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2023年8月27日日曜日

天竺ブギウギ・ライト④/河野亮仙

第4回 遠くて近いギリシア・ローマ

 

現在のインド人とギリシア人を見ても似ているという感じは受けないが、同じ印欧語族でサンスクリット語と古代ギリシア語、ラテン語が近い関係にあることはよく知られている。前5000年頃、黒海西北方の辺りに住んでいた遊牧文化を持つ民族が、そこから東西に分かれて行ったといわれる。インドの古いサンスクリット語で歌われた聖典『リグヴェーダ』は、前1200年頃成立。

 

胡椒と金貨

 

胡椒は前4世紀後半にはインドからペルシアを経てギリシアに伝わり、前1世紀後半のローマ時代において普及した。1世紀の博物学者プリニウスは、ローマ人は胡椒を求めてインドまで行き、それは金銀と同じ価値を持つと記した。インド、中国、アラビアから原価の100倍で売られる奢侈品を輸入して、毎年、1億セステルテイウスをローマ帝国から奪っていると嘆く。

南インドからは、アウグストウス(在位:前27-後14)からネロ(在位:54-68)の時代にかけての金銀貨幣が最も多く出土した。何代もの皇帝に仕えたヴェスパシアヌス(在位:69-79)は財政立て直しを図り、金銀の輸出を制限した。77年に『博物誌』の10巻を発表したプリニウスの嘆きは、この事象に対応している。

 

紀元前後から季節風を利用してマラバール海岸に至る航路が開かれると、「マラバール海岸、ムージリス港では胡椒が最も多量に輸出されるので、大型の船が紅海から直接に航海し、きわめて多量のローマ金貨が輸入されている」と記す。ローマ金貨はドルのように古代インドで基軸通貨として使われていて、通商関係、ローマ文化圏にあったことも知られている。ローマは輸入超過で財政が悪化した。

 

ムージリスはコーチンに近いクランガヌールと思われる。ヤヴァナ、すなわち、ギリシア・ローマから来た、剣を持つ屈強な男たちは王宮の護衛として雇われた。

 

ポンディシェリ南郊のアリカメードゥ遺跡からはローマ金貨ほか、ガラス石、1世紀イタリアで作られたアレタイン陶器やアンフォラ、すなわちワインの壺の破片が発見されている。もちろん、壺自体を輸入したのではなく、ワインやオリーブ、オリーブ油が入っていた。古代のワインはどんな味がしたのだろう。

 

また、ガラスビーズはアリカメードゥで早くから生産され、東南アジアにも移植されて作られた。インド・パシフィック・ビーズと呼ばれるタイプのビーズは、遠くアフリカでも、弥生時代、古墳時代の遺跡からも大量に発見されている。日本や朝鮮半島で生産遺跡は発見されていないので輸入品である。卑弥呼はインド・ビーズの装身具を身に付けたか。

 

『エリュトラー海案内記』(1世紀半ば)によると、長胡椒の積み出し港であるマラバール海岸のバリュガザの王に、銀器、音楽の心得のある少年、後宮のための美しい処女、優秀な葡萄酒、混ぜ物のない高価な衣服、すぐれた香油を献上していたという。『航海記』にいうポドゥケーはポンディシェリに相当する。

 

音楽と着衣

 

昔、パニアグアという音楽家が「古代ギリシアの音楽」というアルバムを発表して今でもCDで入手出来る。音楽自体は復元→創作なのだが、復元楽器がインドのものとよく似ている。打楽器中心である。古代ギリシアの楽器には双頭の笛アウロスや竪琴のリラ(ヴィーナー)があり、インドにも入ってきた。

 

ドリア地方の調べ、リディア地方の調べ、フリギア地方の調べなどとエキゾチツクな旋法がギリシアでは用いられ、インドのラーガを思わせる。ドリアン・モードはジャズでよく用いられ、ブルースに近い。

 

インドとギリシア・ローマ世界は着衣も似ている。映画「テルマエ・ロマエ」で、いわゆるチュニック、テュニカという短衣の上にトーガという大衣、白い布を左肩から掛けている姿を見たと思うが、これは仏像の着方、偏袒右肩によく似ていて、上座部の僧侶は今日もその着付けを守っている。

 

ローマ市民は17歳で成人するとトーガを身につけることができた。インドのように方形ではなく、楕円形に切られた布一枚をまとう。冬は毛織物、夏は亜麻布(リネン)が用いられた。身長のほぼ3倍というから約5メートルである。なかなか一人で着るのは難しく、奴隷に着付けを手伝ってもらったようだ。

 

ローマの元老院では赤いボーダーのついたトーガを着用した。きちんと着付けると立ち居振る舞いが堂々と立派に見える。釈迦教団においても、また、日本の僧侶が七条をまとうのも同じである。サリーの起源もこちらに求めているようだが、南インドでは近代までサリーは用いられていなかった。昔の女神像はサリーをまとっていない。

 

スパルタ式

 

古代のオリンピックにおいては裸で競技をして、その方がパフォーマンスが上がると信じられていた。わたしは、股の間にぶらぶらするものがあると邪魔になると思うのだが。それはともかく、裸というのは服を脱いだ姿というのではなくて、ネイキッド、ごく自然な姿として捉えられていた。

 

ここで問題にしたいのは古代の踊り子の衣装である。カルカッタ博物館にあるバールフトのヤクシニー女神像は、腰から左右それぞれの足の膝下にいたるまで布を巻きつけている。腰には装飾的な紐や石帯を巻いて、それは両足の真ん中、足首の辺りまで垂れていることがある。

 

これがおそらく上流階級の女性の正装だったのだろう。踊り子の場合は、下着を着けず、装飾的な帯で陰部を隠すように垂らしている姿もある。チラリズムの方が効果があるのかもしれない。

 

スパルタでは強い戦士を産むためという意味で女性は大切にされた。男と同様に体育に励んだ。それもまた、男同様に裸で行われ、女っぽさや羞恥心など捨てるべきと考えられた。祭りのパレードにも裸で参加し、裸で歌い踊ったという。

 

仏像が作られるようになったのは紀元前後で、ギリシアの影響で始まったという。アレキサンダー大王がインダス川までやってきたのは前4世紀のこと。ギリシア系のバクトリア王メナンドロスが仏僧ナーガセーナと対話したのは前2世紀。ボロ布をまとっていた仏僧もギリシア人のように着たら格好いい、ボロ布(衲衣)では釣り合いがとれないと「制服」たる三衣を制定し、それが仏像に反映されたのかもしれない。

 

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%89%96/

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年8月16日水曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』番外篇

「二人の奇術師」

「5,  6,  7,  8,  9,  10,  11」

シュロポティは、トランクの数を数え終えると、オニルの方を振り向き、「これでよし、と。全部、貨物車に運んでくれ。あと、25分しかない。」

 

「先生の席も、ちゃんととってありますよ。一等寝台車です。上下二段とも、先生の席です。ご心配なく。」 オニルは、ここまで言うと、その後、くすりと笑って、「車掌の旦那も、先生の大ファンでしてね。新帝国劇場(1) で、先生のショーを見たんだそうです。さあ、旦那 –– こちらへどうぞ。」

 

車掌のビレン・ボクシ氏は、満面笑みを湛えてシュロポティに近づくと、自分の右手を彼に向けて差し出した。「さあ、先生、その手捌きで私をすっかり夢中にさせた、あなたのそのお手に、握手させていただけるとありがたいのですが …」

 

