ゴルパル(4)
小さかった頃から、いつも少しイライラさせられたことが、一つある。それは、ブラーフマ教のマーグ月祭(1) に、ヒンドゥー教の祭祀にあるような賑やかさがなかったことだ。ブラーフマ教祈祷式と、神様についての歌があるだけだった。祈祷式は、一度始まると1時間半から2時間続く。ぼくらの家では、誰かの命日になると、祈祷式を執り行う習慣だった。居間の椅子とテーブルをどけて、白い大理石の床の上に模様入りの敷物を広げ、ぼくらはその上にすわった。その後、祈祷式と歌。母さんは歌がとても上手だったけれど、祈祷式の日には、歌があんまり上手じゃない人たち –– ドンお祖父ちゃんとか、叔父貴とか –– まで、歌に加わった。年々同じ敷物の上に首を垂れてすわったまま、お祈りを聞いていたせいで、ぼくにはその敷物の模様が、完全に頭に焼き付いてしまった。
もう一つ頭に焼き付いたのは、サンスクリット語の祈祷の文言と、それのベンガル語版。このベンガル語の祈祷には、どの祭司も必ず守らなければならない、決まりがあった。この決まりによれば、単語はどれも、長く引き延ばして発音しなければならない。たとえば、「まやかしより我らを真実の道へ」の唱え言葉の、ベンガル語版の最初の三行は、こんな風に発音する:——
まやかしー よーりー わーれーらーをー まことへ えーと 導き たまえー
くらやみー よーりー わーれーらーをー ひかりへ えーと 導き たまえー
めつぼうー よーりー わーれーらーをー ふめつへ えーと 導き たまえー
この、「真実(まこと)へ えーと」とか、「不滅(ふめつ)へ えーと」とかいう唱え方に、すごくいらいらしたのだ。こんな風に言わずに、「真実(まこと)へと 導きたまえ」とか、「不滅(ふめつ)へと 導きたまえ」と言えば、済む話だ。どうしても「へ」を延ばしたいなら、「真実(まこと) へーと」、「不滅(ふめつ) へーと」と区切って言っても、特に問題はないだろうに。でも、もちろん、どの祭司たちも苛立つことはなかったのだ —— だって、彼らは皆、毎年繰り返し、同じ調子で唱え続けていたのだから。
ブラーフマ寺院は、ボバニプル(南カルカッタ)にも一つあって、そこでもマーグ月祭が行われる。でも、ゴルパルを去ってボバニプルに移った後でも、ぼくらは、マーグ月11日の大祭の日には、コーンウォリス・ストリート(Cornwallis Street)(2) のブラーフマ寺院の他には、どこにも行かなかった。その界隈こそ、「ブラーフマ協会居住区」と呼ばれていたのだ。冬の明け方、4時半に起きて、沐浴してから行かなければならなかった。最初に1時間あまりブラフマン讃歌、その後2時間半、歌と祈祷が続く。木のベンチが用意されていたのだけれど、背もたれがどうしようもなく真っ直ぐで、そのすわり心地は、快適というにはほど遠かった。
マーグ月祭では、ぼくら子供でも少し楽しめる日が、3日間だけあった。決められた特別の日に、祈祷式の後、野菜粥(キチュリ)(3) のご馳走があり、別の一日にはピクニック、そしてあと一日は、少年少女の集い。この最後の催しには、真面目くさった祈祷式の雰囲気はまるでなかった。
でもそれでも、大太鼓・両面太鼓を叩いたり、大テントを設営してその中に神像を飾りつけたりといった、ヒンドゥー教の祭祀にはつきものの賑やかで派手な側面が、ブラーフマ教の祭祀には一切なかった。カーリー女神祭祀の時、皆と一緒に爆竹を鳴らしたり、天灯を飛ばしたりもしたし、ぼくらが子供の頃あった、いろんな種類の小さな爆竹を鳴らす楽しさは、今日の、耳をつん裂き胸を震わせる本物の爆弾のような爆竹の時代には、とうてい得られないものだった。でも、ドゥルガー女神やカーリー女神の祭祀が続く、一年の中の特別の何日か(4) 、カルカッタ中が喜びに沸き立つのに、ブラーフマ教徒の間にはそうした楽しみはなかった。
それでたぶん、ブラーフマ教徒たちはいつも、キリスト教のクリスマスを、自分たちの祭日の一つに数えようとしていたのだろう。そんな訳で、クリスマスが来ると、ぼくらは胸がドキドキしたものだった。
