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2025年6月27日金曜日

大阪・関西万博-インド館建設遅延報道が示す倫理観と正義感の多様性

2025年4月13日に開幕した「大阪・関西万国博覧会 EXPO2025」。各国のパビリオンが次々と姿を現す一方で、インド、ネパール、ブルネイなど一部の国は開館が間に合わず異例のスタートとなりました。特にインドパビリオン”バーラト”は、世界遺産の再現やインダス文明の遺産、最新の月探査船模型などの内容も充実し素晴らしい展示となった一方で、約2週間遅れての完成となりました。

 

開幕の数日前、まだ建設途中のインド館を背景にした報道陣インタビューで、インド人の現場責任者は「建設は100%間に合います!」と断言しました。しかし実際には、大方の予想通り開幕には間に合わず、ようやく完成を迎えた5月1日、在大阪・神戸インド総領事チャンドル・アッパル氏は穏やかな口調で報道陣に語りました。

 

「2週間で出来たし、遅れたとは思っていません。完成して本当にうれしいです。」

 

日本人には、「強がり」「責任逃れ」と受け取られるかもしれないこれらの発言ですが、そこには実はインドの哲学や文化、歴史や伝統に根ざした深い倫理観と正義感があります。筆者はインドに駐在していた際に、「インド人はすぐ嘘をつく」「インド人は虚勢を張る」と日本人に誤解されてしまっている残念な状況を幾度も目撃しました。しかし、インド哲学や文化の観点から見れば、こうした言動はむしろ倫理的に正当であり正義に適う行動なのです。今回の万博での報道は、こうした異なる価値基準による誤解を解く重要な契機となります。

 

ヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』には、「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」が説かれています。「あなたには行為に対する権利があるが、その成果・結果に対する権利はない。行為の成果・結果に執着してはならない」。アッパル総領事の「遅れたとは思っていません」という言葉はこの教えと深く共鳴します。彼が重視するのは「完成に導いた」という行為そのものなのです。

 

また、『マハーバーラタ』のウッディヨーガ・パルヴァンには、「人は正しい時機(カーラ)を待ちつつ努力すれば成果を得る。時機を得なければ、いかなる事業も成就しない」と記されており、すなわち「今、工事が完成した」という事実そのものが、これこそが何よりも時機を得たタイミングである、ということを示していることになります。

 

インド館の完成は総領事としてのダルマ(義務・本分)を果たした証であり、「本当にうれしい」という感情の表明は、ギーターが説くサットヴァ(純粋性)に基づく喜びを最も重視して、関係者や来場者とも分かち合おうとする行為です。インド思想は、困難を乗り越え達成した使命について精神的充足を感じることを重視しています。

 

一方で、日本社会では「期日を守ること」が広く共有された倫理観とされ、少しの遅延にも丁寧な謝罪が求められます。日程という形式的な結果が優先され、スケジュールを守ることが倫理観や正義感の尺度となります。しかしインドでは、形式的な遅延のみを理由にして謝罪をすることは、自分や仲間の誠意や努力を否定して台無しにする行為であると捉えられます。ここに両文化の価値観の大きな違いがあります。

 

すなわち、アッパル総領事の発言は、単なる外交辞令や言い訳ではないのです。心の底から、「私や工事関係者は私心なく任務を遂行し、自然な流れで適切な時期に完成に至った」と考えており、彼の深い信念と責任感の表れです。彼にとっては、「今、完成した」ことが天のタイミング(カーラ)に合致しており、自身の内的義務(スヴァダルマ)を果たしたことを意味しており、これこそが最も秩序(リタ)に適った完成であるという信念を表明しています。

 

このような態度は、形式を満足させることを重視し謝罪も付随させる日本的な社会の行動とは異なりますが、インドではむしろ行為の本質を重視している精神的成熟の証なのであるとして評価されます。インド人にとっては、このような態度こそが「責任を果たす姿」「誠実で精神的成熟度が高い証」「正義に適った高貴な行動」と映ります。

 

日本人が遅延を理由に深々と謝罪する姿は、インド人にとってはしばしば不可思議で倫理的に疑問視されることもあります。誠実な努力がなされた以上、形式的な遅延のみを理由に謝罪することはかえって正義に反する態度と捉えられ、自信の無い、頼りない、誠実さを欠いた道徳的に劣後した行為に映ってしまうのです。

 

