このブログを検索

イベント情報(つながる!インディア 公式)

2024年3月31日日曜日

天竺ブギウギ・ライト⑪/河野亮仙

第11回 インド舞踊入門講座 その一はじめに

もう、去年の話になるが、ある出版社からインド舞踊入門の本を作りたいという相談があった。いわれて気がついたが、確かにアマゾンを見ても日本語でそういう本は出ていない。 
 
バラタナーティヤムであるとか、モーヒニーアーッタムとかオリッシーなど、自分の学んだことについての本は何冊か出ている。私が書いたのは『カタカリ万華鏡』と『天平勝宝のインド舞踊』(『万博の世紀のインド舞踊』として、数編を加筆して復刻)である。これらはインド舞踊全般を概観できるものではない。 
 
某出版社の企画は、インタビューをしてゴーストライターを付けてというものなので断ったが、隙間を埋めるために、そろそろネタの尽きた「天竺ブギウギ」の代わりに書いてみようと思い立った。私の書き方は入門書向きではないのだが、しばらく、お付き合い願いたい。 
 
そもそも私は舞踊などというしゃれたものに関心はなく、もっぱら音楽が好きだった。ラヴィ・シャンカルが流行ってシタールや民族音楽を聴いたが、どちらかというとビートルズのロックに始まって、ブルース、ジャズが「専門」である。 
 
それが1983年に増上寺でインド祭りが行われることになり、オリッシー・ダンスのクンクマ・ラールさんにアプローチしたことから物語が始まる。あれから、もう、40年以上が過ぎてしまった。当時は、バラタナーティヤムを専門とする舞踊家が、リサイタルの中で一曲オリッシーやクチプリを踊るというような形で、オリッシー自体は普及していなかった。今日の興隆はクンクマさんのおかげである。 
 
元々、大学ではインド哲学専攻だったのでヒンドゥ教の神話や神格にはなじみがあった。インド舞踊というのはその表演である。というよりは話が逆で、ヒンドゥ教や仏教の布教のために、語りや芸能、彫刻、図画がある。表裏一体というか互いに深く関係している。 
 
バラモンや宮廷の王族、官吏以外に文字は必要なく、識字率といったら1パーセントかそこらだったろう。教えは基本的に口伝え、面授。文芸、芸能は布教のメディアである。 

サーンチーには産地直送の芸能が集まった

マディヤ・プラデーシュの州都ボーパールから50キロほどの所に、サーンチーの仏塔がある。三基の仏塔があり、第一塔の核部分は前3世紀、アショーカ王創建と考えられる。釈尊の遺骨が分祀された。前2世紀頃に拡張され、周りを囲む基壇が出来て、そこを右遶、尊敬を表す右回りで巡ることが出来るようになった。讃歌を歌いながらパレードをしてそれを見てもらったのだろう。 
 
かつて、ここには大小の寺院や僧院など50もの建造物があった。四方の塔門トーラナには釈尊の前生譚ジャータカ物語が描かれるが、この時代、まだブッダの姿は描かれていない。 
 
古代の通商路沿いの小高い丘の上にあるので、遠くからも目印として見えた。行き交う商工業者からたんまりお布施を頂戴したので建設することが出来た。お布施を頂戴するには、お説教のみならず、何か楽しいこともやったに違いない。交易路が変わり、仏教が衰退すると訪れる人もいなくなり、ジャングルの中に600年余り埋もれてしまったのだが、19世紀に発見される。 
 
ストゥーパでは釈尊の遺骨崇拝、礼拝供養が行われた。傘や旗で飾り立て華や香を捧げ、歌や器楽、踊りで供養した。その模様が第一塔の塔門に描かれている。これは前1世紀頃に建てられた。一般にその楽士達はカターカ、語り部であって、カタック舞踊の元祖ともされる。カターとは物語、それを語る人がカターカである。 
 
仏教の文脈では彼らをバーナカと呼んでいい。バーナはお話という意味なので噺家だ。いや、落語家ではなく仏説を説くばかりか、歌や踊りで物語を繰り広げる芸能者である。高くなっている基壇で演じると、何百人、何千人と集まっても遠くから見ることが出来る立体劇場となる。 
 
ジャワ島中部のボロブドゥールにもジャータカなどの物語が描かれているが、寺付きの僧侶が絵解きのように釈尊の物語を語ったと思われる。初めは堅いお話だったかもしれないが、だんだん分かりやすい話が望まれて、寺から離れて独立し、さすらいの芸能者になったかもしれない。逆に放浪芸人がやって来て、寺の坊主の真似事をする。 
 
お祭りともなれば稼げるとばかり、各地から芸人が寄ってくる。そこには仏教のジャータカ物語ばかりでなく、各地の英雄譚、マハーバーラタやラーマーヤナの一節を語る芸人もやって来たに違いない。そんなことから法華経の自我偈とマハーバーラタの類似性もいわれている。芸人は受けるネタを盗む。前2、3世紀の段階では演劇の形態は成立していないが、さまざまな試みが行われていたことだろう。 
 
