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2025年12月24日水曜日

天竺ブギウギ・ライト⑳/河野亮仙

第20 回 天竺ブギウギ・ライト
18世紀の踊り子
 

京都の古本屋で、17・18世紀大旅行記叢書第3巻、ヤコプ・ハーフナー『インド東岸の冒険と旅行』(岩波書店、2002年)という本を見つけた。掘り出し物だった。 

 ハーフナーの父親は船医だったので、東インド会社の船に一緒に乗り込みボーイとして働き始めた。11歳の時だ。 

この頃の航海は死と隣り合わせで、1776年6月アムステルダムを出て12月、補給基地ケイプ・タウンに寄港する。乗員304名中27人が死亡。ヤコプの父親もその中の一人で、そのため波瀾万丈の生涯を送ることになる。 

1770年に、一時、アムステルダムの母の元に戻るが、翌年、バタヴィア行きの船に見習い水夫として乗り込み、72年、バタヴィアからカルカッタ北方のチンスラに向かう。オランダ商館があり、そこからまた、コロマンデル海岸において交易の中心であるナガパトナムに向かう。この地方の特産である綿織物や更紗をバタヴィアに輸出していた。 

彼は語学と文章の才能があり、簿記を学んだのでどこへ行っても採用されて働くことが出来た。ラーマーヤナの翻訳でも知られる。 

ちなみに、『解体新書』は1774年。アメリカの独立宣言は1776年。植民地をめぐって列強が激しく争っていた時代だ。 

オランダ東インド会社は17世紀、モルッカ諸島の香料と交換するためコロマンデル海岸に進出し、綿布を求めた。ベンガルの生糸、綿布はバタヴィア経由で日本にも輸出され、日本からは大量の銅、銀、小判、陶磁器、漆器が輸出された。18世紀後半にジャワを制圧し、砂糖、茶、綿、藍、ゴムなどを栽培させる。 

一方、イギリスの東インド会社はジャワから退きインドに力を注ぐ。マドラス、サントメ港の北にセントジョージ要塞が完成したのは1644年。交易所も兼ねていた。西北のグジャラート、スーラトに商館を置き、続いてコロマンデル海岸のマスリパトナムに設置する。 

1773年にベンガル総督、1833年にはインド総督を置いて植民地支配を謀る。ハーフナーはそんなイギリスの帝国主義が大嫌いで残忍さを暴いていた。だから英訳されていないのかと思ってしまう。  

本書は2冊の本からの抄訳であるが、デーヴァダーシーについての15頁にわたる記述は貴重で他には見られない。訳書の構成からはハーフナーが結婚しようと思った踊り子とのロマンスとその死が物語の中心となっているように見えるが、放浪する旅芸人や托鉢僧ファキールについての記述もあって18世紀のインドを知ることが出来る。 

 

18世紀のデーヴァダーシー 

ハーフナーの原著はオランダ語で、それがまたカタカナで表記されると、地名、人名、神名、カースト名や楽器名は確定できないところがある。原著はインターネットで公開されている。 

踊り子一座と出会ったのは1780年代、東海岸の旅行中、アーンドラ・プラデーシュにおいてのことである。 

南インドの三楽聖の一人、ムットゥスワーミ・ディークシタは1776年生1835年没。バラタナーティヤムの基礎を築いたとされるタンジョール宮廷の四兄弟はディークシタに師事している。19世紀のことだ。 

踊り子にデーヴァダーシーと振り仮名を付けている。セイロン、ビルマ、タイではソレソーティの娘である舞踊の女神ランバーにちなんで踊り子はアランベと呼ばれると書かれているが、スリランカ辺りの伝承なのだろうか。神話や伝説にはいくつものヴァージョンがある。 

ソレソーティがサラスヴァティーであることはすぐにお分かりかと思うが、ランバーはインドではrambha、天女(アプサラス)とされるが、それは天界の娼婦である。一角仙人の話など、苦行者を誘惑してその修行を妨げるという話がいくつも伝わっている。 

