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2023年7月27日木曜日

天竺ブギウギ・ライト③/河野亮仙

第3回もう一つのマイナー競技/カラリパヤットその3 カラリ上陸!?

「秘伝」という武術雑誌を、時々、読んでいるので、大分前から浅見千鶴子という方がカラリヨーガといって、カラリパヤットとヨーガを教えている事は知っていた。日本ヨーガ禅道院で発行している「たいまつ通信」令和3年の118号によると、2001年にカラリと遭遇し、以来、ヨーガやアーユルヴェーダと共にカラリパヤットを学び、2006年に帰国している。

身体訓練としては動物の型など一連の動きを学ぶが、見せ場は武器法である。一人だけの表演では限界がある。2011年にヴァスコ・ダ・ガマが上陸したカリカットの道場、CVNカラリから師範代のニディーシュ・カリンビルを招くことが出来て、表演と指導に厚みを増した。

彼の父と伯父は大家族の同じ家で育ち、伯父からカラリパヤットを習った。家族に男の子は彼一人だった。厳しい修行に明け暮れて、また、マッサージによる治療をしていた。ジャッキー・チェンに武術指導をしたり、映画や舞台に出て、インドのみならずヨーロッパ各地で巡業した。まさに、カラリパヤットの第一人者となった、道場の大事な跡取り息子である。

それがどうしたことか外国人と結婚して、日本に住むことになってしまった。インドでは外国人と結婚するのは大騒ぎ、猛反対にあうのがふつうである。しかも、伝統芸能の家を守るのは大変なプレッシャーだ。

お二人の誠実な人柄によって周囲の理解を得て可能になったのだろう。日本に渡ってカラリを伝導するのも大切な使命だという結論に至った。先日、初めてお二人にお目にかかることが出来て、カラリの将来について話し合った。現在は埼玉県の入間市に住んで、カラリパヤットの道場建設を志している。大スポンサーを得ないと建設は難しい。ケーララ出身のIT長者は日本にいないものか。

少林寺拳法は達磨大師が香至国カンチープラムからもたらしたと言い伝えられている。禅の公案に「如何なるか是れ祖師西来意」というのがある。つまり、達磨大師が南インドから中国にわざわざ渡ってきたのには、どんな意味があるのかということだ。これに対して師の趙州和尚は「庭前の柏樹子」と答えた。これじゃこれじゃと柏の木を指さした。自然の成り行きと解説するのも蛇足か。

グルカルとなったニディーシュが来日した意味は、10年、20年経って分かるのかもしれない。日本に住むマラヤーリ、ケーララ州出身者と日印人物交流を深め、様々な武術やスポーツ競技、舞踊と技術交流をしながら、新たな日印時代の創世ができないものか。

 

トリヴァンドラムの街角

 

オッタ武器術クラス

 

キック_ストレート

 

盾と剣

 

武器術オッタ

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑥

ボバニプル(1)

『ションデシュ』誌が廃刊になってから、しばらくして、なぜU. Ray & Sons も廃業することになったか、まだとても幼かったぼくに、知るすべもなかった。ある日、母さんがぼくに、この家を出て行かなくちゃならない、と告げたのだ。

ゴルパルを離れ、それと同時に北カルカッタを離れて、ぼくら二人は、ボバニプルにある母方の叔父さんの家に移った。6歳になろうという頃だ。ぼくには、大きな家から小さな家に移ることが、あるいは贅沢な暮らしから平凡な暮らしになることが、その歳頃の子供の心に、特に苦痛をもたらすとは思えない。「ああ、可哀想だ」という言葉を、小さな子供に向けて使うのは、大人たちだ。子供たちは、決して自分を「可哀想だ」とは思わない。

ボバニプルのボクル=バガン(1) の家に来て、まずびっくりしたのは、床が、磁器のかけらを埋め込んだ模様で、覆われていたことだ。こんなものを、それまで、見たことがなかった。目を丸くして見つめながら、こう思った –– 「おやおや、この床を作るために、一体いくつ、茶碗や受け皿や大皿を、割ったことだろう!」 かけらの殆どは白かったけれど、中にはそうしたかけらに混じって、あちこちの隅っこに、突然、細長い花模様とか、星とか、波打つ線とかが見えることがある。他にすることがない時は、こうした磁器のかけらを見ているだけで、時が経つのを忘れたものだ。

ゴルパルになくて、この家に来てよかったことが、もう一つある –– 道に面したベランダだ。寝室から出ると、すぐ目の前がベランダだった。朝も昼も夕方も、一日中ずっと眺めていた –– どんなにいろんな人たちが、前の道を行き来したことだろう。真昼時には、色とりどりの小物を押し車に乗せて、物売りが呼ばわりながら過ぎる: –– 

「ドイツ物だよ たったの2アナ…  日本物だよ たったの2アナ…」(2)

