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2024年4月23日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑯

学校生活(2 
 
6年間の学校生活で、ぼくは2人の校長を持った。最初入学した時は、ノゲン・モジュムダルが校長だった。君たちは、『ションデシュ』誌で、時折、ノニゴパル・モジュムダルが書いた物語を読むことがあるだろう。ノゲン・バブー(1) は、このノニゴパルのお父さんだ。この人のことを校長だと、わざわざ説明する必要はなかった。少なくとも、ぼくの「校長」のイメージに、ノゲン・バブーの容貌は、どんぴしゃりだった。中肉中背、色白、両側に垂れ下がった白い口髭、白髪、喉まで覆うコート、そしてズボン。その性格は、重々しいどころじゃなかった –– 彼の顔に笑いが浮かぶのを見た人が、学校の中に一人でもいたかどうか、疑わしい。年度末の、定期試験終了後の特別の日に、彼はすべての教室を回って、手にしたリストを見ながら、試験の成績第1位から第3位までの名前を読み上げた。教室の外に「ノガ」の靴音が響くや否や、胸のドキドキが収まらなくなる –– その恐怖は、今になっても忘れることができない。 
 
ノゲン・バブーの次に来たのは、ジョゲシュ・バブー –– ジョゲシュチョンドロ・ドット。この人の容貌は、ノゲン・バブーのそれに比べると、やや痩せぎすで、口髭も、唇の下に少し垂れているくらいだった。でも、彼もまた、校長の典型だった。そのズボンは、緩く垂れ下がるタイプ。その頃ぼくらは、授業で、「リップ・ヴァン・ウィンクル」(2) を読んでいた。その物語の中に、「ギャリギャスキンズ」という名前のズボンが出てくる。三、四百年前にアメリカで穿かれていた、この長々しい名前のついたズボンが、実のところどんなものだったのか、誰一人知らなかったけれど、ぼくらは、それがジョゲシュ・バブーの垂れ下がったズボンのようなものだと、勝手に決めてかかった。ジョゲシュ・バブーのズボンは、それ以来、「ギャリギャスキンズ」と呼ばれることになった。 
 
このジョゲシュ・バブーの渾名が、なぜ「ガンジャ」(3) になったか、その理由は、今となっては思い出せない。ひょっとすると、ジョゲシュ > ジョガ > ゴジャ > ガンジャというような変化が起きた結果かもしれない。でも、ある日、ぼくらの授業を受け持ってくれた結果、彼に対するぼくらの怖れは、だいぶ緩和されたのだった。担当の先生が一人休んだので、彼が代わりに授業を持った。驚くべきことに、その日のその授業ほど面白く、新しい知識の数々を学んだことは、それまでになかったのだ。 
 
「『ゲンジ』(下着のシャツ)という言葉がどこから来たか、知っているか?」 これがジョゲシュ・バブーの最初の質問だった。ぼくらは誰一人答えられなかった。 「この言葉はな、実は、英語のガーンジー ‘guernsey’ から来ている。イギリス海峡の、フランス沿岸近くに、Guernsey という名前のちっぽけな島がある。そこからこの名前が取られた –– 船乗りたちが、島民たちが着ているそれを、着るようになったんだ。」 
 
ジョゲシュ・バブーがさらに言うには、ベンガル人は、むかし、「オルスター」という名の防寒用コートの一種を着ていた。そのコートの元の名前は Ulster で、これもまた、地名に由来する。アイルランドにアルスターという名の町があって、このコートはそこで最初に使われた。 
 
この後、ジョゲン・バブーがやったことは、ぼくらの目を見張らせた。黒板に行くと、彼は最初に、1から9を表すベンガル語の単語を、左から順に書いた:–– 
 

 
その後、単語一つ一つから、その一部を消すと、驚くなかれ、1から9のシンボルが姿を表す:–– 
 

 
この出来事の後、「ガンジャ」は、すっかりぼくらの身近な存在になった。 
 
校長の次に、ぼくらが一目置いていたのは、副校長のジョティルモエ・ラヒリ。この人を、ぼくらは、ラヒリ先生ともジョティルモエ・バブーとも呼ばず、いつもミスター・ラヒリと呼んでいた。その理由は、先生方の中で、この人ほど、白人サヘブ風に呼びかけるのに相応しい人は、他にいなかったから。長身の美男子で、肌の色は真っ白、髭はきれいに剃られていて、スーツにネクタイの出立ち。スーツに羽織るコートは、少し短過ぎたけれど、他にはまったく、非の打ちどころがなかった。大ホールで何か催しがある度に、彼は、お腹の上に手を結んだまま立っていた。拍手の必要がある時も、手を持ち上げることはなかった。片手をお腹の上に置いたまま、もう一方の手で、その掌の裏を軽く叩いた。 
 
ミスター・ラヒリの英語の発音は、白人同然だった。ウォルター・スコットの『アイ・ヴァン・ホー』(4) を読んだ時、この本に登場するフランス人たちの名前の発音を聞いて、彼に対するぼくらの崇拝の念は、天にも届かんばかりになった。 Front-de-Boeuf の発音が「フロン・ド・べ」になるだなんて、一体、誰が想像できただろう! 
 
ジョゲシュ・バブーの後、ミスター・ラヒリが校長になった。でも、そうなる前に、ぼくの学校生活は終わっていた。 
 
他の先生たちは、一人一人、タイプが違っていた。当時はまだ英領時代だったので、公立学校の規則に従って、先生たちの中に、ヒンドゥー教徒に並んで、イスラーム教徒や、ベンガル人のキリスト教徒がいるのが普通だった。イスラーム教徒の先生の中では、「コダック」を「コドク」と言った、アフマド先生(本名はジャシムッディン・アフマド)(5) 。この他に、担当の先生が二人いた。その一人は、詩人のゴラム・モスタファ(6) ) 。彼は一年あまり、ぼくらにベンガル語を教えた。彼が書いた詩の一つは、ぼくらの教科書に載っていた。その最初の二行は、こんなだった:––  

 

   なすことなく ただ一人 道を歩めば 

   目に留まる –– 小さな路地の、小さな娘 

 

モスタファ・サヘブは東ベンガル出身なので、チの音を英語の si のように発音した。思い入れたっぷりに、この詩を朗読したけれど、悪賢い級友の中には、その発音を聞いて、少々からかってやろうという魂胆を起こす者もいた。その一人のゴパルが、せき込んでこう訊く、「それで、しいさな路地の、しいさな娘って、本当に見たんですか、先生?」 
 
モスタファ・サヘブはお人よしだったので、こう答える、「ああ、本当だよ。本当に、ある日、路地を歩いていると、小さな娘が立っているのが目に留まった。その子の側を通り過ぎる時、その頭を、軽く小突いてやったんだ。」 
 
「小突いてやったんですって! へええ!」 
 
会話はそれ以上進展しなかった。と言うのも、背後から、「おい、ゴプラ、よせよ」という囁き声が起こったから。 
 
先生たちの中に、キリスト教徒が二人いた –– ビー・ディー先生とモノジュ・バブー。ビー・ディー先生の名字は、ビー・ディー・ラエ。名前の方は、たぶん、ビブダンかビドゥダンだろう。こんな名前、後にも先にも聞いたことがない。この先生は、英語担当だった。小柄な人で、英語が正しく発音されるようにと、いつも目を光らせていた。イソップ物語の中の The Ox and the Frog (牛と蛙)を読む前に、こう言った、「母音の前の the の発音は、ズィ、子音の前は、ダ。ズィ オックス アンド ダ フログ。そして、英語のth の発音は、ベンガル語の「ダ」とは違う。ベンガル語で「ダ」を発音する時は、舌と口蓋の間に隙間がないが、英語の方は少しだけ隙間があって、そこから空気が逃げる。英語のth の発音は、実のところ、z d の中間なんだ。」 
 
モノジュ・バブーの兄弟の一人は、警察で仕事をしていた。その人の住居は、ぼくらの学校のすぐ隣の警察署だった。この警察官の二人の息子、シュクマルとシシルが、ぼくらのクラスに通っていた。この二人は壁を乗り越えて学校にやって来た。シュクマルは、ぼくらのクラスで一番の短距離走者で、100ヤード走では2度続けて勝った。一方、シシルの方は、小賢しい悪ガキで、本などというものにはまるで縁がなく、拳骨・平手打ちの罰を、とりわけこの叔父さんの手で、いつも喰らっていた。モノジュ・バブーは、教える時、椅子にすわることは、まずない、と言ってよかった。テーブルに寄りかかり、床に立ったまま、本を手に授業をする。とても奇妙な癖が一つあった –– 時折、右肩が不意に揺らぎ、上半身が右に傾く –– まるで、蠅を追っ払おうとでもするかのように。それに、おそろしく注意散漫で、いつどんなことが頭にあるのか、まったくの謎だった。その上、Very Good が口癖だった –– 「ちょっと、外に行ってもいいですか、先生?」 「Very Good」 ぼくらは、静まり返っている。外に行くのが、どうして Very Good なのか? 次の瞬間、自分の誤りに気づき、歯軋りしながらこう言う、「ついさっき、外に出たばかりじゃないか。どうして、また?」 
 