大阪・関西万博におけるパビリオンの遅延は、単なる工程管理の視点を超えて、異文化間の倫理観や正義感が交錯する重要な場となりました。アッパル総領事の発言には、「結果に執着せず、行為そのものに誠実であれ」という、インドの古典哲学に根差した深いメッセージが、その根底にあります。

 

EXPO2025が掲げる「いのち輝く未来社会のデザイン」は、このような異文化間の深い対話と理解の上に築かれるものです。今回の遅延騒動は、多様な価値観を尊重し、学ぶ貴重な機会を提供してくれたのではないでしょうか。

 

 

栗原 潔(くりはら・きよし)

2005年、文部科学省に入省。

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

 

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2025年6月15日日曜日

『マハーバーラタ』を知らずして観るなかれ:日本から見るインドSFの衝撃

在インド日本大使館に赴任して以来、わが家の週末はすっかり“ボリウッド上映会”となりました。異国の灼熱と喧騒、その奥に息づく神話の鼓動をスクリーン越しに感じるたび、家族全員がインド映画の虜になっていきました。インド映画と言っても、ムンバイを拠点とするヒンディー語映画産業「ボリウッド」とは異なり、テルグ語映画はハイデラバードを中心に展開する南インドの映画文化に属し「トリウッド」と呼ばれています。そして今年、新たに心を奪われた一本が終末SFと叙事詩を融合させた『カルキ 2898-AD』。この作品も、日本で大きなブームとなった『バーフバリ』や『RRR』等と同じくテルグ語映画として制作されたものです。 

2025年1月日本公開の映画『カルキ 2898-AD』は、乾ききったガンジス川を舞台にした“インド版マッドマックス”ともいえる作品であり、華やかなビジュアルの裏側に、古典叙事詩『マハーバーラタ』の壮大な世界観を隠し持った知的な挑戦作となっています。2024年6月の世界での公開直後から、熱狂的な議論が巻き起こり、製作陣はすでに続編を2026年末に公開予定としています。 

本作は、ハリウッドのSF映画のような外観を持ちながら観客を巧みに引き込み、やがて神の弓ガーンディーヴァも現れ、さらに主人公が太陽神の子カルナであることが明かされます。ビーシュマが矢のベッドに橫たわる場面や、アシュヴァッターマンの呪いなど、インド神話ファンにとっては涙なしには観られないディテールが随所に織り込まれています。これらの“隠し味”を理解できるかどうかで、本作がSF作品として消費されるか、あるいは魂を震わせる叙事詩として昇華するかが変わってきます。 

なぜ主人公がカルナなのか。〈義〉と〈出自〉の狭間で揺れ動くカルナの運命は、「正義は一方の側だけにあるのか」という、今の私たちにも響く問いを投げかけてきます。まさにここに、本作の深い哲学が宿っています。善と悪という単純な二項対立を超えた倫理を提示することで、物語は神話の過去を未来の想像SF世界の中に折りたたみ、観客自身に“意味を解釈する責任”を与えているのです。 

『マハーバーラタ』は、世界神話の原型とも言われます。たとえば、大洪水から人類を救うマヌの話はノアの方舟と同じです。クンティの処女懐胎はキリストの出生との類似性があり、カルナが籠に入れられ川を流される描写は、モーセやサルゴン王の誕生譚に通じ、日本の桃太郎の誕生譚ともそっくりです。こうして見ていくと、『マハーバーラタ』は決して“遠い異国の物語”ではなく、私たちの文化の根底にも通じる、普遍的な原型を内包しているのだと気づかされます。 

 

しかし残念ながら、日本では『マハーバーラタ』に触れる機会は多くありません。原典は長大で難解なため、バガヴァッド・ギーターの抜粋などにとどまり、日本ではインド精神文化の中枢に十分にアクセスできていないという見えない文化的障壁が存在しているように思います。近年、若年層にとってスマホゲーム『Fate』シリーズに登場するカルナやアルジュナといったヒーローキャラクターが魅力となっていますが、それに並んで、本作『カルキ 2898-AD』は、多くの日本人にとってインド神話への扉を開く鍵になる可能性を秘めているでしょう。 

SF的なビジュアルと物語構成を取り入れたことで、本作は“神話=古臭い”という先入観を打ち破り映画ファンやゲーム世代の観客層を自然に取り込みます。ガンダーラ美術とサイバーパンクが融合したような美術設計はコアな層を魅了し、アクション豊富な戦いのシーンや随所に差し込まれるインド映画特有の笑いは幅広い層に楽しんでもらえるはずです。これをきっかけにして、カルナやアルジュナ、ドラウパディーといった名前がSNSや動画サイトのレビューでも自然に語られるようになれば、日本におけるインド文化の浸透とさらなる多方面の交流の深化にもつながっていくでしょう。 

