第15回 インドの母系制社会
昭和28年に、虎や豹がうろついているアッサムのガロ族が住むジャングルに出掛けて、虎狩りまで試みた女性がいる。
虎狩りが目的ではなくて、アジアにおける親族関係を調査したのは社会人類学の中根千枝である。20年後にお札の顔になっても不思議はない、国際的な学者であった。
インド政府の人類学研究所に受け入れてもらったようだ。
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後に、日本はタテ社会であると喝破した。今も若手国会議員の後ろに長老がいて操っている。
中根千枝『未開の顔・文明の顔』(角川文庫)によると、奥地に入る前の準備は、砂糖二貫目、塩五百匁、ランプと油、ろうそく、紅茶一ポンド、巻煙草百箱、新聞紙、トイレットペーパー五巻、DDT、アメ玉一貫目、折りたたみベッド、寝袋、着替え、カメラ、フィルム、薬、探検道具一式。アメや砂糖、煙草は調査を円滑に行うためのお土産である。
中根探検隊
テレビ番組の探検ものによくあるが、まずはジープに乗って行けるところまで行く。カヌーを漕いだり、象に乗ったり、最後は道なき道を歩いて傷だらけになる。
わたしは大きい動物より蛇とかヒルやムカデとか虫が恐い。インドにはサソリがいて、ホテルの排水口から上がってきたりするが、アッサムはどうだったのだろう。サソリは乾燥地帯にいるのだろうか。
ジャングルの大木の上には見張り小屋を作る。象が追いかけてきたら急いでそこに駆け上がるのだ。象は足が速い。
虎や豹は人が飼っている豚や鶏、牛を狙うので、人が住んでいる側をうろついている。虎が出るのは薄暗くなった時で、水を飲みにくるのだそうだ。
ガロ族の村で、昨日、妻が象に襲われて死んだという30歳そこそこの男に会った。乳児を抱え、4歳の女の子、2歳の素っ裸の男の子を連れてきた。そのままではどうしようもないので、村の会議で次の妻を誰にするか相談するために集まったのだった。それなりに社会保障のシステムができている。
一般に男はガンドウと呼ばれる褌のみ着用、村の有力者はターバンを巻く。褌を取られるのは大変な恥である。
母系制の社会
中根は当時、27歳。東大助手の身分で、インド政府招聘の留学生としてカルカッタに向かった。また、別途、財団から奨学金ももらったようだ。やり手である。
母系制について調査した。その旨を未開民族とされるガロ族の英語が分かるインテリに話した。
「日本ではお嫁入りをして、子どももお父さんの姓を取り、財産は夫のもので、妻は従順に夫に従うことになっている」と説明すると、
「それはよくない制度だ。女は弱いんだから、自分たちのように財産は女に持たせるべきだ。日本の女の人たちはかわいそうだ」と言った。
女が弱いかどうかはともかく、どちらが進んでいるのか分からない。折りたたみ式のベッドを広げ、寝袋にくるまると皆がよってたかって寝顔を見てわいわい騒いでいる。
翌朝はもっと大変で、外に大勢の村人が押し寄せた。昨日、たまたま斧でけがをした少年に薬をつけて包帯を巻いてやったら、医者だと勘違いされて病気を治してほしいと集まったのだ。目が見えるようにしてくれとか、マラリヤの高熱でがたがた震えている者などが来てもどうしようもないのだが、仁丹をやったりとにかく何かやらないと帰ってくれない。果てにはハンセン氏病の患者までやってきた。
虎の吠える声を寝袋の中で聞きながら寝るジャングルの旅についてこう記す。
「こうした肉体的な苦痛と交換に獲得できる野生の喜びに、たとえようのない精神的な享楽を私は味わうことができる」
「私のこの、最小限の物質しかない小さなテントを、王侯貴族の宮殿に誰かが交換してくれようとしても、私はこの愛すべきテントをとるだろう。それほどジャングルの生活は楽しいものだった」
首狩り族の村
また、凄惨なインパール作戦が失敗に終わった10年後、ナガ族の住む高地のウクルルに赴いた。日本軍二個師団が駐屯し、通過した地である。
アッサムの人々は色が浅黒いだけで顔立ちは日本人に近い。中根が日本人ということを知ると驚嘆の色を見せる。男だったら殺されるのではないかとも思った。
「よくまあ、若いおなごがこんなとこまで来たなあ」「日本のおなごを見るのは初めてじゃ」と老婆が言ってくれて和んだ。
そこからさらに奥に進むと馬も行けない山岳地帯で、雨期のぬかるみを滑りながら上ったり降りたりする。首狩り族であるタンコール・ナガの家を一軒一軒訪ねて聞き取り調査をする。
ある朝泊まっている家の前に、褌一丁の男たちが大勢集まっていた。
