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2024年7月17日水曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード4)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

若葉のとき: 1990年代 

1990年代には、後年日本でオディッシー学校を開き、後進の育成に励む日本人ダンサーたちがぞくぞくとインドに渡り学ぶ。 

1990年、茶谷祐三子はプロティマ ガウリ ベディがバンガロール郊外に開校した少人数の内弟子制の学校、ヌリッティヤグラム(ダンスヴィレッジ)の最初の生徒の1人となった。茶谷は1986年のケルチャラン モハパトラとクムクム ラールの舞台を見てオディッシーを習いたいとずっと願っていた。 

バラタナティアムですでに日本で活躍していた田中裕見子はオリッサのラマニ ランジャン ジェナの元でオディッシーのマンチャプラベーシュ(お披露目コンサート)の準備を始め、デリーに拠点を移したラマニと一緒に移動し、1990年にデリーでマンチャプラベーシュを行った。ラマニにはだんだん日本人の弟子が増えていく。野中ミキはヴァサンタマラ研究所で学んだ後、1990年に留学、ラマニに学んだ。野中に師事していた桐山日登美も1997年、ラマニに師事。野中、桐山は2000年にラマニを日本へ招聘し、京都、神戸、大阪などで公演を5回、レクチャー&デモンストレーションとワークショップを行った。公演は日本人音楽家による生演奏があったり、毎回アイテムが違っていたり、充実した内容だった。 

その当時は関西のほうがオディッシーダンサーが多くいらっしゃいました。東京やデリーは白黒はっきりした直線的なイメージがあって、オディシャや関西は曲線的というかなんかのんびりした感じが、似てるのかな、と当時の私はそんなふうに思っていました。」(桐山日登美談)  

 

神戸アートビレッジセンターで「クルヤドゥナンダナ」を踊るラマニランジャンジエナ。 2000年6月4日、 オディッシィダンススタジオカマラカラ・ピータ主催の コンサート「オリッシィの魅力」 にて。 (写真提供 桐山日登美)

 

ほかには、櫻井暁美の招聘で、1993年にイリアナ チトリスティが来日し、大阪、徳島、京都、広島でオディッシーの公演やワークショップを開催した。イリアナのたっての希望で京都の禅寺での数日を堪能した。その後、2008年に再度来日した。 

1992年に安延佳珠子は、シャンティニケタンへ留学、その後オディシャのスルジャンでケルチャラン モハパトラに学ぶ。2000年前後は、ときどき安延佳珠子が上京する以外、オディッシーの先生は関東にいなかったという。じきに安延は東京で開校し多くのダンサーを育成した。1996年には日本のインド大使館でパンフレットを見た小野雅子がヌリッティヤグラムに入門する。同じく1996年、福島まゆみがオディッシーを始め、1998年にスルジャンでケルチャラン モハパトラに、1999年にムンバイでジェーラム パランジャペに学ぶ。2000年から毎年ケルチャランを訪ね、東京で開校した。また、福島に学んだ、名古屋の佐藤幸恵は2008年よりスジャータ モハパトラに師事。 

浜田さえ子に学んだ直原牧子は1993年に渡印してマダヴィ ムドゥガルに学ぶ。1996年に神戸商科大学でアメリカ文学を教えるために、ラトナ ロイが一学期間滞在した。この前後、ラトナは数回日本で公演やワークショップを行っている。浜田に1993年から学んでいた村上幸子は、浜田と一緒にラトナに学び始め、村上は翌年アメリカに移動したラトナの元に渡り、1999年にシアトルでソロデビューした。その後、インドでガンガダール プラダン、続いてロジャリン モハパトラに学ぶ。枡井由美子も浜田に学び、オリッサダンスアカデミーのシニアダンサー、ポビットラ クマール プラダンに師事。油谷百美もポビットラに師事し、Rudrakshya Foundationでも学んだ。 

などなど多くの日本人ダンサーが活躍し始めた。 

 

のびのびと枝をはる日本のオディッシー: 2000年以降 

2000年代に入ると、スバス チャンドラ スワイン、スジャータ モハパトラ、ラティカント モハパトラ、ラフール アチャリヤ、ロジャリン モハパトラ、ガジェンドラ クマール パンダ、ジェーラム パランジャペ、ヴィシュヌー タッタヴァ ダス、ミーラ ダス、ソナリ モハパトラ、ナムラタ メタなどさまざまなオディッシーの踊り手が日本を訪れるようになった。日本のオディッシーダンサー個人が師匠を本国から招待するだけではなく、民間のインド交流団体の日印文化交流 (India-Japan Cultural Exchange)や日印交流を盛り上げる会、ミティラー美術館などや、インド政府の文化交流派遣事業ICCRなどでアーティストが来日する機会が増えた。著名な踊り手が公演、レクチャー、ワークショップのほかに、学術的なカンファレンスに参加することもある。例えば、2008年前後にはシャルミラ ビスワスが、日本大学で行われた世界の巫女舞を研究する会議に参加し、シャルミラはマハリの踊りを披露した。大勢のアーティストをインドから招 

