがダージリンに行った時、母さんはまだカルカッタで職に就いていなかった。ダージリンで何日か過ごす間に、急に「女王女学校」 (12) の教師の職を得て、ぼくもこの学校の生徒になった。奇妙な学校で、教室毎に分かれていない。ぼくは大きなホールの隅っこにすわっていて、向こうの片隅のもう一つのクラスで母さんが算数を教えているのが見えた。何日この学校に通ったか、覚えていない。本当に何か勉強したのか、それとも母さんがクラスを終えるまでただ黙ってすわったまま、ほっておかれたのか、それすら覚えていない。

その一方で、気分はすっかり沈んでいた –– なぜなら、雲と靄のために、来てから一度もカンチェンジュンガを見ていなかったから。カルカッタの家の壁には、お祖父ちゃんが描いた色鮮やかなカンチェンジュンガ (13) の絵が掛かっていた。絵に描かれたカンチェンジュンガと、本物のカンチェンジュンガを比べてみたくてウズウズしていた。ついに、エルギン・ヴィラにいたある夜明け時、母さんがぼくを起こしてくれた。窓際に駆けつけた。

お祖父ちゃんの絵では、左側から、夕方の陽射しが、雪の上に落ちていた。そして今、目の前に見えるカンチェンジュンガは、右側から次第に色づき始めている。

口をポカンと開けたまま、陽射しの色がバラ色から黄金色、黄金色から銀色に移り変わるのを見つめていた。この後、インドだけでなく、地球上のいろんな国のいろんな有名な美しい景色を見たけれど、この夜明けと日没の時のカンチェンジュンガほど美しい景色には、お目にかかったことがない。

訳注

(注1)シリグリは西ベンガル州ダージリン県南部の町。アッサム州、ブータン、ネパールに至る要衝。ここから、車、ないし狭軌道の山岳鉄道に乗って県都ダージリンに至る。

(注2)『ぼくが小さかった頃』⑨ 参照。

(注3)Lebong Race Course。ダージリンの北郊外にある、当時、世界でもっとも標高の高い、最も小さな競馬場だった。1880年代に、イギリス軍駐屯地の中のパレードの場所として開かれた。1980年代に軍に撤収され、現在は競馬場としては使われていない。

(注4)’Comic Cuts’, ‘Film Fun’ 詳細は不明。4アナは、1ルピーの4分の1、25パイサに当たる。

(注5)レイの母親の3番目の弟。『ぼくが小さかった頃』⑥、⑦参照。

(注6)カルカッタ南部、フグリ河畔の高級住宅街。

(注7)1897年ボンベイで設立。

(注8)Professor Chittaranjan Goswami 1930年代に活躍したお笑い役者。

(注9)サタジット・レイの父、シュクマル・ラエの遺作。羅刹王ラーヴァナの「無敵の槍」に打たれて死にかけた、ラーマ王の弟ラクシュマナを主題にした、ナンセンス劇。

(注10)ラーヴァナは10の顔と20本の手を持つ。「カラスウリ」、「角笛」、「トカドヘチマ」は、韻に合わせたナンセンスな言葉。

(注11)ミルクを煮てとった上澄み(チャナ)を丸く練り、熱した砂糖水で煮て作る。ベンガルで最もポピュラーな甘菓子の一つ。

(注12)Maharani Girls’ High School ブラーフマ教徒シブナト・シャストリの娘、ヘムロタ・ショルカルにより、1908年初等学校として創設。1911年には高等学校となった。コチビハル藩王国の女王シュニティ・デビと、その妹でモユルボンジ藩王国の女王シュチャル・デビが設立資金を提供したため、この名がある。(この二人の女王は、いずれも、ブラーフマ協会改革派(インド=ブラーフマ協会)の頭領、ケショブチョンドロ・シェンの娘。)

