カルカッタの外で(4)
ぼくがアラーに、こうして初めて滞在していた頃、もう一つの大きなグループが、後から加わった。ぼくの遠縁のお祖父ちゃん、プロモダロンジョン・ラエ (1) の8人の子供たちの中の4人か5人。ぼくらがボバニプルに住んでいた頃、このお祖父ちゃんも定年になって、ボバニプルのチョンドロマドブ・ゴーシュ・ロード (2) に住んでいた。お祖父ちゃんは政府の測量部門に勤めていて、その仕事のため、アッサムやビルマの人里離れた密林や山に出かけた。もちろん、ぼくがこのお祖父ちゃんと親しくなったのは、定年退職してからだ。ものすごく厳格な人だったので、それでたぶん、身体を鍛錬することに、いつも目を光らせていたのだろう。誰かが背中を丸めて歩いているのを見ると、すぐその背中をどやしつけた。お祖父ちゃんの高笑いは、道の端から端まで響き渡った。お祖父ちゃんが口笛を吹くと、隣近所の誰もの脾臓を、縮み上がらせることができた。
そのお祖父ちゃんの子供たち、つまり遠縁の叔父さんや叔母さんたちは、みんな勉強がすごくよくできた。3人姉妹の2番目のリル叔母さん (3) (現在、『ションデシュ』誌の編集者の一人)は、その頃は挿絵画家として知られていた。叔父さんたちのうち、コッラン叔父さんはおとなしい性格で、明け方4時に眠りから覚め、夜には、両手でパタパタ叩きながら炙ったローティ (4) を、22枚食べた。その下のオミル叔父さんは、大掛かりな切手蒐集家だった。そのまた下のショロジュ叔父さんは、その当時、ラエ家の中では一番背が高かった。一番下のジョトゥ叔父さんは、自分の見てくれに少々意識過剰で、側に鏡があると、一度は流し目で自分の姿を見る欲望を抑えられなかった。
一番上のプロバト叔父さんは、計算にかけては、めちゃくちゃ頭の回転が速くて、ぼくはこの叔父さんと一番仲が良かった。その理由の一つは、下の叔父さん (5) みたいに、プロバト叔父さんも、親類縁者の家々を訪れて回る習慣があったから。そのことを、叔父さんは、多くの場合、歩いて果たした。プロバト叔父さんにとって、6~7マイルの距離を歩くことは、何でもなかった。ぼくらの家にも時々来て、ターザンの物語をベンガル語にして読み聞かせてくれた。ぼくのことを、プロバト叔父さんは、「小叔父」と呼ぶのが常だった。
4番目のショロジュ叔父さんは、その頃、ある創立して間もない学校から、大学入学資格検定試験を受けて、合格したばかり。末弟のジョトゥ叔父さんは、まだその学校に通っていた。その学校がいい学校だと聞いて、母さんはぼくを、そこに入学させることに決めた。
学校のことは後で話すとして、今ここで言っておきたいことが一つある –– 「休暇」というものがどんなものか、その楽しさがどこにあるか、そのことは、学校に入るまで、知ることができない。ただでさえ、日曜に加えていろんな祭日がある上、夏休みとプージャー休み (6) もある。この二つの大きな休暇が始まる何日も前から、心は喜びの調べに湧き立った。休暇の間、カルカッタにとどまっているなんてことは、その頃、あまりなかった。
二つの休暇のことを、すごくよく覚えている。
一度、ぼくらの一族、ラクナウ在住の母方の2番目の叔父・叔母とその男の子たち、ぼくの下の叔父さん、その他何人かの親戚で大きなグループになって、ハザーリーバーグに行ったことがある。「キスメット」という名前のバンガローを借り切った。食事はどれも新鮮で安く、素晴らしく健全な環境だった。キャナリ丘陵の頂上に登ったり、ラジラーッパー (7) へピクニックに行ったり、ボーカーローの滝を見に行ったり –– すべてがまるで黄金に包まれた日々だった。日が暮れるとペトロマックス(圧力式灯油ランタン)の明かりの下にみんな集まって、二つのグループに分かれてのいろんな遊び。何より面白かったのは、シャレードだ。この遊びにベンガル語の名前があるのかどうか、知らないが、タゴールの少年時代、タゴール家でもこの遊びが行われていたことを知っている。二つのグループに分かれてしなければならない –– 交替で、片方のグループが演じ、もう片方が観客になる。演技のグループは、2つかそれ以上の言葉を組み合わせた単語を選ぶ。たとえば、「コロ=タル」(小さなシンバル)、「ション=デシュ」(甘菓子)、「ション=ジョム=シル」(抑制のきいた)。「ション=ジョム=シル」を選んだとすると、演技グループは、4つの小さな場面を次々に演じて観客グループに見せなければならない。最初の場面は「ション」(共に)、2つ目は「ジョム」(抑制)、3つ目は「シル」(〜の性質をした)をそれぞれ演じ、最後に全部を合わせて演じて見せる。シャレードには2種類ある –– 「無言のシャレード」と「しゃべるシャレード」。「無言のシャレード」をする時は、黙ったまま演じて、その言葉を伝える。「しゃべるシャレード」の場合は、演者たちの会話の合間に、ちょっとだけ、ヒントになるような言葉を差し挟む。観客グループは、4つの場面の演技を見て、全体の単語を見出さなければならない。グループが大きい方が、この遊びは盛り上がる。ぼくらは、みんなで10人から12人ほどだった。遊びに熱中して、夕暮れ時、時間がどうやって過ぎていったか、気が付きすらしなかった。