ヤクシーは踊る 
ジャータカ物語には、レスラーやアクロバットをする芸人についても語られている。アクロバットをする芸人はバールフトから出土した仏塔の欄楯(玉垣)にも描かれる。樹木の精霊、鬼神ともいわれるヤクシー(ヤクシニー、夜叉女、薬叉尼)像も木にしなだれかかるように描かれている。前1世紀初期の作とされるが、これは極めてインド舞踊的である。続いてサーンチーの第一塔東門の横梁にも、ぶら下がるようにしてヤクシーが描かれている。 
 
パトナー博物館の払子を持つ豊満なヤクシー像はよく知られているが、前3世紀末から前2世紀初めの制作と見られている。この像は直立して動きを見せない。また、2世紀後半とされるデリー博物館の「美女酔態」、遊女が酔い潰れる様を描いた構図もよく知られている。宮廷や金持ちの宴に招かれ、歌や踊りを供したのだろう。 
 
インド舞踊の発祥はインド美術の発展と共に確認できる。サーンチーのヤクシー像のアクセサリーは簡素だが、バールフトの像では豪華な腰巻きや首飾りを付けている。それは専門の舞踊家、その時代にデーヴァダーシーの存在は確認できないので、おそらくは高級娼婦ガニカーがモデルだろう。 
 
また、ヴェーダ、ウパニシャッドの時代は文学という所まで行き着かない。ジャータカやラーマーヤナ、マハーバーラタの逸話などが語り物として伝承されてきたが、文字化されたのは1、2世紀、馬鳴菩薩アシュヴァゴーシャの頃からだろう。 
 
世捨て人の集団であった仏教サンガに浄財が集まって豊かになると、学識のあるバラモンも出家集団に入り、学芸、あるいは経典、つまり釈尊の物語の作成に携わる。 
 
世捨て人が規則正しい集団生活を送るというのも変な話だが、仏教サンガは世俗と超俗のスキマを見つけた。宮廷に入って王の相談役になる。アシュヴァゴーシャはその代表例だ。 
 
仏教僧院が宮廷と共に文化サロンとなって、文学や文芸、医薬などの学術、音楽・舞踊の発展を引っ張ってきたのではないか。 
 
イケイケ・インド 
昨年、マレイシアからスートラ・ファウンデーションというオリッシーを中心とした舞踊団が来日して、とても感心した。インド移民の多いマレイシアで、インド同様にレベルの高い教育が行われ、世界に進出して公演を行っている。メイン・ダンサーの中には中国人もいた。おそらく、シンガポールでも事情は同じであろう。 
 
移民ではないが、IT技術者を中心に西葛西でインド人が増えて、カレー屋のみならず独特のインド文化圏を形成している。早くから野火杏子が来日している子たちにバラタナーティヤムを教え、近年では竹原幸一がムリダンガムを教えている。インドの子に混じって日本の子もいたが、リズム感がよくとても上手だった。 
 
逆に、日本人がインドで仕事をしていて、その子弟がインド音楽や舞踊を早い時期から習う。富安カナメに続いて小牧詩葉が12歳でデビューした。音楽では帰国子女の林怜王が優秀なタブラー奏者だ。以前はまず日本で習い、大学を卒業してから留学するという順序だった。 
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024031100149&g=int 
 
この何年か、インドのプレゼンスは目覚ましく、人口で中国を抜き、GNPでもやがてイギリスを抜いて日本も抜き去るといわれている。 
 
人気なのは、一にインド・カレー、二にインド映画である。インド音楽も定着したが、そのうちインド舞踊ブームがやって来るのではないかと期待している。インド音楽は早くから定着して、シタールやタブラーの奏者は多い。しかし、ほとんどいないのが、声楽やバイオリン、南インドの弦楽器ヴィーナーである。 
 
家の2歳の孫は言葉も覚束ないが、「きいろ、きいろ」とか楽しそうに歌っている。器楽も歌が最初にあって言葉が前提になっている。日本ではそこをすっ飛ばして最初から踊りの振り付けを習うという倒錯した状態が当たり前になっている。今更、サンスクリットから勉強しろといわないまでも考え直してほしい。 

先人達の苦労

榊原帰逸がシャンティニケタンに留学してから70年が経っている。その後、1960年代半ばからカタックのヤクシニー矢沢、バラタナーティヤムのヴァサンタマラ(シャクティの母)、大谷紀美子、櫻井曉美らが留学した。気の強いインド女性の間に入って、女の園では大変な苦労をしたことと思う。 
 
日本に帰るとインド音楽家がいなかったのでテープレコーダーを使い、舞踊劇を創作したときには日本人だけで音楽から創作した。先人の苦労は計り知れない。 
 
カラオケで先生に習った振り付けを踊るのが普通で、疑問を持つ人は少なかった。踊りは自分自身の表現なので、どこにオリジナリティーを見いだすのだろう。 
 
小澤征爾が欧米に留学した頃は、日本人に西洋音楽が分かるものかと差別された。小澤が乗り越えていった壁を思うと、今の音楽家はぬるま湯にひたっているようなものだという。お茶漬けの味と評されることもあったが、日本人独特の繊細さやエレガンスが評価されるようになった。 
 
