第10回 アジアの舞踊の研究家ベリル・ド・ズーテ
ベリル・ド・ズーテの名前はウォルター・シュピースとの共著『バリ島の舞踊と演劇』(1938年)によって、バリ島の研究者にはよく知られている。元々がバレエ・ダンサーであり、舞踊研究家として、ジャワ島の舞踊、スリランカのキャンディアン・ダンス、南インドの舞踊についてもそれぞれ見聞録を出しているのだが、どれも絶版である。
1931年にロンドンでウダヤ・シャンカルの舞踊を見て、また、ヴァンセンヌの森におけるパリ国際植民地博覧会でバリ舞踊を目撃して、アジアの舞踊に興味を持った。源氏物語の英訳で知られるアーサー・ウェイリーといい関係にあったようで、日本や中国、能や世阿弥についても知識がある。
幸い、米アマゾンを探検したら1953年、わたしの生まれた年に発行されたBeryl De Zoete, “The Other Mind/A Story of Dance in South India”を入手できた。こんなことに興味を持っているのは日本では私くらいのものなので、ここに報告したい。
ズーテは初めてジャワ、バリを訪れた後、ロンドンへの帰途、1935年3月にインドに立ち寄った。詩人ワラトール・ナーラーヤナ・メノンが、ケーララ文化称揚のために創設したカタカリ舞踊劇の殿堂ケーララ・カラーマンダラムを訪ね、タゴールと並び称されるその南インドの詩人にも親しく会っている。49年に再訪したときには亡くなっていた。
この本には、ズーテの何人かの友達や公的機関が記録した写真が収められている。前々回取り上げたシャーンターの写真は腰が落ちていて素晴らしい。カタカリは勿論のこと、オッタム・トゥッラルやヤクシャガーナ、祭祀芸能であるブータ、テイヤムの古い写真が掲載されているので、とても貴重な記録だ。
私が40年前にケーララの芸能を追いかけて、1988年に出版した『カタカリ万華鏡』の偉大な先駆者である。南インドの芸能者や文人に会って聞き及び、世界で初めてケーララの特色ある芸能を紹介している。旅の記録のなかにカタカリで演じられる神話を割り込ませている所も似ている。何年に何があったか記している所もあるが、ズーテの年譜を作成するのは困難である。
これはシャーンターについてもいえることで、第8回では1925年生まれとの説を採り、14歳頃にカラーマンダラム入門としたが、ズーテによると12歳の時だそうだ。本によって、1、2歳違うのは珍しくない。
また、金持ちの家に生まれ育ったシャーンターは、師ミーナークシ・スンダラムの家を小屋と表現したが、ズーテはhutではなくちゃんとした家だと訂正を入れている。
ケーララ・カラーマンダラム
カタカリは、王様の軍隊が余興で始めたものといわれる。インド人は何でも伝説や神話を作って説明するので、真偽のほどは分からないが、カタカリはバガヴァティー女神の神前の庭カラリと密接な関係がある。カラリでは寺子屋のように読み書きを習ったり、遊戯や武術カラリパヤットゥの訓練が行われたりし、お祭りの時は遊戯が繰り広げられた。そんな中からカタカリ舞踊劇が発達したのだろう。
タゴールがバウルを取り上げベンガルの文化を称揚したように、ワラトールはカタカリ、クーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムなどケーララの芸能を保持すべく、1930年、ケーララ・カラーマンダラムという教育機関(今は芸術文化大学)を設立した。ワラトールは20代で耳が悪くなり聞こえなくなったので、役者や家族とムドラーで会話した、とズーテは記す。ズーテ自身もカタカリとそのムドラーを習ったというから、片言のムドラーでワラトールと話したか。
https://www.kalamandalam.ac.in/
カタカリに昔は女性のダンサーもいたとか、緑のメイクではなくマスクを着けた、セリフもあった、とズーテは聞き及んだようだ。カタカリの様式がきちんと確立する前は様々なスタイルがあったのだろう。マスクといってもスリランカのコーラムのような堅い仮面ではなく、椰子で作った被り物マスケットではないか。
