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2024年5月13日月曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑰

学校生活(3 
 
主席パンディット(1) のボトチャルジ先生については、その手書きの字の美しさが何よりも印象に残っている。あんなに美しいベンガル文字を、黒板の上に書けた人が、他にいるとは思えない。 
 
次席パンディットを、どうしてビャン・パンディットと呼ぶことになったのか、その理由はついに知ることができなかった。この渾名は、ぼくが入学する前に既につけられていた。この人が笑うところを、一度として見た覚えはない。でも、いつも不機嫌な顔をしていたとは言え、生徒たちの扱いは、それほど厳しくはなかった。ある時放ったこの先生の怒声は、今でも耳の中に貼り付いている –– 「大声を出しすぎて、わしの喉から、血がガンガーのように溢れ出ているというのに、それでもお前たちは、注意を払おうとしないのか?」 
 
彼が手を上げることは、あまりなかったけれど、一度、オジョエの耳の横に平手打ちをかませて、彼を失神させたことがある。その日、学校中が大騒ぎになった。昼休み前の授業でこの出来事が起き、昼休みの合図の鉦が鳴ったが誰も教室から出なかった。オジョエは顔を真っ赤にして手で耳を押さえ、屈み込んですわっていて、生徒たちは彼を取り囲み、パンディット先生も、教室の中で、ほとんど囚われの身にされている。外では、教室の閉じた扉の横型ブラインドの隙間から、他のクラスの生徒たちが、「ビャン! ビャン!」と揶揄の声をあげる。 
 
先生たちの中には、打擲(ちょうちゃく)以外に、もう一種類の武器を使う人がいた。それは打擲にも増して効果的だった。その武器とは、言葉の矢を浴びせること。ロモニ・バブーは、これに関しては、他の追随を許さなかった。彼のひん曲がった顔は、皮肉・冷笑を浴びせる機会を、いつも窺っていた。ションジョエという名の新しい生徒が一人、入ってきた –– たぶん、8年生の時だったと思う。彼とタゴール家との間に、何らかの親縁関係があることが知られた。同級生が、こんな嘲弄の機会を、みすみす逃したりするものか? ぼくも同じ目に会った。ぼくがシュクマル・ラエの息子で、ウペンドロキショルの孫であることは、最初から知られてしまっていた。その後、さらに時が経つにつれ、HMV の歌手コノク・ダーシュ(2) がぼくの母方の叔母で、ベンガル人最強のクリケット選手カルティク・ボース(3) がぼくの父方の義理の叔父であることも、わかってきた。その数日後に、ぼくが聞かなければならなかったのは、「おい、マニク、オモルがな、ジョージ5世(4) がお前の母方の祖父さんだと言うんだが、本当かい?」 
 
ションジョエの場合も、同様に、「ロビ・バブー(5) は、いったい、お前の何になるんだい? お前の父さんの兄貴か?」 –– こんな質問を、繰り返し聞かなければならなかった。彼の難点はと言えば、その身体の色が目立つほど白い上に、バラ色の色斑までついていたこと。いわゆる、「ミルクにアルタ」(6) というやつだ。その上、タゴール家の人びとが持つ才能の分け前を、彼がそれほど多く授かったわけではないことも、時を経ずして明らかになった。ロモニ・バブーはそれに勘づいて、彼に向かって言葉の矢を浴びせた –– 「おい、見てくれ良しのカラスウリ・タゴール君(7) 、お前のバラ色の耳を、もう少し赤くしてやろうじゃないか? こっちへ来な!」 
 
ロモニ・バブーの、この棘だらけの言葉に耐える力を、ぼくらは誰一人持たなかった。でも、先生たちの怒りをほどほどに封印するやり方を、生徒たちが心得ている場合もあった。ブロジェン・バブーは、ぼくらの人気者先生の一人だ。彼の口から辛辣な言葉が出ることはあまりなかった。生徒たちが騒ぎ立てると、彼はとても慌てて、「おしゃべりはやめなさい! やめなさい!」(Cease talking! Cease talking!)と言うのだった。この言葉が、いつも特に効果があったわけではない。一度、こんな状態が耐えられなくなり、ブロジェン・バブーは生徒の一人に向かって叫んだ、「おい、立ってここに来るんだ!」 
 
どんな罰が下されるか、わからなかった。もしかすると、教室の隅に立ちん坊になるよう、命じるのかもしれない。呼ばれた生徒が立ち上がって前に進もうとした時、突然、オロクが席を立って駆け寄り、ブロジェン・バブーに抱きついた。 
 
