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2024年2月26日月曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑬

カルカッタの外で(3)

カルカッタの外での休暇で、どこよりも楽しく過ごせたのは、父方の2番目の叔母さんの家だった。義叔父さんは、州の副行政官だった。職場はビハール州。勤務地はしょっちゅう変わった –– ハザーリーバーグ、ダルバンガー、ムザッファルプル、アラー (1) –– こんな具合に、あっちこっち回るのが仕事だった。ぼくが最初に叔母さんを訪れた時は、ハザーリーバーグに住んでいた。叔母さんには、ニニとルビという二人娘がいて、その他にも、両親を亡くした従兄姉のコッランとロトゥがいた。みんなぼくより歳上だったけれど、誰もがぼくの友達だった。

ハザーリーバーグには、この後も、さらに何度か行った。最初に行った時、覚えているのは、義叔父さんに、緑色のオーヴァーランド車 (2) があったこと。その頃の車の、ちっぽけで不恰好な姿を見れば、今時の人たちはおかしく思うだろうが、このオーヴァーランドがどんなに強力で、どんな困難に出会っても、いかに車としての務めを立派に果たしてきたか、その話を義叔父さんの口から聞いたものだ。

まさしくこの車に乗って、ぼくらはラジラッパー (3) に行ったのだ。ハザーリーバーグから40マイルほど離れていて、ベラー川を渡り1マイルあまり歩くと、ラジラッパーに着く。そこには、寒気を覚えるほど無気味なマハーヴィディヤー女神の寺院 (4) があり、それを囲むようにして、ダーモーダル川の滝と砂岸、彼方に森や山を望む、驚くべき風景が広がっていた。

帰り途に、ブラーフマンベーリアの山裾で、車が故障した。その山には虎や熊がウヨウヨしているとのことだった。でも、車を修理するうちに夜になったけれど、虎や熊の姿を見ることはなかった。

車でどこかに行く計画がない時は、夕方、みんなと一緒に散歩に出かけた。食事の時間の直前に家に戻った。ランタンや灯油ランプのチラチラする明かりの下で、お話やゲームに、すっかり熱中した。カード遊びは、「鏡と金貨」と「盗人ジャック」 (5) 。「盗人ジャック」は誰でも知っているけれど、「鏡と金貨」は、その後、やっている人を見たことがない。それに、それがどんなゲームだったかも、今となっては思い出せない。

他の遊びの中で、もう一つ面白かったのは、「囁き遊び」。五人が丸く輪になってすわる。一人がその左隣の人の耳に、一つの言葉をヒソヒソと囁く。一度だけしか言っちゃいけない。その一度だけ聞いた言葉を、その人はそのまた左隣の人の耳に囁く。こうして耳から耳へと伝わった言葉が、初めの人のところに再び戻ってくる。この遊びの面白さは、最初の言葉が、最後にどんな言葉になってしまうか、にある。ぼくは、最初、左の人に「財産無しの、10人息子(ハラドネル・ドシュティ・チェレ)」と囁いたことがある。それが最後にぼくの耳に戻ってきた時には「でっかい耳に、象が笑う(ハングラカネ・ハティ・ハンシェ)」になっていた。10人以上になれば、この遊びはもっと面白くなる。

ハザーリーバーグの次はダルバンガー、その次はアラー。この二つの場所は、どちらも、ハザーリーバーグに比べれば大したことはないけれど、だからと言って、楽しいことに変わりはなかった。この時までに、ニニとルビのもう一人の従妹、ドリがやって来たので、遊び仲間がまた一人増えていた。

ダルバンガーの家は、ものすごく大きな敷地を持った、バンガローのような平屋だった。敷地の一方には背の高いシッソー紫檀 (6) とマンゴー、その他にも、いったい何本の木があったことか。家の左側の空き地には、もう一本、大きなマンゴーの木があった。そこにはブランコが吊るされていた。

ぼくらが行ったのは雨季だった。雨が一頻り降った後、ブランコが下がった木の下の、草のない地面の狭い水路や溝を通って、雨水が勢いよく走り、ドブの中に落ちた。ぼくらは紙の船を作って、溝の水面に漂わせた。溝は、いまや川となる。船は川の流れに乗り、ドブの海の中に落ちる。

