このブログを検索

イベント情報(つながる!インディア 公式)

2025年11月7日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑳/河野亮仙

第20回 天竺ブギウギ・ライト
般若心経の迷い道その一 

 般若心経を読むとすっきりするとか、悩みが解消する、写経すると心が晴れるという本がたくさん出ている。それですむ方は、それはそれでよろしいのだが、こんなに小さいのに心経ほど問題のある経典はない。 

般若経の権威、梶山雄一はいう。 

心経は短いけれども、というより、短いために、かなり難解な経典である。この小経のなかには五蘊・十二処・十八界・十二縁起・四諦などという仏教の基本的な術語が現れ、しかも、釈尊が説いたとされるそれらの教えがすべて空であると宣言されるために、屈折した解釈が必要になるからである。(『墨』第83号「般若心経 写経の鑑賞と実践」90年3/4月号) 

素直に解釈すると何だか分からないので、屁理屈が必要になる。「屈折した解釈」→どうも、すっきりしない。般若心経の迷い道が始まる。 

そもそも経典ではないという人がいる。これは真言に前振りがついたものである。また経というものには、こういう状況で釈尊が説いたという序文があって、本文の正宗分、そして広めるための流通分というのがあるが、般若心経には本文しかないし、釈尊が登場しない。仏説でないものをお経と呼んでいいのか。 

分かりにくいのは、心経は、毎日、何時間も瞑想して何十年も修行してきた宗教的天才がやっとたどり着いた結論だからだ。戒定慧というが、戒律を守り、禅定をして般若経の研鑽を積んだ学匠の著作である。瞑想の果てに、阿耨多羅三藐三菩提を得て、夢うつつで吐き出した言葉が、「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボーディソワカ」である。 

その短い般若心経を、無理して、さらに、要約すると次のようになる。 

般若波羅蜜多行を行じつつ、心の中に映るものはすべて空である、存在しないと喝破する。知慧の完成を目指して悟り(正覚)の世界に渡ろう。最後は、般若波羅蜜多菩薩に呼びかけて祈る。そのマントラの意味は、 

悟りの岸に渡られた女尊、般若波羅蜜多菩薩よ 私の真実不虚を捧げます 
                         よろしゅう頼んまっせ 

 

般若心経のテキスト 

では、般若心経とは何かというと、実は、何種類かある。日本で普通に読まれているテキストは、漢字の用い方は多少違うが、どの宗派も玄奘三蔵訳の流布本を用いている。摩訶般若波羅蜜多心経といって読み始めるが、真言宗の場合はその前に仏説を付ける。また、大正新修大蔵経の玄奘訳を見ると、そのタイトルに摩訶はないという摩訶不思議。 

さらに、玄奘三蔵訳には流布本「遠離一切倒」のうち「一切」という文言がない。元のサンスクリット語般若心経を見ると、玄奘訳にある「度一切苦厄」に相当する語は見られない。しかし、これらの語が入ると、誠に、調子よく読める。 

般若心経にはいくつかの漢訳があって、大きくいうと小本系、大本系に分かれる。大本には序文、流通分があり、釈尊も登場する。チベットで読まれ、ダライ・ラマが解説しているのはこちらの方だ。このテキスト問題は般若経の専門家、渡辺章悟『般若心経 テクスト・思想・文化』大法輪閣、2009年に丁寧に解説されている。 

しかし、この正規の経典としての大本と流布している小本とどちらが先に成立したのかという問題についても意見が分かれている。わたしは、真言が先にあって、そこにイントロを付け足し、増補して体裁を整えたものだと思っている。陀羅尼経典という言葉もあるし、マントラ聖典と呼ぶ学者もいる。 

最も古いサンスクリット語の写本である法隆寺に残された貝葉の梵本にはprajnaparamitahrdayaというタイトルが付けられている。漢訳すれば般若波羅蜜多心である。フリダヤというのは心臓、精髄という意味だが、ここでは心真言のこと。 

つまり、梵文タイトルではお経、スートラだとは名乗っていない。遣唐使などが旅のお守りのようにして「呪文」を持ち帰ったのではないか。法隆寺貝葉は、八世紀の中国人の筆跡と思われる。 

般若心経自体の成立も判明しないが、およそ四世紀前半とされる。たいていの本は、玄奘訳を使って般若経の精髄、顕教の経典として解説されているが、密教が成立してくる時代であり、少数の学者が密教的な読み方をしている。 

この解釈は、唐でインド僧の般若三蔵に師事した空海が『般若心経秘鍵』に記しているが、長い間理解されていなかった。このインド的な読みを広めたのはヨーガの佐保田鶴治である。『般若心経の真実』人文書院、1982年。 

そもそも、般若心経の解説を読んで分かったような気になっていても、理解したのは語句の解釈であって、いわんとしている空についての体現は出来ない。空とは何だろう。これさえ分かれば般若心経を読む必要はない。 

ダライ・ラマは般若心経は読むだけじゃだめだ、空を理解しろと力説している。宮坂宥洪訳による『ダライ・ラマ 般若心経入門』春秋社、2004年は、チベット的理解を解説した優れた本だ。また、大谷幸三『ダライ・ラマが語る般若心経』角川書店、2006年という本もある。この著者は素人なので解説は良くないが、ダライ・ラマが熱く空を語るDVDが付いているのが貴重である。 

 

ミミズの見る世界 

ミミズは地を這っている。ミミズの認識する世界とは何だろう。目も口も鼻もないが、皮膚感覚で明るい暗いは認識できるだろう。味という高級なものは味わえないかもしれないが、毒物か好適かは判断できる。触覚で、生きている。音は空気の振動なので皮膚で捉えることができる。 

おそらく新生児もそうだろう。目は開いていても物を認識できない。歩くことも這うことも出来ない。言葉も分からない。抱きついておっぱいを探す嗅覚と触覚だけが頼りである。赤子のうちは何でも触って口に入れようとする。鳥は目が良いが、犬などは嗅覚中心で生きているのだろう。五感はいずれも皮膚感覚、触覚の延長線上にある。 

人は目で見た物を信じるが、これも危うい。空耳というのはよく経験するが、空目!?というのもありうる。錯聴、錯視という。角膜手術の後など直線がゆがんで見えて色もにじんでいる。訓練というか馴れること、脳が矯正することによって「正常な視界」が得られる。目で見たそのままの世界とは何なのだろう。 

音は空気の振動、色は電磁波(可視光)の波形を脳が解釈したもの。何で色が見えるのか不思議な話だ。臭いは空中に浮遊している分子、味は水に溶け込んだ分子。そういうと味も素っ気もないが、それ自体として捉えることは出来ない。脳が解釈して意味を持つ。 

モーツァルトを聴かせて醸造した日本酒などが話題になったことがある。麹菌は音楽を認識できないが、その1/fのリズム、振動を感じることによって美味しい酒が出来るという。 

音楽というのは人間以外に体験できない。ただの空気の振動なので、人は頭の中に構築した音像を認識している。音楽というのは存在していない。「空」である。絵画というもの、絵に描いた餅も動物には意味がないが、蒲焼きやサンマを焼いた臭いには反応する。 

昔、バイノーラル方式で録音されたテストCDがあった。ダミーヘッドといって人の頭の形をした装置の耳にマイクを仕込んで録音する。これをヘッドフォンで聴くとステレオより遙かに立体的な音になる。 

ハエが飛び回る音を聞くと頭の周りを飛んでいるように感じる。ドライヤーの音を聞くとほわーっと暖かく感じる。マッチを擦る音を聞くと硫黄の臭いがする。これは錯覚なのだが五感はそれぞれ結びついている。脳の連合野で解釈し加工された像を認識している。 

誰でもギザギザという音からは尖った図形を連想するし、キラキラというと黄金色の図形を思い浮かべる。ゴジラ、キングギドラは尖っていて、ムーミン、バーバパパは丸っこい。共感覚を持つ人は音楽に色を感じる。白黒の文字にも色を感じる。人の眼耳鼻舌身意はお互いに関係し、助け合っている。 

目だけ、あるいは耳だけでは脳の中に世界を構築できないのだ。触覚だけでは何者か判明しない。五感を総動員して出来た仮想世界は、現実には存在しない。我々の認識する世界は「空」である。かといってその存在、世界があることを否定するわけではない。 

般若心経は「色即是空 空即是色」という。通常、我々は仮の脳内に構築している像を認識していて、それは実在しないが、やはり、そのそれぞれが関係し合って成立している世界はあるのだ。眼耳鼻舌身意のそれぞれは単独で世界像は成り立たず、互いに依存して認識される像が成立する。 

瞑想の段階が進むと、脳の方向定位連合野の活動が極端に低下する。自己と外界との境界線を見いだせなくなる。あなたと私、人と生物や草木が別々の存在であることを忘れて、一つに溶け合って法悦感が生じる。その場合、外の世界と私は同じ。これを悟りの世界というのか、私には分からない。 

感覚が相互に依存して構築された仮の像「空」は実在しない。しかし、自分と外の世界が溶け合うと、「空」もまた、「色」と同じことになる。外界に存在しようとしまいと、諸の感覚の情報から統合された心によって捉えられた世界しか我々は認識できない。しかし、身体性によって保証される世界が、現に存在してもいいじゃないか。空は即是れ色である。 

突然、「身体性」という言葉が浮かび、他の仏教解説本にはない説明を試みた。今、AIを助手、秘書代わりに使っているが、コンピューターにないのが身体性である。赤子の運動機能と知能の発達は強く結びついている。このことがこれから何か考えるのに役立つかもしれない。 

長女が何ヶ月の頃かは忘れたが、偶然、すぽっと親指が口に入ったことがある。その後、指しゃぶりをしようとして、手を動かすのではなく、必死に顔の方を動かしてもがいていたことがある。空間の認識が出来ず、手をどう動かしていいのかも分からなかったのだ。あれもない、これもない、「ない」もないと否定し続けてきた般若経の伝統の最終結論が、「やっぱり、あってもいいんじゃないか」に変わったのではないか。 

これが般若心経の迷い道。 

 

言い訳 

私の周囲には般若経の専門家、仏教学、宗教学の権威、般若心経の本を書いた方が何人もいる。その中で専門家ではない私が書くのは、おこがましい次第だが、死ぬ前に恥をさらすように私見を披露する。 

そもそもインド語の名詞には男性・女性・中性があり、女性名詞の陀羅尼dharaniはそのまま女神と受け取られる。prajnapramitaも美しい姿の女神と理解されて、インドネシアやカンボジアには目を見張るような彫像が残されている。 

佐保田鶴治は、心真言の最後にあるソワカ、スヴァーハーsvahaをインドで護摩供を修するとき、火にバターを注いで神様に供物を捧げるときの句であると解した。天の神様に煙の上昇と共に贈り物を届けて願い事を叶えてもらう。ソワカは、「幸あれ」「めでたし」「成就あれかし」とか訳されている。 

しかし、護摩ではなく読経の場合は何を捧げたらいいのだろう。それは自分の身、全身全霊、修行をしてきた偽りなき真実サティヤしか捧げるものはないだろう。読経は供犠というのが私の解釈で、佐保田説を一歩進めることが出来たかもしれない。 

般若心経の解説本や日本語訳は、学者や僧侶のみならず、作家や詩人、漫画家、科学者も試みて超訳をしたり、お説教をしたりと様々だ。 

立川武蔵『般若心経の新しい読み方』春秋社、2001年には、心経のインド的解釈、中国的解釈、日本的解釈について丁寧に説明されている。 

皆様もひとつ、写経から一歩進んで、般若心経の口語訳、超訳を試みるとよい。研究ノートを付けて自分の解釈を書いてみると理解が深まる。「超訳」のなかでは伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』朝日新聞出版、2010年、柳沢桂子『生きて死ぬ智慧』小学館、2006年などが良いと思う。もちろん、中村元・紀野一義『般若心経』岩波文庫、1960年がほとんどの本の基本となっている。 

用語についてはAIが簡単に教えてくれる。Copilotはウィンドウズのタスクバーに入っているし、GeminiChatGPTでも何でもインストールして使ってみるといい。自習にはとても役に立つ。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論 

The post 天竺ブギウギ・ライト⑳/河野亮仙 first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/fD5vdOu
via IFTTT

布が語る文明史──インド更紗からAI時代へ

2025年10月、家族で東京ステーションギャラリーを訪れた。
「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」、これは、インド更紗を体系的に紹介する、日本初の大規模展である。
展示室に入ると、白地に咲く赤い花と、飛び交う虫たちの姿が布の上で息づいていた。
その有機的な線の一つひとつが、遠い交易路や職人たちの祈りを思わせた。

カルン・タカール氏のメッセージには、こうある。
「おそらく更紗は、世界初のグローバル・プロダクトと言えるでしょう」。
私はその言葉を思い出しながら、大布の前でしばらく立ち尽くした。そのとき、私の中でインド国内で考えていた「文明と布」への思索が静かに目を覚ました。

湖のほとりで考えたこと
ラジャスタン州ウダイプールの湖畔には、3度訪れたことがある。
家族で滞在したホテルのテラスで食事をしていると、妻が言った。
「まるでヨーロッパのよう」。
私は少し笑って、「いや、むしろヨーロッパの方が真似をしたんだよね」と答えた。

