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2026年1月26日月曜日

天竺ブギウギ・ライト㉑/河野亮仙

第21回 天竺ブギウギ・ライト
聖なる踊り子たち 

デリーのコンノート・プレイスで、しばしば、女装の男たちが商店前にたむろしているのを見た。彼ら、いや彼女ら?はヒジュラと呼ばれる公称半陰陽のグループだ。生物学的に両性具有者はそれほど高い確率では出現しないので、ほとんどは去勢している。トランスジェンダーである。 

去勢手術は非合法であり、出血や尿道感染で死に至る事もある。カルーセル麻紀もモロッコで手術して死にかけた。少なく見積もる者もあるが、デリーに一万人以上住んでいるようだ。 

ヒジュラは、元々、ウルドゥー語で半陰陽、または宦官を意味する。中国のみならず、イスラームの宮廷にもいた。インドに宦官がいなかったわけではないが、007の映画『オクトパシー』のように宮廷の警護は女性、あるいは高齢者を採用したようだ。当時、40過ぎれば高齢かとも思うが、不惑だろうか。 

ヒジュラの本職はダンサーであり、お祝い事、結婚式や出産に駆けつけ、歌い踊ってお祝いする。門付け、あるいは押しかけをするほか、男性相手に売春をする者もいる。踊り子としての自覚が高く売春を認めないグループもある。疑似家族としてグルの元、何人かの弟子と一緒に住む事が多い。 

女装する芸人については古くから記録がある。前2世紀の文法家パタンジャリは、素行が芳しくなく、社会的地位が低く、男で女に扮する者をブルークンシャとして記述するが、ヒジュラとの関係は不明である。 

インドにも遊牧民の去勢文化はあるが、ヒジュラという特異な形態が古代からあるのか、何世紀頃に発達したのかは、例によって分からない。 

昔、テレビでヒジュラのお祭りを取材した番組を見たが、どこにそのビデオがあるやら。今回は写真家石川武志『ヒジュラ/インド第三の性』青弓社、1995年と文化人類学者セレナ・ナンダ『ヒジュラ/男でも女でもなく』青土社、1999年を資料とした。主として80年代の取材に基づく。わたしが、毎年、インドに出入りしていたのもその頃だ。 

デリーの商店街で、お祝いでも何でもないのに店の前で踊られると営業妨害になる、あるいは呪いが掛かるといやだと思って、仕方なしに少額を渡す。それじゃ足りないとなると、また踊り、時には毒づくので何十ルピーかをバダイとして払う。 

出産祝いの儀礼をし、赤子の前世の汚れ、カルマをヒジュラが引き受けるなど、宗教職能者としての側面を持つ。厄を受ける仕事だ。 

建前としては去勢故に性行動を放棄した苦行者であり、物乞いではなく宗教的托鉢者である。祝福であれ呪いであれ、その言葉が真実となる力を神から授かっている。 

結婚に際しては、祝福して多産、特に男の子が生まれて家族が繁栄するよう祈る。出産でヒジュラが駆けつけて祝福するのは男の子のみである。バフチャラという母なる女神の力を授ける。 

オールド・デリーの有力なナーヤク、すなわちグルたちのリーダーの一人であるチャマンは、いい顧客を持ち豪華な調度品のある家で裕福な暮らしをしていた。ダンスの名人としてあちこちに呼ばれて評価された。 

石川によると「シンボー・マハラージという有名なプロのダンサーに、インドの古典舞踊のレッスンを受ける」とある。これはカタックの大家シャンブー・マハーラージの事に違いない。ビルジュ・マハーラージの父はアッチャン・マハーラージで、彼はバーイー・ジー、芸妓も弟子に持っていた。アッチャン、ラッチュー、シャンブーは兄弟である。 

一方、ニュー・デリーで石川がヒジュラの後を追っていくと、駅の構内に勝手にずんずん入り、操車場のような所に行く。暗がりのなかプラットホームに上がり歩いて行くと、2、30人のヒジュラが、浮浪者とともにプラットホームに寝ていた。 

彼らはラームナガルの貧民街に依拠していた。貧民相手なので。出産も結婚も門付けも実入りが少ない。同性愛者に売春をする事もある。コンノート・プレイスまで3、4人のグループで出かけ、太鼓とシンバルを叩き、店先で踊るのは彼らである。午前中に3、40軒回る。物乞いする沙門のようにも見える。 

