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2025年11月7日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑳/河野亮仙

第20回 天竺ブギウギ・ライト
般若心経の迷い道その一 

 般若心経を読むとすっきりするとか、悩みが解消する、写経すると心が晴れるという本がたくさん出ている。それですむ方は、それはそれでよろしいのだが、こんなに小さいのに心経ほど問題のある経典はない。 

般若経の権威、梶山雄一はいう。 

心経は短いけれども、というより、短いために、かなり難解な経典である。この小経のなかには五蘊・十二処・十八界・十二縁起・四諦などという仏教の基本的な術語が現れ、しかも、釈尊が説いたとされるそれらの教えがすべて空であると宣言されるために、屈折した解釈が必要になるからである。(『墨』第83号「般若心経 写経の鑑賞と実践」90年3/4月号) 

素直に解釈すると何だか分からないので、屁理屈が必要になる。「屈折した解釈」→どうも、すっきりしない。般若心経の迷い道が始まる。 

そもそも経典ではないという人がいる。これは真言に前振りがついたものである。また経というものには、こういう状況で釈尊が説いたという序文があって、本文の正宗分、そして広めるための流通分というのがあるが、般若心経には本文しかないし、釈尊が登場しない。仏説でないものをお経と呼んでいいのか。 

分かりにくいのは、心経は、毎日、何時間も瞑想して何十年も修行してきた宗教的天才がやっとたどり着いた結論だからだ。戒定慧というが、戒律を守り、禅定をして般若経の研鑽を積んだ学匠の著作である。瞑想の果てに、阿耨多羅三藐三菩提を得て、夢うつつで吐き出した言葉が、「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボーディソワカ」である。 

その短い般若心経を、無理して、さらに、要約すると次のようになる。 

般若波羅蜜多行を行じつつ、心の中に映るものはすべて空である、存在しないと喝破する。知慧の完成を目指して悟り(正覚)の世界に渡ろう。最後は、般若波羅蜜多菩薩に呼びかけて祈る。そのマントラの意味は、 

悟りの岸に渡られた女尊、般若波羅蜜多菩薩よ 私の真実不虚を捧げます 
                         よろしゅう頼んまっせ 

 

般若心経のテキスト 

では、般若心経とは何かというと、実は、何種類かある。日本で普通に読まれているテキストは、漢字の用い方は多少違うが、どの宗派も玄奘三蔵訳の流布本を用いている。摩訶般若波羅蜜多心経といって読み始めるが、真言宗の場合はその前に仏説を付ける。また、大正新修大蔵経の玄奘訳を見ると、そのタイトルに摩訶はないという摩訶不思議。 

さらに、玄奘三蔵訳には流布本「遠離一切倒」のうち「一切」という文言がない。元のサンスクリット語般若心経を見ると、玄奘訳にある「度一切苦厄」に相当する語は見られない。しかし、これらの語が入ると、誠に、調子よく読める。 

般若心経にはいくつかの漢訳があって、大きくいうと小本系、大本系に分かれる。大本には序文、流通分があり、釈尊も登場する。チベットで読まれ、ダライ・ラマが解説しているのはこちらの方だ。このテキスト問題は般若経の専門家、渡辺章悟『般若心経 テクスト・思想・文化』大法輪閣、2009年に丁寧に解説されている。 

しかし、この正規の経典としての大本と流布している小本とどちらが先に成立したのかという問題についても意見が分かれている。わたしは、真言が先にあって、そこにイントロを付け足し、増補して体裁を整えたものだと思っている。陀羅尼経典という言葉もあるし、マントラ聖典と呼ぶ学者もいる。 

最も古いサンスクリット語の写本である法隆寺に残された貝葉の梵本にはprajnaparamitahrdayaというタイトルが付けられている。漢訳すれば般若波羅蜜多心である。フリダヤというのは心臓、精髄という意味だが、ここでは心真言のこと。 

つまり、梵文タイトルではお経、スートラだとは名乗っていない。遣唐使などが旅のお守りのようにして「呪文」を持ち帰ったのではないか。法隆寺貝葉は、八世紀の中国人の筆跡と思われる。 

般若心経自体の成立も判明しないが、およそ四世紀前半とされる。たいていの本は、玄奘訳を使って般若経の精髄、顕教の経典として解説されているが、密教が成立してくる時代であり、少数の学者が密教的な読み方をしている。 

この解釈は、唐でインド僧の般若三蔵に師事した空海が『般若心経秘鍵』に記しているが、長い間理解されていなかった。このインド的な読みを広めたのはヨーガの佐保田鶴治である。『般若心経の真実』人文書院、1982年。 

