ボバニプル(2)
ボバニプルのボクル=バガンの家に来てから、ショナ叔父さんが娯楽好きだったおかげで、時々ビオスコープ(1) 、サーカス、奇術、カーニヴァルといったものを見る機会があった。一度は、帝国劇場(現在のロクシー映画館)(2) に、ある白人(サヘブ)の奇術を見に行ったことがある。その白人奇術師の名前は、シェファッロ(Shefallo)。次から次へと奇術を見せ、それと一緒に言葉も噴水のように溢れ出た。後で知ったのだけれど、奇術師のこのおしゃべりを、「早口口上 (patter)」 と言うのだそうだ。この「早口口上」のおかげで、観衆の目は奇術師の方に惹きつけられ、そのために手を使ったからくりの多くが、注意の外になる。でも、シェファッロ一座の中には、マダム・パラルモ(Madam Palarmo)という名の奇術師がいて、彼女は完全に唖のふりをして奇術を見せたのだ。こんなもの、ぼくはそれまで、見たことがなかった。
このことがあってしばらくして、ある結婚式の場で、一人のベンガル人の奇術を見る機会があった。シェファッロ・サヘブが舞台で見せた奇術など、この人の奇術に比べたら、ものの数ではなかった。舞台での奇術では、いろいろな仕掛けが使えるし、照明を操ったり「早口口上」を続けたりすることで、観衆の目や心を混乱に追いやることができる。その結果、奇術師の仕事は、ずいぶん楽になるのだ。それに引き換え、このベンガル人の奇術師は、大天幕の下のマットレスにすわったまま、奇術を見せた。しかも、1, 2メートルくらいしか離れていない彼の周囲を、招待客が取り囲んでいたのだ。この状態で彼が次々に見せた奇術の数々には、今思い出してもただただ呆然とする他ない。この奇術師の話を、ぼくはずっと後になって、ある短編小説(3) の中で使ったことがある。
マットレスの上にマッチ棒を撒き散らし、自分の前に空になったマッチ箱を置く。そうしてから、「お前たち、一人ずつ、こっちに来なさい!」と呼びかける。それと同時に、散っていたマッチ棒が転がって、マッチ箱の中に入って行くのだ。
ぼくらの知り合いの客の一人から銀貨を一枚、もう一人の客から指環を一つ、もらい受ける。銀貨を2メートルばかり離れた場所に置き、指環を自分の前に置く。そして指環にこう命じる、「そら、あそこに行って、銀貨を連れて来るのだ!」 指環は、銀貨の方に、しぶしぶ転がって行き、その後、二つは一緒になって、奇術師のところに転がって来る。
さらに別の奇術では、一人の客の手にトランプを一組持たせ、もう一人の客に棒を渡してその先をトランプの方に差し出させ、こう言う、「スペードのエース、こっちに来なさい!」 すると、トランプの束の中から、スペードのエースがするりと出て来て、棒の先にくっつき、ブルブル震え出すのだ。
この奇術を見た数日後に、ボクル=バガンとシャマノンド・ロード(4) の交差点で、この奇術師とバッタリ出逢ったのだった。年齢は50か55くらい、ドーティーとシャツの、ありふれた服装。一目見ただけで、その人にあんな力があると、一体、誰が言うことができただろう。ぼくは奇術がものすごく好きで、すっかりその人の弟子になった気でいたので、その人に奇術を教えてほしい、と頼んだのだ。彼は、「もちろんだとも」と答えると、ポケットから一組のトランプを取り出して、道に立ったまま、ぼくに、ごくありきたりの奇術を一つ、教えてくれた。その後、その人と会うことはなかった。急に目の前に現れたので、すっかり慌ててしまい、その人の住所を聞くことすら忘れてしまったのだ。後になって、奇術の本を買って、鏡の前に立って自分で練習して、手でのからくりを使ったたくさんの奇術ができるようになった。奇術への熱は、カレッジ時代まで続いた。
サーカスは、今でも毎年やって来る。もっとも、その当時は白人たちのハームストン・サーカス(5) だったのが、今日ではマドラス・サーカス(6) が取って代わるようになった。その一方で今日見られなくなったのは、カーニヴァルだ。ぼくが子供の頃には、中央通り(Central Avenue)(7) の両側に広々とした野原があった。カルカッタの最初の高層ビル、10階建のタワー・ハウス(8) も、電気を供給するヴィクトリア・ハウス(9) も、まだできていなかった。こうした野原の内の一つに、サーカスと並んでカーニヴァルが開かれたのだ。
カーニヴァルの面白さがどこにあったか、それを今時の子供たちに説明するのは難しい。縁日の観覧車は誰でも見たことがあるだろうが、カーニヴァルの観覧車ないし「大車輪」は、5階建てビルの高さだった。光を発してぐるぐる回る観覧車が、ずーっと遠くからも見えたものだ。この観覧車の他にも、メリー・ゴーランド、旋回する飛行機、ゴツンゴツンぶつかり合うゴーカート、波に乗ったように上へ下へと走るジェットコースター、こんな乗り物が他にもたくさんあった。そしてその周りには、いろんな種類の賭け事の店が散らばっていた。そうした店には、ほしくてたまらなくなるような景品が山ほど並んでいて、やってみたいという気持ちを抑えるのは難しかった。最後には、政府が、公共の場で賭け事をすることを禁止したので、カーニヴァルはカルカッタから姿を消すことになった。たぶん、カーニヴァルの実際の収益は、この賭け事から上がっていたのに違いない。