この船が、時にはヴァイキングの船になることもあった。千年前、ノルウェイには海賊がいて、ヴァイキングと呼ばれていた。ぼくらは、ヴァイキングの誰かが船に乗ったまま死ぬと、その屍を船の上で焼くのだ、と想像した。紙で海賊を作り、紙の船の上にそれを寝かし、その顔に火をつけて船を雨水の中に解き放った。これがヴァイキングの葬式だった。もちろん、船も、ヴァイキングもろとも、燃えてしまった。

アラーへ行ったのは、ぼくが9歳の時だ。義叔父さんの家は、赤煉瓦の宏大な屋敷だった。真ん中の庭を囲んで、随分たくさんの部屋があった。思い出す限り、その内のいくつかの部屋は、使われてもいなかった。二階にもいくつか部屋があって、その内の一つが義叔父さんの作業室だった。屋敷の広さに見合った庭もあった。

コッラン兄(ダー)は、ぼくより6歳以上歳上だったけれど、ぼくの特別の友達だった。切手を集めていた。兄さんを真似て、ぼくも収集を始めた。ヒンジ (7) を買い、トゥイーザー (8) を買い、虫メガネまで買った –– 切手に印刷の間違いがないかどうか、見るために。間違いがあれば、その切手の価値は、すごく高くなる。国内のものも、外国のものも、切手が手に入ると、すぐに虫メガネを目に当ててそれを見た。 –– いいや、こいつには何の間違いもない –– こいつにも、だ –– こんな調子で、どんな切手にも、一度も間違いを見つけることはなかった。それがたぶん理由で、しまいには飽きて、収集するのをやめてしまった。

コッラン兄には、もう一つの役割があった –– そのことを、ここで話しておく必要がある。

クリスマスというものに、子供の頃から惹かれていたことは、前に述べた。サンタクロースという髭を生やした老人がいて、クリスマスの前夜に幼い子供たちの部屋に入って、寝台の枠に吊るされた彼らの靴下の中を、おもちゃでいっぱいにする –– このことを、ぼくはたぶん、そのまま信じていたのだ。

2番目の叔母さんの家での楽しさときたら、他のどことも、比べようもない。なのに、この楽しさからクリスマスが除外されるなんてことが、どうしてあり得よう? それが12月である必要が、どこにある? クリスマスが何月にあったって、いいじゃないか!

こういうわけで、アラーでは、6月に、コッラン兄がサンタクロースになったのだ。ぼくの寝台の枠に靴下が吊るされた。夜、ぼくは眠ったフリをして、寝床の中に入っていた。コッラン兄は、綿を顎髭と口髭に見立てて、顔に糊でくっつけた。背中には袋を担がなけりゃならない、なぜなら、その中に贈り物が入っているから。それに、サンタクロースがやって来ることを、知らせる必要がある。それで、袋の中には、他の物と一緒に、いくつもの空き缶が突っ込まれていた。

半時間ほど黙って横になっていると、ジャンジャン、ジャンジャン、音が聞こえた。

その少し後、半分閉じた目で薄闇を見透かすと、サンタクロースの服を着込んだコッラン兄が、袋をぶら下げて入って来て、寝台の枠の側で立ち止まった。そして、そのすぐ後に続くカタコトいう音で、ぼくの靴下の中に何かを入れているのがわかった。何もかもが作り事なのは自分でもわかっていたけれど、それでも、楽しいことといったら、なかった。

その時は、ぼくらがアラーに滞在中に、ドンお祖父ちゃんもやって来た。ぼくら兄弟姉妹はみんな揃って、夕方、お祖父ちゃんと一緒に外出した。アラー駅は、ぼくらの家から1.5マイルほど離れていた。ぼくらは、駅のプラットフォームに立って、日が暮れようという頃、インペリアル急行 (9) が、あたり一帯を震撼させて、ぼくらの前を汽笛を鳴らしながら走り去るのを見た。この巨大な汽車の客車の外側は薄黄色で、その上は黄金色の模様で飾られていた。他のどんな汽車にも、こんな派手さ、豪勢さはなかった。