デーヴァダーシーの仕事は神像の前で踊ること。寺院内のみならず、祭礼で神像が神輿で担がれ街を練り歩くときも前に並んで踊り、その神を讃えて歌う。そのような大きな寺院に仕える踊り子と祭りなどに呼ばれて踊り、客を楽しませるために呼ばれる踊り子を区別している。 

ハーフナーはヒンディー語やタミル語も話せたようで世情に通じていて、彼が東海岸で見聞きしたことによる記述である。習俗は地域差や寺院差があり、事情は一様ではないと思われる。 

 

旅芸人一座とデーヴァダーシーの違い 

旅芸人は10名、あるいはそれ以上の一座を組み、各々独立している。以前に踊り子だったダヤ(ダイー)と呼ばれる老婆が金銭をすべて受け取り、食事や衣服を供し、楽人と踊り子に分け与える。若い娘を買い入れたり、養女にして育て芸を仕込む。 

他にも様々な男女の踊り子がいて諸国を巡る。神々の戦いを歌うビカル。パンジャーブ出身で軍隊のお供をして戦死者や英雄の功績を歌って励ますダルヒ。パンジャーブ出身で婚姻や生誕を寿ぐドゥフズン。グジャラートやマルワーリー出身のセズデータリは若くて美しく、歌も踊りも素晴らしい。男性たちは詩人で楽器の他多くのことに長けている。詩人というのは即興で歌を歌うということだろう。 

ハーフナーによると上級のデーヴァダーシーはヴィシュヌ、あるいはシヴァの寺院に所属する。彼女らは寺院の取り囲む壁の中に居住して、祭司長の許可がないと外出できない。 

トリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム)にあるパドマナーバスワーミ寺院に行くと、今でも周りにそのような城壁があるのを見ることが出来る。 

下級のデーヴァダーシーはカーリーやサラスヴァティー、カールティカ、インドラなどに仕える。寺院の周囲には住まず町や村に住み、一定の人数の踊り子が寺院での奉仕を交代で行えば、日常的に好きなことをして好きな所に行く自由を持っている。きちんと行われる厳粛な祭礼には全員が参加する。 

彼女らは自由であるが、下のカースト、パーリアやヨーロッパ人、モール人(ムーア人、ここでは外国から来たイスラーム商人のことか)と交わることは許されていない。上級の踊り子が下のカーストと交わることは許されず厳しく罰せられる。バラモンが下級の踊り子と交われば沐浴によって潔斎し、罰金を払わないといけない。 

踊り子たちは神を讃えて神の勝利と偉業を歌う。神の前で踊り、神を飾る花環を編み、供え物や祭壇の装飾に使う花束を束ね、祭司の部屋を掃除する、猿にえさをやるなど寺院に奉仕する雑用がある。神々の衣服を織る羊毛を洗い調え、ランプの芯と油を交換する。 

 

デーヴァダーシーの役割 

このような仕事のほか、バラモンたちが一般の娼婦や地位の低い踊り子と交わって、カーストから追放されるのを防ぐために、バラモンや上位カーストの内縁の妻として仕える。デーヴァダーシーたちは両親の同意のもと、幼少の頃から踊り子となるように育てられる。上級のデーヴァダーシーはヴァイシャの上層部から、下級のデーヴァダーシーはシュードラの上層部から選ばれる。織布工が5人の娘を持っていたら、一人を寺院に捧げる義務があるという。 

これはあくまで理念であって、実際にこれが守られたかは疑わしい。 

 踊り子に選ばれるのには、顔が美しく、足が敏速で手足がしなやかで、姿がよくなければならない。五体満足で不治の病にかかっていてはいけない。疱瘡の痕があってはならない。結婚適齢期前であって、もし結婚の約束をしていたらなれない。 