10年前に日本政府が食料を調達するために発行したルピー札!を、今、使えるお札に替えてくれといわれた。どうにかこうにか説明して納得してもらったが、長年、大事に持っていた小さな紙幣を手に、とぼとぼと帰って行く後ろ姿を見て申し訳なさに消え入りたいほどだったという。
さらに、アンガミ・ナガの取材にコヒマを訪れる。10年前、日本軍は弾薬も食糧も尽き果てて、雨期のジャングルの中をよろよろ歩き、コレラ、マラリヤで倒れていった。満足な墓も建てられず草ぼうぼうのジャングルの中に幾百もの土まんじゅうがあるだけ。
一輪の花もなく茨のとげに足をさされながら中根はひざまずき、長い祈りを捧げた。一陣の風が起き、折からの雨は激しさを増しコヒマの山河は慟哭するのだった。映画であれば最高の見せ場だ。中根千枝役をやる女優は誰だろうか。
さすがに朝ドラでは無理だが、虎狩りを始め楽しくも悲しくもあるエピソード満載の冒険談である。
タゴール家に身を寄せる
中根はチベットの民俗と歴史を調べるため活気に満ちた国境の町カリンポンに進む。第13回に記した西川一三と木村肥佐生が住んだ地であり、ネール元首相はスパイの巣窟と呼んだ。
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ノーベル賞詩人ラビンドラナート・タゴールが愛した町でもあり、町から3キロほど離れたタゴール家の別荘「チトラバヌ」に中根は住んだ。タゴールの長男の夫人が一ヶ月ほど避暑にくるくらいで、ほとんど独りで研究生活を送った。いや、召使いがいるが。
ロシア人でチベット学の権威G・レーリヒや、ラサから来た僧侶を講師にチベット語の僧伝を読んでもらっていた。そこから生活や地誌、歴史や哲学の情報をたぐり寄せるのだ。おそらく、中根とチベット関連のコネをつないだのは大谷光瑞に可愛がられた本願寺派の多田等観か青木文教だと思われる。東大でチベット語を教えた。
カルカッタでは通称タゴール通り、ボウバザール、シャンバザール界隈のタゴール夫人の家に住んで研究した。二階には詩人タゴールが息を引き取った部屋がある。どういう伝手でタゴール家につながったのか、あらゆる手を尽くして周到に準備し、身の安全保障を図っている。
また、中根はダライラマの兄であるタクツェ・リンポチェ(築地本願寺の社宅?に住んでいたようだ)から紹介された、ネパール人の大商人がハリソン通りに住んでいるので会いに行く。
イタリアから届いたばかりの真っ赤な毛織物が山積みされていた。それはカリンポンに住む三男の店に送られ、さらにロバの背に乗せられて次男が経営するラサの店に運ばれる。なんとリンポチェ様の僧衣はイタリア製の高級生地だったのだ。現場を数踏むことは大切である。
所属するインド政府人類学部というのはカルカッタ博物館の4階にあった。部長はグハ博士、同僚はムカジーとバタチァルジーというベンガルのバラモン。常に瞑想しているような静けさを持っていたという。
1950年代カルカッタの街の描写が秀逸である。
チベット寺院に住む
シッキム王女クララ姫の紹介で、中根はガントックの東北24キロにあるボダンに進み、寺院の一隅に住んで、朝晩は勤行を聞き、昼間は民家を訪ねて調査する。
ジープで進める道は半分で、後は険しい山道を上り下りする。山はすぐに天候が変わり雹や雷雨に襲われ、そうなると途中には民家も休むところも何もないつらい旅となる。
この地区には一妻多夫の習慣がある。一つには、財産を相続するのに男子がそれぞれ独立して土地を相続すると、どんどん小さくなるからだ。例えば、三人兄弟で一人の妻を娶れば財産は保たれる。また、嫁を迎えるのには多額の支度金を用意しないといけない。
中根の調査によると、一人が修行僧でほとんど寺院で過ごし、一人は行商に出て、実質、一妻一夫である家もある。逆に姉妹で一人の夫を迎えることもある。しかし、そんなケースは2割程度で、たいていは一妻一夫だった。
クララ姫は中根に一緒にラサへ行きましょう、素晴らしいからと誘う。あなたならチベット人と顔は変わらないから大丈夫よと。ロバの背中に乗って何回も往復していたようだが、何日かかるのだろう。休み休み二週間くらいの旅か。従者を伴ってのことだと思うが、4000メートルの険しいザリーラ峠を越えるのは決して楽な旅ではない。護衛を着けなければ山賊に襲われる。それに、中根は国境を越えることはできない。捕まれば本国送還で留学が終わってしまう。
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ストックホルム
喧噪のカルカッタからおよそ正反対のスウェーデンに飛ぶ。首都のストックホルムでさえ、人はまばらにしか歩いていない。上品ですれていない美しい人々。
