学校生活(2)
6年間の学校生活で、ぼくは2人の校長を持った。最初入学した時は、ノゲン・モジュムダルが校長だった。君たちは、『ションデシュ』誌で、時折、ノニゴパル・モジュムダルが書いた物語を読むことがあるだろう。ノゲン・バブー(1) は、このノニゴパルのお父さんだ。この人のことを校長だと、わざわざ説明する必要はなかった。少なくとも、ぼくの「校長」のイメージに、ノゲン・バブーの容貌は、どんぴしゃりだった。中肉中背、色白、両側に垂れ下がった白い口髭、白髪、喉まで覆うコート、そしてズボン。その性格は、重々しいどころじゃなかった –– 彼の顔に笑いが浮かぶのを見た人が、学校の中に一人でもいたかどうか、疑わしい。年度末の、定期試験終了後の特別の日に、彼はすべての教室を回って、手にしたリストを見ながら、試験の成績第1位から第3位までの名前を読み上げた。教室の外に「ノガ」の靴音が響くや否や、胸のドキドキが収まらなくなる –– その恐怖は、今になっても忘れることができない。
ノゲン・バブーの次に来たのは、ジョゲシュ・バブー –– ジョゲシュチョンドロ・ドット。この人の容貌は、ノゲン・バブーのそれに比べると、やや痩せぎすで、口髭も、唇の下に少し垂れているくらいだった。でも、彼もまた、校長の典型だった。そのズボンは、緩く垂れ下がるタイプ。その頃ぼくらは、授業で、「リップ・ヴァン・ウィンクル」(2) を読んでいた。その物語の中に、「ギャリギャスキンズ」という名前のズボンが出てくる。三、四百年前にアメリカで穿かれていた、この長々しい名前のついたズボンが、実のところどんなものだったのか、誰一人知らなかったけれど、ぼくらは、それがジョゲシュ・バブーの垂れ下がったズボンのようなものだと、勝手に決めてかかった。ジョゲシュ・バブーのズボンは、それ以来、「ギャリギャスキンズ」と呼ばれることになった。
このジョゲシュ・バブーの渾名が、なぜ「ガンジャ」(3) になったか、その理由は、今となっては思い出せない。ひょっとすると、ジョゲシュ > ジョガ > ゴジャ > ガンジャというような変化が起きた結果かもしれない。でも、ある日、ぼくらの授業を受け持ってくれた結果、彼に対するぼくらの怖れは、だいぶ緩和されたのだった。担当の先生が一人休んだので、彼が代わりに授業を持った。驚くべきことに、その日のその授業ほど面白く、新しい知識の数々を学んだことは、それまでになかったのだ。
「『ゲンジ』(下着のシャツ)という言葉がどこから来たか、知っているか?」 これがジョゲシュ・バブーの最初の質問だった。ぼくらは誰一人答えられなかった。 「この言葉はな、実は、英語のガーンジー ‘guernsey’ から来ている。イギリス海峡の、フランス沿岸近くに、Guernsey という名前のちっぽけな島がある。そこからこの名前が取られた –– 船乗りたちが、島民たちが着ているそれを、着るようになったんだ。」
ジョゲシュ・バブーがさらに言うには、ベンガル人は、むかし、「オルスター」という名の防寒用コートの一種を着ていた。そのコートの元の名前は Ulster で、これもまた、地名に由来する。アイルランドにアルスターという名の町があって、このコートはそこで最初に使われた。
この後、ジョゲン・バブーがやったことは、ぼくらの目を見張らせた。黒板に行くと、彼は最初に、1から9を表すベンガル語の単語を、左から順に書いた:––
その後、単語一つ一つから、その一部を消すと、驚くなかれ、1から9のシンボルが姿を表す:––
この出来事の後、「ガンジャ」は、すっかりぼくらの身近な存在になった。
校長の次に、ぼくらが一目置いていたのは、副校長のジョティルモエ・ラヒリ。この人を、ぼくらは、ラヒリ先生ともジョティルモエ・バブーとも呼ばず、いつもミスター・ラヒリと呼んでいた。その理由は、先生方の中で、この人ほど、白人サヘブ風に呼びかけるのに相応しい人は、他にいなかったから。長身の美男子で、肌の色は真っ白、髭はきれいに剃られていて、スーツにネクタイの出立ち。スーツに羽織るコートは、少し短過ぎたけれど、他にはまったく、非の打ちどころがなかった。大ホールで何か催しがある度に、彼は、お腹の上に手を結んだまま立っていた。拍手の必要がある時も、手を持ち上げることはなかった。片手をお腹の上に置いたまま、もう一方の手で、その掌の裏を軽く叩いた。
ミスター・ラヒリの英語の発音は、白人同然だった。ウォルター・スコットの『アイ・ヴァン・ホー』(4) を読んだ時、この本に登場するフランス人たちの名前の発音を聞いて、彼に対するぼくらの崇拝の念は、天にも届かんばかりになった。 Front-de-Boeuf の発音が「フロン・ド・べ」になるだなんて、一体、誰が想像できただろう!