カルカッタには、その頃、白人たちの大きな店(今日の言葉で「デパートメント・ストア」)、ホワイトウェイ・レイドロー(Whiteway Laidlaw)(5) があった。チョウロンギ通り(6) の、いまメトロ映画館(7) がある場所には、その当時、『ステイツマン』(8) の事務所があった。そしてその横のシュレン・バナルジ・ロード(9) に入る曲がり角に、時計台付きの大きな建物が立っている —— それがホワイトウェイだった。その広大な二階建ての建物の、2階のフロア全体が、クリスマス前の何日か、「おもちゃの国(toyland)」になったのだ。母さんに連れられて、ぼくは一度、この「おもちゃの国」を見に行ったことがある。
その頃、インドは白人たちが支配していた。ホワイトウェイは白人たちの店だ。店員は皆白人で、買い物客も、そのほとんどが、白人の男女だった。中に入ると目がチカチカした。でも、「おもちゃの国」に行こうにも、階段は、一体、どこに? 生まれて初めて、「エレベーター」がどういうものか、知ることになった。ホワイトウェイのこれが、たぶん、カルカッタで最初のエレベーターだっただろう。
金色に塗った鉄の籠に乗って2階に上がり、降りた時には、本当に夢の国に来たかと思った。フロアのかなりの部分を占めて、山・川・鉄橋・トンネル・信号機・駅付きの曲がりくねった線路が広がり、その上をおもちゃの汽車がぐるぐる回りながら走っている。この他にも、フロアの周りには、いろんな色の風船、色紙で作った鎖飾り、垂れ飾り、造花、果物の模造品、そして中国風の提灯。それに加えて、彩り豊かな球と星をいっぱいに飾りつけたクリスマスツリー、そして何より目を惹いたのは、赤い服に赤い帽子をかぶり、髭を生やした顔に満面笑みを浮かべた、人間三人分の巨体の、サンタクロース。
そこにあったおもちゃは、全部外国製だった。その高価なおもちゃの中で、何とか買うことのできた爆竹の一箱を持って、家に帰った。その頃の爆竹は、もう今日、どこにもお目にかからない。音も素敵だったし、その中から飛び出るいろんなちっぽけな物も、どれもとても素敵だった。
その頃、大きくて豪華な店と言えば、そのほとんどはチョウロンギ通りにあった。その中に、ベンガル人が店主だった店が一つ、ホワイトウェイのすぐそばにあった。カー・アンド・モホラノビシュ(Carr & Mahalanabis)(10) 。円盤式蓄音機(グラモフォン)とスポーツ用品を扱っていた。その店の店番をしていた人を、ぼくらは「ブロ叔父さん」と呼んでいた。この店には、豪華な椅子が一つあった —— それは実は、体重計だったのだ。チョウロンギ界隈に行くと、ブロ叔父さんの店に必ず立ち寄り、その椅子にすわって体重を計ってくるのが習慣になってしまった。父さんが死んでから、ぼくのために蓄音機を一台持って来てくれたのも、このブロ叔父さんだった。その時からぼくは、蓄音機でレコードを聴くのが、面白くて堪らなくなった。ぼくにはおもちゃの蓄音機が二つあったけれど、それもたぶん、ブロ叔父さんがくれたものだ。その一つの名前は「小人蓄音機(pygmy-phone)」、もう一つは「チビ蓄音機(kiddie-phone)」 。その機械と一緒に、ヨーロッパの歌や楽曲が入ったレコードが、結構たくさんあった —— どれもルチ(11) の大きさだった。
カルカッタのラジオ局(12) が始まって間もない頃、ブロ叔父さんは、ぼくの誕生日に、ラジオを一台、プレゼントしてくれた。そのラジオは、今時のラジオとは似ても似つかぬもので、「鉱石ラジオ(crystal set)」と呼ばれていた。耳にヘッドフォンを当てて聞かなければならなかった —— つまり、一度に一人しか、番組を聞くことができなかったのだ。