シュロポティ・モンドルの、11個のトランクのどれか一つに目をやれば、彼が何者かはすぐにわかる。一つ一つのトランクの、側面と蓋の上には、大きくはっきりした字で、「モンドルの奇跡」と書かれている。それ以上の説明は無用である –– なぜなら、今からちょうど2ヶ月前、カルカッタの新帝国劇場で、モンドルの奇術の腕前を目の当たりにした観客は、何度も大拍手を浴びせて彼らの熱狂ぶりを伝えたのだ。新聞にも、賛辞が山のように寄せられた。一週間の興行のはずが、後から後から観客が押し寄せたために、興行は4週間続くことになった。それでも観客は満足しない様子だった。劇場支配人のたっての願いで、クリスマス休暇に再びショーをすることを、約束せざるを得なかった。

 

「何か困ったことがあれば、仰っしゃってください、先生。」

 

車掌はシュロポティを車室へと案内した。シュロポティは、車室をひとわたり見渡して、安堵のため息を洩らした。居心地はよさそうだ。

 

「先生、ではこれで …」

 

「どうもありがとう。」

 

車掌が立ち去ると、シュロポティはベンチの隅にすわり、窓側に身をもたせかけ、ポケットから、タバコを一箱、取り出した。この旅が、彼の凱旋行進の、始まりになるだろう。ウッタル=プラデーシュ州のデリー、アーグラー、イラーハーバード、ワーラーナシー、ラクナウ。今回はこの5箇所だけだが –– その後さらに、一体いくつの州、いくつの都市、いくつの町が待っていることか。それに、インドに限った話じゃない。その外には、世界ってものがある –– 果てしなく広がる世界。ベンガル人だからって、野心がないなんて思うなよ。このシュロポティ様が、目にもの見せてやるからな! むかし、奇術師フーディーニ(2) の話を読んで、身体中、総毛立つ思いがしたものだが、そのフーディーニの国アメリカにまで、おれの名声を、轟かせてやる。ベンガルの若造が、どこまでやれるか、世界中の人びとの目の前で、証明してみせるのだ。これからの何年かを、見ているがいい! 今回の旅は、まだまだ、序の口にすぎない。

 

オニルが、息せき切ってやって来ると言った、「全部完了です。何もかも。」

 

「ちゃんと全部、鍵はかかっていただろうな?」

 

「はい、先生。」

 

「よし。」

 

「私は、二つ向こうの車輌にいますので。」

 

「発車の合図は?」

 

「もうすぐです。では、私はこれで … ボルドマン駅(3) に着いたら、お茶をお飲みになりますか?」

 

「悪くないな。」

 

「じゃあ、私がお持ちします。」

 

オニルは立ち去った。シュロポティは、タバコに火をつけると、窓の外に視線を投げた。プラットフォームの上では、苦力(クーリー)、旅客、物売りたちが、騒がしい声を上げながら、右に左に流れて行く。そちらを見ているうちに、シュロポティは、ぼおっとした気分になった。目に靄がかかったかのようだ。駅の喧騒が、次第に消え失せて行く。心は遥か彼方、遥かな過去へと、さまよい始める ……

 

*****

 

いま33歳の彼は、その時はまだ、7か8だった。ディナジュプル県(4) のちっぽけな村 –– パンチュプクル。秋のある穏やかな真昼時。一人の婆さんが、麻の肩掛け袋を手に、バンヤン樹の蔭、モティ・ムディの雑貨屋の真ん前にすわっている。婆さんを取り巻いているのは、子供や老人の群れ。婆さんは、いったい、何歳だっただろう? 60だったかも知れないし、あるいは90だったかも知れない。凹んだ頬に、無数の入り組んだ皺、笑うとその皺の数は倍になった。そして歯の抜けた隙間から、とめどないお喋りが続いた。

 

バーヌマティーの魔術(5)

 

バーヌマティーの魔術を、婆さんは見せたのだった。それが最初で、それが最後だった。だがその時見たものを、シュロポティは決して忘れなかったし、これからも忘れることはないだろう。彼自身の祖母だって、その時はもう65歳だったが、針の穴に糸を通そうとしただけで、身体中がブルブル震えたものだ。なのに、あんな婆さんの皺だらけの手に、あれほどの魔術があったとは! 目と鼻の先、1メートルも離れていない物を、呪文とともに息の一吹きでどこかに消してしまい、次の瞬間には、また一吹きで取り出して見せた。貨幣、ビー玉、独楽、檳榔子、グァヴァの果実まで! カル叔父さんから1ルピーを受け取って、それを消してしまったので、叔父さんは、どんなに怒りまくったことか! でもその後、婆さんがケラケラ笑いながらそれを取り出して、叔父さんに返してみせた時、叔父さんはびっくりして、目を丸くしたのだった。

 

シュロポティは、この奇術を見たせいで、その後何日かの間、よく眠れなかった。そしてその後眠れるようになった時も、数ヶ月の間、ときどき「奇術! 奇術!」と叫び声を上げたのだそうだ。

 

この後、村で縁日などがある時には、奇術を見たいがために、シュロポティは必ずその場に駆けつけたものだった。でも、驚きに値するようなものには、その後、何一つ目に留まらなかった。

 

*****

 

16歳の時、シュロポティはカルカッタに来た。ビプロダシュ通り(6) にある父方の叔父の家から、カレッジに通うために。カレッジの教科書と一緒に、奇術の本を読み漁った。カルカッタに来て1, 2ヶ月のうちに、シュロポティはそうした本を買い込み、買ってから何日も経たないうちに、本に載っている奇術を残らずものにした。トランプのセットを山ほど買う必要があった。何時間にもわたって、トランプを手に鏡の前に立ち、奇術の練習をしなければならなかった。カレッジでの学芸の女神サラスヴァティーの祭祀や、友人たちの誕生日等々で、シュロポティは、そうした奇術を見せることがあった。

 

カレッジ2年生の時だった。友人ゴウトムの妹の結婚式に招待された。シュロポティの奇術を学ぶ歴史において、それは記念すべき一日だった –– なぜなら、この結婚式の場で、初めて彼は、トリプラ・バブーに出逢ったのだから。スインホ通り(7) の巨大な館が立ち並ぶ、その裏側の原っぱに、大天幕が張られ、その片隅、広げられた一枚のマットレスの上に、招待客に取り囲まれて、トリプラチョロン・モッリクはすわっていた。パッと見には、まったく取るに足らぬ人物に見えた。48歳、縮れ毛を小分けに、顔には笑みを浮かべ、唇の両端には、パーンを噛んだ後の赤い痕がついている。こんな人は、そこらの街角で、いくらでもお目にかかる。だが、彼の真ん前のマットレスの上で起きている、とてつもない出来事を目にすれば、この人物に対する見方を変えざるを得なくなる。シュロポティは、最初、自分の目を、信じることすらできなかった。

 

一枚の銀貨が、転がりながら、2メートル近く離れて置かれた黄金の指環の傍に行き、その後、指環を引き連れて、また転がりながらトリプラ・バブーの許に戻って来る。シュロポティは唖然となり、拍手するのも忘れていた。

 

その一方、トリプラ・バブーは、次の瞬間には、またもや別の、とんでもない奇術を見せた。ゴウトムの叔父さんが、奇術を見ながら葉巻に火をつけようとして、持っていたマッチを、箱から全部、地面に落としてしまった。叔父さんがかがみ込もうとしているのを見て、トリプラ・バブーは言った、「そんなに苦労してまで、どうしてそれを拾おうとするんです、旦那? 私に箱をくださいな。拾ってあげましょう。」 その後、マッチ棒をマットレスの片隅に山積みにして、自分の左手に空箱を持つと、トリプラ・バブーは声をかけ始める –– 「おいで、一人ずつ、おいで、おいで、おいで ……」 すると、マッチ棒たちは、まるで飼い猫か飼い犬のように、後から後から一本ずつやって来て、箱の中に収まり始めたのだ。