実際、そうなのだ。
ウィリアム・モリスが19世紀ロンドンで生み出したアーツ・アンド・クラフツの花唐草も、リバティ社のブロックプリントも、その出発点はインドの更紗にあると言われる。
赤と藍のコントラスト、蔓草がうねる格子構図、花と果実が連なる生命的なリズム。
それらはすべて、17世紀にインドの職人たちが木綿に刻んだ模様の系譜に連なっている。
モリスのIndian Diaperは、その名に“インディアン”を冠しながら、インド布の蔓草文様を英国の庭園植物に置き換えた翻案であった。
リバティの多くのデザインも、その原型はインド洋交易を通じて渡ったブロックプリントにある。インドの職人が木版で一版ずつ押した文様のリズムを、イギリスの機械印刷が量産可能なデザインとして再構成したものだ。

2014年から2015年にかけて、私は家族とともにマンチェスターに暮らしていた。この街こそ、かつて世界の産業革命が始まった地であり、今もその記憶が街のあちこちに息づいている。
マンチェスター博物館やサイエンス・アンド・インダストリー博物館には、インドから輸入された布、機械化された紡績機、さらにはリバティ社の見本帳も展示されていた。
そんな街で暮らした一年あまり、モリスやリバティのデザインは、私にとってごく身近な生活の風景となった。

つまり、私たちが「英国らしい」と感じる柄の原点は、実のところアジアの科学と美の融合にあったのだ。
白亜の宮殿も、繊細なアーチも、光を反射する水の配置も、その源流を辿ればアラブやペルシア、さらにはインドの美意識に行き着くとも言われるが、ヨーロッパが“オリエンタル”と呼んで憧れたものは、アジアが生み出した知と技の結晶にその原点がある。

家族での2週間のラジャスタンからグジャラートへの旅の途中、私は「布」という存在に思いを馳せた。
私たちが日々着る服、その織り方、染め方、模様の背後には、人類の叡智と科学、そして哲学が凝縮されている。なかでも「インド更紗」は、その頂点にあると私は感じている。

家族でラジャスタン州サンガネールの工房を訪ねたときのことを、今もよく覚えている。
予約もなしに立ち寄った私たちを、職人たちは温かく迎えてくれた。
当時まだ小学生だった長女に、木版を手にブロックプリントを体験させてくれたのだ。
料金を求めるわけでもなく、ただ「見ていきなさい」と微笑みながら、版木を押す手つきや染料の加減を丁寧に教えてくれた。そのあと訪れたグジャラート州でも同じだった。
媒染や藍の発酵、泥による防染、職人たちは古代からの手仕事の工程を誇らしげに見せてくれた。彼らの村には観光地の喧噪はなく、乾いた風の中に穏やかな笑い声が響いていた。
欧米人の旅行者は見かけたが、日本人を見かけることはなかった。
これほどの技と人の温かさが息づく場所を、もっと多くの日本人が訪れるべきだと心から思った。
カッチ湿地の白いテント村では、夕焼けに染まる地平の向こうで、古代の技法と現代の感性が静かに交差していた。

世界を変えた美しい布
インド更紗、それは木綿に複雑な模様を染め抜いた布である。
赤、藍、黒、黄の色が重なり、草花や鳥が生き生きと描かれている。しかし、その美しさの真髄は「色」ではなく、実はその「科学技術」にあると考える。

サンガネールやグジャラートの工房で見た、あの鮮やかな発色の秘密こそが、数千年の知恵と科学が積み重ねられてきた証である。
17世紀、ポルトガルやオランダの商人がインドからこの布を持ち帰ると、ヨーロッパ人は熱狂した。
「洗っても落ちない!」「赤が光る!」「藍が深い!」
当時のヨーロッパでは、染料がすぐに色褪せ、布は灰色に沈んでいた。
彼らにとってインド更紗はまるで錬金術の産物に思えたという。

それは偶然ではなく、インドの職人たちは、インダス文明以来、数千年かけて染料と水、土、太陽の性質を見極め、自然と対話するように化学反応を操っていた。
媒染と呼ばれる金属イオンによる発色技法、発酵を利用した藍染、泥や糊や蝋で模様部分を保護する防染法、これらすべてに、現代の最先端ケミカルプロセスと変わらない精密な手法が多く用いられ、紀元前から世界と隔絶する高度な技術が確立されていた。
つまり、インド更紗とは、自然科学と芸術がひとつになった人類最古のサイエンスアートとも捉えられる。

インダス文明のDNA
では、なぜインドでそんな技術が生まれたのか。その答えは、遥か紀元前のインダス文明にある。

インド・グジャラート州のモヘンジョダロやハラッパー、ロータル等の遺跡からは、綿花の繊維や染料の壺等の痕跡が見つかっており、博物館に展示されている。インドは人類で最初に綿と染料を高度に操った文明だった。
インダスの人々は、都市を整然と設計し、排水システムを持ち、港湾を持ち、広い交易をするとともに、水の性質や化学発酵を理解していた。それらの知恵こそ、染織技術に繋がったのだ。

インダス文明の発展を支えたのは、観察と経験を積み重ねられた科学だった。

ヨーロッパが憧れたアジアの知
産業革命以前、ヨーロッパは布を十分に染めることができなかった。麻や羊毛は扱えても、木綿はうまく染まらない。だからこそ、インドの布は“魔法の布”と呼ばれた。

イギリス・フランス・オランダ等の商人たちは競って更紗を輸入し、女性たちはその色と模様に魅了された。やがて、ヨーロッパの職人たちは真似を始めたが、媒染や発酵の技術を生み出せず、精密な手仕事も実現できず、再現に失敗する。ついには“インド更紗輸入禁止令”まで出たほどだ。

そして18世紀、イギリスは方向を変える。
「ならばインドの手仕事を機械で再現してしまえ」と。
こうしてマンチェスターとリバプールの繊維工場が生まれ、世界初の産業革命が始まる。

皮肉なことに、産業革命の起点は、インド更紗への憧れだった。
「機械化」は、高度な手仕事への憧れから生まれたとも言える。

だが、そこには悲劇もあった。
イギリス東インド会社は、インド更紗の輸出を禁じ、現地の職人に機械織りの原綿を生産させるよう強制した。
手織り・手染めの職人は激減し、村々から歌と色が消えていった。
ガンジーが独立運動の象徴として「糸車」を掲げたのは、この悲劇を取り戻すためだった。

科学と美が再び出会う時代へ
インド更紗を前にすると、誰もが思わず息をのむ。
それは美術品としての美しさだけでなく、「人間が自然と共に生きていた時代」の記憶が呼び覚まされるからだ。

インド更紗の職人たちは、「美しい布を作ること」そのものが祈りであり、倫理だった。
化学反応も、色も、宇宙の循環の一部として理解していた。
その精神性こそ、いまの科学に最も欠けているものではないだろうか。

インドの染め壺、
日本の和紙、
中国の磁器、
それらはすべて「自然の物理を観察し、尊重し、共に生きる技術体系」だ。
これを“伝統工芸”という枠に閉じ込めず、現代科学や政策に統合することが、私たちの使命だと思う。

ある日、オールドデリーの路地にある布屋で、私は古い更紗の切れ端を眺めていた。
床には、どこかで見覚えのある柄――リバティやウィリアム・モリスを思わせる花唐草が並んでいた。
妻がそれを手に取り「これ、服にしてみようかな」と言うと、そばにいたインド人の女性が優しく笑って答えた。
「それはサリーにも使えますけれど、本来はお布団やソファ、家具を飾るための布なんです。」

その一言に、私ははっとした。

私たち日本人は、ヨーロッパを通じて“再輸入”されたインドやペルシアの文様を、「ファッション」として着てきた。けれど、その源流にあるアジアでは、同じ柄が「暮らしの布」だった。

つまり、私たちはいつの間にかヨーロッパ的な美意識を通して、アジアの文化を見てしまっていたのだ。

欧米がアジアの文様を“エキゾチック”として再構成し、それをまた東洋に“逆輸出”する。
私たちはその鏡像のなかで、「ヨーロッパ風のアジアらしさ」という幻想を受け取っていた。
それは浮世絵や柿右衛門様式にも通じる、異国趣味というフィルターを通して再定義された「東洋の美」だ。

けれど、あの布屋の一瞬のやり取りで、私は世界の見方が静かに反転するのを感じた。
西洋の価値観こそ普遍的に見えるが、その根にはアジアの知恵が息づいている。
ルネサンスを支えた中国に由来する三大発明にしても、「アルカリ」「アルコール」といった語源の通りのイスラム化学についても、またインドの高度な科学も、その礎を築いていたのだ。

そして、東京ステーションギャラリーの壁にかかっていた南インドの更紗。

赤や黒、黄や藍の発色は数百年を経ても褪せず、蝋で白を抜き、媒染で色を定着させる――
そこには職人の手技と化学の知が見事に融合していた。
それは単なる“伝統工芸”ではなく、人類が最初に手にしたテクノロジーの記憶そのものだった。

アジアとヨーロッパの文明を結んだのは、戦争でも条約でもなく、「布」だった。
インド更紗は、交易路を通じて人と思想をつなぎ、最終的に産業革命という“文明の再編”を導いた。

インダス文明が綿と藍で宇宙を描き、
産業革命がそれを機械で模倣し、
いまAIが再び模様を“生成”し始めている。

そして、その今後の行方の手がかりは、5000年前のインダスの染料壺の中に、すでに沈んでいるのかもしれない。

栗原 潔(くりはら・きよし)
2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。
2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。
帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

The post 布が語る文明史──インド更紗からAI時代へ first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/s0EnrAb
via IFTTT

2025年9月30日火曜日

戦後80年目に見える「日印の記憶」の接点 チャンドラ・ボース とアマゾンプライムドラマ『The Forgotten Army』が問いかける歴史

インド国会での広島・長崎への祈り、モディ首相の訪日後の中国訪問

2025年8月、戦後80年。政府としての「首相談話」は見送られた一方、石破総理は8月6日の広島平和記念式典で”過ちを繰り返さない”旨を述べ、静かな共感を呼びました。インドでも、毎年8月6日には、議会や学校、地域社会も含めて、インド国内各地で広島・長崎を悼む時間が広がります。本年もローク・サバ(インド連邦議会下院)で原爆投下の言及と黙祷が行われ、在印日本大使館がその様子を公表したとおり、オム・ビルラ連邦議会下院議長は議場において、原爆犠牲者を追悼して、「原爆投下は、世界が初めて核兵器がもたらす壊滅的な結果を目撃した出来事だった。インド連邦下院議会は、大量破壊兵器の無い世界、核兵器の廃絶、そして世界平和の構築に向けて取り組むことを誓う。インド連邦下院議会は原爆の被害を受けた日本の人々を追悼するため、黙祷を捧げる。」との発言を行い、黙とうが行われました。これは1985年以来続いています。このように、インド国内では多くの学校や市民団体が「Hiroshima Day」を催し、特に、教育現場に浸透している事例は枚挙にいとまがありません。そして、インドの方々に「日本で訪れたい場所」を聞くと、かなり多数の方々(著者の滞在時の体感で、6割程度)が東京や京都・大阪に次ぐ、3点目か4点目の地名に広島を挙げ、実際に広島を訪れるインド人観光客もとりわけ多いところです。このことは、2023年G7広島サミットでも具現化されていました。モディ首相が自ら広島平和記念公園においてマハトマ・ガンジー像の除幕式を行い、「非暴力・不服従」の理念が広島の「平和文化」と深く共鳴する瞬間でした。

 

そして、2025年9月、訪日に引き続いて中国を訪問していたインドのモディ首相は、訪問中に開催された中国における「抗日戦争勝利80周年」の中国人民解放軍の軍事パレードへの参列を控えました。インド政府関係者が明かしたとして日本国内にも報道されたその理由は、「インドには日本を傷つける意図はない」。こういった行為や発言の背景にある要因の一つとして、インド国内で広く流布している日本ではあまり知られていないが着実に80年前から続く日印の絆の存在を、理解することが出来ます。

 

今、AmazonPrimeVideo(アマゾンプライムビデオ)日本版で日本語字幕や日本語吹き替えもついて視聴できるようになったドラマ『The Forgotten Army—Azaadi Ke Liye(フォーガットン・アーミー)』(インド国内では2020年に配信)が、この歴史的絆の原点を現代に蘇らせています。

 

日本では、東京裁判でのパール判事の日本に対する無罪判決は広く知られている一方で、イギリス支配からの独立を目指してインド国民軍を立ち上げたモハン・シン大尉、そしてその後に指導者となったスバス・チャンドラ・ボースの具体の活動は、なお十分に知られているとは言いがたいところが実情です。このドラマ公開時には、インド国内では大々的なキャンペーンが貼られ広告も多数みられました。インド国民軍の発足と、そこへの日本の関与を描くこの作品は、どのような意識の下で制作され、現代のインド人の心をも捉えるのでしょうか。

 

スバス・チャンドラ・ボースの遺産

インド国中に広くある日本への理解と共感の土壌の要因として、その重要な一つには、第二次大戦中にインド国民軍が参加した「インパール作戦」の歴史的記憶が深く根を張っています。

 

その日印の絆の象徴的とも言える人物が、インド国民会議議長・自由インド仮政府国家主席であったスバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)です。「ネタジ(指導者)」の敬称で親しまれる彼は、わずか41歳でインド最大の政治組織であるインド国民会議の議長となり、その後、日本軍とともにインパール作戦を戦いました。現在、インド国会議事堂のメモリアル・ホールには、右にマハトマ・ガンジー、左にジャワハルラル・ネルー、そして中央上部にボースの肖像が掲げられています。デリーには、数百メートル離れた世界遺産レッド・フォートを指差して進撃を呼びかけるボースの銅像が建っています。夜にレッド・フォートの中庭で開催されるショーでは、激しい銃声や戦車の地響きとともに、日本軍に支援されたインド国民軍の活躍シーンが登場します。これは日本の戦争がインド独立に役割を果たしたという評価にもなっています。