現在の世界は、この映画のテーマに象徴される課題を抱えています。枯れたガンジス川が象徴する水の危機は、気候変動や災害リスクとも共鳴しています。そこに倫理的な葛藤の物語を重ねることで、作品は観客を遠い未来ではなく現在へと引き戻してくれます。『カルキ 2898-AD』は、圧巻のVFXと濃密な神話が交差する実験的作品であると同時に、文化の対話の起点にもなり得る映画です。この映画を語るとき、私たちは自然と日本の昔話や宗教的物語と比較し、深く考えるようになります。その往復こそが、真の意味での文化交流であり、理解への第一歩だと思います。  

『カルキ 2898-AD』のBlu-ray & DVDも2025年6月4日から販売開始されました。さらに来年の続編を楽しみにするとともに、公開されるその日まで、ぜひ『マハーバーラタ』を手に取り、その壮大な物語の大河を遡ってみてはいかがでしょうか。きっと、日印両国の精神的な河川が合流する音が聞こえてくるはずです。 

 

栗原 潔(くりはら・きよし) 

2005年、文部科学省に入省。 

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。 

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。 

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。 

 

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日本から見るインドSFの衝撃
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2025年6月7日土曜日

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2)

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2) 

⚫師匠探しの旅 

1981年の2月の初旬。当時日本・インド間を就航していた航空会社は他にも何社かあったが、国営ということで1番安全そうなAir Indiaのチケットを、現トラベル・ミトラの大魔王こと大麻社長にお願いして取ってもらった。インドに行くのは勿論、海外も飛行機も初めてである。今のようにYouTubeSNSも無く、オディッシーのグルやダンサーの情報もほとんど無い。北インドのシタールやタブラ、南インドのバラタナティヤムなら若干の情報はあったが、東インドのオリッサの踊りの情報など蜃気楼のような心許ないものであった。オディッシーをインドで習ったことがあるバラタの先輩達からは一様に、オディッシーに焦点を合わせて習いたければ本場のオリッサに行った方が良いと言われた。が、どこで誰に習えるかなんかはわからないので、取り敢えずは行ってみたらわかるだろうというのが周りのインド関係者の意見であった。具体的なグルの名前やスクールの情報もほとんどなかったので、その意見に従うことにした。いまだにころころ変わるVISAの種類であるが、当時は30日以内のVISAが入国時に無料でもらえるサービスがあったので、それでとにかく現地に行ってリサーチの旅に出ることにした。 

京都在住だったので、大阪からの出発となった。当時はまだ関西国際空港はなかったので、大阪の伊丹空港からの出発となった。現在ではLCCなどを利用すれば、インドの様々な都市に飛行機で行くことができるが、当時はマイナーな都市ブバネシュワールにはカルカッタ(コルカタ)まで行って、Indian Airlinesに乗り換えるか、ハウラー駅から夜行列車で入るのが1番の近道だった。カルカッタまでの直通航空便は無かったと思うので、いろんな航空会社が乗り入れているタイのバンコクで何日もトランジット待ちをして、そこからカルカッタに入った。 

⚫旅の途中~バンコクにて 

インドどころか、海外も飛行機も初めての体験である。出発前は、ワクワクよりも不安の方が勝っていたと思う。下調べだけは入念に行なっていたので、バンコクでは現地の方と結婚して住んでいらっしゃるある日本人女性のお名前と住所を教えていただいていた。といっても、手紙や電話で連絡もしてないし、突撃のようなものである。どこをどうやって探したのかはよく覚えていないが、とにかくそのバンコク在住の女性の家を探し出し、事情を話すと、快く泊まらせていただけた。お家はホテルをされていて、その一部屋を無料で提供していただけた。ご主人はタイ人だが、中華系とのこと。聞けば、タイ人の半数くらいが中華系の血を引いているらしい。でも言葉もタイ語だし、たまに中国語も話されるが、読み書きは殆ど出来ないとおっしゃっていた。蒸し暑いバンコクで、ひんやりした床に清潔なベッドは有り難かった。私が貸していただいたお部屋は2階にあり、朝ご飯は1階に食堂があるので、そこにいるお姐さんに頼んだら作ってくれるとのこと。前日は夕方に到着したので分からなかったが、翌日目が覚めて起きると、窓の外に見たことのない風景が飛び込んで来た。ホテルの裏には小川が流れていて、その小川を何か植物の葉っぱのようなものが覆っている。なんか、子供の頃に図鑑か何かでみたような覚えがあって、記憶を辿ると思い当たったのはオオオニバスという蓮の葉だった。よくある蓮の葉のように茎が水から上まで伸びずに、水面に張り付いた葉の周りをぐるりと取囲むように端は立ち上がり、大きなお盆のような形をしていて、人が乗れるくらい大きい。叫びたいほどの熱帯の生命感を感じて、恐ろしくもあった。つくづく遠くまで来たんだなと思った。 