週に2日か3日、「ミセス・ウッドの箱」を持った物売りがやって来た。母さんや叔母さんは、ベランダから、「おおい、箱売り、こっちへ来なさい!」と呼び声をあげる。ぼくは嬉しくてわくわくする。なぜなら、夕方のおやつが豪勢なものになると、決まっているから。箱の中には、ミセス・ウッドが作った、ケーキ、ペーストリー、パテが入っていたのだ。

 

日が暮れかかる頃には、節回しをつけた物売りの声: ––

 

「メチェダの、チャナチュルは、いかが …  出来立ての、ホッカホカだよ …」(3)

その後しばらくすると、道の向かい側のチャトゥッジェ家(4) から、ハルモニアムの伴奏付きで、古典歌曲を練習する、かすれた歌声が響いてくる。

夏の昼間には、寝室の扉や窓は閉じられていたけれど、どういう訳か、窓の横型ブラインドの隙間から、光が差し込んできたのだ。その光のせいで、ある決まった時間になると、外の道の上下逆さまの絵が、窓の反対側の壁の上に、大写しで映し出された。締め切った部屋の中で、まるで魔術のように、道を行き交う人びとの姿を見ることができたのだ。その絵の中に、自動車、人力車、自転車、歩行者の様子を、何もかも、申し分なく見分けることができた。昼間、寝台に横になりながら、ぼくはいったい何度、この無料のビオスコープ映写会を見たことだろう。

ぼくらの家の表扉には、ちっちゃな穴が一つあいていた。扉を閉めてその穴の前に磨きガラスをかざした時にも、外の光景の上下逆さまの縮小版を、ガラスの上に、はっきりと見ることができた。別に目新しいことではない。これこそ写真術の第一歩で、誰でも自分の家で試してみることができる。でも、その頃のぼくはそれを知らなかったので、こんなことが起きるのを見て、とても驚いたのだった。

ぼくらが移った家の主人は、ショナ叔父さん。お母さんには、4人の兄弟と2人の姉妹がいた。一番下の叔父さんはぼくが生まれる前に亡くなった。一番上と二番目は、それぞれパートナーとラクナウ(5) の法廷弁護士だった。ショナ叔父さんは三番目。ショナ叔父さんはイギリスに行かなかったし、白人(サヘブ)風の雰囲気はまるでなかった。ぼくの義理の叔父さんの一人が保険会社の社長で、ベンガル人経営の会社の中では、すごく羽振りがよかった。ショナ叔父さんは、その保険会社に勤めていたのだ。

ショナ叔父さんは、算数がものすごく得意だった。後になって、ぼくが学校に入学した時のことだ –– ぼくの年に一度の試験の、「連分数」(6) の問題が載った紙を手にすると、一目目を通しただけで、「これの答は、8だろう?」と言ったのだ。ぼくにはそれが、まるで魔法のように思えた。

叔父さんは、ふだんは真面目くさっていたけれど、子供っぽいところもあった。叔父さんは、30歳近くになっても、まだ同年代の親戚の友達たちと、日曜の朝、大張り切りでキャラムとルードーのゲームをした。後にはバガテル(7) が流行ったけれど、それにも、最初の二つに負けないくらいの張り切りようだった。ぼくがそれを、立ったまま見ていると、時々、こんな言葉が飛んできた –– 「おい、マニク(8) 、大人たちの中にいるんじゃない!」 それでぼくは、しぶしぶその場から引き下がったけれど、叔父さんたちのやっていることが、大人にお似合いだとは、とても思えなかったのだ。

実のところ、ぼくは、殆どの時間を一人で過ごさなければならなかった。特にお昼時は。でも、だからと言って退屈を感じたことは、決してなかったと思う。‘Books of Knowledge’ 全10巻(9) のページをめくって、そこに載っている絵を見るのが、やることの一つだった。見飽きることは、決してなかった。後になって、母さんは、‘Romance of Famous Lives’ 全4巻(10) を買ってくれた。絵が満載の、外国の有名人の伝記を集めた本だった。

本の他にも、時間を過ごすのにうってつけの、びっくりするような器械があった。「ステレオスコープ(stereoscope)」という名前だった。その頃は、この器械を置いている家がたくさんあったけれど、今はもう、見ることはない。ヴィクトリア朝時代(11) の発明品だ。底に把手があり、それを持って、枠の中に嵌め込んである一対のレンズを、両眼の前に支える。レンズの前のホルダーには、写真が立ててある。一つではなく、横長のカードの上に、2枚の写真が並べてあるのだ。一目見ると同じ写真に見えるが、実はそうではない。風景は同じだけれど、それを撮ったカメラは、人間の眼と同じように、一つではなく二つのレンズを持っていたのだ。左のレンズは人間の左目が見るような写真を、右のレンズは人間の右目が見るような写真を撮る。一対のレンズを通して見ると、この二つの写真が一つに重なって、まるで本物の風景のように見えるのだ。このステレオスコープ用に、他にも、いろんな国のいろんなものを写した写真を買うことができた。

