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2023年9月3日日曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑧

ボバニプル(3)

ショナ叔父さんは、アースキン・セダン車 (1) を手に入れた。今のフィアットやアンバサダー (2) の時代に、この車の名前を知る者は、ほとんどいない。夕方になると、この車に乗って、時々マイダーン (3) まで出かけたのだ。その頃、マイダーンでは白人たちがゴルフをしていて、安心して車を走らせる環境ではなかった。ゴルフボールが、いつどこから弾丸のように飛んで来るか、知れたものではなかった。一度、少しぼおっとしていて、気付かないうちに、ボールが一つ、すごい勢いでぼくらに向かって飛んで来たことがある。運転手のシュディル・バブー (4) が、ぼくの身体を掴んで、急にぐいっと横に逸らした。ゴルフボールはぼくら二人の耳元をかすめ、道を越えてヴィクトリア記念堂の柵の方に飛んで行った。

シュディル・バブーは、ぼくらの家の屋上の部屋に住んでいた。その頃は、マハートマー・ガーンディーの不服従運動が続いていた。ある日、突然、巨大な紡錘とひとかたまりの綿を買って来て、自分の部屋で綿糸を紡ぐ作業を始めた。これももちろん、不服従運動の一環だった。その後、あっという間に、綿糸を紡ぐ作業が、そこら中の家々に伝染病のように広がったのだ。ぼくらの家でも、家族一人一人のために、紡錘が持ち込まれた。ぼくにも、だ。1ヶ月あまりのうちに、ぼくも、難なく綿糸を紡げるようになった。でも、シュディル・バブーは、ぼくらのチャンピオンだった。自分で紡いだ綿糸で、フォトゥア(前開きの緩い上衣)を作るなんて、他に真似できる人は、誰もいなかった。

 

 

その頃、カルカッタでは、大掛かりな愛国祭(スワデーシー・メーラー)が催されていて、ぼくらはみんなで、それを見に行った。エルギン・ロードの交差点の傍に、その当時は、広大な野原が広がっていた。「ジムカナ・クラブの野」 (5) と呼ばれていた。(今では、そこに家が建ち並んでいる。)その野原で愛国祭が開かれたのだ。

愛国祭の何よりの目玉は、インドの指導者たちの蝋人形だった。それらの人形の特徴は、機械仕掛けで、その頭や手足が動くことだった。仕切られたひとつひとつの部屋に、別々の光景があった。ある部屋では、マハートマー・ガーンディーが、監獄の独房の床にすわったまま何かを書いていて、扉の外には武器を持った見張りがいる。マハートマー・ジー (6)の手にはペン、膝の上にはメモ帳。手はメモ帳に何かを書いているように動き、それにつれて頭も左右に動く。別の部屋では、「母なるインド」 (7) の巨大な像があり、「国の友」チットロンジョン・ダーシュ(8) の屍を、両手で捧げている。「母なるインド」は「国の友」の方を凝っと見つめ、次の瞬間には目を閉じて悲しげに頭を左右に振る。誰がいったい、こうした蝋人形を作ったのか、覚えていない —— おそらく、ボンベイのどこかの職工だろう —— でもそれらは、本当に生きているように見えた。カルカッタの市内でも、これらの肖像は、ずいぶん評判になったものだ。

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ぼくの母方のお祖母ちゃんは、ぼくらと一緒に、ボクル=バガンの家に住んでいた。色白で細身の美人だった。素晴らしい歌声を持っていた。お祖母ちゃんが歌ってくれた、モエモンシンホ (9) 地方の歌、「糸車が踊るのを、おまえたち、見て行きなさい」は、今でも耳に残っている。

たぶん1926年だったと思う —— ぼくの母方の叔父さん・伯母さん、その連れ合いや子供たちが、カルカッタに一堂に会したことがある。こんなことは、めったに起きない。2番目の叔父さんはラクナウに住んでいたし、一番上の叔父さんはパトナー(ビハール州都)だったし、上の伯母さんは、東ベンガルのカキナに住んでいた —— 旦那が、カキナにある地主領の、管理人だったのだ。