両親が子供をどこかの寺院に奉仕させようとするときは祭司長に知らせ、彼は見に来る。踊り子にふさわしいと判断されると契約書を交わす。 

すると少女は寺院に導かれ、吉日に儀式が行われる。両親の手から迎い入れ、池で沐浴し、新しい下着と寺院備え付けの宝石を付ける。神像の前の祭司長のもとに連れて行かれ、全生涯を神への奉仕に捧げると誓う。祭司長は神像に飾られている花輪を彼女に掛け、神像を沐浴した牛乳を飲ませる。続いて祭司長は踊り子の耳たぶに穴を開け儀式は終わる。 

それから歌や踊り、読み書きを習い、神々の物語を学ぶ。一般の婦女子は読み書きを習わない。 

俗説として、選ばれてきた少女は最初に祭司長に身を捧げるとされるのは間違いである。少女は寺院の内外にいるバラモン、クシャトリヤを情人として選ぶことが出来る。もし、彼女が生涯を通じて処女でありたいと希望すれば、それは彼女の自由である。 

 

寺院の格と踊り子 

シヴァ寺院やヴィシュヌ寺院ではなく、低い神格の寺院に連れてこられた踊り子も同様の儀式を行って、日々、寺院に奉仕して同様の教育を受ける。しかし、彼女らはそれほど拘束されることはなく、寺院の中には住まない。寺院の中や祭列で踊り、祭列では米や金銭の寄進を受ける。 

また、結婚式、祭礼、お偉方の歓迎会などの儀式に呼ばれて踊る。裁量があれば稼ぐことが出来る。彼女たちの情人は豊かな商人であることが多い。何人かの踊り子は、しばしば一万ルピーもの金や宝石を身につける。彼女たちの稼ぎから楽師に分け前が与えられる。 

彼女らはヨーロッパのこの種の女性たちのように厚顔で不作法ではなく、慎み深い。情人からむしり取ったりせず、ほどほどの手当で満足し、一般に貞節である。 

また、妊娠しないためにさまざまな方法があって子供を持っていることはめったにない。しかし、女の子が出来たらその職業を継ぎ、男の子であれば楽師として育てられる。 

格式の高い大寺院はお布施をたんまりともらえ、デーヴァダーシーを大勢抱え待遇もよいのだろうが、ローカルな寺院は手当が少ない代わりに自分で稼ぎなさいということか。しかし、この二者の区別もはっきりしたものではなく、後者のデーヴァダーシーと旅芸人一座の境界も曖昧ではないかと思う。 

 

踊り子の衣装とアクセサリー 

デーヴァダーシーの服装は魅力的でしなやかなウェストやスタイルを浮き立たせる。よい香りの油を塗り、きらきら輝く黒髪は長く豊かに編まれてウェストまで届き、先端には金をあしらった絹の房が付けられ、お下げ髪には小さな金の薄板が編み込まれている。頭の後ろには丸い掌大の金製髪飾りが輝く。 

髪は両側に等分に分けられ、何本かの美しい金の鎖が頭の前部から両のこめかみに沿って耳の後ろに巻かれ、その先端はお下げ髪にまで届いている。耳たぶには穴が開けられ宝石や金の小さなリングなどが付けられている。金のリングを鼻に下げている。白ではなく黄色のおしろいを塗る。まぶたの端は黒いおしろいで塗られ目を大きく見せる。様々な金の首飾りを身につける。 

素肌の上に纏うブラウスは胸を包むだけの長さで、袖は肘の上15センチほどまで届いている。ブラウスの前部は空いていて下端が胸の下で結び合わされる。大きな目と丸くぴちぴちして小さな胸が気品ある美しさを作ると考えられた。 

彼女らは胸が大きくなったり垂れるのを防ぐため、左右の乳房を別々のブラジャーで包み、両方のブラジャーのひもは合わされて背中で固定される。薄く透き通っているので肌色と同じに見える。腹部のくぼみからへその上までは肌をむき出しにする。 

