Dance Villageでの舞踊のレッスンは、まずはガウリ・マから直接習うことができた。
その後、日本でいう人間国宝に値するPadma Vibushan ケルチャラン・モハパトラ・グルジの息子さんである、ラティカント・モハパトラ=シブ・グルジから。
その後、ビチットラナンダ・スワイン グルジ=ビチ・グルジも来てくださった。。。
シブグルジは、パカワジというオディッシーならではの横叩きの太鼓を叩いては、ステップレッスンをしてくれた。とってもシビアな指導ではあったが、レッスンの合間には、私達生徒と共に、ふざけた格好をさせては写真をとったりなどジョークいっぱいの時間も過ごした。
シブグルジのアレンジによるユニークショー
また、時には、なんともありがたいことに、大御所ケルチャラン・モハパトラ・グルジ=バレグルジ(大きなグルジ)自体が何日か滞在して下さり、指導や、グループコンポジションをして下さった。(最後にして下さったのは、ラーマーヤナで、私は鹿の役だった!)
ケルチャラングルジにポーズを直してもらう私
彼の滞在時のとても貴重な思い出は、夕方、日が暮れてくると、毎日オイルランプに灯をともし、お線香を炊いてはパカワジや、マンジーラ(小さなシンバル)と共に、バジャンを歌ったこと。
彼の敬虔な姿や、巧みなパカワジ演奏、そして特にゴービンダ ゴービンダ ゴパーラナーデ…♪とクリシュナ神を讃えたある一曲は、私の中のdevotionalな部分が鼓舞されてか、泣きそうになるくらいに大声で歌い捧げていたのが思い出される。
ケルチャラングルジによるレッスン風景
あと、堅苦しい日本人気質がひっくり返されたのは、ホーリー祭りの日。
色とりどりのカラーの粉や、水をみんなに思いっきり投げつけあい、挙句の果てには、ウォータータンクに飛び込む!のだった!!!!!
幼い頃から結構マジメ少女だったわたし。ここまで、ぶっ飛んだことをしたことがなかった。まさに青天の霹靂だった!!!
ホーリーで色とりどりに染め上がった私達
「言葉はどうしたの?」とよくきかれる。
インドの各地から来た生徒の中には、ヒンディー語を話さない人もいたため、私もいることだし、と英語を共通語にして下さったおかげで、日常生活のことばにはあまり問題がなかったのは、幸いだった。
また、ここでは、深い井戸からの安全な生水を飲むこともでき、インドに居ながらも、いろんな意味でとても楽に生活することができたのだ。
もちろん、たまには、生活慣習の違いから、ひとり取り残された感覚になり、さみしい思いをしたこともある。
しかし、私の夢を見てくれたというガウリ・マは、ある意味、私のインドでのお母さんのような存在だった。彼女は、他の人からマッサージを受けるのはあまり好まなかったといいながら、私のマッサージは、プロ並みだと気にいってくれて、ちょくちょく、彼女が寝ていたテントに夜、マッサージに行き、彼女が寝たのを見計らって自分の部屋に帰る、ってことをさせてもらった。
また、ケララ出身のナヤール・ジのお料理は、とても美味しかった。朝から、マサラ・ドーサ(スパイス炒めのじゃがいも入り米粉クレープ)や、ウプマ(セモリナ粉の卯の花みたいなもの)、イドゥリ(米粉の蒸しパン)+ココナッツ・チャトゥニ(ココナッツペースト)やサンバル(辛味スープ)などなど。。。
南インド料理は、小麦ではなく、米の文化。特に、ケララでは、ココナッツやバナナをたくさん使った料理で、わたしはとっても好きだった!
そんな訳で、未だに、やっぱり南インド料理派なのです。
ビチットラナンダ・グルジ達との食事風景
花の宮祐三子(Hananomiya Yumiko)プロフィール
大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko Chatani)
大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。
’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAM(The Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiを Padma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。
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