みんながカルカッタに集まることになったので、お祖母ちゃんと一緒に集合写真を撮ることになった。その当時、カメラのある家は少なかった。もしあったとしても、4, 5ルピーのボックスカメラが、せいぜいだ。このカメラでは、あまりいい写真は撮れない。少なくとも、飾っておくに値する集合写真を撮るのは、無理だ。だから、何か特別の時には、白人の店に行って、集合写真を撮ってもらう習慣だった。ベンガル人の店がなかったわけではないけれど、それは、殆どが北カルカッタだった。白人の写真館の中では、二つの店が、かつて、カルカッタで一番よく知られていた。「ボーン・アンド・シェパード(Bourne & Shepherd)」 と、「ジョンストン・アンド・ホフマン(Johnston & Hoffman)」。この二つの店は、その頃、創業して70年ほど経っていて、昔ほど繁盛していなかった。この二つに代わって名を成したのが、当世風の「エドナ=ロレンツ(Edna Lorenz)」。この店は、チョウロンギ通りとパーク・ストリートの交差点にある、チョウロンギ・マンションの中にあった。ぼくら、お祖母ちゃん・母さん・伯母さん・叔父さん・その連れ合いと子供たち、全部で18人が、総出でこのエドナ=ロレンツ写真館に出向いたのだ。

前もって言ってあったので、白人店主は、集合写真を撮る準備を、何もかも整えていた。巨大なホールには、6脚の椅子が並べてあった。その真ん中の一つにお祖母ちゃんがすわった。男たちは全員列をなして後ろに立ち、母さん・伯母さん・義理の叔母さんたちは残りの椅子にすわり、上の叔父さんの二人の幼い娘たちは正面の腰掛けにすわり、ぼくはお祖母ちゃんと母さんの間に立った。白人写真家たちは、部屋の中で写真を撮るのに、フラッシュやライトを使わない。(当時は、そうした習慣がなかったのかも知れない。)片側に並ぶ窓から漏れてくる光で十分だ、と言うことだった。馬鹿でかいカメラで、レンズの前には蓋が嵌められていて、その蓋は、2秒間だけ開かれて、その後また閉じられることになっていた。その2秒間の間に、写真が撮られるのだ。その間、少しでも動くことはできない。

白人サヘブが準備完了を告げ、みんなは凍りついたようになった。目はカメラの方に釘付け。写真を撮る人の横に、もう一人サヘブがいて、その手にはシンバルを持ったカラクリ人形。おなかを押すと、カタンカタンと音を立てて、両手がシンバルを打ち鳴らす。この人形は、2番目の叔父さんの息子、幼いバッチュのために必要だったのだ。バッチュは生後たったの数ヶ月、母親の膝の上にすわっていた。そのバッチュの目がカメラから離れないようにと、サヘブはカメラの後ろに立って、シンバルを鳴らし始めた。そのタイミングに合わせて、もう一人のサヘブがレンズの蓋を開け、また閉じて、撮影を完了した。

この写真を撮ってから4, 5年のうちに、お祖母ちゃん、一番上の叔父さん、そして上の伯母さんの息子モヌ=ダーが亡くなった。ドンお祖父ちゃん (10) が、この集合写真の中から、この3人の写真を、別々に拡大したのだった。

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ボクル=バガンの家では、一番下の叔母さんが、ぼくらと一緒に暮らしていた。叔母さんは、歌手として、とても有名だった。もっとも、この叔母さんの歌を、家の外の人たちは、ぼくらが聞くようには決して聞くことがなかった。なぜなら、人びとの前で歌おうとしただけで、叔母さんの喉はカラカラになってしまったから。

ある日、叔母さんの歌がHMVレコードになることになって、その歌を録音するために、叔母さんは、グラモフォン社の事務所に行かなければならなくなった。お膳立てをしたのは、ブラ叔父さんだった。ブラ叔父さんは、グラモフォン社の、カルカッタで一番評判のいい店の主人だったので、グラモフォン社にとっては、重要人物であったに違いない。

ブラ叔父さんの赤い色のT型フォード (11) に乗って、ぼくも叔母さんと一緒に、会社の事務所へ行った。グラモフォン社の事務所は、当時、ベレガタ (12) にあった。(ドムドム (13) に移ったのは、もっと後のことだ。)サヘブの会社に行って歌わなくちゃならないと聞いて、叔母さんは、二日前から、夜眠れず食事も喉を通らない。ブラ叔父さんは、ただひたすら励まし続ける –– 何にも怖がることはない、すごく簡単なことだ。何もかもうまく行くさ。ブラ叔父さんは、歌を習ったことはまったくなかったけれど、竹笛でタゴール歌曲の調べを奏でたし、オルガン演奏が上手だった。

白人サヘブの会社は、支配人も白人、録音技師も白人。当時、マイクロフォンはなかった。細長い管に向かって歌わなくちゃならなくて、その歌は、隣の部屋の蝋製の円盤に刻み込まれた。