また、ラージャスターンのアジメールにおいてヒジュラはお行儀が良く、お布施は20から40ルピーくらいらしいが、商店で拒絶される事もあまりない。街を歩いていると足下にひざまづく者もいて、その場合は手をかざして祝福する。聖者のごとくである。 

誕生の儀礼として1時間ほど歌や踊りが続けられる。曲は映画音楽や民謡などから選ばれている。その中で妊娠から出産までをコミカルに寸劇のように歌って踊る。石川が観察した家で、お布施は1000ルピーだったが、踊っている間、参加者から2ルピー、5ルピーのおひねりを次々と貰って幸福や長寿を祈る。 

石川は結婚式後のお祝いにも立ち会う事も出来た。注目すべきは、パフォーマンスの間、花嫁は奥に引っ込んでいる事だ。生殖能力のないヒジュラの穢れが移らないようにするためだ。 

終了するとグルからお米を頂戴する。結婚してからの多産と家の繁栄を約束する。花嫁の頭に手を差し伸べ、花嫁はひざまづいてその力を授かる。踊り子の寿ぐ力が物語られている。 

81年、パンジャーブにおけるセリナの取材によると、男児の誕生祝いに対するバダイは、101から151ルピー(必ず奇数)。他に小麦粉、お菓子、甘藷糖、布地やサリーが付けられる。 

第三の性といってもヒジュラの場合、男性の機能かマイナスになっているのに対し、デーヴァダーシーは男性の権利がプラスになっている。すなわち、読み書きや学問を習い、財産を相続する。 

 

ラーイー 

ハーフナーの描く旅の踊り子一座を紹介する前に、国際交流基金と日本文化財団による公演「アジア伝統芸能の交流’84」に参加したラーイーについて述べたい。 

インド中央のマッディヤ・プラデーシュ州とウッタル・プラデーシュ州にまたがるブンデルカント地方から来日した。ベーリニーと呼ばれる踊り子は、元々、どこか他の地方からやってきて住み着いた流れ者で下層階級に属す。風評では売春婦とも見なされた。 

一方、楽師はというとバラモンであるとされ、伝統的なレスリングのトレーニングをやっていて、踊り子と絡みアクロバティックな動きを見せる。寸劇も行う。いつも舞踊の格闘技起源説を唱える私としては、もともと宮廷の兵士かと想像する。そこに呼ばれた踊り子といつしか共同作業を行うようになったのか。 

両者は別々のコミュニティなので何キロも離れた村に住み、催しがあるとベーリニーは馬車に乗ってやってくるというから、まるでジプシーだ。旋舞し、跳躍し、駆け巡る。 

結婚式、誕生祝い、名付けの儀式、その他の伝統的な行事に招かれ、夜通し踊る。YouTubeにいくつか映像が上がっているが、84年の来日アーティストの方が遙かに素晴らしかった。今頃、この時の美少女は孫どころかひ孫までいるかもしれない。 

https://en.gaonconnection.com/english/bundelkhand-jhansi-uttar-pradesh-bundeli-rai-dance-folk-culture-tradition-dubai-narendra-modi-51023/ 

 

旅の一座 

さて、話は200年遡る。ハーフナーは、しばしば、旅の一座について言及する。元々は村の有力者などが一座を招いて村人と共に楽しんだのだろうが、西洋人が入ってくるとその宿舎などにやってきて公演依頼をする。あちこちで踊り子一座の施主となって楽しんでいたようだ。 

ハーフナーは1780年頃、マドラスの南20キロのサドラスの商館に勤めていた。イギリス人によって商館は奪われ、サドラスは荒廃したが、それを振り返ってデーヴァダーシーの学校、養成所の模様を記している。それ以外に女子の学校というのはありえない。 

10人ちょっとの大きな子供たちが大きな声で暗唱していたり、インド式の二桁九九を大きな声で唱えたり、声を出しながら砂の上に字を書いたりしていた。 

デーヴァダーシーについての注は、「寺院の内外での儀式に際し、神像の前で踊り歌う若い女性のことで、彼女らのいない寺院はなかった。何人かの娘を持つ貧乏人は一般に末娘を寺院に仕えさせることに決められ、結婚適齢期になるまで、娘を寺院に捧げなければならなかった」とある。 