ジャズの世界では秋吉敏子が26歳で1956年、バークレー音楽院に留学し、日本の女の子がキモノを着てバド・パウエルそっくりに弾くよと話題になった。日本ではレコードをコピーしたような演奏の方に人気があったが、本場ではそういう訳にはいかない。自分の道を模索し、日本音楽と融合した『孤軍』を1974年に発表。何度もグラミー賞の候補になった人間国宝級である。 
 
山下洋輔トリオは1976年にヨーロッパ遠征をして、熱狂的に受け入れられた。白人も日本人もジャズを作り出した黒人たちの音楽に劣等感を抱いていて、そこを吹き飛ばす日本人の熱演に歓喜した。トリオに参加した坂田明は、レジェンドとして毎年のようにヨーロッパ・ツアーをしている。和ジャズ、シティ・ポップスが、今、外国で評価されているという。 
 
日本人のジャズは日本とアメリカだけでなく、それ以外の国に進出して正当な評価を得た。日本のインド舞踊もインドと日本でちやほやされるだけでなく、他の国に進出して他ジャンルの舞踊家と渡り歩き、一舞踊家として評価されないといけない。 
 
体格的なハンディを乗り越えて、今やバレエの世界でも日本人が評価されている。インド人の体格は骨太で腰と太腿が発達し、素足の指で床を掴み、大地に根を張っている。関節が柔らかくて手や足を振ると、しなっている。 
 
さらに、日常動作、感情表現がずいぶん違う。日本人にインド人のスピリットが分かるのか。一体、何が日本人の特質なのか。どこに割って入るのか。なめらかさ、上品さだろうか、しおらしさだろうか。喧嘩腰ではなくて、協調性、融和力。何でもかんでも取り込んで消化し、自分ものにする吸収力。踊りには音楽以上に性格がにじみ出る。 
 
坂田明がかつてフリージャズの巨匠オーネット・コールマンに尋ねた。 
「音楽で何が大切ですか」 
「クォリティ・アズ・ヒューマン・ビイング」 
 
ワールド・ベースボール・クラシックで、大リーガーに憧れるのはやめましょうといったが、日本人もインド人と並んで、この人のバラタが見たい、カタックが好き、オリッシー素敵と外国人に評価されるようになってほしい。 
 
日本のインド文化に新時代 
野火杏子は早い段階から自前の音楽でオリジナルを踊ることを志していた。踊りは南インドばっかりだったのに、音楽は北インドばっかり。南インド音楽ができる日本人が少なかったので、シタールやタブラーでも試みた。 
 
今回、インド人の弟子二人のアランゲットラム(公式デビュー)において、野火自身が小シンバルでコントロールし、竹原がムリダンガムを、入野智江がイダッキヤーを叩き、歌やフルートもインド人の音楽家に頼んで、すべて自前のコンサートを開催する。70年以上に及ぶ日本のインド舞踊史で画期的なことだ。若き日に野火の薫陶を受けた山元彩子、横田由和、入野智江、エミ・マユーリらが、今や重鎮として活躍している。 
https://www.facebook.com/CNC.kyoko.nobi/?locale=ja_JP 
 
また、延命寺の花祭りでも、声明とインド舞踊はじめ、異文化交流の様々な試みを行ってきた。今年は4月6日に催されるが、山元彩子の伴奏をヴィーナーの的場裕子が行う。脇を入野智江らが固めるが、これも希有なことである。 
http://www.enmeiji.com/ 
 
世界インド化計画ではないが、世界中にインド文化が波及している。日本とインドだけで踊ればいいというのではなく、日本人のアイデンティティーを持ったインド舞踊を創出して世界に進出しないといけない。自分自身の育った根っこが大切で、所詮、インド人にはなれない。そこからスタートしないといけない。 
 
インド舞踊新時代は、すぐそこまで来ている。 
 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



from 学ぶ・知る – つながる!インディア https://ift.tt/XetWdoT
via IFTTT

2024年3月22日金曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑭

カルカッタの外で(4) 
 
ぼくがアラーに、こうして初めて滞在していた頃、もう一つの大きなグループが、後から加わった。ぼくの遠縁のお祖父ちゃん、プロモダロンジョン・ラエ (1) 8人の子供たちの中の4人か5人。ぼくらがボバニプルに住んでいた頃、このお祖父ちゃんも定年になって、ボバニプルのチョンドロマドブ・ゴーシュ・ロード (2) に住んでいた。お祖父ちゃんは政府の測量部門に勤めていて、その仕事のため、アッサムやビルマの人里離れた密林や山に出かけた。もちろん、ぼくがこのお祖父ちゃんと親しくなったのは、定年退職してからだ。ものすごく厳格な人だったので、それでたぶん、身体を鍛錬することに、いつも目を光らせていたのだろう。誰かが背中を丸めて歩いているのを見ると、すぐその背中をどやしつけた。お祖父ちゃんの高笑いは、道の端から端まで響き渡った。お祖父ちゃんが口笛を吹くと、隣近所の誰もの脾臓を、縮み上がらせることができた。 
 