 

 

この他に、ぼくはもう一つ、おもちゃの器械を持っていた。これも、今日では見ることができない。「魔法のランタン(magic lantern)」という名前だった。箱のように見えるけれど、正面の膨れた管の中にレンズがあって、上に煙突が、右横には把手が一つ、ついていた。おまけに、箱の中にはフィルムを巻くためのリールが二つ。その一つにフィルムを入れて外についている把手を回すと、それがもう一つのリールに巻き取られる仕掛けになっていた。そのフィルムはレンズのすぐ後ろを通る。箱の中では灯油の明かりが燃えていて、その煙は煙突を通って外に出ていき、その明かりは巻かれていくフィルムを照らして動画を壁に映し出す。実のところ、ぼくが映画に惹かれるようになった最初のきっかけは、もしかすると、この「魔法のランタン」だったかもしれないのだ。

ショナ叔父さんの遊び仲間の中に、ぼくらの家の一階の東側の部屋に住んでいた、もう一人の叔父さんがいた。実は、彼は、本当の親戚ではなかった。ショナ叔父さんのダッカにある実家の、すぐ隣が彼の家だったので、それが縁で二人は友達同士になり、その繋がりで、ぼくは彼を、「叔父さん」と呼んでいたのだ。この「カル叔父さん」がカルカッタに来たのは、職探しのためだった。職が決まって何日も経たないうちに、カル叔父さんは、30ルピーもする、真新しいピカピカのラレーの自転車(12) を買ってきた。半年間乗った後でも、この自転車は、買って来た時そのままに、ピカピカだった。なぜなら、カル叔父さんは、毎朝、まるまる半時間かけて、自転車を磨いていたのだ。

訳注

(注1)ボクル=バガン(Bokulbagan)は、南カルカッタの中心地区ボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)の南側を占める地区。「ボクル(和名「ミサキノハナ」)の庭園」の意。

(注2)舶来の小物売り。「アナ」は古い貨幣単位で、1アナは1ルピーの16分の1に相当する。

(注3)「メチェダ」は、カルカッタの西、東メディニプル県の県境の町。「チャナチュル」は、豆粉を捏ねて細いヌードルの形で揚げたものに、南京豆やグリーンピースの揚げたものなどを混ぜ、塩辛い味付けをした、軽食。メチェダ産のチャナチュルは、人気があった。

(注4)「チャトゥッジェ」は、ベンガルの高位バラモンの姓「チャタルジ」の口語形。

(注5)「パートナー」はビハール州の州都。「ラクナウ」はウッタル=プラデーシュ州の州都。

(注6)分母に分数が含まれ、その分数の分母にさらに分数が含まれることを何度も繰り返す、複雑な数式。

(注7)キャラム(carrom)、ルードー(ludo)、バガテル(bagatelle)。いずれも、今日なおポピュラーなゲーム。

(注8)サタジット・レイの呼び名。

(注9)青少年向けの百科事典。1912 年に創刊されて以来、何度も改訂された。

(注10)‘Cassell’s Romance of Famous Lives’ を指すか。ただし、全3巻。1925年創刊。

(注11)ヴィクトリア女王の在位期間、1837~1901年を指す。

(注12)Raleigh Bicycle Company、イギリスの自転車製造会社。1885年創立。1910年代から、世界最大の自転車会社となる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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2023年7月21日金曜日

華麗なるインド⑦

第7回 「三燈舎(SANTOSHAM)」 ― 南インドの懐石料理

4年ほど前、講演会を終えたあとに、教え子数人と来て食べたときの味が衝撃的だった。一品一品の料理はたしかにインドの味なのだが、私の知っているインド料理ではない。それでいて絶品なのである。この連載で是非取り上げたいと思っていたが、私の思っているインド料理とどう違うのかを確かめるまでに時間が経ってしまった。その後、数回立ち寄ったが、いつもお客さんが並んでいて断念した。私は並ぶのが大嫌いなので、今までも美味しいものを食べそこなって来たと思うが、性分なのでしかたがない。それが最近ラッキーなことに、午後にいったん閉じる前にカミさんと来て、スルリと入れた。

ランチは3種類の定食から選ぶようになっている。Aセット(¥800)は本日のカレー1種に、ライスと、ドーサあるいはバトゥーラー(揚げパン)というシンプルなものだが、ライスはおかわり無料とのことなので、軽くランチを取りたいときにはこれはお得である。Bセット(¥1,000)は本日のカレーが3種に増え、Cセット(\1,200)は3種にさらにサンバルとラッサムとパーパルが付く。ということで、迷うことなくCセットにし、一つがドーサ付き、もう一つがバトゥーラー付きを注文した。