ジョゲシュ・バブーの後、ミスター・ラヒリが校長になった。でも、そうなる前に、ぼくの学校生活は終わっていた。
他の先生たちは、一人一人、タイプが違っていた。当時はまだ英領時代だったので、公立学校の規則に従って、先生たちの中に、ヒンドゥー教徒に並んで、イスラーム教徒や、ベンガル人のキリスト教徒がいるのが普通だった。イスラーム教徒の先生の中では、「コダック」を「コドク」と言った、アフマド先生(本名はジャシムッディン・アフマド)(5) 。この他に、担当の先生が二人いた。その一人は、詩人のゴラム・モスタファ(6) ) 。彼は一年あまり、ぼくらにベンガル語を教えた。彼が書いた詩の一つは、ぼくらの教科書に載っていた。その最初の二行は、こんなだった:––
なすことなく ただ一人 道を歩めば
目に留まる –– 小さな路地の、小さな娘
モスタファ・サヘブは東ベンガル出身なので、チの音を英語の si のように発音した。思い入れたっぷりに、この詩を朗読したけれど、悪賢い級友の中には、その発音を聞いて、少々からかってやろうという魂胆を起こす者もいた。その一人のゴパルが、せき込んでこう訊く、「それで、しいさな路地の、しいさな娘って、本当に見たんですか、先生?」
モスタファ・サヘブはお人よしだったので、こう答える、「ああ、本当だよ。本当に、ある日、路地を歩いていると、小さな娘が立っているのが目に留まった。その子の側を通り過ぎる時、その頭を、軽く小突いてやったんだ。」
「小突いてやったんですって! へええ!」
会話はそれ以上進展しなかった。と言うのも、背後から、「おい、ゴプラ、よせよ」という囁き声が起こったから。
先生たちの中に、キリスト教徒が二人いた –– ビー・ディー先生とモノジュ・バブー。ビー・ディー先生の名字は、ビー・ディー・ラエ。名前の方は、たぶん、ビブダンかビドゥダンだろう。こんな名前、後にも先にも聞いたことがない。この先生は、英語担当だった。小柄な人で、英語が正しく発音されるようにと、いつも目を光らせていた。イソップ物語の中の The Ox and the Frog (牛と蛙)を読む前に、こう言った、「母音の前の the の発音は、ズィ、子音の前は、ダ。ズィ オックス アンド ダ フログ。そして、英語のth の発音は、ベンガル語の「ダ」とは違う。ベンガル語で「ダ」を発音する時は、舌と口蓋の間に隙間がないが、英語の方は少しだけ隙間があって、そこから空気が逃げる。英語のth の発音は、実のところ、z と d の中間なんだ。」
モノジュ・バブーの兄弟の一人は、警察で仕事をしていた。その人の住居は、ぼくらの学校のすぐ隣の警察署だった。この警察官の二人の息子、シュクマルとシシルが、ぼくらのクラスに通っていた。この二人は壁を乗り越えて学校にやって来た。シュクマルは、ぼくらのクラスで一番の短距離走者で、100ヤード走では2度続けて勝った。一方、シシルの方は、小賢しい悪ガキで、本などというものにはまるで縁がなく、拳骨・平手打ちの罰を、とりわけこの叔父さんの手で、いつも喰らっていた。モノジュ・バブーは、教える時、椅子にすわることは、まずない、と言ってよかった。テーブルに寄りかかり、床に立ったまま、本を手に授業をする。とても奇妙な癖が一つあった –– 時折、右肩が不意に揺らぎ、上半身が右に傾く –– まるで、蠅を追っ払おうとでもするかのように。それに、おそろしく注意散漫で、いつどんなことが頭にあるのか、まったくの謎だった。その上、Very Good が口癖だった –– 「ちょっと、外に行ってもいいですか、先生?」 「Very Good」 ぼくらは、静まり返っている。外に行くのが、どうして Very Good なのか? 次の瞬間、自分の誤りに気づき、歯軋りしながらこう言う、「ついさっき、外に出たばかりじゃないか。どうして、また?」
訳注
(注1)「バブー」は、いわゆる中間層ベンガル人(主に上位カーストの、英語教育を受けたヒンドゥー教徒)への尊称。これに対し、イスラーム教徒(および白人)への尊称には「サヘブ」が用いられる。
(注2)ワシントン・アーヴィング(Washington Irving, 1783—1859)の短編小説。「ギャリギャスキンズ」(galligaskins) は、当時アメリカで穿かれた、緩い半ズボン。
(注3)「ガンジャ」(ベンガル語)は、吸引用の大麻(ハシシ)を指す。
(注4)‘Ivanhoe’ は、スコットランドの詩人ウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 1771—1832)の長編小説。ノルマン人に征服された後の、12世紀のイングランドを舞台にしている。
(注5)『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。
(注6)Golam Mostafa (1897—1964) ジョショル県(東ベンガル)出身の詩人。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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