80年代当時の日本はアジア1番の先進国で、お金持ちの国だと思われていた。今の状況からは想像もつかないが。実際に旅行中は日本での1~2割程度の値段で食べたり買い物が出来たりした。お金をそんなに持っていなくても、日本では出来ないようなリッチな体験を味わうことが出来た。例えば、バンコクの中央郵便局の近くにあった高級ホテルのデュシタニ・ホテル(ホテルは今もあります)にも気軽に入れたし、そこのコーヒーショップでくつろぐのは最高だった。その頃の物価は日本に比べて、その他のアジアの国が圧倒的に安かった。インドに行ったら必要なものもバンコクで買おうと思っていたので、市内は結構歩き回った。タイ語は聞き取りすることも出来なかったが、バスなんかにも乗った記憶がある。バスの中から見る景色は、観光旅行をしているようだった。京都の夏を知っているからなのか、そんなに暑さを気にせずに、連日あちこち歩き回った。 

⚫初めてのタイご飯 

朝ご飯は困らなかったが、昼や晩御飯は何を食べて良いのかが分からなくて困った。まず、タイ料理というものを食べたことがなかったのと、注文の仕方が分からない。今ならタイ料理店は日本にもたくさんあるし、なんなら現地タイの屋台でさえ英語表記で値段も書いてあるが、その当時の庶民のレストランは、ガラスケースの中に鳥やら豚やら魚やらが詰め込まれていて、それを選んで、調理法を頼むというシステムだった(今でも基本的には同じ)。けれどほぼ100%タイ文字表記で、値段も分からないし、調理法なんてもっと分からない。日本人の奥さんに市場に連れて行ってもらって近所を歩いた時に教えてもらった「センミーという麺が唯一私が注文できる食べ物で、約1週間の滞在の間に何度食べたことか分からない。センミー・ラグナーは、米の麺に牛肉団子が入っていて、あっさりしたスープの麺料理である。でも、その頃の私は、いわゆる「パクチー」に慣れていなかったので、大量に入ったパクチーにはげんなりしたものだった。今ならきっと美味しいと思うし、また味わってみたいと思う。 

⚫カルチャーショック 

ある時、昼間のバンコク一人ツアーからの帰り、あまりにも疲れてしまったのでタクシーに乗った。お世話になっているご夫婦からは、道が分からなくなったりしたら、タクシーの運転手さんに「ヤワラー(だったと思う)、ホテル〇〇~これは数字~と言えば、みんな知ってるから連れて来てくれるよ」と言われていたので、運転手さんには、そのように伝えた。すると運転手さんは何故か少し沈黙して、「そんな所にどうして泊まっているの?そこがどういう所か知ってるの?」と言った。知り合いに紹介してもらって泊まっていると言うと、怪訝そうに、そのナンバーが振り分けられたホテル群は、いわゆる女性を呼んで売春を行う「特別な宿」ということだった。もちろん当時はそれは違法では無く、国から認められて営業しているホテルである。これは、ちょっとしたカルチャーショックだった。私が生まれる頃までは日本にも「赤線」というところがあったのを親から聞いていたが、持っていたイメージは暗いものだった。でも、ここバンコクの宿にはそんなジメジメした雰囲気はなく、あっけらかんとしていた。1階は小さな食堂になっていたので、誰かしらお姐さんが常駐していたが、化粧っ気もなく、Tシャツに腰巻きをつけた姿で極めてナチュラルだった。今から思うと、彼女たちは田舎から都会のバンコクに出て来た、事情のある貧しい家の出身の女性だったのであろうと思われる。世界で一番古い商売か、なるほどと思った。その少し前に見た、タイを舞台にした映画「エマニエル夫人」は、欧米人のアジア人に対する偏見と蔑視を感じたが、後々聞いたタイの恋愛事情から、日本のように暗いイメージは元々希薄なのではと思った。 