本日の日替わりカレーは以下の3種である。

辛口:ビーフキーマといろいろ野菜

中辛:ケーララの卵カレー

マイルド:茄子とオクラ

運ばれて来た料理を口にするや、私がインド料理らしからぬと思った理由の一端がわかった。和食の料亭で供される懐石料理の持つ凛としたたたずまいが感じられるのである。辛口のキーマが中辛の卵カレーとともにしっかりと舌を刺激し、茄子とオクラのまったりとした味がそれを和らげてくれる。そのあいだに味わうサンバルとラッサムは、インド古典音楽で基底音を奏でるターンプーラーのように、常に南インド料理の原点の味を持続させてくれる。

茶会の席で出される本来の懐石料理は一汁三菜の簡素な料理だそうだが、サンバルとラッサムを二汁に見立てれば、三燈舎のそれは二汁三菜の懐石と言えよう。「サントーシャ」とはサンスクリット語で「満足」を意味し、「サントーシャム」はそれの南インドでの表記である。客人をもてなす茶会の真髄が店の名前にも込められている。デザートのココナッツプリンのマンゴーソースあえと茶会なら濃茶にあたるマドラス・コーヒーも申し分なかった。

今回、Informationを書くためにホームページなどネットを検索したら、ミシュランガイド東京2023でビブグルマンに選出され、食べログでアジア・エスニック TOKYO 百名店 2022に選ばれたことを知った。また、テレビの人気番組・孤独のグルメのSeason8で「第9話 東京都千代田区御茶ノ水の南インドのカレー定食とガーリックチーズドーサ(海老カレーバナナの葉包み)」として放映されたそうである。4年前に訪れた時は、開店(2019年5月)したばかりだったと思うが、独自の日本的なインド料理(オーナーはどう思うか知らないが)を提供し続けたことが、多くの客の心をつかんだのだと思う。本格的なインド料理を作ろうとするシェフと、何とか日本人の口に会う味を出したいオーナーが、長い時間をかけて妥協のない味を作り上げてきたのだと思う。スタッフを含めた全員に敬意を表したい。

(宮本久義 記:2023年7月11日)

 

午後の休みに降りてきたRateeshさん。黄金の腕の持ち主。

ベテランシェフのThomasさんはインド帰省中とのこと。

 

上が3種類の本日のカレー。下がサンバルとラッサム。

ライスはバースマティー。右がバトゥーラー、上方が

パーパル。写真がうまくないので失礼。

 

コーヒーのネーミングは「マドラス・コーヒー」以外には

考えられない。器もカワイイ。

 

Information:

〒101-0052 千代田区神田小川町3-2古室ビル2階

予約・お問い合わせ:050-3697-2547(夜のみ予約可)

営業時間:11:00~15:30(L.O.15:00)、17:30~22:00(L.O.21:00)

定休日:月曜(その他臨時休業の場合あり、SNSにて告知)

支払方法:カード不可・電子マネー不可

ホームページ:https://santosham.tokyo/

 

宮本久義 略歴

1950年、東京浅草生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了後、1978年より7年間バナーラス・ヒンドゥー大学大学院哲学研究科博士課程に留学。1985年、Ph.D.(哲学博士)取得。2005年~2015年、東洋大学文学部インド哲学科教授。現在、東洋大学大学院客員教授。
専門分野は、インド思想史、ヒンドゥー宗教思想



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2023年7月17日月曜日

松本榮一のインド巡礼(その3)

インド西部地震          

インド西部地震は、2001年1月26日、インド西部グジャラート州カッチ県で発生した大地震です。この地震の規模はマグニチュード7.7、震源の深さは約16キロでした。

死者は2万人以上、負傷者は15万人以上、家屋を失った人は、百万人以上と数えられました。

カッチはインド有数の手工芸布の生産地であり、私はこの地震の一か月後に、インド・ハンドローム公社の元総裁のB. B. BASINさんと一緒に、カッチの中心都市ブジに飛びました。

その前日,私たちは、インド駐在の平林大使のご厚意で、大使館内で、カッチの布のバザーを開き、その売り上げを持って、被災した布の職人たちを訪ねました。

このスライド動画は、その時の記録です。

多くの人間国宝級の職人の人々が、涙を流して迎い入れてくれたことを昨日のことのように思い出します。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2023年7月13日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記①

私がインド古典舞踊 オディッシーを 修養したのは、故プロティマ・ガウリ・ベディ女史がバンガロール 郊外に創設したばかりのNRITYAGRAM(ダンス ヴィレッジ)でのことです。

そこにたどり着いたのは19902月のことだったと思います。

日本で心の病に悩んでいた私にある友人が言ってくれました。 「あなたは絶対に踊ってた方がいいよ 〜!」勧めてくれたのは 堺にいらっしゃった モダンダンスの林田鉄先生。言われるままに通っていたら、ちょうど中国への公演が決まり、ご一緒させていただくことになりました。バイトをやめ、オイリュトミー留学をしようと貯めていたお金を全部持って中国へ旅立ちました。

瀋陽での公演の後、私は1人居残り、かねてから日本人のルーツだと聞いていたミャオ族に惹かれ、一人旅をすることにしました。

それまでの2年あまり何も決められない病になっていた私が、この頃から急に一人旅ができるようになり自分でもびっくり!!