 
二人の奇術師_1
 

この奇術の後、食事が済んでから、周りにあまり人がいないのを見計らって、シュロポティはトリプラ・バブーに話しかけた。トリプラ・バブーは、シュロポティの奇術に対する熱意を見て、驚きを隠さなかった。「ベンガル人は、奇術を見るだけで満足して、それを見せようなんて思う人は、滅多にいるもんじゃない。君がこんなに興味を持っているなんて … 本当に、驚いたな。」

 

*****

 

このすぐ二日後、シュロポティはトリプラ・バブーの家を訪れた。家と言えば間違いになる。ミルジャプル通り(8) の共同宿舎の、古びたちっぽけな一室だった。窮乏生活のこんなにあからさまな姿を、シュロポティはそれまで、見たことがなかった。トリプラ・バブーは、シュロポティに、自分の生業のことを話した。奇術の「謝金」は、一回に50ルピー。月に2回お呼びがかかるかどうか、疑わしい。その気になって努めれば、もう少し招ばれる機会を増やすこともできただろうが、トリプラ・バブーにそんな気がさらさらないことが、シュロポティにはわかった。こんなに熟練した技を持つのに、どうして、野心というものを、まるっきり抱かないのだろうか。このことを話題にすると、トリプラ・バブーはこう答えた、「何になるんだ? この情けない国に、「良き物」の価値を認めようなんて人間が、いるものかね? いったい誰が、本物の「アート」を理解できる? 本物か偽物かを見分けられる人が、何人いると言うんだい? 先日の結婚式での奇術を、君はずいぶん褒めてくれたが、他には誰一人、褒める者がいなかっただろ? 食事の準備ができたと聞いた途端、奇術なんかには見向きもせず、誰もがいそいそと、腹を満たすために、消えちまったじゃないか。」

 

シュロポティは、親戚縁者や友人の何人かの家で行事があった時、トリプラ・バブーの奇術の手配をした。いくらかはそれに対する感謝をこめて、しかし何よりも彼に対する自然な愛情のために、トリプラ・バブーは彼に奇術を教えることに同意した。シュロポティが謝金の話をすると、トリプラ・バブーは強く反対した。「そんな話を持ち出すんじゃない。私の後を継ぐ者が、一人現れた –– それこそが、重要なことだ。君の熱意が本物なのを見て、私は君に教える気になったのだ。だが、せっかちになるんじゃないぞ。これはな、一種の修行なんだ。急(せ)いては、何一つ、ものにならない。しっかり学べば、創造の喜びが得られる。大金持ちになるとか、名声を得られるとか、期待するんじゃない。もっとも、君は、私のような惨めな状態になることは決してあるまい –– 君には野心があるが、私にはないからな ……」

 

シュロポティは、おそるおそる尋ねた、「奇術を全部、教えてくれるんでしょうね? あの、銀貨と指環のやつも?」

 

トリプラ・バブーは笑って答えた、「一歩一歩、進むことだ。慌てるんじゃない。辛抱強く続けるのだ。何より、精進が大切だ。これはな、遥か昔から伝わってきた技だ。人間の心に、本物の力、本当の集中力があった時代に、こうした奇術が生まれたのだよ。今の時代の人間にとって、心をそのレベルまで引き上げるのは、容易ではない。私がこれまで、どんなに努力しなければならなかったか、君にわかるか?」

 

*****

 

トリプラ・バブーの許で6ヶ月ほど教えを受けた時、ある出来事が起きた。

 

ある日、カレッジに行く途次、チョウロンギ(9) の方をみると、四方の壁、電柱、家々の壁に、カラーの広告が貼り付けてある –– 「偉大なるシェファッロ」。近づいてその広告を読んで、シェファッロがイタリアの有名な奇術師であることを、シュロポティは初めて知った –– そのシェファッロが、カルカッタに奇術を見せにやって来るのだ。マダム・パラルモという、仲間の奇術師を伴って。

 

新帝国劇場で、1ルピーの二階桟敷席にすわり、シュロポティはシェファッロの奇術を見た。目を眩ませ、心を虜にする、驚くべき奇術ばかりだった。こうした奇術のことを、それまでシュロポティは、ただ本で読んだだけだった。目の前で、何人もの人間がまるごと煙に巻かれて姿を消し、再びまたその煙の中から、アラジンの魔法のランプのように彼らが現れ出る。一人の娘を木の箱の中に入れ、鋸で真っ二つに切ってしまうのに、その5分後には、その娘がまた、別の箱の中から笑いながら姿を現す –– その身体には傷痕ひとつない。その日、強い拍手を繰り返したせいで、シュロポティの掌は真っ赤になった。

それにその日、シェファッロという人物を観察していて、シュロポティは、何度も呆然とせざるを得なかったのだ。その男は、奇術師であると同時に、役者でもあった。黒いきらびやかなスーツをまとい、手には魔法の杖、頭にはシルクハット。そのシルクハットの中から、シェファッロの魔法で、取り出せない物はなかった。一度は、空っぽの帽子の中に手を突っ込んで、一匹の兎を、その耳を掴んで取り出した。その哀れな兎が、痛めつけられた耳を揺すり終えたと見るや、今度は鳩が出てきた –– 1羽、2羽、3羽、4羽。魔法の鳩が、パタパタと舞台の四囲を飛び回り続ける。一方、シェファッロは、今度はその同じ帽子の中からチョコレートを取り出して、観客に次々に投げやる。

 

そして、こうした奇術が次々に進行する間中、シェファッロの口上が続いていた。「早口口上」というやつだ。シュロポティは、英語の本で、それを ‘patter’ というのだと知った。この ‘patter’ が、奇術の重要な柱の一つなのだ。観客がこの ‘patter’ の洪水に溺れている間に、奇術師は、その隙を利用して、手を使った本来のからくりを、次々にやり遂げてしまう。

 

だが、その驚くべき例外は、マダム・パラルモだった。彼女の口からは、一言も言葉が出て来ない。無言の機械人形のように奇術を見せ続けた。だとすると、彼女は、一体いつ、からくりを仕掛けるのだろう? これに対する答も、シュロポティは、後になって知ることになった。舞台では、手のからくりをまったく使わなくても、奇術を見せることが可能なのだ。そうした奇術は、ただひたすら機械仕掛けに頼っていて、舞台の黒幕の背後には、そうした機械を操る人が控えている。人間を二つに切って、それをまた繋げたり、煙の中に消してしまったり –– これらはすべて、機械を使ったからくりだ。金さえあれば、誰だって、そんなからくりを買ったり作らせたりして、そうした奇術を見せることができる。もちろん、奇術を面白おかしく見せたり、派手な衣裳で観客の心を惹きつけたりすることの中にも、芸があり、「アート」がある。誰もがその「アート」を身につけているわけではないから、金さえあれば奇術師になれる、というわけにはいかない。誰しもが、いったい ……

 

シュロポティの追憶は、突然ここで、散り散りになった。

 

*****

 

汽車がガタンと大きく揺れて、ブラットフォームを離れた。そしてまさにその瞬間、勢いよく扉を開けて、誰かが客室の中に入り込んだのだ –– 何てことだ! 慌てふためいて立ち上がり、制止しようとして、シュロポティはその場に凍りついた。