ある日、みんなで駅の方に向かって歩いていた。お祖父ちゃんはフェルトの山高帽をかぶり、手にステッキを持って、完全に白人サヘブ風の服装で、ぼくらを従えて進む。そんな時、どこからか、一頭の牛が、角を振りかざし目を赤くして、ぼくらに向かって駆けて来た。こんな獰猛な牛を、ぼくはそれまで見たことがなかった。お祖父ちゃんは即座に言った、「おまえたち、畑の中に下りるんだ!」

畑に下りようとすれば、センニンサボテン (10) の柵を越えなければならないのだが、お祖父ちゃんは、そこまでは気が付かなかった。ぼくらも、だ。センニンサボテンの藪を抜けて、畑に下りた。棘に引っ掛かって手足がどれだけ傷ついたか、その状況下では、そんなことに気づく余裕すらなかった。ぼくらは藪の隙間から、息を呑んで見つめていた –– お祖父ちゃんは、牛の方に向かって両足を広げて立ち塞がると、手に持ったステッキを飛行機のプロペラのようにブンブン振り回す。牛の方も、角を振りかざして2メートルばかり離れた場所に立ち止まり、この奇妙な人間の奇妙な振舞いを目にして、釘付けになっている。

ドンお祖父ちゃんのこの威勢の良さを目にして、さすがの気狂い牛も、ものの1分と我慢することができなかった。

牛が立ち去ると同時に、ぼくらは勇気を奮って、それ以上身体を傷つけないように気をつけながら、藪の蔭から出て来た。

 

訳注

(注1)ハザーリーバーグとダルバンガーは、現在のジャールカンド州。また、ムザッファルプルとアラーは、現ビハール州にある。

(注2)アメリカの自動車製造会社。1903年に創立。

(注3)ハザーリーバーグの南東65 kmに位置する、ヒンドゥー教の聖地。ベラー川がダーモーダル川と合流する地点に、大きな滝がある。

(注4)ヒンドゥー教性力(シャークタ)派の聖地。マハーヴィディヤーは、シヴァ神の妻サティー女神の10の化身の総称。シヴァ神が怒りにまかせて、死んだ妻サティー女神の骸を抱えて踊った時、そのバラバラになった身体部位がインドの51箇所に落ちた。ラジラッパーはその一つで、サティー女神の首が落ちたと伝えられる。

(注5)4枚あるジャックの一枚を抜き、残りのカードをプレーヤーに均等に分配する。互いにカードを取り合い、同じ数字のカードが2枚揃うと除いていく。最後にジャック一枚を手元に残した人が盗人(負け)となる。

(注6)英名 Bombay rosewood マメ科の落葉高木。高いものは20mを超える。円形の滑らかな葉をつける。材は美しい濃褐色か紫褐色で非常に硬く、高級家具やタブラーの胴等に使われる。

(注7)切手を直に触れるのを避けるため、切手の裏に貼り付ける、蝶番型の紙片。容易に貼ったり剥がしたりできる。

(注8)切手をつまむためのピンセット。

(注9)ボンベイ港とカルカッタの間を、郵便物と、限られた人数の一等乗客を運ぶために運行した、急行列車。1897年に始まり、1926年からは新しい車両が設置され、インドで最も豪華な汽車となった。ボンベイーハウラー(カルカッタ)間を、片道40時間前後で往復した。

(注10)サボテンの一種、2メートルほどの高さに生育する。黄色や赤みがかった花を咲かせる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年2月14日水曜日

天竺ブギウギ・ライト⑨/河野亮仙

第9回 インド祭の時代


もう古い話になるが、1988年にインド祭があった。ヨーロッパで製造したエアバスをインドが買って、そのお礼としてインド祭を始めたとか聞いた。英仏米ソ連に次いで、景気の良い日本でもやってもらおうということになったのだろう。


