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2023年11月28日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑦/河野亮仙

第7回 2023年第19回杭州アジア大会におけるインドとカバディ

40競技481種目という杭州アジア大会が無事閉幕した。この9月、10月はラグビー、バレーボールのワールドカップや様々な世界大会があって、注目度はいまいちだった。TBSが地上波独占中継をした。何回か、ちらちらっとカバディも放映された。

第二次世界大戦後初のオリンピックは1948年にロンドンで開催された。その時に日本は招待されなかったのだが、インド、フィリピン、朝鮮、中華民国、セイロン、ビルマの代表が協議してアジアでも競技大会を行う事を決めた。

栄えある第1回は、ニューデリーで1950年に行うことが決定された。実施競技は陸上、水泳、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車の6競技なのだが、ヨーロッパに発注した競技用具が秋になっても届かないということで、翌年に延期された。

戦後間もない時期で混乱もあったかもしれないが、おそらくは競技施設が間に合わないとか、連絡ミスとかインド側の不手際だろう。半年遅れの51年3月に開催され、日本も参加することが出来た。日本チームは57種目中24種目で金メダルを獲得し、11カ国中最高の成績を収めた。

54年第2回はマニラ、58年第3回は東京で開催され、64年のオリンピック招致に弾みを付けた。ニューデリーでは1982年にも開催されたが、組織運営の出来ないインドでは、その後行われていない。

20世紀においてはバンコクで4回行われて貢献度が高い。韓国では3回、その後中国の経済成長によって3回行われ、日本は東京、広島に続いて2026年に名古屋で開催される。その後はドーハ、リヤドが予定されて、インドは手を挙げていないようだ。

オリンピック新種目

一方、2028年のロサンゼルス・オリンピックではラクロス、スカッシュ、フラッグフットボール、クリケットが競技種目に選ばれた。インドは2036年にオリンピック招致を目指している。

10年あれば競技場は作れるかもしれないが、冬に夏季大会をやるのでなければ無理だろう。エアコンを入れればというが、マラソンはカシミールでやるつもりか。コースが作れないだろう。競技場の前に発電所を作らないと停電する。

また、ニューデリーの大気汚染は最悪で、ガス室にいるようだといわれる。インフラ面でまだまだ課題は多い。カバディもあと10年で積極的に世界中に広めないと、オリンピックの競技種目には選ばれない。

ちなみに釜本邦茂がエースだった1970年のバンコク大会では岡野俊一郎が代表監督。10日間で7試合行う強行日程で、日本はビルマに敗れたインドと三位決定戦を行って敗れている。半世紀前の話だ。

インドのサッカーリーグに日本人選手も参加しているという話も聞いたが、現在はどうなのだろう。わたしは79年8月から82年1月までバナーラス・ヒンドゥー大学に留学していたが、まず、大学の運動場でスポーツをしているのを見た記憶がない。あ、玉蹴りをしているな、という記憶がかすかにあるが、サッカーの試合ではない。

町で見るのは草野球ならぬ草クリケットである。カバディで子供が遊んでいるのも見た覚えがない。インドのスポーツはそんな状況だが、今日では強化に取り組んでいるようだ。

ロス五輪では大谷効果なのか野球が復活する。英国連邦で広まったクリケットの競技人口はサッカーに次ぐというが、その多くはインド人ではないか。1980年モスクワ・オリンピックの頃からインドはクリケット、ソ連はサンボを競技種目に入れるのが夢だった。2018年のジャカルタ大会以来、サンボではなく、ウズベキスタン発祥の民族格闘技クラッシュがアジア大会の競技種目として選ばれている。

クリケットの日本における競技人口は4000人というからカバディより多い。競技人口というのが大会に参加する選手数というなら、カバディはその十分の一だ。栃木県の佐野市がクリケットの聖地で専用グラウンドがある。町興しのようにして商工会議所がバックアップし、サポータークラブには100社超が参加している。

市役所も巻き込んで、グラウンドの用地や助成金で助けてもらっている。日本代表の世界ランキングは50位前後。その点では日本カバディの方が上だが、世界50カ国でカバディをやっているかというと難しい状況なので、オリンピック参加は夢のまた夢。カバディ協会も参考にしないといけない。

https://www.youtube.com/watch?v=10W1NrgfVko&t=91s

日本カバディの課題

さて、今回の杭州大会での結果は予選敗退。日本はAリーグのインド、バングラデシュ、チャイニーズ・タイペイ、タイの組に入った。Bリーグはイラン、韓国、パキスタン、マレーシア。

初戦の対バングラデシュ戦が1、2分テレビで放映されたが、全くかなわず、52対17で破れた。チャイニーズ・タイペイとは互角、タイには勝てると踏んだが、どちらも破れた。選手の怪我や体調不良もあったが、負けは負けである。池江選手がインフルエンザにかかって不調と伝えられたが、実は選手村でコロナも蔓延していて、密かに帰国する選手も少なくなかった。

どうしてもインド、パキスタン、バングラデシュ、イランにはかなわないので、現時点で決勝リーグ進出は難しい。この4チームは体格が大きく足腰が強い。インドのプロ・カバディの上位チームのレベルなので、学生カバディの延長でやっている日本チームは到底かなわない。今回はベテランと若手がかみ合っていいチームだと思ったのに残念である。チャイニーズ・タイペイがバングラデシュに勝って決勝リーグに進出したが、中国拳法等の格闘技出身選手が多く、バングラデシュに力負けしない。

3年後の名古屋大会ではベテラン3人が抜ける事が予想される。TBSの番組でアジア発の競技に体当たり取材した杉谷拳士は、カバディが一番面白かったというので、今後の普及と強化に期待したい。イラン人のような長身の攻撃手、怪我を押して試合に出場するラグビー選手のようなフィジカルの強い選手が望まれるが、日本チームは線が細い。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e4d00062113a21c7bb7a488a3066d288085030c5