そのお祖父ちゃんの子供たち、つまり遠縁の叔父さんや叔母さんたちは、みんな勉強がすごくよくできた。3人姉妹の2番目のリル叔母さん (3) (現在、『ションデシュ』誌の編集者の一人)は、その頃は挿絵画家として知られていた。叔父さんたちのうち、コッラン叔父さんはおとなしい性格で、明け方4時に眠りから覚め、夜には、両手でパタパタ叩きながら炙ったローティ (4) を、22枚食べた。その下のオミル叔父さんは、大掛かりな切手蒐集家だった。そのまた下のショロジュ叔父さんは、その当時、ラエ家の中では一番背が高かった。一番下のジョトゥ叔父さんは、自分の見てくれに少々意識過剰で、側に鏡があると、一度は流し目で自分の姿を見る欲望を抑えられなかった。 
 
一番上のプロバト叔父さんは、計算にかけては、めちゃくちゃ頭の回転が速くて、ぼくはこの叔父さんと一番仲が良かった。その理由の一つは、下の叔父さん (5) みたいに、プロバト叔父さんも、親類縁者の家々を訪れて回る習慣があったから。そのことを、叔父さんは、多くの場合、歩いて果たした。プロバト叔父さんにとって、6~7マイルの距離を歩くことは、何でもなかった。ぼくらの家にも時々来て、ターザンの物語をベンガル語にして読み聞かせてくれた。ぼくのことを、プロバト叔父さんは、「小叔父」と呼ぶのが常だった。 
 
4番目のショロジュ叔父さんは、その頃、ある創立して間もない学校から、大学入学資格検定試験を受けて、合格したばかり。末弟のジョトゥ叔父さんは、まだその学校に通っていた。その学校がいい学校だと聞いて、母さんはぼくを、そこに入学させることに決めた。 
 
学校のことは後で話すとして、今ここで言っておきたいことが一つある –– 「休暇」というものがどんなものか、その楽しさがどこにあるか、そのことは、学校に入るまで、知ることができない。ただでさえ、日曜に加えていろんな祭日がある上、夏休みとプージャー休み (6) もある。この二つの大きな休暇が始まる何日も前から、心は喜びの調べに湧き立った。休暇の間、カルカッタにとどまっているなんてことは、その頃、あまりなかった。 
 
二つの休暇のことを、すごくよく覚えている。 
 
一度、ぼくらの一族、ラクナウ在住の母方の2番目の叔父・叔母とその男の子たち、ぼくの下の叔父さん、その他何人かの親戚で大きなグループになって、ハザーリーバーグに行ったことがある。「キスメット」という名前のバンガローを借り切った。食事はどれも新鮮で安く、素晴らしく健全な環境だった。キャナリ丘陵の頂上に登ったり、ラジラーッパー (7) へピクニックに行ったり、ボーカーローの滝を見に行ったり –– すべてがまるで黄金に包まれた日々だった。日が暮れるとペトロマックス(圧力式灯油ランタン)の明かりの下にみんな集まって、二つのグループに分かれてのいろんな遊び。何より面白かったのは、シャレードだ。この遊びにベンガル語の名前があるのかどうか、知らないが、タゴールの少年時代、タゴール家でもこの遊びが行われていたことを知っている。二つのグループに分かれてしなければならない –– 交替で、片方のグループが演じ、もう片方が観客になる。演技のグループは、2つかそれ以上の言葉を組み合わせた単語を選ぶ。たとえば、「コロ=タル」(小さなシンバル)、「ション=デシュ」(甘菓子)、「ション=ジョム=シル」(抑制のきいた)。「ション=ジョム=シル」を選んだとすると、演技グループは、4つの小さな場面を次々に演じて観客グループに見せなければならない。最初の場面は「ション」(共に)、2つ目は「ジョム」(抑制)、3つ目は「シル」(〜の性質をした)をそれぞれ演じ、最後に全部を合わせて演じて見せる。シャレードには2種類ある –– 「無言のシャレード」と「しゃべるシャレード」。「無言のシャレード」をする時は、黙ったまま演じて、その言葉を伝える。「しゃべるシャレード」の場合は、演者たちの会話の合間に、ちょっとだけ、ヒントになるような言葉を差し挟む。観客グループは、4つの場面の演技を見て、全体の単語を見出さなければならない。グループが大きい方が、この遊びは盛り上がる。ぼくらは、みんなで10人から12人ほどだった。遊びに熱中して、夕暮れ時、時間がどうやって過ぎていったか、気が付きすらしなかった。 
 