もう一つの思い出深い休暇は、シュンドルボン (8) への蒸気船の旅だ。ぼくには一人、物品税弁務官の義叔父さんがいた。義叔父さんは、時々シュンドルボンに行かなければならなかった。一度、かなりの人数の親類縁者を引き連れてそこに行くことがあって、その中には、ぼくと母さんも含まれていた。義叔父さんと叔母さんの他に、4人の従姉とロノジット兄(ダー)がいた。ロノジット兄、またの名をロノ兄は、狩猟家だった –– 銃と山ほどの薬莢を持って行った。マトラ川に沿って、そのまま河口まで行かなければならなくて、船は、その合間合間に、シュンドルボンの運河や湿地帯の中を巡って行く。全部で15日間の旅だ。
船旅の間、ほとんどデッキにすわって風景を見ながら過ごした。マトラ川 (9) は川幅がものすごく広く、両岸がほとんど見えない。船の水先案内人たちは、時々、水の中にバケツを下ろす。水から引き上げると、その中には、水と一緒に、ほとんど透明なクラゲが見えた。船が運河の中に入ると、風景はガラリと変わる。遠くから見渡すと、運河の岸辺に列をなして鰐が日向ぼっこしていて、その背中には、白鷺がのんびり安らっている。すぐ側まで行くと、鰐たちは、水の中へスルスル入って行く。鰐たちがいる側の岸辺には木は疎らで、ほとんどの木が小ぶりだが、その反対の岸辺は巨大な木が立ち並ぶ深い密林で、その中には鹿の群れが目につく。鹿たちも、船の音を聞くと、慌てて逃げ去った。
ある日、ぼくらは船から降り、小舟に乗って陸に上がり、深い密林の中を通って、ずっと昔に打ち捨てられたカーリー女神の寺を見に行った。根のようなものが、地面を裂いて、槍のように頭をもたげている。手に持った杖を頼りに、その隙間を縫って、足を下ろしながら進まなければならない。銃を持った同伴者が二人 –– なぜなら、この一帯は虎の縄張りで、虎様がいつ姿を現すか、予測がつかないからだ。
ぼくらはこの時、虎を見ることはなかったけれど、ロノ兄は、鰐を一頭仕留めたのだった。運河の縁の陸の上のある場所に鰐がたくさんいるのを見て、船を繋留させた。ロノ兄は小舟に乗って出かけた、3人のお供を連れて。息を殺して半時間ほど待っていると、銃声が一つ響いた。狩りの一隊は、船からかなり離れた場所まで行かなければならなかった。
さらに半時間経って、鰐の死骸をひとつ乗せて小舟が戻ってきた。船の下のデッキで、その鰐の皮が剥がされた。ロノ兄は、その皮でスーツケースを作った。
7日して、ぼくらはタイガー・ポイント (10) に着いた。目の前には底知れぬ大海、左手にはちっぽけな島が一つ、その上には砂山。ぼくらは、波のない海の水で水浴した後、砂山で長い時間過ごしてから、船に戻った。人跡から遥か離れた場所だったことは言うまでもない。混じり気のない喜びと言えば、45年前のシュンドルボン行の、この何日かの追憶が、ぼくの心のかなりの部分を占めている。
訳注
(注1)父方の遠縁の祖父。5世代前のクリシュノジボンには、ビシュヌラムとブロジョラムの二人の息子があり、レイの祖父ウペンドロキショルは兄のビシュヌラムの家系、プロモダロンジョンは弟のブロジョラムの家系に遡る。
(注2)Justice Chandra Madhab Road 南カルカッタのボバニプル地区の中心にある。チョンドロマドブ・ゴーシュ卿(Sir Chandra Madhab Ghosh)は、カルカッタ最高裁判所(1862年設立)最初期のインド人判事の一人。
(注3)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 1908—2007) 著名な女流作家。児童文学作品を中心に、小説、伝記、料理本、翻訳作品など幅広い分野に活躍。レイとともに『ションデシュ』誌を編集。
(注4)全粒粉で作られた平べったい丸パン。火に炙って膨らませたもの。
(注5)シュビモル・ラエ、レイの父親シュクマルの末弟。『ぼくが小さかった頃』③、⑩参照。
(注6)ドゥルガー祭祀(プージャー)の後、カーリー女神・ラクシュミー女神の祭祀が続き、1ヶ月間の長期休暇になる。
(注7)ハザーリーバーグの南東に位置するヒンドゥー教の聖地。ボーカーローの滝は、そこのベラー川がダーモーダル川と合流する地点にある。『ぼくが小さかった頃』⑬参照。
(注8)インド西ベンガル州南部とバングラデシュ南部を覆いベンガル湾に至る、広大な森林地帯。
(注9)シュンドルボン西部を貫通し、ベンガル湾に注ぐ、主流の一つ。
(注10)シュンドルボンの東部にある、マングローブの密林に囲まれた孤立したビーチ。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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