 
 
訳注 
(注1)「バブー」は、いわゆる中間層ベンガル人(主に上位カーストの、英語教育を受けたヒンドゥー教徒)への尊称。これに対し、イスラーム教徒(および白人)への尊称には「サヘブ」が用いられる。 
(注2)ワシントン・アーヴィング(Washington Irving, 17831859)の短編小説。「ギャリギャスキンズ」(galligaskins) は、当時アメリカで穿かれた、緩い半ズボン。 
(注3)「ガンジャ」(ベンガル語)は、吸引用の大麻(ハシシ)を指す。 
(注4)‘Ivanhoe’ は、スコットランドの詩人ウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 17711832)の長編小説。ノルマン人に征服された後の、12世紀のイングランドを舞台にしている。 
(注5)『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。 
(注6)Golam Mostafa (18971964) ジョショル県(東ベンガル)出身の詩人。 
 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年4月14日日曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑮


 
学校生活(1)
 
少年時代はいつ終わるのだろうか? 他の人のことは知らない。ぼくが覚えているのは、大学入学資格試験の最後の試験を終えて家に帰った時のこと –– テーブルの上から「力学」の教科書を手に取って、それを床に放り投げた瞬間、自分がもう子供ではなく、カレッジ生活が待っており、今から自分は大人なのだ、と感じた。
 
だからぼくは、学校生活の話を以て、ぼくの少年時代の話を終えることにしよう。
 
ぼくが学校に入学したのは、8歳半の時だ。母方の叔父さんの家に、もう一人の叔父さんがやって来て逗留した。その名前はレブ。この叔父さんのことは前に書いた(1) 。ある日の朝、レブ叔父さんと一緒に、バリガンジ公立高等学校(2) を訪問した。ぼくが入ることになったクラス –– 第5学年(後に第6学年と呼ばれるようになった)(3) –– そのクラスの先生が、ぼくにいくつか質問を書き、その上、4つかそこら、計算問題を出題した。ぼくは別室にすわって答を書き、また先生のところに持って行った。先生はその時、英語の授業を教えていた。ぼくの答をざっと見渡して、首を軽く振った。つまり、答に間違いはない、という意味だ。と同時に、ぼくの入学が許可された、という意味でもある。
 
木製の教壇の上に立って、先生の手から解答用紙を返してもらっていると、クラスの生徒の一人(ラナという名前だと後で知った)が、声を張り上げてぼくに訊いた、「おい、おまえ、何ていう名前だ?」 ぼくは自分の名前を告げた。 –– 「で、呼び名は?」 悪ガキのラナ・ダーシュは、すまし顔でこう訊いた。学校では、簡単に自分の呼び名を教えるものではない、とは、知る由もない。素直に呼び名を告げてしまった(4)
 
それ以来、同級生はもちろん、学校中の男の子たちが、ぼくを正式の名前で呼ぶことはなかった。そうしたのは、先生たちだけだった。
 
バリガンジ公立高等学校は、ランズダウン・ロードを過ぎて、ベルトラ・ロードの警察署の東側に接している(5) 。学校の東側の道の上に、デイヴィド・ヘア・トレーニングカレッジ(6) がある。そこから、一年に一度ずつ、BT(教育学士)を目指す学生たちが来て、ぼくらのクラスを教えた。
 
学校は高い塀に囲まれていて、その南側に運動場があった。空から見れば、学校の建物は、大文字のTのように見えたことだろう。その縦に伸びた部分は学校の大ホールで、横に伸びた部分が教室の列だ。門から入ると、右手に門衛の小屋。左に少し進むと、バンヤン樹が一本、立っていて、その幹をセメントで固めた露台が囲んでいた。木の下は、広い範囲にわたって草が生えていなかった –– なぜなら、そこでは、男の子たちが昼休みにビー玉遊びをしたから。遊びと言えば、運動場では、サッカー、クリケット、ホッケーのどれもが行われた。そして、年に一度、スポーツ・デーがあった。もちろんその他にも、ビー玉、棒弾き遊び(7) 、インド相撲、独楽回し等々があった。
 
門衛小屋を過ぎ、砂利道を通って少し進み、三段の階段を上がると、東西に広がる学校のベランダがある。ベランダの右側には教室が列をなし、左側を半分ほど行くと大ホールへの扉がある。桟敷席があるこのホールでの一番大きな出来事は、毎年催される、生徒たちの表彰式。その他、サラスヴァティー祭祀(プージャー)の日(8) には、葉皿を広げての供応があり、時折、講演会が開かれた。また、一度、グリーンバーグ・アンド・セリムという名の外国人俳優二人組が、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のいくつかの場面を演じて見せたのを覚えている。ぼくらは皆、折り畳み式の椅子にすわって、生涯初めてのシェイクスピア劇を見ていた。ぼくらのすぐ隣に立っていた英語のブロジェン先生は、目を丸く見開いて舞台の方を見つめながら、俳優たちと一緒に唇を動かしていた –– たぶん、学生の頃読んだこの劇の台詞を、どれだけ覚えているか、試していたんだろう。ある時 –– サラスヴァティー祭祀の日だったと思う –– このホールで、チャールズ・チャップリンの映画が上映された。上映会があるという通知を、その前日、門衛が来て、ぼくらのクラスのアフメド先生の手に渡した。アフメド先生はそれを読み上げる –– 「コドク・カンパニーのご好意により・・・」 コダック・カンパニーの名前を知らなかったので、先生は、上映会のスポンサーを、ベンガルの甘菓子屋(モドク)と同類だと思ったわけだ!
 

 
ベランダの端まで行って階段を降りると、目の前の天蓋の下に、飲み水用のタンクが2台、並んでいた。背中を屈め栓をひねって、両掌で水を受けて飲まなければならない。2台のタンクの向こう側、西の壁に接して木工室があり、そこはトロフダル先生の縄張りだった。金槌、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、糸鋸盤、何一つ無いものはなく、クラスの中からは、絶えずいろんな機械音が聞こえて来た。
 
2階への階段を上がると、その正面、ベランダの手摺りの上に、学校の鉦が吊るされているのが目に入る。門衛以外、誰ひとりこの鉦を鳴らせる者はいなかった。紐を握ったまま棒を叩くと、鉦はそっぽを向いてしまう –– 一回鳴った後、もう鉦から音は出ない。門衛がそれをどうやって打ち鳴らすのかは、ぼくらみんなにとって、謎だった。
 
階段を上がって左に回り、事務室を過ぎると、校長室がある。事務室には、棚いっぱいに本が並んでいる。これが学校の図書室だ。本の中では、シンドバッド、ハテムタイ(9) 、ダゴベルト(10) の3冊が大人気で、生徒の手から手へ渡ったせいで、ボロボロになっていた。この3冊は、同じシリーズの本だ。シンドバッドは誰でも知っているし、ハテムタイの名前もいまだに時たま耳にするが、ダゴベルトの名前は、学校時代の後、聞いたようには思えない。
 
学校の簿記の仕事も、この事務室で行われた。丸い棒のような定規を転がしながら、帳面に赤や青のインクで平行線が引かれるのを見て、とても奇妙に思ったのを今でも覚えている。
 
階段を上がって右に行くと、まず先生たちの共同利用室があって、その後に列をなして教室が並ぶ。1階と2階を合わせて全部で8学年 –– 3年生から10年生まで。教室にはどれも、二人並んですわるデスクが16台。どのクラスも、30~32人以上の生徒はいなかった。学校は10時に始まる。1時になると1時間の昼休み。その後また、4時まで授業。夏休みの後は、1ヶ月あまり、朝だけのクラスがある。7時に授業が始まる。その頃は、夏至の陽射しが窓を通って教室に差し込み、教室の姿はすっかり別物になる。先生たちに対する恐怖も、朝の内は、どういう訳か、少し和らぐように思われた。太陽が頭上に昇るにつれて、人間の気分も、どうやら、より怒りっぽくなるらしい。朝のクラスは、だからずっと心地よく感じられた。
 
もっとも、このことから、先生たちのほとんどが怒りっぽかった、という印象を与えるとしたら、それは公平とは言えない。むしろ、何人かの選ばれた悪ガキたちに対し、何人かの先生の怒りが時折爆発した、という方が正しい。拳骨、平手打ち、耳つねり、揉み上げをつかんで上への引っ張り、ベンチでの立ちん坊、両耳をつかんだままの片足立ち –– あらゆる種類の懲罰を見た。でも、ぼく自身は、一度もこうした罰を受けた記憶がない。初めから、ぼくは良い子、穏やかでおとなしい子(「尻尾のついたお猿さん」と形容する者もあった)と見なされていた。
 