 

 

 

藤原岩市日本陸軍中佐によって結成されたF機関(フレンドシップ、そしてフリーダムからその名をとっています)が、マレーやシンガポールで捕虜となったイギリス軍インド兵から志願者を募って、「インド解放」をスローガンにインド国民軍を結成しました。インド国民軍の将兵は約45,000人に達し、「白人支配からアジアを解放するための組織」とされ日本軍とともに戦ったのです。

 

インド解放を目指して始まったインパール作戦は、日本軍約8万6000人が投入され、帰還できたのはわずか1万2000人という壊滅的失敗であり、飢餓・マラリア・赤痢など補給破綻が主因でした。作戦の過程では、司令官である牟田口中将の強硬な前進命令に対し、現地の窮状を重く見た第31師団長・佐藤幸徳が抗命に近い撤退を実施し、すべての師団長が事実上更迭されます。2019年に日本財団により現地に建設されたインパール歴史博物館の解説も、この日本軍の敗北の背景に補給崩壊があったことを指摘します。

 

しかし、この敗北だけでは終わりませんでした。1945年11月、デリーのレッド・フォートでインド国民軍のシャヌワーズ、サイガル、ディロンの3士官が「反逆罪」で裁かれたレッド・フォート裁判が始まりました。ネルーを含む著名な弁護士団が弁護に立ち、「彼らは祖国独立のために戦った愛国者である」と主張しました。裁判の進行は全国的な反英世論を呼び起こし、カルカッタやボンベイでの大規模ゼネスト、さらに英印海軍の反乱にまで波及しました。最終的に被告3人は無期懲役を宣告されましたが、イギリスは民衆の怒りを恐れて釈放に追い込まれます。この裁判は、戦場で敗れた国民軍が法廷を舞台にして再び「独立の炎」を燃え上がらせた出来事であり、2年後に実現するインド独立への大きな推進力となったのです。

 

現地村民が語る記憶

インパール郊外のロトパチン村に残るレッド・ヒル、1944年5月に激闘の末、インパール包囲を成功させた日本軍が最後に辿り着いた場所であり、現在は「インド平和記念碑」が建ち、日印そしてイギリスの元兵士や遺族も弔いの場として訪れる地です。

 

1944年5月20日、第33師団(弓師団)歩兵第214連隊(宇都宮の作間連隊)第二大隊および歩兵第215連隊(高崎の笹原連隊)の一部がレッドヒル(2926高地)まで到達しましたが、連合軍の激しい反撃を受け、5月29日に撤退を余儀なくされました。作間連隊第二大隊540名のうち、生還したのはわずか37名という壮絶な戦いでした。この丘の名は文字通り、戦闘で流れた血で土が染まったことに由来しています。日本軍とイギリス軍が繰り返し攻防を重ね、一日のうちに何度も支配者が変わるような激戦地でした。

 

特筆すべきは、アジアで唯一ともいわれる、現地村民が自ら建てた日本兵の慰霊塔です。村民の言葉がその思いを物語っています:

 

「私達は日本兵がインド解放の為に戦ってくれた事をよく知っていました。私達は食糧や衣類を喜んで提供しました。ところが英軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてインド独立の為だったのです。私達は何時までもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思い慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と、独立インドのシンボルにしたいのです。その為、村民で毎年慰霊祭を挙行しています。」

 

現在も村民によって慰霊祭が続けられているこの慰霊塔は、まさに広島平和記念公園のガンジー像が体現する「国境を超えた平和」の精神が、80年前の激戦地においても息づいていることの証なのです。

 

 

 

筆者も現地を訪れましたが、現地では今も、包帯、眼鏡、慰問袋等の当時の日本兵の様子がわかる遺品が地元住民の手により大切に集められ、保存されています。地元で「日本戦争」と呼ばれるこの戦いで住民は日英両軍の爆撃や砲撃、物資徴発、対空砲弾落下等による大きな被害を受けましたが、それでも戦死者への敬意を忘れていません。日本の方向を向いて建てられた慰霊記念碑は、地元マニプール観光協会幹部とその家族による清掃、除草活動で環境が保たれています。

筆者がマニプール州チャンデル県への日本政府草の根無償資金協力「マニプール州指定部族のための中等教育段階の学校建設計画」による施設供与のため現地中学校を訪れた際、現地の校長先生はこう語ってくれました:

 

「私の祖父はこの村にいましたが、ちょうど今この中学校のある谷を越えて、砲弾が飛び交っていました。日本もまた苦しんでインドの独立を助けようとした戦いだということを忘れていない」

こうした体験談が世代を超えて語り継がれ、現在のインドの対日感情の基盤の一つとなっていることは、日本人がインドに対して忘れてはいけない事実でしょう。ガンジーの非暴力主義と、戦場での人間的な絆——一見矛盾するようでいて、実は同じ人間の尊厳への敬意から生まれた記憶なのかもしれない、と考えました。

 

アマゾンプライムドラマ「The Forgotten Army」

アマゾンプライムで日本語版も見ることが出来る『The Forgotten Army – Azaadi Ke Liye』は、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の活動を描いた5話のシリーズです。この作品は、シンガポールからデリーまで3,884kmを行軍したインド国民軍の兵士たちの真実の物語として制作されました。特に注目すべきは、作品中で描かれる日本軍とインド国民軍兵士の交流シーンです。言語や文化の壁を越えて、イギリスからのインド解放のために、時に対立しながらも理解し合い協力する様子が丁寧に描かれ、単なる軍事同盟を超えた人間的な絆の形成、現代の日印関係の礎となる要素を見て取ることができます。

 

 

シンガポールでの訓練、ビルマ戦線、そしてデリーに至るまでを描き、女性部隊「ジャンシー王妃連隊(イギリス植民地支配に抵抗したインドのジャンヌ・ダルクといわれる、国民的英雄ラクシュミー・バーイーから取った名前)」の結成も重要な軸として扱われます。インド側の情熱だけでなく、日本軍の現地での行動が結果的に及ぼした負の影響や軋轢にも目配りしつつ、言語・文化の壁を越えて形成された人間的な連帯を描く点で、単なる賛美でも断罪でもない、記憶の再構成に資する作品となっています。印象的場面について一言添えるならば、

— バガヴァッド・ギーターを引用し、クルクシェートラの物語になぞらえて、同胞との戦いをも厭わぬ覚悟を語る場面。

— ラーニー・オブ・ジャンシー連隊の発足で、「民族・信条・性別のいかんを問わず、愛国心のみが加入条件」と語られる場面。

— 現代パートにおいて、東南アジアの民主化への関与や海外での挑戦を志す若者の姿が、戦時世代と響き合う描写。

 

いずれも、当時の空気を現代の価値観に橋渡しする「装置」として機能していました。

 

 

 

チャンドラ・ボースの遺骨は現在も東京・杉並の蓮光寺に三重の箱に納められて丁重に保管されています。1945年9月18日、マッカーサー総司令部の目を盗んでの秘密の葬儀が行われました。戦後、蓮光寺には、プラサード大統領、ネルー首相、インディラー・ガンジー首相など歴代のインド首脳が訪問しており、その時の言葉も碑文として残されています。

 

筆者も家族で昨年2024年の慰霊祭にも参列しましたが、部屋に入りきれない多くのインド人観光客や在日インド人が訪れていました。こういった記憶の共有が、広い意味での背景として、現代の外交関係の深層にある日印の信頼関係を支えているのです。コルカタには「ネタジ・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」が存在するように、日本と協力したボースは、インドで現在も非常に高い人気を誇っています。

 

おわりに——記憶の共有から未来の構築へ

現在、マニプール州やナガランド州の学校教育において、インパール作戦は単なる「日本軍の敗北」としてではなく、「複雑な歴史の一部」として教えられています。教科書には、戦争の悲惨さと同時に、異なる文化的背景を持つ人々がいかに理解し合い、協力できるかという視点も含まれています。

 

インパール作戦から80年を経た今、この歴史的経験が現代の日印関係にもたらす示唆は多岐にわたります。困難な状況における相互理解と協力の可能性、言語や文化の違いを超えて共通の目標に向かって協力することの重要性——これらは現在の経済協力や技術移転においても活かされ、現代の企業経営や国際協力においても参考になる価値観を提供しています。

 

インパール作戦全体の戦死者数は、日本軍26,000名、戦病30,000名以上、連合軍死傷17,500名、戦病47,000名以上という膨大なものでした。しかし、この犠牲の上に築かれた記憶が、現代の平和な日印関係の礎となっていることに、歴史の深い意味を感じざるを得ません。

 

 

 

終戦80年の節目に立ち、広島への思いを共有するインドとの関係を見つめ直すとき、私たちはインパール作戦という歴史的経験の持つ意味を改めて認識する必要があります。それは単なる軍事的敗北の記録ではなく、異なる文化的背景を持つ人々が極限状況で見せた人間性の記録でもあります。

 

平和記念公園に立つガンジー像は、「非暴力・不服従」の理念を通じて広島の「平和文化」と共鳴しています。そして80年前の「レッド・ヒル」は今「平和の丘」として両国民が共に祈りを捧げる場となっています。ロトパチン村の村民による慰霊塔、東京・蓮光寺に眠るボースの遺骨、アマゾンプライム「The Forgotten Army」のような現代への継承、そして現代外交における影響——これらすべてが、日印両国の未来に向けた貴重な財産となっています。

 

戦争の記憶もまた、平和な未来への糧として昇華されているのです。これこそが、歴史を乗り越えて築かれる真の友好関係の象徴なのかもしれません。モディ首相が広島で除幕したガンジー像と、インパールの平和記念碑——二つの場所に刻まれた「平和への祈り」が、80年目の今日、新たな意味を帯びて響いています。

 

栗原 潔(くりはら・きよし)

2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

The post 戦後80年目に見える「日印の記憶」の接点 チャンドラ・ボース とアマゾンプライムドラマ『The Forgotten Army』が問いかける歴史 first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/KrPzYo9
via IFTTT

2025年7月25日金曜日

なぜ『ガンダム』の最強ヒロインはインド人少女だったのか?

私が在インド日本国大使館で一等書記官として勤務していた際、忘れられない出来事があります。デリーの昼下がり、大使館の現地職員と談笑していた時のことです。話題が日本の文化に及んだ際、私はかねてから彼らに伝えたかった、ある日本の物語について切り出しました。

「実は、日本で最も有名で、約40年も続くSFアニメシリーズの宇宙の物語、その中心にいるのは、17歳のインド人少女なんですよ」

一堂はきょとんとし、「ボリウッド映画の話かい?」と笑いました。しかし、私がさらに続けると、彼らの表情は次第に好奇心と驚きへと変わっていきました。

「その物語、『機動戦士ガンダム』という名前は聞いたことがあるかもしれません。主人公の少年と、その最大のライバルである仮面の男、この二人のパイロットが、たった一人のインド人の少女の愛をめぐって、人類全体を巻き込むほどの激しい争いを繰り広げるんです。そして、その争いは、少女の死後も人類全体を巻き込んで続く物語全体のテーマになっているんです」

彼らの驚きは、さらに深まります。私はたたみかけるように続けました。

「それだけではありません。数ある続編を含めた全シリーズの中でも、宇宙で戦うロボットを操縦するパイロットとして”人類最強”は誰か、とファンの間で議論になると、必ず名前が挙がるのが、このインド人少女なんです。つまり、日本人が半世紀近く愛してきた国民的SF作品において、未来の人類最強のパイロットの栄誉はインド人にある。それくらい、私たち日本人には、インドという国に対してごく自然な親しみと深いリスペクトがあるんです」

話を聞き終えた一堂は感嘆の声を漏らし、そして一様に同じ問いを口にしました。「すごい話だ。でも、なぜなんだ? なぜ、日本の国民的作品のそんなにも重要な人物が、インド人なんだい?」

その問いは、私の心に深く突き刺さりました。以来、私はこの問いの答えを探し続けています。それは、単なるアニメの設定を超えて、日本とインドの間に横たわる文化的・精神的な繋がりを解き明かす鍵のように思えるのです。

 

ララァ・スンという存在

まず、『機動戦士ガンダム』を知らない方のために、簡単にご説明しましょう。これは、未来の宇宙を舞台に、巨大な人型ロボット「モビルスーツ」に乗って戦う少年少女たちの姿を描いた物語です。しかし、単なるロボットアクションではなく、戦争の悲劇や、人間の心理や政治の駆け引き、そして新しい時代における人類の可能性といった、深遠なテーマを扱ったドラマでもあります。

その物語に登場するのが、ララァ・スン。インドのムンバイ出身の17歳。額にはインドの女性がつける装飾「ビンディー」を輝かせ、褐色の肌を持つ、神秘的な美しさを湛えた少女です。彼女は、宇宙という新しい環境に適応して他者と深く分かり合える「ニュータイプ」と呼ばれる新人類であり、その中でも群を抜いた能力を持っていました。

彼女の強さは、作中でも際立っています。ララァ・スンは未来の最新科学兵器『サイコミュ』によって脳波で無数の遠隔攻撃端末『ビット』を操る天才パイロットです。そして最新鋭兵器のビーム砲で敵を次々と宇宙の藻屑にしていくのです。その圧倒的な強さは、多くの視聴者に強烈な印象を残しました。

しかし、彼女の本当の重要性はガンダムの物語における役割にあります。敵同士である主人公アムロ・レイとライバルのシャア・アズナブル。ララァは、その二人の間に立ち、魂のレベルで彼らの心を繋ぐ存在となります。アムロは彼女に初めて自分を理解してくれる他者を見出し、シャアは彼女に失われた母性の面影を求めました。

