第18回 天竺ブギウギ・ライト
インド舞踊入門その5/マダムたちの支えたインド舞踊
まず、今回の主要な登場人物の生没年から記しておこう。インド舞踊再生のキーパーソンとなった伝説のバレリーナ、アンナ・パブロワは1881-1931。
モダンダンスの祖といわれるルース・セント・デニスは1879-1968。これについては以下参照のこと。
ラーギニー・デーヴィーは1893年、ミシガン州に生まれたアメリカ人で夫はバララーム・バージパイ。1982没。アメリカでインド舞踊家と自称するも習ったことはなく、1930年初めてインドに旅発ち、デーヴァダーシーのガウリ・アンマに師事する。また、ケーララ・カラーマンダラムに入門して、カタカリを習う初めての女性となる。そこにはグル・ゴーピナートも学んでいたので、後にダンス・パートナーとし、二人で1933年から1936年にかけてインド中をツアーする。
バーラサラスヴァティーの再デビューに関わる話はこちら。
ラ・メリは1899-1988。マダム・メーナカーは同い年だが惜しくも早世した。1899-1947。
ウダエ・シャンカルは1900-1977。弟のラヴィ・シャンカルは1920-2012。長生きも芸のうち。グル・ゴーピナートは1908-1987。ラーム・ゴーパルは1912-2003。
マダム・メーナカー
メーナカーというのは、マハーバーラタの物語に登場する天女アプサラスの名前で、ヴィシュヴァーミトラ仙を誘惑し、二人の間に生まれたのがシャクンタラー姫。ドゥフシャンタ王はシャクンタラーを娶る。その子がバラタでバラタ族の祖とされる。
メーナカーを芸名にした女優もいるが、ここでは伝説的カタック・ダンサーの話。
マダム・メーナカーは1899年、イギリスに留学した法廷弁護士の父の元、現在のバングラデシュで生まれたバラモン。母親はイギリス人とされる。独立前のインドに重婚罪はなく、富裕で地位のある人には現地妻もいたようだ。ウダエ・シャンカルより一つ年上でよく似た生い立ちだ。もともとはイギリスでバイオリンを習っていた。
1927年にアンナ・パブロワと出会ってインド舞踊の道に進むことを勧められた。どこかで聞いたような話だ。マハーラージ一族やシーターラーム・プラサードにカタックを学ぶ。
1928年にボンベイでリサイタルを行い、1930年にはパリに進出。1935年から1938年にかけてヨーロッパ・ツアーを行う。1936年のベルリン・オリンピックに際して催されたベルリン・ダンス・オリンピアードにも参加して一等賞を獲得する。カタックにグループ・ダンスを組み入れてショーアップされた舞台芸術に仕上げたのは彼女の功績ではないか。
1941年、ボンベイ近郊にヌリティヤーラームを開設し、カタック、マニプリー、カタカリを教習した。そこに参加したダマヤンティー・ジョーシは養女となる。メーナカーは難病のため1947年に47歳で夭折した。インド独立の3ヶ月前のことだった。
オリエンタル・ダンサーと呼ばれるルース・デニスは、1906年に「ラーダー」を上演している。「サロメ」は1909年だ。世界ツアーをして1925年から翌年に掛けて日本、中国、インドに渡った。
日本では松本幸四郎に「紅葉狩」を習い、レパートリーに入れる。中国では梅蘭芳と会い、『覇王別姫(英語版)』を基にした作品を作った。インドでは、インドに取材した作品を上演して熱狂的に受け入れられた。ウィーンでは「ナウチ」と「ヨーギー」をソロで踊る。YouTubeを見ると、大衆的な百年以上前のストリート・ダンサーの模様が分かって興味深い。
ツアーでインドにやって来たデニ・ショーン舞踊団は、遊女のバチュワー・ジャーンのカタックを紹介してもらって見学している。
タゴールはデニ・ショーンのショーアップされたモダンなステージに感激し、学園に来て指導してもらいたいと思うほどだったが、世界ツアーで稼いでいるのに無理な話だった。その代わりにマダム・メーナカーのダンス・パートナーであった、ジャイプル・ガラナのパンディット・ガウリシャンカルを招いてカタックを指導するように頼んだ。
なお、ルース・デニスは1940年に、ラ・メリと共にスクール・オブ・ナティヤという民族舞踊の学校を開設した。
こうした異国情緒のバレエやオリエンタル・ダンスの潮流に乗って、インド舞踊という概念を作ったのはウダエ・シャンカルではないのか。もっとも、その頃はウダエもラーム・ゴーパルもインド・バレエと称されていた。メーナカー・バレエという呼称もあった。ラーム・ゴーパルの顔、ここではマイケル・ジャクソンに似ていないか。
また、先駆者の一人にグル・ゴーピナートがいる。1908年生でケーララの母系制大家族ペルマヌール・タラヴァードの出身。この家系からは多くのカタカリ役者を輩出している。ケーララ・カラーマンダラムの第一期生であるが、特筆すべきはマニ・マーダヴァ・チャーキヤールにラサ・アビナヤ、ナヴァ・ラサを習ったことだ。