ブロ叔父さんと一緒に、ぼくらは一度、ウートラム・レストラン(Outram Restaurant)に行ったことがある。ウートラムの船着場(13) にあったこの豪華なレストランは、水の上に浮かんでいて、まるで、船のデッキのように見えた。今ウートラムの船着場に行っても、その頃の風景はもう見られない。その当時、船着場の後ろ側には、イーデン公園を囲んで豪華なガス燈が灯り、公園の真ん中にあるステージでは、夕暮れ時になると、白人たちの楽隊(14) が演奏したものだ。ウートラム・レストランで、ぼくは生まれて初めてアイスクリームを食べた。もっとも、この時のことで、ぼくは長いこと、みんなから、からかわれることになった。なぜなら、最初の一口が歯にものすごく染みたので、ぼくは、アイスクリームを少し温めてほしい、と言ったのだ。
訳注
(注1)「ブラーフマ協会」は、1830年1月23日、インド暦マーグ月11日に正式に発足。毎年この日に、「ブラーフマ協会」の大祭が催される。
(注2)現在のビダン・ショロニ(Bidhan Sarani)、北カルカッタを南北に走る大通り。
(注3)さまざまな野菜・豆を入れ、バター油(ギー)等で味付けして作られる。
(注4)毎年、アッシン月(9月半ば〜10月半ば)の新月の日から、ドゥルガー女神の祭祀(ドゥルガー=プージャー)が10日間にわたり祝われる。その4日後の満月の日がラクシュミー女神祭祀、その半月後の、カルティク月(10月半ば〜11月半ば)の新月の日がカーリー女神祭祀。この1ヶ月間が、ベンガルのヒンドゥー教徒にとって、一年で最大の祭祀と長期休暇の時節。
(注5)イギリス植民地各地に開かれた、最大のデパート・チェーン。カルカッタでは、1905年にチョウロンギ通り(注6)に開店。この建物は、インド独立後、メトロポリタン生命保険会社(Metropolitan Life Insurance Company)の所有となったため、現在は、「メトロポリタン・ビルディング」と呼ばれている。
(注6)「チョウロンギ」は、中世のナート派の聖者「チョウロンギナト」がここに逗留していたことに由来する。英語読みは「チョウリンギー・ロード(Chowringhee Road)」。中央カルカッタのエスプラナードの東に発し、カルカッタの中心部を、下部環状道路(Lower Circular Road)に至るまで南北に走る、最大の目抜き通り。
(注7)Metro Cinema Hall、アメリカの映画制作会社Metro-Goldwyn-Mayerにより、1934年建設、1935年より創業。カルカッタで最も有名な映画館。
(注8)‘The Statesman’、1875年に創刊した、インド最大の日刊英語紙。
(注9)Suren (dranath) Banerjee Road、チョウロンギ通り(注6)の北端近く、「メトロポリタン・ビルディング」(注5)の南側から東に向かって走る通り。インドの愛国主義者で国民会議派の創始者の一人、シュレンドロナト・バナルジ(Surendranath Banerjee, 1848–1925))に因んで名付けられた。
(注10)プロボド・モホラノビシュ(Prabodh Mahalanobis)が、ニルロトン・ショルカル(Nil Ratan Sarkar)とともに開店。店の名前の Carr は、Sarkar の Kar から取られたと言う。
(注11)小麦粉を捏ねて延ばし、油でふっくら膨らむようにして揚げた、丸パン。ベンガル人が好む常食のひとつ。
(注12)インド放送会社(Indian Broadcasting Company Ltd)がボンベイとカルカッタでラジオ放送を始めたのは1927年。1930年にこの会社が倒産すると、英領政府が引き継ぎ、1932年から定期的に放送するようになった。
(注13)フグリ川の東岸、イーデン公園の西端にある船着場。インド大反乱(1857–58)に際し、イギリス軍を指揮して功績のあった軍人、ジェイムズ・ウートラム卿(Sir James Outram, 1803–1863)の名に因む。
(注14)ウィリアム要塞に配属された軍楽隊。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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