スターリン賞を受賞したという著名なアンドリーン女史のお宅を訪ねる。「カルカッタでお会いし、私にエリン・ワグネル奨学金授与に尽力してくださった」とだけ記している。手の内を明かしていないが、この方やタゴール家など日本から連絡をとって四方八方手を尽くして準備していたはずである。
ワグネルは名誉あるスウェーデン・アカデミー会員となった小説家。どうしてそんな冒険ができるのですかとアンドリーン女史が聞くと、「ただ行くのよ。通訳とガイド、ポーターを連れて。何でもないことよ。ただ行けばいいの」
人生の至言である。人は目の前にない事を思い巡らすので不安になる。虎に食われたらどうしようと。
さらに、イギリスに駒を進め、江上波夫とロイヤル・アルバート・ホールで演奏会を聴きお茶をする。社会人類学の論文を書き、パリに二週間滞在してローマに着いたのは1956年の大晦日のことだ。
あのチベット学の権威、トゥッチ博士のお宅に伺うとチベット犬がいた。一年の半分はネパールやチベットの国境で調査をしていた。中根は週に二、三回出掛けてテキストを読んでもらうが、その間にも政府や大学から電話が掛かってくる。終わると次の部屋に、外国から来た学者が待っているという状況だった。これも交友があった多田等観の紹介なのかと思う。
駆け足で紹介したが、街々の記述や人間観察、文明批評が素晴らしく『未開の顔・文明の顔』は屈指の紀行文だ。用意周到な準備があって冒険旅行が成り立つ。
ケーララの大家族制の家
東京大学出版会からは『家族の構造』を1970年に出版している。ゼミの資料のような本だ。ここではケーララの大家族について語られているので紹介しよう。
ケーララ州の支配カーストはナーヤル(ナイル)である。母系制を取ることで知られ、かつては何十人、百人以上が昔の学校の校舎みたいな木造の家に住んでいた。ヒンドゥ一般と同じく、ケーララのバラモンであるナンブーディリも父系制である。ナンブーディリは8世紀頃北方からケーララに来たとされる。比較的色白の彼らは、カシミールから来たとの説もあるがはっきりしない。また、土着といわれるナーヤルがいつ頃から住み着いていたのかも分からない。
土地所有者であり、兵士を務めることが多かったのでクシャトリアを自称しているが、バラモン側からはシュードラだとみなされる。ナーヤルの母系制の家族では、源氏物語の時代の妻問婚のように、夜中に男が女の家を訪ねて交わり、朝になると家に帰る。夫は妻の家には住まず、母の兄弟、叔父が父親代わりになる。
これをバラモン側から見ると、バラモンとしての純血を保ちたいから、ナンブーディリの家では長男だけがナンブーディリの女を娶る。これが正式な結婚、カリヤーナ(吉祥という意味)である。次男以下はナーヤルを娶るというか、愛人とする。この結婚形態はサンバンダム(結びつき)と呼ばれる。その子はナーヤルの家の子として育てられる。もともとナーヤルの家に夫は住まない。
こうしてバラモンと血縁関係を持つことによって一族の地位を上昇させることができた家系は、ケーララにおいて貴族的な存在である。しかし、ナーヤルはナンブーディリの家に立ち入ることはできないのだ。
中流ナーヤルは土地所有者や管理者であり、下層には傭兵として王や地方豪族に雇われたり、農業や召使い、大工、鍛冶屋など様々な職業に従事する。その下のカーストにティッヤ(イーラワン)があり、彼らは母系制で椰子の実取りとされる。チェルマンは父系制で農奴である。
取り残されるのは結婚できなかったナンブーディリの女で、ひっそりと大家族制の家で一生を過ごす。厳しい戒律により自由恋愛というのか、姦淫が見つかるとカーストから追放され、家から放り出されて落ちぶれてしまう。
中根は、ケーララの民衆のバラモンに対するあこがれのような心情、厳しいカースト間の距離について記す。70年前の話である。
アムバラヴァーシー
ケーララには寺院に奉職するアムバラヴァーシーという独特のカーストがある。ナーヤルと同じく母系制である。バラモンとナーヤルの間に位置するとされるが、その中にもバラモンに準じるナンピディがいる。太鼓のミラーヴを叩くナンビヤールについても中根は記すが、サンスクリット語劇を継承するチャーキヤールについての記述はない。彼らはバラモンに準じるカーストである。
この話は、また、今度。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
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