訳注
(注1)『ぼくが小さかった頃』⑦ 参照。
(注2)Ballygunge Government High School 1927年創立。David Hare Training College の実験校として設立された。カルカッタ大学の提携校で、多くの優秀な人材を輩出した。
(注3)当時は、初等から高等までの学年を、1年生から10年生まで下から順に数え、10年生が最高学年だったが、後に、逆に10年生から下に数え、1年生を最高学年とするようになった。
(注4)正式名はショットジト(Satyajit 「真理によって征服する者」の意)。呼び名ないし愛称はマニク(Manik 「宝石、とりわけ紅玉(ルビー)」の意)。
(注5)Landsdown Road (現在はSarat Bose Roadと呼ばれる) は、南カルカッタ・ボバニプル地区の中心部を南北に走る大通り。Beltala Road はこの通りを西に向けて分岐する。
(注6)David Hare Training College 1908年に北カルカッタに創立された教師養成機関。設立後まもなく南カルカッタのバリガンジに移転した。カレッジの名前は、スコットランド出身の時計製造者David Hare (1775-1842) を記念している。彼はカルカッタに英語近代教育を普及させることを目指し、Hindu School, Hare School, Presidency Collegeの設立に貢献した。
(注7)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。
(注8)学芸の女神サラスヴァティー神の祭祀は、西暦で1月終わりか2月の初め(ベンガル暦マーグ月、白分の月齢5日目)に行われる。
(注9)6世紀のアラビアの王。寛大なことで知られた。シンドバッドと同様、『千一夜物語』に登場する。
(注10)7世紀のフランク王国の王、ダゴベルト1世。『ダゴベルトの偉業』と題する9世紀頃のラテン語の文献があり、この王が行った数々の奇跡を描いている。
 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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2024年4月10日水曜日

松本榮一のインド巡礼(その11)

ガンダーラ仏 

 

ガンダーラ美術は、現在のパキスタン西北部にあるガンダーラ地方を中心に紀元前後から5世紀ごろまで栄えた仏教美術です。このガンダーラ美術の最大の特徴は、仏像を作ったことです。ギリシャ美術の影響を多大に受け、きわめて写実的なブッダのお姿を造りました。

それまでの仏教美術では、ブッダの姿を現すのに、仏足石や、悟りの象徴である菩提樹のモチーフで表していました。

ガンダーラでは、端正で、美しくも凛々しいブッダ像がつくられました。

紀元前後に始まった、この写実的な仏像のお姿は、その後の仏教美術の本流になり、仏教各派の多くは、写実的な仏像を礼拝するようになりました。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2024年3月31日日曜日

天竺ブギウギ・ライト⑪/河野亮仙

第11回 インド舞踊入門講座 その一はじめに

もう、去年の話になるが、ある出版社からインド舞踊入門の本を作りたいという相談があった。いわれて気がついたが、確かにアマゾンを見ても日本語でそういう本は出ていない。 
 
バラタナーティヤムであるとか、モーヒニーアーッタムとかオリッシーなど、自分の学んだことについての本は何冊か出ている。私が書いたのは『カタカリ万華鏡』と『天平勝宝のインド舞踊』(『万博の世紀のインド舞踊』として、数編を加筆して復刻)である。これらはインド舞踊全般を概観できるものではない。 
 
某出版社の企画は、インタビューをしてゴーストライターを付けてというものなので断ったが、隙間を埋めるために、そろそろネタの尽きた「天竺ブギウギ」の代わりに書いてみようと思い立った。私の書き方は入門書向きではないのだが、しばらく、お付き合い願いたい。 
 
そもそも私は舞踊などというしゃれたものに関心はなく、もっぱら音楽が好きだった。ラヴィ・シャンカルが流行ってシタールや民族音楽を聴いたが、どちらかというとビートルズのロックに始まって、ブルース、ジャズが「専門」である。 
 
それが1983年に増上寺でインド祭りが行われることになり、オリッシー・ダンスのクンクマ・ラールさんにアプローチしたことから物語が始まる。あれから、もう、40年以上が過ぎてしまった。当時は、バラタナーティヤムを専門とする舞踊家が、リサイタルの中で一曲オリッシーやクチプリを踊るというような形で、オリッシー自体は普及していなかった。今日の興隆はクンクマさんのおかげである。 
 
元々、大学ではインド哲学専攻だったのでヒンドゥ教の神話や神格にはなじみがあった。インド舞踊というのはその表演である。というよりは話が逆で、ヒンドゥ教や仏教の布教のために、語りや芸能、彫刻、図画がある。表裏一体というか互いに深く関係している。 
 
バラモンや宮廷の王族、官吏以外に文字は必要なく、識字率といったら1パーセントかそこらだったろう。教えは基本的に口伝え、面授。文芸、芸能は布教のメディアである。 

サーンチーには産地直送の芸能が集まった

マディヤ・プラデーシュの州都ボーパールから50キロほどの所に、サーンチーの仏塔がある。三基の仏塔があり、第一塔の核部分は前3世紀、アショーカ王創建と考えられる。釈尊の遺骨が分祀された。前2世紀頃に拡張され、周りを囲む基壇が出来て、そこを右遶、尊敬を表す右回りで巡ることが出来るようになった。讃歌を歌いながらパレードをしてそれを見てもらったのだろう。 
 
かつて、ここには大小の寺院や僧院など50もの建造物があった。四方の塔門トーラナには釈尊の前生譚ジャータカ物語が描かれるが、この時代、まだブッダの姿は描かれていない。 
 
古代の通商路沿いの小高い丘の上にあるので、遠くからも目印として見えた。行き交う商工業者からたんまりお布施を頂戴したので建設することが出来た。お布施を頂戴するには、お説教のみならず、何か楽しいこともやったに違いない。交易路が変わり、仏教が衰退すると訪れる人もいなくなり、ジャングルの中に600年余り埋もれてしまったのだが、19世紀に発見される。 
 
ストゥーパでは釈尊の遺骨崇拝、礼拝供養が行われた。傘や旗で飾り立て華や香を捧げ、歌や器楽、踊りで供養した。その模様が第一塔の塔門に描かれている。これは前1世紀頃に建てられた。一般にその楽士達はカターカ、語り部であって、カタック舞踊の元祖ともされる。カターとは物語、それを語る人がカターカである。 
 
仏教の文脈では彼らをバーナカと呼んでいい。バーナはお話という意味なので噺家だ。いや、落語家ではなく仏説を説くばかりか、歌や踊りで物語を繰り広げる芸能者である。高くなっている基壇で演じると、何百人、何千人と集まっても遠くから見ることが出来る立体劇場となる。 
 
ジャワ島中部のボロブドゥールにもジャータカなどの物語が描かれているが、寺付きの僧侶が絵解きのように釈尊の物語を語ったと思われる。初めは堅いお話だったかもしれないが、だんだん分かりやすい話が望まれて、寺から離れて独立し、さすらいの芸能者になったかもしれない。逆に放浪芸人がやって来て、寺の坊主の真似事をする。 
 
お祭りともなれば稼げるとばかり、各地から芸人が寄ってくる。そこには仏教のジャータカ物語ばかりでなく、各地の英雄譚、マハーバーラタやラーマーヤナの一節を語る芸人もやって来たに違いない。そんなことから法華経の自我偈とマハーバーラタの類似性もいわれている。芸人は受けるネタを盗む。前2、3世紀の段階では演劇の形態は成立していないが、さまざまな試みが行われていたことだろう。 
 
ヤクシーは踊る 
ジャータカ物語には、レスラーやアクロバットをする芸人についても語られている。アクロバットをする芸人はバールフトから出土した仏塔の欄楯(玉垣)にも描かれる。樹木の精霊、鬼神ともいわれるヤクシー(ヤクシニー、夜叉女、薬叉尼)像も木にしなだれかかるように描かれている。前1世紀初期の作とされるが、これは極めてインド舞踊的である。続いてサーンチーの第一塔東門の横梁にも、ぶら下がるようにしてヤクシーが描かれている。 
 
パトナー博物館の払子を持つ豊満なヤクシー像はよく知られているが、前3世紀末から前2世紀初めの制作と見られている。この像は直立して動きを見せない。また、2世紀後半とされるデリー博物館の「美女酔態」、遊女が酔い潰れる様を描いた構図もよく知られている。宮廷や金持ちの宴に招かれ、歌や踊りを供したのだろう。 
 
インド舞踊の発祥はインド美術の発展と共に確認できる。サーンチーのヤクシー像のアクセサリーは簡素だが、バールフトの像では豪華な腰巻きや首飾りを付けている。それは専門の舞踊家、その時代にデーヴァダーシーの存在は確認できないので、おそらくは高級娼婦ガニカーがモデルだろう。 
 