そもそも、般若心経の解説を読んで分かったような気になっていても、理解したのは語句の解釈であって、いわんとしている空についての体現は出来ない。空とは何だろう。これさえ分かれば般若心経を読む必要はない。 

ダライ・ラマは般若心経は読むだけじゃだめだ、空を理解しろと力説している。宮坂宥洪訳による『ダライ・ラマ 般若心経入門』春秋社、2004年は、チベット的理解を解説した優れた本だ。また、大谷幸三『ダライ・ラマが語る般若心経』角川書店、2006年という本もある。この著者は素人なので解説は良くないが、ダライ・ラマが熱く空を語るDVDが付いているのが貴重である。 

 

ミミズの見る世界 

ミミズは地を這っている。ミミズの認識する世界とは何だろう。目も口も鼻もないが、皮膚感覚で明るい暗いは認識できるだろう。味という高級なものは味わえないかもしれないが、毒物か好適かは判断できる。触覚で、生きている。音は空気の振動なので皮膚で捉えることができる。 

おそらく新生児もそうだろう。目は開いていても物を認識できない。歩くことも這うことも出来ない。言葉も分からない。抱きついておっぱいを探す嗅覚と触覚だけが頼りである。赤子のうちは何でも触って口に入れようとする。鳥は目が良いが、犬などは嗅覚中心で生きているのだろう。五感はいずれも皮膚感覚、触覚の延長線上にある。 

人は目で見た物を信じるが、これも危うい。空耳というのはよく経験するが、空目!?というのもありうる。錯聴、錯視という。角膜手術の後など直線がゆがんで見えて色もにじんでいる。訓練というか馴れること、脳が矯正することによって「正常な視界」が得られる。目で見たそのままの世界とは何なのだろう。 

音は空気の振動、色は電磁波(可視光)の波形を脳が解釈したもの。何で色が見えるのか不思議な話だ。臭いは空中に浮遊している分子、味は水に溶け込んだ分子。そういうと味も素っ気もないが、それ自体として捉えることは出来ない。脳が解釈して意味を持つ。 

モーツァルトを聴かせて醸造した日本酒などが話題になったことがある。麹菌は音楽を認識できないが、その1/fのリズム、振動を感じることによって美味しい酒が出来るという。 

音楽というのは人間以外に体験できない。ただの空気の振動なので、人は頭の中に構築した音像を認識している。音楽というのは存在していない。「空」である。絵画というもの、絵に描いた餅も動物には意味がないが、蒲焼きやサンマを焼いた臭いには反応する。 

昔、バイノーラル方式で録音されたテストCDがあった。ダミーヘッドといって人の頭の形をした装置の耳にマイクを仕込んで録音する。これをヘッドフォンで聴くとステレオより遙かに立体的な音になる。 

ハエが飛び回る音を聞くと頭の周りを飛んでいるように感じる。ドライヤーの音を聞くとほわーっと暖かく感じる。マッチを擦る音を聞くと硫黄の臭いがする。これは錯覚なのだが五感はそれぞれ結びついている。脳の連合野で解釈し加工された像を認識している。 

誰でもギザギザという音からは尖った図形を連想するし、キラキラというと黄金色の図形を思い浮かべる。ゴジラ、キングギドラは尖っていて、ムーミン、バーバパパは丸っこい。共感覚を持つ人は音楽に色を感じる。白黒の文字にも色を感じる。人の眼耳鼻舌身意はお互いに関係し、助け合っている。 

目だけ、あるいは耳だけでは脳の中に世界を構築できないのだ。触覚だけでは何者か判明しない。五感を総動員して出来た仮想世界は、現実には存在しない。我々の認識する世界は「空」である。かといってその存在、世界があることを否定するわけではない。 

般若心経は「色即是空 空即是色」という。通常、我々は仮の脳内に構築している像を認識していて、それは実在しないが、やはり、そのそれぞれが関係し合って成立している世界はあるのだ。眼耳鼻舌身意のそれぞれは単独で世界像は成り立たず、互いに依存して認識される像が成立する。 

瞑想の段階が進むと、脳の方向定位連合野の活動が極端に低下する。自己と外界との境界線を見いだせなくなる。あなたと私、人と生物や草木が別々の存在であることを忘れて、一つに溶け合って法悦感が生じる。その場合、外の世界と私は同じ。これを悟りの世界というのか、私には分からない。 

感覚が相互に依存して構築された仮の像「空」は実在しない。しかし、自分と外の世界が溶け合うと、「空」もまた、「色」と同じことになる。外界に存在しようとしまいと、諸の感覚の情報から統合された心によって捉えられた世界しか我々は認識できない。しかし、身体性によって保証される世界が、現に存在してもいいじゃないか。空は即是れ色である。 