 

何と、トリプラ・バブーではないか! あの、トリプラ・モッリクが ……

 

シュロポティは、これに似た体験を、過去に何度がしたことがある。知り合いの一人と、長いこと会っていない。ある日突然、その人のことを思い出したか、あるいはその人のことを話した次の瞬間、その人本人が目の前に姿を現す。だがシュロポティは、こうも思った –– トリプラ・バブーのこの日の出現に比べたら、以前のそうした出来事は、どれも、ものの数ではないのだ、と。

 

シュロポティは、数瞬の間、口から言葉が出て来なかった。トリプラ・バブーは、ドーティーの裾で額の汗を拭い、手にしていた荷物の束を床に置くと、シュロポティのベンチの反対の隅に腰をおろした。そうしてシュロポティの方に目を遣り、微笑んでこう言った、「驚いただろ、な?」

 

シュロポティは、何とか唾を呑み込むと言った、「驚いたの、なんのって –– そもそも、あなたが生きているなんて、ぼくは、思ってもいませんでした。」

 

「どうしてだ?」

 

「学士資格試験の数日後に、あなたの共同宿舎に行ったんですがね。鍵がかかっているじゃないですか。で、管理人の旦那 –– 名前は忘れました –– が言うことには、あなたが車に轢かれて …」

 

トリプラ・バブーは、ほーほーと高笑いして言った、「そうなってくれたら、助かったんだがな。山ほどある心配事から、解放されただろうに。」

 

シュロポティは続ける、「それに、もう一つ言いますと –– ここのところ何日か、ぼくは、あなたのことを思っていたんですよ。」

 

「何だって?」 トリプラ・バブーの表情に、暗い翳が差したかのようだった。 「私のことを思っていた、だって? まだ私のことを思うことがあるのか? 驚いたな。」

 

シュロポティは舌打ちした。「何てことを仰っしゃるんです、トリプラ・バブー! ぼくがそんなに簡単に忘れる、とでも? ぼくに最初に奇術の手解きをしてくれたのは、あなたでしょう? 今日は特に、昔の日々のことを思い出していたんですよ。今日、ぼくは、ベンガルの外に、『ショー』をやりに行きます。初めてです、ベンガルの外は。 –– ぼくがプロの奇術師になったことを、ご存知ですか?」

トリプラ・バブーは、首を横に傾げて同意を表した。

 

「知っているとも。何もかも知っている。何もかも知った上で、今日、君に会うためにやってきたのだ。この12年間、君が何をして何をしなかったか、どうやって成長してここまでになったのか –– 何かも、私が知らないことはない。あの日、新帝国劇場に、私はいたのだよ。初日に。一番後ろの列に。皆が君の奇術の腕前を、どんなに称賛したか、目の当たりにしたよ。もちろん、誇りに思わないでもなかった。だが ……」

 

トリプラ・バブーは、ここで口を噤んだ。シュロポティにも、言うべき言葉が見つからなかった。何を言ったらいいというのか? トリプラ・バブーが少しく気を害したからと言って、それをトリプラ・バブーのせいにすることはできない。実際、彼が奇術の基礎を鍛えてくれなかったとしたら、シュロポティが今日、こんなに上達することはなかっただろう。それなのに、それに対して、シュロポティは、一体何をしたというのか? むしろ反対に、この12年間、自分の胸から、トリプラ・バブーの追憶を次第に消し去ってきたではないか。トリプラ・バブーに対する感謝の念も、薄れてきたかのようだ。

 

トリプラ・バブーは、口を開いた、「君のあの日の成功を見て、私は誇りに思ったよ。だが、それと同時に、残念にも思ったのだ。どうしてか、わかるか? 君が選んだ道は、本当の奇術の道ではない。君が見せたのは、観客をたぶらかすための、派手な身振り手振り、機械を使ったからくりがほとんどだ。君自身の技ではない。それなのに、君は、私の奇術を覚えている、と言うのかね?」

 

シュロポティは、それを忘れてはいなかった。しかし同時に、彼にはこうも思えたのだ –– トリプラ・バブーは、自分の最高の奇術を、彼に教えるのをためらっているのだ、と。「まだその時ではない」が、トリプラ・バブーの口癖だった。そして、「その時」は遂に来なかった。その前に、シェファッロが現れたのだ。シェファッロのようになった自分を想像して、彼は、壮大な夢を見始めた。国々を回って奇術を見せ、金を稼ぎ、名声を広め、人々に喜びを与え、拍手喝采を浴びる。

 

トリプラ・バブーは、窓を通して、ぼおっと、まるで我を忘れたかのように外を見つめている。シュロポティは、彼をひとわたり観察した。本当に、困窮の極みにあるように見えた。頭髪は殆ど白くなり、頬の皮はたるみ、目は眼窩に落ち込んでいる。でも、その眼差しは、少しでも力を失っただろうか? そうは見えない。恐ろしく鋭い眼光。

 

トリプラ・バブーは、深いため息をつくと言った、「もちろん、君がどうしてこの道を選んだかは、わかっている。君がこう信じているのも –– 私にもその咎はあるかも知れないが –– 本物が、その価値を認められることは、ない。舞台で奇術を見せるとなれば、少々のまやかし、見せびらかしが必要だ、と。そうじゃないかな?」

 

シュロポティは否定しなかった。シェファッロを見てからというもの、彼はそう思うようになったのだ。だが、まやかし・見せびらかしそれ自体に、罪があるだろうか? 今は昔とは、時代が違うのだ。結婚式の場で、マットレスの上にすわって奇術を見せることで、どうやって日々の稼ぎを得ると言うのか? 一体誰が、その名を知ると言うのか? トリプラ・バブーの体たらくを、彼は、自分の目で見たのだ。本物の奇術を見せることで、腹を満たせないとするなら、そんな奇術の、どこに価値があると言うのか?

 

トリプラ・バブーを前に、シュロポティは、シェファッロの話を持ち出した。何千もの観客が見て喜び、称賛を浴びせているものに、何の価値もないと言うのか? 本物の奇術に、シュロポティが敬意を払わないわけではない。でも、その道には何の未来もない。だからシュロポティはこの道を選んだのだ ……

 

トリプラ・バブーは、不意に、興奮を抑えられなくなったかのようだった。ベンチの上に足を組んですわると、シュロポティの方へと身を乗り出した。

 

「いいか、シュロポティ、君がもし、本物の奇術がどういうものかわかっていたとしたら、まがい物の尻を追っかけたりはしなかっただろう。手を使ってのからくりなど、そのほんの一部に過ぎない。無論、それだって、どれだけの範疇、それだけの種類があるか、数え切れないほどなんだが。ヨーガの修行のように、そうした手品は、何ヶ月も、何年も修練しなければならないのだ。だがそれ以外にも、どんなにいろいろなものが、あることか。催眠術。眼差しの力だけで、完全に人間を、自分の思いのままに操ることができる。相手の手を、完全に萎えさせることだって、できるのだ。それから、透視術、またはテレパシー、または読心術。相手の頭の中を、自由自在に行き来できる。相手の脈を取れば、そいつが何を考えているか、当てることができる。しっかり技を習得すれば、誰にも触れる必要すらなくなる。1分かそこら相手の目を見つめただけで、そいつが心の奥で何を考えているか、全部知ることができるのだ。そんなものを、「奇術」と呼ぶのか、だと? 世界中の最高の奇術、すべての根本に、こうしたものがあるのだよ。そこには、からくりなんてものが、入る余地はない。あるのはただ修行、信念、そして一途な精進だけだ。」