もう一つの思い出深い休暇は、シュンドルボン (8) への蒸気船の旅だ。ぼくには一人、物品税弁務官の義叔父さんがいた。義叔父さんは、時々シュンドルボンに行かなければならなかった。一度、かなりの人数の親類縁者を引き連れてそこに行くことがあって、その中には、ぼくと母さんも含まれていた。義叔父さんと叔母さんの他に、4人の従姉とロノジット兄(ダー)がいた。ロノジット兄、またの名をロノ兄は、狩猟家だった –– 銃と山ほどの薬莢を持って行った。マトラ川に沿って、そのまま河口まで行かなければならなくて、船は、その合間合間に、シュンドルボンの運河や湿地帯の中を巡って行く。全部で15日間の旅だ。 
 
船旅の間、ほとんどデッキにすわって風景を見ながら過ごした。マトラ川 (9) は川幅がものすごく広く、両岸がほとんど見えない。船の水先案内人たちは、時々、水の中にバケツを下ろす。水から引き上げると、その中には、水と一緒に、ほとんど透明なクラゲが見えた。船が運河の中に入ると、風景はガラリと変わる。遠くから見渡すと、運河の岸辺に列をなして鰐が日向ぼっこしていて、その背中には、白鷺がのんびり安らっている。すぐ側まで行くと、鰐たちは、水の中へスルスル入って行く。鰐たちがいる側の岸辺には木は疎らで、ほとんどの木が小ぶりだが、その反対の岸辺は巨大な木が立ち並ぶ深い密林で、その中には鹿の群れが目につく。鹿たちも、船の音を聞くと、慌てて逃げ去った。 
 
ある日、ぼくらは船から降り、小舟に乗って陸に上がり、深い密林の中を通って、ずっと昔に打ち捨てられたカーリー女神の寺を見に行った。根のようなものが、地面を裂いて、槍のように頭をもたげている。手に持った杖を頼りに、その隙間を縫って、足を下ろしながら進まなければならない。銃を持った同伴者が二人 –– なぜなら、この一帯は虎の縄張りで、虎様がいつ姿を現すか、予測がつかないからだ。 
 
ぼくらはこの時、虎を見ることはなかったけれど、ロノ兄は、鰐を一頭仕留めたのだった。運河の縁の陸の上のある場所に鰐がたくさんいるのを見て、船を繋留させた。ロノ兄は小舟に乗って出かけた、3人のお供を連れて。息を殺して半時間ほど待っていると、銃声が一つ響いた。狩りの一隊は、船からかなり離れた場所まで行かなければならなかった。 
 
さらに半時間経って、鰐の死骸をひとつ乗せて小舟が戻ってきた。船の下のデッキで、その鰐の皮が剥がされた。ロノ兄は、その皮でスーツケースを作った。 
 
7日して、ぼくらはタイガー・ポイント (10) に着いた。目の前には底知れぬ大海、左手にはちっぽけな島が一つ、その上には砂山。ぼくらは、波のない海の水で水浴した後、砂山で長い時間過ごしてから、船に戻った。人跡から遥か離れた場所だったことは言うまでもない。混じり気のない喜びと言えば、45年前のシュンドルボン行の、この何日かの追憶が、ぼくの心のかなりの部分を占めている。 
 
 
訳注 
(注1)父方の遠縁の祖父。5世代前のクリシュノジボンには、ビシュヌラムとブロジョラムの二人の息子があり、レイの祖父ウペンドロキショルは兄のビシュヌラムの家系、プロモダロンジョンは弟のブロジョラムの家系に遡る。 
(注2Justice Chandra Madhab Road 南カルカッタのボバニプル地区の中心にある。チョンドロマドブ・ゴーシュ卿(Sir Chandra Madhab Ghosh)は、カルカッタ最高裁判所(1862年設立)最初期のインド人判事の一人。 
(注3)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 19082007) 著名な女流作家。児童文学作品を中心に、小説、伝記、料理本、翻訳作品など幅広い分野に活躍。レイとともに『ションデシュ』誌を編集。 
(注4)全粒粉で作られた平べったい丸パン。火に炙って膨らませたもの。 
(注5)シュビモル・ラエ、レイの父親シュクマルの末弟。『ぼくが小さかった頃』③、⑩参照。 
(注6)ドゥルガー祭祀(プージャー)の後、カーリー女神・ラクシュミー女神の祭祀が続き、1ヶ月間の長期休暇になる。 
(注7ハザーリーバーグの南東に位置するヒンドゥー教の聖地。ボーカーローの滝は、そこのベラー川がダーモーダル川と合流する地点にある『ぼくが小さかった頃』⑬参照。 
(注8)インド西ベンガル州南部とバングラデシュ南部を覆いベンガル湾に至る、広大な森林地帯。 
(注9)シュンドルボン西部を貫通し、ベンガル湾に注ぐ、主流の一つ。 
(注10)シュンドルボンの東部にある、マングローブの密林に囲まれた孤立したビーチ。 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき) 
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。 
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。 
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



from 学ぶ・知る – つながる!インディア https://ift.tt/f06Ihz8
via IFTTT

2024年3月14日木曜日

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

第10回 アジアの舞踊の研究家ベリル・ド・ズーテ 

ベリル・ド・ズーテの名前はウォルター・シュピースとの共著『バリ島の舞踊と演劇』(1938年)によって、バリ島の研究者にはよく知られている。元々がバレエ・ダンサーであり、舞踊研究家として、ジャワ島の舞踊、スリランカのキャンディアン・ダンス、南インドの舞踊についてもそれぞれ見聞録を出しているのだが、どれも絶版である。 

