序章
オディッシーインド古典舞踊をしていて、今もよくされる質問の一つに、「何故インド舞踊をしようと思ったのですか?」と言うのが、未だにある。40数年続けていて、答えに一番困る質問だ。大抵ステージ後のインタビュー時などが多いので、なるべく簡潔に答えるように最近は努力をしているが。
画学生だったのが描けなくなったから?母が早くに亡くなって生と死の事をインド哲学に求めたから?好みとして東洋的なものが好きっだったから?人がしていない事がやってみたかったから?
色々と理由を考えてみるが、やはり、一言では言い尽くせない。
敢えて言うなら、使い古された言い方だが「そこにオディッシーがあったから」
インドとの遭遇
現在「太陽の塔」が残る万博記念公園で、1970年に日本で初めての「万国博覧会」が催された。近未来の新しい技術がテーマのパヴィリオンも多かったが、自国の伝統文化を紹介しているパヴィリオンも多かった。朝早くからゲート前で並んで、開場されると一斉に沢山の人がゲートに向かって走る。ものすごく暑かったのを覚えている。今のディズニーランドやUSJ並みに並んで、数軒見るのがやっとだった。当時中学生だった私は、外国のものには元々興味があったのか、万博の影響だったのか、外国パヴィリオンでは結構ワクワクした。父は「月の石」が見たかったらしく、見れたのかどうかは覚えていないが、インドパヴィリオンには家族揃ってゾロゾロと入っていった。お揃いのサリーを着たコンパニオンさんの姿が目に飛び込んで来た。あ、本物のインド人!みんな目が大きい。そして入り口近くに置かれた、彫刻が施された柱のレプリカ。結構な高さがあって、そこにはぎっちりと、隙間が無いほどに文様が詰まっていた。印刷だったのか、彫られたレプリカなのか記憶は危ういが、それを見たとき、まず、ウッと息が詰まりそうなほど苦しかった。多分カジュラホとかの寺院彫刻だったのだろうと思うが、この暑苦しさ、絶対に私は好きではないと思った。その後NHKで製作されたTV番組の「未来への遺産」では、インドのこの表現を「空間を恐れる表現」と解説していたのに納得した。「空=0」を発見したインドのまるでジョークのようなこの対比は面白い。信心深い祖母の影響もあり、仏教的なインドやお釈迦様の話はよく知っていたが、リアルなインドとの遭遇はこれが初めてだった。
インド舞踊との出逢い
その後、高校を卒業して浪人中に母が亡くなり、急遽家事を自分がすることになり、とりあえず精華短大(現精華大学)の美術科に進学したものの、心があちこちの方向に跳び、何事にも集中できず、鬱々としていた。絵筆を持つことは勿論好きなのだが、じゃあ、何が描きたい?と自分に問うと、わからない。ちょうどその頃、横尾忠則氏がインドの様々なモチーフを題材にいろんな作品を世に出されていた。あの神様の絵が目にとまった。ああ、こう言うのをモチーフの一つにするのもいいなと思い、それからインド関係の本や写真集などをあれこれ集めた。そんなことをしている時に千本通の北の一角に、不思議なポーズを取った踊り子が描かれた看板を見つけた。それは、日本で初めてのインド舞踊専門の舞踊教室だったのである。
今はもう無くなってしまったが、京都市電に乗ると、千本北大路の電停からその看板が見えた。でも、私はまず体育は苦手だったし、小さい時から絵描きになると言う目標があったので、いや、ダンスは絶対にありえないと強く思っていた。でもそれとは裏腹に、私の好奇心の眼は、掌で覆った指のあいだから、その看板の踊り子の絵をずっと覗いていた。ちらっちらっと。それからしばらくして、ついに誘惑に負けた私は結局、その教室に通うようになっていた。そして、それがきっかけで、舞台などにも興味を持つようになり、アングラ劇団の稽古場や、舞踏というジャンルのダンスをしていた人たちとも知り合い、今まで絵の世界しか知らなかった私には、新しい世界が開けたような感覚であった。その頃のインド舞踊教室には、既存のものに飽きたあらない、まことに興味深い人たちが集まっていた。
その教室で実際にダンスを習う前の一年間くらいは、月1回あった「インド勉強会〜ガンジー学園」に顔を出していた。そして実際に習い出してから1年ほど経った頃、インドで勉強して一時帰国された方に立て続けに会う機会に巡り合った。まだまだ駆け出しであった私にも、本場インドで修行して来た方のそれが、みんなで楽しくお稽古しているのとは違うというのはすぐに分かった。そして、その時初めて、一口にインド舞踊といっても色々あることを知った。インドでもまだオディッシーが「セミ古典」くらいの位置づけだった時代なので、色々な踊り、例えばカタカリの一部を女性でも踊れるようにアレンジした「サリダンス」やラジャスターンのフォークダンスなどは、お客さまに取っては楽しい演目であったに違いない。しかしそのような経験の中で、私の興味は次第にオディッシーへと傾いて行った。
しかし、まだまだ好奇心の塊であった私は、舞踏家やアングラ演劇などの周辺もうろついて、気がつけば20代の前半が終わろうとしていた。そんなある日、父が「お前、いい加減、インド行って来い!!」と行った。え?行っていいの?お金もそんなにたまってないし、と思ったが、金は出してやると言われ、ありがたく行かせて頂くことにした。その頃には6歳下の弟も東京の伯母の家から高校に通っており、もう世話を焼く相手も居なかったからかも知れないが、あの父の一声が私をインドに送り出してくれたのには違いない。
<�続く> サキーナ彩子
京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。
帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。
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