そして、悲劇が起こります。戦場で、ララァはシャアを庇い、アムロの攻撃によって命を落としてしまうのです。この彼女の死が、二人の天才パイロットの心に決して癒えることのない深い傷と憎しみを刻みつけ、以降の長く壮絶な戦いの引き金となりました。一人のインド人少女の死が、物語全体の原動力となる。これほどまでに重要な役割を担ったキャラクターは、日本のポップカルチャー広しといえども、そう多くはありません。

そして今年、2025年4月より放送が開始された『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』(ジークアクス)において、この伝説的キャラクター、ララァ・スンは再び姿を現しました。2025年6月3日に放送された第9話「シャロンの薔薇」に再びララァが登場した瞬間、そして『沙羅双樹の花が似合う素敵な人』という表現は、単なるノスタルジーの演出を超えた深い印象を日本の視聴者に与えました。

 

日本独自のインド愛――プラモデル化の驚き

しかし、このララァ・スンという存在の特別性を語る上で、もう一つ見逃せない逸話があります。日本では、なんとこのインド人少女が単体で1/20サイズのプラモデル化までされているのです。それが『バンダイ1/20 ララァ・スン』。1981年10月の発売で、当時の価格は100円でした。

これは、実に驚くべき事実です。おそらく、インド人をこのようなプラモデルキットにしたのは、世界でも日本が唯一でしょう。外箱の裏面には、彼女の額のビンディも「グンゼ ミスターカラー レッド」で塗るように、丁寧に指定されていました。この細やかな配慮からも、日本の製作者たちがいかにララァというキャラクターを、そして彼女のインド人としてのアイデンティティを大切に扱っていたかが窺えます。

一人のキャラクターが立体化される——それは、そのキャラクターが多くの人々に愛され、手に取って愛でたい存在として認識されている証拠です。ましてや、それが異国の少女であるならば、その国への敬意と親愛の念がなければ成り立たない商品企画でしょう。このプラモデルの存在は、日本人のインドへの想いを物語る、ささやかながらも確かな証左なのです。

 

精神文化の源流としてのインド

では、なぜ、その最重要人物がインド人だったのか。デリーの友人たちの問いに戻りましょう。さらに作品を見返すと、ジオン公国のエンブレムはシク教の紋章にそっくりですし、宇宙要塞の名前はラジャスタンの勝利の塔にいる幻獣ア・バオア・クーから採られています。すなわち、インドというモチーフは偶然ではなく意図的なものであったと見て取れますが、この答えは、日本の歴史と文化の深層に分け入ることで見えてくるように思います。

古来、日本人にとってインドは「天竺」と呼ばれ、単なる異国ではなく、仏教が生まれた聖地として特別な尊敬と憧れの念を抱いてきた土地でした。6世紀に仏教が伝来して以来、インドからもたらされた哲学や世界観は、日本の思想、芸術、そして人々の生き方にまで、計り知れない影響を与え、私たちの精神文化のまさに根幹を形成してきました。

時代が下り、明治時代になると、思想家の岡倉天心は「アジアは一つ」という言葉を残しました。彼は、西洋化の波に洗われるアジアの中で、日本とインドに共通する精神文化の価値を再発見し、その重要性を説きました。ここにも、インドを精神的なパートナーと見なす、日本人の独特な眼差しが見て取れます。

『ガンダム』が制作された1970年代末期は、日本が高度経済成長を終え、物質的な豊かさだけではない、新しい価値観を模索していた時代です。人々は、西洋近代化の先にあるものを求め、東洋思想や精神世界へと再び目を向け始めていました。この時代の空気が、物語の創り手たちに、人類の精神的な進化というテーマを描かせ、その理想を託す存在として、日本人の心象風景の中で常に精神的な高みと結びついてきた「インド」をルーツに持つ少女を選ばせたのではないでしょうか。

それは、西洋が時に東洋を「神秘的」で「エキゾチック」な対象として一方的に消費する視線とは明らかに異なります。むしろ日本自らの文化の源流であり精神的な師とでもみなすような、西洋からの立場にはない日本独自のごく自然で誠実な敬意に基づいた眼差し。私のインド人の友人たちに伝えたかった「日本人がインドに対して有する自然なリスペクト」の正体は、ここにあるのだと私は考えています。

 

世界でも稀な描写

この『ガンダム』におけるインド人ヒロインの描き方がいかにユニークであったかは、同時代の欧米作品と比較すると、より一層はっきりとします。

例えば、世界中を熱狂させた『スター・ウォーズ』。その根底に流れる「フォース」という力には、日本の武士道や東洋思想の影響が色濃く見られます。しかし、物語の中心を担うジェダイの騎士たちに、インド系のキャラクターが重要な役割を果たすことはありませんでした。

あるいは、多様な人種が共存する未来を描いた『スタートレック』。この先進的な作品でさえ、インド系のキャラクターが物語の中心に据えられることは無く、ララァのように、主人公たちの魂を導く「聖母」のような存在として描かれることは決してありませんでした。

これは、決して西洋の文化が劣っているとか多様性に乏しいということではありません。日本のクリエイターが「人類の精神的な進化の頂点」という、物語で最も重要でポジティブな役割を、何のてらいもなくインド人の少女に与えたという事実。この事実は、日本とインドの間にだけ存在する、歴史的に育まれたユニークで特別な精神的関係性を、雄弁に物語っているのです。

 

文化の架け橋として

もし今、私がデリーのあの昼下がりに戻り、友人たちの「なぜ?」という問いに改めて答えるとしたら、こう言うでしょう。

「日本人が、人類の未来を想い描くとき大切にしたかったのは、技術の進歩や軍事的な強さだけではなかったのだと思う。それ以上に、人が人と心で繋がり、憎しみの連鎖を断ち切る『精神の進化』こそが重要だと考えた。そして、その最も清らかで強い理想の姿を、私たち日本人が古くから深い敬意を抱いてきた国、インドの文化と人々に見たんだ。ララァ・スンという少女は、そんな日本人のインドへの想いが結晶した、一つの証なんだ」と。

ポップカルチャーは、時にどんな外交施策よりも国と国を繋ぐことがあります。一人の架空のインド人少女が、40年以上もの間、日本の人々の心に深く刻まれ、愛され続け、ついにはプラモデル化までされているという事実。この事実こそが、現代においてますます重要性を増す日本とインドの未来の関係を、より豊かに、そして確かなものにしてくれる架け橋の一つだと、私は強く信じているのです。

 

栗原 潔(くりはら・きよし)

2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

The post なぜ『ガンダム』の最強ヒロインはインド人少女だったのか? first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/tgQ7KUf
via IFTTT

2025年7月18日金曜日

HP「ベンガル 歌と詩と物語」開設のお知らせ

ベンガル語近現代文学の翻訳掲載を目的とした、標記のHPを開設しました。

https://bengal-lit.doorblog.jp/

 

HPには、今回の「サタジット・レイ レトロスペクティヴ 2005」で上映される、『音楽サロン』と『チャルラータ』の原作、タゴールの作詞作曲によるインドとバングラデシュの国歌、などの翻訳が掲載されています。

 

https://tsunagaru-india.com/event/%e3%82%b5%e3%82%bf%e3%82%b8%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%bb%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%80%80%e3%83%ac%e3%83%88%e3%83%ad%e3%82%b9%e3%83%9a%e3%82%af%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%b4-2005/

 

関心のある方は、ぜひご覧ください。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。

ベンガル語文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)、タゴール『少年時代』(めこん)、『タゴール 10の物語』(めこん)など。

The post HP「ベンガル 歌と詩と物語」開設のお知らせ first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/9dlLXrv
via IFTTT

2025年6月27日金曜日

大阪・関西万博-インド館建設遅延報道が示す倫理観と正義感の多様性

2025年4月13日に開幕した「大阪・関西万国博覧会 EXPO2025」。各国のパビリオンが次々と姿を現す一方で、インド、ネパール、ブルネイなど一部の国は開館が間に合わず異例のスタートとなりました。特にインドパビリオン”バーラト”は、世界遺産の再現やインダス文明の遺産、最新の月探査船模型などの内容も充実し素晴らしい展示となった一方で、約2週間遅れての完成となりました。

 

開幕の数日前、まだ建設途中のインド館を背景にした報道陣インタビューで、インド人の現場責任者は「建設は100%間に合います!」と断言しました。しかし実際には、大方の予想通り開幕には間に合わず、ようやく完成を迎えた5月1日、在大阪・神戸インド総領事チャンドル・アッパル氏は穏やかな口調で報道陣に語りました。

 

「2週間で出来たし、遅れたとは思っていません。完成して本当にうれしいです。」

 

日本人には、「強がり」「責任逃れ」と受け取られるかもしれないこれらの発言ですが、そこには実はインドの哲学や文化、歴史や伝統に根ざした深い倫理観と正義感があります。筆者はインドに駐在していた際に、「インド人はすぐ嘘をつく」「インド人は虚勢を張る」と日本人に誤解されてしまっている残念な状況を幾度も目撃しました。しかし、インド哲学や文化の観点から見れば、こうした言動はむしろ倫理的に正当であり正義に適う行動なのです。今回の万博での報道は、こうした異なる価値基準による誤解を解く重要な契機となります。

 

ヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』には、「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」が説かれています。「あなたには行為に対する権利があるが、その成果・結果に対する権利はない。行為の成果・結果に執着してはならない」。アッパル総領事の「遅れたとは思っていません」という言葉はこの教えと深く共鳴します。彼が重視するのは「完成に導いた」という行為そのものなのです。

 

また、『マハーバーラタ』のウッディヨーガ・パルヴァンには、「人は正しい時機(カーラ)を待ちつつ努力すれば成果を得る。時機を得なければ、いかなる事業も成就しない」と記されており、すなわち「今、工事が完成した」という事実そのものが、これこそが何よりも時機を得たタイミングである、ということを示していることになります。

 

インド館の完成は総領事としてのダルマ(義務・本分)を果たした証であり、「本当にうれしい」という感情の表明は、ギーターが説くサットヴァ(純粋性)に基づく喜びを最も重視して、関係者や来場者とも分かち合おうとする行為です。インド思想は、困難を乗り越え達成した使命について精神的充足を感じることを重視しています。

 

一方で、日本社会では「期日を守ること」が広く共有された倫理観とされ、少しの遅延にも丁寧な謝罪が求められます。日程という形式的な結果が優先され、スケジュールを守ることが倫理観や正義感の尺度となります。しかしインドでは、形式的な遅延のみを理由にして謝罪をすることは、自分や仲間の誠意や努力を否定して台無しにする行為であると捉えられます。ここに両文化の価値観の大きな違いがあります。

 

すなわち、アッパル総領事の発言は、単なる外交辞令や言い訳ではないのです。心の底から、「私や工事関係者は私心なく任務を遂行し、自然な流れで適切な時期に完成に至った」と考えており、彼の深い信念と責任感の表れです。彼にとっては、「今、完成した」ことが天のタイミング(カーラ)に合致しており、自身の内的義務(スヴァダルマ)を果たしたことを意味しており、これこそが最も秩序(リタ)に適った完成であるという信念を表明しています。

 

このような態度は、形式を満足させることを重視し謝罪も付随させる日本的な社会の行動とは異なりますが、インドではむしろ行為の本質を重視している精神的成熟の証なのであるとして評価されます。インド人にとっては、このような態度こそが「責任を果たす姿」「誠実で精神的成熟度が高い証」「正義に適った高貴な行動」と映ります。

 

日本人が遅延を理由に深々と謝罪する姿は、インド人にとってはしばしば不可思議で倫理的に疑問視されることもあります。誠実な努力がなされた以上、形式的な遅延のみを理由に謝罪することはかえって正義に反する態度と捉えられ、自信の無い、頼りない、誠実さを欠いた道徳的に劣後した行為に映ってしまうのです。

 

大阪・関西万博におけるパビリオンの遅延は、単なる工程管理の視点を超えて、異文化間の倫理観や正義感が交錯する重要な場となりました。アッパル総領事の発言には、「結果に執着せず、行為そのものに誠実であれ」という、インドの古典哲学に根差した深いメッセージが、その根底にあります。

 

EXPO2025が掲げる「いのち輝く未来社会のデザイン」は、このような異文化間の深い対話と理解の上に築かれるものです。今回の遅延騒動は、多様な価値観を尊重し、学ぶ貴重な機会を提供してくれたのではないでしょうか。

 

 

栗原 潔(くりはら・きよし)

2005年、文部科学省に入省。

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

 

The post 大阪・関西万博-インド館建設遅延報道が示す倫理観と正義感の多様性 first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/FBHNIgM
via IFTTT

2025年6月15日日曜日

『マハーバーラタ』を知らずして観るなかれ:日本から見るインドSFの衝撃

在インド日本大使館に赴任して以来、わが家の週末はすっかり“ボリウッド上映会”となりました。異国の灼熱と喧騒、その奥に息づく神話の鼓動をスクリーン越しに感じるたび、家族全員がインド映画の虜になっていきました。インド映画と言っても、ムンバイを拠点とするヒンディー語映画産業「ボリウッド」とは異なり、テルグ語映画はハイデラバードを中心に展開する南インドの映画文化に属し「トリウッド」と呼ばれています。そして今年、新たに心を奪われた一本が終末SFと叙事詩を融合させた『カルキ 2898-AD』。この作品も、日本で大きなブームとなった『バーフバリ』や『RRR』等と同じくテルグ語映画として制作されたものです。 