また、ヴェーダ、ウパニシャッドの時代は文学という所まで行き着かない。ジャータカやラーマーヤナ、マハーバーラタの逸話などが語り物として伝承されてきたが、文字化されたのは1、2世紀、馬鳴菩薩アシュヴァゴーシャの頃からだろう。 
 
世捨て人の集団であった仏教サンガに浄財が集まって豊かになると、学識のあるバラモンも出家集団に入り、学芸、あるいは経典、つまり釈尊の物語の作成に携わる。 
 
世捨て人が規則正しい集団生活を送るというのも変な話だが、仏教サンガは世俗と超俗のスキマを見つけた。宮廷に入って王の相談役になる。アシュヴァゴーシャはその代表例だ。 
 
仏教僧院が宮廷と共に文化サロンとなって、文学や文芸、医薬などの学術、音楽・舞踊の発展を引っ張ってきたのではないか。 
 
イケイケ・インド 
昨年、マレイシアからスートラ・ファウンデーションというオリッシーを中心とした舞踊団が来日して、とても感心した。インド移民の多いマレイシアで、インド同様にレベルの高い教育が行われ、世界に進出して公演を行っている。メイン・ダンサーの中には中国人もいた。おそらく、シンガポールでも事情は同じであろう。 
 
移民ではないが、IT技術者を中心に西葛西でインド人が増えて、カレー屋のみならず独特のインド文化圏を形成している。早くから野火杏子が来日している子たちにバラタナーティヤムを教え、近年では竹原幸一がムリダンガムを教えている。インドの子に混じって日本の子もいたが、リズム感がよくとても上手だった。 
 
逆に、日本人がインドで仕事をしていて、その子弟がインド音楽や舞踊を早い時期から習う。富安カナメに続いて小牧詩葉が12歳でデビューした。音楽では帰国子女の林怜王が優秀なタブラー奏者だ。以前はまず日本で習い、大学を卒業してから留学するという順序だった。 
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024031100149&g=int 
 
この何年か、インドのプレゼンスは目覚ましく、人口で中国を抜き、GNPでもやがてイギリスを抜いて日本も抜き去るといわれている。 
 
人気なのは、一にインド・カレー、二にインド映画である。インド音楽も定着したが、そのうちインド舞踊ブームがやって来るのではないかと期待している。インド音楽は早くから定着して、シタールやタブラーの奏者は多い。しかし、ほとんどいないのが、声楽やバイオリン、南インドの弦楽器ヴィーナーである。 
 
家の2歳の孫は言葉も覚束ないが、「きいろ、きいろ」とか楽しそうに歌っている。器楽も歌が最初にあって言葉が前提になっている。日本ではそこをすっ飛ばして最初から踊りの振り付けを習うという倒錯した状態が当たり前になっている。今更、サンスクリットから勉強しろといわないまでも考え直してほしい。 

先人達の苦労

榊原帰逸がシャンティニケタンに留学してから70年が経っている。その後、1960年代半ばからカタックのヤクシニー矢沢、バラタナーティヤムのヴァサンタマラ(シャクティの母)、大谷紀美子、櫻井曉美らが留学した。気の強いインド女性の間に入って、女の園では大変な苦労をしたことと思う。 
 
日本に帰るとインド音楽家がいなかったのでテープレコーダーを使い、舞踊劇を創作したときには日本人だけで音楽から創作した。先人の苦労は計り知れない。 
 
カラオケで先生に習った振り付けを踊るのが普通で、疑問を持つ人は少なかった。踊りは自分自身の表現なので、どこにオリジナリティーを見いだすのだろう。 
 
小澤征爾が欧米に留学した頃は、日本人に西洋音楽が分かるものかと差別された。小澤が乗り越えていった壁を思うと、今の音楽家はぬるま湯にひたっているようなものだという。お茶漬けの味と評されることもあったが、日本人独特の繊細さやエレガンスが評価されるようになった。 
 
ジャズの世界では秋吉敏子が26歳で1956年、バークレー音楽院に留学し、日本の女の子がキモノを着てバド・パウエルそっくりに弾くよと話題になった。日本ではレコードをコピーしたような演奏の方に人気があったが、本場ではそういう訳にはいかない。自分の道を模索し、日本音楽と融合した『孤軍』を1974年に発表。何度もグラミー賞の候補になった人間国宝級である。 
 
山下洋輔トリオは1976年にヨーロッパ遠征をして、熱狂的に受け入れられた。白人も日本人もジャズを作り出した黒人たちの音楽に劣等感を抱いていて、そこを吹き飛ばす日本人の熱演に歓喜した。トリオに参加した坂田明は、レジェンドとして毎年のようにヨーロッパ・ツアーをしている。和ジャズ、シティ・ポップスが、今、外国で評価されているという。 
 
日本人のジャズは日本とアメリカだけでなく、それ以外の国に進出して正当な評価を得た。日本のインド舞踊もインドと日本でちやほやされるだけでなく、他の国に進出して他ジャンルの舞踊家と渡り歩き、一舞踊家として評価されないといけない。 
 
体格的なハンディを乗り越えて、今やバレエの世界でも日本人が評価されている。インド人の体格は骨太で腰と太腿が発達し、素足の指で床を掴み、大地に根を張っている。関節が柔らかくて手や足を振ると、しなっている。 
 
さらに、日常動作、感情表現がずいぶん違う。日本人にインド人のスピリットが分かるのか。一体、何が日本人の特質なのか。どこに割って入るのか。なめらかさ、上品さだろうか、しおらしさだろうか。喧嘩腰ではなくて、協調性、融和力。何でもかんでも取り込んで消化し、自分ものにする吸収力。踊りには音楽以上に性格がにじみ出る。 
 
坂田明がかつてフリージャズの巨匠オーネット・コールマンに尋ねた。 
「音楽で何が大切ですか」 
「クォリティ・アズ・ヒューマン・ビイング」 
 
ワールド・ベースボール・クラシックで、大リーガーに憧れるのはやめましょうといったが、日本人もインド人と並んで、この人のバラタが見たい、カタックが好き、オリッシー素敵と外国人に評価されるようになってほしい。 
 
日本のインド文化に新時代 
野火杏子は早い段階から自前の音楽でオリジナルを踊ることを志していた。踊りは南インドばっかりだったのに、音楽は北インドばっかり。南インド音楽ができる日本人が少なかったので、シタールやタブラーでも試みた。 
 
今回、インド人の弟子二人のアランゲットラム(公式デビュー)において、野火自身が小シンバルでコントロールし、竹原がムリダンガムを、入野智江がイダッキヤーを叩き、歌やフルートもインド人の音楽家に頼んで、すべて自前のコンサートを開催する。70年以上に及ぶ日本のインド舞踊史で画期的なことだ。若き日に野火の薫陶を受けた山元彩子、横田由和、入野智江、エミ・マユーリらが、今や重鎮として活躍している。 
https://www.facebook.com/CNC.kyoko.nobi/?locale=ja_JP 
 
また、延命寺の花祭りでも、声明とインド舞踊はじめ、異文化交流の様々な試みを行ってきた。今年は4月6日に催されるが、山元彩子の伴奏をヴィーナーの的場裕子が行う。脇を入野智江らが固めるが、これも希有なことである。 
http://www.enmeiji.com/ 
 
世界インド化計画ではないが、世界中にインド文化が波及している。日本とインドだけで踊ればいいというのではなく、日本人のアイデンティティーを持ったインド舞踊を創出して世界に進出しないといけない。自分自身の育った根っこが大切で、所詮、インド人にはなれない。そこからスタートしないといけない。 
 
インド舞踊新時代は、すぐそこまで来ている。 
 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年3月22日金曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑭

カルカッタの外で(4) 
 
ぼくがアラーに、こうして初めて滞在していた頃、もう一つの大きなグループが、後から加わった。ぼくの遠縁のお祖父ちゃん、プロモダロンジョン・ラエ (1) 8人の子供たちの中の4人か5人。ぼくらがボバニプルに住んでいた頃、このお祖父ちゃんも定年になって、ボバニプルのチョンドロマドブ・ゴーシュ・ロード (2) に住んでいた。お祖父ちゃんは政府の測量部門に勤めていて、その仕事のため、アッサムやビルマの人里離れた密林や山に出かけた。もちろん、ぼくがこのお祖父ちゃんと親しくなったのは、定年退職してからだ。ものすごく厳格な人だったので、それでたぶん、身体を鍛錬することに、いつも目を光らせていたのだろう。誰かが背中を丸めて歩いているのを見ると、すぐその背中をどやしつけた。お祖父ちゃんの高笑いは、道の端から端まで響き渡った。お祖父ちゃんが口笛を吹くと、隣近所の誰もの脾臓を、縮み上がらせることができた。 
 