「先生、今日だけは、あいつを赦してやってください、先生!」 
 
ブロジェン・バブーの怒りがまだ収まった訳ではなかったけれど、思いがけない邪魔が入ったので少々気を削がれ、こう言った、「どうしてだ? どうして今日だけなんだ?」 
 
「マーチャント(8) が、今日、百打点を達成したんです、先生!」 
 
このブロジェン・バブーに、ある日、ある有名な殺人事件の裁判の陪審員になるよう、政府からお呼びがかかった。この招集を、断るわけにはいかなかった。ブロジェン・バブーは、だから、時々学校を休んで法廷に出向かなければならない。「パークル県殺人事件」(9) の裁判をめぐって、カルカッタは、その頃、騒然としていた。大地主(ザミンダール)殺しの裁判とのことで、毎週毎週、どんなにたくさんの本が出回っていたことか。道の角という角でそうした本が売られ、人びとは、我先にそれを買い込んで、読み漁った。ブロジェン・バブーが出廷した翌日、学校に来るや、ぼくらは皆集まって、彼を取り囲む –– 「先生、法廷で何があったか、話してくださいよ、先生!」 勉強は棚上げ。なぜなら、ブロジェン・バブーの方も、話したくてうずうずしていたから。まるまる一時間、ハウラー駅の群衆に紛れ、注射器で身体に毒を注入して殺すという、身の毛もよだつ話を、ぼくらは聞いた。 
 
公立バリガンジ高等学校には、その当時、制服はなかった。ぼくらの中には、半ズボンの者もいれば、ドーティー(10) をまとう者もいた。イスラーム教徒の生徒の中には、パエジャマ(11) を着て通学する者もいたのを覚えている。ドーティーの上には白シャツを着るのが習いで、少しませた生徒になると、シャツの後ろの襟を立てて見せたものだった。スポーツ選手であればなおのこと。上級クラスのケシュト・ダー、ジョティシュ・ダー、ヒマンシュ・ダー、彼らは皆スポーツ選手で、残らず襟を立てていた。中でも、大学入学資格試験の受験クラスにいたケシュト・ダーは、すっかり口髭・顎髭を生やしていた。少なくとも19か20歳くらいに見えた。一方ぼくらは、せいぜい4学年下にいたに過ぎなかったのにまったくの子供で、口髭・顎髭の気配すらない –– 近い将来、それが生えるとも思えなかった。 
 
でも、襟を立てた王様は、生徒ではなく、先生だった。教練教官のショノト・バブー。この人が学校に来た時、ぼくはすでに、3年間学校生活を送っていた。夢みがちな目、ビオスコープ(12) の俳優のような容貌、そしてシャツの襟はとてつもなく大きく広がり、肩にまでかかっていた。肩の上にそれを立てた時、先生は、まるで空に飛び立とうとしているかのように見えた。今日「体育」(PT)と呼ばれているものは、当時「教練」(drill)と呼ばれていた。週に二日か三日、1時間、校庭で過ごさなければならなかった。教練教官は、その時、軍事訓練の気分だった。 
 

 
さまざまな訓練の中に、高跳びの種目もあった。地面から1メートルほどの高さに横たわる竹棒を、跳び越えなければならない。まごまごしている者に対し、先生は、「おーい、ジャハーンプだ!」の掛け声でどやしつける。英語の穏やかな jump のジャの発音に h 音を加え、母音を長く発音することで、その指令に重みを加えた。この「ジャハーンプ」 の指令は、ぼくも聞かなければならなかった –– なぜなら、子供の時、デング熱という名の醜悪な病気にかかって、ぼくは右足にあまり力が入らなくなり、跳ねたり飛んだりするのが決して得意にならなかったから。 
 
 
訳注 
(注1)「パンディット」(ベンガル語:ポンディト)は、サンスクリット語の経典に精通するバラモンの学者への尊称。「ボトチャルジョ」(「ボッタチャルジョ」の短縮形)は、典型的なバラモン学者の姓。学校では、サンスクリット語のほかに、ベンガル語の文法も教えた。 
(注2)『ぼくが小さかった頃』⑧ 参照 
(注3)『ぼくが小さかった頃』④ 参照 
(注4)当時のイギリス国王。在位:1910~1936年。 
(注5)「ロビ」は、ラビンドラナート・タゴールのベンガル語名「ロビンドロナト」の縮小形。「太陽」を意味する。 
(注6)「アルタ」はシェラック(ラックカイガラムシの分泌液)をベースにした赤い汁。化粧として女性の足の周りに塗られる。「ミルクにアルタ」は、赤味がかった白く美しい肌の形容。 
(注7)「オオカラスウリ」は赤く美しい果実を持つが、その中身はまったく食用に適さない。見てくれだけ良くて、中身がないものの喩え。 
(注8)ビジャイ・マーチャント(Vijay Merchant, 1911~1987)、ボンベイ生まれの伝説的なクリケット選手 
(注91933年11〜12月に起きた有名な殺人事件。「パークル県」は当時のビハール州(現ジャールカンド州)にある。殺された大地主のアマレンドラ・パーンデーは、父から受け継いだ広大な土地をそこに所有していた。彼は親戚一同とともに、ハウラー駅から汽車に乗って、そこに出かけるところだった。 
(注10)インドのヒンドゥー男性の日常の下衣。狭い裾模様のついた長く白い布で両足を巻くように包み、余った裾を畳んで腰や腹に差し込む 
(注11)布製の、緩いズボン 
(注1235mm映写機によって上映された、初期の映画。『ぼくが小さかった頃』⑦ 参照 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年5月2日木曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード1)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