具体的には1985年のラジーヴ・ガンジー首相来日時に、中曽根首相と合意したものらしい。開催時は竹下首相。三井銀行の小山五郎が日本委員会の委員長となり、財界に声を掛けて基金を募った。それが楽にできた時代だった。


ちなみに、日本アマチュアカバディ協会ができて初の全国大会を行ったのは翌年の平成元年1986年だったが、その時も大手企業が協賛して広告を出してくれた。いつの間にか撤退して、今は年度末には現金が底をつく。


インド祭日本委員会事務局長は松本洋で、そこにミティラー美術館の長谷川時夫がボランティアで手伝いますと飛び込んだ。その後長谷川は、ポストインド祭を考える会を結成。考えるだけではなくて全国津々浦々を回って音楽・舞踊イベントを繰り広げた。
http://www.mithila-museum.com/directorTH/data/list_post.pdf


それが今日のナマステ・インディアにつながる。2023年の4月にはナマステ・フランスというイベントが、かつてパリ万博が行われたセーヌ川沿いで開催されたらしい。
https://www.euronews.com/culture/2023/07/04/namaste-france-2023-festival-to-showcase-the-best-of-indias-art-culture-and-cuisine

ソ連のインド祭
資料を探していたら、何と“Festival of India in the USSR”のパンフレットが出てきた。幸い英語版だ。1987年7月から88年7月にかけて開催された。ソ連とインドは昔から仲が良いので日本より大規模に催された。


オープニング・スピーチはゴルバチョフ大統領である。おーっという感じ。クレムリンで行われたと思われるオープニング・アクトがすごい。スブラクシュミー、ビスミラ・カーン、イムラット・カーン、ラルグディ・ジャヤラーマン、チッティ・バブ、パドマー・スブラマニヤム、マニプリーの舞踊団、ヤクシャガーナ、セライケラ・チョウなど。行きたかった。


引き続いて、グル・ケールチャラン、ウマー・シャルマ、ビルジュ・マハーラージ、ヤーミニー・クリシュナムールティ、ショーバー・ナイドゥ、V.P.ダナンジャヤンの豪華舞踊陣、ダーガル兄弟、アムジャッド・アリ・カーン、ハリプラサード・チャウラシア、シヴクマール・シャルマ、ラーム・ナーラーヤン等々のリサイタル。知らない人には単なるカタカナの羅列だが、人間国宝級のお歴々、うらやましくてため息が出る。この時、ソ連は大国だった。今やインドの方が大国だ。

ケーララの諸芸能 
インド祭の準備段階で、オフィス・アジアはクリシュナーッタムを招聘するつもりでいた。これは サンスクリット詩の『ギータ・ゴーヴィンダ』(12世紀)のケーララ版であり、それに舞踊を付けたものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=pTFe0B1F08U


縁結びには『スヴァヤンヴァラ』の場面を、子宝を望む時はクリシュナ誕生の物語を、立身出世を志す者は戦いの場面をリクエストする。グルヴァユールのクリシュナ寺院に、たんまりお布施をして上演を依頼する。八場面に分け、一場を一晩かけてクリシュナの物語を上演する。一晩チャーターするのにいくらと聞いたか忘れてしまった。何ヶ月も先まで予約が入っていたそうだが、今はどうなのだろう。


『ギータ・ゴーヴィンダ』の詩にはラーガとターラの指定があって、詩歌の朗詠というより歌われていた。それに振り付け、舞踊を付けたいと考える人が出てくる。ジャガンナート寺院で演じられていたようだ。伝承は失われ、今のオリッシー・ダンスとは、直接、つながらない。


クリシュナの物語は面白いし、ラーダー達の舞い、ラース・リーラーは見応えがある。しかし、カタカリと同じように化粧を施す、グルヴァユール寺院だけで行われている男子のみによる舞踊劇は、カタカリと何処が違うのかとインパクトがないかもしれない。