チェルトゥルティのカラーマンダラムに初めて私が訪れたのは、写真で確かめると1985年1月1日。オフィス・アジアの主催するケーララ・カルナータカ・ツアーに参加したときだ。コーディネーターはドクター・アヴァスティ、日本側は能楽の研究家で能管を吹くリチャード・エマートが務めた。
スレーシュ・アヴァスティは、1970年、音楽学者の田辺秀雄らがデリーとボンベイを訪ねたときのサンギート・ナータク・アカデミー所長で、親切にあちこち手配した。翌年、日印協会は文化使節団調査団を派遣し、東洋音楽学会も協賛し、榊原帰逸らとインド芸能の調査を行った。日本とはそれ以来の付き合いだ。なかなか個人でのインド旅行が難しかった時代、日印協会主催で音楽舞踊ツアーを行っていた。沖縄から舞踊団が訪印することもあったようだ。
ドクター・アヴァスティは東京外国語大学AA研に招かれ、山口昌男と研究会を行っていたので、84年末からのツアーには様々な人物が参加した。音楽学者の姫野翠、演劇・舞踊の評論家である市川雅、石井達郎、宮尾慈良、伊達なつめ(徳丸素子)、当時は横浜ボートシアターの演出助手をしていた吉見俊哉。彼はもう退職したが、東京大学副学長にまで出世した。
カラーマンダラムを卒業すると、カラーマンダラムという称号を得ることができる。ズーテの本にある写真のクレジットによると、カタカリの写真の多くがカラーマンダラム・クリシュナン・ナイルの写真なので驚いた。私は彼の晩年に何回か見ている。晩年は、弟子に手を支えられてよいしょと立ち上がり、ステップを踏んでいた。メイクをしているので分からないが80歳前後だったのだろう。
ズーテが最初に彼に会ったのは20代ということになる。当時、祭りに出ると、主役級で1、2ルピーもらったそうだ。1ルピー100円程度か。感覚的には百円玉いくつのおひねり、若手は5円という感じ。当時は1ルピーの16分の1のアンナ・コインがあったか。多い月には20回くらい出演するだろう。カタカリ劇団を一晩雇おうと思ったら数万円か。他に準備するものがあるだろうから、一公演に十万円かそこらの経費がかかることになる。現在は円安でインドも物価高なので正確な話ではない。
デーヴァダーシー
もう一度、ズーテの本に戻る。ズーテはバラタナーティヤムの本質は音楽であるという。踊りに音楽を付けたわけではない。歌を踊りで語るのだ。歌が基本である。
デーヴァダーシーは歌と踊り、そして読み書きを習った。一般女性は習うことができない。インド舞踊一般は、ほとんど踊りだけだが、クチプリの場合は歌うこともある。それが元々の形だろう。音楽を意味する語サンギート、共に歌うという意味で、そこには踊りと演劇も含まれ、それぞれ不可分の関係にある。
https://www.britannica.com/art/kuchipudi
ズーテは、フランス人宣教師デュボアの本からデーヴァダーシーについて記述している。18世紀末ポンディッシェリーに至り、それから30年以上インドで布教活動をし、民俗を調べた。その一部の訳が重松伸司『カーストの民/ヒンドゥーの習俗と儀礼』として東洋文庫から出ている。見聞きしたことの報告なのであまり正確でない所もあるが、貴重な記録である。
デーヴァダーシーとは神に捧げられた下僕の女性形。人と結婚して夫が先に死ぬと不吉だが、人間ではなく神と結ばれているため常に吉祥であるとされ、魔を祓う力を持つ。ヒンドゥー寺院を訪ねると朝、夕のお勤めプージャーに際してガンガンと鐘を鳴らし、灯明を捧げるアールティーという儀礼に当たることがある。デュボアによると邪視を退ける、悪意のある目つきからの影響を避ける意味があるという。光によって闇を滅するということなのだろう。今は男が勤めているが、元々はデーヴァダーシーの役だった。未亡人は不吉なので参加することが出来ない。
神と結婚するといっても、実質的には寺のバラモンの妻、あるいはめかけのような存在だ。給金をもらっているが、少ないので売春をするとも説明されている。結婚式などの行事に赴いて福を招く。デュボアはデーヴァダーシーが最も上品に衣装を身につけていると記す。