聘しているミティラー美術館の長谷川時夫が、2004年、2007年にゴティプア舞踊団を呼び、日本全国各地を周った。 

 

2004年、 東京のナマステインディアに出演したゴティプア舞踊団 (写真 河野亮仙)

 

それまでは日本のオディッシーはケルチャランスタイルのみだったが、2000年代に入ってからは、日本ではデヴァプラサード スタイルの人気が高まり、生徒が増えた。2006年に仲香織がデヴァプラサード スタイルをガジェンドラ クマール パンダに学んだ。2010年、ガジェンドラは来日し日本各地で公演、ワークショップをした。そこに来ていた、三浦知里が名古屋を本拠地にデヴァプラサード スタイルを日本に定着することに一役買う。その同時期に、ドゥルガー チャラン ランビールと弟子のラフール アチャリヤに学ぶ篠原英子が、2011年と2014年にラフール アチャリヤを招待した。篠原は2009年にインドへ渡りラフールの最初の日本人の弟子となり、東京を拠点に活動を続けている。日本ではマレーシアのスートラ舞踊団が大変人気がある。ガジェンドラとスートラ舞踊団、大阪のインド総領事は懇意にしていることもあって、2023年には、ガジェンドラ クマール パンダとスートラ舞踊団が来日して盛り上がった。 

中堅の日本人オディッシーダンサーたちは、舞踊学校を始め後進の育成に務めるだけではなく、多くはヨガや瞑想を教えたり、サリーの着方などの文化講座を開き、あるいはオディシャの民芸品や芸術品の販売など、踊りだけではなく幅広い文化交流を行っている。また、本国でさまざまに変化し続けているオディッシーダンスを反映して、日本のオディッシーにもさまざまな表現が見られるようになった。オンラインで学ぶことが普及してきたこともあって、特定の学校に属さないで学ぶ踊り手が増えている。

 

オディッシーが生まれたオディシャ州で信仰されている(右から)ジャガンナータ神、スバドラー神、バラバドラ神。大阪の国立民族学博物館には、この三柱の神様のほかに山車も展示されている。オディッシーダンスは、マハリと呼ばれた神様の世話をする女性たちが寺院で奉納した踊りに起源がある。毎年夏にプリーで執り行われる山車祭りには大勢の巡礼者が訪れる。オディッシーダンスも奉納され、ジャヤ デーヴァ作「ギータ ゴヴィンダ」の歌などが歌われる。(写真 田中晴子)

 

実り 

日本人になぜオディッシーがこんなにも広まり愛されるようになったのか?舶来のものを愛でる気持ちと、インドへ憧れの気持ちが根底にある。オディッシーの動きは柔らかく、円を描くようで、しなやかで好きだ、そして、オディッシーの感情表現が好きだ、自分に合っている、と言う日本人ダンサーは多い。「グル シシャ パランパラ」、つまりお師匠さんに弟子入りしてグルへ奉仕しながら学ぶスタイルも日本人には馴染みがある。献身の喜びを日本人は生得しているところがある。そして、なかなかわかりにくいインド舞台芸術の真髄、バーヴァとラサの概念を、とくに教えられなくても自然に受け止めることのできる感性が高い人が日本人には多いと思う。さらに、生来の真面目さ、緻密さ、正確さを愛する性分と、神道からくる浄を愛で不浄を忌む感覚も加わると、献身的情熱的オディッシーダンスの生徒ができあがる、と私は思っている。 

私財を投げ打ち、人生のすべてを捧げた先人たちのオディッシーへの献身の姿を想うと頭が下がる。大御所、中堅所の日本人オディッシーダンサーたちは、インドで偉大なグルと巡り合い、身近に接して教えを受けたという恩恵に恵まれている。生身のグルの存在感から受ける印象は、言葉にできないものであっただろう。生徒たちは献身の喜びを体験したに違いない。ところで、かのグルたちは、智慧を誰から授かったのだろう?オディシャの人たちならそれは神の恩寵にほかならない、と言うだろう。日本人オディッシーダンサーたちがグルから受け取ったのは、神の恩寵だったのではないだろうか? 
 