古典語劇
クーリヤーッタムは見かけこそカタカリに近い。カタカリ役者はしゃべらないが、クーリヤーッタムは基本的に古典語、インドで伝承されてきた唯一のサンスクリット語劇であり、セリフがある。もっとも聞いて分からないが、ムドラーでサンスクリット語の格変化まで示せるなど、カタカリ以上に複雑な体系を持つ。世界最古の舞踊劇で門外不出、地元の人以外は知らなかった。能や伎楽、歌舞伎との比較で、日本人はこういうのが好き、というか、能楽とともに2008年、ユネスコの無形文化遺産に選ばれている。


クーリヤーッタムもカタカリも基本的には王家がスポンサーであって、その寺院の本尊に向かって奉納する儀礼として上演するのが本来の形だ。大小の王家や富裕な地主や寺院は、それぞれカタカリやそれに類似する緑色に顔を化粧する役者たちを抱えていたのだろう。かつてはラーマナーッタムというラーマーヤナ専門の劇もあった。コーイルとかカブと呼ばれる小規模な寺院を回ってゆく芸能者もいる。


もともとは顔に赤や黄色、肌色の化粧を施す祭祀芸能のテイヤムが古くからあった。ローカルな神格を降ろしてお告げをする、シャーマン的な性格を持つ低カーストの芸能者の祭礼があった。


それをベースにラーマーヤナやマハーバーラタ、プラーナなどの大伝統に取材した舞踊劇を上演するときには、緑を基調とするメイクを施したようだ。例によって何がいつ頃から始められたかは分からない。


テイヤムの萌芽は紀元前後にあるのかもしれない。クーリヤーッタムのようなサンスクリット語劇は1000年以上前から行われていたと思われるが、いつから緑色にメイクしたのかは全く分からない。


顔に化粧を施し、女形の活躍する演劇形態として、歌舞伎とカタカリは早くから西欧に知られ、日本でもしばしばカタカリ劇団は招聘されている。その本家本元?としてクーリヤーッタムを招聘できたのは、まさに、画期的なことだった。


演出家・役者として劇団を率いたG.ヴェーヌは、その後も何回か役者、舞踊家を連れて来日した。ヴェーヌの組織する研究所ナータナ・カイラーリは亡くなられたアマヌール・チャーキヤールが指導していた。
https://www.youtube.com/watch?v=38vY4hqJ7PY


そこにバラタナーティヤムから転向した入野智江が、日本人として初めて飛び込んでナンギヤール・クートゥを習った。カタカリの演者が男だけであるのに対し、クーリヤーッタムの場合、男優はチャーキヤールというバラモンに準じるカーストの男が演じ、女優はナンギヤールと呼ばれる。


チャーキヤール家の女は芸能に関わらず、打楽器奏者であるナムビヤール・カーストの女性がナンギヤールといって女優を務めるのが伝統だ。アランゲットラムという女優デビューのお披露目をしてナンギヤールを名乗れる。ナータナ・カイラーリには岡埜桂子も入門してモーヒニーアーッタムを習い、現地でも公演活動を行っている。ケーララは気候も人々も温暖で、とても居心地のいい所だ。
https://www.youtube.com/shorts/-RUKo75TvNY


岡埜の師ニルマラー・パニッカルはヴェーヌと共にモーヒニーアーッタムの本を著し、単著でナンギアール・クートゥの本を1988年に出した。20年以上本棚に眠っていたが、読んでみるとケーララ舞踊史といってもよい優れた著作だ。


ニルマラーはモーヒニーアーッタムをカラーマンダラム・カリヤーニクッティ・アンマらに付いて習っている。アンマの元には、私の『カタカリ万華鏡』を片手にケーララに向かった安達(渡辺)尚代が飛び込んだ。30年以上前の話だ。元々はオリッシーの故高見麻子と共にかんみなの元でタゴール・ダンスを学んでいた。今も元気に活動中である。モーヒニーアーッタムでは多芸多才な丸橋が賑やかに活躍中。チャーキヤールの元でも修行した話は『おしゃべりなインド舞踊~ケララに夢中』に詳しい。