またデュボアは、ヴィシュヌ神のダシャ・アヴァターラ(十化身)を上演する放浪の旅芸人について、淫らで馬鹿げた道化芝居と記す。その多くは街頭で脚木の上に板を渡して舞台とする。人形芝居も演じるが、嫌らしい仕草でナンセンスという。
そんな大衆的で下卑た十化身劇もあったかもしれないが、本来、宗教劇であるダシャ・アヴァターラ・アーッタムが、カタカリやヤクシャガーナ、路上劇のテールクートゥ、そこから発展したバーガヴァタ・メーラー、クチプリの前身となっている。ネパールの路上でも十化身劇は行われた。
また、ズーテは1870年にショート博士がロンドン人類学会で読んだ論文を引用する。デーヴァダーシーは結婚しない。5歳から歌と踊りの厳しい訓練を受ける。寺から給料はもらうが、月に1、2ルピー程度で、ほかに給食というか、ボウル一杯のご飯を一日、一回貰うという。
19世紀の月給1ルピーがいくらの換算になるのか、食べていく最低限の保障だろう。援助がないと生活できないというレベルなので、お祭りやら結婚式やらの行事への参加で足りない分を補ったのだろう。カタカリやヤクシャガーナの役者と同じだ。
またショート博士は、ステリア・クートゥと呼ばれるアクロバット的なダンスについても記している。子供をさらって後継者にしているという噂もある。今でいうブレークダンス、ブレーキングには及ばないが、反っくり返って、つまり、ブリッジでお金を拾ったようだ。イギリス人には正統的なバラタナーティヤムよりこちらの方が受ける。金を稼げる。
ズーテは、そのような大道芸的な踊りをインドにおいてではなく、パリの植民地博覧会で見たようだ。
バーラサラスヴァティーの復活
ズーテがインドを再訪した頃は、バラタナーティヤムのカマラーが天才少女として売り出し中だった。アメリカ人のインド舞踊家ラーギニー・デーヴィーと共に観覧した。会場は満員で、先に着いていたラーギニーは、あらここよとばかりにズーテを見つけ、席を作った。舞踊家たるズーテは、形は整っているけれど心の内なる炎が見えない。目で表現できていないと手厳しいが、15歳なんだから大目に見てやってくれ。後に大成する。
1918年生のバーラサラスヴァティーは、デーヴァダーシーの家系である。31歳とまだ若いのに、リューマチと心臓病のため、何年かステージに立っていなかった。入院したりして太ってしまったので、誰も踊ってくれと言わなくなった。
ズーテは、世界的に有名になった舞踊家ラーム・ゴーパルと共にバーラの家に訪れ、踊ってくれるように懇願し、ようやくのことで承諾を得る。しかし、ズーテはインド人の軽い約束に何度も裏切られていて懐疑的だった。その朝がやって来る。バーラの兄弟から電話があった。もしや。
ズーテはバーラの母と娘、兄弟と共に車に乗り込んでマイラポールの劇場に赴いた。師であるカンダッパ、歌手のエラッパら伝説的な音楽家がホールで待ち構えていた。映画のワンシーンみたいだ。
ズーテはなんといってもそのアビナヤ、絶妙な表情に惹かれる。ため息が出るような美しさ、ステップ、仕草の完璧なコントロール、音楽が身体に染み込んで動きと共に波紋を広げる。絵にも描けない美しさというか、写真は残っていない。ズーテの隣でラーム・ゴーパルがムドラーの解説をしてくれたそうだ。なんと贅沢なひととき。
その後、1961年にバーラは「イースト・ウェスト・エンカウンター・イン・トーキョー」で来日した。これは東京文化会館のこけら落としのコンサートではないか。翌年、アメリカのウェズリアン大学に招かれる。1967年には、ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンと共にハリウッド・ボウルでのコンサートに出演している。
こんな素敵な話が、なんで映画にならないのかと思う。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
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