   私の中のオディッシーとは 

   あの夜の空に月が輝くとき 

   あの日の昇るとき、沈むとき 

   夜風に花の香りの満ちるとき 

   波の音を聞くとき 

   大きな滝の下に立つとき 

   そんなときどきに この世界の美しさの中 

   私は 酔っ払う 

 

   オディッシーのあの調べ あの動き そのすべてが 

   私の身体の芯を喜び震わす 

 

   初めてオディッシーをみたとき 

   私の中で何かが大きくシフトした 

   そしてそれから 私の前に踊りが現す世界を 

   私の内に外に 感じつづけている 

  (高見麻子 遺稿より) 

 

本文中に登場する偉大な師匠、恩師のみなさまの敬称を省略させていただきましたが、深い敬愛の念を常に胸に抱いて執筆いたしました。お力を貸していただいたサキーナ彩子さん、田中裕見子さん、桐山日登美さん、福島まゆみさん、村上幸子さんに篤くお礼を申し上げます。 

  

参考資料: 

河野亮仙の天竺舞技宇儀 

河野亮仙 日印文化交流年表 

My Journey: A Tale of Two Birthsイリアナ チタリスティ著 

 

プロフィール: 

サキーナ彩子 

京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。 

連絡先:maa.sakinadidi@icloud.com 

 

田中晴子 

東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023)、『神の手 治療家 坂井秀雄』(2024) 

ウェブサイト 



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2024年7月2日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑲(最終回)

学校生活(5 

 

昼休みの1時間の間に、食事と遊びの両方があった。家から弁当を持ってくる生徒もたくさんいた。ぼくらは、1包み1ルピーの、アルー・ドム (1) を食べた。カレー味のジャガイモは、沙羅の葉の筒に入っていて、一本の串がついている。これでジャガイモを串刺しにして、口に頬張る。ある日、昼食の時間に、新しい、驚くべき食べ物が持ち込まれた。紙に包まれた、バターのように見えるアイスクリーム –– その名も、ハッピー・ボーイ(Happy Boy)。ベンガル人の会社の商品で、街頭で売られるアイスクリームの、先駆けだった。しばらくすると、街中に、ハッピー・ボーイ・アイスクリームを載せた押し車が見られるようになった。ハッピー・ボーイがなくなると、マグノリア、そしてそのずっと後に、クワリティ(Kwality)とファリニ(Farinni (2)  

 

昼休みの遊びの中には、棒弾き遊び (3) を除けば、特に人気があったのは独楽回しだ。ジョグ・バブー市場 (4) の側にある、ミトロ・ムカルジの店の階段に、夕方になるとカルカッタの最良の独楽作り、グピ・バブーが店を開いた。独楽がどんなによく回るか、グピ・バブーの作った独楽を見たことがない人にはわからないだろう。その独楽をぶつけて、他の独楽を壊す遊びが、昼休みに続けられた。その他、掌の上で回したり、回したまま宙に飛ばしたり、回っている独楽を、片方の掌から廻し紐の上にすべらせてもう一方の掌に渡したり –– こうしたいろんな遊びがあった。一度、投げた独楽が的から外れて、オモルの足に当たったことがあった。彼の足の甲から、すぐに血が迸(ほとばし)り出た。 

 

遊んでいる時、このような危険な目に遭うことは、他にもあった –– スポーツ大会の日のショシャントのように。彼はぼくらの同級生で、スポーツと勉強のどちらもよくできた。スポーツ種目の中に、目隠し競争というのがあった。運動場の一方の端からもう一方の端へ、100メートルほどの距離を、目隠しした状態で走らなければならない。競争が始まった。シュシャントはまっすぐ走ることができず、途中で左の方に逸れていくのが目に映った。誰か一人、彼の名を叫んで注意を促した。シュシャントは一瞬怯んで足を止めたが、次の瞬間、遅れを取り戻そうとして、猛烈な速さで走り出し、ゴールの柱から230メートル左にあった学校の境界の壁に、目隠しの状態でまともにぶち当たった。その光景、そのぶつかった時の音を思い出すと、今でも身体に震えが来る。その次の年から、もちろん、目隠し競争自体が禁じられた。 

 

学校の最初の4年間、ぼくはボクル=バガン・ロードにずっと住んでいた。9年生に在学中、ショナ叔父さんとともに、ベルトラ・ロード (5) に引っ越した。この家は、ボクル=バガン・ロードの家より、少し大きかった。ベルトラのぼくらの家の隣には、チットロンジョン・ダーシュ (6) の娘婿の法律家、シュディル・ラエが住んでいた。彼らが持っていた薄黄色の車は、あの有名なドイツ製の車、メルセデス・ベンツ –– ぼくらそれを、初めて目にしたのだった。シュディル・ラエの息子のマヌとモントゥは、ぼくの友達になった。マヌも後に法律家になり、さらにその後政界入りして国民会議派の一員となり、西ベンガル州の首相にまでなった。その当時、彼は、シッダルトションコル・ラエ (7) の名前で知られていた。 