そのお祖父ちゃんの子供たち、つまり遠縁の叔父さんや叔母さんたちは、みんな勉強がすごくよくできた。3人姉妹の2番目のリル叔母さん (3) (現在、『ションデシュ』誌の編集者の一人)は、その頃は挿絵画家として知られていた。叔父さんたちのうち、コッラン叔父さんはおとなしい性格で、明け方4時に眠りから覚め、夜には、両手でパタパタ叩きながら炙ったローティ (4) を、22枚食べた。その下のオミル叔父さんは、大掛かりな切手蒐集家だった。そのまた下のショロジュ叔父さんは、その当時、ラエ家の中では一番背が高かった。一番下のジョトゥ叔父さんは、自分の見てくれに少々意識過剰で、側に鏡があると、一度は流し目で自分の姿を見る欲望を抑えられなかった。 
 
一番上のプロバト叔父さんは、計算にかけては、めちゃくちゃ頭の回転が速くて、ぼくはこの叔父さんと一番仲が良かった。その理由の一つは、下の叔父さん (5) みたいに、プロバト叔父さんも、親類縁者の家々を訪れて回る習慣があったから。そのことを、叔父さんは、多くの場合、歩いて果たした。プロバト叔父さんにとって、6~7マイルの距離を歩くことは、何でもなかった。ぼくらの家にも時々来て、ターザンの物語をベンガル語にして読み聞かせてくれた。ぼくのことを、プロバト叔父さんは、「小叔父」と呼ぶのが常だった。 
 
4番目のショロジュ叔父さんは、その頃、ある創立して間もない学校から、大学入学資格検定試験を受けて、合格したばかり。末弟のジョトゥ叔父さんは、まだその学校に通っていた。その学校がいい学校だと聞いて、母さんはぼくを、そこに入学させることに決めた。 
 
学校のことは後で話すとして、今ここで言っておきたいことが一つある –– 「休暇」というものがどんなものか、その楽しさがどこにあるか、そのことは、学校に入るまで、知ることができない。ただでさえ、日曜に加えていろんな祭日がある上、夏休みとプージャー休み (6) もある。この二つの大きな休暇が始まる何日も前から、心は喜びの調べに湧き立った。休暇の間、カルカッタにとどまっているなんてことは、その頃、あまりなかった。 
 
二つの休暇のことを、すごくよく覚えている。 
 
一度、ぼくらの一族、ラクナウ在住の母方の2番目の叔父・叔母とその男の子たち、ぼくの下の叔父さん、その他何人かの親戚で大きなグループになって、ハザーリーバーグに行ったことがある。「キスメット」という名前のバンガローを借り切った。食事はどれも新鮮で安く、素晴らしく健全な環境だった。キャナリ丘陵の頂上に登ったり、ラジラーッパー (7) へピクニックに行ったり、ボーカーローの滝を見に行ったり –– すべてがまるで黄金に包まれた日々だった。日が暮れるとペトロマックス(圧力式灯油ランタン)の明かりの下にみんな集まって、二つのグループに分かれてのいろんな遊び。何より面白かったのは、シャレードだ。この遊びにベンガル語の名前があるのかどうか、知らないが、タゴールの少年時代、タゴール家でもこの遊びが行われていたことを知っている。二つのグループに分かれてしなければならない –– 交替で、片方のグループが演じ、もう片方が観客になる。演技のグループは、2つかそれ以上の言葉を組み合わせた単語を選ぶ。たとえば、「コロ=タル」(小さなシンバル)、「ション=デシュ」(甘菓子)、「ション=ジョム=シル」(抑制のきいた)。「ション=ジョム=シル」を選んだとすると、演技グループは、4つの小さな場面を次々に演じて観客グループに見せなければならない。最初の場面は「ション」(共に)、2つ目は「ジョム」(抑制)、3つ目は「シル」(〜の性質をした)をそれぞれ演じ、最後に全部を合わせて演じて見せる。シャレードには2種類ある –– 「無言のシャレード」と「しゃべるシャレード」。「無言のシャレード」をする時は、黙ったまま演じて、その言葉を伝える。「しゃべるシャレード」の場合は、演者たちの会話の合間に、ちょっとだけ、ヒントになるような言葉を差し挟む。観客グループは、4つの場面の演技を見て、全体の単語を見出さなければならない。グループが大きい方が、この遊びは盛り上がる。ぼくらは、みんなで10人から12人ほどだった。遊びに熱中して、夕暮れ時、時間がどうやって過ぎていったか、気が付きすらしなかった。 
 
もう一つの思い出深い休暇は、シュンドルボン (8) への蒸気船の旅だ。ぼくには一人、物品税弁務官の義叔父さんがいた。義叔父さんは、時々シュンドルボンに行かなければならなかった。一度、かなりの人数の親類縁者を引き連れてそこに行くことがあって、その中には、ぼくと母さんも含まれていた。義叔父さんと叔母さんの他に、4人の従姉とロノジット兄(ダー)がいた。ロノジット兄、またの名をロノ兄は、狩猟家だった –– 銃と山ほどの薬莢を持って行った。マトラ川に沿って、そのまま河口まで行かなければならなくて、船は、その合間合間に、シュンドルボンの運河や湿地帯の中を巡って行く。全部で15日間の旅だ。 
 
船旅の間、ほとんどデッキにすわって風景を見ながら過ごした。マトラ川 (9) は川幅がものすごく広く、両岸がほとんど見えない。船の水先案内人たちは、時々、水の中にバケツを下ろす。水から引き上げると、その中には、水と一緒に、ほとんど透明なクラゲが見えた。船が運河の中に入ると、風景はガラリと変わる。遠くから見渡すと、運河の岸辺に列をなして鰐が日向ぼっこしていて、その背中には、白鷺がのんびり安らっている。すぐ側まで行くと、鰐たちは、水の中へスルスル入って行く。鰐たちがいる側の岸辺には木は疎らで、ほとんどの木が小ぶりだが、その反対の岸辺は巨大な木が立ち並ぶ深い密林で、その中には鹿の群れが目につく。鹿たちも、船の音を聞くと、慌てて逃げ去った。 
 
ある日、ぼくらは船から降り、小舟に乗って陸に上がり、深い密林の中を通って、ずっと昔に打ち捨てられたカーリー女神の寺を見に行った。根のようなものが、地面を裂いて、槍のように頭をもたげている。手に持った杖を頼りに、その隙間を縫って、足を下ろしながら進まなければならない。銃を持った同伴者が二人 –– なぜなら、この一帯は虎の縄張りで、虎様がいつ姿を現すか、予測がつかないからだ。 
 
ぼくらはこの時、虎を見ることはなかったけれど、ロノ兄は、鰐を一頭仕留めたのだった。運河の縁の陸の上のある場所に鰐がたくさんいるのを見て、船を繋留させた。ロノ兄は小舟に乗って出かけた、3人のお供を連れて。息を殺して半時間ほど待っていると、銃声が一つ響いた。狩りの一隊は、船からかなり離れた場所まで行かなければならなかった。 
 
さらに半時間経って、鰐の死骸をひとつ乗せて小舟が戻ってきた。船の下のデッキで、その鰐の皮が剥がされた。ロノ兄は、その皮でスーツケースを作った。 
 
7日して、ぼくらはタイガー・ポイント (10) に着いた。目の前には底知れぬ大海、左手にはちっぽけな島が一つ、その上には砂山。ぼくらは、波のない海の水で水浴した後、砂山で長い時間過ごしてから、船に戻った。人跡から遥か離れた場所だったことは言うまでもない。混じり気のない喜びと言えば、45年前のシュンドルボン行の、この何日かの追憶が、ぼくの心のかなりの部分を占めている。 
 
 
訳注 
(注1)父方の遠縁の祖父。5世代前のクリシュノジボンには、ビシュヌラムとブロジョラムの二人の息子があり、レイの祖父ウペンドロキショルは兄のビシュヌラムの家系、プロモダロンジョンは弟のブロジョラムの家系に遡る。 
(注2Justice Chandra Madhab Road 南カルカッタのボバニプル地区の中心にある。チョンドロマドブ・ゴーシュ卿(Sir Chandra Madhab Ghosh)は、カルカッタ最高裁判所(1862年設立)最初期のインド人判事の一人。 
(注3)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 19082007) 著名な女流作家。児童文学作品を中心に、小説、伝記、料理本、翻訳作品など幅広い分野に活躍。レイとともに『ションデシュ』誌を編集。 
(注4)全粒粉で作られた平べったい丸パン。火に炙って膨らませたもの。 
(注5)シュビモル・ラエ、レイの父親シュクマルの末弟。『ぼくが小さかった頃』③、⑩参照。 
(注6)ドゥルガー祭祀(プージャー)の後、カーリー女神・ラクシュミー女神の祭祀が続き、1ヶ月間の長期休暇になる。 
(注7ハザーリーバーグの南東に位置するヒンドゥー教の聖地。ボーカーローの滝は、そこのベラー川がダーモーダル川と合流する地点にある『ぼくが小さかった頃』⑬参照。 
(注8)インド西ベンガル州南部とバングラデシュ南部を覆いベンガル湾に至る、広大な森林地帯。 
(注9)シュンドルボン西部を貫通し、ベンガル湾に注ぐ、主流の一つ。 
(注10)シュンドルボンの東部にある、マングローブの密林に囲まれた孤立したビーチ。 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき) 
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。 
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。 
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年3月14日木曜日