⚫インドへ

そんなこんなしている間にタイでの日々はあっという間にすぎ、いよいよインドに飛び立つ日が来た。朝早いので、ホテルのオーナーさんのお友達が空港まで車で送ってくれることになった。余裕をもってホテルを発ち、お友達のドライバーさんのお家まで行き、とても美味しいご飯をご馳走になり(初めて美味しいと感じたタイご飯)、空港まで送ってもらった。 

ここからやっと、インドへの旅は始まった。 

<続く> 

 

サキーナ彩子 

京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。 

帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。 

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2025年6月3日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑲/河野亮仙

第19回 天竺ブギウギ・ライト
東洋への憧れ、そしてやって来たのは 

ウプネカット
ムガル帝国第5代シャージャーハーンの長男ダーラー・シュコーは、帝位継承に破れる。弟のアウラングゼーブに処刑される2年前のこと、伝統バラモン学者パンディットや世を捨てた修行者サムニャーシンの力を借りて、ウパニシャッドのペルシャ語訳『大いなる秘密』を1657年に完成させた。

奥義書ともいわれるように、師から弟子へと伝えられる秘伝であるが、『大いなる秘密』にはウパニシャッドの解釈学ヴェーダンタの思想が紛れ込んでいたようだ。

フランス人のインド学者アンクティル・デュペロンによって、ラテン語に移されたのが『ウプネカット』(1801-1802)である。それを読んだショーペンハウアー(1788-1860)は、仏教やヴェーダンタ哲学を取り入れ自分の哲学を構築した。それはまたニーチェ(1844-1900)の『ツァラトストラはかく語りき』(1883-1885)に影響を与える。インド哲学と西洋哲学の邂逅であった。

インドの芸術への関心からインド舞踊に
詩聖カーリダーサの『シャクンタラー姫』は、1789年ウィリアム・ジョーンズによって英訳され、各国で重訳される。それを絶賛したのがゲーテ(1749-1832)で『ファウスト』の序に影響を与えたという。

仏教学者でパーリ語聖典協会を設立したリス・デイヴィッズは、裁判官として、1866年、イギリス領セイロンに赴任したが、上司の方針と合わず帰国。1877年に『仏教/ゴウタマ・ブッダの教えと生涯の素描』を著した。

その影響を受けてエドゥウィン・アーノルドは、仏陀の生涯を描いた長編の詩『アジアの光』を1879年に発表し、ベストセラーとなった。

アーノルドは、1856年、プーナのサンスクリット・カレッジ(後のデカン・カレッジ)に招かれ、5年間、校長を務めた。『バガヴァッドギーター』『ギータゴーヴィンダ』も翻訳している。1889年に来日し、再来日した1892年には愛宕の青松寺で講演し、日本の仏教会とも関係が深かった。

ロマン・ロラン(1866-1944)は『ラーマクリシュナ伝』『ヴィヴェーカーナンダ伝』『マハトマ・ガンジー伝』を著している。インドの文化・芸術を賛美していた。ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、釈尊伝『シッダ-ルタ』(1922)を著した。

西洋ではこのようにインド文化への関心が深まり、オリエンタル風味のバレエでは飽き足らなくなっていた。そこへ1920年代、颯爽と登場したのがウダエ・シャンカルである。まさに動くインド彫刻、踊る仏像だった。「インド人によるインド舞踊」に注目が集まる。

オリエンタル・ダンスからインド舞踊に
オリエンタル・ダンスについては以前にも書いた。先頃、三菱一号館美術館にて『異端の奇才ビアズリー展』が開催されていた。ビアズリー(1872-1898)はオスカー・ワイルド作『サロメ』に衝撃的な挿絵を描いたことで知られる。そこには日本趣味、中国趣味も見られた。

1900年、ロイ・フラーは第5回パリ万博で、自分の劇場を構えていた。そこに川上音二郎一座が出演し、貞奴が大変な評判を取ったことはよく知られている。

ロイ・フラーは電飾を施したスカートを翻し、棒を付けたスカートをバタバタさせて踊り、パリ中の芸術家たちの創造意欲を掻き立てた。時はアール・ヌーボー。そこで「サロメ」を上演し、それに刺激を受けて、ジョルジュ・ドゥ・フールやロートレックは舞姫サロメの絵を描いた。

ロイ・フラーに続いてモード・アランは1906年、ウィーンで「サロメの幻影」を初演した。イダ・ルービンシュタインは1908年にミハイル・フォーキン振り付けで「七つのヴェールの踊り」を披露している。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/ 