ミャオ族の住む雲南省では120円ぐらいの安宿に泊まって約3ヶ月。「歌掛け」と言って男女が離れ離れのところから歌を送っては返事に歌が送り返されてくるといった何とも ロマンチックな恋愛 歌 遊びの場に一緒に入れてもらって楽しんだり、雲南省各地から少数民族の方々が、それぞれ異なった素敵な刺繍の民族衣装などを着て、それぞれの民族舞踊を披露する大会を観に行ったり……と、とても楽しい時間を過ごしました。私が一番気に入ったのは排村と言われる経済的には貧しい村の方々でしたが、真っ黒なとてもシンプルな服を着た、とても躍動的な踊りをする人たちの踊りでした。

そんな中、例の天安門事件が勃発。両親はさぞ心配したことでしょうが、連絡を取る術もなく私も田舎にいた方が安全だと判断し、ほとぼりが冷めるまで郊外で待機していました。 そして次はシルクロードだ!と 23日かけてたどり着いたウルムチ。その時にハタと気付いたら、さてさて入国から3ヶ月が過ぎようとしているではありませんか。。。このまま 上海に戻るのも癪なのでよし パキスタンに入って新しいビザを取り、ゆっくりシルクロードを堪能しようと決意 。

バックパッカーたちとの出会いもあり、カラクルム峠などを通ってパキスタンに入りました。

ただ、パキスタンに入ってみるとなんだか こちらの方が血が騒ぐのです。。。えーっ~! どうしよう!荷物を中国に置いたままなんだけどな 〜。。。そう思っていたら、結局大雪が降り中国への陸路は閉鎖され、「あ〜! これは神様がインドへ来なさいとおっしゃっているんだ」 そんな風に感じた 私はバスに乗ってインドへ向かうことになりました。しかもデリーからカラチに来たバスの帰りに乗ればただで乗っけてくれるんだ、という情報をうまくゲットして(笑)

そうしてインドの国境を越えたのが198912月。その時なんと また天からのメッセージが降り注いできたのです。。。 実は1986年、兵庫県尼崎ピッコロシアターでオディッシーの公演を観ていました。オディッシーの総師とも言える偉大な故ケルチャラン・モハパトラ グルジーと、愛弟子のクムクム・ラール先生のデュエット公演で、あまりにも感動して日記にも書いていたほど素晴らしかったのですが まさか自分がそれを踊ることになるとは夢にも思いませんでしたし、すっかり忘れていました 。ただ 国境を超えた瞬間、「あー そっか 〜!!! 神様は私にこの踊りをするように、と色んな手を使ってここまで導いてくださったのだ」と感じました 。でも待てよ。。。あの踊りはちょっとやそっとでできるものではない… 何か精神的な修行が必要だと直感し、まずはヨーガを学びにロナバラ(ムンバイから列車で2時間位?)にあるKAIVALYADHAMA というアシュラムに滞在を決めたのでした。

 

花の宮祐三子hananomiya yumikoプロフィール

大阪生まれ。

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年7月9日日曜日

天竺ブギウギライト河野亮仙

第2回 もう一つのマイナー競技/カラリパヤットその2 武術と舞踊

インド留学前は佐保田ヨーガをやっていたのに、帰国すると太極拳を始めた。長拳にも挑戦した。時はバブルで金余り、また、日中友好を演出するため、京劇のみならず、四川省の川劇などの伝統演劇団や雑技団の来日公演が毎年のようにあった。彼等の立ち回りは中国拳法そのものである。

実際に映画「少林寺」の主役、李連傑は体育学院の出身なので武術の専門家だが、共演したヒロイン丁嵐は地方劇の戯芸院(演劇舞踊学校)出身である。伝統演劇のトレーニングには立ち回り、武術の訓練も含まれているから立派にこなしている。ケーララ州のカタカリ学校も、武術家養成とも思えるような厳しいトレーニングを積む。

1983年、ケーララの劇団ソーパーナムとカタカリ役者が自坊の延命寺に来た時には、カラリパヤットの型とカタカリの型の違いというのを表演してもらった。平成10年頃にはインドから来日した研究者によって、東インドの地方劇チョウとその基礎となっている武術パリカンダの違いを表演してもらったこともある。パリは盾、カンダは剣である。