足にはぴったりとくっついて足首まで届く縦縞の入った絹地のズボンをはく。通常、長さ6メートル、幅1メートルから1メートル40センチの布を前側で幾重にも織り、後ろ側はぴんと伸ばし、下半身に何度か巻き付ける。腰や尻の形がはっきり見える。 

上質の綿布やモスリンで、財力によっては絹製である。ウェストには幅指の四本分の銀のベルトを付ける。さらに、薄く透き通る綿織物のヴェールでゆったり胸を覆い、ヴェールは一方の肩から優美なカーブを描いて背中に垂れ下がっている。 

腕、足首、手の指、足指に沢山の金銀リングを付ける。爪の先は赤く染め、つけぼくろの代わりに青い点々を付ける。放浪カーストの女性は入れ墨をする。 

デーヴァダーシーは花が大好きで踊るときは花輪を首に掛ける。沢山の芳香油、特にバラ油を蓄えている。 


ハーフナーが恋い焦がれた踊り子

 

精進潔斎 

彼女らは一定の仕方で浄化されているので神像に近づけるが、事前に沐浴し、清浄でいなければならない。清浄とは、その日、タマネギ、ニンニクなど食べてはいけない。キンマを口にしたり病気や生理だったり、発疹があったり風邪を引いたり妊娠していたりすると神前に姿を現してはいけない。 

 浄化されているデーヴァダーシーはヴァイシャ、シュードラ出身であっても神前で踊れるが、低カーストの楽人は中に入れず門前で演奏するともハーフナーは記述している。 

踊りのあるものはしなやかで素早い手足の動きからなり、整然として優雅。別の踊りもまた、軽快な跳躍やステップからなっている。驚くほど精密なジェスチャーで歌い踊って、恋の物語や戦いの主題さえ表現することが出来る。 

驚くべき技巧で、あるいは群舞、あるいはペアで身体を振り動かす。目や腕や手や指までも、肢体のすべてが驚くほどの表情、喜び、技巧を見せて動き回る。そうこうするうちに、ずっとシンバルを鳴らしながら彼女らの後ろに付いていたチェリンビカーレンが声と仕草で彼女らを励まし、年嵩の踊り子たちは手拍子を叩きながら歌う。 

香料や花々の発する甘美な匂いと踊り、音楽が一緒になって魂を揺さぶり、官能的な情緒で心を満たす。 

神事や個人的・社会的祝祭に必要不可欠な彩りを与えるので、敬意をもって扱われ特権を有す。 

ここでチェリンビカーレンといっているのは、タミル語でナットゥヴァナールに相当する。小シンバル(チェリンビ)で全体を仕切る。何語なのだろうか。 

高名な異邦人に対する表敬や歓迎に際して、彼女らは何にもまして偉観を添える。名士や王に対して、最初の献上品を捧げるのは他ならぬ彼女らである。  

 

インド舞踊讃歌 

ハーフナーは絵を習った事があり、デーヴァダーシーの衣装などを描いている。おそらく恋人の絵と思われ、細密画に描かれる踊りに似ている。文章からはカタックのように跳躍・回転が目に留まるもの、目や指まで技巧的に動かす踊りが認められるが、時はバラタナーティヤムの基礎を築いたタンジョール・カルテット登場より半世紀前である。 

8、9人からなる一座のうち第一の踊り手がキンマの葉をいっぱいに盛った銀の盆や皿を捧げ持ってくる。皿の周辺にはキンマの実が置かれ、皿の中央、キンマの葉の上に献上品が置かれる。それは必ず奇数なので、11ルピーか111ルピー、あるいは1101ルピーである。礼儀にかなった作法で渡した後、踊り子が後退りして仲間の所に戻ると、たちまち音楽と踊りが始まる。 

ハーフナーはヨーロッパの踊りは全くつまらないと書いていて、この章はまるでインド舞踊讃歌、デーヴァダーシー讃歌である。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