(注13)カンチェンジュンガは、インドシッキム州とネパールの境に聳えるヒマラヤ山系の主峰。サタジット・レイ中期の映画作品『カンチェンジュンガ』 (1962) は、この山を背景に、ダージリンに滞在したベンガル中産階級家族の心理劇を描く。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2023年12月5日火曜日

松本榮一のインド巡礼(その7)

シルクロード 1:長安からインドへ    

紀元前2世紀から、15世紀まで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6400キロメートル以上のこの交流路は、東西の経済、文化、政治、宗教の交流に中心的な役割を果たした。

とりわけ私たち日本人にとってシルクロードが意識されるのは、仏教伝来の道である。

シルクロードがなければ、日本に仏教の伝来は非常に困難だったに違いない。

この道を通った仏教僧 玄奘三蔵の活躍が、この道がいかに仏教伝来に大きな役割を果たしたことを物語っている。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2023年11月28日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑦/河野亮仙

第7回 2023年第19回杭州アジア大会におけるインドとカバディ

40競技481種目という杭州アジア大会が無事閉幕した。この9月、10月はラグビー、バレーボールのワールドカップや様々な世界大会があって、注目度はいまいちだった。TBSが地上波独占中継をした。何回か、ちらちらっとカバディも放映された。

第二次世界大戦後初のオリンピックは1948年にロンドンで開催された。その時に日本は招待されなかったのだが、インド、フィリピン、朝鮮、中華民国、セイロン、ビルマの代表が協議してアジアでも競技大会を行う事を決めた。

栄えある第1回は、ニューデリーで1950年に行うことが決定された。実施競技は陸上、水泳、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車の6競技なのだが、ヨーロッパに発注した競技用具が秋になっても届かないということで、翌年に延期された。

戦後間もない時期で混乱もあったかもしれないが、おそらくは競技施設が間に合わないとか、連絡ミスとかインド側の不手際だろう。半年遅れの51年3月に開催され、日本も参加することが出来た。日本チームは57種目中24種目で金メダルを獲得し、11カ国中最高の成績を収めた。

54年第2回はマニラ、58年第3回は東京で開催され、64年のオリンピック招致に弾みを付けた。ニューデリーでは1982年にも開催されたが、組織運営の出来ないインドでは、その後行われていない。

20世紀においてはバンコクで4回行われて貢献度が高い。韓国では3回、その後中国の経済成長によって3回行われ、日本は東京、広島に続いて2026年に名古屋で開催される。その後はドーハ、リヤドが予定されて、インドは手を挙げていないようだ。

オリンピック新種目

一方、2028年のロサンゼルス・オリンピックではラクロス、スカッシュ、フラッグフットボール、クリケットが競技種目に選ばれた。インドは2036年にオリンピック招致を目指している。

10年あれば競技場は作れるかもしれないが、冬に夏季大会をやるのでなければ無理だろう。エアコンを入れればというが、マラソンはカシミールでやるつもりか。コースが作れないだろう。競技場の前に発電所を作らないと停電する。

また、ニューデリーの大気汚染は最悪で、ガス室にいるようだといわれる。インフラ面でまだまだ課題は多い。カバディもあと10年で積極的に世界中に広めないと、オリンピックの競技種目には選ばれない。

ちなみに釜本邦茂がエースだった1970年のバンコク大会では岡野俊一郎が代表監督。10日間で7試合行う強行日程で、日本はビルマに敗れたインドと三位決定戦を行って敗れている。半世紀前の話だ。

インドのサッカーリーグに日本人選手も参加しているという話も聞いたが、現在はどうなのだろう。わたしは79年8月から82年1月までバナーラス・ヒンドゥー大学に留学していたが、まず、大学の運動場でスポーツをしているのを見た記憶がない。あ、玉蹴りをしているな、という記憶がかすかにあるが、サッカーの試合ではない。