アメリカ人インド舞踊家のラーギニー・デーヴィーのダンス・パートナーとなって海外でもツアーをする。彼のおかげでカタカリ舞踊劇がインドのみならず世界中に知られるようになった。ラーギニーについてはこちらにも書いた。
1932年、ボンベイでデビューし、映画でも活躍するが、1987年、舞台で上演中に亡くなる。ケーララ・カラーマンダラムのモーヒニーアーッタム・コース第一期生のムラッカル・タンカマン・ピッライと結婚しダンス・パートナーとする。
ウダエは1920年、父に付いてロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ優秀な画学生だった。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタインは高名なバレリーナ、アンナ・パブロワの友人でもあった。また彼の家にはラビンドラナート・タゴールが滞在したこともあり、その甥の画家・詩人のアバニーンドラナート・タゴールとも交流があり、インドの芸術文化の優秀さを喧伝した。ウダエにブリティッシュ・ミュージアムに行ってアジャンタやエローラの壁画を学ぶように指導していた。
末弟ラヴィ・シャンカルが生まれて間もない頃、ウダエはロンドンに移住した。アンナ・パブロワは「ラーダーとクリシュナ」を上演するためダンス・パートナーを探していた。ウダエの父が主催した、第一次世界大戦に参加したインド兵のためのチャリティ・コンサートでウダエとアンナは出会う。そこには英王ジョージ5世も臨席していたようなので、彼らは文化的なハイソサエティに仲間入りしていた。それは1923年のこと。
父、シャーム・シャンカル・チョードリは現在のバングラデシュで生まれたバラモン。カルカッタ大学とオックスフォードで学んだ法廷弁護士である。バナーラスでサンスクリットと哲学を学ぶほか、音楽を愛好して古いドゥルパダの歌を習い、伝統的なヴェーダの朗唱も学ぶ。ラージャスターンにあるジャラーワルの藩王に首相格で仕えた大臣であり、また、何冊もインド哲学や仏教の本を著した文人でもある。
母は大地主の娘で、ジャラーワルにいたときは王妃と親しくした。母も音楽愛好家で、家には蓄音機やレコード、いくつもの楽器があり、音楽にあふれていた。
ところが、父が大臣を辞めると、突然、長兄ウダエを連れて二番目の妻となるミス・モレルと共にロンドンに渡ってしまう。バナーラスの家には4人の弟が残され、職についていない母は、后から頂戴した金銀や宝石を売って生計を立てていた。
ノラ・ジョーンズの母スー・ジョーンズは、ノラが4歳になるまでラヴィ・シャンカルと一緒に暮らしていたそうだが、その後8年間会わなかった。ノラは一人でレコードを聴いていたそうだが、母は苦労したことだろう。シタール奏者として売れっ子のアヌーシュカは、ラヴィとシュンカヤとの間にできた子。血は争えない。
インド・バレエ
ウダエ・シャンカルは子どもの頃、小作人に踊りのうまい男がいて一緒に遊んだようだが、それは古典舞踊と呼ばれるようなものではないだろう。今でいうバングラの元のような踊りだろうか。
ジャラーワルの宮廷にはクキ・バーイーがやって来て踊ったというが、これはカタックに違いない。王宮にはインド各地から高名な舞姫が集まって様々な踊りを王の前で披露したと思われるが、ウダエが習ったことはない。
父はロンドンに渡ってから法律の仕事をしながら文化活動を行い、インドの音楽や舞踊、演劇を制作していた。ウダエは音楽や振り付け、美術のアイデアを出して協力した。その舞台でウダエが「剣の舞い」を踊っているところをアンナ・パブロワが認めた。
一方、ラヴィ・シャンカルの自伝では「ウダイの舞踊家としてのキャリアは、1924年に父がロンドンで上演した音楽番組で始まったのだった。これが西洋で最初に上演されたインド・バレエだと思う」と述懐しているが、おそらくこれこそ「剣の舞い」を披露したチャリティ・コンサートで、1923年のことと思われる。聴き語りでは前後関係の記憶が曖昧なまま話すことがある。
バレエ・リュス
バレエ・リュスのリュスとはロシアという意味なので、ロシア・バレエ団のことである。20世紀初頭に天才興行師セルゲイ・ディアギレフが立ち上げて、パリを中心に活動した伝説的な団体である。彼のおかげで、廃れかけていたフランスの一民族舞踊ともいうべきバレエが世界的な総合芸術となった。
「ジゼル」とか「コッペリア」が19世紀のロマンティック・バレエであり、マリウス・プティバが振り付けた「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」、インドを舞台にした「ラ・バヤデール」がクラシック・バレエと呼ばれる。