かつては、神像を馬車に乗せ、行列を作って路上を牽いた。神像はたいまつや空に向かって打ち上げられた火矢によって照らされる。魅力的なデーヴァダーシーたちは像の前で素早い跳躍、技巧的で巧みな旋回や回転で踊った。バラモンたちは神々を讃える歌を大きな声で歌い、大勢の見物人は恭しく大地にひれ伏す。 

ハーフナーが同行のファウ船長とマスリパトナムからマドラスを目指す途中の宿泊所に着いた。彼らはいつもパンチを飲む。フルーツ・ポンチの語源であり、パンチは五つを意味する。ここに示されているのはアラック(蒸留酒)にレモンと砂糖を加えた簡単なカクテルである。宿泊所には商人、農夫、職人、セポイらが泊まりに来る。今でいうツーリスト・バンガローだ。そこに、旅芸人の一座がやって来た。 

踊り手は7人。辺りはもう暗くなっていたが、池で沐浴し衣装に着替え、第一舞踊手がハーフナーとファウの所にやって来て挨拶をし、花束を贈った。そして、踊る許可を求めた。回りのすべての客が二人の方を向いて期待している。夕食の後に呼ぶことにした。「マハーラージャ!」とか声が掛かる。 

噂はすぐに伝わり、眠りについた人も起き上がり、旅人のみならず村人まで集まってきた。宿泊所のレンガにはあちこち三角形のくぼみがあって、そこにラクシュミー神の象られた燭台が置かれる。 

ファウと共にマットレスを敷いて、ボウルにパンチを入れ、シガーをふかして待ち構える。ヴェールを被った踊り子たちに続いて楽師がやってくる。ハーフナーがいいよと合図をすると楽器が奏でられ、ヴェールを落とし美しく化粧された7人が立ち現れる。一列に並び、前に近づき一礼し、右手を胸に当てる。 

激しく音楽が高鳴る。楽器はシンバル、太鼓、一弦琴、ラッパ、シャーナイ、バグパイプ(マシャックとかトゥティと呼ばれる)。動きは緩急自在で身振り手振りが調和し、魅惑的な肢体を官能的にかがめる。慎み深さを損なうことなく、技巧たっぷりに魅力を伝える。 

彼女らはグジャラートのスーラトが生まれ故郷だという。これは驚きである。小沢昭一は放浪芸という言葉を使うが、当てもなく放浪しているわけではなく、基本的にはなじみの顧客の所を巡回して訪れるサーキット芸である。 

まずは言葉の問題がある。ヒンディー・ウルドゥー語圏からドラヴィダ語圏にやって来て言葉が通じるか。ハーフナーたちは駕籠に乗ったが、基本的には歩いて行かなければならない。それとも、スーラト生まれで買われて?南インドで巡回しているのか。あるいはスーラトが素晴らしい踊り子を擁する所なので詐称しているのか。 

彼女らが1時間ほど踊るとハンカチを与えて終わりにする。 

「きれいなお嬢様方有り難う、素晴らしい踊りに満足しました。ニンフのランバー女神もあなたがたのようにうまくは踊れないでしょう」と型どおりに賛辞を述べる。 

そして、回りに座って歌を歌ってくれるよう所望した。真夜中に至り、第一舞踊手にキンマの葉と実を添えて謝礼を渡す。彼女らは口々に気前の良さを褒めてお礼をいう。 

注釈して、ここで述べたような場合は11ルピー。もし、宴会に呼ばれ一晩中歌い踊るときにはかなりの謝礼となり、布や衣服が付けられる。お金はキンマの葉と実を一杯に盛った贈り物の台に載せて第一舞踊手に渡される。 

ハーフナーは宿泊所があまりに混み合っていたので、静かな駕籠の中入って休んだ。眠りに着こうとしたとき、踊り子たちの世話係であるダヤがやって来て謝辞を述べ、黄色いシャツとジャスミンの花輪を持ってきていう。 

「彼女があなたのために調えたキンマを受け取ってください。彼女はあなたの寝台の足下に座って指示を待っています」 

注釈して、「旅芸人であれ、町や村に住む一座や踊り子団であれ、ダヤと呼ばれる老女がいる。彼女は侍女の役をし、また踊り子の売春を斡旋する係でもある」自由恋愛の形を取った売春という事だろうか。この場は辞退した。 

