カルカッタの外で(1)
ゴルパルからボバニプルに移ってから2, 3年の内に、母さんは、寡婦たちの学校、ビッダシャゴル=バニボボン(1) に職を得た。そのため、母さんは、バスに乗って、毎日、あのゴルパルのすぐそばまで、出かけなければならなかった。ぼくの教育の責任も、その頃は、母さんの手にあった –– ぼくは、9歳になるまで、学校に通わなかった。夏とプージャーに母さんが休みになると、ぼくらは二人で、時々気分転換に、カルカッタの外に出かけた。
その前の、ゴルパルにまだ住んでいた頃、父さんが亡くなった後、何度か外に出かけたことがあった。そのうちの二度のことが、少しだけ記憶に残っている。
一度、ラクナウに行って、何日か、母さんの母方の従兄弟オトゥルプロシャド・シェン(2) の家に、またさらに何日か、オトゥルプロシャドの姉妹チュトゥキ叔母さんの家に、滞在した。オトゥル叔父さんの家では、歌や楽器の音楽がすごく盛んだったのを覚えている。オトゥル叔父さんは、自分でも歌を作詞作曲した。その歌を母さんに教えると、母さんが持っていた黒いノートに、それを書きつけた。その頃、ロビ・ションコル(3) の師匠アラウッディン・ハーン(4) が、オトゥル叔父さんの家にいて、時々ピアノを弾いていた。ある日、当時有名だった歌手、シュリークリシュナ・ラタンジャンカール(5) がやって来た。彼が、有名なバイラヴィー=ラーガ(6) の曲、「バヴァーニー=ダヤーニー(慈悲深いバヴァーニー女神)」(7) を歌って聞かせてくれたのを覚えている。この歌を元にして、オトゥル叔父さんは、「ほら、あの方が私を呼んでいる」を作曲したのだ。
ある日、オトゥル叔父さんと母さんに連れられて、ぼくはある講演を聞きに行かなくてはならなかった。古典歌曲についての話だった上、英語での講演だったので、ぼくは何度も眠くなってコックリを繰り返した。その後、それが失礼にあたると思って(あるいは母さんに叱りつけられて)、無理に真っ直ぐ背筋を伸ばしてすわり、目を開いたままにしようと努めた。その時のぼくに、その講演をしていた人が、ビシュヌナーラーヤン・バートカンデー(8) という名前で、この人ほど音楽に精通している人が、インドに生まれたことは滅多になかった、などということを、どうして知ることができただろう?
チュトゥキ叔母さんの家では、あまり楽しくなかった。というのも、その旦那さんのランガム=デーシカーチャール=シェーシャードリは、マドラス出身で、その3人の子供たち、つまりぼくの従兄姉にあたるアマル・ダー、クントゥ・ディー、ラマル・ディーの、誰もがベンガル語を知らなかったのだ。ぼくはそれで、ほとんどの間、彼らが英語でまくし立てるのを、口をつぐんだまま聞いていなければならなかった。ただ一度、夕暮れ時に「幸せ家族」という名前のゲームをする時だけ、彼らの仲間入りをすることができた。
この時のラクナウ行きには、ぼくらと一緒に下の叔母さんも同行した。行く時か帰る時か覚えていないけれど、母さんと叔母さんは、インタークラス(9) の女性用車両に乗った。その車両に空席がなかったので、何とかぼくを、隣の二等車両に割り込ませた。乗ってみると、車両の中は、紅顔の白人サヘブとメームサヘブで溢れかえっている。ぼくの胸はドキドキが止まらない。口から言葉は出てこないし、もう乗っちゃったあとで、汽車は動き出し、降りることもできない。仕方なく、黙りこくったまま、隅っこの床の上に一晩中すわっていた。たとえサヘブたちがぼくをすわらせようと思ったとしても、ぼくにはその英語を理解する力がなかった。でも彼らは、ぼくなんかには、見向きもしなかったんだと思う。
ラクナウには、その後も何度か行く機会があった。母方の2番目の叔父さんがそこの弁護士だった。叔父さんの息子、モントゥとバッチュは、二人ともぼくより歳下だったけど、いい遊び相手だった。ラクナウの街にも惹きつけられるようになった。太守(ナワーブ)の街の「大(バラー)イマームバーラー」、「小(チョーター)イマームバーラー」、「チャタル・マンジル」、「ディルクシャー庭園」 –– こうしたすべてが、ぼくの心をアラビア小説の世界に連れて行った。何よりも驚いたのは、「大(バラー)イマームバーラー」の中にある迷路、ブルブライヤー。中に入ったら、ガイドがいないと、もう出ることができない。ガイドの話では、一度、ある白人兵士が、自信たっぷりに、一人で迷路の中に潜り込んだ。その後、外に出る道が見つからなくて、そのままそこに入ったまま、食べるものがなくて飢え死にしたのだそうだ。「イギリス総督邸」の崩壊した壁には、大砲の弾で抉られた痕があり、「シパーヒーの乱」(10) の様相を目の当たりにすることができた。大理石の板にはこう書かれていた –– 「この部屋で、某日の某時間に、大砲の砲弾を浴びて、ヘンリー・ローレンス卿(11) が死んだ。」 歴史が目の前に浮かんできた。このラクナウを、後に、ぼくは物語や映画の背景に使った(12) 。子供の時の追憶が、ぼくの仕事をずいぶん楽にした。
