第11回 インド舞踊入門講座 その一はじめに
もう、去年の話になるが、ある出版社からインド舞踊入門の本を作りたいという相談があった。いわれて気がついたが、確かにアマゾンを見ても日本語でそういう本は出ていない。
バラタナーティヤムであるとか、モーヒニーアーッタムとかオリッシーなど、自分の学んだことについての本は何冊か出ている。私が書いたのは『カタカリ万華鏡』と『天平勝宝のインド舞踊』(『万博の世紀のインド舞踊』として、数編を加筆して復刻)である。これらはインド舞踊全般を概観できるものではない。
某出版社の企画は、インタビューをしてゴーストライターを付けてというものなので断ったが、隙間を埋めるために、そろそろネタの尽きた「天竺ブギウギ」の代わりに書いてみようと思い立った。私の書き方は入門書向きではないのだが、しばらく、お付き合い願いたい。
そもそも私は舞踊などというしゃれたものに関心はなく、もっぱら音楽が好きだった。ラヴィ・シャンカルが流行ってシタールや民族音楽を聴いたが、どちらかというとビートルズのロックに始まって、ブルース、ジャズが「専門」である。
それが1983年に増上寺でインド祭りが行われることになり、オリッシー・ダンスのクンクマ・ラールさんにアプローチしたことから物語が始まる。あれから、もう、40年以上が過ぎてしまった。当時は、バラタナーティヤムを専門とする舞踊家が、リサイタルの中で一曲オリッシーやクチプリを踊るというような形で、オリッシー自体は普及していなかった。今日の興隆はクンクマさんのおかげである。
元々、大学ではインド哲学専攻だったのでヒンドゥ教の神話や神格にはなじみがあった。インド舞踊というのはその表演である。というよりは話が逆で、ヒンドゥ教や仏教の布教のために、語りや芸能、彫刻、図画がある。表裏一体というか互いに深く関係している。
バラモンや宮廷の王族、官吏以外に文字は必要なく、識字率といったら1パーセントかそこらだったろう。教えは基本的に口伝え、面授。文芸、芸能は布教のメディアである。
サーンチーには産地直送の芸能が集まった
マディヤ・プラデーシュの州都ボーパールから50キロほどの所に、サーンチーの仏塔がある。三基の仏塔があり、第一塔の核部分は前3世紀、アショーカ王創建と考えられる。釈尊の遺骨が分祀された。前2世紀頃に拡張され、周りを囲む基壇が出来て、そこを右遶、尊敬を表す右回りで巡ることが出来るようになった。讃歌を歌いながらパレードをしてそれを見てもらったのだろう。
かつて、ここには大小の寺院や僧院など50もの建造物があった。四方の塔門トーラナには釈尊の前生譚、ジャータカ物語が描かれるが、この時代、まだブッダの姿は描かれていない。
古代の通商路沿いの小高い丘の上にあるので、遠くからも目印として見えた。行き交う商工業者からたんまりお布施を頂戴したので建設することが出来た。お布施を頂戴するには、お説教のみならず、何か楽しいこともやったに違いない。交易路が変わり、仏教が衰退すると訪れる人もいなくなり、ジャングルの中に600年余り埋もれてしまったのだが、19世紀に発見される。
ストゥーパでは釈尊の遺骨崇拝、礼拝供養が行われた。傘や旗で飾り立て華や香を捧げ、歌や器楽、踊りで供養した。その模様が第一塔の塔門に描かれている。これは前1世紀頃に建てられた。一般にその楽士達はカターカ、語り部であって、カタック舞踊の元祖ともされる。カターとは物語、それを語る人がカターカである。
仏教の文脈では彼らをバーナカと呼んでいい。バーナはお話という意味なので噺家だ。いや、落語家ではなく仏説を説くばかりか、歌や踊りで物語を繰り広げる芸能者である。高くなっている基壇で演じると、何百人、何千人と集まっても遠くから見ることが出来る立体劇場となる。
ジャワ島中部のボロブドゥールにもジャータカなどの物語が描かれているが、寺付きの僧侶が絵解きのように釈尊の物語を語ったと思われる。初めは堅いお話だったかもしれないが、だんだん分かりやすい話が望まれて、寺から離れて独立し、さすらいの芸能者になったかもしれない。逆に放浪芸人がやって来て、寺の坊主の真似事をする。
お祭りともなれば稼げるとばかり、各地から芸人が寄ってくる。そこには仏教のジャータカ物語ばかりでなく、各地の英雄譚、マハーバーラタやラーマーヤナの一節を語る芸人もやって来たに違いない。そんなことから法華経の自我偈とマハーバーラタの類似性もいわれている。芸人は受けるネタを盗む。前2、3世紀の段階では演劇の形態は成立していないが、さまざまな試みが行われていたことだろう。