ハーフナーは一座の15歳くらいの少女、マミアに惹かれ、気に入って注視していた。彼女の方もそれに気づいていた。そこで、さらに親交を深めたいとのだと察してダヤがやって来たのだった。なのに、愛のキンマを突っ返してしまった。失礼な行為だった。 

翌朝、一座はマドラスに向かうとのことで牛に荷駄を積んで出立するところだった。踊り子たちは一人一人丁寧に挨拶をして別れを告げ、ハーフナーたちの幸運を祈ったが、マミアはすねて来なかった。それでよけい慕う気になってしまった。 

明るい陽光のもとで見ると、あっさりした木綿の衣服をほっそりと形のいい肢体にまとった彼女は美しく、一層魅力的だった。マドラスでの再会を期待した。 

ハーフナー一行はマドラスに向かう道中、宿泊所が満員だったので野営することにした。夕飯のために米、魚の干物、卵、果物などを買い求め、火打金で火を付ける。ハーフナーが落ち葉をかき集めているとき中指に痛みを感じた。約20センチの毒蛇がぶら下がって指先をくわえていたのだ。焼いて消毒した。 

ナバブペーント(Nawabpet?特定できないがアーンドラとタミルの間辺り)の寺院に赴いたところ、沐浴場に少女たちがいてマミアが声を上げていたので駈け寄った。 

一行は宿泊所を訪ねてくれる約束をし夕刻にやって来た。ダヤとマミアを敷物に座らせ、贈り物の盆にキンマの葉と実、その他を載せて差し出し、過日の無礼を謝った。それには及ばないといって身の上話を始める。 

彼女はアーユルヴェーダの医師ヴァイディヤの家系に生まれたが、母を早く亡くし、父は彼女が8歳にもならないうちに父の友人と幼児婚をさせた。しかし、すぐに亡くなって未亡人となり、父も4年後に亡くなり遠い親戚に引き取られた。 

ひどい待遇だったので逃げ出して道に迷い、空腹で倒れ伏しているところ一座に拾われたのだった。 

マミアは父から教わった処方によりバザールで必要な物を集めて膏薬を作り傷の手当てをしてくれた。 

ハーフナーはマドラスに着いたら、旅芸人の座頭の女房からマミアを引き取るつもりだった。マミアは女奴隷ではなく、ダヤの養女でもなく、彼女が望むなら一座から離れることが出来た。 

ハーフナーはマドラスに到着すると高名な軍医で外科医のベイッセの治療を受けることが出来た。1786年の事である。ベイッセはハーフナーの親戚であった事が判明し、そこに滞在して、マミアやダヤとも交流する事が出来た。しかし、マミアは腫瘍のためかやせ細り死亡してしまい、恋物語は終わる。 

ハーフナーの書は昔のインドの様々な習俗について挿絵と共に描くので、18世紀のインドに興味のある方は、是非、図書館で探して読んでほしい。地名等を特定して年譜を作り、きちんとした注を付けた英訳があったらと思うのだが。もちろん邦訳もほしいが、当時のインド東海岸の事情に精通してオランダ語に堪能な人というのは日本にいない。 

https://www.facebook.com/reel/2102415463919497 

スリランカの祭りの行列で踊る踊り子。いかにもプロっぽい踊りだが、かつてのデーヴァダーシーもこうだったろうと思わせる。舞台芸術化したバラタナーティヤムでは、デーヴァダーシーを思わせるようなはしたない?仕草は避け、また、寺院前の行進、練って歩く踊りもなくしてしまった。 

 
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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2026年1月19日月曜日

般若心経の迷い道 その三

ない、ない、ないの般若経

沙門は世捨て人なので、余り物を頂戴し、自活しない他律的な生活を営む。もともとは岩山の洞窟や森の中の死体捨て場に住んで瞑想した。キプリングの描いたジャングルブックのように動物が友達だ。