最初にラクナウに行ったすぐ後、母さんと一緒にシャンティニケトンに行った。その時は3カ月あまり滞在した。その時のぼくの遊び相手は、ロティンドロナト(詩聖タゴールの長男)(13) の養女プペだった。ぼくとほとんど同年齢だった。毎朝プペがやって来て、ぼくらの小さな小屋で1時間ほど遊んだ後、帰って行った。当時のシャンティニケトンは、四囲に遮るものがなく、修道場のある場所から南側に出ると、目の前には、地平線まで「コワイ(赤土の原野)」が広がっていた。満月の夜、ぼくらは「コワイ」まで散歩に出かけた。母さんはそこで、声を限りに歌を歌った。
母さんがちっちゃなノートを一冊買ってくれたので、ぼくはそれを持って、時々芸術学部まで出かけた。ノンドラル・バブー(14) は、そのノートに、ぼくのために4日間で4枚の絵を描いてくれた。鉛筆書きで牛と豹、絵の具を使って熊と縞入りの虎。虎を描いた時には、最後に尻尾の先に絵筆をなすって、黒く塗りつぶした。「どうして尻尾が黒いの?」と聞くと、ノンドラル・バブーは答えた、「この虎は、すごく食いしん坊でね。ある家の台所に、肉を盗もうとして入り込んだ。その時、火を焚きつけた竈(かまど)の中に、尻尾の先が入ってしまったんだよ。」
訳注
(注1)Vidyasagar Bani Bhavana 1925年創立。寡婦や社会的に困難な立場にある女性たちの自立を助ける目的で設立された。のちに、初等教育の教師を養成する学校になった。
(注2)Atul Prasad Sen (1871~1934) ラクナウ在住の著名な職業弁護士。ベンガル語近代歌曲の代表的な作詞作曲家、また歌手として知られる。愛国歌、祈りの歌、愛の歌を含む、計208曲が残されている。
(注3)Ravi Shankar (1920~2012) 著名なシタール奏者。
(注4)Alauddin Khan (1862?~1972) 伝説的な北インド音楽の奏者・作曲家。著名なサロド奏者のAli Akbar Khan (1922~2009) はその息子。またRavi Shankar (注3)は娘婿。
(注5)Shrikrishna Narayan Ratanjankar (1899~1974) ビシュヌナーラーヤン・バートカンデーの弟子で、北インド古典音楽(アーグラー派)の著名な作曲家・理論家。
(注6)Bhairavī Rāga 「ラーガ」はインド古典音楽の旋律型。その旋律型の枠組みに則り、定められた時間・季節に、その時々の情調(ラサ)を表現する即興演奏を行う。バイラヴィーは、夜明けの情調を伝える代表的なラーガ。哀切な情調で知られる。
(注7)Bhavānī Dayānī 「バヴァーニー」はパールヴァティーないしドゥルガー女神の別名。ビシュヌナーラーヤン・バートカンデー(注8)作詞作曲による作品で、ドゥルガー女神の讃歌として名高い。
(注8)Vishnu Narayan Bhatkhande (1860~1936) インド古典音楽に関する、最も著名な研究家・教育者。
(注9)当時のインドの汽車は、1等、2等、インタークラス(2等と3等の中間クラス)、3等にわかれていた。1等は最上級クラスで、2等も車室毎に分かれており、白人客は、おもに1等か2等に乗車した。
(注10)イギリス軍のインド人傭兵(シパーヒー)の反乱をきっかけに、1857年から58年にかけてインド各地で起きた、英国支配に対するインド人の最初の大掛かりな反乱。現在では「インド大反乱」、「第一次インド独立戦争」などと呼ばれる。
(注11)Sir Henry Montgomery Lawrence (1806~1857) イギリス人の軍官、司政官。アウド王国の長官の時、インド大反乱が起き、ラクナウの守備に当たるが、総督邸にて反乱軍に殺される。
(注12)ラクナウは「探偵フェル・ダー」シリーズの第2作『皇帝の指環』(1966)の舞台。また、映画『チェスをする人』(1977)の舞台でもある。
(注13)Rathindranath Tagore (1888~1961) 詩聖タゴールの長男。子供がなく、1922年、グジャラート出身の女児ノンディニ(愛称プペ)を養女に迎える。
(注14)ノンドラル・ボシュ(Nandalal Bose, 1882~1966) インド近代を代表する画家。ビッショ=バロティ大学の芸術学部長。レイは、のちに2年間ビッショ=バロティ大学に在学し、ノンドラルの教えを乞うことになる。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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