突然、「身体性」という言葉が浮かび、他の仏教解説本にはない説明を試みた。今、AIを助手、秘書代わりに使っているが、コンピューターにないのが身体性である。赤子の運動機能と知能の発達は強く結びついている。このことがこれから何か考えるのに役立つかもしれない。 

長女が何ヶ月の頃かは忘れたが、偶然、すぽっと親指が口に入ったことがある。その後、指しゃぶりをしようとして、手を動かすのではなく、必死に顔の方を動かしてもがいていたことがある。空間の認識が出来ず、手をどう動かしていいのかも分からなかったのだ。あれもない、これもない、「ない」もないと否定し続けてきた般若経の伝統の最終結論が、「やっぱり、あってもいいんじゃないか」に変わったのではないか。 

これが般若心経の迷い道。 

 

言い訳 

私の周囲には般若経の専門家、仏教学、宗教学の権威、般若心経の本を書いた方が何人もいる。その中で専門家ではない私が書くのは、おこがましい次第だが、死ぬ前に恥をさらすように私見を披露する。 

そもそもインド語の名詞には男性・女性・中性があり、女性名詞の陀羅尼dharaniはそのまま女神と受け取られる。prajnapramitaも美しい姿の女神と理解されて、インドネシアやカンボジアには目を見張るような彫像が残されている。 

佐保田鶴治は、心真言の最後にあるソワカ、スヴァーハーsvahaをインドで護摩供を修するとき、火にバターを注いで神様に供物を捧げるときの句であると解した。天の神様に煙の上昇と共に贈り物を届けて願い事を叶えてもらう。ソワカは、「幸あれ」「めでたし」「成就あれかし」とか訳されている。 

しかし、護摩ではなく読経の場合は何を捧げたらいいのだろう。それは自分の身、全身全霊、修行をしてきた偽りなき真実サティヤしか捧げるものはないだろう。読経は供犠というのが私の解釈で、佐保田説を一歩進めることが出来たかもしれない。 

般若心経の解説本や日本語訳は、学者や僧侶のみならず、作家や詩人、漫画家、科学者も試みて超訳をしたり、お説教をしたりと様々だ。 

立川武蔵『般若心経の新しい読み方』春秋社、2001年には、心経のインド的解釈、中国的解釈、日本的解釈について丁寧に説明されている。 

皆様もひとつ、写経から一歩進んで、般若心経の口語訳、超訳を試みるとよい。研究ノートを付けて自分の解釈を書いてみると理解が深まる。「超訳」のなかでは伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』朝日新聞出版、2010年、柳沢桂子『生きて死ぬ智慧』小学館、2006年などが良いと思う。もちろん、中村元・紀野一義『般若心経』岩波文庫、1960年がほとんどの本の基本となっている。 

用語についてはAIが簡単に教えてくれる。Copilotはウィンドウズのタスクバーに入っているし、GeminiChatGPTでも何でもインストールして使ってみるといい。自習にはとても役に立つ。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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布が語る文明史──インド更紗からAI時代へ

2025年10月、家族で東京ステーションギャラリーを訪れた。
「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」、これは、インド更紗を体系的に紹介する、日本初の大規模展である。
展示室に入ると、白地に咲く赤い花と、飛び交う虫たちの姿が布の上で息づいていた。
その有機的な線の一つひとつが、遠い交易路や職人たちの祈りを思わせた。

カルン・タカール氏のメッセージには、こうある。
「おそらく更紗は、世界初のグローバル・プロダクトと言えるでしょう」。
私はその言葉を思い出しながら、大布の前でしばらく立ち尽くした。そのとき、私の中でインド国内で考えていた「文明と布」への思索が静かに目を覚ました。

湖のほとりで考えたこと
ラジャスタン州ウダイプールの湖畔には、3度訪れたことがある。
家族で滞在したホテルのテラスで食事をしていると、妻が言った。
「まるでヨーロッパのよう」。
私は少し笑って、「いや、むしろヨーロッパの方が真似をしたんだよね」と答えた。

実際、そうなのだ。
ウィリアム・モリスが19世紀ロンドンで生み出したアーツ・アンド・クラフツの花唐草も、リバティ社のブロックプリントも、その出発点はインドの更紗にあると言われる。
赤と藍のコントラスト、蔓草がうねる格子構図、花と果実が連なる生命的なリズム。
それらはすべて、17世紀にインドの職人たちが木綿に刻んだ模様の系譜に連なっている。
モリスのIndian Diaperは、その名に“インディアン”を冠しながら、インド布の蔓草文様を英国の庭園植物に置き換えた翻案であった。
リバティの多くのデザインも、その原型はインド洋交易を通じて渡ったブロックプリントにある。インドの職人が木版で一版ずつ押した文様のリズムを、イギリスの機械印刷が量産可能なデザインとして再構成したものだ。