 

ベルトラには、男の子たちのクラブがあった。ぼくがベルトラに移って2, 3日経つと、近所の男の子たちが現れて、ぼくをクラブに入れるために連れ出した。マヌとモントゥもクラブの会員だった。ぼくらの家から二つ向こうの家には、もう一人の法律家、ニシト・シェンが住んでいたが、その家には広い地面があって、そこでクリケットとホッケーをしたものだ。いっぽう、マヌたちの家の狭い地面は、バドミントンをするのに使われた。ニシト・シェンの息子や甥の、チュニ、フヌ、オヌも、皆、クラブに属していた。その他、チャトゥッジェ家のニル、ボル、オナト、ゴパルもクラブの会員だった。在学中に、みんな、ぼくの友達になった –– 彼らは家の外の道から、ぼくの部屋に向かって、近所に響きわたる声で叫ぶ –– 「マニク、いるかい?」 やがて彼らには、もう一人新しい仲間が加わった。 

 

その子は ‘South Suburban School’ 南郊外校) (8) に通っていた –– ぼくより4歳ほど年上だったけれど、学年はぼくと同じだった。何度かたて続けに、落第した結果だったのだろう。名前はオルン、呼び名はパヌ。モエモンシンホ県(東ベンガル)出身の、オキルボンドゥ・グホの家の子だった。ニシト・シェンの家の向かいの家だ。ぼくらのクラブの会員になったけれど、頭が良くなかったので、誰にも相手にされなかった。そのパヌが、ある日突然、ドムドム (9) の飛行クラブに入り、飛行機の操縦を身につけたのだ。その後、飛行クラブの年に一度の催しに、彼はぼくらを、ドムドムへ招待した。彼は二人乗りの飛行機を操り、空に舞い上がったかと思うと次々に爆音を立ててダイブを繰り返し、ぼくらに向かって下りてくるかと思えばまた空に舞い上がる –– こうして、ぼくらをあっと言わせたのだ。この時以来、もちろんぼくらは、パヌに一目置くようになった。 

 

 

 

ぼくらの時代には、政府の法律で、15歳以上でないと大学入学資格試験の受験資格がないことが決められていた。試験は1936年の3月にある。その時には、ぼくの年齢は14歳10ヶ月。つまり、1年間、待たなければならない。困ってしまった。法律家の手を借りて年齢を水増しすることはできるけれど、母さんはそんなことを決して許そうとしない。ところが、驚くべきことに、試験のわずか数ヶ月前になって、政府はこの15歳の年齢制限を撤廃した。おかげでぼくは、1年待たなくてもよくなった。 

 

学校を卒業して10年あまり後、何かの催しで –– たぶん昔の級友たちの集いに参加するために –– 公立バリガンジ高等学校に行かなければならなくなった。大ホールに入った途端、こう思った –– あれ、一体どこなんだ、ここは! このホールが、あのホールだって? –– あんなにでっかいと思っていたのに? 入る時、扉に頭がつっかえてしまう! 扉だけではない、すべてが、とんでもなく小さく感じられた –– ベランダも、教室も、教室のベンチも。 

 

もちろん、そうなるのは当然だった。学校を卒業した時、ぼくの身長は160センチ足らずだったのに、10年後に学校を訪問した時には、195センチに届こうとしていた。学校はそのままで、大きくなったのはぼくの方だ。 

 

この後、二度と学校に戻ることはなかった。子供の頃の記憶に満ちた場所に、改めて行ったところで、昔の楽しさを取り戻すことはできない。追憶の山の中を手探りして、それらを取り戻すことの中に、本当の楽しみがあるのだ。 

 

 

訳注 

(注1)汁無しの、ジャガイモ・カレー。 

(注2)いずれも、アイスクリームやパン・菓子類の製造・販売で、有名な店。『ぼくが小さかった頃』② 参照。 

(注3)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。 

(注4)「ジョドゥ・バブーの市場」の名でも知られる。南カルカッタのボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)地区北部にある市場。 

(注5)ベルトラ・ロード(Beltala Road)は、ボバニプル地区の、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。 

(注6Chittaranjan Das (1870-1925)  著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」の呼び名で知られる。『ぼくが小さかった頃』⑧ 参照。 

(注7Siddhartha Shankar Ray (1820-1910)  著名な法律家・政治家国民会議派に属し、西ベンガル州の首相、のちにアメリカ合衆国のインド大使などを務める。 

(注8)ボバニプル地区の最南端にある、州立の学校。1874年設立。 

(注9)ドムドム(Dum Dum)は、カルカッタ北部、現カルカッタ空港のある地域。『ぼくが小さかった頃』② 参照。 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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