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2025年12月11日木曜日

若心経の迷い道 その2

その2 写経の意味 
写経といえば般若心経というくらい人気がある。一時間ちょっと、一息で書けるので毎朝お勤めのようにして書いている方もいるくらいだ。 

昭和40年代に、薬師寺の高田好胤が戦国時代の兵火で焼失した金堂の復興を願い、「百万巻写経勧進」という大ボラを吹き、全国行脚し寄付を集め大成功した。それから他の宗派でも盛んに写経を勧めるようになったが、インドにおける写経は意味が違う。 

紀元前後に成立した般若経、それに続く法華経では盛んに解説・書写を勧める。当時の識字率は1パーセント以下と思われる。字を読み書きできるのは僧侶、バラモンと官僚くらいのものだ。スートラというのは暗記する綱要だった。 

インドではヴェーダも仏説も口承で伝える。伝統的に書き物より、師から弟子へと直接教わることが大切とされる。その中で写経、手書きで書き写すというのはどういう意味があったのだろうか。 

 

歩き回る遊行者 

釈尊時代、その教えは歩き回れるマガダ国やコーサラ国、ヴァッジ国、アンガ国、今日のビハール州、ウッタラプラデーシュ州周辺に限られたと思う。釈尊は64の言語に通じていたという。それは、どこへ行ってもその土地の言葉でお説教したという意味だが、実際にはたいていがマガダ語の方言だろう。 

山一つ超えると言葉が違ったともいう。ネパール、インドの国境近辺が生活圏なので、ひょっとしたらシナ・チベット語系の言葉も知っていたかもしれない。王宮に出入りする西方からの商人の言葉を覚えたかもしれない。 

王族はバラモンと同様の教育を受けたと思われるので、サンスクリット語を学んでいればガンダーラ語も見当が付くだろう。 

広大なインドで、釈尊や直接の弟子が南インド、スリランカまで出向いたか、西インドを超えてガンダーラ地方まで説法にでかけたかは疑問だ。弟子を連れての遊行は、おそらく交易路を行った。人のいない所を通れば道に迷うし、食を乞うことができない。昔から盗賊・山賊はいただろうから、安全のため商人の隊列と共に移動して、恵んでくれそうな金持ち、有力者の家を案内してもらっていたに違いない。仏跡というのはそうした交通の要所にある。 

ブッダガヤーから南インドの仏跡、ナーガルジュナコンダやアマラーヴァティーの仏塔まで直線距離で1000キロちょっと。新幹線で行く東京門司間とほぼ同じ、東海道五十三次の往復程度。説法しながら歩いたら二月かかるだろう。ガンダーラはさらに遠い。 

悟りを開いたブッダガヤーから初転法輪のバナーラス、厳しい修行をする沙門の集う鹿野苑までは200キロちょっと。歩けば一週間。しかし、弁当をもらって出かけるわけではなく、乞食しながらのことだろう。携帯食があったとすればチベットのツァンパのような麦焦がし(サンスクリット語でSAKTU)だ。干し飯のようなもの、煎り米もありうるが、どうなんだろう。 

また、ムリガヴァナを鹿野苑と訳すと誤解が生じる。ムリガは鹿というより動物一般を意味する。ヴァナは森。修行者が巣くっている苦行林、仙人堕処は、鹿がえさをもらえる奈良公園のような所ではなくて、ジャッカルや虎、屍鬼、化け物まで出そうな森である。中道を行くなど甘いと釈迦に説法するような修行モンスターが集結している。遊行には水瓶と、もし料理するなら鉄鉢が必要だ。 

 

写経で大乗仏教は広まった 

マガダ語方言の話者なら説法を聞いて覚えることが出来るだろう。しかし、西インドの言葉やイラン語の系統、あるいは南インドのドラヴィダ語系の話者だったらどうだろう。ちょっと待ってくれと書き留める必要がある。 