ヤクシーは踊る
ジャータカ物語には、レスラーやアクロバットをする芸人についても語られている。アクロバットをする芸人はバールフトから出土した仏塔の欄楯(玉垣)にも描かれる。樹木の精霊、鬼神ともいわれるヤクシー(ヤクシニー、夜叉女、薬叉尼)像も木にしなだれかかるように描かれている。前1世紀初期の作とされるが、これは極めてインド舞踊的である。続いてサーンチーの第一塔東門の横梁にも、ぶら下がるようにしてヤクシーが描かれている。
パトナー博物館の払子を持つ豊満なヤクシー像はよく知られているが、前3世紀末から前2世紀初めの制作と見られている。この像は直立して動きを見せない。また、2世紀後半とされるデリー博物館の「美女酔態」、遊女が酔い潰れる様を描いた構図もよく知られている。宮廷や金持ちの宴に招かれ、歌や踊りを供したのだろう。
インド舞踊の発祥はインド美術の発展と共に確認できる。サーンチーのヤクシー像のアクセサリーは簡素だが、バールフトの像では豪華な腰巻きや首飾りを付けている。それは専門の舞踊家、その時代にデーヴァダーシーの存在は確認できないので、おそらくは高級娼婦ガニカーがモデルだろう。
また、ヴェーダ、ウパニシャッドの時代は文学という所まで行き着かない。ジャータカやラーマーヤナ、マハーバーラタの逸話などが語り物として伝承されてきたが、文字化されたのは1、2世紀、馬鳴菩薩アシュヴァゴーシャの頃からだろう。
世捨て人の集団であった仏教サンガに浄財が集まって豊かになると、学識のあるバラモンも出家集団に入り、学芸、あるいは経典、つまり釈尊の物語の作成に携わる。
世捨て人が規則正しい集団生活を送るというのも変な話だが、仏教サンガは世俗と超俗のスキマを見つけた。宮廷に入って王の相談役になる。アシュヴァゴーシャはその代表例だ。
仏教僧院が宮廷と共に文化サロンとなって、文学や文芸、医薬などの学術、音楽・舞踊の発展を引っ張ってきたのではないか。
イケイケ・インド
昨年、マレイシアからスートラ・ファウンデーションというオリッシーを中心とした舞踊団が来日して、とても感心した。インド移民の多いマレイシアで、インド同様にレベルの高い教育が行われ、世界に進出して公演を行っている。メイン・ダンサーの中には中国人もいた。おそらく、シンガポールでも事情は同じであろう。
移民ではないが、IT技術者を中心に西葛西でインド人が増えて、カレー屋のみならず独特のインド文化圏を形成している。早くから野火杏子が来日している子たちにバラタナーティヤムを教え、近年では竹原幸一がムリダンガムを教えている。インドの子に混じって日本の子もいたが、リズム感がよくとても上手だった。
逆に、日本人がインドで仕事をしていて、その子弟がインド音楽や舞踊を早い時期から習う。富安カナメに続いて小牧詩葉が12歳でデビューした。音楽では帰国子女の林怜王が優秀なタブラー奏者だ。以前はまず日本で習い、大学を卒業してから留学するという順序だった。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024031100149&g=int
この何年か、インドのプレゼンスは目覚ましく、人口で中国を抜き、GNPでもやがてイギリスを抜いて日本も抜き去るといわれている。
人気なのは、一にインド・カレー、二にインド映画である。インド音楽も定着したが、そのうちインド舞踊ブームがやって来るのではないかと期待している。インド音楽は早くから定着して、シタールやタブラーの奏者は多い。しかし、ほとんどいないのが、声楽やバイオリン、南インドの弦楽器ヴィーナーである。
家の2歳の孫は言葉も覚束ないが、「きいろ、きいろ」とか楽しそうに歌っている。器楽も歌が最初にあって言葉が前提になっている。日本ではそこをすっ飛ばして最初から踊りの振り付けを習うという倒錯した状態が当たり前になっている。今更、サンスクリットから勉強しろといわないまでも考え直してほしい。
先人達の苦労
榊原帰逸がシャンティニケタンに留学してから70年が経っている。その後、1960年代半ばからカタックのヤクシニー矢沢、バラタナーティヤムのヴァサンタマラ(シャクティの母)、大谷紀美子、櫻井曉美らが留学した。気の強いインド女性の間に入って、女の園では大変な苦労をしたことと思う。