カバディ決勝戦は判定でもめて中断したが、辛くもインドがイランから金メダルをもぎ取った。前回はイランが優勝したのでようやく面子を保った。3位はチャイニーズ・タイペイとパキスタンである。日本とチャイニーズ・タイペイは遠征でも接戦で、いつもいい勝負をしているだけに残念である。女子の部は、今回、日本は参加できず、インドが優勝。チャイニーズ・タイペイが2位、イランとネパールが3位。

今回の杭州アジア大会においては、インドのお家芸であるカバディ、クリケットのほか、メダルを増産した。女子5000メートル走では、ゴール前で廣中瑠梨佳選手をかわし、0.59秒差でインドのチャウダリー選手が優勝するなど、陸上選手の活躍が目立つ。男子1600メートルリレーでは61年ぶりのインド優勝。男子やり投げでもインドが1、2位となった。

金メダル獲得数は中国201、日本52、韓国42に次いでインドは28である。アジアの陸上王国を目指してオリンピックに臨みたいようだ。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年11月26日日曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑪

カルカッタの外で(1)

ゴルパルからボバニプルに移ってから2, 3年の内に、母さんは、寡婦たちの学校、ビッダシャゴル=バニボボン(1) に職を得た。そのため、母さんは、バスに乗って、毎日、あのゴルパルのすぐそばまで、出かけなければならなかった。ぼくの教育の責任も、その頃は、母さんの手にあった –– ぼくは、9歳になるまで、学校に通わなかった。夏とプージャーに母さんが休みになると、ぼくらは二人で、時々気分転換に、カルカッタの外に出かけた。

その前の、ゴルパルにまだ住んでいた頃、父さんが亡くなった後、何度か外に出かけたことがあった。そのうちの二度のことが、少しだけ記憶に残っている。

一度、ラクナウに行って、何日か、母さんの母方の従兄弟オトゥルプロシャド・シェン(2) の家に、またさらに何日か、オトゥルプロシャドの姉妹チュトゥキ叔母さんの家に、滞在した。オトゥル叔父さんの家では、歌や楽器の音楽がすごく盛んだったのを覚えている。オトゥル叔父さんは、自分でも歌を作詞作曲した。その歌を母さんに教えると、母さんが持っていた黒いノートに、それを書きつけた。その頃、ロビ・ションコル(3) の師匠アラウッディン・ハーン(4) が、オトゥル叔父さんの家にいて、時々ピアノを弾いていた。ある日、当時有名だった歌手、シュリークリシュナ・ラタンジャンカール(5) がやって来た。彼が、有名なバイラヴィー=ラーガ(6) の曲、「バヴァーニー=ダヤーニー(慈悲深いバヴァーニー女神)」(7) を歌って聞かせてくれたのを覚えている。この歌を元にして、オトゥル叔父さんは、「ほら、あの方が私を呼んでいる」を作曲したのだ。

ある日、オトゥル叔父さんと母さんに連れられて、ぼくはある講演を聞きに行かなくてはならなかった。古典歌曲についての話だった上、英語での講演だったので、ぼくは何度も眠くなってコックリを繰り返した。その後、それが失礼にあたると思って(あるいは母さんに叱りつけられて)、無理に真っ直ぐ背筋を伸ばしてすわり、目を開いたままにしようと努めた。その時のぼくに、その講演をしていた人が、ビシュヌナーラーヤン・バートカンデー(8) という名前で、この人ほど音楽に精通している人が、インドに生まれたことは滅多になかった、などということを、どうして知ることができただろう?

チュトゥキ叔母さんの家では、あまり楽しくなかった。というのも、その旦那さんのランガム=デーシカーチャール=シェーシャードリは、マドラス出身で、その3人の子供たち、つまりぼくの従兄姉にあたるアマル・ダー、クントゥ・ディー、ラマル・ディーの、誰もがベンガル語を知らなかったのだ。ぼくはそれで、ほとんどの間、彼らが英語でまくし立てるのを、口をつぐんだまま聞いていなければならなかった。ただ一度、夕暮れ時に「幸せ家族」という名前のゲームをする時だけ、彼らの仲間入りをすることができた。

この時のラクナウ行きには、ぼくらと一緒に下の叔母さんも同行した。行く時か帰る時か覚えていないけれど、母さんと叔母さんは、インタークラス(9) の女性用車両に乗った。その車両に空席がなかったので、何とかぼくを、隣の二等車両に割り込ませた。乗ってみると、車両の中は、紅顔の白人サヘブとメームサヘブで溢れかえっている。ぼくの胸はドキドキが止まらない。口から言葉は出てこないし、もう乗っちゃったあとで、汽車は動き出し、降りることもできない。仕方なく、黙りこくったまま、隅っこの床の上に一晩中すわっていた。たとえサヘブたちがぼくをすわらせようと思ったとしても、ぼくにはその英語を理解する力がなかった。でも彼らは、ぼくなんかには、見向きもしなかったんだと思う。

ラクナウには、その後も何度か行く機会があった。母方の2番目の叔父さんがそこの弁護士だった。叔父さんの息子、モントゥとバッチュは、二人ともぼくより歳下だったけど、いい遊び相手だった。ラクナウの街にも惹きつけられるようになった。太守(ナワーブ)の街の「大(バラー)イマームバーラー」、「小(チョーター)イマームバーラー」、「チャタル・マンジル」、「ディルクシャー庭園」 –– こうしたすべてが、ぼくの心をアラビア小説の世界に連れて行った。何よりも驚いたのは、「大(バラー)イマームバーラー」の中にある迷路、ブルブライヤー。中に入ったら、ガイドがいないと、もう出ることができない。ガイドの話では、一度、ある白人兵士が、自信たっぷりに、一人で迷路の中に潜り込んだ。その後、外に出る道が見つからなくて、そのままそこに入ったまま、食べるものがなくて飢え死にしたのだそうだ。「イギリス総督邸」の崩壊した壁には、大砲の弾で抉られた痕があり、「シパーヒーの乱」(10) の様相を目の当たりにすることができた。大理石の板にはこう書かれていた –– 「この部屋で、某日の某時間に、大砲の砲弾を浴びて、ヘンリー・ローレンス卿(11) が死んだ。」 歴史が目の前に浮かんできた。このラクナウを、後に、ぼくは物語や映画の背景に使った(12) 。子供の時の追憶が、ぼくの仕事をずいぶん楽にした。