2025年1月日本公開の映画『カルキ 2898-AD』は、乾ききったガンジス川を舞台にした“インド版マッドマックス”ともいえる作品であり、華やかなビジュアルの裏側に、古典叙事詩『マハーバーラタ』の壮大な世界観を隠し持った知的な挑戦作となっています。2024年6月の世界での公開直後から、熱狂的な議論が巻き起こり、製作陣はすでに続編を2026年末に公開予定としています。 

本作は、ハリウッドのSF映画のような外観を持ちながら観客を巧みに引き込み、やがて神の弓ガーンディーヴァも現れ、さらに主人公が太陽神の子カルナであることが明かされます。ビーシュマが矢のベッドに橫たわる場面や、アシュヴァッターマンの呪いなど、インド神話ファンにとっては涙なしには観られないディテールが随所に織り込まれています。これらの“隠し味”を理解できるかどうかで、本作がSF作品として消費されるか、あるいは魂を震わせる叙事詩として昇華するかが変わってきます。 

なぜ主人公がカルナなのか。〈義〉と〈出自〉の狭間で揺れ動くカルナの運命は、「正義は一方の側だけにあるのか」という、今の私たちにも響く問いを投げかけてきます。まさにここに、本作の深い哲学が宿っています。善と悪という単純な二項対立を超えた倫理を提示することで、物語は神話の過去を未来の想像SF世界の中に折りたたみ、観客自身に“意味を解釈する責任”を与えているのです。 

『マハーバーラタ』は、世界神話の原型とも言われます。たとえば、大洪水から人類を救うマヌの話はノアの方舟と同じです。クンティの処女懐胎はキリストの出生との類似性があり、カルナが籠に入れられ川を流される描写は、モーセやサルゴン王の誕生譚に通じ、日本の桃太郎の誕生譚ともそっくりです。こうして見ていくと、『マハーバーラタ』は決して“遠い異国の物語”ではなく、私たちの文化の根底にも通じる、普遍的な原型を内包しているのだと気づかされます。 

 

しかし残念ながら、日本では『マハーバーラタ』に触れる機会は多くありません。原典は長大で難解なため、バガヴァッド・ギーターの抜粋などにとどまり、日本ではインド精神文化の中枢に十分にアクセスできていないという見えない文化的障壁が存在しているように思います。近年、若年層にとってスマホゲーム『Fate』シリーズに登場するカルナやアルジュナといったヒーローキャラクターが魅力となっていますが、それに並んで、本作『カルキ 2898-AD』は、多くの日本人にとってインド神話への扉を開く鍵になる可能性を秘めているでしょう。 

SF的なビジュアルと物語構成を取り入れたことで、本作は“神話=古臭い”という先入観を打ち破り映画ファンやゲーム世代の観客層を自然に取り込みます。ガンダーラ美術とサイバーパンクが融合したような美術設計はコアな層を魅了し、アクション豊富な戦いのシーンや随所に差し込まれるインド映画特有の笑いは幅広い層に楽しんでもらえるはずです。これをきっかけにして、カルナやアルジュナ、ドラウパディーといった名前がSNSや動画サイトのレビューでも自然に語られるようになれば、日本におけるインド文化の浸透とさらなる多方面の交流の深化にもつながっていくでしょう。 

現在の世界は、この映画のテーマに象徴される課題を抱えています。枯れたガンジス川が象徴する水の危機は、気候変動や災害リスクとも共鳴しています。そこに倫理的な葛藤の物語を重ねることで、作品は観客を遠い未来ではなく現在へと引き戻してくれます。『カルキ 2898-AD』は、圧巻のVFXと濃密な神話が交差する実験的作品であると同時に、文化の対話の起点にもなり得る映画です。この映画を語るとき、私たちは自然と日本の昔話や宗教的物語と比較し、深く考えるようになります。その往復こそが、真の意味での文化交流であり、理解への第一歩だと思います。  

『カルキ 2898-AD』のBlu-ray & DVDも2025年6月4日から販売開始されました。さらに来年の続編を楽しみにするとともに、公開されるその日まで、ぜひ『マハーバーラタ』を手に取り、その壮大な物語の大河を遡ってみてはいかがでしょうか。きっと、日印両国の精神的な河川が合流する音が聞こえてくるはずです。 

 

栗原 潔(くりはら・きよし) 

2005年、文部科学省に入省。 

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。 

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。 

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。 

 

The post 『マハーバーラタ』を知らずして観るなかれ:
日本から見るインドSFの衝撃
first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/496kPhd
via IFTTT

2025年6月7日土曜日

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2)

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2) 

⚫師匠探しの旅 

1981年の2月の初旬。当時日本・インド間を就航していた航空会社は他にも何社かあったが、国営ということで1番安全そうなAir Indiaのチケットを、現トラベル・ミトラの大魔王こと大麻社長にお願いして取ってもらった。インドに行くのは勿論、海外も飛行機も初めてである。今のようにYouTubeSNSも無く、オディッシーのグルやダンサーの情報もほとんど無い。北インドのシタールやタブラ、南インドのバラタナティヤムなら若干の情報はあったが、東インドのオリッサの踊りの情報など蜃気楼のような心許ないものであった。オディッシーをインドで習ったことがあるバラタの先輩達からは一様に、オディッシーに焦点を合わせて習いたければ本場のオリッサに行った方が良いと言われた。が、どこで誰に習えるかなんかはわからないので、取り敢えずは行ってみたらわかるだろうというのが周りのインド関係者の意見であった。具体的なグルの名前やスクールの情報もほとんどなかったので、その意見に従うことにした。いまだにころころ変わるVISAの種類であるが、当時は30日以内のVISAが入国時に無料でもらえるサービスがあったので、それでとにかく現地に行ってリサーチの旅に出ることにした。 

京都在住だったので、大阪からの出発となった。当時はまだ関西国際空港はなかったので、大阪の伊丹空港からの出発となった。現在ではLCCなどを利用すれば、インドの様々な都市に飛行機で行くことができるが、当時はマイナーな都市ブバネシュワールにはカルカッタ(コルカタ)まで行って、Indian Airlinesに乗り換えるか、ハウラー駅から夜行列車で入るのが1番の近道だった。カルカッタまでの直通航空便は無かったと思うので、いろんな航空会社が乗り入れているタイのバンコクで何日もトランジット待ちをして、そこからカルカッタに入った。 

⚫旅の途中~バンコクにて 

インドどころか、海外も飛行機も初めての体験である。出発前は、ワクワクよりも不安の方が勝っていたと思う。下調べだけは入念に行なっていたので、バンコクでは現地の方と結婚して住んでいらっしゃるある日本人女性のお名前と住所を教えていただいていた。といっても、手紙や電話で連絡もしてないし、突撃のようなものである。どこをどうやって探したのかはよく覚えていないが、とにかくそのバンコク在住の女性の家を探し出し、事情を話すと、快く泊まらせていただけた。お家はホテルをされていて、その一部屋を無料で提供していただけた。ご主人はタイ人だが、中華系とのこと。聞けば、タイ人の半数くらいが中華系の血を引いているらしい。でも言葉もタイ語だし、たまに中国語も話されるが、読み書きは殆ど出来ないとおっしゃっていた。蒸し暑いバンコクで、ひんやりした床に清潔なベッドは有り難かった。私が貸していただいたお部屋は2階にあり、朝ご飯は1階に食堂があるので、そこにいるお姐さんに頼んだら作ってくれるとのこと。前日は夕方に到着したので分からなかったが、翌日目が覚めて起きると、窓の外に見たことのない風景が飛び込んで来た。ホテルの裏には小川が流れていて、その小川を何か植物の葉っぱのようなものが覆っている。なんか、子供の頃に図鑑か何かでみたような覚えがあって、記憶を辿ると思い当たったのはオオオニバスという蓮の葉だった。よくある蓮の葉のように茎が水から上まで伸びずに、水面に張り付いた葉の周りをぐるりと取囲むように端は立ち上がり、大きなお盆のような形をしていて、人が乗れるくらい大きい。叫びたいほどの熱帯の生命感を感じて、恐ろしくもあった。つくづく遠くまで来たんだなと思った。 

80年代当時の日本はアジア1番の先進国で、お金持ちの国だと思われていた。今の状況からは想像もつかないが。実際に旅行中は日本での1~2割程度の値段で食べたり買い物が出来たりした。お金をそんなに持っていなくても、日本では出来ないようなリッチな体験を味わうことが出来た。例えば、バンコクの中央郵便局の近くにあった高級ホテルのデュシタニ・ホテル(ホテルは今もあります)にも気軽に入れたし、そこのコーヒーショップでくつろぐのは最高だった。その頃の物価は日本に比べて、その他のアジアの国が圧倒的に安かった。インドに行ったら必要なものもバンコクで買おうと思っていたので、市内は結構歩き回った。タイ語は聞き取りすることも出来なかったが、バスなんかにも乗った記憶がある。バスの中から見る景色は、観光旅行をしているようだった。京都の夏を知っているからなのか、そんなに暑さを気にせずに、連日あちこち歩き回った。 

⚫初めてのタイご飯 

朝ご飯は困らなかったが、昼や晩御飯は何を食べて良いのかが分からなくて困った。まず、タイ料理というものを食べたことがなかったのと、注文の仕方が分からない。今ならタイ料理店は日本にもたくさんあるし、なんなら現地タイの屋台でさえ英語表記で値段も書いてあるが、その当時の庶民のレストランは、ガラスケースの中に鳥やら豚やら魚やらが詰め込まれていて、それを選んで、調理法を頼むというシステムだった(今でも基本的には同じ)。けれどほぼ100%タイ文字表記で、値段も分からないし、調理法なんてもっと分からない。日本人の奥さんに市場に連れて行ってもらって近所を歩いた時に教えてもらった「センミーという麺が唯一私が注文できる食べ物で、約1週間の滞在の間に何度食べたことか分からない。センミー・ラグナーは、米の麺に牛肉団子が入っていて、あっさりしたスープの麺料理である。でも、その頃の私は、いわゆる「パクチー」に慣れていなかったので、大量に入ったパクチーにはげんなりしたものだった。今ならきっと美味しいと思うし、また味わってみたいと思う。 

⚫カルチャーショック 

ある時、昼間のバンコク一人ツアーからの帰り、あまりにも疲れてしまったのでタクシーに乗った。お世話になっているご夫婦からは、道が分からなくなったりしたら、タクシーの運転手さんに「ヤワラー(だったと思う)、ホテル〇〇~これは数字~と言えば、みんな知ってるから連れて来てくれるよ」と言われていたので、運転手さんには、そのように伝えた。すると運転手さんは何故か少し沈黙して、「そんな所にどうして泊まっているの?そこがどういう所か知ってるの?」と言った。知り合いに紹介してもらって泊まっていると言うと、怪訝そうに、そのナンバーが振り分けられたホテル群は、いわゆる女性を呼んで売春を行う「特別な宿」ということだった。もちろん当時はそれは違法では無く、国から認められて営業しているホテルである。これは、ちょっとしたカルチャーショックだった。私が生まれる頃までは日本にも「赤線」というところがあったのを親から聞いていたが、持っていたイメージは暗いものだった。でも、ここバンコクの宿にはそんなジメジメした雰囲気はなく、あっけらかんとしていた。1階は小さな食堂になっていたので、誰かしらお姐さんが常駐していたが、化粧っ気もなく、Tシャツに腰巻きをつけた姿で極めてナチュラルだった。今から思うと、彼女たちは田舎から都会のバンコクに出て来た、事情のある貧しい家の出身の女性だったのであろうと思われる。世界で一番古い商売か、なるほどと思った。その少し前に見た、タイを舞台にした映画「エマニエル夫人」は、欧米人のアジア人に対する偏見と蔑視を感じたが、後々聞いたタイの恋愛事情から、日本のように暗いイメージは元々希薄なのではと思った。 

⚫インドへ

そんなこんなしている間にタイでの日々はあっという間にすぎ、いよいよインドに飛び立つ日が来た。朝早いので、ホテルのオーナーさんのお友達が空港まで車で送ってくれることになった。余裕をもってホテルを発ち、お友達のドライバーさんのお家まで行き、とても美味しいご飯をご馳走になり(初めて美味しいと感じたタイご飯)、空港まで送ってもらった。 

ここからやっと、インドへの旅は始まった。 

<続く> 

 

サキーナ彩子 

京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。 

帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。 

The post サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2) first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/SPIAiyF
via IFTTT

2025年6月3日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑲/河野亮仙

第19回 天竺ブギウギ・ライト
東洋への憧れ、そしてやって来たのは 

ウプネカット
ムガル帝国第5代シャージャーハーンの長男ダーラー・シュコーは、帝位継承に破れる。弟のアウラングゼーブに処刑される2年前のこと、伝統バラモン学者パンディットや世を捨てた修行者サムニャーシンの力を借りて、ウパニシャッドのペルシャ語訳『大いなる秘密』を1657年に完成させた。

奥義書ともいわれるように、師から弟子へと伝えられる秘伝であるが、『大いなる秘密』にはウパニシャッドの解釈学ヴェーダンタの思想が紛れ込んでいたようだ。

フランス人のインド学者アンクティル・デュペロンによって、ラテン語に移されたのが『ウプネカット』(1801-1802)である。それを読んだショーペンハウアー(1788-1860)は、仏教やヴェーダンタ哲学を取り入れ自分の哲学を構築した。それはまたニーチェ(1844-1900)の『ツァラトストラはかく語りき』(1883-1885)に影響を与える。インド哲学と西洋哲学の邂逅であった。