1931年にロンドンでウダヤ・シャンカルの舞踊を見て、また、ヴァンセンヌの森におけるパリ国際植民地博覧会でバリ舞踊を目撃して、アジアの舞踊に興味を持った。源氏物語の英訳で知られるアーサー・ウェイリーといい関係にあったようで、日本や中国、能や世阿弥についても知識がある。 

幸い、米アマゾンを探検したら1953年、わたしの生まれた年に発行されたBeryl De Zoete, The Other Mind/A Story of Dance in South Indiaを入手できた。こんなことに興味を持っているのは日本では私くらいのものなので、ここに報告したい。 

ズーテは初めてジャワ、バリを訪れた後、ロンドンへの帰途、1935年3月にインドに立ち寄った。詩人ワラトール・ナーラーヤナ・メノンがケーララ文化称揚のために創設したカタカリ舞踊劇の殿堂ケーララ・カラーマンダラムを訪ね、タゴールと並び称されるその南インドの詩人にも親しく会っている。49年に再訪したときには亡くなっていた。 

この本には、ズーテの何人かの友達や公的機関が記録した写真が収められている。前々回取り上げたシャーンターの写真は腰が落ちていて素晴らしい。カタカリは勿論のこと、オッタム・トゥッラルやヤクシャガーナ、祭祀芸能であるブータ、テイヤムの古い写真が掲載されているので、とても貴重な記録だ。 

私が40年前にケーララの芸能を追いかけて、1988年に出版した『カタカリ万華鏡』の偉大な先駆者である。南インドの芸能者や文人に会って聞き及び、世界で初めてケーララの特色ある芸能を紹介している。旅の記録のなかにカタカリで演じられる神話を割り込ませている所も似ている。何年に何があったか記している所もあるが、ズーテの年譜を作成するのは困難である。 

これはシャーンターについてもいえることで、第8回では1925年生まれとの説を採り、14歳頃にカラーマンダラム入門としたが、ズーテによると12歳の時だそうだ。本によって、12歳違うのは珍しくない。 

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=FChXM3LAtuc&fbclid=IwAR0tCYYfC7YLQcdQqpaRgJ8qBaPouIrObqa6eaJES5JFe-efEfB2a8zaU-E 

また、金持ちの家に生まれ育ったシャーンターは、師ミーナークシ・スンダラムの家を小屋と表現したが、ズーテはhutではなくちゃんとした家だと訂正を入れている。 

ケーララ・カラーマンダラム 

カタカリは王様の軍隊が余興で始めたものといわれる。インド人は何でも伝説や神話を作って説明するので、真偽のほどは分からないが、カタカリはバガヴァティー女神の神前の庭カラリと密接な関係がある。カラリでは寺子屋のように読み書きを習ったり、遊戯や武術カラリパヤットゥの訓練が行われたりし、お祭りの時は遊戯が繰り広げられた。そんな中からカタカリ舞踊劇が発達したのだろう。 

タゴールがバウルを取り上げベンガルの文化を称揚したように、ワラトールはカタカリ、クーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムなどケーララの芸能を保持すべく、1930年、ケーララ・カラーマンダラムという教育機関(今は芸術文化大学)を設立した。ワラトールは20代で耳が悪くなり聞こえなくなったので、役者や家族とムドラーで会話したとズーテは記す。ズーテ自身もカタカリとそのムドラーを習ったというから、片言のムドラーでワラトールと話したか。 

https://www.kalamandalam.ac.in/  

カタカリに昔は女性のダンサーもいたとか、緑のメイクではなくマスクを着けた、セリフもあったとズーテは聞き及んだようだ。カタカリの様式がきちんと確立する前は様々なスタイルがあったのだろう。マスクといってもスリランカのコーラムのような堅い仮面ではなく、椰子で作った被り物マスケットではないか。 

チェルトゥルティのカラーマンダラムに初めて私が訪れたのは写真で確かめると1985年1月1日。オフィス・アジアの主催するケーララ・カルナータカ・ツアーに参加したときだ。コーディネーターはドクター・アヴァスティ、日本側は能楽の研究家で能管を吹くリチャード・エマートが務めた。

 