最初にラクナウに行ったすぐ後、母さんと一緒にシャンティニケトンに行った。その時は3カ月あまり滞在した。その時のぼくの遊び相手は、ロティンドロナト(詩聖タゴールの長男)(13) の養女プペだった。ぼくとほとんど同年齢だった。毎朝プペがやって来て、ぼくらの小さな小屋で1時間ほど遊んだ後、帰って行った。当時のシャンティニケトンは、四囲に遮るものがなく、修道場のある場所から南側に出ると、目の前には、地平線まで「コワイ(赤土の原野)」が広がっていた。満月の夜、ぼくらは「コワイ」まで散歩に出かけた。母さんはそこで、声を限りに歌を歌った。

母さんがちっちゃなノートを一冊買ってくれたので、ぼくはそれを持って、時々芸術学部まで出かけた。ノンドラル・バブー(14) は、そのノートに、ぼくのために4日間で4枚の絵を描いてくれた。鉛筆書きで牛と豹、絵の具を使って熊と縞入りの虎。虎を描いた時には、最後に尻尾の先に絵筆をなすって、黒く塗りつぶした。「どうして尻尾が黒いの?」と聞くと、ノンドラル・バブーは答えた、「この虎は、すごく食いしん坊でね。ある家の台所に、肉を盗もうとして入り込んだ。その時、火を焚きつけた竈(かまど)の中に、尻尾の先が入ってしまったんだよ。」

 

訳注

(注1)Vidyasagar Bani Bhavana 1925年創立。寡婦や社会的に困難な立場にある女性たちの自立を助ける目的で設立された。のちに、初等教育の教師を養成する学校になった。

(注2)Atul Prasad Sen (1871~1934) ラクナウ在住の著名な職業弁護士。ベンガル語近代歌曲の代表的な作詞作曲家、また歌手として知られる。愛国歌、祈りの歌、愛の歌を含む、計208曲が残されている。

(注3)Ravi Shankar (1920~2012) 著名なシタール奏者。

(注4)Alauddin Khan (1862?~1972) 伝説的な北インド音楽の奏者・作曲家。著名なサロド奏者のAli Akbar Khan (1922~2009) はその息子。またRavi Shankar (注3)は娘婿。

(注5)Shrikrishna Narayan Ratanjankar (1899~1974) ビシュヌナーラーヤン・バートカンデーの弟子で、北インド古典音楽(アーグラー派)の著名な作曲家・理論家。

(注6)Bhairavī Rāga 「ラーガ」はインド古典音楽の旋律型。その旋律型の枠組みに則り、定められた時間・季節に、その時々の情調(ラサ)を表現する即興演奏を行う。バイラヴィーは、夜明けの情調を伝える代表的なラーガ。哀切な情調で知られる。

(注7)Bhavānī Dayānī 「バヴァーニー」はパールヴァティーないしドゥルガー女神の別名。ビシュヌナーラーヤン・バートカンデー(注8)作詞作曲による作品で、ドゥルガー女神の讃歌として名高い

(注8)Vishnu Narayan Bhatkhande (1860~1936) インド古典音楽に関する、最も著名な研究家・教育者。

(注9)当時のインドの汽車は、1等、2等、インタークラス(2等と3等の中間クラス)、3等にわかれていた。1等は最上級クラスで、2等も車室毎に分かれており、白人客は、おもに1等か2等に乗車した。

(注10)イギリス軍のインド人傭兵(シパーヒー)の反乱をきっかけに、1857年から58年にかけてインド各地で起きた、英国支配に対するインド人の最初の大掛かりな反乱。現在では「インド大反乱」、「第一次インド独立戦争」などと呼ばれる。

(注11)Sir Henry Montgomery Lawrence (1806~1857) イギリス人の軍官、司政官。アウド王国の長官の時、インド大反乱が起き、ラクナウの守備に当たるが、総督邸にて反乱軍に殺される。

(注12)ラクナウは「探偵フェル・ダー」シリーズの第2作『皇帝の指環』(1966)の舞台。また、映画『チェスをする人』(1977)の舞台でもある。

(注13)Rathindranath Tagore (1888~1961) 詩聖タゴールの長男。子供がなく、1922年、グジャラート出身の女児ノンディニ(愛称プペ)を養女に迎える。

(注14)ノンドラル・ボシュ(Nandalal Bose, 1882~1966) インド近代を代表する画家。ビッショ=バロティ大学の芸術学部長。レイは、のちに2年間ビッショ=バロティ大学に在学し、ノンドラルの教えを乞うことになる。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2023年11月23日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記⑧

インド・スイスでの15年に渡る海外生活を経て日本に帰り、少しずつ、レッスンやご奉納、公演を始めるようになっていく。

ダンスヴィレッジ時代の友達が来日して我が家に泊まり、一緒に踊ったりもした。

 

名古屋 西村和子先生のヨガ公演にて

 

dance village時代の友達Sindhuと共に大阪・住吉大社にてご奉納

 

そして、最初の投稿に書いた、1986年初めて観たケルチャラン・グルジとのodissi公演で、私にodissiの種を授けて下さったクムクム先生を訪ねてデリーに出向く機会にも恵まれていく。

クムクム先生は、ケルチャラン・グルジの古くからの緩やかで優雅なスタイルを残していらっしゃる貴重な存在。また、毎日の生活でもずっとサリーを着続けていらっしゃるのも、「天然記念物」だとインドの友人からも言われるらしい。

クムクム先生は、かつて旦那樣のアショカさんのお仕事の赴任で、日本に滞在されていた。そして、日本にオディッシーの種を撒かれた大切な先生。残念ながら、私は、その頃には先生から習うことはなかったのだが、このように巡りめぐって教わることができ、とてもありがたいことだと感じている。

 

DSC_1342

kumkum lal先生 in ダイニングホール

 