インドの芸術への関心からインド舞踊に
詩聖カーリダーサの『シャクンタラー姫』は、1789年ウィリアム・ジョーンズによって英訳され、各国で重訳される。それを絶賛したのがゲーテ(1749-1832)で『ファウスト』の序に影響を与えたという。

仏教学者でパーリ語聖典協会を設立したリス・デイヴィッズは、裁判官として、1866年、イギリス領セイロンに赴任したが、上司の方針と合わず帰国。1877年に『仏教/ゴウタマ・ブッダの教えと生涯の素描』を著した。

その影響を受けてエドゥウィン・アーノルドは、仏陀の生涯を描いた長編の詩『アジアの光』を1879年に発表し、ベストセラーとなった。

アーノルドは、1856年、プーナのサンスクリット・カレッジ(後のデカン・カレッジ)に招かれ、5年間、校長を務めた。『バガヴァッドギーター』『ギータゴーヴィンダ』も翻訳している。1889年に来日し、再来日した1892年には愛宕の青松寺で講演し、日本の仏教会とも関係が深かった。

ロマン・ロラン(1866-1944)は『ラーマクリシュナ伝』『ヴィヴェーカーナンダ伝』『マハトマ・ガンジー伝』を著している。インドの文化・芸術を賛美していた。ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、釈尊伝『シッダ-ルタ』(1922)を著した。

西洋ではこのようにインド文化への関心が深まり、オリエンタル風味のバレエでは飽き足らなくなっていた。そこへ1920年代、颯爽と登場したのがウダエ・シャンカルである。まさに動くインド彫刻、踊る仏像だった。「インド人によるインド舞踊」に注目が集まる。

オリエンタル・ダンスからインド舞踊に
オリエンタル・ダンスについては以前にも書いた。先頃、三菱一号館美術館にて『異端の奇才ビアズリー展』が開催されていた。ビアズリー(1872-1898)はオスカー・ワイルド作『サロメ』に衝撃的な挿絵を描いたことで知られる。そこには日本趣味、中国趣味も見られた。

1900年、ロイ・フラーは第5回パリ万博で、自分の劇場を構えていた。そこに川上音二郎一座が出演し、貞奴が大変な評判を取ったことはよく知られている。

ロイ・フラーは電飾を施したスカートを翻し、棒を付けたスカートをバタバタさせて踊り、パリ中の芸術家たちの創造意欲を掻き立てた。時はアール・ヌーボー。そこで「サロメ」を上演し、それに刺激を受けて、ジョルジュ・ドゥ・フールやロートレックは舞姫サロメの絵を描いた。

ロイ・フラーに続いてモード・アランは1906年、ウィーンで「サロメの幻影」を初演した。イダ・ルービンシュタインは1908年にミハイル・フォーキン振り付けで「七つのヴェールの踊り」を披露している。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/ 

前述のように、ウダエ・シャンカルはラヴィ・シャンカルの生まれた1920年、父と共にロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタイン(1872-1945)は、1920年から1935年まで学長を務め、1931年にはナイトの称号を得たセレブである。タゴールはローゼンシュタインに『ギータンジャリ』を捧げている。 https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3&c=AND 

ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの前身である、サウス・ケンジントン・デザイン・スクールを卒業して23歳でインドに渡ったのが、美術史家、建築史家のアーネスト・ビンフィールド・ハーヴェル(1861-1934)。1884年、マドラス美術学校の校長となる。

日本では、お雇い外国人で建築学のジョサイヤ・コンドルが1877年(明治10年)に25歳で来日し、工部大学校(後の東京大学工学部)において建築教育を始める。フェノロサは、その翌年、政治学、理財学(経済学)を教えるために招かれ25歳で来日。インドも日本も同じ時代の波に乗っている。

インドではマドラス管区、カルカッタ管区、ラホール管区のそれぞれに美術学校が造られて、ハーヴェルは1896年、首都カルカッタの美術学校の校長となる。

ラホールではジョン・ロックウッド・キプリングが美術学校の校長になる。彼の息子が、1907年にノーベル文学賞を得た、「ジャングル・ブック」「キム」で知られるラディヤード・キプリング(1865-1936)。ショーン・コネリー主演の映画『王になろうとした男』の原作もラディヤードである。キプリングの作品には19世紀インドの香りがあって、とても面白い。

インド美術の理想
ハーヴェルは西洋の美術を教えるというより、インド美術の素晴らしさを讃えた。西洋で、ガンダーラの彫刻やインドの建築はギリシア・ローマの影響を受けて派生したものと見られていたが、その独自性、高い精神性を認めた。

ラビンドラナート・タゴールとも親しくし、岡倉天心と志を同じくした。ハーヴェルと天心が共に熱く語り合うことはあったのだろうか。彼の著書『インド美術の理想』(1911年)というタイトルは、まさに岡倉の『東洋の理想』の影響を受けたようだ。カルカッタ博物館の館長を務めたときには、出来のよくない西洋画を引っ込めてインドの美術作品の展示に切り替えたという。

日本は日本で文明開化、西洋化一辺倒の時代に、伝統的な日本美術、日本文化の価値を認めて、天心は復興運動、リバイバルを志した。

それに先立つ1873年(明治6年)のウィーン万博や1876年(明治9年)のフィラデルフィア万博では、日本の美術工芸品が高く評価されて収益をあげた。廃仏毀釈の頃、寺は壊され日本の工芸品、古美術品が二束三文で外国人に売られていた。

明治9年、工部省工学寮内に工部美術学校が設立されると、画家、彫刻家、建築装飾家の3人がイタリアから招かれて11月から授業が行われた。世界に先駆けた男女共学の学校でもあり、殖産興業を発展させ西欧のような近代的都市空間を創出しようという企みだったが、明治16年に廃校となる。

明治10年には上野で内国勧業博覧会が開催され、45万人の動員があった。ウィーン万博同様、ゴットフリート・ワグネル博士が顧問を務めたが、あまりに急速に油絵に移行するのが日本の美術産業にとって良いことなのかと疑問を呈し、水墨画など日本の古画の伝統を守るべきと主張した。この後、急に国粋文化の保護推奨に舵が取られる。

日本の伝統に回帰
東京大学のお雇い教師フェノロサの龍池会での1882年(明治15年)の講演が「美術眞説」というパンフレットにまとめられて全国に流布した。龍池会というのは官僚を中心に日本美術の振興を図ろうという国粋主義的な団体である。

そこで日本画が油絵より優れていることを力説し、狩野派に光を当てた。フェノロサとビゲロウ、モースの三人は東海道を旅して古美術を収集した。フェノロサは絵画2000点を集めて流派ごとに整理した。助手、通訳として同行したのが岡倉天心である。

ウィリアム・スタージス・ビゲロウはアメリカ人の医師で、その1882年に来日。いわゆるボストン・ブラーミン、血筋の良い大金持ち。フェノロサと共に三井寺法明院の桜井敬徳の元に受戒して仏教徒となる。二人の墓も法明院にある。ビゲロウは桜井阿闍梨が心配するほど熱心に修行した。収集した三万枚の浮世絵はボストン美術館に納められている。1877年(明治10年)に来日したアメリカ人の動物学者エドワード・シルベスター・モースは、大森貝塚を発見したことで知られる。

天心は明治13年、17歳で東大を卒業し、文部省音楽取締係、伊沢修二の元に配されるも、西洋中心の伊沢とはそりが合わず、明治15年には専門学務局に転じて美術制作を担うようになる。明治20年、東京美術学校と東京音楽学校の設置が告示される。後に東京芸術大学に発展するが、美術部門は日本画のみの専攻となった。

天心の最初の著作である『東洋の理想』は1903年(明治36年)にジョン・マリー社から出版されている。ハーヴェルは、1902年4月から著作のため一年ほどロンドンに戻っている。1908年に最初の著書『インドの彫刻と絵画』を出したが、主著である七部作はすべてジョン・マリー社から出版されている。
http://www.kamit.jp/15_kosho/26_tenshin/xeast_04.htm

ロンドンでハーヴェルは、10歳年下であるウダエの師ローゼンシュタインにインド芸術の素晴らしさを吹き込んだのだろうか。

欧化政策と演劇改良運動
明治4年、岩倉具視を全権大使として木戸孝允、伊藤博文、大久保利通らと共に、不平等条約解消のためアメリカに渡るがうまくいかない。そして、ロンドン、マルセイユへと。留守にした日本では西郷隆盛が征韓論を唱えるので、それを押さえるために明治6年、岩倉は呼び戻される。その頃、自由民権運動が盛んとなり、国会開設、憲法制定、不平等条約改正が求められ、壮士の演説会が行われた。

岩倉一行は、夜毎のようにオペラハウスで観劇をした。岩倉はそこで王侯貴族が正装して観劇しているのを見て、日本においてもこのようにあるべしと思った。お公家さんや大名、武士が嗜んできたのは格式が高い能楽なので、明治9年4月4日に天覧能を企画し実行した。

それはそれで成功したのかもしれないが、庶民の世界で演劇といえば歌舞伎である。新聞ネタの現代劇も歌舞伎の様式で行われていた。明治10年の西南戦争も、官軍は洋式だが西郷軍は和服に胴丸や小手、すね当てという江戸時代そのままの姿なので、翌年には歌舞伎として上演された。

明治5年、東京府長から歌舞伎の三座に対してお触れを出した。開国によって外国人(当時は偉い人しか来日しない)も増えていることだから、より上品かつ親子で楽しめるものを上演すべきだ。教育上、史実と異なるものは好ましくないと。

明治9年1月、中村宗十郎は演劇改良、興業改革の意見を発表した。欧化政策が採られると、歌舞伎のように史実に基づかない、荒唐無稽な話を上演するのはけしからん、欧米で演劇は紳士淑女の嗜みであるから、倣うべきだと改良運動が起こる。

鹿鳴館時代
井上馨の進める欧化政策が開始される。猟奇的、下品なものを廃して模範的な高尚なものを創り、作家や役者の地位を高め、小屋がけではなく西洋式の立派な劇場を建て、そこを社交場としようと考えた。まず、上流階級から西洋の真似をしようとした。

ある意味、隠微な江戸文化を薩長土肥の田舎侍が嫌って、西洋を範としようと考えたのだった。

明治16年になると鹿鳴館が創立され、夜会や仮面舞踊会が繰り広げられた。19年に演劇改良会が末松謙澄によって設立され、井上馨、伊藤博文、大熊重信、西園寺公望、渋谷栄一、森有礼らの有力者が名を連ねるが、演劇界からは一人も入っていない。上からの改革はうまくいかない。

明治20年(1887年)に外相だった井上馨邸で初めての「天覧歌舞伎」が催された。一流の国には一流の芸術があってしかるべきだ、悪所の歌舞伎を世界の歌舞伎に仕立てようと志した。

演劇改良運動は、インドにおいてさげすまれていたデーヴァダーシーや遊女の踊りを芸術に仕立てようという企てに先駆けること40年。しかし、そこに歌舞伎界からは市川團十郎が参加したくらいだった。西欧化が行き過ぎて女形や花道、後見を廃止するとか、台本を文学的で高踏なものにするとか現実離れした考え方だった。結局、近代的な劇場を建設するということ以外、上からの改革は失敗に終わった。

一方、天心は演劇改革運動にも関わっていた。明治22年、坪内逍遥、森田思軒と演芸協会を設立し、その文芸委員の中には森鴎外、尾崎紅葉も名を連ねた。守田勘弥、九世團十郎、五世菊五郎も賛同した。天心はオペラの戯曲『The White Fox』を書いているので、歌舞伎の台本も構想したかもしれない。ここでもタゴールと一脈通じるところがある。

森鴎外、幸田露伴、坪内逍遥らが歌舞伎を手がけた。明治23年に東京美術学校校長となった天心は、森鴎外にデッサンの基礎である解剖学の講義を受け持たせた。

どこにいても異端児
そんなところへ忽然と現れたのが、壮士芝居の川上音二郎である。元治元年元旦、博多に生まれたガンガン男。14歳のとき家出して大阪行きの汽船に潜り込み大阪に出る。ついで東京に出ると芝増上寺に拾われて掃除と使い走りをやった。お経は習っておくと何かと役に立つ。生没年やその伝については諸説ある。

芝公園を散歩している福澤諭吉と出会う。慶應義塾の学僕、つまり、給仕・小間使いをしつつ、月謝・食費が免除され働きつつ学ぶ。おそらく英語も習ったのだろう。その後、巡査などもやったようだ。

19歳で名古屋の寄席、花笑亭で演説をしていると、20歳未満の演説は禁止ということで、中止させられる。その後も京都南座などで演説をしては逮捕される。逮捕されるたびに有名になり、客が増える。

歌舞伎の中村宗十郎に心酔していたので近づいたのだが、何故か京都新京極阪井座の中村駒之助一座に参加して役をもらう。端から見ると行き当たりばったり、でたとこ勝負の人生だ。転がり続け、転んでも転んでも、ただでは起きないというキャラクターだった。

元々、紺屋の旦那である父の専蔵は、河原崎権十郎を贔屓にしていたので、一緒に東京に出て門弟にしてもらえるよう願い出た。自由民権運動をやっていたのに巡査となるとか、歌舞伎と相容れない壮士芝居とか矛盾したことを平気でやる。

オッペケペーの音二郎一座
音二郎は、もとより歌舞伎役者になるつもりもなく、改良演劇とか、改良落語とかいっていて、歌舞伎という枠から外れている。いや、あらゆる枠から外れて当意即妙、変幻自在だった。

明治22年、26歳でオッペケペー節を始める。「オッペケペー、オッペケペー、オッペケペッポー、ペッポッポー」と唱えつつ節を付けて演説する。一時期、日本中で流行った。演劇の範疇を超え、後から考えると音二郎は「現代劇」の創始者となって演劇界に大きな影響を与えた。