オリッシー・ダンスの前提となる基礎訓練もクンクマ・ラールや高見麻子に見せてもらった。ほとんど武術の訓練である。バラタナーティヤムにしても同様の厳しい修練が必要で、現今のインド舞踊というのは基本的に男踊りの要素が強い。

伝統的に踊りの師匠、演出家は男であった。一方、女踊り、デーヴァダーシー系の動きというのはケーララ州のナンギヤール・クートゥやカタカリの女舞い、それに基づくモーヒニーアーッタムに継承されている。

また、東南アジアに目を向けるとインドネシア、マレーシアではプンチャック・シラットが盛んだ。男踊りや立ち回りの基礎になっている。もともとはインド系武術と思われるが、現今では中国拳法の影響が強い。ジャカルタで行われた2018年アジア競技大会では正式種目に選ばれ、インドネシアに金メダルをもたらした。日本からも選手が参加した。

3年後に名古屋で開催されるアジア競技大会は、予算不足のため種目の削減が叫ばれている。プンチャック・シラットどころかカバディまで消滅するかもしれない。インドでアジア競技大会が開かれることになったら、カラリパヤットは正式種目に選ばれるだろうか。

タイにはクラビ・クラボーンという様々な武器法も含めた武術がある。中国雲南省から伝わったというが、それはタイ族の故郷ということなのだろうか。その道場からムエタイの選手が出ている。もう日本でキック・ボクシングのテレビ中継を見ることはなくなったが、タイの選手は、試合前に伴奏と共にグルや神のために踊っていた。タイ舞踊の立ち回りは、武術そのままではなくて、ある程度様式化されている。ベトナム相撲も音楽が伴奏に付く。武芸も祝祭的で神に奉納するという性格がある。

 

カラリパヤットには関節技もある

 

タミル・ナードゥ州の棒術

 

盾と剣を振るうパリカンダ(ビハール州)

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年7月3日月曜日

サタジットレイぼくが小さかった頃

ゴルパル(4)

小さかった頃から、いつも少しイライラさせられたことが、一つある。それは、ブラーフマ教のマーグ月祭(1) に、ヒンドゥー教の祭祀にあるような賑やかさがなかったことだ。ブラーフマ教祈祷式と、神様についての歌があるだけだった。祈祷式は、一度始まると1時間半から2時間続く。ぼくらの家では、誰かの命日になると、祈祷式を執り行う習慣だった。居間の椅子とテーブルをどけて、白い大理石の床の上に模様入りの敷物を広げ、ぼくらはその上にすわった。その後、祈祷式と歌。母さんは歌がとても上手だったけれど、祈祷式の日には、歌があんまり上手じゃない人たち –– ドンお祖父ちゃんとか、叔父貴とか –– まで、歌に加わった。年々同じ敷物の上に首を垂れてすわったまま、お祈りを聞いていたせいで、ぼくにはその敷物の模様が、完全に頭に焼き付いてしまった。

 

もう一つ頭に焼き付いたのは、サンスクリット語の祈祷の文言と、それのベンガル語版。このベンガル語の祈祷には、どの祭司も必ず守らなければならない、決まりがあった。この決まりによれば、単語はどれも、長く引き延ばして発音しなければならない。たとえば、「まやかしより我らを真実の道へ」の唱え言葉の、ベンガル語版の最初の三行は、こんな風に発音する:——

 

まやかしー よーりー わーれーらーをー  まことへ えーと 導き たまえー

くらやみー よーりー わーれーらーをー  ひかりへ えーと 導き たまえー

めつぼうー よーりー わーれーらーをー  ふめつへ えーと 導き たまえー

 

この、「真実(まこと)へ えーと」とか、「不滅(ふめつ)へ えーと」とかいう唱え方に、すごくいらいらしたのだ。こんな風に言わずに、「真実(まこと)へと 導きたまえ」とか、「不滅(ふめつ)へと 導きたまえ」と言えば、済む話だ。どうしても「へ」を延ばしたいなら、「真実(まこと) へーと」、「不滅(ふめつ) へーと」と区切って言っても、特に問題はないだろうに。でも、もちろん、どの祭司たちも苛立つことはなかったのだ —— だって、彼らは皆、毎年繰り返し、同じ調子で唱え続けていたのだから。

 

ブラーフマ寺院は、ボバニプル(南カルカッタ)にも一つあって、そこでもマーグ月祭が行われる。でも、ゴルパルを去ってボバニプルに移った後でも、ぼくらは、マーグ月11日の大祭の日には、コーンウォリス・ストリート(Cornwallis Street(2) のブラーフマ寺院の他には、どこにも行かなかった。その界隈こそ、「ブラーフマ協会居住区」と呼ばれていたのだ。冬の明け方、4時半に起きて、沐浴してから行かなければならなかった。最初に1時間あまりブラフマン讃歌、その後2時間半、歌と祈祷が続く。木のベンチが用意されていたのだけれど、背もたれがどうしようもなく真っ直ぐで、そのすわり心地は、快適というにはほど遠かった。