サンスクリット語にも長け、とても穏やかな気質のクムクム先生。

手作りのお料理と共に、ユーモアたっぷりな伴侶のアショカさん共々、たくさんのゲストが絶えない中、いつも温かく迎えてくださるのだ。。。

このように大いなる存在の流れに導かれるようにして、odissiに出会い、しばらく離れたと思っては、再開。その後も人生のいろんな波と共に、螺旋を描いて歩んでいる。

日本では、たくさんの寺社でご奉納舞もさせていただき、バレリーナ以外に、巫女になりたかった、幼い頃の夢が、odissi dancer という形で少しは果たされてきたかもしれない。

 

七面山敬慎院にてご奉納

 

昨年2022年は日印国交樹立70周年という記念すべき年だった。在大阪・神戸インド総領事館のニキレーシュ・ギリ総領事のご縁からオリッサ(オディッシャ)州の最も大きな舞台、Rabindra Mandapにてガジェンドラ・パンダ・グルジ主催のフェスティバルでも踊らせて頂いたり、福岡の南蔵院にてodissiの先輩サキーナ彩子さん達と共に、邦楽アーティストを招いた日印文化交流フェスティバルを行ったりもした。

 

Guru Debaprasad Award Festival 2022 in ブバネーシュワルにて

 

福岡・南蔵院

日印文化交流フェスティバル 不動明王の祈り〜副住職さまの御真言と共に

 

1970年の大阪万博インド館で初めてインドカレー&ナンを食べ、その異様な味と匂いに何だこりゃ!、、、そして20歳で初めて渡ったインド。

 

大阪万博EXPO’70スタンプ帳

 

スイス館とインド館 奇遇にも同じ日に来館していた!

 

さぁ、今後、神様は、どのように私をお導き下さるのかは、まるでわからない。身を任せるのみだ。

しかし、私の人生の宝物。。。

人生の節目の時期であるいま、このようなサイトで、これまでの歩みを振り返り、綴らせて頂いたことに、そして、今のように通信事情が良くなかった時代、ろくに連絡も取らず、凧の糸が切れたように飛んで行ってしまった私を、紆余曲折はありながらも、いつも応援してくれた両親や、たくさんの師・友人などの皆様に、末筆ながら深い感謝の意を表して私の留学記を終わりにしたいと思います。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。

花の宮祐三子 拝

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年11月15日水曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記⑦

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記⑦

Oshoアシュラムで まずなんとも歯がゆかったのは、多くの人達がとても楽しそうに美しく踊っているのを目の当たりにすることだった。  私は今まで、クラッシックバレエや、インド舞踊をしてきて、「踊ってきた」と思っていたのだが、いざ、自由に踊る!!という段になると、なにをどう踊っていいやら、わからない!!!

なのに、みんなは、なんて楽しそうに踊っていることか!!!

そして、約10年の間、ボディワークのトレーニングを受けたり、内面と向き合う瞑想ワークをしたり、、、と  odissiを踊ることから離れることになる。

 

oshoアシュラム ブッダホールでのパフォーマンス

 

はじめ、どうしていいかわからなかったのだけれど、毎夜、osho講話の前にはライブミュージックによるダンスの時間があったり、、、などが積み重なり、しばらく経つと 音楽・エネルギーに身を任せて自由に踊ることが、非常に心地よくなってきた。

 

 

サニヤシ・セレブレーションにて

 

しかし、なんとも因果なものだろう。

 

10年後のある日のこと。

ミスティックローズという33週間、(笑い、泣き、静かに座る)の瞑想ワークの最後の週、突然、私の脳裏にodissiの曲が舞い降りてくるのだった。

 

サニヤシ・セレブレーションにて

 

ワークが終わると、一生懸命、昔習った振りやステップを思い出そうとする自分がいた。

すると、ちょうど、近くにodissiを踊っているという、Radhikaというサニヤシン女性に出会い、共にレッスンさせてもらうことに。

そこで、Prachiというボンベイからの女性が来て、いくつかの踊りを教えてもらうこともできた。

その後、オリッサに出向き、かつてお世話になったシブ・グルジやスジャータ女氏がいるSrjanを訪ねたり、ビチットラナンダ・グルジの開かれたRudrakshyaを訪ねたりして オディッシーを続けることになる。

時は、ちょうどインド・スイスでの15年に渡る海外生活を経て 日本に帰っていく途上のこと。

 

ガウリ・マ

 

ダンスヴィレッジに戻らなかったのは、私が中断していた間に、あまりにも残念なことながら、愛するガウリ・マは 既に お亡くなりになってしまったからだった。

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年11月5日日曜日

松本榮一のインド巡礼(その6)

カイラース巡礼

 

カイラース山は、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ボン教徒に聖山と崇められている。かつて八千メートル級のヒマラヤ連山の北方に位置し、チベット高原の中の独立峰として、その存在を際立たせているカイラース山は、世界最高峰と思われてきた。実際には6,656mの独立峰であるが、近くのマホナサロワル湖とともに、インダス、ガンジス、ブラフマプトラなどのアジアの大河の源流域を構成している。地球に最も影響している山といっていいのだろう。

大乗仏典に描かれている、菩薩たちの集うメール山は、このカイラース山がモデルになっているといわれている。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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天竺ブギウギ・ライト⑥/河野亮仙

第6回 一角仙人を誘惑したのは誰か

アマゾンを探検していたら『ガンダーラの高級娼婦たち/ガンダーラの仏教彫刻に表現された貴婦人像のモデルを求めて』柳原出版、金6000円也を見つけた。著者名は田辺理となっているが、田辺勝美の「一角仙人と高級娼婦」という論文も収められた、親子二代にわたるガンダーラ研究の賜物である。

2022年11月に200ページ、6000円で出版しているが、よく出版までこぎ着けたものだと思う。図版の収集が素晴らしいのだが、惜しむらくはどの写真も小さくてよく見えない。これを大きくしたら一冊8000円になってしまうから妥協の産物だろう。本屋で見たことはなく、私のような物好き、いや本好きでなければ研究者でも買わないだろう。大きな本屋に行ってもインド関係の本は極めて少ない。

