第9回 インド祭の時代
もう古い話になるが、1988年にインド祭があった。ヨーロッパで製造したエアバスをインドが買って、そのお礼としてインド祭を始めたとか聞いた。英仏米ソ連に次いで、景気の良い日本でもやってもらおうということになったのだろう。
具体的には1985年のラジーヴ・ガンジー首相来日時に、中曽根首相と合意したものらしい。開催時は竹下首相。三井銀行の小山五郎が日本委員会の委員長となり、財界に声を掛けて基金を募った。それが楽にできた時代だった。
ちなみに、日本アマチュアカバディ協会ができて初の全国大会を行ったのは翌年の平成元年1986年だったが、その時も大手企業が協賛して広告を出してくれた。いつの間にか撤退して、今は年度末には現金が底をつく。
インド祭日本委員会事務局長は松本洋で、そこにミティラー美術館の長谷川時夫がボランティアで手伝いますと飛び込んだ。その後長谷川は、ポストインド祭を考える会を結成。考えるだけではなくて全国津々浦々を回って音楽・舞踊イベントを繰り広げた。
http://www.mithila-museum.com/directorTH/data/list_post.pdf
それが今日のナマステ・インディアにつながる。2023年の4月にはナマステ・フランスというイベントが、かつてパリ万博が行われたセーヌ川沿いで開催されたらしい。
https://www.euronews.com/culture/2023/07/04/namaste-france-2023-festival-to-showcase-the-best-of-indias-art-culture-and-cuisine
ソ連のインド祭
資料を探していたら、何と“Festival of India in the USSR”のパンフレットが出てきた。幸い英語版だ。1987年7月から88年7月にかけて開催された。ソ連とインドは昔から仲が良いので日本より大規模に催された。
オープニング・スピーチはゴルバチョフ大統領である。おーっという感じ。クレムリンで行われたと思われるオープニング・アクトがすごい。スブラクシュミー、ビスミラ・カーン、イムラット・カーン、ラルグディ・ジャヤラーマン、チッティ・バブ、パドマー・スブラマニヤム、マニプリーの舞踊団、ヤクシャガーナ、セライケラ・チョウなど。行きたかった。
引き続いて、グル・ケールチャラン、ウマー・シャルマ、ビルジュ・マハーラージ、ヤーミニー・クリシュナムールティ、ショーバー・ナイドゥ、V.P.ダナンジャヤンの豪華舞踊陣、ダーガル兄弟、アムジャッド・アリ・カーン、ハリプラサード・チャウラシア、シヴクマール・シャルマ、ラーム・ナーラーヤン等々のリサイタル。知らない人には単なるカタカナの羅列だが、人間国宝級のお歴々、うらやましくてため息が出る。この時、ソ連は大国だった。今やインドの方が大国だ。
ケーララの諸芸能
インド祭の準備段階で、オフィス・アジアはクリシュナーッタムを招聘するつもりでいた。これは サンスクリット詩の『ギータ・ゴーヴィンダ』(12世紀)のケーララ版であり、それに舞踊を付けたものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=pTFe0B1F08U
縁結びには『スヴァヤンヴァラ』の場面を、子宝を望む時はクリシュナ誕生の物語を、立身出世を志す者は戦いの場面をリクエストする。グルヴァユールのクリシュナ寺院に、たんまりお布施をして上演を依頼する。八場面に分け、一場を一晩かけてクリシュナの物語を上演する。一晩チャーターするのにいくらと聞いたか忘れてしまった。何ヶ月も先まで予約が入っていたそうだが、今はどうなのだろう。
『ギータ・ゴーヴィンダ』の詩にはラーガとターラの指定があって、詩歌の朗詠というより歌われていた。それに振り付け、舞踊を付けたいと考える人が出てくる。ジャガンナート寺院で演じられていたようだ。伝承は失われ、今のオリッシー・ダンスとは、直接、つながらない。