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

第10回 アジアの舞踊の研究家ベリル・ド・ズーテ 

ベリル・ド・ズーテの名前はウォルター・シュピースとの共著『バリ島の舞踊と演劇』(1938年)によって、バリ島の研究者にはよく知られている。元々がバレエ・ダンサーであり、舞踊研究家として、ジャワ島の舞踊、スリランカのキャンディアン・ダンス、南インドの舞踊についてもそれぞれ見聞録を出しているのだが、どれも絶版である。 

1931年にロンドンでウダヤ・シャンカルの舞踊を見て、また、ヴァンセンヌの森におけるパリ国際植民地博覧会でバリ舞踊を目撃して、アジアの舞踊に興味を持った。源氏物語の英訳で知られるアーサー・ウェイリーといい関係にあったようで、日本や中国、能や世阿弥についても知識がある。 

幸い、米アマゾンを探検したら1953年、わたしの生まれた年に発行されたBeryl De Zoete, The Other Mind/A Story of Dance in South Indiaを入手できた。こんなことに興味を持っているのは日本では私くらいのものなので、ここに報告したい。 

ズーテは初めてジャワ、バリを訪れた後、ロンドンへの帰途、1935年3月にインドに立ち寄った。詩人ワラトール・ナーラーヤナ・メノンがケーララ文化称揚のために創設したカタカリ舞踊劇の殿堂ケーララ・カラーマンダラムを訪ね、タゴールと並び称されるその南インドの詩人にも親しく会っている。49年に再訪したときには亡くなっていた。 

この本には、ズーテの何人かの友達や公的機関が記録した写真が収められている。前々回取り上げたシャーンターの写真は腰が落ちていて素晴らしい。カタカリは勿論のこと、オッタム・トゥッラルやヤクシャガーナ、祭祀芸能であるブータ、テイヤムの古い写真が掲載されているので、とても貴重な記録だ。 

私が40年前にケーララの芸能を追いかけて、1988年に出版した『カタカリ万華鏡』の偉大な先駆者である。南インドの芸能者や文人に会って聞き及び、世界で初めてケーララの特色ある芸能を紹介している。旅の記録のなかにカタカリで演じられる神話を割り込ませている所も似ている。何年に何があったか記している所もあるが、ズーテの年譜を作成するのは困難である。 

これはシャーンターについてもいえることで、第8回では1925年生まれとの説を採り、14歳頃にカラーマンダラム入門としたが、ズーテによると12歳の時だそうだ。本によって、12歳違うのは珍しくない。 

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=FChXM3LAtuc&fbclid=IwAR0tCYYfC7YLQcdQqpaRgJ8qBaPouIrObqa6eaJES5JFe-efEfB2a8zaU-E 

また、金持ちの家に生まれ育ったシャーンターは、師ミーナークシ・スンダラムの家を小屋と表現したが、ズーテはhutではなくちゃんとした家だと訂正を入れている。 

ケーララ・カラーマンダラム 

カタカリは王様の軍隊が余興で始めたものといわれる。インド人は何でも伝説や神話を作って説明するので、真偽のほどは分からないが、カタカリはバガヴァティー女神の神前の庭カラリと密接な関係がある。カラリでは寺子屋のように読み書きを習ったり、遊戯や武術カラリパヤットゥの訓練が行われたりし、お祭りの時は遊戯が繰り広げられた。そんな中からカタカリ舞踊劇が発達したのだろう。 

タゴールがバウルを取り上げベンガルの文化を称揚したように、ワラトールはカタカリ、クーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムなどケーララの芸能を保持すべく、1930年、ケーララ・カラーマンダラムという教育機関(今は芸術文化大学)を設立した。ワラトールは20代で耳が悪くなり聞こえなくなったので、役者や家族とムドラーで会話したとズーテは記す。ズーテ自身もカタカリとそのムドラーを習ったというから、片言のムドラーでワラトールと話したか。 

https://www.kalamandalam.ac.in/  

カタカリに昔は女性のダンサーもいたとか、緑のメイクではなくマスクを着けた、セリフもあったとズーテは聞き及んだようだ。カタカリの様式がきちんと確立する前は様々なスタイルがあったのだろう。マスクといってもスリランカのコーラムのような堅い仮面ではなく、椰子で作った被り物マスケットではないか。 

チェルトゥルティのカラーマンダラムに初めて私が訪れたのは写真で確かめると1985年1月1日。オフィス・アジアの主催するケーララ・カルナータカ・ツアーに参加したときだ。コーディネーターはドクター・アヴァスティ、日本側は能楽の研究家で能管を吹くリチャード・エマートが務めた。

 

スレーシュ・アヴァスティは、1970年、音楽学者の田辺秀雄らがデリーとボンベイを訪ねたときのサンギート・ナータク・アカデミー所長で、親切にあちこち手配した。翌年、日印協会は文化使節団調査団を派遣し、東洋音楽学会も協賛し、榊原帰逸らとインド芸能の調査を行った。日本とはそれ以来の付き合いだ。なかなか個人でのインド旅行が難しかった時代、日印協会主催で音楽舞踊ツアーを行っていた。沖縄から舞踊団が訪印することもあったようだ。 

ドクター・アヴァスティは東京外国語大学AA研に招かれ、山口昌男と研究会を行っていたので、84年末からのツアーには様々な人物が参加した。音楽学者の姫野翠、演劇・舞踊の評論家である市川雅、石井達郎、宮尾慈良、伊達なつめ(徳丸素子)、当時は横浜ボートシアターの演出助手をしていた吉見俊哉。彼はもう退職したが、東京大学副学長にまで出世した。 

カラーマンダラムを卒業するとカラーマンダラムという称号を得ることができる。ズーテの本にある写真のクレジットによるとカタカリの写真の多くがカラーマンダラム・クリシュナン・ナイルの写真なので驚いた。私は彼の晩年に何回か見ている。晩年は、弟子に手を支えられてよいしょと立ち上がり、ステップを踏んでいた。メイクをしているので分からないが80歳前後だったのだろう。 

ズーテが最初に彼に会ったのは20代ということになる。当時、祭りに出ると、主役級で1、2ルピーもらったそうだ。1ルピー100円程度か。感覚的には百円玉いくつのおひねり、若手は5円という感じ。当時は1ルピーの16分の1のアンナ・コインがあったか。多い月には20回くらい出演するだろう。カタカリ劇団を一晩雇おうと思ったら数万円か。他に準備するものがあるだろうから、一公演に十万円かそこらの経費がかかることになる。現在は円安でインドも物価高なので正確な話ではない。 

デーヴァダーシー 

もう一度、ズーテの本に戻る。ズーテはバラタナーティヤムの本質は音楽であるという。踊りに音楽を付けたわけではない。歌を踊りで語るのだ。歌が基本である。 

デーヴァダーシーは歌と踊り、そして読み書きを習った。一般女性は習うことができない。インド舞踊一般は、ほとんど踊りだけだが、クチプリの場合は歌うこともある。それが元々の形だろう。音楽を意味する語サンギート、共に歌うという意味で、そこには踊りと演劇も含まれ、それぞれ不可分の関係にある。 

https://www.britannica.com/art/kuchipudi 

ズーテはフランス人宣教師デュボアの本からデーヴァダーシーについて記述している。18世紀末ポンディッシェリーに至り、それから30年以上インドで布教活動をし、民俗を調べた。その一部の訳が重松伸司『カーストの民/ヒンドゥーの習俗と儀礼』として東洋文庫から出ている。見聞きしたことの報告なのであまり正確でない所もあるが、貴重な記録である。 

デーヴァダーシーとは神に捧げられた下僕の女性形。人と結婚して夫が先に死ぬと不吉だが、人間ではなく神と結ばれているため常に吉祥であるとされ、魔を祓う力を持つ。ヒンドゥー寺院を訪ねると朝、夕のお勤めプージャーに際してガンガンと鐘を鳴らし灯明を捧げるアールティーという儀礼に当たることがある。デュボアによると邪視を退ける、悪意のある目つきからの影響を避ける意味があるという。光によって闇を滅するということなのだろう。今は男が勤めているが、元々はデーヴァダーシーの役だった。未亡人は不吉なので参加することが出来ない。 