2014年から2015年にかけて、私は家族とともにマンチェスターに暮らしていた。この街こそ、かつて世界の産業革命が始まった地であり、今もその記憶が街のあちこちに息づいている。
マンチェスター博物館やサイエンス・アンド・インダストリー博物館には、インドから輸入された布、機械化された紡績機、さらにはリバティ社の見本帳も展示されていた。
そんな街で暮らした一年あまり、モリスやリバティのデザインは、私にとってごく身近な生活の風景となった。

つまり、私たちが「英国らしい」と感じる柄の原点は、実のところアジアの科学と美の融合にあったのだ。
白亜の宮殿も、繊細なアーチも、光を反射する水の配置も、その源流を辿ればアラブやペルシア、さらにはインドの美意識に行き着くとも言われるが、ヨーロッパが“オリエンタル”と呼んで憧れたものは、アジアが生み出した知と技の結晶にその原点がある。

家族での2週間のラジャスタンからグジャラートへの旅の途中、私は「布」という存在に思いを馳せた。
私たちが日々着る服、その織り方、染め方、模様の背後には、人類の叡智と科学、そして哲学が凝縮されている。なかでも「インド更紗」は、その頂点にあると私は感じている。

家族でラジャスタン州サンガネールの工房を訪ねたときのことを、今もよく覚えている。
予約もなしに立ち寄った私たちを、職人たちは温かく迎えてくれた。
当時まだ小学生だった長女に、木版を手にブロックプリントを体験させてくれたのだ。
料金を求めるわけでもなく、ただ「見ていきなさい」と微笑みながら、版木を押す手つきや染料の加減を丁寧に教えてくれた。そのあと訪れたグジャラート州でも同じだった。
媒染や藍の発酵、泥による防染、職人たちは古代からの手仕事の工程を誇らしげに見せてくれた。彼らの村には観光地の喧噪はなく、乾いた風の中に穏やかな笑い声が響いていた。
欧米人の旅行者は見かけたが、日本人を見かけることはなかった。
これほどの技と人の温かさが息づく場所を、もっと多くの日本人が訪れるべきだと心から思った。
カッチ湿地の白いテント村では、夕焼けに染まる地平の向こうで、古代の技法と現代の感性が静かに交差していた。

世界を変えた美しい布
インド更紗、それは木綿に複雑な模様を染め抜いた布である。
赤、藍、黒、黄の色が重なり、草花や鳥が生き生きと描かれている。しかし、その美しさの真髄は「色」ではなく、実はその「科学技術」にあると考える。

サンガネールやグジャラートの工房で見た、あの鮮やかな発色の秘密こそが、数千年の知恵と科学が積み重ねられてきた証である。
17世紀、ポルトガルやオランダの商人がインドからこの布を持ち帰ると、ヨーロッパ人は熱狂した。
「洗っても落ちない!」「赤が光る!」「藍が深い!」
当時のヨーロッパでは、染料がすぐに色褪せ、布は灰色に沈んでいた。
彼らにとってインド更紗はまるで錬金術の産物に思えたという。

それは偶然ではなく、インドの職人たちは、インダス文明以来、数千年かけて染料と水、土、太陽の性質を見極め、自然と対話するように化学反応を操っていた。
媒染と呼ばれる金属イオンによる発色技法、発酵を利用した藍染、泥や糊や蝋で模様部分を保護する防染法、これらすべてに、現代の最先端ケミカルプロセスと変わらない精密な手法が多く用いられ、紀元前から世界と隔絶する高度な技術が確立されていた。
つまり、インド更紗とは、自然科学と芸術がひとつになった人類最古のサイエンスアートとも捉えられる。

インダス文明のDNA
では、なぜインドでそんな技術が生まれたのか。その答えは、遥か紀元前のインダス文明にある。

インド・グジャラート州のモヘンジョダロやハラッパー、ロータル等の遺跡からは、綿花の繊維や染料の壺等の痕跡が見つかっており、博物館に展示されている。インドは人類で最初に綿と染料を高度に操った文明だった。
インダスの人々は、都市を整然と設計し、排水システムを持ち、港湾を持ち、広い交易をするとともに、水の性質や化学発酵を理解していた。それらの知恵こそ、染織技術に繋がったのだ。