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ボバニプルに来た最初の頃は、映画は有声ではなかった。その当時、外国映画を見せる劇場では、映画の背景に、台詞の代わりに、白人が弾くピアノか「映画オルガン」が鳴ったのだ。この「映画オルガン」というやつは、カルカッタでは、一つの劇場にあるだけだった。「マダン」、またの名は「ヴァラエティーの宮殿」(10) 。現在のエリート映画館(11) だ。オルガンの名前はウーリッツァー(12) と言って、たいそう派手な音を出した。それを弾いていたサヘブの名前は、バイロン・ホパー(Byron Hopper)。毎日、新聞には、その日に上映される映画と一緒に、ホパー・サヘブが演奏する曲目のリストが載っていた。
この頃見た映画の中で、一番よく覚えているのは、『ベン・ハー』、『巌窟王』、『バクダッドの盗賊』、そして『アンクル・トムの小屋』。グローブ劇場(13) では、当時、映画の上映と並んで、舞台で歌や踊りの実演があった。今日、映画館に行くと、布の幕が垂れ下がっているのが見られるけれど、その頃は、その幕の前に、もう一枚幕が垂れていた。広告満載だった。この幕は「安全幕(safety curtain)」 という名前だった。最初にこの幕が上がって、そのしばらく後に布の幕が上がった。グローブ劇場では、布の幕が上がるとその向こうに舞台が現れる。そこでのいろんな出し物が済むと、今度は映画の白いスクリーンが下りてくる。そうして映画が始まるのだ。スクリーンの前の一方の側にピアノがあって、上映が続いている間、映画の出来事の雰囲気に合わせて、白人サヘブがそれを弾き続けた。
『アンクル・トムの小屋』を見に行った時、面白いことが起きた。家族みんなで、グローブ劇場に見に行ったのだ。黒人奴隷のアンクル・トムが、彼の残虐な主人サイモン・レグリーの鞭を浴びて、二階の階段から転げ落ちて死んでしまう。ぼくらみんなの怒りは、レグリーの上に集中している。映画の終わりの方で、トムが亡霊になって、主人の許に戻って来る。主人は亡霊めがけて鞭を振るうが、トムの亡霊は笑いながら、彼に向かって近づいて来る。ぼくの隣にすわって、口をあんぐり開けて映画を見ていたカル叔父さんが、その時突然、もう我慢できなくなって、映画館を埋め尽くす観客のど真ん中で席を立つと、こう叫び始めた –– 「こいつを、まだ、鞭打つ気か? まだ鞭打つ気か、このクソ野郎! –– 今こそ、お前の悪行の報いを、受けるがいい!」
1928年に、ハリウッドで、最初の有声映画(トーキー)が作られた。カルカッタでトーキーが最初にお目見えしたのは、その一年後。その後も、一年あまり、一部が音声付きで一部が無声の映画が、いくつもやって来た。全部が有声の映画は、新聞に、「100% トーキー」という広告が出た。ぼくが初めて見たトーキーは、たぶん、『類猿人ターザン』だったと思う。グローブ劇場にその映画が来たので、見に行ったのだけれど、最初の日は、チケットが手に入らなかった。ぼくを連れて行ってくれたのは、母方の叔父さんの一人。ぼくのがっかりした顔を見て可哀想に思ったのだろう、この日、他に何か一つ映画を見ずに、家に帰るわけにはいかない、と思ったのだ。
すぐそばに、アルビオン劇場(14) があった。現在のリーガル劇場だ。そこではチケットが手に入った。でもそれはベンガル映画で、しかも、何も音声が付いていなかった。映画の題は、『不幸な結婚』(15) 。この映画が子供向けでないことは、少し見ただけで、ぼくにもわかった。叔父さんはぼくの方を向いて、何度かひそひそ声で、「家に帰ろうか?」と聞いた。でもぼくは、その問いを耳に入れようともしなかった。一度中に入った以上、最後まで見ずに出るなんて、できるもんか! もっとも、この『不幸な結婚』を見てすっかり嫌気がさし、その後、ぼくは長いこと、ベンガル映画に近づかなくなったのだ。
その時、ぼくを映画に連れて行ってくれた叔父さんは、「レブ叔父さん」。母さんの従兄弟にあたる。カル叔父さんみたいに、この叔父さんも、ダッカからカルカッタに、職探しにやって来たのだ。そして、ぼくらの家に泊まることになった。
ここで、母さんのもう一人の従兄弟、ノニ叔父さんについて言う必要がある –– なぜなら、この叔父さんのような人を、ぼくは他に、滅多に見ることがなかったから。180センチもあるノッポで、背が矢のようにまっすぐで、短いドーティーの裾を格闘士のように腰の後ろに挟み込み、4分の3の長さしかない袖付きの、ゴワゴワした木綿織りの短めのパンジャビを着ていた。歩く時は、まるで軍隊の行進みたいにぐんぐん歩を進め、話す時はベンガル語で、すごく声を張り上げた。田舎に住んでいる人は、野原や道で、どうしても声を張り上げて話さなければならない。その癖が、歳をとって都会に来ても、そのまま残っていたのだろう。でも、ノニ叔父さんの場合、その張り上げる声の中に、女っぽい響きがあった。それに、叔父さんはいろんなことができたけれど、そのうちで本当に得意としたのは、全部女たちがする仕事だった。結婚していなかった。結婚したとしたら、主婦として叔父さん以上のことができる相手が見つかったかどうか、疑わしい。縫物、料理、どちらも超一流だった。後になって、革細工を学び、それについて本を一冊書いたくらいだ。『ベンガルの甘菓子』という本の原稿もできていたけれど、どう言う訳か、それはとうとう出版されなかった。