叔母さんが、朝から何杯水を飲んだか、数え切れない。録音室に入って、管の前に立たなければならず、ぼくは隣の部屋のガラス窓から、成り行きを見守っていた。若造の録音技師が来て、長い管を左右に揺り動かし、叔母さんをちょうどいい位置に立たせた。そうしてから、叔母さんの目の前でタバコを箱から取り出し、それを宙に投げ、唇で受け止めて火をつけると、部屋から出て行った。後でブラ叔父さんから聞いたところでは、女の歌手が来るたびに、録音技師は、歌手たちにこうした芸当を見せつけるのだ。サヘブのタバコ芸を見て、叔母さんの喉がますます乾いてしまったのは、間違いない。とにもかくにも、叔母さんは歌を歌った。それを聞くと、喉の緊張が完全になくなったのではないことがわかった。でもその歌はレコードになって、やがて売り出された。この後、叔母さんは、長い間にたくさんの歌をレコードにした。最初の頃の名前はコノク・ダーシュ。結婚してから、コノク・ビッシャシュになった。

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ボクル=バガンのぼくらの家から、歩いて5分の距離に、シャマノンド・ロードがあって、そこには父方の叔父さん(父シュクマルの次弟)、シュビノエ・ラエが住んでいた。この叔父さんが、その頃のある日、『ションデシュ』誌を新たに刊行したのだった。

1929年9月に父さんが死んでから、2, 3年のうちに、『ションデシュ』誌は廃刊になった。その頃、ぼくはまだ、この雑誌を読む年齢ではなかった。出版されたばかりの雑誌を、手に取って読む体験を得たのは、この二度目の出版の時だ。表紙には3色刷りの絵、象が二つ足で立ち、その長い鼻で、甘菓子ションデシュの入った壺を支えている。この二度目の『ションデシュ』では、創刊号から毎号、タゴールの『彼』 (14) が掲載された。リラ・モジュムダル (15) が最初の短編小説を書いたのも、この『ションデシュ』だ。その短編に合わせて、彼女は自分で面白い挿絵を描いた。他の画家の中には、今日有名になった、ショイロ・チョクロボルティ (16) がいた。彼の描き初めは、おそらく、この『ションデシュ』だったのだろう。

その当時、ぼくが愛読していた児童向けのベンガル語月刊誌が、もう一つあった。『虹』誌だ。『虹』の事務所は、ボクル=バガン・ロードとシャマノンド・ロードの交差点にあって、ぼくらの家から200メートル足らずの距離だった。この雑誌の編集長、モノロンジョン・ボッタチャルジョ (17) と知り合いになれて、とても嬉しかった。彼の書いた、日本人探偵フカカシが主人公の、『ルビー』と『ゴーシュ・チョウドゥリの時計』が、ぼくはとても好きだったから。

訳注

(注1)アメリカのスチュードベーカー社の社長、アルバート・アースキンの名を冠して、1920年代に売り出された箱型の車。

(注2)フィアットは、イタリアの小型車製造メーカー。アンバサダーは、ヒンドゥスターン・モーターズが生産した、インドの国民車。

(注3)フグリ川東岸、カルカッタの中心部に広がる緑地帯。北はイーデン庭園(Eden Gardens)、西はウィリアム要塞(Fort William)、南はヴィクトリア記念堂(Victoria Memorial Hall)に囲まれている。

(注4)「バブー」は、ベンガル人中間層のヒンドゥー教徒男性に対して用いられる敬称。

(注5)「ジムカナ」(Gymkhana)は、英領時代にできた、白人とインド人上流階級のための、スポーツを通しての社交クラブ。エルギン・ロード(Elgin Road)は、ボバニプル地区(南カルカッタ)の北側を東西に走る通り。

(注6)「ジー」は、インド人の主にヒンドゥー教徒に対する、親しみをこめた敬称。

(注7)「母なるインド」(Bhārat Mātā)は、インドを母神として人格化したもの。

(注8)Chittaranjan Das (1870-1925) は、著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」は、彼につけられた呼び名。過労のため、1925年に死去。

(注9)東ベンガル(現バングラデシュ)北部の県

(注10)レイの祖父ウペンドロキショルの、2番目の弟。『ぼくが小さかった頃』⑤参照。

(注11)フォード・モーターズが1908年に発売した大衆車。

(注12)中央カルカッタ、シアルダー駅の東側の地区。

(注13)北カルカッタ、現在カルカッタ空港のある地区。

(注14)タゴールの中篇小説。1937年出版。

(注15)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 1908-2007)、著名な女流作家。児童文学作家として名高い。

(注16)ショイロ・チョクロボルティ(Shaila Chakraborty, 1909-89)、著名なイラストレーター・漫画家。

(注17)モノロンジョン・ボッタチャルジョ(Manoranjan Bhattacharya, 1903-39)、児童文学作家。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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