インダス文明の発展を支えたのは、観察と経験を積み重ねられた科学だった。

ヨーロッパが憧れたアジアの知
産業革命以前、ヨーロッパは布を十分に染めることができなかった。麻や羊毛は扱えても、木綿はうまく染まらない。だからこそ、インドの布は“魔法の布”と呼ばれた。

イギリス・フランス・オランダ等の商人たちは競って更紗を輸入し、女性たちはその色と模様に魅了された。やがて、ヨーロッパの職人たちは真似を始めたが、媒染や発酵の技術を生み出せず、精密な手仕事も実現できず、再現に失敗する。ついには“インド更紗輸入禁止令”まで出たほどだ。

そして18世紀、イギリスは方向を変える。
「ならばインドの手仕事を機械で再現してしまえ」と。
こうしてマンチェスターとリバプールの繊維工場が生まれ、世界初の産業革命が始まる。

皮肉なことに、産業革命の起点は、インド更紗への憧れだった。
「機械化」は、高度な手仕事への憧れから生まれたとも言える。

だが、そこには悲劇もあった。
イギリス東インド会社は、インド更紗の輸出を禁じ、現地の職人に機械織りの原綿を生産させるよう強制した。
手織り・手染めの職人は激減し、村々から歌と色が消えていった。
ガンジーが独立運動の象徴として「糸車」を掲げたのは、この悲劇を取り戻すためだった。

科学と美が再び出会う時代へ
インド更紗を前にすると、誰もが思わず息をのむ。
それは美術品としての美しさだけでなく、「人間が自然と共に生きていた時代」の記憶が呼び覚まされるからだ。

インド更紗の職人たちは、「美しい布を作ること」そのものが祈りであり、倫理だった。
化学反応も、色も、宇宙の循環の一部として理解していた。
その精神性こそ、いまの科学に最も欠けているものではないだろうか。

インドの染め壺、
日本の和紙、
中国の磁器、
それらはすべて「自然の物理を観察し、尊重し、共に生きる技術体系」だ。
これを“伝統工芸”という枠に閉じ込めず、現代科学や政策に統合することが、私たちの使命だと思う。

ある日、オールドデリーの路地にある布屋で、私は古い更紗の切れ端を眺めていた。
床には、どこかで見覚えのある柄――リバティやウィリアム・モリスを思わせる花唐草が並んでいた。
妻がそれを手に取り「これ、服にしてみようかな」と言うと、そばにいたインド人の女性が優しく笑って答えた。
「それはサリーにも使えますけれど、本来はお布団やソファ、家具を飾るための布なんです。」

その一言に、私ははっとした。

私たち日本人は、ヨーロッパを通じて“再輸入”されたインドやペルシアの文様を、「ファッション」として着てきた。けれど、その源流にあるアジアでは、同じ柄が「暮らしの布」だった。

つまり、私たちはいつの間にかヨーロッパ的な美意識を通して、アジアの文化を見てしまっていたのだ。

欧米がアジアの文様を“エキゾチック”として再構成し、それをまた東洋に“逆輸出”する。
私たちはその鏡像のなかで、「ヨーロッパ風のアジアらしさ」という幻想を受け取っていた。
それは浮世絵や柿右衛門様式にも通じる、異国趣味というフィルターを通して再定義された「東洋の美」だ。

けれど、あの布屋の一瞬のやり取りで、私は世界の見方が静かに反転するのを感じた。
西洋の価値観こそ普遍的に見えるが、その根にはアジアの知恵が息づいている。
ルネサンスを支えた中国に由来する三大発明にしても、「アルカリ」「アルコール」といった語源の通りのイスラム化学についても、またインドの高度な科学も、その礎を築いていたのだ。

そして、東京ステーションギャラリーの壁にかかっていた南インドの更紗。

赤や黒、黄や藍の発色は数百年を経ても褪せず、蝋で白を抜き、媒染で色を定着させる――
そこには職人の手技と化学の知が見事に融合していた。
それは単なる“伝統工芸”ではなく、人類が最初に手にしたテクノロジーの記憶そのものだった。

アジアとヨーロッパの文明を結んだのは、戦争でも条約でもなく、「布」だった。
インド更紗は、交易路を通じて人と思想をつなぎ、最終的に産業革命という“文明の再編”を導いた。

インダス文明が綿と藍で宇宙を描き、
産業革命がそれを機械で模倣し、
いまAIが再び模様を“生成”し始めている。

そして、その今後の行方の手がかりは、5000年前のインダスの染料壺の中に、すでに沈んでいるのかもしれない。

栗原 潔(くりはら・きよし)
2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。
2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。
帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

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