クリシュナの物語は面白いし、ラーダー達の舞い、ラース・リーラーは見応えがある。しかし、カタカリと同じように化粧を施す、グルヴァユール寺院だけで行われている男子のみによる舞踊劇は、カタカリと何処が違うのかとインパクトがないかもしれない。
古典語劇
クーリヤーッタムは見かけこそカタカリに近い。カタカリ役者はしゃべらないが、クーリヤーッタムは基本的に古典語、インドで伝承されてきた唯一のサンスクリット語劇であり、セリフがある。もっとも聞いて分からないが、ムドラーでサンスクリット語の格変化まで示せるなど、カタカリ以上に複雑な体系を持つ。世界最古の舞踊劇で門外不出、地元の人以外は知らなかった。能や伎楽、歌舞伎との比較で、日本人はこういうのが好き、というか、能楽とともに2008年、ユネスコの無形文化遺産に選ばれている。
クーリヤーッタムもカタカリも基本的には王家がスポンサーであって、その寺院の本尊に向かって奉納する儀礼として上演するのが本来の形だ。大小の王家や富裕な地主や寺院は、それぞれカタカリやそれに類似する緑色に顔を化粧する役者たちを抱えていたのだろう。かつてはラーマナーッタムというラーマーヤナ専門の劇もあった。コーイルとかカブと呼ばれる小規模な寺院を回ってゆく芸能者もいる。
もともとは顔に赤や黄色、肌色の化粧を施す祭祀芸能のテイヤムが古くからあった。ローカルな神格を降ろしてお告げをする、シャーマン的な性格を持つ低カーストの芸能者の祭礼があった。
それをベースにラーマーヤナやマハーバーラタ、プラーナなどの大伝統に取材した舞踊劇を上演するときには、緑を基調とするメイクを施したようだ。例によって何がいつ頃から始められたかは分からない。
テイヤムの萌芽は紀元前後にあるのかもしれない。クーリヤーッタムのようなサンスクリット語劇は1000年以上前から行われていたと思われるが、いつから緑色にメイクしたのかは全く分からない。
顔に化粧を施し、女形の活躍する演劇形態として、歌舞伎とカタカリは早くから西欧に知られ、日本でもしばしばカタカリ劇団は招聘されている。その本家本元?としてクーリヤーッタムを招聘できたのは、まさに、画期的なことだった。
演出家・役者として劇団を率いたG.ヴェーヌは、その後も何回か役者、舞踊家を連れて来日した。ヴェーヌの組織する研究所ナータナ・カイラーリは亡くなられたアマヌール・チャーキヤールが指導していた。
https://www.youtube.com/watch?v=38vY4hqJ7PY
そこにバラタナーティヤムから転向した入野智江が、日本人として初めて飛び込んでナンギヤール・クートゥを習った。カタカリの演者が男だけであるのに対し、クーリヤーッタムの場合、男優はチャーキヤールというバラモンに準じるカーストの男が演じ、女優はナンギヤールと呼ばれる。
チャーキヤール家の女は芸能に関わらず、打楽器奏者であるナムビヤール・カーストの女性がナンギヤールといって女優を務めるのが伝統だ。アランゲットラムという女優デビューのお披露目をしてナンギヤールを名乗れる。ナータナ・カイラーリには岡埜桂子も入門してモーヒニーアーッタムを習い、現地でも公演活動を行っている。ケーララは気候も人々も温暖で、とても居心地のいい所だ。
https://www.youtube.com/shorts/-RUKo75TvNY
岡埜の師ニルマラー・パニッカルはヴェーヌと共にモーヒニーアーッタムの本を著し、単著でナンギアール・クートゥの本を1988年に出した。20年以上本棚に眠っていたが、読んでみるとケーララ舞踊史といってもよい優れた著作だ。
ニルマラーはモーヒニーアーッタムをカラーマンダラム・カリヤーニクッティ・アンマらに付いて習っている。アンマの元には、私の『カタカリ万華鏡』を片手にケーララに向かった安達(渡辺)尚代が飛び込んだ。30年以上前の話だ。元々はオリッシーの故高見麻子と共にかんみなの元でタゴール・ダンスを学んでいた。今も元気に活動中である。モーヒニーアーッタムでは多芸多才な丸橋が賑やかに活躍中。チャーキヤールの元でも修行した話は『おしゃべりなインド舞踊~ケララに夢中』に詳しい。