前述のように、ウダエ・シャンカルはラヴィ・シャンカルの生まれた1920年、父と共にロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタイン(1872-1945)は、1920年から1935年まで学長を務め、1931年にはナイトの称号を得たセレブである。タゴールはローゼンシュタインに『ギータンジャリ』を捧げている。 https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3&c=AND 

ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの前身である、サウス・ケンジントン・デザイン・スクールを卒業して23歳でインドに渡ったのが、美術史家、建築史家のアーネスト・ビンフィールド・ハーヴェル(1861-1934)。1884年、マドラス美術学校の校長となる。

日本では、お雇い外国人で建築学のジョサイヤ・コンドルが1877年(明治10年)に25歳で来日し、工部大学校(後の東京大学工学部)において建築教育を始める。フェノロサは、その翌年、政治学、理財学(経済学)を教えるために招かれ25歳で来日。インドも日本も同じ時代の波に乗っている。

インドではマドラス管区、カルカッタ管区、ラホール管区のそれぞれに美術学校が造られて、ハーヴェルは1896年、首都カルカッタの美術学校の校長となる。

ラホールではジョン・ロックウッド・キプリングが美術学校の校長になる。彼の息子が、1907年にノーベル文学賞を得た、「ジャングル・ブック」「キム」で知られるラディヤード・キプリング(1865-1936)。ショーン・コネリー主演の映画『王になろうとした男』の原作もラディヤードである。キプリングの作品には19世紀インドの香りがあって、とても面白い。

インド美術の理想
ハーヴェルは西洋の美術を教えるというより、インド美術の素晴らしさを讃えた。西洋で、ガンダーラの彫刻やインドの建築はギリシア・ローマの影響を受けて派生したものと見られていたが、その独自性、高い精神性を認めた。

ラビンドラナート・タゴールとも親しくし、岡倉天心と志を同じくした。ハーヴェルと天心が共に熱く語り合うことはあったのだろうか。彼の著書『インド美術の理想』(1911年)というタイトルは、まさに岡倉の『東洋の理想』の影響を受けたようだ。カルカッタ博物館の館長を務めたときには、出来のよくない西洋画を引っ込めてインドの美術作品の展示に切り替えたという。

日本は日本で文明開化、西洋化一辺倒の時代に、伝統的な日本美術、日本文化の価値を認めて、天心は復興運動、リバイバルを志した。

それに先立つ1873年(明治6年)のウィーン万博や1876年(明治9年)のフィラデルフィア万博では、日本の美術工芸品が高く評価されて収益をあげた。廃仏毀釈の頃、寺は壊され日本の工芸品、古美術品が二束三文で外国人に売られていた。

明治9年、工部省工学寮内に工部美術学校が設立されると、画家、彫刻家、建築装飾家の3人がイタリアから招かれて11月から授業が行われた。世界に先駆けた男女共学の学校でもあり、殖産興業を発展させ西欧のような近代的都市空間を創出しようという企みだったが、明治16年に廃校となる。

明治10年には上野で内国勧業博覧会が開催され、45万人の動員があった。ウィーン万博同様、ゴットフリート・ワグネル博士が顧問を務めたが、あまりに急速に油絵に移行するのが日本の美術産業にとって良いことなのかと疑問を呈し、水墨画など日本の古画の伝統を守るべきと主張した。この後、急に国粋文化の保護推奨に舵が取られる。

日本の伝統に回帰
東京大学のお雇い教師フェノロサの龍池会での1882年(明治15年)の講演が「美術眞説」というパンフレットにまとめられて全国に流布した。龍池会というのは官僚を中心に日本美術の振興を図ろうという国粋主義的な団体である。

そこで日本画が油絵より優れていることを力説し、狩野派に光を当てた。フェノロサとビゲロウ、モースの三人は東海道を旅して古美術を収集した。フェノロサは絵画2000点を集めて流派ごとに整理した。助手、通訳として同行したのが岡倉天心である。

ウィリアム・スタージス・ビゲロウはアメリカ人の医師で、その1882年に来日。いわゆるボストン・ブラーミン、血筋の良い大金持ち。フェノロサと共に三井寺法明院の桜井敬徳の元に受戒して仏教徒となる。二人の墓も法明院にある。ビゲロウは桜井阿闍梨が心配するほど熱心に修行した。収集した三万枚の浮世絵はボストン美術館に納められている。1877年(明治10年)に来日したアメリカ人の動物学者エドワード・シルベスター・モースは、大森貝塚を発見したことで知られる。