 

トリプラ・バブーは、息を継ぐために言葉を切った。汽車の車輪の響きのため、声を張り上げてしゃべらなければならなかったのだ。おそらくそのために、彼はますます、疲労の色を濃くしていた。さらに身を乗り出すと、彼は続けた、「私は君に、こうしたすべてを教えてやりたかったのだが、君は関心を示さなかった。辛抱が足りなかったのだな。一人の外来の詐欺師の、薄っぺらなけばけばしい興行に、たぶらかされたのだ。本物の道を捨てて、たやすく金や名声が得られる道に走ったのだ。」

 

シュロポティは無言のままだ。この非難のどれに対しても、本心から反駁することはできない。

 

トリプラ・バブーは、今度はシュロポティの肩に片手を置き、声音を少し和らげて言った、「私はな、君に一つ、頼みがあって、やって来たのだよ、シュロポティ。私を見て気づいたかどうか知らんが –– 私はいま、本当に困っているのだ。こんなに奇術を知っているのに、金を得る奇術は、いまだに知らぬままだ。野心がなかったのが、私の破滅の原因だ –– さもなければ、食うのに困るはずはなかっただろうに。私はな、こんな歳になって、自分の足で立つ力すら、もう残っていない。だが、私が困っている時に、君なら私を –– 少々の犠牲を払ってでも –– 助けてくれるのではないか、という信念くらいは、まだ持ち合わせている。この一度だけだ –– その後、もう君を邪魔だてすることはしまい。」

 

シュロポティの頭はすっかり混乱した。この人は、いったい、どんな手助けを求めているのだろう?

 

トリプラ・バブーは続ける、「君にとって、この計画は、もしかしたら少し残酷に響くかも知れん。だが、これ以外に方法はないのだ。問題はな、私は、ただ単に金が必要だというだけではない。実は、この歳になって、どうしてもやりたいことがひとつ、出て来たのだ。たくさんの観客が見ている前で、私の最高の奇術をいくつか、一度、見せてやりたいという。たぶん、これが最初で最後だろうが、どうしてもこの気持ちを、抑えることができんのだよ、シュロポティ!」

 

いい知れぬ不安に襲われて、シュロポティの胸は震えた。トリプラ・バブーは、いよいよ、彼の提案を持ち出した。

 

「ラクナウでの奇術の興行が決まって、君は、そこに行くところだろう。だが、いいか、もしその興行の直前に、君が病気になったとしたら? 観客をすっかり落胆させて帰らせるのを避けて、もしも、君の代わりに他の誰かが ……」

 

シュロポティは呆然となった。何てことを言うんだ、トリプラ・バブーは! まったく、藁にもすがる状態なのに違いない。そうでなければ、こんなとんでもない計画を、どうして思いつこう?

 

シュロポティが黙っているのを見て、トリプラ・バブーは続ける、「止むに止まれぬ事情のため、君の代わりに、君の師匠が奇術を見せる –– こんな風に告知するのだ。それで観客が、落胆すると思うか? 私はそうは思わない。私の奇術を見れば、観客は喜ぶだろうと、私は堅く信じている。だがそれでも、私はこう提案する –– 初日の興行のあがりのうち、半分は君のものだ。私は残りの半分でやっていける。その後、君は好きなようにやるがいい。私はそれ以上、君を邪魔だてすまい。ただこの一日だけ、君は私を、舞台に立たせなければならんのだよ、シュロポティ!」

 

シュロポティの頭は熱くなった。

 

「そんなの、無理ですよ! 何を仰っしゃっているのか、あなたは自分でもおわかりになっていない。いいですか、これがぼくの、ベンガルの外での、最初の興行なんですよ。ラクナウでの『ショー』に、どんなにたくさんのことがかかっているか、おわかりになりませんか? ぼくの経歴の初っ端を、こんな嘘でもって、始めようなんて! どうして、そんなことが、思いつけるんですか?」

 

トリプラ・バブーは、シュロポティの方を、暫(しば)し、凝っと見つめていた。その後、汽車の車輪の音の上を漂うようにして、彼のゆっくりした抑制のきいた声が、シュロポティの耳に届いた。

 

「あの銀貨と指環の奇術に、君はまだ、執着があるかね?」

 

シュロポティはギクリとした。だがトリプラ・バブーの眼差しには、何の変化もない。

 

「なぜです?」

 

トリプラ・バブーは笑みを浮かべて言った、「君がもし、私の提案に同意してくれたら、私は君に、あの奇術を教えてやろう。同意すれば、いますぐに、だ。だが、もし同意しないなら ……」

 

途方もない大きな汽笛の音とともに、シュロポティたちの汽車の横を、ハウラー駅に向かう汽車が通り過ぎた。彼の車室の明かりに照らされて、トリプラ・バブーの目が、何度もギラギラ燃え上がった。明かりと音が消え去った後、シュロポティは尋ねた、「で、もし、同意しなかったとしたら?」

 

「よくないことが起きるぞ、シュロポティ。君が知っておかなければならないことが、ひとつある。私が観客の中にいるとしたら、その気になれば、どんな奇術師も、困らせたり、辱めたり、場合によっては完全に役立たずにすることもできるのだ。

 
二人の奇術師_2
 

トリプラ・バブーは、コートのポケットから一組のトランプを取り出し、シュロポティの方に差し出した。「君の手品を、見せてごらん。難しいやつではなく、一番初歩的なやつを。手の一振りで、後ろにあるこのジャックを、このハートの3の前に持ってくるんだ。」

 

16歳のシュロポティは、鏡の前に立ってこの手品をものにするのに、7日しかかからなかった。

 

なのに、今日は?

 

シュロポティがトランプを手にしてみると、指が痺れてきている。指だけではない –– 指、手首、肘 –– 腕全体が、完全に麻痺している。シュロポティの霞がかかった目に映るのは、トリプラ・バブーの唇の端に浮かぶ、薄気味悪い笑み。人間のものとは思えない鋭い眼差しで、彼はシュロポティの方を見つめている。シュロポティの額は汗ばみ、身体全体が震え出しそうだ。

 

「これで、私の力がわかっただろう?」

 

シュロポティの手から、トランプの束が、ベンチの上にポロリと落ちた。トリプラ・バブーは、トランプをまとめて手に取ると、言った、「同意するか?」

 

シュロポティの不快な麻痺状態は、解かれた。彼は、疲弊した弱々しい声で答えた、「あの奇術を、教えてくれるんでしょうね?」

 

トリプラ・バブーは、右手の人差し指をシュロポティの鼻先に突きつけたまま言った、「ラクナウの最初のショーで、君の病気のために、君の代わりに、君の師匠トリプラチョロン・モッリクが、奇術を見せる。そうだな?」

 

「はい、そうです。」

 

「君は、稼いだ金の半分を、私に渡す。そうだな?」

 

「その通りです。」

 

「それでは、見せてやろう。」

 

シュロポティは、ポケットをまさぐって、一枚の銀貨を取り出し、また、自分の指からサンゴを嵌め込んだ指環を外して、トリプラ・バブーに渡した ……

 

*****

 

ボルドマン駅で汽車が止まり、オニルが茶を持って、ボスの車室の前に来てみると、シュロポティは眠りこけている。オニルが、少しためらった後、「先生!」と、微かな声で一度呼びかけると、シュロポティは、すぐにあたふたと身を起こしてすわった。

 

「何だ … いったい、どうしたんだ?」

 

「お茶を持って来ました、先生。お邪魔立てして、申し訳ありません。」

 