基本は三衣一鉢といって、身を守る僧衣と食を乞う鉢だけで遊行するのが沙門、修行者だった。おこぼれ、拾いもので生きる。雨期の間だけ一所にとどまることが許された。

三衣は褐色カシャーヤに染められたので音訳して袈裟という。死体からはぎ取った布や、ゴミためから拾った布を継ぎ合わせ不鮮明な色に染め直した。

釈迦教団は近づきがたい苦行者ではなく、お行儀が良いので人気があり、寄進する有力者が増えた。すると教団に果樹園のようなすごしやすい所が寄進されて庵を結ぶ。それをアーラニャという。落ちた実を食べ、殺生につながる耕作や煮炊きは自分ではしない。

釈尊の時代から百年、二百年も経つと、吹けば飛ぶような草葺きの庵が堅牢な建物に変わる。金銀を受け取ることは禁止されていたが、通貨相当の布の寄進を受けていた。

新品のぴかぴかではなくて、わざと裁断して草木染めや泥染めで濁った色にし、パッチワークでベッドシーツより大きいくらいの一枚布にしてサリーのように巻き付けた。雑巾にくるまっていたわけだ。

前2世紀頃にギリシア人のミリンダ王と対話したナーガセーナ長老は、おそらくぼろ雑巾を着ていたわけではなく、それなりに綺麗な袈裟、サンガーティを纏っていたと思われる。ギリシア・ローマでも一枚布の外衣を着てドレープを綺麗に見せる。

マウリア朝アショーカ王(在位前268年頃?前232年頃)はカリンガ国を征服するときに大虐殺をしたことを悔いて仏教を保護した。この頃になると僧院も立派になったことだろう。仏教サンガの住居をサンガ・アーラーマ、すなわち僧伽藍と呼びそれが僧院に発展する。

アーラーマはお休み処で精舎と訳されるが、その遺構が確認されるのは前二世紀頃からなので、初期にはこんもりとした林の中にそれぞれが自分の住み処を作っただけなのだろう。木の実の取り合いにならないよう、お互い邪魔にならないように点在して住んだと思われる。

クシャーナ朝の1、2世紀には落ち着く場所、伽藍が整備され、修行と学問に励むことが出来るようになった。僧院が豊かになると、バラモンが出家して移り住む。学術、文芸にいそしむことが出来て、大乗経典が制作されるようになる。

戒定慧というが、僧院で身を律して禅定に入り、学問を学ぶ。無所有というのも執着心を捨てるためで、厳しいジャイナ教徒は素裸が悟りへの道とする。

これが自分のものなどと考えず、乞食しつつ遊行して自我を捨てる。自我という鎧を脱ぎ捨て、瞑想により全宇宙との一体感を感じる。空を観じて我と他者、世界を隔てる壁がなくなり至福を得る。そして、あれもない、これもない、ないもないと悟るのが般若経の教えだ。

それでは自我とは何か。犬は家族の中で、自分は主人の次に偉いとか序列を考えているかもしれない。しかし、家族が自分をどう捉えているかは考えない。一歳の赤子も家族の役割は認識するが、家族が自分をどう思っているかなどとは考えもよらない。

三、四歳になるとだんだん関係性が分かってきて、それが自我の目覚めである。他律的で食べさせてもらっている赤ん坊は悟りに近いのか。寝姿を見ていると平和そのもので、これがシャーンティ、涅槃寂静かと思う。

 

梶山雄一先生の般若心経

私はインド哲学史専攻だったので服部正明先生門下ということになる。梶山先生の授業は教養で受けただけで仏教学の購読は受けなかった。『ヨーガ・スートラ』を読むので精一杯、余裕はなかった。

私が大学にいたのは半世紀前。インド哲学史専攻の隣に仏教学と梵語梵文学の合わせて三講座。大変賑やかで同級生は他に真言坊主が印哲に二人、真宗坊主が仏教に二人。一学年上が大豊作で、もう記憶も定かでないが、印哲二人、梵文一人に仏教学が五人。

ところが京大文学部の会報によると、何年か前、印哲と梵文が一緒になってインド古典学、そして仏教学という体制になり、今年度は学部の学生がインド古典学に一人、修士、博士課程に二人ずつ、仏教はというと学部生ゼロ、博士課程は三人のうち一人がハンブルグ大学に留学中、修士には浙江大学からの留学生含めて二人。目を疑い読み直しました。よく、お家取りつぶしにならないものだと思いますが、それは先輩や後輩が世界的業績を上げているのが評価されての事でしょう。以下は敬称略とさせていただく。