天心は明治13年、17歳で東大を卒業し、文部省音楽取締係、伊沢修二の元に配されるも、西洋中心の伊沢とはそりが合わず、明治15年には専門学務局に転じて美術制作を担うようになる。明治20年、東京美術学校と東京音楽学校の設置が告示される。後に東京芸術大学に発展するが、美術部門は日本画のみの専攻となった。

天心の最初の著作である『東洋の理想』は1903年(明治36年)にジョン・マリー社から出版されている。ハーヴェルは、1902年4月から著作のため一年ほどロンドンに戻っている。1908年に最初の著書『インドの彫刻と絵画』を出したが、主著である七部作はすべてジョン・マリー社から出版されている。
http://www.kamit.jp/15_kosho/26_tenshin/xeast_04.htm

ロンドンでハーヴェルは、10歳年下であるウダエの師ローゼンシュタインにインド芸術の素晴らしさを吹き込んだのだろうか。

欧化政策と演劇改良運動
明治4年、岩倉具視を全権大使として木戸孝允、伊藤博文、大久保利通らと共に、不平等条約解消のためアメリカに渡るがうまくいかない。そして、ロンドン、マルセイユへと。留守にした日本では西郷隆盛が征韓論を唱えるので、それを押さえるために明治6年、岩倉は呼び戻される。その頃、自由民権運動が盛んとなり、国会開設、憲法制定、不平等条約改正が求められ、壮士の演説会が行われた。

岩倉一行は、夜毎のようにオペラハウスで観劇をした。岩倉はそこで王侯貴族が正装して観劇しているのを見て、日本においてもこのようにあるべしと思った。お公家さんや大名、武士が嗜んできたのは格式が高い能楽なので、明治9年4月4日に天覧能を企画し実行した。

それはそれで成功したのかもしれないが、庶民の世界で演劇といえば歌舞伎である。新聞ネタの現代劇も歌舞伎の様式で行われていた。明治10年の西南戦争も、官軍は洋式だが西郷軍は和服に胴丸や小手、すね当てという江戸時代そのままの姿なので、翌年には歌舞伎として上演された。

明治5年、東京府長から歌舞伎の三座に対してお触れを出した。開国によって外国人(当時は偉い人しか来日しない)も増えていることだから、より上品かつ親子で楽しめるものを上演すべきだ。教育上、史実と異なるものは好ましくないと。

明治9年1月、中村宗十郎は演劇改良、興業改革の意見を発表した。欧化政策が採られると、歌舞伎のように史実に基づかない、荒唐無稽な話を上演するのはけしからん、欧米で演劇は紳士淑女の嗜みであるから、倣うべきだと改良運動が起こる。

鹿鳴館時代
井上馨の進める欧化政策が開始される。猟奇的、下品なものを廃して模範的な高尚なものを創り、作家や役者の地位を高め、小屋がけではなく西洋式の立派な劇場を建て、そこを社交場としようと考えた。まず、上流階級から西洋の真似をしようとした。

ある意味、隠微な江戸文化を薩長土肥の田舎侍が嫌って、西洋を範としようと考えたのだった。

明治16年になると鹿鳴館が創立され、夜会や仮面舞踊会が繰り広げられた。19年に演劇改良会が末松謙澄によって設立され、井上馨、伊藤博文、大熊重信、西園寺公望、渋谷栄一、森有礼らの有力者が名を連ねるが、演劇界からは一人も入っていない。上からの改革はうまくいかない。

明治20年(1887年)に外相だった井上馨邸で初めての「天覧歌舞伎」が催された。一流の国には一流の芸術があってしかるべきだ、悪所の歌舞伎を世界の歌舞伎に仕立てようと志した。

演劇改良運動は、インドにおいてさげすまれていたデーヴァダーシーや遊女の踊りを芸術に仕立てようという企てに先駆けること40年。しかし、そこに歌舞伎界からは市川團十郎が参加したくらいだった。西欧化が行き過ぎて女形や花道、後見を廃止するとか、台本を文学的で高踏なものにするとか現実離れした考え方だった。結局、近代的な劇場を建設するということ以外、上からの改革は失敗に終わった。

一方、天心は演劇改革運動にも関わっていた。明治22年、坪内逍遥、森田思軒と演芸協会を設立し、その文芸委員の中には森鴎外、尾崎紅葉も名を連ねた。守田勘弥、九世團十郎、五世菊五郎も賛同した。天心はオペラの戯曲『The White Fox』を書いているので、歌舞伎の台本も構想したかもしれない。ここでもタゴールと一脈通じるところがある。