「だがいったい … ?」

 

シュロポティは、混乱した眼差しで、車室の中をキョロキョロ見渡した。

 

「どうなさったんです、先生?」

 

「トリプラ・バブーは … ?」

 

「トリプラ・バブー、ですって?」 オニルは呆気にとられている。

 

「いやいや … トリプラ・バブーなら、もう1951年に … バスに轢かれて … だが、ぼくの指環は?」

 

「どの指環です、先生? 先生のサンゴのやつなら、指に嵌ったままですよ。」

 

「そうだな。で …」

 

シュロポティは、ポケットに手を突っ込んで、銀貨を一枚取り出した。オニルは、シュロポティの手がブルブル震えているのに気づいた。

 

「オニル、一度、中に入って来い。さっさと来るんだ。その窓を、全部、閉めてくれ。そうだ。さて、見ていろよ。」

 

シュロポティは、ベンチの一方の側に指環を、もう一方に銀貨を置いた。そうしてから、守護神の名を唱えて運を天に任せ、全神経を集中して鋭い視線を銀貨の方に注ぎ、夢で得た技を働かせた。銀貨は、親の命令にしぶしぶ従う息子のように、指環の傍まで転がって行き、指環を引き連れて、シュロポティのところまで戻って来た。

 

オニルの手からは、茶の入ったカップが、あやうく転げ落ちるところだった –– シュロポティが、見事な手捌きで、落ちる寸前に、それを自分の手に受け取らなかったとすれば。

 

*****

 

ラクナウの奇術ショーの初日。シュロポティ・モンドルは、幕開けに、集まった観客の前に立ち、彼の奇術の先生であった故トリプラチョロン・モッリクに対し、心からの敬意を表した。

この日の最後の演目は –– シュロポティはそれをインド古来の奇術と説明したのだが –– 指環と銀貨の奇術だった。

 

訳注

この作品は、『ションデシュ』誌1963年3~4月号に掲載された。サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑦参照。

(注1)新帝国劇場(New Empire Theatre)は、1932年に、カルカッタの中心エスプラナードの東側(現在のオベロイ・グランド・ホテルの南)に建てられた。この年、タゴールの劇『踊り子の礼拝』が、タゴールの演出のもとで演じられた。1950年代に改造され、映画館となった。

(注2)フーディーニ(Harry Houdini, 本名Erich Weisz, 1874~1926)は、ハンガリー生まれの、著名なアメリカ人奇術師・曲芸師。

(注3)西ベンガル州中部の町。カルカッタのハウラー駅を出て西インドに向かう急行が、最初に止まる駅。

(注4)東ベンガル(現バングラデシュ)の北西部に位置する。

(注5)バーヌマティーは、古代インドの伝説の王ビクラマーディティヤ王の妻。魔術に長けていたと言われる。

(注6)Bipra Das Streetは、北カルカッタのゴルパル地区、サタジット・レイの生家の近くにある。

(注7)Swinhoe Streetは、南カルカッタのバリガンジ地区にある。

(注8)Mirzapur Street (現在のSurya Sen Street)は、北カルカッタ、カルカッタ大学近くの路地。

(注9)カルカッタ中心部の目抜き通りチョウロンギ・ロード(Chowringhee Road)とその周辺を指す。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。

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導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記②

マハラシュトラ州 lonavalaにあるヨーガ道場 kaivalyadhama に着いたのは、夕方でした。

「ちょうど今からお祈りがあるよ!」と、庭の端の方にある小さなお堂のようなところに連れていかれました。

そこで耳に入ってきたお祈りの歌(バジャン)を耳にするや否や、私は何かとっても懐かしいものを感じ、突然、涙が溢れてきたのでした。

そんな中、魂の故郷というような感じもあり、とても落ち着いてそのアシュラムに滞在することができました。

毎日のアーサナの練習も気にいって続けていましたが、その頃、いらっしゃったかなり年老いたおじいちゃまのスワミジがとっても可愛らしくて、 ゆみこ  “you(ゆ)  “me(み)” “company(こ) ‥‥… 私とあなたは仲間だよ〜!と手ぶり身ぶりでおどけるように言って下さり、とても親しくさせていただきました。

また、そのアシュラムのドクターの息子さんウジュワルujwalさんがバラタナティヤムのダンサーだと分かり、「テイ ユン タッタ…」 少しの間、レッスンもさせて頂きました。

でも、私は「本当は オディッシーがしたいの!!!」と、みんなに言いふらしていたのです。

すると、びっくり!!

ある日、イタリア人の方が新聞記事を見せてくれるのです。そこには、もうすぐ、オディッシー ダンサーのProtima Gauri Bedi女史により、バンガロール郊外にNRITYAGRAM という 少数精鋭のダンスヴィレッジが開校するということ、オーディションがあること、等が書かれていました。

私は、実は幼少期からクラッシックバレエをしていて、バレリーナになるのが夢でした。でも、あまりの才能の無さに断念、大学に進んだ、ということがあって、オーディションになど受かるはずがない、とは思ったのですが、とにかく先生宛にお手紙を書きました。

すると、数日後に先生からお返事が届き、

「あなたのことは、3ヶ月前から知っていました。だから、なぜ?とは訊かず、とにかく、すぐいらっしゃい!」と。。。

3ヶ月前というのは、私が、まさにインドに入る国境超えの頃。ケルチャラングルジとクムクム先生の公演を思い出し、ピピーっ!ときた、あの電波のようなオディッシーへの洞察を感じたとき、先生も夢で同時に感じてくださっていたのだ!!!

あまりの衝撃に開いた口が塞がらない状態のまま、さっさとパッキングして、バンガロールに向かいました。

バンガロールから約20キロにあるhesarghattaという小さな村。町から一人リキシャーで行ったのか、もう忘れてしまいましたが、そこで初めてお会いしたプロティマ・ガウリ女史… 先生は、私にこう言ってくださいました。

「3ヶ月前に、ゆみこという名前の日本人女性の夢をみたのよ。」

なんとも不思議なお話ですが、神様のお導きだとしか言えないこんなご縁にあっけにとられたまま、感謝と幸せいっぱいにここでの生活が始まりました。

 

 

 

 

 

 

花の宮祐三子hananomiya yumikoプロフィール

大阪生まれ。

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年8月8日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑦

ボバニプル(2)

ボバニプルのボクル=バガンの家に来てから、ショナ叔父さんが娯楽好きだったおかげで、時々ビオスコープ(1) 、サーカス、奇術、カーニヴァルといったものを見る機会があった。一度は、帝国劇場(現在のロクシー映画館)(2) に、ある白人(サヘブ)の奇術を見に行ったことがある。その白人奇術師の名前は、シェファッロ(Shefallo)。次から次へと奇術を見せ、それと一緒に言葉も噴水のように溢れ出た。後で知ったのだけれど、奇術師のこのおしゃべりを、「早口口上 (patter)」 と言うのだそうだ。この「早口口上」のおかげで、観衆の目は奇術師の方に惹きつけられ、そのために手を使ったからくりの多くが、注意の外になる。でも、シェファッロ一座の中には、マダム・パラルモ(Madam Palarmo)という名の奇術師がいて、彼女は完全に唖のふりをして奇術を見せたのだ。こんなもの、ぼくはそれまで、見たことがなかった。

 