そして、明治26年1月、興業をすっぽかしてフランスに高飛びする。第一回の外遊では一ヶ月ほど滞在してフランスの演劇を学んだ。

どういう伝手かというと、おそらく伊藤博文の縁だろう。芳町(今の人形町)の芸者奴を水揚げし、妾とする。西園寺公望とも懇ろだったようだ。後に音二郎は奴を妻とし、本名が貞だったので貞奴という名の女優にする。抜群の器量の女性だったのだろう。貞奴は、押し出しの強いグラマラスな美女ではなく、しなやかでしっとりした別の美の基準、引きの美学を示した。また、音二郎は男前ではないものの愛嬌があって、もてたようだ。

当時の日本で女優は希で、日本初の女優ともいわれる。1900年(明治33年)、マダム貞奴はパリ万博で、日本のサラ・ベルナール(アルフォンス・ミュシャのモデル)と絶賛されたが、それを聞いたベルナールは不満で、貞奴をこきおろした。それは靴と雪駄を比べるようなもので、土俵が違う。

アンドレ・ジイド、イサドラ・ダンカン、ピカソらが貞奴の姿を見るため劇場に足を運び、ロダンは彫刻のモデルになってくれと頼んだが、ロダンって誰?という感覚だった。ピカソが貞奴をモデルにしたデッサン、ロイ・フラーの電気仕掛けの映像も以下に取り上げられている。貴重映像だ。ロイ・フラーもベルナールも歴史に残る文化人と交流したセレブだった。今年の大阪・関西万博からも新たな伝説が生まれるだろうか。
https://ameblo.jp/pheme-japan/entry-12124022343.html
 

参考文献
井上理恵『川上音二郎と貞奴』社会評論社、2015年。
岡倉登志『岡倉天心の旅路』新典社、2022年。
新関公子『東京美術学校物語』岩波新書、2025年。
外川昌彦『岡倉天心とインド』慶應義塾大学出版会、2023年。
山口靜一『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』宮帯出版社、2012年。
渡辺保『明治演劇史』講談社、2012年。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

The post 天竺ブギウギ・ライト⑲/河野亮仙 first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/5WXj7kf
via IFTTT

2025年4月22日火曜日

華麗なるインド⑧

第8回:「ニルヴァーナ ニューヨーク」(NIRVANA New York)―絶品のローガン・ジョーシュが食べられる

 

美術館の帰りにふらっと立ち寄った店で、まさか絶品のローガン・ジョーシュが食べられるとは思っていなかった。スパイシーなマトン料理で、カシュミール料理を代表する一品だ。これについてはあとでたっぷり語ることにして、まずはこのレストランを紹介しよう。東京ミッドタウン六本木にあるニルヴァーナ・ニューヨークというインド料理店。ニルヴァーナはサンスクリット語で涅槃を意味し、解脱することを炎が風でふっと吹き消される様子に喩えたもので、たいへん厳かな意味なのだが、普通は死を連想させるので料理店などの名前には用いない。

 

しかし、ニューヨークという言葉が付くと、ニュアンスがまったく異なってくる。アメリカではビートニクの詩人アレン・ギンズバーグが60年代のインドで火葬を手伝ったりしてヒンドゥー教の息吹に触れたり、80年代から90年代にかけてロックバンドのニルヴァーナが大流行したりで、この言葉は新しいファッション感覚で受け入れられた。ニルヴァーナ・ニューヨークは1970年にダッカ出身で交換留学生として渡米した青年がマンハッタンに開いた店で、数々の賞を受賞するなど本格的なインド料理店として人気を得ていたが、建物が老朽化したため2002年に閉店し、新たに六本木に開店することになったという。

店内は外国人も多くニューヨークにいるよう。

カレー・ビュッフェの並べ方も洗練されている。

 

私が入ったのはランチビュッフェで、5種類のカレーが選べる。定番のバターチキン、ホタテなどがいっぱいのシーフードカレー、何種類かの豆を挽いたダールカレー、南インド料理のラッサムスープ、もう一品は日によってチキンカレーだったり、骨付きのマトン(ラム)であったり、鹿肉のキーマカレーだったりするようだ。今までランチに4回行ったが、こんな感じである。大皿を取って並び、それにまず小さな器を2、3のせて好きなカレーを盛る。さらにサフランライスと小ぶりなパーパルを数枚取って席に戻る。サラダの種類が多いので別の大皿に取ってきたほうがよいだろう。ナーンは焼き立てを席に持ってきてくれる。アイスチャーイなどの飲み物もデザートも種類が豊富だ。あとはお腹が一杯になるまでひたすら行き来するのみである。

 

さて、ローガン・ジョーシュだが、これはランチビュッフェとは別で、基本はディナー・メニューである。最初に訪れたときには、たまたまランチのときにも対応できるというので作ってもらえたが、2回目、3回目のときにはローガン・ジョーシュがメニューから消えていた。それで店のマネージャーさんに熱烈にリクエストしたところ、4回目のときには久し振りにスパイシーなローガン・ジョーシュを用意してもらえた。感謝である。

左が絶品のローガン・ジョーシュ。ナイフを入れるとホロホロと肉が剥がれる。

右は5種類のカレーからまずは2品選んだ器とパーパル。

 

ローガン・ジョーシュとの出会いは、二度目にカシュミール地方のスリナガルを訪れた35年くらい前のときだった。あまりの美味しさに、毎日連続で食べていた。ニンニクとショウガ、クミン、カーダモン、シナモン、ローリエなどのグレイヴィーの海に、蒸し煮されたマトンが浸っている。グレイヴィーに少し赤みがあるのは、アルカネット(牛の舌草)というハーブの花か根を乾燥させたものを使うそうである。乾燥したカシュミールの高地で食べる、酸味と甘味が混ざったまったりとした濃厚な味がたまらない。それ以来、日本でもローガン・ジョーシュを供するレストランを探しているが、非常に少ないうえに、これだという味に出会わない。けれど、この店のローガン・ジョーシュを食べていると、インドにいるような感じがしてくる。

 

4月23日に、初の姉妹店「ニルヴァーナ 東京」(Curry & Biriyani NIRVANA TOKYO) が、東京駅八重洲地下街にオープンするそうだ。ここではメニューの定食(ターリー)にローガン・ジョーシュが載っているので、本店のより小振りだが、いつでも食べられると思うと、今から楽しみである。

(宮本 久義 記:2025年4月17日)

 

 

Information:

・「ニルヴァーナ ニューヨーク」(NIRVANA New York)

〒107‐0052 東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア ガーデンテラス 1F

予約・お問い合わせ:03-5647-8305

営業時間:施設の営業時間に準ずる

ランチブッフェ営業時間:11:00~14:30(最終のご案内) クローズ 15:30

※土日祝日は2時間の時間制

料金は細かく分かれているので、HPで確認のこと

ホームページ:https://ift.tt/PopOSmn

 

・「ニルヴァーナ 東京」」(Curry &Biriyani NIRVANA TOKYO)

〒104-0025 東京都中央区八重洲2-1

八重洲地下街 南1号 カレーカルテット

予約・お問い合わせ:03-6910-8808

営業時間:11:00 ~ 21:30(L.O)

 

 

宮本久義 略歴

1950年、東京浅草生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了後、1978年より7年間バナーラス・ヒンドゥー大学大学院哲学研究科博士課程に留学。1985年、Ph.D.(哲学博士)取得。2005年~2015年、東洋大学文学部インド哲学科教授。2015年から2020年3月まで大学院客員教授。現在、国際仏教学大学院大学、東方学院において教鞭をとっている。専門分野は、インド思想史、ヒンドゥー宗教思想。主な著書に『ヒンドゥー聖地 思索の旅』(山川出版社、2003年)、『インドおもしろ不思議図鑑』(共編著、新潮社、1996年)、など。

The post 華麗なるインド⑧ first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/hYVWq5I
via IFTTT

2025年3月30日日曜日

天竺ブギウギ・ライト⑱/河野亮仙

第18回 天竺ブギウギ・ライト
インド舞踊入門その5/マダムたちの支えたインド舞踊

まず、今回の主要な登場人物の生没年から記しておこう。インド舞踊再生のキーパーソンとなった伝説のバレリーナ、アンナ・パブロワは1881-1931。

モダンダンスの祖といわれるルース・セント・デニスは1879-1968。これについては以下参照のこと。

河野亮仙の天竺舞技宇儀⑫

ラーギニー・デーヴィーは1893年、ミシガン州に生まれたアメリカ人で夫はバララーム・バージパイ。1982没。アメリカでインド舞踊家と自称するも習ったことはなく、1930年初めてインドに旅発ち、デーヴァダーシーのガウリ・アンマに師事する。また、ケーララ・カラーマンダラムに入門して、カタカリを習う初めての女性となる。そこにはグル・ゴーピナートも学んでいたので、後にダンス・パートナーとし、二人で1933年から1936年にかけてインド中をツアーする。

バーラサラスヴァティーの再デビューに関わる話はこちら。

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

ラ・メリは1899-1988。マダム・メーナカーは同い年だが惜しくも早世した。1899-1947。

ウダエ・シャンカルは1900-1977。弟のラヴィ・シャンカルは1920-2012。長生きも芸のうち。グル・ゴーピナートは1908-1987。ラーム・ゴーパルは1912-2003。

マダム・メーナカー
メーナカーというのは、マハーバーラタの物語に登場する天女アプサラスの名前で、ヴィシュヴァーミトラ仙を誘惑し、二人の間に生まれたのがシャクンタラー姫。ドゥフシャンタ王はシャクンタラーを娶る。その子がバラタでバラタ族の祖とされる。

メーナカーを芸名にした女優もいるが、ここでは伝説的カタック・ダンサーの話。

マダム・メーナカーは1899年、イギリスに留学した法廷弁護士の父の元、現在のバングラデシュで生まれたバラモン。母親はイギリス人とされる。独立前のインドに重婚罪はなく、富裕で地位のある人には現地妻もいたようだ。ウダエ・シャンカルより一つ年上でよく似た生い立ちだ。もともとはイギリスでバイオリンを習っていた。

1927年にアンナ・パブロワと出会ってインド舞踊の道に進むことを勧められた。どこかで聞いたような話だ。マハーラージ一族やシーターラーム・プラサードにカタックを学ぶ。

1928年にボンベイでリサイタルを行い、1930年にはパリに進出。1935年から1938年にかけてヨーロッパ・ツアーを行う。1936年のベルリン・オリンピックに際して催されたベルリン・ダンス・オリンピアードにも参加して一等賞を獲得する。カタックにグループ・ダンスを組み入れてショーアップされた舞台芸術に仕上げたのは彼女の功績ではないか。

1941年、ボンベイ近郊にヌリティヤーラームを開設し、カタック、マニプリー、カタカリを教習した。そこに参加したダマヤンティー・ジョーシは養女となる。メーナカーは難病のため1947年に47歳で夭折した。インド独立の3ヶ月前のことだった。

The Indian Ballett Menaka in Europe 1936–38

オリエンタル・ダンサーと呼ばれるルース・デニスは、1906年に「ラーダー」を上演している。「サロメ」は1909年だ。世界ツアーをして1925年から翌年に掛けて日本、中国、インドに渡った。

日本では松本幸四郎に「紅葉狩」を習い、レパートリーに入れる。中国では梅蘭芳と会い、『覇王別姫(英語版)』を基にした作品を作った。インドでは、インドに取材した作品を上演して熱狂的に受け入れられた。ウィーンでは「ナウチ」と「ヨーギー」をソロで踊る。YouTubeを見ると、大衆的な百年以上前のストリート・ダンサーの模様が分かって興味深い。


ツアーでインドにやって来たデニ・ショーン舞踊団は、遊女のバチュワー・ジャーンのカタックを紹介してもらって見学している。

タゴールはデニ・ショーンのショーアップされたモダンなステージに感激し、学園に来て指導してもらいたいと思うほどだったが、世界ツアーで稼いでいるのに無理な話だった。その代わりにマダム・メーナカーのダンス・パートナーであった、ジャイプル・ガラナのパンディット・ガウリシャンカルを招いてカタックを指導するように頼んだ。

なお、ルース・デニスは1940年に、ラ・メリと共にスクール・オブ・ナティヤという民族舞踊の学校を開設した。

こうした異国情緒のバレエやオリエンタル・ダンスの潮流に乗って、インド舞踊という概念を作ったのはウダエ・シャンカルではないのか。もっとも、その頃はウダエもラーム・ゴーパルもインド・バレエと称されていた。メーナカー・バレエという呼称もあった。ラーム・ゴーパルの顔、ここではマイケル・ジャクソンに似ていないか。

また、先駆者の一人にグル・ゴーピナートがいる。1908年生でケーララの母系制大家族ペルマヌール・タラヴァードの出身。この家系からは多くのカタカリ役者を輩出している。ケーララ・カラーマンダラムの第一期生であるが、特筆すべきはマニ・マーダヴァ・チャーキヤールにラサ・アビナヤ、ナヴァ・ラサを習ったことだ。

アメリカ人インド舞踊家のラーギニー・デーヴィーのダンス・パートナーとなって海外でもツアーをする。彼のおかげでカタカリ舞踊劇がインドのみならず世界中に知られるようになった。ラーギニーについてはこちらにも書いた。

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

1932年、ボンベイでデビューし、映画でも活躍するが、1987年、舞台で上演中に亡くなる。ケーララ・カラーマンダラムのモーヒニーアーッタム・コース第一期生のムラッカル・タンカマン・ピッライと結婚しダンス・パートナーとする。