スレーシュ・アヴァスティは、1970年、音楽学者の田辺秀雄らがデリーとボンベイを訪ねたときのサンギート・ナータク・アカデミー所長で、親切にあちこち手配した。翌年、日印協会は文化使節団調査団を派遣し、東洋音楽学会も協賛し、榊原帰逸らとインド芸能の調査を行った。日本とはそれ以来の付き合いだ。なかなか個人でのインド旅行が難しかった時代、日印協会主催で音楽舞踊ツアーを行っていた。沖縄から舞踊団が訪印することもあったようだ。 

ドクター・アヴァスティは東京外国語大学AA研に招かれ、山口昌男と研究会を行っていたので、84年末からのツアーには様々な人物が参加した。音楽学者の姫野翠、演劇・舞踊の評論家である市川雅、石井達郎、宮尾慈良、伊達なつめ(徳丸素子)、当時は横浜ボートシアターの演出助手をしていた吉見俊哉。彼はもう退職したが、東京大学副学長にまで出世した。 

カラーマンダラムを卒業するとカラーマンダラムという称号を得ることができる。ズーテの本にある写真のクレジットによるとカタカリの写真の多くがカラーマンダラム・クリシュナン・ナイルの写真なので驚いた。私は彼の晩年に何回か見ている。晩年は、弟子に手を支えられてよいしょと立ち上がり、ステップを踏んでいた。メイクをしているので分からないが80歳前後だったのだろう。 

ズーテが最初に彼に会ったのは20代ということになる。当時、祭りに出ると、主役級で1、2ルピーもらったそうだ。1ルピー100円程度か。感覚的には百円玉いくつのおひねり、若手は5円という感じ。当時は1ルピーの16分の1のアンナ・コインがあったか。多い月には20回くらい出演するだろう。カタカリ劇団を一晩雇おうと思ったら数万円か。他に準備するものがあるだろうから、一公演に十万円かそこらの経費がかかることになる。現在は円安でインドも物価高なので正確な話ではない。 

デーヴァダーシー 

もう一度、ズーテの本に戻る。ズーテはバラタナーティヤムの本質は音楽であるという。踊りに音楽を付けたわけではない。歌を踊りで語るのだ。歌が基本である。 

デーヴァダーシーは歌と踊り、そして読み書きを習った。一般女性は習うことができない。インド舞踊一般は、ほとんど踊りだけだが、クチプリの場合は歌うこともある。それが元々の形だろう。音楽を意味する語サンギート、共に歌うという意味で、そこには踊りと演劇も含まれ、それぞれ不可分の関係にある。 

https://www.britannica.com/art/kuchipudi 

ズーテはフランス人宣教師デュボアの本からデーヴァダーシーについて記述している。18世紀末ポンディッシェリーに至り、それから30年以上インドで布教活動をし、民俗を調べた。その一部の訳が重松伸司『カーストの民/ヒンドゥーの習俗と儀礼』として東洋文庫から出ている。見聞きしたことの報告なのであまり正確でない所もあるが、貴重な記録である。 

デーヴァダーシーとは神に捧げられた下僕の女性形。人と結婚して夫が先に死ぬと不吉だが、人間ではなく神と結ばれているため常に吉祥であるとされ、魔を祓う力を持つ。ヒンドゥー寺院を訪ねると朝、夕のお勤めプージャーに際してガンガンと鐘を鳴らし灯明を捧げるアールティーという儀礼に当たることがある。デュボアによると邪視を退ける、悪意のある目つきからの影響を避ける意味があるという。光によって闇を滅するということなのだろう。今は男が勤めているが、元々はデーヴァダーシーの役だった。未亡人は不吉なので参加することが出来ない。 

神と結婚するといっても、実質的には寺のバラモンの妻、あるいはめかけのような存在だ。給金をもらっているが、少ないので売春をするとも説明されている。結婚式などの行事に赴いて福を招く。デュボアはデーヴァダーシーが最も上品に衣装を身につけていると記す。 

またデュボアは、ヴィシュヌ神のダシャ・アヴァターラ(十化身)を上演する放浪の旅芸人について、淫らで馬鹿げた道化芝居と記す。その多くは街頭で脚木の上に板を渡して舞台とする。人形芝居も演じるが、嫌らしい仕草でナンセンスという。 

そんな大衆的で下卑た十化身劇もあったかもしれないが、本来、宗教劇であるダシャ・アヴァターラ・アーッタムが、カタカリやヤクシャガーナ、路上劇のテールクートゥ、そこから発展したバーガヴァタ・メーラー、クチプリの前身となっている。ネパールの路上でも十化身劇は行われた。 

また、ズーテは1870年にショート博士がロンドン人類学会で読んだ論文を引用する。デーヴァダーシーは結婚しない。5歳から歌と踊りの厳しい訓練を受ける。寺から給料はもらうが、月に1、2ルピー程度で、ほかに給食というか、ボウル一杯のご飯を一日、一回貰うという。 