町で見るのは草野球ならぬ草クリケットである。カバディで子供が遊んでいるのも見た覚えがない。インドのスポーツはそんな状況だが、今日では強化に取り組んでいるようだ。

ロス五輪では大谷効果なのか野球が復活する。英国連邦で広まったクリケットの競技人口はサッカーに次ぐというが、その多くはインド人ではないか。1980年モスクワ・オリンピックの頃からインドはクリケット、ソ連はサンボを競技種目に入れるのが夢だった。2018年のジャカルタ大会以来、サンボではなく、ウズベキスタン発祥の民族格闘技クラッシュがアジア大会の競技種目として選ばれている。

クリケットの日本における競技人口は4000人というからカバディより多い。競技人口というのが大会に参加する選手数というなら、カバディはその十分の一だ。栃木県の佐野市がクリケットの聖地で専用グラウンドがある。町興しのようにして商工会議所がバックアップし、サポータークラブには100社超が参加している。

市役所も巻き込んで、グラウンドの用地や助成金で助けてもらっている。日本代表の世界ランキングは50位前後。その点では日本カバディの方が上だが、世界50カ国でカバディをやっているかというと難しい状況なので、オリンピック参加は夢のまた夢。カバディ協会も参考にしないといけない。

https://www.youtube.com/watch?v=10W1NrgfVko&t=91s

日本カバディの課題

さて、今回の杭州大会での結果は予選敗退。日本はAリーグのインド、バングラデシュ、チャイニーズ・タイペイ、タイの組に入った。Bリーグはイラン、韓国、パキスタン、マレーシア。

初戦の対バングラデシュ戦が1、2分テレビで放映されたが、全くかなわず、52対17で破れた。チャイニーズ・タイペイとは互角、タイには勝てると踏んだが、どちらも破れた。選手の怪我や体調不良もあったが、負けは負けである。池江選手がインフルエンザにかかって不調と伝えられたが、実は選手村でコロナも蔓延していて、密かに帰国する選手も少なくなかった。

どうしてもインド、パキスタン、バングラデシュ、イランにはかなわないので、現時点で決勝リーグ進出は難しい。この4チームは体格が大きく足腰が強い。インドのプロ・カバディの上位チームのレベルなので、学生カバディの延長でやっている日本チームは到底かなわない。今回はベテランと若手がかみ合っていいチームだと思ったのに残念である。チャイニーズ・タイペイがバングラデシュに勝って決勝リーグに進出したが、中国拳法等の格闘技出身選手が多く、バングラデシュに力負けしない。

3年後の名古屋大会ではベテラン3人が抜ける事が予想される。TBSの番組でアジア発の競技に体当たり取材した杉谷拳士は、カバディが一番面白かったというので、今後の普及と強化に期待したい。イラン人のような長身の攻撃手、怪我を押して試合に出場するラグビー選手のようなフィジカルの強い選手が望まれるが、日本チームは線が細い。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e4d00062113a21c7bb7a488a3066d288085030c5

カバディ決勝戦は判定でもめて中断したが、辛くもインドがイランから金メダルをもぎ取った。前回はイランが優勝したのでようやく面子を保った。3位はチャイニーズ・タイペイとパキスタンである。日本とチャイニーズ・タイペイは遠征でも接戦で、いつもいい勝負をしているだけに残念である。女子の部は、今回、日本は参加できず、インドが優勝。チャイニーズ・タイペイが2位、イランとネパールが3位。

今回の杭州アジア大会においては、インドのお家芸であるカバディ、クリケットのほか、メダルを増産した。女子5000メートル走では、ゴール前で廣中瑠梨佳選手をかわし、0.59秒差でインドのチャウダリー選手が優勝するなど、陸上選手の活躍が目立つ。男子1600メートルリレーでは61年ぶりのインド優勝。男子やり投げでもインドが1、2位となった。

金メダル獲得数は中国201、日本52、韓国42に次いでインドは28である。アジアの陸上王国を目指してオリンピックに臨みたいようだ。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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