ヤクシーのモデル

従来、樹木の精とされる豊満なヤクシー、ヤクシニー女神のモデルは当時の上流女性とされていた。ガンダーラの釈迦菩薩像についても、当時の貴族の姿を写したとされる。

マトゥラー・マホーリー出土でニューデリーの国立博物館に収蔵されている、酔っ払って片膝をついた女性の像はよく知られている。また、その裏にアショーカ樹の元、男二人と上半身裸の女と少女の図がある。

C.シヴァラームムールティーは、この図はカーリダーサ以前の作家シュードラカの戯曲『土の小車(ムリッチャカティカー)』から採った場面と比定した。国際的な大商都ウッジャイニーにおける、気前が良すぎて貧乏になった商人チャールダッタと遊女ヴァサンタセーナーの物語である。当時の暮らしぶりがうかがえる珍しい作品だ。

私は大学3年の時、小林信彦助教授の授業で大先輩たちと『ムリッチャカティカー』を購読した。大先輩というのは、今はもう退官しているが、その中の何人もが教授となって世界的な業績を上げたからだ。当時は若手だった小林先生は、今年の7月25日、87歳で亡くなられた。とても細かく面倒を見てくださる先生で、生徒のテキストをまとめてインドのモティラルに発注してくれた。あれから50年である。歳としては十分であるが悔やまれる。いや、学恩に報いることが出来ないのが悔やまれる。

インドから船便で届くのに2、3か月かかり、その間は湿式コピーのテキストを使った。独特の匂いがあった。

インドのガニカー、ギリシアのヘタイラ

話を戻すと、古代インド女性の姿、衣装は当時の貴婦人の姿を写したと理解されていたのだが、それは具体的にはガニカーと呼ばれる高級娼婦であると田辺は例証した。ギリシア・ローマの図像の分析に始まる。

古代ギリシアにはヘタイラと呼ばれる高級娼婦がいて、彫刻や陶器の絵のモデルとなっていた。饗宴において妻や娘は参加を許されなかったが、ヘタイラは参加して歌を歌い楽器を奏で、踊りを踊り、物語を聞かせた。

ギリシアの政治家ソロン(前640-560年頃)はアテーナイに娼館を造り、その利益から女神アフロディーティーの神殿を造ったという。娼婦の保護者とされる、豊満なアフロディーティー像はヤクシニーの造像に影響を与えたといわれている。

ローマ美術においてもギリシアの女性像を参考に女神や上流階級の女性、娼婦像が制作された。

ダルマ、アルタ、カーマ

古来、インド人の学ぶべきものとしてダルマ、アルタ、カーマがある。ダルマは宗教的義務を果たすこと。アルタは利、経済活動をして世を渡り、財産を築くこと。カーマは愛、すなわち性愛の学を学ぶべきとされる。

カーマ・スートラに付随して64の技芸を宮廷人や富裕な商人ナーガラカ(街人)、そしてガニカーは学ぶべきとする。

ガニカーというのは読み書きが出来て教養があり、音楽舞踊の嗜みがある高級娼婦の事だ。王宮にも出入りして王侯貴族と渡り合う存在なので、上流婦人といえばその通りである。

経典などでは漢語で婬女なので、ふしだらな女?と誤解されてしまうかもしれないが、ガニカーの事であり、売春婦とか娼婦と訳してしまうのが適当とも思えない。かといって白拍子とか花魁とかいっても文化が違うので誤解を招く。

大きな都市に娼館がないのは恥とされ、いろいろな国の言葉、巧みな話術で男を落とす、多芸多才で品性の高い美女を抱える必要があった。100年前ならオリエンタル・ダンサーのマタ・ハリである。

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日本では仏教が中国大陸経由で入ってきたことから、漢文化を通してインドを理解してしまうが、本当はギリシア・ローマ世界の方向からアプローチした方が筋が通る。

64の技芸をすべては列挙しないが、楽のほかに、化粧や香、宝飾の知識、料理や針仕事、大工仕事、花輪の作り方、遊戯、賭博、絵画や劇、マントラ、詩作、叙事詩など物語の知識と朗唱などが求められている。釈尊が学んだという幾多の学芸、手業、遊戯、スポーツにも近い。

カタックの語は語り手カターカに由来するというが、おそらく宮廷に侍る遊女は歌と踊りのみならず、夜伽に物語を語って聞かせたのだろう。千夜一夜物語、天竺夜伽物語。

アームラパーリー

涅槃経などの仏典に、ヴァイシャーリーに住む遊女アームラパーリーの話が語られる。この商業都市はアームラ、すなわちマンゴーの名産地として知られ、アームラパーリーとはまさに、マンゴー園の守り手を意味する。

死期の迫った釈尊が阿難尊者と共にクシナガルに向かう途中、アームラパーリーのマンゴー園にとどまると、アームラパーリーがやって来て食事を供養する。弟子と共に彼女の大邸宅に赴くとそのマンゴー園を寄進すると申し出る。説法を聞いて出家し、弟子になったという話だ。教団の尼僧には元遊女もいた。

ガンダーラの仏伝図にそのマンゴー園の布施の話が描かれている。淫靡な雰囲気は全くなく、上品な貴婦人の姿として描かれている。ガニカーはさげすむべき売春婦ではなく、うらやましがられる存在なので、仏典にも大金持ちの功徳者として登場する。

マハーバーラタに登場する一角仙人

一角仙人の物語はマハーバーラタやジャータカほかの仏典に記され、日本に入ってからは、今昔物語、能楽や歌舞伎「鳴神」でも語られる。様々な伝承とその分析については、森雅秀『エロスとグロテスクの仏教美術』に詳しく書かれている。大変面白い本だ。田辺勝美は「一角仙人と高級娼婦」の中で仏典の『大智度論』から紹介している。ジャータカの話は以前に書いた。