プティバ振り付けの「ラ・バヤデール」に反発した振付師がフォーキンで、ディアギレフは彼と共に新しいバレエを試みる。それはモダンダンスのイサドラ・ダンカンの影響を受けたともいわれる。アンナ・パブロワもその影響を受けて素足で踊ったこともあるようだ。
本国ロシアを飛び出してパリに向かい、ロシアの帝室バレエから精鋭を連れ、次々と意欲的な創作バレエを制作した。伝説的なニジンスキーやアンナ・パブロワも参加していた。
20世紀初頭のパリは植民地経営のおかげで潤っていて、異民族のエキゾティックな風物への関心も高まっていた。1909年に、ロシアの季節「セゾン・リュス」として「ダッタンの踊り」でロシアの身体性を発揮する。第二回公演ではストラヴィンスキー作曲の「火の鳥」が上演された。1913年作曲のストラヴィンスキー「春の祭典」ではロシア奥地の土俗的な姿が描かれる。花のパリから見れば、ロシアは最果ての辺境である。
バレエ・リュスの音楽については、ドビュッシーほか、サティ、ラヴェル、レスピーギ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフといった錚々たる作曲家に依頼している。今の日本人からするとすべてクラシックなのだが、当時は前衛だ。
時にはシャネルが衣装を手がけ、舞台芸術についてもマティス、ルオー、ピカソ、ユトリロ、ローランサン、デ・キリコが参加してまばゆいばかりだ。ピカソなどバレエ・リュスに入り浸ってバレエ・ダンサーと結婚してしまったほどだ。
通常のバレエ団が本拠地の劇場を持つのに対して、バレエ・リュスは旅の一座だった。そのため世界中に刺激を与え、モダンダンスの発展を促進する。それはまた、世界各地の舞踊家がバレエを踊ることによって、各民族が持つ身体表現を取り入れ、バレエの表現の可能性を広げる、内容を豊かにすることにつながった。
パブロワとウダエ
アンナ・パブロワはディアギレフの元を去って独立し、旅の一座として船に乗り、欧米のみならず世界各地を巡業して回った。バレエの伝道師だ。1922年には、日本、中国、インド、マレーシア、フィリピン、エジプト。1928年にはエジプト、インド、ビルマ、マレーシア、ジャワ、南アメリカオーストラリアを巡回する。
ジャワからオーストラリアに行く船で、ルクミニー・デーヴィーはアンナ・パブロワの一行と一緒になった。それは1929年のこと。バレエの手ほどきを受けたが、あなたはインドの伝統を勉強しなさいといわれる。
ウダエはアンナ・パブロワのプロダクションで「ラーダーとクリシュナ」「インドの結婚式」の二作品しか出番が与えられなかったので、やがて独立する。そうしたヨーロッパの伝統にないエキゾティックな異文化に興味を持つという流れからインド・バレエが誕生し、インド舞踊の覚めにつながる。
ウダエはそれをハイ・ダンスとかクリエイティヴ・ダンスと呼んで、インドの古い伝統を今日的に演出しようと努力した。それまでカタックもカタカリもインド各地の民族舞踊の一つとして存在するだけで、全体を包括するインド舞踊という概念はなかった。
インド・バレエからインド舞踊に
ウダエはロンドンに戻ったが、展望が開けずお金もなく苦悶する。また、1925年パリへ行き、1926年にはフランス人の音楽家シモン・バルビエル、通称マダム・シムキーが合流する。おそらく劇伴の楽譜を作ったりして、音楽監督として貢献したのだろう。シムキーは美貌を買われてのことだと思うが、ウダエに踊りを習い新たなダンス・パートナーとなる。
1927年には、スイス人の彫刻家でインド美術を学ぶマダム・アリス・ボナーを連れて帰国する。バナーラスに戻りアリスの資金援助を得てカンパニーを結成し、インド中をツアーしてその美術を探訪した。シャンテイニケタンにおいてはタゴール翁と面会する。アリスは舞台美術や衣装、装飾品などのデザインを担当したのだろう。
二人の協力を得て「洋装のインド舞踊」が誕生したことになる。古くてひなびた田舎の踊りではなく、モダンなインド舞踊を都会のインド人は歓迎したことだろう。
何人かの援助を受け、1928年にパリで公演し成功した。それからベルリン、ウィーン、ブダペスト、ジェノヴァで公演する。しかしそれは、西洋音楽を中心に伴奏を付けた借り物だった。専任の音楽家を養成して舞踊団を作らないと満足なことはできない。
1929年に帰国してツアーをし、カタックやバラタナーティヤムなどを見て回る。陣容を整えて、1930年秋には一族郎党を引き連れパリを本拠とし、周到な準備をして翌年から8年間ツアーをした。それは世界の舞踊地図の中にインド舞踊を位置づけたことになる。シャンカル一族についてはこちらに記した。