母さんは、このノニ叔父さんから革細工のやり方を習って、次第に自分で、革細工の専門家になった。一時期、母さんは、昼の間、ずっとすわってこの仕事をしていた。革に色をつけるためには、アルコールを混ぜなければならない。そのアルコールの匂いが、いつも部屋中にたちこめていた。器用な手で作られたバッグ、小袋、メガネケース等を、いくつか売っていたこともあった。さらに後になって、母さんは、今度は粘土で像を作る仕事を、当時有名だった陶工ニタイ・パールの許で学んだ。母さんが作った仏像や観音像は、今でも、ぼくらの親類縁者の家の多くに、飾られている。
こうした特別の仕事以外に、いい主婦であれば当然こなす仕事を、母さんは、もちろん、全部こなしたのだ。それに、母さんの筆跡は、とても綺麗だった。ベンガル語を書いても、英語を書いても。
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次回の連載では、番外篇として、短編小説「二人の奇術師」の翻訳を掲載いたします。
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訳注
(注1)ビオスコープは、35mm映写機によって上映された、初期の映画。Hiralal Sen が1898年に設立したThe Royal Bioscope Companyが、ベンガル最初の映画製作会社。
(注2)帝国劇場(The Empire Theatre)は、1908年に、カルカッタの中心エスプラナードの南に建てられた、オペラハウス。1940年代初頭に改造され、ロクシー映画館(Roxy Cinema)となった。この映画館は2019年に閉じ、現在はカルカッタ市役所の事務所として使われている。
(注3)短編小説「二人の奇術師」(『ションデシュ』1963年3~4月号)。次回掲載予定。
(注4)ボクル=バガンの東に位置する。
(注5)「ハームストンの大サーカス」(Harmston’s Great Circus)は、イギリスのWilliam Benjamin Harmston によって、1847年に創立。その後、その息子・孫に引き継がれ、英領植民地を広く巡業した。
(注6)「マドラス・サーカス」は、南インドから来たサーカスの総称。実際は、当時、ケーララ州がサーカス産業の中心地だった。
(注7)中央カルカッタのチョウロンギ通り(Chowringhee Street)北端から、北東に向けて延びる大通り。
(注8)1930年代後半に建てられた、アールデコ建築の一つ。第二次世界大戦中は、その最上階に「アメリカの声(Voice of America)」放送局があった。
(注9)ヴィクトリア・ハウス(Victoria House)はカルカッタ電力供給会社(CESC Ltd)の本拠。これも1930年代後半に建てられた。
(注10)「マダン劇場とヴァラエティーの宮殿」(Madan Theatre and Palace of the Varieties)は、エスプラナードの南側に位置した。マダン(J. F. Madan, 1857~1923)はインド映画産業のパイオニアの一人。1919年に設立したMadan Theatres Ltdは、カルカッタを含む、インド各地の多くの劇場・映画館を運営した。
(注11)エリート映画館(Elite Cinema Hall)は、マダン劇場(注10)を改装して、1940年に創業開始。20世紀フォックス社が運営していた時期もある。2018年に閉館。
(注12)ウーリッツァー(Wurlitzer)は、フランツ・ルードルフ・ウーリッツァー(ドイツ系アメリカ人)が1853年に創立した楽器製造会社。無声映画時代、ウーリッツァー製の劇場用パイプオルガン ‘Mighty Wurlitzer’ が、広く普及した。
(注13)エスプラナードの東側、ニュー・マーケットの南に位置する。1827年に建てられた木製のオペラハウスを、1906年に映画館兼劇場に改造。現在は巨大なショッピングモール。その一部にマルティプレックス映画館があったが、1, 2年前に閉館した。
(注14)エスプラナードの南に位置した、マダン系列の劇場のひとつ。もともと、「電気劇場(Electric Theatre)」の名前だったが、1920年代に「アルビオン劇場(Albion Theatre)」、1931年に「リーガル劇場(Regal Theatre)」に改名された。
(注15)ラムラル・ボンドパッダエのシナリオに基づくメロドラマ。監督:プリヨナト・ゴンゴパッダエ。1930年6月より、マダン系劇場にて上映。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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