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マハーバーラタの伝えるところでは(上村勝彦『マハーバーラタ』、『インド神話』)、聖仙ヴィバーンダカが沐浴していると、天女の中で最も美しいウルヴァシーがやって来る。その姿を見た仙人は思わず精を漏らし、その水を飲んだ牝鹿が妊娠する。そして生まれたのがリシュヤシュリンガで鹿の角が生えている。

アンガ国で祭官が王ともめて宮廷から去り、祭祀が行われなくなったため、雷霆神インドラ(帝釈天)が怒って雨を止めた。王が苦行を積んだバラモンに相談すると、森で父親と住んで苦行をして、女を知らないリシュヤシュリンガを連れてくれば雨が降るでしょうと答えた。

王は悔い改め大臣と相談し、最高級の遊女たちを集めてリシュヤシュリンガを誘惑し、宮廷に連れて来ることを提案した。しかし、遊女たちは苦行者に呪いを掛けられることを恐れて尻込みした。そこに一人の老女が現れて、私が連れてきますと請け負う。娼館のやり手婆だ。若さと美貌を誇る女たちを大勢引き連れて森に行き、自分の娘を派遣する。

リシュヤシュリンガは女の姿を見たことがないので、男の苦行者だと思って向かい入れると、果物や酒で饗応され、毬で遊び、抱きつかれ接吻される。帰った後に恋煩いに陥る。

その事、神の子のように美しい、髪を編んだ梵行者が来た事を父に告げる。その乳房や臍、脇腹や戯れの描写がポルノまがいで聞かせ所である。マハーバーラタは簡潔な韻文だが、おそらくサンスクリット語原文の朗唱者は、地方語で解説しながら身振りを交えて語ったのだろう。

そして父が、それは羅刹だから近づいてはならぬと諭す。しかし、父親不在の間に連れ出し、船に乗せて国王の下に連れて行くと雨が降った。王は喜んで一人娘のシャーンターをリシュヤシュリンガに嫁がせ、それを見た父親も満足してめでたしとなる。父親は結婚を認めたものの、息子が出来たら再び森に帰れと命じた。

跡継ぎの息子が出来ると妻と共に森に帰った。山あり谷あり繁みありの物語だが、四住期の学生期、家長期から林住期に入り、やがては北方のヒマラヤを目指して遊行するというバラモン的な規範を示しているように思える。

500人の美女が森の庵に

鳩摩羅什訳とされる仏典の大智度論巻17に描かれる物語は、これを翻案したものと思われる。娘のシャーンターの名はヴァーラーナシーに住むガニカー、扇陀の名となっている。

ヴァーラーナシーの国王が一角仙人の呪詛を止めるため、五神通を喪失させる事の出来る者を募る。すると比類のない美女のシャーンターが、およそ人である限り落とせない事はないと応募した。500台の鹿車を買い揃え、500人の仲間の美女を集めて森に向かった。様々な強壮剤の丸薬に色を塗って果物のようにする。酒を水と思わせて飲ませようとする。

ガニカーたちは樹皮や草をまとって森を歩き、仙人のごとくに振る舞い、一角仙人のそばに庵を結ぶ。仙人がそれを見つけると500人の美女が花と香で彼を出迎えて饗応する。この庵に住むように勧め、皆で互いに身体を洗う。つまりこすりつけるわけだ。そして、なるようになって五神通を失うと、七日七夜にわたって大雨が降った。

用意した酒も果物も尽きたので王都に向かう。一角仙人は宮殿に住むことになるが、五欲の楽しみを得ても森の閑静な暮らしが忘れられない。森に帰るといって修行し直し、再び、神通力を取り戻すことが出来たという話になっている。

500人の娼婦が森に押しかけて苦行者を誘惑する、簡素なはずの森の庵がハーレムに変わるという面白い話が、なぜ映画にならなかったのかと思う。インド映画にポルノはないが、寺院の彫刻や仏典にポルノまがいがあるのは興味深い。

一角仙人の姿はバールフットにも描かれ、マトゥラーやガンダーラにもある。前2世紀頃にはインド中で様々なヴァリアントが面白おかしく語られていたのだろう。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年11月1日水曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑩

ボバニプル(5)

カルカッタの北から南に移ったせいで、父方の親戚一族との繋がりが減ったとはいえ、ドンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの二番目の弟) (1) と下の叔父さん(父シュクマルの末弟、シュビモル・ラエ(1) は、しょっ中、ぼくらの家にやって来た。ドンお祖父ちゃんは、その頃、コナン・ドイルの小説をベンガル語に翻訳していた。服装は白人サヘブ風、ボルコト・アリ(2) の店からスーツを仕立て、夕方、外出する時には、ネクタイをつけた。市電の月ぎめ定期券を持っていて、週に少なくとも3回は家にやって来た。

ボバニプルに住んでいる時に、ドンお祖父ちゃんの口から、『マハーバーラタ』全巻の物語を聞いた。1日に1章ずつ。その中のある特別な出来事を、少なくとも4回以上、お祖父ちゃんに語ってもらった。ぼくには、その頃、その物語が、『マハーバーラタ』の中で、何よりも胸をドキドキさせる出来事だったのだ。クルクシェートラの戦い(3) の場面の、ジャヤドラタ殺戮のくだりだ。ジャヤドラタはクル一族の偉大な勇者だった。アルジュナは、さんざん力を注いだのだが、どうしても彼をやっつけることができない。この日、彼は、ジャヤドラタをやっつけることができなければ、自分が火に焼かれて死ぬことになると、誓いを立てた。この誓いのことは、クル一族の耳にも入った。戦いは日没まで続く。日没の時が近づいたけれど、その期に及んでも、アルジュナは、どうすることもできないでいた。この時、アルジュナの戦車に乗っていたクリシュナ神は、マントラを唱えて四囲を暗闇で覆い、太陽を隠した。クル族の人びとは、日が暮れたと思い込んで戦いの手を緩める。アルジュナは、その隙を狙って一枚の円盤を放ち、ジャヤドラタの首を刎ね飛ばした。