このことがあってしばらくして、ある結婚式の場で、一人のベンガル人の奇術を見る機会があった。シェファッロ・サヘブが舞台で見せた奇術など、この人の奇術に比べたら、ものの数ではなかった。舞台での奇術では、いろいろな仕掛けが使えるし、照明を操ったり「早口口上」を続けたりすることで、観衆の目や心を混乱に追いやることができる。その結果、奇術師の仕事は、ずいぶん楽になるのだ。それに引き換え、このベンガル人の奇術師は、大天幕の下のマットレスにすわったまま、奇術を見せた。しかも、1, 2メートルくらいしか離れていない彼の周囲を、招待客が取り囲んでいたのだ。この状態で彼が次々に見せた奇術の数々には、今思い出してもただただ呆然とする他ない。この奇術師の話を、ぼくはずっと後になって、ある短編小説(3) の中で使ったことがある。

マットレスの上にマッチ棒を撒き散らし、自分の前に空になったマッチ箱を置く。そうしてから、「お前たち、一人ずつ、こっちに来なさい!」と呼びかける。それと同時に、散っていたマッチ棒が転がって、マッチ箱の中に入って行くのだ。

 

ぼくらの知り合いの客の一人から銀貨を一枚、もう一人の客から指環を一つ、もらい受ける。銀貨を2メートルばかり離れた場所に置き、指環を自分の前に置く。そして指環にこう命じる、「そら、あそこに行って、銀貨を連れて来るのだ!」 指環は、銀貨の方に、しぶしぶ転がって行き、その後、二つは一緒になって、奇術師のところに転がって来る。

 

さらに別の奇術では、一人の客の手にトランプを一組持たせ、もう一人の客に棒を渡してその先をトランプの方に差し出させ、こう言う、「スペードのエース、こっちに来なさい!」 すると、トランプの束の中から、スペードのエースがするりと出て来て、棒の先にくっつき、ブルブル震え出すのだ。

 

この奇術を見た数日後に、ボクル=バガンとシャマノンド・ロード(4) の交差点で、この奇術師とバッタリ出逢ったのだった。年齢は50か55くらい、ドーティーとシャツの、ありふれた服装。一目見ただけで、その人にあんな力があると、一体、誰が言うことができただろう。ぼくは奇術がものすごく好きで、すっかりその人の弟子になった気でいたので、その人に奇術を教えてほしい、と頼んだのだ。彼は、「もちろんだとも」と答えると、ポケットから一組のトランプを取り出して、道に立ったまま、ぼくに、ごくありきたりの奇術を一つ、教えてくれた。その後、その人と会うことはなかった。急に目の前に現れたので、すっかり慌ててしまい、その人の住所を聞くことすら忘れてしまったのだ。後になって、奇術の本を買って、鏡の前に立って自分で練習して、手でのからくりを使ったたくさんの奇術ができるようになった。奇術への熱は、カレッジ時代まで続いた。

 

サーカスは、今でも毎年やって来る。もっとも、その当時は白人たちのハームストン・サーカス(5) だったのが、今日ではマドラス・サーカス(6) が取って代わるようになった。その一方で今日見られなくなったのは、カーニヴァルだ。ぼくが子供の頃には、中央通り(Central Avenue)(7) の両側に広々とした野原があった。カルカッタの最初の高層ビル、10階建のタワー・ハウス(8) も、電気を供給するヴィクトリア・ハウス(9) も、まだできていなかった。こうした野原の内の一つに、サーカスと並んでカーニヴァルが開かれたのだ。

カーニヴァルの面白さがどこにあったか、それを今時の子供たちに説明するのは難しい。縁日の観覧車は誰でも見たことがあるだろうが、カーニヴァルの観覧車ないし「大車輪」は、5階建てビルの高さだった。光を発してぐるぐる回る観覧車が、ずーっと遠くからも見えたものだ。この観覧車の他にも、メリー・ゴーランド、旋回する飛行機、ゴツンゴツンぶつかり合うゴーカート、波に乗ったように上へ下へと走るジェットコースター、こんな乗り物が他にもたくさんあった。そしてその周りには、いろんな種類の賭け事の店が散らばっていた。そうした店には、ほしくてたまらなくなるような景品が山ほど並んでいて、やってみたいという気持ちを抑えるのは難しかった。最後には、政府が、公共の場で賭け事をすることを禁止したので、カーニヴァルはカルカッタから姿を消すことになった。たぶん、カーニヴァルの実際の収益は、この賭け事から上がっていたのに違いない。

 

***************

 

ボバニプルに来た最初の頃は、映画は有声ではなかった。その当時、外国映画を見せる劇場では、映画の背景に、台詞の代わりに、白人が弾くピアノか「映画オルガン」が鳴ったのだ。この「映画オルガン」というやつは、カルカッタでは、一つの劇場にあるだけだった。「マダン」、またの名は「ヴァラエティーの宮殿」(10) 。現在のエリート映画館(11) だ。オルガンの名前はウーリッツァー(12) と言って、たいそう派手な音を出した。それを弾いていたサヘブの名前は、バイロン・ホパー(Byron Hopper)。毎日、新聞には、その日に上映される映画と一緒に、ホパー・サヘブが演奏する曲目のリストが載っていた。

 

この頃見た映画の中で、一番よく覚えているのは、『ベン・ハー』、『巌窟王』、『バクダッドの盗賊』、そして『アンクル・トムの小屋』。グローブ劇場(13) では、当時、映画の上映と並んで、舞台で歌や踊りの実演があった。今日、映画館に行くと、布の幕が垂れ下がっているのが見られるけれど、その頃は、その幕の前に、もう一枚幕が垂れていた。広告満載だった。この幕は「安全幕(safety curtain)」 という名前だった。最初にこの幕が上がって、そのしばらく後に布の幕が上がった。グローブ劇場では、布の幕が上がるとその向こうに舞台が現れる。そこでのいろんな出し物が済むと、今度は映画の白いスクリーンが下りてくる。そうして映画が始まるのだ。スクリーンの前の一方の側にピアノがあって、上映が続いている間、映画の出来事の雰囲気に合わせて、白人サヘブがそれを弾き続けた。

 

『アンクル・トムの小屋』を見に行った時、面白いことが起きた。家族みんなで、グローブ劇場に見に行ったのだ。黒人奴隷のアンクル・トムが、彼の残虐な主人サイモン・レグリーの鞭を浴びて、二階の階段から転げ落ちて死んでしまう。ぼくらみんなの怒りは、レグリーの上に集中している。映画の終わりの方で、トムが亡霊になって、主人の許に戻って来る。主人は亡霊めがけて鞭を振るうが、トムの亡霊は笑いながら、彼に向かって近づいて来る。ぼくの隣にすわって、口をあんぐり開けて映画を見ていたカル叔父さんが、その時突然、もう我慢できなくなって、映画館を埋め尽くす観客のど真ん中で席を立つと、こう叫び始めた –– 「こいつを、まだ、鞭打つ気か? まだ鞭打つ気か、このクソ野郎! –– 今こそ、お前の悪行の報いを、受けるがいい!」

 

1928年に、ハリウッドで、最初の有声映画(トーキー)が作られた。カルカッタでトーキーが最初にお目見えしたのは、その一年後。その後も、一年あまり、一部が音声付きで一部が無声の映画が、いくつもやって来た。全部が有声の映画は、新聞に、「100% トーキー」という広告が出た。ぼくが初めて見たトーキーは、たぶん、『類猿人ターザン』だったと思う。グローブ劇場にその映画が来たので、見に行ったのだけれど、最初の日は、チケットが手に入らなかった。ぼくを連れて行ってくれたのは、母方の叔父さんの一人。ぼくのがっかりした顔を見て可哀想に思ったのだろう、この日、他に何か一つ映画を見ずに、家に帰るわけにはいかない、と思ったのだ。