神と結婚するといっても、実質的には寺のバラモンの妻、あるいはめかけのような存在だ。給金をもらっているが、少ないので売春をするとも説明されている。結婚式などの行事に赴いて福を招く。デュボアはデーヴァダーシーが最も上品に衣装を身につけていると記す。 

またデュボアは、ヴィシュヌ神のダシャ・アヴァターラ(十化身)を上演する放浪の旅芸人について、淫らで馬鹿げた道化芝居と記す。その多くは街頭で脚木の上に板を渡して舞台とする。人形芝居も演じるが、嫌らしい仕草でナンセンスという。 

そんな大衆的で下卑た十化身劇もあったかもしれないが、本来、宗教劇であるダシャ・アヴァターラ・アーッタムが、カタカリやヤクシャガーナ、路上劇のテールクートゥ、そこから発展したバーガヴァタ・メーラー、クチプリの前身となっている。ネパールの路上でも十化身劇は行われた。 

また、ズーテは1870年にショート博士がロンドン人類学会で読んだ論文を引用する。デーヴァダーシーは結婚しない。5歳から歌と踊りの厳しい訓練を受ける。寺から給料はもらうが、月に1、2ルピー程度で、ほかに給食というか、ボウル一杯のご飯を一日、一回貰うという。 

19世紀の月給1ルピーがいくらの換算になるのか、食べていく最低限の保障だろう。援助がないと生活できないというレベルなので、お祭りやら結婚式やらの行事への参加で足りない分を補ったのだろう。カタカリやヤクシャガーナの役者と同じだ。 

またショート博士は、ステリア・クートゥと呼ばれるアクロバット的なダンスについても記している。子供をさらって後継者にしているという噂もある。今でいうブレークダンス、ブレーキングには及ばないが、反っくり返って、つまり、ブリッジでお金を拾ったようだ。イギリス人には正統的なバラタナーティヤムよりこちらの方が受ける。金を稼げる。 

ズーテは、そのような大道芸的な踊りをインドにおいてではなく、パリの植民地博覧会で見たようだ。 

バーラサラスヴァティーの復活 

ズーテがインドを再訪した頃は、バラタナーティヤムのカマラーが天才少女として売り出し中だった。アメリカ人のインド舞踊家ラーギニー・デーヴィーと共に観覧した。会場は満員で、先に着いていたラーギニーは、あらここよとばかりにズーテを見つけ席を作った。舞踊家たるズーテは、形は整っているけれど心の内なる炎が見えない。目で表現できていないと手厳しいが、15歳なんだから大目に見てやってくれ。後に大成する。 

https://www.google.com/search?q=kamala+lakshman+bharatanatyam&rlz=1C1TKQJ_jaJP1057JP1057&oq=kamala+&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqDggBECMYExgnGIAEGIoFMgYIABBFGDkyDggBECMYExgnGIAEGIoFMg0IAhAAGIMBGLEDGIAEMgcIAxAAGIAEMgcIBBAAGIAEMgcIBRAAGIAEMgcIBhAAGIAEMgcIBxAAGIAEMgcICBAAGIAEMgcICRAAGIAE0gEJOTYwMGowajE1qAIAsAIA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:05a97bd0,vid:8VFQVW7lFAY,st:0 

1918年生のバーラサラスヴァティーは、デーヴァダーシーの家系である。31歳とまだ若いのに、リューマチと心臓病のため、何年かステージに立っていなかった。入院したりして太ってしまったので、誰も踊ってくれと言わなくなった。 

ズーテは、世界的に有名になった舞踊家ラーム・ゴーパルと共にバーラの家に訪れ、踊ってくれるように懇願し、ようやくのことで承諾を得る。しかし、ズーテはインド人の軽い約束に何度も裏切られていて懐疑的だった。その朝がやって来る。バーラの兄弟から電話があった。もしや。 

ズーテはバーラの母と娘、兄弟と共に車に乗り込んでマイラポールの劇場に赴いた。師であるカンダッパ、歌手のエラッパら伝説的な音楽家がホールで待ち構えていた。映画のワンシーンみたいだ。 

ズーテはなんといってもそのアビナヤ、絶妙な表情に惹かれる。ため息が出るような美しさ、ステップ、仕草の完璧なコントロール、音楽が身体に染み込んで動きと共に波紋を広げる。絵にも描けない美しさというか、写真は残っていない。ズーテの隣でラーム・ゴーパルがムドラーの解説をしてくれたそうだ。なんと贅沢なひととき。 

その後、1961年にバーラは「イースト・ウェスト・エンカウンター・イン・トーキョー」で来日した。これは東京文化会館のこけら落としのコンサートではないか。翌年、アメリカのウェズリアン大学に招かれる。1967年には、ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンと共にハリウッド・ボウルでのコンサートに出演している。 

こんな素敵な話が、なんで映画にならないのかと思う。 


 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年3月12日火曜日

松本榮一のインド巡礼(その10)

ポタラ宮―極奥の神殿

 

ポタラ宮は、インドに亡命している元チベット国王であり、チベット仏教の法王ダライ・ラマの居城であり、同時に歴代ダライラマの墓廟でもあります。

チベットの都だったラサの西北マルポリの丘にぽっかりと浮かぶようにそびえるポタラ宮は最盛期のチベット文化を象徴する壮麗な建造物です。

全幅約400m、面積にして13000平米、基部から13階のこの建物は、一つの建築物としては世界最大級であり、1642年から十数年の歳月をかけて建てられました。

 

1649年、白宮が完成し、当時のダライラマ五世はこの新宮殿に居を移した。

 

やがて1682年、ダライラマ5世が亡くなると、その遺体をミイラにして黄金の霊塔に収め、壮大な廟を白宮の西隣に立てた。これが紅宮である。そして5世から後のすべてのダライラマの遺体はミイラにされ、紅宮に収められているのである。(ただし6世は青海で客死したため、ポタラ宮には6世の霊塔はない。)

1959年、ダライラマ14世は、中国の圧迫にヒマラヤを超えてインドに亡命し、北インドのダラムサラで亡命政府を作っている。

 

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2024年2月26日月曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑬

カルカッタの外で(3)

カルカッタの外での休暇で、どこよりも楽しく過ごせたのは、父方の2番目の叔母さんの家だった。義叔父さんは、州の副行政官だった。職場はビハール州。勤務地はしょっちゅう変わった –– ハザーリーバーグ、ダルバンガー、ムザッファルプル、アラー (1) –– こんな具合に、あっちこっち回るのが仕事だった。ぼくが最初に叔母さんを訪れた時は、ハザーリーバーグに住んでいた。叔母さんには、ニニとルビという二人娘がいて、その他にも、両親を亡くした従兄姉のコッランとロトゥがいた。みんなぼくより歳上だったけれど、誰もがぼくの友達だった。

ハザーリーバーグには、この後も、さらに何度か行った。最初に行った時、覚えているのは、義叔父さんに、緑色のオーヴァーランド車 (2) があったこと。その頃の車の、ちっぽけで不恰好な姿を見れば、今時の人たちはおかしく思うだろうが、このオーヴァーランドがどんなに強力で、どんな困難に出会っても、いかに車としての務めを立派に果たしてきたか、その話を義叔父さんの口から聞いたものだ。

まさしくこの車に乗って、ぼくらはラジラッパー (3) に行ったのだ。ハザーリーバーグから40マイルほど離れていて、ベラー川を渡り1マイルあまり歩くと、ラジラッパーに着く。そこには、寒気を覚えるほど無気味なマハーヴィディヤー女神の寺院 (4) があり、それを囲むようにして、ダーモーダル川の滝と砂岸、彼方に森や山を望む、驚くべき風景が広がっていた。

帰り途に、ブラーフマンベーリアの山裾で、車が故障した。その山には虎や熊がウヨウヨしているとのことだった。でも、車を修理するうちに夜になったけれど、虎や熊の姿を見ることはなかった。

車でどこかに行く計画がない時は、夕方、みんなと一緒に散歩に出かけた。食事の時間の直前に家に戻った。ランタンや灯油ランプのチラチラする明かりの下で、お話やゲームに、すっかり熱中した。カード遊びは、「鏡と金貨」と「盗人ジャック」 (5) 。「盗人ジャック」は誰でも知っているけれど、「鏡と金貨」は、その後、やっている人を見たことがない。それに、それがどんなゲームだったかも、今となっては思い出せない。

他の遊びの中で、もう一つ面白かったのは、「囁き遊び」。五人が丸く輪になってすわる。一人がその左隣の人の耳に、一つの言葉をヒソヒソと囁く。一度だけしか言っちゃいけない。その一度だけ聞いた言葉を、その人はそのまた左隣の人の耳に囁く。こうして耳から耳へと伝わった言葉が、初めの人のところに再び戻ってくる。この遊びの面白さは、最初の言葉が、最後にどんな言葉になってしまうか、にある。ぼくは、最初、左の人に「財産無しの、10人息子(ハラドネル・ドシュティ・チェレ)」と囁いたことがある。それが最後にぼくの耳に戻ってきた時には「でっかい耳に、象が笑う(ハングラカネ・ハティ・ハンシェ)」になっていた。10人以上になれば、この遊びはもっと面白くなる。