原初的な芸能
ケーララには地方色豊かな民俗芸能が多く伝承されている。最も原始的な芸能はサルパン・トゥッラルで、サルパンは蛇、トゥッラルはぴょんぴょん跳ねる踊りのこと。カラムといって地面に5色で蛇の絵を描く。梓弓のように弓をビンビン鳴らして、蛇の神を讃える歌を歌う。彼らは放浪の芸人プッルヴァンで、そのオリジンは呪医であるという。
https://www.youtube.com/watch?v=K0NY42Cjq9I


元々は毒蛇に噛まれたときなどの治病儀礼で、蛇さんあんたは偉いと慰撫して緩和処置を依頼するもののようだ。蛇が多産であることから、子宝を望むときにその娘を中心に行った。今では家族の繁栄を願って乙女を選び出す。歌が佳境に入ってくると5匹の蛇の霊が5人の娘に乗り移り、ぴょんぴょん跳ね回って踊り、最後に娘達は地面にのたうち回ってカラフルな蛇の絵を消し、蛇と一体になりお告げをする。


カラリパヤットゥの研究家で実践者でもあるフィリップ・ザリリの奥方デボラ・ネフがその研究をして抜き刷りをもらったが、どこに仕舞い込んだやら。


カラムというのはケーララ寺院の前庭で、カラリパヤットゥのカラリと意味は同じだった。そこで儀礼を行い、子供達は読み書きを習い、武術を鍛錬し、時には祭礼を催した。その多くがバガヴァティー女神の寺だ。


バガヴァティー(バドラカーリー)女神の大きな絵を地面に描いて、女神が魔を滅ぼす劇を演じるムディエットという芸能がケーララの南にある。ムディというのは冠のことだが、やはりカタカリのような化粧をする。カンバセーションの故芳賀詔八郎と話して、世田谷美術館でやろうと企画したが実現しなかった。今となってはできない。惜しいことであるが、今はYouTubeで見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=DNxIKWHvGHc

同じくケーララの南、コチ、クイロンの辺りにパダヤニがある。これも顔を緑に塗るが、椰子で造った仮面を付けたり、大きなかぶり物を付けたりする激しいステップが特徴だ。これは早稲田銅羅魔館の森尻純夫がハヤチネ・フェステイィバルに招聘し、本場の早池峰神楽や韓国のムーダンと競演した。1987年7月のことだった。
https://www.youtube.com/watch?v=dyeO9f02yDg


ケーララの北にはテイヤムがあり、隣接するカルナータカ州南部にはブータという祭祀芸能がある。テイヤムは神という意味、ブータは霊とかお化けの意味だが芸能として両者はよく似ている。
https://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/teyyam/teyyam2.htm#NO1
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspeconf/55/0/55_647/_pdf


こんな土俗的な芸能とバラモン文化が融合してゆく。12世紀の『ギータ・ゴーヴィンダ』が最後のサンスクリット詩の傑作で、その後は地方語によって文学、芸能が発展する。16世紀頃になってカタカリのような歌と舞踊が融合した演劇形態が形成されてきた。ケーララの諸芸能にその進化過程を見ることができて、さらに、そのほとんどを居ながらにしてインターネットで見られるようになったのだから驚きである。


参考文献
河野亮仙『カタカリ万華鏡』平河出版社、1988年。

「蛇神の祭礼」『季刊民俗学』48号、千里文化財団、1989年。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年2月8日木曜日

松本榮一のインド巡礼(その9)

ジャイプル サモードパレス

 

サモードパレスはジャイプル郊外の静かなサモード村にある宮殿です。もともと要塞でしたが、約500年前、この村の領主によって宮殿に建て替えられ、コロニアル様式と、インド伝統様式を取り入れた、小ぶりですが、素晴らしい宮殿です。

また近くには、サモードバーグという名の美しいプールのある庭園もあります。

この宮殿の素晴らしさは、全館にサラセン文化の彩色が施され、その命の花の彩色された壁面は、絢爛たる花園に紛れ込んだようです。

この宮殿の花柄のモチーフは、ペルシャの影響といえるでしょう。それはジャイプルの布の名品である木版更紗のモチーフも、この宮殿と同じ、ペルシャから伝わったものだといえるのです。

 

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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