ところが、それでも困ったことがあった。ジャヤドラタの父ヴリッダクシェトラ王は、息子が生まれた時、神からのお告げで、息子の首が、将来、戦場で刎ねられることになるだろうということを、知ったのだ。ヴリッダクシェトラ王は、その時、刎ねられた息子の首が地上に落ちた瞬間、その首を地上に落とした人の首も散り散りになるようにとの、呪いをかけた。このことを知っていたクリシュナ神は、アルジュナに警告していた –– ジャヤドラタの首が地面に落ちないよう、気をつけろ。もしそんなことになれば、おまえの首も散り散りになるぞ、と。それで、アルジュナはまず、一枚の円盤でジャヤドラタの首を刎ねると、それが地面に落ちる前に、さらに6枚の円盤を次々に投げてそれを虚空に飛ばし、遥か彼方でジャヤドラタを加護する苦行に耽っている老いた父親、ヴリッダクシェトラ王の膝の上に落としたのだ。ヴリッダクシェトラが、自分の息子の首を膝の上に見てぎくりとし、立ち上がったとたん、刎ねられた首は地面に転げ落ち、それと同時に彼自身の首も裂けて散り散りになってしまう。

ドンお祖父ちゃんの口から『マハーバーラタ』の物語を聞いたように、下の叔父さんの口からは、お化けの話を聞いた。この叔父さんについては、短い言葉で言い尽くすことはとてもできない。なぜなら、叔父さんのような人が他にいるとは、とても思えないからだ。

叔父さんはシティー・スクール(City School)(4) の先生だった。短いドーティ、半袖のパンジャビ、肩にはショール、手には傘、そして足には茶色の布製の靴 –– これを見れば、その職業は想像できた。結婚はしなかった。独身だったせいで、たぶん、歩いたりバスに乗ったりして、あちこちに散らばっている親戚たちの家に行って、彼らの消息を得るのが叔父さんの仕事だったのだ。ぼくらの、散らばりまくったラエ家の人たちを残らず知っていたのは、叔父さんだけだったと、ぼくは信じている。

面白い人間だと、その人が見る夢の数々も面白いものになるのだろうか? 叔父さんの夢の話を聞くと、そう思えたのだ。一度、こんな夢を見たことがあったそうだ –– ある場所で、盛大に、キールタン(5) が歌われている。しばらくそれを聞いていて、その歌の文句が、次のたった一行の繰り返しだったことがわかった –– 「真実(まこと)に 茄子(なす)は 燃える」 どうやってこの一行が歌われていたかを、叔父さんは、自分で歌って聞かせてくれた。別の夢では、カルカッタの街頭を、行列が行進している。人間じゃなくて、猿の一隊だ。手に布の旗を持ち、スローガンを叫びながら歩いている –– 「力を! 力を! 阿片に、もっと、力を!」

親戚の多くを、叔父さんは、自分でつけたあだ名で呼んでいた。それだけではなく、彼らについて何か話そうとする時にも、そのあだ名を使った。繰り返し叔父さんの口から聞いたせいで、そうしたあだ名に、ぼくらはすっかり慣れ親しんでしまった。ドンお祖父ちゃんは「ディダックス(Dedux)」、二番目の義理の叔父さん(Arun)は「ボロイド(Voroid)」、ドンお祖父ちゃんの娘トゥトゥ叔母さんは「ワン(Wang)」、息子のパンク叔父さんは「ゴグリル(Gogril)」、父方の従姉妹ニニ姉さんとルビ姉さんは「大クシュム・プア」と「小クシュム・プア」、「稲妻かみさん」が母さんで、「ヌルムリ」がぼくだった。いったいいつ、どうして、どのようにしてこうしたあだ名がつくことになったのか、誰も知らない。一度、義理の叔父さんの名前がどうして「ボロイド」なのか、訊いたことがある。叔父さんは真面目くさった顔をして答えた、「あの人は、とても早起きだからな。」(6) 自分では特に際立つほど宗教心が厚いわけではなかったけれど、聖者・修行僧たちに対して、叔父さんは、ごく自然な好奇心を抱いていた。そうした人びとの伝記を読み、その中で叔父さんが尊敬を払っている人がいると、その人が街に来れば出向いて会ってきたものだ。ティッボティ・ババ(6) 、トロイロンゴ・シャミ(7) 、ビジョエクリシュノ・ゴッシャミ(8) 、ショントダシュ・ババジ(9) 、ラムダシュ・カティア・ババ(10)   –– こうした聖者たちについて、叔父さんの口から、どんなにたくさんの話を聞いたことだろう。

独り身で、自由気儘に生活し、僅かなもので満ち足りていたので、叔父さんを見ていると、時々は世捨て人のように思えたのだ。それに、叔父さんには、ふつうの人には滅多に見られないような、いくつかの性癖があった。口に入れた食べ物を32回噛む習慣については前に述べた。朝、顔を洗う時には、鼻から水を吸い込んで口から出すのが、しばらく続いた。これを「ナーキー・ムドラー(鼻の印)」(11) と言う。この他に、「カーキー・ムドラー(カラスの嘴の印)」というのもあったけれど、それがどんなものか、覚えていない。夕方に、「シャヴァーサナ(屍体のポーズ)」でしばらく横たわり、そのすぐ後、傘を持って外出した。

食事、休息、仕事、外出、おしゃべり –– こうしたすべての合間合間に、叔父さんは日記をつけていた。こんな日記を書いた人は、かつてどこにもいなかった、と断言できる。そこには、朝新聞で読んだ大事件の見出しから始まり、ほとんど一時間毎に、何をしたか、何を読んだか、何を食べたか、どこに行ったか、何を見たか、誰が来たか –– こうしたすべての描写。汽車に乗って出かけた時には、汽車のエンジンがどんな「型」か、それも書き留めた。エンジンにいろいろな種類があることを、ぼくは叔父さんの口から初めて知った。XP, HPS, SB, HB –– こうしたのが、その「型」の名前だった。当時の蒸気機関車のエンジンの横に、これが書かれていた。どこかに出かけなければならなくなると、叔父さんは、少し早めに駅に現れるのが常だった –– 車室に荷物を置くと、さっさと外に出て、エンジンがどの「型」か、調べなければならなかったから。もし何かの理由で来るのが遅くなると、最初の大きな駅に着くや、すぐに車室から出てその仕事を済ませて来るのだった。