19世紀の月給1ルピーがいくらの換算になるのか、食べていく最低限の保障だろう。援助がないと生活できないというレベルなので、お祭りやら結婚式やらの行事への参加で足りない分を補ったのだろう。カタカリやヤクシャガーナの役者と同じだ。 

またショート博士は、ステリア・クートゥと呼ばれるアクロバット的なダンスについても記している。子供をさらって後継者にしているという噂もある。今でいうブレークダンス、ブレーキングには及ばないが、反っくり返って、つまり、ブリッジでお金を拾ったようだ。イギリス人には正統的なバラタナーティヤムよりこちらの方が受ける。金を稼げる。 

ズーテは、そのような大道芸的な踊りをインドにおいてではなく、パリの植民地博覧会で見たようだ。 

バーラサラスヴァティーの復活 

ズーテがインドを再訪した頃は、バラタナーティヤムのカマラーが天才少女として売り出し中だった。アメリカ人のインド舞踊家ラーギニー・デーヴィーと共に観覧した。会場は満員で、先に着いていたラーギニーは、あらここよとばかりにズーテを見つけ席を作った。舞踊家たるズーテは、形は整っているけれど心の内なる炎が見えない。目で表現できていないと手厳しいが、15歳なんだから大目に見てやってくれ。後に大成する。 

https://www.google.com/search?q=kamala+lakshman+bharatanatyam&rlz=1C1TKQJ_jaJP1057JP1057&oq=kamala+&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqDggBECMYExgnGIAEGIoFMgYIABBFGDkyDggBECMYExgnGIAEGIoFMg0IAhAAGIMBGLEDGIAEMgcIAxAAGIAEMgcIBBAAGIAEMgcIBRAAGIAEMgcIBhAAGIAEMgcIBxAAGIAEMgcICBAAGIAEMgcICRAAGIAE0gEJOTYwMGowajE1qAIAsAIA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:05a97bd0,vid:8VFQVW7lFAY,st:0 

1918年生のバーラサラスヴァティーは、デーヴァダーシーの家系である。31歳とまだ若いのに、リューマチと心臓病のため、何年かステージに立っていなかった。入院したりして太ってしまったので、誰も踊ってくれと言わなくなった。 

ズーテは、世界的に有名になった舞踊家ラーム・ゴーパルと共にバーラの家に訪れ、踊ってくれるように懇願し、ようやくのことで承諾を得る。しかし、ズーテはインド人の軽い約束に何度も裏切られていて懐疑的だった。その朝がやって来る。バーラの兄弟から電話があった。もしや。 

ズーテはバーラの母と娘、兄弟と共に車に乗り込んでマイラポールの劇場に赴いた。師であるカンダッパ、歌手のエラッパら伝説的な音楽家がホールで待ち構えていた。映画のワンシーンみたいだ。 

ズーテはなんといってもそのアビナヤ、絶妙な表情に惹かれる。ため息が出るような美しさ、ステップ、仕草の完璧なコントロール、音楽が身体に染み込んで動きと共に波紋を広げる。絵にも描けない美しさというか、写真は残っていない。ズーテの隣でラーム・ゴーパルがムドラーの解説をしてくれたそうだ。なんと贅沢なひととき。 

その後、1961年にバーラは「イースト・ウェスト・エンカウンター・イン・トーキョー」で来日した。これは東京文化会館のこけら落としのコンサートではないか。翌年、アメリカのウェズリアン大学に招かれる。1967年には、ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンと共にハリウッド・ボウルでのコンサートに出演している。 

こんな素敵な話が、なんで映画にならないのかと思う。 


 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



from 学ぶ・知る – つながる!インディア https://ift.tt/KLZsBJN
via IFTTT

2024年3月12日火曜日

松本榮一のインド巡礼(その10)

ポタラ宮―極奥の神殿

 

ポタラ宮は、インドに亡命している元チベット国王であり、チベット仏教の法王ダライ・ラマの居城であり、同時に歴代ダライラマの墓廟でもあります。

チベットの都だったラサの西北マルポリの丘にぽっかりと浮かぶようにそびえるポタラ宮は最盛期のチベット文化を象徴する壮麗な建造物です。

全幅約400m、面積にして13000平米、基部から13階のこの建物は、一つの建築物としては世界最大級であり、1642年から十数年の歳月をかけて建てられました。

 

1649年、白宮が完成し、当時のダライラマ五世はこの新宮殿に居を移した。

 

やがて1682年、ダライラマ5世が亡くなると、その遺体をミイラにして黄金の霊塔に収め、壮大な廟を白宮の西隣に立てた。これが紅宮である。そして5世から後のすべてのダライラマの遺体はミイラにされ、紅宮に収められているのである。(ただし6世は青海で客死したため、ポタラ宮には6世の霊塔はない。)

1959年、ダライラマ14世は、中国の圧迫にヒマラヤを超えてインドに亡命し、北インドのダラムサラで亡命政府を作っている。

 

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



from 学ぶ・知る – つながる!インディア https://ift.tt/4obJVQC
via IFTTT