分からないまま書き留めて、後で知っている人に聞いて理解する。勉強のためにはノートが必携である。逆にいうと余所の国に仏説を広めようと思ったら書き物が必要になる。紀元前からそういう動きは起きていただろう。カーストに縛られない仏教はユニヴァーサルなので、外国から来た商人たちに歓迎された。 

前三世紀、アショーカ王の治世の下、インド各地に説法師、伝道師が派遣され、インドからさらに外にまで活動が及んだ。金銀を授受すべきかどうかなどの問題を巡って、見解の相違から前二世紀頃、釈迦教団に根本分裂が起きる。大衆部が東インドから南インドへ、上座部が西インドから西北インドへ、スリランカへと渡った。さらに、経典や律の解釈の違いにより、教団は二十もの部派に枝分かれしていくことになる。 

ガンダーラ地方では紀元前後に書かれた経典の断片が大量に発見されて、近年、その解明が進んでいる。盗掘してあちこちばらばらに売りさばかれていた経文の断片が、インターネットの発達により、各国の資料をお互いにPCで見て突き合わせ、検証できるようになった。 

ガンダーラで経典を集積し、それを専門家が写経し、あるいは翻訳してシルクロードから中国へ持ち出したのだろう。日本でも奈良・平安時代は写経生が給料をもらって書き写し、誤字があると給金が差し引かれた。写経はプロの仕事だった。 

亜熱帯のインドの仏教はガンダーラで寒冷地仕様に作り直されて輸出された。出家主義、限られたサークルでの少人数限定の教団を、誰でも乗れる開かれた大きな乗り物、大乗仏教に変えた。 

 

アーガマ 

釈尊の説法を師から弟子へと言い伝えたのがアーガマである。漢訳では阿含経として残っている。釈尊の説法は速記録があるわけではない。インドではよくテント掛けで辻説法している姿を見る。リズミカルな名調子である。ある意味、観衆にとっては暇つぶしでもあり、歌を歌ったら大道芸だ。釈尊はどんな説法をしたのであろうか。 

古い経典の文句を利用して、AIで仮想・釈迦の三分間説法を作れないものか。英語だったらダライ・ラマの声がいい。日本語だったら誰だろう。二枚目の高倉健か、あるいは講談師や落語家の方がいいか。私なら虎造の浪曲でやってほしい。 

「利根の川風袂に入れて、月に棹さす高瀬舟…」これは玉川勝太郎『天保水滸伝』だ。いや、ここではガンジス川だろう。 

一、二年もすると、そんな真面目だかフェイクだか分からないAI説法がインターネット上に氾濫するだろう。 

教説は弟子たちが要点をまとめパーリ語の韻文にして記憶した。インド、スリランカのみならず東南アジアの仏典もパーリ語である。リズムを付け簡単なメロディーで唱えて伝えていった。その言い伝え、言行録がアーガマであり、漢訳されて阿含経と呼ばれた。 

いつから書き留められたかは分かっていないが、樺の木の皮に刻まれたものは紀元前一世紀位のものが残っている。アフガニスタンは乾燥した気候なので残った。亜熱帯湿潤のインドで、椰子の葉に刻まれた聖典は二、三百年持てばいい方だ。 

釈尊の教えの中心は「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」とまとめられている。 

アーガマで繰り返し説いているのは、すべては無常で時と共に移りゆくもの。すべてが無常であり、そこに常住不変の実体、自分が生きているという「われ」、そのうちに潜む不滅の「たましい」はない。常ならぬものに執着するのが苦の原因である。 

無常であるというのは、すべては独立して存在するのではなくて、様々な原因が重なり合った因縁により生じる。様々な原因によって作り上げられた「もの・こと」、縁起したものは無常であるから執着してもしょうがない。 