マーグ月祭では、ぼくら子供でも少し楽しめる日が、3日間だけあった。決められた特別の日に、祈祷式の後、野菜粥(キチュリ)(3) のご馳走があり、別の一日にはピクニック、そしてあと一日は、少年少女の集い。この最後の催しには、真面目くさった祈祷式の雰囲気はまるでなかった。

でもそれでも、大太鼓・両面太鼓を叩いたり、大テントを設営してその中に神像を飾りつけたりといった、ヒンドゥー教の祭祀にはつきものの賑やかで派手な側面が、ブラーフマ教の祭祀には一切なかった。カーリー女神祭祀の時、皆と一緒に爆竹を鳴らしたり、天灯を飛ばしたりもしたし、ぼくらが子供の頃あった、いろんな種類の小さな爆竹を鳴らす楽しさは、今日の、耳をつん裂き胸を震わせる本物の爆弾のような爆竹の時代には、とうてい得られないものだった。でも、ドゥルガー女神やカーリー女神の祭祀が続く、一年の中の特別の何日か(4) 、カルカッタ中が喜びに沸き立つのに、ブラーフマ教徒の間にはそうした楽しみはなかった。

 

それでたぶん、ブラーフマ教徒たちはいつも、キリスト教のクリスマスを、自分たちの祭日の一つに数えようとしていたのだろう。そんな訳で、クリスマスが来ると、ぼくらは胸がドキドキしたものだった。

 

カルカッタには、その頃、白人たちの大きな店(今日の言葉で「デパートメント・ストア」)、ホワイトウェイ・レイドロー(Whiteway Laidlaw(5) があった。チョウロンギ通り(6) の、いまメトロ映画館(7) がある場所には、その当時、『ステイツマン』(8) の事務所があった。そしてその横のシュレン・バナルジ・ロード(9) に入る曲がり角に、時計台付きの大きな建物が立っている —— それがホワイトウェイだった。その広大な二階建ての建物の、2階のフロア全体が、クリスマス前の何日か、「おもちゃの国(toyland)」になったのだ。母さんに連れられて、ぼくは一度、この「おもちゃの国」を見に行ったことがある。

 

その頃、インドは白人たちが支配していた。ホワイトウェイは白人たちの店だ。店員は皆白人で、買い物客も、そのほとんどが、白人の男女だった。中に入ると目がチカチカした。でも、「おもちゃの国」に行こうにも、階段は、一体、どこに? 生まれて初めて、「エレベーター」がどういうものか、知ることになった。ホワイトウェイのこれが、たぶん、カルカッタで最初のエレベーターだっただろう。

金色に塗った鉄の籠に乗って2階に上がり、降りた時には、本当に夢の国に来たかと思った。フロアのかなりの部分を占めて、山・川・鉄橋・トンネル・信号機・駅付きの曲がりくねった線路が広がり、その上をおもちゃの汽車がぐるぐる回りながら走っている。この他にも、フロアの周りには、いろんな色の風船、色紙で作った鎖飾り、垂れ飾り、造花、果物の模造品、そして中国風の提灯。それに加えて、彩り豊かな球と星をいっぱいに飾りつけたクリスマスツリー、そして何より目を惹いたのは、赤い服に赤い帽子をかぶり、髭を生やした顔に満面笑みを浮かべた、人間三人分の巨体の、サンタクロース。

そこにあったおもちゃは、全部外国製だった。その高価なおもちゃの中で、何とか買うことのできた爆竹の一箱を持って、家に帰った。その頃の爆竹は、もう今日、どこにもお目にかからない。音も素敵だったし、その中から飛び出るいろんなちっぽけな物も、どれもとても素敵だった。

 

その頃、大きくて豪華な店と言えば、そのほとんどはチョウロンギ通りにあった。その中に、ベンガル人が店主だった店が一つ、ホワイトウェイのすぐそばにあった。カー・アンド・モホラノビシュ(Carr & Mahalanabis(10) 。円盤式蓄音機(グラモフォン)とスポーツ用品を扱っていた。その店の店番をしていた人を、ぼくらは「ブロ叔父さん」と呼んでいた。この店には、豪華な椅子が一つあった —— それは実は、体重計だったのだ。チョウロンギ界隈に行くと、ブロ叔父さんの店に必ず立ち寄り、その椅子にすわって体重を計ってくるのが習慣になってしまった。父さんが死んでから、ぼくのために蓄音機を一台持って来てくれたのも、このブロ叔父さんだった。その時からぼくは、蓄音機でレコードを聴くのが、面白くて堪らなくなった。ぼくにはおもちゃの蓄音機が二つあったけれど、それもたぶん、ブロ叔父さんがくれたものだ。その一つの名前は「小人蓄音機(pygmy-phone)」、もう一つは「チビ蓄音機(kiddie-phone)」 。その機械と一緒に、ヨーロッパの歌や楽曲が入ったレコードが、結構たくさんあった —— どれもルチ(11) の大きさだった。