1935年に帰国して新メンバーを選び、その中にはアラウッディン・カーンもいて、ラヴィ・シャンカルと共にヨーロッパ・ツアーをした。
1939年、ヒマラヤ山嶺のアールモーラにウダエ・シャンカル・インディア・カルチャー・センターを開設し、本格的なインド舞踊・音楽の研究所を設立するが、ひたひたと戦争の足音が迫ってきたため、1943年に閉鎖する。
それからは唯一の自伝的映画「カルパナ」にいそしむ。2年前からYouTubeで全編を見られるようになって評価されているが、経済的には採算が合わず大変だった。1948年に公開されたが、困難なときによくこんな大作を作れたものだと思う。翌年からは資金稼ぎのため、欧米を2年間ツアーした。借金してもやるべきことはやった方がいい。
ラーム・ゴーパル
もう一人、インド舞踊の黎明期に活躍した男がいる。ビルマ出身の母とラージプート出身の法廷弁護士を父に持ち、バンガロールで生まれ育ったラーム・ゴーパルだ。
ミーナークシ・スンダラム・ピッライとムットゥクマーラン・ピッライに男性舞踊家に適したバラタナーティヤムを習い、クンジュ・クルップにカタカリを習う。また、創設間もないケーララ・カラーマンダラムに学ぶ。カタックはジャイ・ラールに習った。
1936年、オリエンタル・ダンサーのラ・メリに見いだされ、ダンス・パートナーとしてビルマ、マレーシア、シンガポール、日本を巡る。しかし、ラーム・ゴーパルが激賞されたのに嫉妬したのか、どうも、ツアーの途中でラ・メリに置いてきぼりにされたらしい。日劇ダンシング・チームを指導するが、お金もなく病気になったようだ。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり、東京でポーランドの批評家アレキサンダー・ジャンタと出会い、彼がマネージャーとしてアメリカに渡って、ハリウッドやニューヨークに連れ出す。
後にダルパナを開設するムリナリニー・サラバイは、ラーム・ゴーパルと共にミーナークシ・スンダラム・ピッライにバラタナーティヤムを習う。ダンス・パートナーを勤め、インド中をツアーした。彼はインドのニジンスキーと賞賛され、身体の左側はバラタナーティヤム、右側はカタカリ、足はカタックといわれた。
そしてルクミニーのバラタナーティヤム
「ラ・バヤデール」を端緒としてインドの宮廷を舞台にしたインド風味のバレエが始まり、そこに本場のインド人を加えたインド・バレエが成立してくる。舞踊家個人の創意に満ちた、「インドの伝統そのままではない新しいインド舞踊」が繰り広げられた。しかし、インドの伝統といっても、それは昔の誰かが創作したものなので新作と等価値だと思う。残れば古典となる。
その間にインドでは、師匠の家で学ぶグル・クラ・システム、お家流の伝承が統合されて学院で学ぶインド舞踊の体系、正調インド舞踊が確立されてくる。特定の家系にしか学ぶことの許されなかったクーリヤーッタムでさえ、世界中の人が学べるようになった。
1930年代にヨーロッパをツアーしたウダエ・シャンカル、メーナカー、ラーム・ゴーパル、グル・ゴーピナートは、アンナ・パブロワやラ・メリ、ラーギニー・デーヴィーらが、ダンス・パートナー、あるいは興業主、パトロンとして引き立てたおかげで世界に広く知られることになった。タゴールやワラトールがそれに呼応してインドの文化伝統のリバイバルを志した。
ルクミニー・デーヴィーが舞踊家としてデビューしたのも1936年。1939年には南インドをツアーして「清純バラタナーティヤム」を知らしめた。クチプリのみならず、カタカリもマニプリーもバラタナーティヤムの一つ、『ナーティヤ・シャーストラ』に基づくものと想定した。
そしてそれは精神的な修養であり、ヨーガであるとルクミニーは考えた。バラタナーティヤムの厳しい訓練のためには身も心も神に捧げるバクティが必要である。ステージを寺院、聖なる空間として舞い、聖なる時間を作り出す。自身のみならず聴衆も至高のものと合一するよう導き、至上の喜びアーナンダを得る。
自己も他も融けこんで天も地も敵味方もなく、諸々の束縛から解放され寂静涅槃の境地に至る。解脱を達成する成就法サーダナ、それがバラタナーティヤムであると考える。
バラタ仙に帰せられる「ナーティヤ・シャーストラ」のバラタやバラタ族、最近はバーラタ国を自称するインドの踊りを超えて、志すところは世界平和の祈りということになる。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
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