叔父さんの日記は、四色の違った色で書かれた –– 赤、青、緑、そして黒。一つのことを言うのに、この四色全部を使うのが、日記の中によく見られた。色を交代させる決まりがあるらしかったけれど、いつになっても、ぼくには、それがはっきりとはわからなかった。わかったのは、自然描写が緑のインクで書かれ、名詞には赤いインクが使われたことだ。たとえば、「今日はひどい雨だった。マニクの家に行けなかった。」という二つの文があるとすると、最初の文は緑色のインク、二番目の文の最初の2語は赤で、残りは黒か青。寝台の上に四つ足のテーブルを置き、その上に色付きインクと筆を並べ、すごく集中して日記を書いている叔父さんの姿は、見るに値する光景だった。

もう一つ、日記について、どうしても言っておかなければならないことがある。

叔父さんは、食いしん坊ではなかったけれど、食べたり飲んだりはとても好きだった。毎日、あちらこちらの家に出かけて、そこで紅茶を飲むのが、特別の楽しみだった。日記にもこのことが書かれたけれど、ありきたりの書き方ではなかった。飲んだお茶について形容詞が付けられ、その形容詞の括弧付きの説明がその後に続いた。

一ヶ月の日記の中から、12の例を挙げる。これを見れば、それがどんなものか、わかってもらえるだろう。

(1) 人獅子(ヌリ=シンハ)(12) 向き茶(勇壮果敢、雄叫びを上げさせる、刺激性の茶)

(2) 信愛派(ヴァイシュナヴァ)(13) 向き茶(従順で、甘美で、柔和な、非暴力茶)

(3) ヴィヴェーカーナンダ(14) 向き茶(カルマ=ヨーガへの意欲を高め、弁舌増進、真理への情熱を与える茶)

(4) ボッタチャルジョ(15) 向き茶(学識増進、威厳を与える、刺激の少ない、心温まる茶)

(5) ダヌヴァンタリ(16) 向き茶(治癒力を高め、長寿・健康を増進させる茶)

(6) 監視人向き茶(注意力増進、精神高揚、眠気覚ましの茶)

(7) 集会向き茶(人をすっかり夢中にさせる茶)

(8) 書記向き茶(会計簿を見る意欲を増す、ミルクがたっぷり入った、美味な茶)

(9) 警視向き茶(勇猛心を与え、自尊心を高める茶)

(10) 一般大衆向き茶(特徴のない、その場限りの茶)

(11) 聖仙ナーラダ(17) 向き茶(音楽への愛を増進させ、真理の知恵を授け、献身への情感を呼び覚ます茶)

(12) ハヌマーン(18) 向き茶(信頼増進、障害の海を乗り越える力を与え、勇気をもたらす茶)

 

 

訳注

(注1)『ぼくが小さかった頃』③参照。

(注2)Barlat Ali & Pros、1910年創業。カルカッタで最も有名な洋服の仕立て屋。

(注3)『マハーバーラタ』のクライマックス、パーンダヴァ族とクル族の決戦場。アルジュナは、クリシュナ神の加護を受けたパーンダヴァ族の王子。

(注4)カルカッタ大学の学部レベルの教育機関City Collegeは、ブラーフマ協会の管理の下、1881年に創設された。その下にある中高レベルの学校。

(注5)ヒンドゥー教の神を、集団で歌い讃える讃歌。特に信愛派(ヴァイシュナヴァ)のヴィシュヌ神・クリシュナ神を讃えるキールタンは、ベンガルで広く行われている。

(注6)Tibbati Baba/Tibbeti Baba(?~1930) 「チベットの聖者」の意。東ベンガル(現バングラデシュ)シレート地方出身のベンガル人聖者。ヒンドゥー教ヴェーダンタ学派の理論と大乗仏教を結びつけたと言われる。チベット式の修行をしたことからこの名がある。

(注7)Trailanga Swami (1607~1887) 言い伝えでは280年生きたと言われる、アンドラ州生まれの聖者。後半生のほとんどを、ワーラーナシーで過ごした。

(注8)Bijoy Krishna Goswami (1841~1899) ベンガル近代の宗教改革者。ブラーフマ教の信者だったが後に信愛派に転じた。

(注9)Santadas Kathia Baba (1859~1935) 東ベンガルシレート地方出身の信愛派行者。Ramdasji Kathia Baba(注10)の一番弟子。

(注10)Ramdasji Kathia Baba (1800~1909) パンジャブ州出身の、著名な信愛派行者。

(注11)「ジャラ・ネーティ(鼻の洗浄)」の誤りと思われる。「ムドラー(手印)」は瞑想修行時に、手・指で結ぶ、象徴的なジェスチャーのこと。

(注12)ヴィシュヌ神の十化身のひとつ。ライオンの頭を持つ獣人。ヴィシュヌ神に逆らうアスラ族のヒラニヤカシプを退治した。

(注13)ヴィシュヌ神・クリシュナ神への信愛を説くヒンドゥー教の一派

(注14)Swami Vivekananda (1863~1902) インド近代の代表的な宗教・社会改革者。ヴェーダンタ哲学とヨーガ理論を初めて西欧社会に本格的に紹介した。カルマ=ヨーガ(人々への献身の実践を通して、悟りに至る道)を説いて、インドの愛国主義・社会改革の発展に、大きな影響を与えた。

(注15)ベンガルの高位バラモンの姓。「博識な教師・学者」の意。

(注16)神々を治療する医者

(注17)古代インドの伝説上の仙人。楽器ビーナの発明者とも言われる。

(注18)『ラーマーヤナ』で、ラーマに忠誠を尽くした猿の従者。ラーマ王子とともに、海を越えてスリランカに住むラーヴァナ一族と戦った。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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