原初的な芸能
ケーララには地方色豊かな民俗芸能が多く伝承されている。最も原始的な芸能はサルパン・トゥッラルで、サルパンは蛇、トゥッラルはぴょんぴょん跳ねる踊りのこと。カラムといって地面に5色で蛇の絵を描く。梓弓のように弓をビンビン鳴らして、蛇の神を讃える歌を歌う。彼らは放浪の芸人プッルヴァンで、そのオリジンは呪医であるという。
https://www.youtube.com/watch?v=K0NY42Cjq9I
元々は毒蛇に噛まれたときなどの治病儀礼で、蛇さんあんたは偉いと慰撫して緩和処置を依頼するもののようだ。蛇が多産であることから、子宝を望むときにその娘を中心に行った。今では家族の繁栄を願って乙女を選び出す。歌が佳境に入ってくると5匹の蛇の霊が5人の娘に乗り移り、ぴょんぴょん跳ね回って踊り、最後に娘達は地面にのたうち回ってカラフルな蛇の絵を消し、蛇と一体になりお告げをする。
カラリパヤットゥの研究家で実践者でもあるフィリップ・ザリリの奥方デボラ・ネフがその研究をして抜き刷りをもらったが、どこに仕舞い込んだやら。
カラムというのはケーララ寺院の前庭で、カラリパヤットゥのカラリと意味は同じだった。そこで儀礼を行い、子供達は読み書きを習い、武術を鍛錬し、時には祭礼を催した。その多くがバガヴァティー女神の寺だ。
バガヴァティー(バドラカーリー)女神の大きな絵を地面に描いて、女神が魔を滅ぼす劇を演じるムディエットという芸能がケーララの南にある。ムディというのは冠のことだが、やはりカタカリのような化粧をする。カンバセーションの故芳賀詔八郎と話して、世田谷美術館でやろうと企画したが実現しなかった。今となってはできない。惜しいことであるが、今はYouTubeで見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=DNxIKWHvGHc
同じくケーララの南、コチ、クイロンの辺りにパダヤニがある。これも顔を緑に塗るが、椰子で造った仮面を付けたり、大きなかぶり物を付けたりする激しいステップが特徴だ。これは早稲田銅羅魔館の森尻純夫がハヤチネ・フェステイィバルに招聘し、本場の早池峰神楽や韓国のムーダンと競演した。1987年7月のことだった。
https://www.youtube.com/watch?v=dyeO9f02yDg
ケーララの北にはテイヤムがあり、隣接するカルナータカ州南部にはブータという祭祀芸能がある。テイヤムは神という意味、ブータは霊とかお化けの意味だが芸能として両者はよく似ている。
https://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/teyyam/teyyam2.htm#NO1
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspeconf/55/0/55_647/_pdf
こんな土俗的な芸能とバラモン文化が融合してゆく。12世紀の『ギータ・ゴーヴィンダ』が最後のサンスクリット詩の傑作で、その後は地方語によって文学、芸能が発展する。16世紀頃になってカタカリのような歌と舞踊が融合した演劇形態が形成されてきた。ケーララの諸芸能にその進化過程を見ることができて、さらに、そのほとんどを居ながらにしてインターネットで見られるようになったのだから驚きである。
参考文献
河野亮仙『カタカリ万華鏡』平河出版社、1988年。
「蛇神の祭礼」『季刊民俗学』48号、千里文化財団、1989年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
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