色(いろ、かたち、物質的存在)、受(感覚、感受)、想(表象作用)行(意思、意欲)、識(心、思惟)という五蘊に対する執着を滅すれば、人間の存在も薪の火が燃え尽きたように消える。煩悩の吹き消された状態、寂静を悟りの内容とした。 

そうしてものごとを正しく見る、正見によって悩みを脱し、心静かな境地に至る。「涅槃寂静」の境地に至るべきだと説く。これが菩提樹下で釈尊が悟ったことと思われる。 

 

有か無か 

辺境の地とはいえバラモン社会に生まれた釈尊は、ヴェーダの讃歌やウパニシャッド哲学などの学問を学んだに違いない。 

バラモン教ではアートマン(自己の本体)の存在を認め、それを宇宙の本質ブラフマンと合一させるのが理想だ。一般には天に生まれ変わることを望むが、仏教では無我説を唱える。二度と生まれ変わらない、輪廻のチェーンから逃れる解脱を目指す。人生双六の上がりが目標だ。 

穏やかな日本では、次に生まれ変わったら○○になると楽しそうに語るが、インドでは日々が厳しい。 

何でこんな境遇に生まれたのか。ほとんどの民衆は食うや食わずの生活をして、病気にかかり、死んでいく。若くして死ぬのが当たり前で、老いていけばそれなりに苦しい。生老病死が日常で、四苦八苦している。 

王子として生まれたら楽しいかというと、敵国が攻めてきたら戦わないといけない。負傷したり、拉致されたり、下手したら皆殺しの目に遭う。王族も安閑としてられない。現に、釈迦国は滅亡している。 

 

アビダルマの分析哲学 

もともと釈尊の教説(ダルマ)を考察するための論書がアビダルマである。我とは何か、存在(ダルマ)とは何かと分析して研究した。ダルマの語は多義的だ。法則とか、道徳・宗教、真理・最高の実在、存在のあり方、要素等々。独自の存在を保持する実体、人間も含めた世界の構成要素、考えられる概念がダルマである。過去及び未来についてのものを考えことができるのはそれが実在しているからだという。 

二十いくつに分かれた部派のうち、説一切有部がその代表で、部派はそれぞれの律、経、論を持つ。 

説一切有部といっても、世の中のすべてが存在すると主張したわけではない。 

アーガマにおいて、五蘊は無常であり、無我であると説かれた。有部では細かく分析しているうちに、「自我は存在しないが、五蘊は瞬間的存在(刹那滅)として有り、瞬間的存在の背後には恒常な本性が過去現在未来の三世にわたって有る(三世実有)」と認めるようになった。学者たちが理屈で徹底的に詰めているうちにそういう考えに至った。 

ここからややこしくなる。くどくどしくなる。インド人の分類癖である。般若心経本文の前提なのでしょうがないから書く。しょうがないというのは、三法印(諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」)とか四諦(苦集滅道)とか五蘊、六波羅蜜、八正道、十二縁起とかいう数あわせが、倫理社会の教科書の暗記物みたいで嫌だからである  

五蘊とは、すべてのものが色、受、想、行、識という五の範疇に入るので、五蘊はすべてのものと同義である。色、すなわち物質的存在とそれを認識する心である識の間に生じる心作用を受・想・行に分けた。これをまた、もっと細かく分類する。 

アーガマには十二処、十八界というカテゴリーもいわれている。 

十二処というのは、六根、すなわち、眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚器官に、それを捉える心を加えた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という六種の認識器官、六識と色・声・香・味・触・法というそれぞれの器官の対象、六境を数えたものだ。ここでいう法は心で思われるもの。 

視覚について考えると、見る心(眼識)が見る感官(眼根)を通して色・形という対象(色境)を捉える。眼耳鼻舌身意それぞれにこの三分法を適用すると以上の十八界になる。般若心経で、これらは、皆、ない 、ない、ないといっている。 いわく、 

是故空中無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽 

とまことに調子がよろしい。さっぱりする。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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