 

すぐそばに、アルビオン劇場(14) があった。現在のリーガル劇場だ。そこではチケットが手に入った。でもそれはベンガル映画で、しかも、何も音声が付いていなかった。映画の題は、『不幸な結婚』(15) 。この映画が子供向けでないことは、少し見ただけで、ぼくにもわかった。叔父さんはぼくの方を向いて、何度かひそひそ声で、「家に帰ろうか?」と聞いた。でもぼくは、その問いを耳に入れようともしなかった。一度中に入った以上、最後まで見ずに出るなんて、できるもんか! もっとも、この『不幸な結婚』を見てすっかり嫌気がさし、その後、ぼくは長いこと、ベンガル映画に近づかなくなったのだ。

 

その時、ぼくを映画に連れて行ってくれた叔父さんは、「レブ叔父さん」。母さんの従兄弟にあたる。カル叔父さんみたいに、この叔父さんも、ダッカからカルカッタに、職探しにやって来たのだ。そして、ぼくらの家に泊まることになった。

 

ここで、母さんのもう一人の従兄弟、ノニ叔父さんについて言う必要がある –– なぜなら、この叔父さんのような人を、ぼくは他に、滅多に見ることがなかったから。180センチもあるノッポで、背が矢のようにまっすぐで、短いドーティーの裾を格闘士のように腰の後ろに挟み込み、4分の3の長さしかない袖付きの、ゴワゴワした木綿織りの短めのパンジャビを着ていた。歩く時は、まるで軍隊の行進みたいにぐんぐん歩を進め、話す時はベンガル語で、すごく声を張り上げた。田舎に住んでいる人は、野原や道で、どうしても声を張り上げて話さなければならない。その癖が、歳をとって都会に来ても、そのまま残っていたのだろう。でも、ノニ叔父さんの場合、その張り上げる声の中に、女っぽい響きがあった。それに、叔父さんはいろんなことができたけれど、そのうちで本当に得意としたのは、全部女たちがする仕事だった。結婚していなかった。結婚したとしたら、主婦として叔父さん以上のことができる相手が見つかったかどうか、疑わしい。縫物、料理、どちらも超一流だった。後になって、革細工を学び、それについて本を一冊書いたくらいだ。『ベンガルの甘菓子』という本の原稿もできていたけれど、どう言う訳か、それはとうとう出版されなかった。

 

母さんは、このノニ叔父さんから革細工のやり方を習って、次第に自分で、革細工の専門家になった。一時期、母さんは、昼の間、ずっとすわってこの仕事をしていた。革に色をつけるためには、アルコールを混ぜなければならない。そのアルコールの匂いが、いつも部屋中にたちこめていた。器用な手で作られたバッグ、小袋、メガネケース等を、いくつか売っていたこともあった。さらに後になって、母さんは、今度は粘土で像を作る仕事を、当時有名だった陶工ニタイ・パールの許で学んだ。母さんが作った仏像や観音像は、今でも、ぼくらの親類縁者の家の多くに、飾られている。

 

こうした特別の仕事以外に、いい主婦であれば当然こなす仕事を、母さんは、もちろん、全部こなしたのだ。それに、母さんの筆跡は、とても綺麗だった。ベンガル語を書いても、英語を書いても。

 

**

 

次回の連載では、番外篇として、短編小説「二人の奇術師」の翻訳を掲載いたします。

 

**

 

訳注

(注1)ビオスコープは、35mm映写機によって上映された、初期の映画。Hiralal Sen が1898年に設立したThe Royal Bioscope Companyが、ベンガル最初の映画製作会社。

(注2)帝国劇場(The Empire Theatre)は、1908年に、カルカッタの中心エスプラナードの南に建てられた、オペラハウス。1940年代初頭に改造され、ロクシー映画館(Roxy Cinema)となった。この映画館は2019年に閉じ、現在はカルカッタ市役所の事務所として使われている。

(注3)短編小説「二人の奇術師」(『ションデシュ』1963年3~4月号)。次回掲載予定。

(注4)ボクル=バガンの東に位置する。

(注5)「ハームストンの大サーカス」(Harmston’s Great Circus)は、イギリスのWilliam Benjamin Harmston によって、1847年に創立。その後、その息子・孫に引き継がれ、英領植民地を広く巡業した。

(注6)「マドラス・サーカス」は、南インドから来たサーカスの総称。実際は、当時、ケーララ州がサーカス産業の中心地だった。

(注7)中央カルカッタのチョウロンギ通り(Chowringhee Street)北端から、北東に向けて延びる大通り。

(注8)1930年代後半に建てられた、アールデコ建築の一つ。第二次世界大戦中は、その最上階に「アメリカの声(Voice of America)」放送局があった。

(注9)ヴィクトリア・ハウス(Victoria House)はカルカッタ電力供給会社(CESC Ltd)の本拠。これも1930年代後半に建てられた。

(注10)「マダン劇場とヴァラエティーの宮殿」(Madan Theatre and Palace of the Varieties)は、エスプラナードの南側に位置した。マダン(J. F. Madan, 1857~1923)はインド映画産業のパイオニアの一人。1919年に設立したMadan Theatres Ltdは、カルカッタを含む、インド各地の多くの劇場・映画館を運営した。

(注11)エリート映画館(Elite Cinema Hall)は、マダン劇場(注10)を改装して、1940年に創業開始。20世紀フォックス社が運営していた時期もある。2018年に閉館。

(注12)ウーリッツァー(Wurlitzer)は、フランツ・ルードルフ・ウーリッツァー(ドイツ系アメリカ人)が1853年に創立した楽器製造会社。無声映画時代、ウーリッツァー製の劇場用パイプオルガン ‘Mighty Wurlitzer’ が、広く普及した。

(注13)エスプラナードの東側、ニュー・マーケットの南に位置する。1827年に建てられた木製のオペラハウスを、1906年に映画館兼劇場に改造。現在は巨大なショッピングモール。その一部にマルティプレックス映画館があったが、1, 2年前に閉館した。

(注14)エスプラナードの南に位置した、マダン系列の劇場のひとつ。もともと、「電気劇場(Electric Theatre)」の名前だったが、1920年代に「アルビオン劇場(Albion Theatre)」、1931年に「リーガル劇場(Regal Theatre)」に改名された。

(注15)ラムラル・ボンドパッダエのシナリオに基づくメロドラマ。監督:プリヨナト・ゴンゴパッダエ。1930年6月より、マダン系劇場にて上映。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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2023年8月2日水曜日

松本榮一のインド巡礼(その4)

スリランカ仏教 

スリランカの仏教は古くに、アショーカ王の王子マヒンダが伝えたといわれている。

6世紀ごろ書かれたこの国の歴史書「マハーワンサ」(大史)には、マヒンダ王子が、当時のスリランカ王デーワーナンビヤティッサに仏教への帰依を勧めたと書かれている。その後、王をはじめ多くの人々が仏教徒になったと書かれている。アショーカ王の布教活動が、功を奏したわけだ。おそらくそのころにインドからもたらされた、仏陀の「仏歯」がこの国の一番の宝物として、キャンディーの仏歯寺に納められている。

アショーカ王まで遡ることができる、南伝の仏教はスリランカが基になり、ここから、ミャンマー、タイ、ラオスなどに伝わった。インドの仏教がほぼ滅んで、スリランカ仏教のアナガリーカ・ダルマパーラが組織したマハーボーディ・ソサエティがインドの仏教遺跡各地も含め、仏教遺跡を守っている。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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