日本のオディッシーダンサーでおそらく最年長のサキーナ彩子さんから、オディッシーの種が誰によってどんなふうに日本に蒔かれ、育ってきたかについて貴重なお話を伺いました。数回にわたってご披露します。 
 
日本人はインド好き 

日本の街を歩いていると、インド布の服やお香が店にあったり、カフェにチャイがあったり、インド映画がロングランで映画館にかかっていたり、インド芸能や学問が多くの愛好家に愛でられているのは言うまでもないが、インド文化が一般人の生活の中に浸透してきた感がある。「ナマステ」とか「マサラ」という言葉は定着しているし、インド料理の食材を街のスーパーで買うことができる。1980年代には珍しかったが今や、わりと小さな街でもネパール移民が経営するインド料理店が各地にある。ここ10年から20年の間に、日本人がインドで食べられているご飯を習ったり教えたり、マサラワーラーのようなイベントを行っているし、インドカレーがスパイスカレーというジャンルになっている。東京の「ナマステインディア」というインド文化を楽しむフェスティバルは1993年から続いていて大人気だ。ここ数年は、川崎のラタヤトラ、京都のオディシャデー、名古屋ヤタヤトラ、関東のラーマ寺院などでオディッシーダンスの故郷、オディシャに焦点をあてた催しも見られるようになった。日本人はインドが好きなのだ。 

少し大きな視点で見ると、日本人の精神性は6世紀に中国から伝来した仏教と土俗の神道が混ざりあって形作られ、生活の隅々まで仏教の教えや習慣が行き渡っている。ところが明治のころから原始仏教を直接インドに赴いて学び直したいという動きがあった。日本人の心の根底に、インドへの憧れの気持ちがある。さらに遡ると、歴史学の世界では、あまり表立って取り上げられて来なかったが、仏教の伝来以前にインドの文化は日本にたどり着いていた可能性がある。オディシャの古代人が舟で海流に乗って日本にたどり着いた、という説もあながち間違いではないのではないか。それだからこそ、多くの日本人にとってインドの音楽や芸能がどことなく懐かしい感じがするのかもしれない。不思議なことに、ほかの東アジアの国々よりもよけいに日本ではインド文化が愛でられているような気がする。 

 

種まき: 1960年代から1980年代 

インド芸術と触れる 

第二次世界大戦で敗戦を迎え、どん底にいた日本の経済復興が少し落ち着いた1960年代ころ、インドの踊りを披露する「榊原舞踊団」の存在があった。「榊原舞踊団」は日本舞踊家、榊原帰逸氏が1930年に結成した日本で最初の舞踊学校だという。榊原は1953年にインドの西ベンガル州のシャンティニケタンへ留学した。「榊原舞踊団」は世界に日本の文化を見せる活動をしていた。インドに行くと日本舞踊を披露し、日本国内では「オリエンタルダンス」と称してアジアの踊りを、とくにインド舞踊を紹介した。まだ日本の人々がインドの芸術に触れる機会のまったくない時代に大変、衝撃的だった。それを観てインド舞踊に惹かれた人がたくさんいたことだろう。 

 一方、インドのほうから著名な芸術家が来日するようになった。シタール奏者のラヴィ シャンカールは1958年にインド政府派遣文化使節団の団長として来日している。オディッシーダンスでは、1970年にサンジュクタ パニグラヒが大阪万博に参加している。ボノマリ マハラナ(パッカワージ)、モヒニ モハン パトナイク(フルート)、ビシュヌ モハン プラダン(シタール)が同行した。サンジュクタは1983年に再び来日している。このときは、ケルチャラン モハパトラ(パッカワージ)、ブバネシュワール ミシュラ(ヴァイオリン)、ラグナート パニグラヒ(歌)が同行した。1979か1980年に、リーラ サムソンとマダヴィ ムドゥガルが来日している。 


1970年の大阪万博のオディッシー舞踊団。サンジュクタ パニグラヒ(左手前)、クンクミナ、ママタ、シェンハプラバらが参加した(サビャサチ パニグラヒのコメントより)。この写真はフルート奏者のモヒニ パトナイクからサキーナ彩子に贈られた。 

 


1983年のサンジュクタ パニグラヒのコンサートポスター 
 

インド大使館が主催したマダヴィ ムドゥガルのコンサート(写真 T. Monden) 

 

参考資料: 

河野亮仙の天竺舞技宇儀 

『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著 

 

プロフィール: 

サキーナ 彩子 

京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。門下生の濱脇亜由美は2010年以降デリーのカストゥリ パトナイクに師事し活動中。 

連絡先maa.sakinadidi@iCloud.com 

 

田中 晴子 

東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023 

ウェブサイト 



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