日本に帰るとインド音楽家がいなかったのでテープレコーダーを使い、舞踊劇を創作したときには日本人だけで音楽から創作した。先人の苦労は計り知れない。
カラオケで先生に習った振り付けを踊るのが普通で、疑問を持つ人は少なかった。踊りは自分自身の表現なので、どこにオリジナリティーを見いだすのだろう。
小澤征爾が欧米に留学した頃は、日本人に西洋音楽が分かるものかと差別された。小澤が乗り越えていった壁を思うと、今の音楽家はぬるま湯にひたっているようなものだという。お茶漬けの味と評されることもあったが、日本人独特の繊細さやエレガンスが評価されるようになった。
ジャズの世界では秋吉敏子が26歳で1956年、バークレー音楽院に留学し、日本の女の子がキモノを着てバド・パウエルそっくりに弾くよと話題になった。日本ではレコードをコピーしたような演奏の方に人気があったが、本場ではそういう訳にはいかない。自分の道を模索し、日本音楽と融合した『孤軍』を1974年に発表。何度もグラミー賞の候補になった人間国宝級である。
山下洋輔トリオは1976年にヨーロッパ遠征をして、熱狂的に受け入れられた。白人も日本人もジャズを作り出した黒人たちの音楽に劣等感を抱いていて、そこを吹き飛ばす日本人の熱演に歓喜した。トリオに参加した坂田明は、レジェンドとして毎年のようにヨーロッパ・ツアーをしている。和ジャズ、シティ・ポップスが、今、外国で評価されているという。
日本人のジャズは日本とアメリカだけでなく、それ以外の国に進出して正当な評価を得た。日本のインド舞踊もインドと日本でちやほやされるだけでなく、他の国に進出して他ジャンルの舞踊家と渡り歩き、一舞踊家として評価されないといけない。
体格的なハンディを乗り越えて、今やバレエの世界でも日本人が評価されている。インド人の体格は骨太で腰と太腿が発達し、素足の指で床を掴み、大地に根を張っている。関節が柔らかくて手や足を振ると、しなっている。
さらに、日常動作、感情表現がずいぶん違う。日本人にインド人のスピリットが分かるのか。一体、何が日本人の特質なのか。どこに割って入るのか。なめらかさ、上品さだろうか、しおらしさだろうか。喧嘩腰ではなくて、協調性、融和力。何でもかんでも取り込んで消化し、自分ものにする吸収力。踊りには音楽以上に性格がにじみ出る。
坂田明がかつてフリージャズの巨匠オーネット・コールマンに尋ねた。
「音楽で何が大切ですか」
「クォリティ・アズ・ヒューマン・ビイング」
ワールド・ベースボール・クラシックで、大リーガーに憧れるのはやめましょうといったが、日本人もインド人と並んで、この人のバラタが見たい、カタックが好き、オリッシー素敵と外国人に評価されるようになってほしい。
日本のインド文化に新時代
野火杏子は早い段階から自前の音楽でオリジナルを踊ることを志していた。踊りは南インドばっかりだったのに、音楽は北インドばっかり。南インド音楽ができる日本人が少なかったので、シタールやタブラーでも試みた。
今回、インド人の弟子二人のアランゲットラム(公式デビュー)において、野火自身が小シンバルでコントロールし、竹原がムリダンガムを、入野智江がイダッキヤーを叩き、歌やフルートもインド人の音楽家に頼んで、すべて自前のコンサートを開催する。70年以上に及ぶ日本のインド舞踊史で画期的なことだ。若き日に野火の薫陶を受けた山元彩子、横田由和、入野智江、エミ・マユーリらが、今や重鎮として活躍している。
https://www.facebook.com/CNC.kyoko.nobi/?locale=ja_JP
また、延命寺の花祭りでも、声明とインド舞踊はじめ、異文化交流の様々な試みを行ってきた。今年は4月6日に催されるが、山元彩子の伴奏をヴィーナーの的場裕子が行う。脇を入野智江らが固めるが、これも希有なことである。
http://www.enmeiji.com/
世界インド化計画ではないが、世界中にインド文化が波及している。日本とインドだけで踊ればいいというのではなく、日本人のアイデンティティーを持ったインド舞踊を創出して世界に進出しないといけない。自分自身の育った根っこが大切で、所詮、インド人にはなれない。そこからスタートしないといけない。
インド舞踊新時代は、すぐそこまで来ている。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
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