手元には写経の本も含めて何十冊も般若心経の本があるが、梶山による心経本というのはない。おそらくあちこちから依頼されていたと思うが先生は急逝された。

平成12年夏に心臓手術をされた。16年、春の叙勲の候補となり、5月の伝達式と拝謁式には出席のつもりでいた。ところが、3月29日に突然亡くなられた。79歳で、もう少し頑張れたかと思うが、人の命は分からない。胃癌だった。

昭和28年4月から31年3月まで、ナーランダー・パーリ研究所に留学されていた。私の生まれた年に渡印したことになる。その後、ロンドン大学、ウィーン大学にも留学されている。『八千頌般若経』の翻訳があるので、般若経、空の専門家と思われているが、幅は広い。

おそらく、仏教学関係者は読んでいない『墨』第83号「般若心経 写経の鑑賞と実践」90年3/4月号から引用させていただく。私が拙い解説を書くより、遙かに有益と思うからである。前回の終わりの方で触れた述語について参照していただきたい。読みやすいように段落は変えてある。

 

十二処、十八界、十二因縁

心経は「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」といって十二処の範疇に実体はないと説き、「無眼界乃至無意識界」といって十八界を否定する。

十二処は眼・耳・鼻・舌・身(肉体)・意(心)という六種の認識器官とその対象である色(いろかたち)、声(音声)、香・味・触(触れられるもの)を挙げて、十二領域を数えたものである。

処とは領域・入口の意味である。十八界の界は種類の意味で、十二処に眼識(見る心)、耳識(聞く心)、鼻識(嗅ぐ心)、舌識(味わう心)、身識(触れる心)、意識(考える心)の六つを加えて十八界という。

十二処、十八界は広略の差はあるが、いずれもすべてのものを認識の世界として理解する範疇である。五蘊の場合と同じように、心経はそれらの範疇を実体とする小乗仏教の思想を批判して、十二処も十八界も無いというのである。

「無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽」というのは十二縁起の小乗的解釈の批判である。小乗仏教では無明(根本的な無知)・行(過去世の行為)・識(現在世に生まれた意識)・名色(心と身体)・六処(六種の認識器官)・触(認識器官と対象との接触)・受(感受)・愛(愛着)・取(執着して自分のものとして取り込むこと)・有(現在世の行為)・生(未来世に生まれること)・老死(未来世における苦の総称)の十二の連鎖を数えて、その系列を三世にわたる輪廻転生の過程と解釈した。

しかしそのような縁起説を釈尊が説いたとは思えない。そこで心経は十二縁起の項目すべてに実体は無い、というのである。

釈尊の説いた縁起説の一例は、苦・集(苦の原因)、滅(苦の消滅)、道(苦の消滅にいたる道)という四諦(四つの真理)で示される。苦には人の基本的無知と愛欲という原因があり、その苦の消滅である絶対の安らぎ(滅)は八正道の実践によって得られる(道)というものである。

しかしその四つの真理も実体的に執着されたときには否定されねばならない。だから心経は「無苦集滅道」というのである。

実在論的な思考は、ひとが事物を認識し、執着することに始まる。その認識・執着を「得」といい、事物の実体を認識しないことを「無所得」という。

事物の実体を認識しないことによって、いいかえれば、空の知恵によって菩薩はすべての障礙・恐怖・顛倒夢想を離れる。般若波羅蜜多つまり空の知恵によって彼は無上にして完全なさとり(阿耨多羅三菩提)を得る。

 

般若心経の位置付け

般若経は大乗経典の始まりで、紀元前後に比較的短い「小本般若経」が成立し、増広された「大品般若経」など長い経典が、300年頃までに次々と成立した。翻訳された経典は何十もある。

その後、『金剛般若経』など比較的短い経典が300年から600年頃までに現れてくる。その中でも般若心経は最も短く、おそらく4世紀前半には成立していたと梶山は想定する。伝統的に般若心経は般若経の精髄(フリダヤ=心臓)を伝えると考えられるので心経という。

梶山の論考は書道雑誌の般若心経写経特集にあるので、サンスクリットのテキストについては述べていない。また、釈尊の教説を考察したアビダルマを批判して、釈尊の空の知恵によって悟りを得ようという般若経の位置を確認する。般若心経によるお説教や人生訓には興味ないので、出版社から頼まれても、あえて心経本をお書きにならなかったのかもしれない。

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

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