ウダエは1920年、父に付いてロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ優秀な画学生だった。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタインは高名なバレリーナ、アンナ・パブロワの友人でもあった。また彼の家にはラビンドラナート・タゴールが滞在したこともあり、その甥の画家・詩人のアバニーンドラナート・タゴールとも交流があり、インドの芸術文化の優秀さを喧伝した。ウダエにブリティッシュ・ミュージアムに行ってアジャンタやエローラの壁画を学ぶように指導していた。

末弟ラヴィ・シャンカルが生まれて間もない頃、ウダエはロンドンに移住した。アンナ・パブロワは「ラーダーとクリシュナ」を上演するためダンス・パートナーを探していた。ウダエの父が主催した、第一次世界大戦に参加したインド兵のためのチャリティ・コンサートでウダエとアンナは出会う。そこには英王ジョージ5世も臨席していたようなので、彼らは文化的なハイソサエティに仲間入りしていた。それは1923年のこと。

父、シャーム・シャンカル・チョードリは現在のバングラデシュで生まれたバラモン。カルカッタ大学とオックスフォードで学んだ法廷弁護士である。バナーラスでサンスクリットと哲学を学ぶほか、音楽を愛好して古いドゥルパダの歌を習い、伝統的なヴェーダの朗唱も学ぶ。ラージャスターンにあるジャラーワルの藩王に首相格で仕えた大臣であり、また、何冊もインド哲学や仏教の本を著した文人でもある。

母は大地主の娘で、ジャラーワルにいたときは王妃と親しくした。母も音楽愛好家で、家には蓄音機やレコード、いくつもの楽器があり、音楽にあふれていた。

ところが、父が大臣を辞めると、突然、長兄ウダエを連れて二番目の妻となるミス・モレルと共にロンドンに渡ってしまう。バナーラスの家には4人の弟が残され、職についていない母は、后から頂戴した金銀や宝石を売って生計を立てていた。

ノラ・ジョーンズの母スー・ジョーンズは、ノラが4歳になるまでラヴィ・シャンカルと一緒に暮らしていたそうだが、その後8年間会わなかった。ノラは一人でレコードを聴いていたそうだが、母は苦労したことだろう。シタール奏者として売れっ子のアヌーシュカは、ラヴィとシュンカヤとの間にできた子。血は争えない。

インド・バレエ
ウダエ・シャンカルは子どもの頃、小作人に踊りのうまい男がいて一緒に遊んだようだが、それは古典舞踊と呼ばれるようなものではないだろう。今でいうバングラの元のような踊りだろうか。

ジャラーワルの宮廷にはクキ・バーイーがやって来て踊ったというが、これはカタックに違いない。王宮にはインド各地から高名な舞姫が集まって様々な踊りを王の前で披露したと思われるが、ウダエが習ったことはない。

父はロンドンに渡ってから法律の仕事をしながら文化活動を行い、インドの音楽や舞踊、演劇を制作していた。ウダエは音楽や振り付け、美術のアイデアを出して協力した。その舞台でウダエが「剣の舞い」を踊っているところをアンナ・パブロワが認めた。

一方、ラヴィ・シャンカルの自伝では「ウダイの舞踊家としてのキャリアは、1924年に父がロンドンで上演した音楽番組で始まったのだった。これが西洋で最初に上演されたインド・バレエだと思う」と述懐しているが、おそらくこれこそ「剣の舞い」を披露したチャリティ・コンサートで、1923年のことと思われる。聴き語りでは前後関係の記憶が曖昧なまま話すことがある。

バレエ・リュス
バレエ・リュスのリュスとはロシアという意味なので、ロシア・バレエ団のことである。20世紀初頭に天才興行師セルゲイ・ディアギレフが立ち上げて、パリを中心に活動した伝説的な団体である。彼のおかげで、廃れかけていたフランスの一民族舞踊ともいうべきバレエが世界的な総合芸術となった。

「ジゼル」とか「コッペリア」が19世紀のロマンティック・バレエであり、マリウス・プティバが振り付けた「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」、インドを舞台にした「ラ・バヤデール」がクラシック・バレエと呼ばれる。

プティバ振り付けの「ラ・バヤデール」に反発した振付師がフォーキンで、ディアギレフは彼と共に新しいバレエを試みる。それはモダンダンスのイサドラ・ダンカンの影響を受けたともいわれる。アンナ・パブロワもその影響を受けて素足で踊ったこともあるようだ。

本国ロシアを飛び出してパリに向かい、ロシアの帝室バレエから精鋭を連れ、次々と意欲的な創作バレエを制作した。伝説的なニジンスキーやアンナ・パブロワも参加していた。

20世紀初頭のパリは植民地経営のおかげで潤っていて、異民族のエキゾティックな風物への関心も高まっていた。1909年に、ロシアの季節「セゾン・リュス」として「ダッタンの踊り」でロシアの身体性を発揮する。第二回公演ではストラヴィンスキー作曲の「火の鳥」が上演された。1913年作曲のストラヴィンスキー「春の祭典」ではロシア奥地の土俗的な姿が描かれる。花のパリから見れば、ロシアは最果ての辺境である。

バレエ・リュスの音楽については、ドビュッシーほか、サティ、ラヴェル、レスピーギ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフといった錚々たる作曲家に依頼している。今の日本人からするとすべてクラシックなのだが、当時は前衛だ。

時にはシャネルが衣装を手がけ、舞台芸術についてもマティス、ルオー、ピカソ、ユトリロ、ローランサン、デ・キリコが参加してまばゆいばかりだ。ピカソなどバレエ・リュスに入り浸ってバレエ・ダンサーと結婚してしまったほどだ。

通常のバレエ団が本拠地の劇場を持つのに対して、バレエ・リュスは旅の一座だった。そのため世界中に刺激を与え、モダンダンスの発展を促進する。それはまた、世界各地の舞踊家がバレエを踊ることによって、各民族が持つ身体表現を取り入れ、バレエの表現の可能性を広げる、内容を豊かにすることにつながった。

パブロワとウダエ
アンナ・パブロワはディアギレフの元を去って独立し、旅の一座として船に乗り、欧米のみならず世界各地を巡業して回った。バレエの伝道師だ。1922年には、日本、中国、インド、マレーシア、フィリピン、エジプト。1928年にはエジプト、インド、ビルマ、マレーシア、ジャワ、南アメリカオーストラリアを巡回する。

ジャワからオーストラリアに行く船で、ルクミニー・デーヴィーはアンナ・パブロワの一行と一緒になった。それは1929年のこと。バレエの手ほどきを受けたが、あなたはインドの伝統を勉強しなさいといわれる。

ウダエはアンナ・パブロワのプロダクションで「ラーダーとクリシュナ」「インドの結婚式」の二作品しか出番が与えられなかったので、やがて独立する。そうしたヨーロッパの伝統にないエキゾティックな異文化に興味を持つという流れからインド・バレエが誕生し、インド舞踊の覚めにつながる。

ウダエはそれをハイ・ダンスとかクリエイティヴ・ダンスと呼んで、インドの古い伝統を今日的に演出しようと努力した。それまでカタックもカタカリもインド各地の民族舞踊の一つとして存在するだけで、全体を包括するインド舞踊という概念はなかった。

インド・バレエからインド舞踊に
ウダエはロンドンに戻ったが、展望が開けずお金もなく苦悶する。また、1925年パリへ行き、1926年にはフランス人の音楽家シモン・バルビエル、通称マダム・シムキーが合流する。おそらく劇伴の楽譜を作ったりして、音楽監督として貢献したのだろう。シムキーは美貌を買われてのことだと思うが、ウダエに踊りを習い新たなダンス・パートナーとなる。

1927年には、スイス人の彫刻家でインド美術を学ぶマダム・アリス・ボナーを連れて帰国する。バナーラスに戻りアリスの資金援助を得てカンパニーを結成し、インド中をツアーしてその美術を探訪した。シャンテイニケタンにおいてはタゴール翁と面会する。アリスは舞台美術や衣装、装飾品などのデザインを担当したのだろう。

二人の協力を得て「洋装のインド舞踊」が誕生したことになる。古くてひなびた田舎の踊りではなく、モダンなインド舞踊を都会のインド人は歓迎したことだろう。

何人かの援助を受け、1928年にパリで公演し成功した。それからベルリン、ウィーン、ブダペスト、ジェノヴァで公演する。しかしそれは、西洋音楽を中心に伴奏を付けた借り物だった。専任の音楽家を養成して舞踊団を作らないと満足なことはできない。

1929年に帰国してツアーをし、カタックやバラタナーティヤムなどを見て回る。陣容を整えて、1930年秋には一族郎党を引き連れパリを本拠とし、周到な準備をして翌年から8年間ツアーをした。それは世界の舞踊地図の中にインド舞踊を位置づけたことになる。シャンカル一族についてはこちらに記した。

河野亮仙の天竺舞技宇儀⑧

1935年に帰国して新メンバーを選び、その中にはアラウッディン・カーンもいて、ラヴィ・シャンカルと共にヨーロッパ・ツアーをした。

1939年、ヒマラヤ山嶺のアールモーラにウダエ・シャンカル・インディア・カルチャー・センターを開設し、本格的なインド舞踊・音楽の研究所を設立するが、ひたひたと戦争の足音が迫ってきたため、1943年に閉鎖する。

それからは唯一の自伝的映画「カルパナ」にいそしむ。2年前からYouTubeで全編を見られるようになって評価されているが、経済的には採算が合わず大変だった。1948年に公開されたが、困難なときによくこんな大作を作れたものだと思う。翌年からは資金稼ぎのため、欧米を2年間ツアーした。借金してもやるべきことはやった方がいい。

ラーム・ゴーパル
もう一人、インド舞踊の黎明期に活躍した男がいる。ビルマ出身の母とラージプート出身の法廷弁護士を父に持ち、バンガロールで生まれ育ったラーム・ゴーパルだ。

ミーナークシ・スンダラム・ピッライとムットゥクマーラン・ピッライに男性舞踊家に適したバラタナーティヤムを習い、クンジュ・クルップにカタカリを習う。また、創設間もないケーララ・カラーマンダラムに学ぶ。カタックはジャイ・ラールに習った。

1936年、オリエンタル・ダンサーのラ・メリに見いだされ、ダンス・パートナーとしてビルマ、マレーシア、シンガポール、日本を巡る。しかし、ラーム・ゴーパルが激賞されたのに嫉妬したのか、どうも、ツアーの途中でラ・メリに置いてきぼりにされたらしい。日劇ダンシング・チームを指導するが、お金もなく病気になったようだ。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり、東京でポーランドの批評家アレキサンダー・ジャンタと出会い、彼がマネージャーとしてアメリカに渡って、ハリウッドやニューヨークに連れ出す。

後にダルパナを開設するムリナリニー・サラバイは、ラーム・ゴーパルと共にミーナークシ・スンダラム・ピッライにバラタナーティヤムを習う。ダンス・パートナーを勤め、インド中をツアーした。彼はインドのニジンスキーと賞賛され、身体の左側はバラタナーティヤム、右側はカタカリ、足はカタックといわれた。

そしてルクミニーのバラタナーティヤム
「ラ・バヤデール」を端緒としてインドの宮廷を舞台にしたインド風味のバレエが始まり、そこに本場のインド人を加えたインド・バレエが成立してくる。舞踊家個人の創意に満ちた、「インドの伝統そのままではない新しいインド舞踊」が繰り広げられた。しかし、インドの伝統といっても、それは昔の誰かが創作したものなので新作と等価値だと思う。残れば古典となる。

その間にインドでは、師匠の家で学ぶグル・クラ・システム、お家流の伝承が統合されて学院で学ぶインド舞踊の体系、正調インド舞踊が確立されてくる。特定の家系にしか学ぶことの許されなかったクーリヤーッタムでさえ、世界中の人が学べるようになった。

1930年代にヨーロッパをツアーしたウダエ・シャンカル、メーナカー、ラーム・ゴーパル、グル・ゴーピナートは、アンナ・パブロワやラ・メリ、ラーギニー・デーヴィーらが、ダンス・パートナー、あるいは興業主、パトロンとして引き立てたおかげで世界に広く知られることになった。タゴールやワラトールがそれに呼応してインドの文化伝統のリバイバルを志した。

ルクミニー・デーヴィーが舞踊家としてデビューしたのも1936年。1939年には南インドをツアーして「清純バラタナーティヤム」を知らしめた。クチプリのみならず、カタカリもマニプリーもバラタナーティヤムの一つ、『ナーティヤ・シャーストラ』に基づくものと想定した。

そしてそれは精神的な修養であり、ヨーガであるとルクミニーは考えた。バラタナーティヤムの厳しい訓練のためには身も心も神に捧げるバクティが必要である。ステージを寺院、聖なる空間として舞い、聖なる時間を作り出す。自身のみならず聴衆も至高のものと合一するよう導き、至上の喜びアーナンダを得る。

自己も他も融けこんで天も地も敵味方もなく、諸々の束縛から解放され寂静涅槃の境地に至る。解脱を達成する成就法サーダナ、それがバラタナーティヤムであると考える。

バラタ仙に帰せられる「ナーティヤ・シャーストラ」のバラタやバラタ族、最近はバーラタ国を自称するインドの踊りを超えて、志すところは世界平和の祈りということになる。

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

The post 天竺ブギウギ・ライト⑱/河野亮仙 first appeared on つながる!インディア.



from 学ぶ・知る | つながる!インディア https://ift.tt/DFKwziC
via IFTTT