森鴎外、幸田露伴、坪内逍遥らが歌舞伎を手がけた。明治23年に東京美術学校校長となった天心は、森鴎外にデッサンの基礎である解剖学の講義を受け持たせた。

どこにいても異端児
そんなところへ忽然と現れたのが、壮士芝居の川上音二郎である。元治元年元旦、博多に生まれたガンガン男。14歳のとき家出して大阪行きの汽船に潜り込み大阪に出る。ついで東京に出ると芝増上寺に拾われて掃除と使い走りをやった。お経は習っておくと何かと役に立つ。生没年やその伝については諸説ある。

芝公園を散歩している福澤諭吉と出会う。慶應義塾の学僕、つまり、給仕・小間使いをしつつ、月謝・食費が免除され働きつつ学ぶ。おそらく英語も習ったのだろう。その後、巡査などもやったようだ。

19歳で名古屋の寄席、花笑亭で演説をしていると、20歳未満の演説は禁止ということで、中止させられる。その後も京都南座などで演説をしては逮捕される。逮捕されるたびに有名になり、客が増える。

歌舞伎の中村宗十郎に心酔していたので近づいたのだが、何故か京都新京極阪井座の中村駒之助一座に参加して役をもらう。端から見ると行き当たりばったり、でたとこ勝負の人生だ。転がり続け、転んでも転んでも、ただでは起きないというキャラクターだった。

元々、紺屋の旦那である父の専蔵は、河原崎権十郎を贔屓にしていたので、一緒に東京に出て門弟にしてもらえるよう願い出た。自由民権運動をやっていたのに巡査となるとか、歌舞伎と相容れない壮士芝居とか矛盾したことを平気でやる。

オッペケペーの音二郎一座
音二郎は、もとより歌舞伎役者になるつもりもなく、改良演劇とか、改良落語とかいっていて、歌舞伎という枠から外れている。いや、あらゆる枠から外れて当意即妙、変幻自在だった。

明治22年、26歳でオッペケペー節を始める。「オッペケペー、オッペケペー、オッペケペッポー、ペッポッポー」と唱えつつ節を付けて演説する。一時期、日本中で流行った。演劇の範疇を超え、後から考えると音二郎は「現代劇」の創始者となって演劇界に大きな影響を与えた。

そして、明治26年1月、興業をすっぽかしてフランスに高飛びする。第一回の外遊では一ヶ月ほど滞在してフランスの演劇を学んだ。

どういう伝手かというと、おそらく伊藤博文の縁だろう。芳町(今の人形町)の芸者奴を水揚げし、妾とする。西園寺公望とも懇ろだったようだ。後に音二郎は奴を妻とし、本名が貞だったので貞奴という名の女優にする。抜群の器量の女性だったのだろう。貞奴は、押し出しの強いグラマラスな美女ではなく、しなやかでしっとりした別の美の基準、引きの美学を示した。また、音二郎は男前ではないものの愛嬌があって、もてたようだ。

当時の日本で女優は希で、日本初の女優ともいわれる。1900年(明治33年)、マダム貞奴はパリ万博で、日本のサラ・ベルナール(アルフォンス・ミュシャのモデル)と絶賛されたが、それを聞いたベルナールは不満で、貞奴をこきおろした。それは靴と雪駄を比べるようなもので、土俵が違う。

アンドレ・ジイド、イサドラ・ダンカン、ピカソらが貞奴の姿を見るため劇場に足を運び、ロダンは彫刻のモデルになってくれと頼んだが、ロダンって誰?という感覚だった。ピカソが貞奴をモデルにしたデッサン、ロイ・フラーの電気仕掛けの映像も以下に取り上げられている。貴重映像だ。ロイ・フラーもベルナールも歴史に残る文化人と交流したセレブだった。今年の大阪・関西万博からも新たな伝説が生まれるだろうか。
https://ameblo.jp/pheme-japan/entry-12124022343.html
 

参考文献
井上理恵『川上音二郎と貞奴』社会評論社、2015年。
岡倉登志『岡倉天心の旅路』新典社、2022年。
新関公子『東京美術学校物語』岩波新書、2025年。
外川昌彦『岡倉天心とインド』慶應義塾大学出版会、2023年。
山口靜一『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』宮帯出版社、2012年。
渡辺保『明治演劇史』講談社、2012年。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

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