ハザーリーバーグの次はダルバンガー、その次はアラー。この二つの場所は、どちらも、ハザーリーバーグに比べれば大したことはないけれど、だからと言って、楽しいことに変わりはなかった。この時までに、ニニとルビのもう一人の従妹、ドリがやって来たので、遊び仲間がまた一人増えていた。

ダルバンガーの家は、ものすごく大きな敷地を持った、バンガローのような平屋だった。敷地の一方には背の高いシッソー紫檀 (6) とマンゴー、その他にも、いったい何本の木があったことか。家の左側の空き地には、もう一本、大きなマンゴーの木があった。そこにはブランコが吊るされていた。

ぼくらが行ったのは雨季だった。雨が一頻り降った後、ブランコが下がった木の下の、草のない地面の狭い水路や溝を通って、雨水が勢いよく走り、ドブの中に落ちた。ぼくらは紙の船を作って、溝の水面に漂わせた。溝は、いまや川となる。船は川の流れに乗り、ドブの海の中に落ちる。

この船が、時にはヴァイキングの船になることもあった。千年前、ノルウェイには海賊がいて、ヴァイキングと呼ばれていた。ぼくらは、ヴァイキングの誰かが船に乗ったまま死ぬと、その屍を船の上で焼くのだ、と想像した。紙で海賊を作り、紙の船の上にそれを寝かし、その顔に火をつけて船を雨水の中に解き放った。これがヴァイキングの葬式だった。もちろん、船も、ヴァイキングもろとも、燃えてしまった。

アラーへ行ったのは、ぼくが9歳の時だ。義叔父さんの家は、赤煉瓦の宏大な屋敷だった。真ん中の庭を囲んで、随分たくさんの部屋があった。思い出す限り、その内のいくつかの部屋は、使われてもいなかった。二階にもいくつか部屋があって、その内の一つが義叔父さんの作業室だった。屋敷の広さに見合った庭もあった。

コッラン兄(ダー)は、ぼくより6歳以上歳上だったけれど、ぼくの特別の友達だった。切手を集めていた。兄さんを真似て、ぼくも収集を始めた。ヒンジ (7) を買い、トゥイーザー (8) を買い、虫メガネまで買った –– 切手に印刷の間違いがないかどうか、見るために。間違いがあれば、その切手の価値は、すごく高くなる。国内のものも、外国のものも、切手が手に入ると、すぐに虫メガネを目に当ててそれを見た。 –– いいや、こいつには何の間違いもない –– こいつにも、だ –– こんな調子で、どんな切手にも、一度も間違いを見つけることはなかった。それがたぶん理由で、しまいには飽きて、収集するのをやめてしまった。

コッラン兄には、もう一つの役割があった –– そのことを、ここで話しておく必要がある。

クリスマスというものに、子供の頃から惹かれていたことは、前に述べた。サンタクロースという髭を生やした老人がいて、クリスマスの前夜に幼い子供たちの部屋に入って、寝台の枠に吊るされた彼らの靴下の中を、おもちゃでいっぱいにする –– このことを、ぼくはたぶん、そのまま信じていたのだ。

2番目の叔母さんの家での楽しさときたら、他のどことも、比べようもない。なのに、この楽しさからクリスマスが除外されるなんてことが、どうしてあり得よう? それが12月である必要が、どこにある? クリスマスが何月にあったって、いいじゃないか!

こういうわけで、アラーでは、6月に、コッラン兄がサンタクロースになったのだ。ぼくの寝台の枠に靴下が吊るされた。夜、ぼくは眠ったフリをして、寝床の中に入っていた。コッラン兄は、綿を顎髭と口髭に見立てて、顔に糊でくっつけた。背中には袋を担がなけりゃならない、なぜなら、その中に贈り物が入っているから。それに、サンタクロースがやって来ることを、知らせる必要がある。それで、袋の中には、他の物と一緒に、いくつもの空き缶が突っ込まれていた。

半時間ほど黙って横になっていると、ジャンジャン、ジャンジャン、音が聞こえた。

その少し後、半分閉じた目で薄闇を見透かすと、サンタクロースの服を着込んだコッラン兄が、袋をぶら下げて入って来て、寝台の枠の側で立ち止まった。そして、そのすぐ後に続くカタコトいう音で、ぼくの靴下の中に何かを入れているのがわかった。何もかもが作り事なのは自分でもわかっていたけれど、それでも、楽しいことといったら、なかった。

その時は、ぼくらがアラーに滞在中に、ドンお祖父ちゃんもやって来た。ぼくら兄弟姉妹はみんな揃って、夕方、お祖父ちゃんと一緒に外出した。アラー駅は、ぼくらの家から1.5マイルほど離れていた。ぼくらは、駅のプラットフォームに立って、日が暮れようという頃、インペリアル急行 (9) が、あたり一帯を震撼させて、ぼくらの前を汽笛を鳴らしながら走り去るのを見た。この巨大な汽車の客車の外側は薄黄色で、その上は黄金色の模様で飾られていた。他のどんな汽車にも、こんな派手さ、豪勢さはなかった。

ある日、みんなで駅の方に向かって歩いていた。お祖父ちゃんはフェルトの山高帽をかぶり、手にステッキを持って、完全に白人サヘブ風の服装で、ぼくらを従えて進む。そんな時、どこからか、一頭の牛が、角を振りかざし目を赤くして、ぼくらに向かって駆けて来た。こんな獰猛な牛を、ぼくはそれまで見たことがなかった。お祖父ちゃんは即座に言った、「おまえたち、畑の中に下りるんだ!」

畑に下りようとすれば、センニンサボテン (10) の柵を越えなければならないのだが、お祖父ちゃんは、そこまでは気が付かなかった。ぼくらも、だ。センニンサボテンの藪を抜けて、畑に下りた。棘に引っ掛かって手足がどれだけ傷ついたか、その状況下では、そんなことに気づく余裕すらなかった。ぼくらは藪の隙間から、息を呑んで見つめていた –– お祖父ちゃんは、牛の方に向かって両足を広げて立ち塞がると、手に持ったステッキを飛行機のプロペラのようにブンブン振り回す。牛の方も、角を振りかざして2メートルばかり離れた場所に立ち止まり、この奇妙な人間の奇妙な振舞いを目にして、釘付けになっている。

ドンお祖父ちゃんのこの威勢の良さを目にして、さすがの気狂い牛も、ものの1分と我慢することができなかった。

牛が立ち去ると同時に、ぼくらは勇気を奮って、それ以上身体を傷つけないように気をつけながら、藪の蔭から出て来た。

 

訳注

(注1)ハザーリーバーグとダルバンガーは、現在のジャールカンド州。また、ムザッファルプルとアラーは、現ビハール州にある。

(注2)アメリカの自動車製造会社。1903年に創立。

(注3)ハザーリーバーグの南東65 kmに位置する、ヒンドゥー教の聖地。ベラー川がダーモーダル川と合流する地点に、大きな滝がある。

(注4)ヒンドゥー教性力(シャークタ)派の聖地。マハーヴィディヤーは、シヴァ神の妻サティー女神の10の化身の総称。シヴァ神が怒りにまかせて、死んだ妻サティー女神の骸を抱えて踊った時、そのバラバラになった身体部位がインドの51箇所に落ちた。ラジラッパーはその一つで、サティー女神の首が落ちたと伝えられる。

(注5)4枚あるジャックの一枚を抜き、残りのカードをプレーヤーに均等に分配する。互いにカードを取り合い、同じ数字のカードが2枚揃うと除いていく。最後にジャック一枚を手元に残した人が盗人(負け)となる。

(注6)英名 Bombay rosewood マメ科の落葉高木。高いものは20mを超える。円形の滑らかな葉をつける。材は美しい濃褐色か紫褐色で非常に硬く、高級家具やタブラーの胴等に使われる。

(注7)切手を直に触れるのを避けるため、切手の裏に貼り付ける、蝶番型の紙片。容易に貼ったり剥がしたりできる。

(注8)切手をつまむためのピンセット。

(注9)ボンベイ港とカルカッタの間を、郵便物と、限られた人数の一等乗客を運ぶために運行した、急行列車。1897年に始まり、1926年からは新しい車両が設置され、インドで最も豪華な汽車となった。ボンベイーハウラー(カルカッタ)間を、片道40時間前後で往復した。

(注10)サボテンの一種、2メートルほどの高さに生育する。黄色や赤みがかった花を咲かせる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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