 

カルカッタのラジオ局(12) が始まって間もない頃、ブロ叔父さんは、ぼくの誕生日に、ラジオを一台、プレゼントしてくれた。そのラジオは、今時のラジオとは似ても似つかぬもので、「鉱石ラジオ(crystal set)」と呼ばれていた。耳にヘッドフォンを当てて聞かなければならなかった —— つまり、一度に一人しか、番組を聞くことができなかったのだ。

 

ブロ叔父さんと一緒に、ぼくらは一度、ウートラム・レストラン(Outram Restaurant)に行ったことがある。ウートラムの船着場(13) にあったこの豪華なレストランは、水の上に浮かんでいて、まるで、船のデッキのように見えた。今ウートラムの船着場に行っても、その頃の風景はもう見られない。その当時、船着場の後ろ側には、イーデン公園を囲んで豪華なガス燈が灯り、公園の真ん中にあるステージでは、夕暮れ時になると、白人たちの楽隊(14) が演奏したものだ。ウートラム・レストランで、ぼくは生まれて初めてアイスクリームを食べた。もっとも、この時のことで、ぼくは長いこと、みんなから、からかわれることになった。なぜなら、最初の一口が歯にものすごく染みたので、ぼくは、アイスクリームを少し温めてほしい、と言ったのだ。

 

訳注

(注1)「ブラーフマ協会」は、1830年1月23日、インド暦マーグ月11日に正式に発足。毎年この日に、「ブラーフマ協会」の大祭が催される。

(注2)現在のビダン・ショロニ(Bidhan Sarani)、北カルカッタを南北に走る大通り。

(注3)さまざまな野菜・豆を入れ、バター油(ギー)等で味付けして作られる。

(注4)毎年、アッシン月(9月半ば〜10月半ば)の新月の日から、ドゥルガー女神の祭祀(ドゥルガー=プージャー)が10日間にわたり祝われる。その4日後の満月の日がラクシュミー女神祭祀、その半月後の、カルティク月(10月半ば〜11月半ば)の新月の日がカーリー女神祭祀。この1ヶ月間が、ベンガルのヒンドゥー教徒にとって、一年で最大の祭祀と長期休暇の時節。

(注5)イギリス植民地各地に開かれた、最大のデパート・チェーン。カルカッタでは、1905年にチョウロンギ通り(注6)に開店。この建物は、インド独立後、メトロポリタン生命保険会社(Metropolitan Life Insurance Company)の所有となったため、現在は、「メトロポリタン・ビルディング」と呼ばれている。

(注6)「チョウロンギ」は、中世のナート派の聖者「チョウロンギナト」がここに逗留していたことに由来する。英語読みは「チョウリンギー・ロード(Chowringhee Road)」。中央カルカッタのエスプラナードの東に発し、カルカッタの中心部を、下部環状道路(Lower Circular Road)に至るまで南北に走る、最大の目抜き通り。

(注7)Metro Cinema Hallアメリカの映画制作会社Metro-Goldwyn-Mayerにより、1934年建設、1935年より創業。カルカッタで最も有名な映画館。

(注8)The Statesman’、1875年に創刊した、インド最大の日刊英語紙。

(注9)Suren (dranath) Banerjee Roadチョウロンギ通り(注6)の北端近く、「メトロポリタン・ビルディング」(注5)の南側から東に向かって走る通り。インドの愛国主義者で国民会議派の創始者の一人、シュレンドロナト・バナルジ(Surendranath Banerjee, 1848–1925))に因んで名付けられた。

(注10)プロボド・モホラノビシュ(Prabodh Mahalanobis)が、ニルロトン・ショルカル(Nil Ratan Sarkar)とともに開店。店の名前の Carr は、SarkarKar から取られたと言う。

(注11)小麦粉を捏ねて延ばし、油でふっくら膨らむようにして揚げた、丸パン。ベンガル人が好む常食のひとつ。

(注12)インド放送会社(Indian Broadcasting Company Ltd)がボンベイとカルカッタでラジオ放送を始めたのは1927年。1930年にこの会社が倒産すると、英領政府が引き継ぎ、1932年から定期的に放送するようになった。

(注13)フグリ川の東岸、イーデン公園の西端にある船着場。インド大反乱(1857–58)に際し、イギリス軍を指揮して功績のあった軍人、ジェイムズ・ウートラム卿(Sir James Outram, 1803–1863)の名に因む。

(注14)ウィリアム要塞に配属された軍楽隊。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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