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2024年11月8日金曜日

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(1​​)

序章 
オディッシーインド古典舞踊をしていて、今もよくされる質問の一つに、「何故インド舞踊をしようと思ったのですか?」と言うのが、未だにある。40数年続けていて、答えに一番困る質問だ。大抵ステージ後のインタビュー時などが多いので、なるべく簡潔に答えるように最近は努力をしているが。

画学生だったのが描けなくなったから?母が早くに亡くなって生と死の事をインド哲学に求めたから?好みとして東洋的なものが好きっだったから?人がしていない事がやってみたかったから?

色々と理由を考えてみるが、やはり、一言では言い尽くせない。
敢えて言うなら、使い古された言い方だが「そこにオディッシーがあったから」

インドとの遭遇
現在「太陽の塔」が残る万博記念公園で、1970年に日本で初めての「万国博覧会」が催された。近未来の新しい技術がテーマのパヴィリオンも多かったが、自国の伝統文化を紹介しているパヴィリオンも多かった。朝早くからゲート前で並んで、開場されると一斉に沢山の人がゲートに向かって走る。ものすごく暑かったのを覚えている。今のディズニーランドやUSJ並みに並んで、数軒見るのがやっとだった。当時中学生だった私は、外国のものには元々興味があったのか、万博の影響だったのか、外国パヴィリオンでは結構ワクワクした。父は「月の石」が見たかったらしく、見れたのかどうかは覚えていないが、インドパヴィリオンには家族揃ってゾロゾロと入っていった。お揃いのサリーを着たコンパニオンさんの姿が目に飛び込んで来た。あ、本物のインド人!みんな目が大きい。そして入り口近くに置かれた、彫刻が施された柱のレプリカ。結構な高さがあって、そこにはぎっちりと、隙間が無いほどに文様が詰まっていた。印刷だったのか、彫られたレプリカなのか記憶は危ういが、それを見たとき、まず、ウッと息が詰まりそうなほど苦しかった。多分カジュラホとかの寺院彫刻だったのだろうと思うが、この暑苦しさ、絶対に私は好きではないと思った。その後NHKで製作されたTV番組の「未来への遺産」では、インドのこの表現を「空間を恐れる表現」と解説していたのに納得した。「空=0」を発見したインドのまるでジョークのようなこの対比は面白い。信心深い祖母の影響もあり、仏教的なインドやお釈迦様の話はよく知っていたが、リアルなインドとの遭遇はこれが初めてだった。

インド舞踊との出逢い
その後、高校を卒業して浪人中に母が亡くなり、急遽家事を自分がすることになり、とりあえず精華短大(現精華大学)の美術科に進学したものの、心があちこちの方向に跳び、何事にも集中できず、鬱々としていた。絵筆を持つことは勿論好きなのだが、じゃあ、何が描きたい?と自分に問うと、わからない。ちょうどその頃、横尾忠則氏がインドの様々なモチーフを題材にいろんな作品を世に出されていた。あの神様の絵が目にとまった。ああ、こう言うのをモチーフの一つにするのもいいなと思い、それからインド関係の本や写真集などをあれこれ集めた。そんなことをしている時に千本通の北の一角に、不思議なポーズを取った踊り子が描かれた看板を見つけた。それは、日本で初めてのインド舞踊専門の舞踊教室だったのである。

今はもう無くなってしまったが、京都市電に乗ると、千本北大路の電停からその看板が見えた。でも、私はまず体育は苦手だったし、小さい時から絵描きになると言う目標があったので、いや、ダンスは絶対にありえないと強く思っていた。でもそれとは裏腹に、私の好奇心の眼は、掌で覆った指のあいだから、その看板の踊り子の絵をずっと覗いていた。ちらっちらっと。それからしばらくして、ついに誘惑に負けた私は結局、その教室に通うようになっていた。そして、それがきっかけで、舞台などにも興味を持つようになり、アングラ劇団の稽古場や、舞踏というジャンルのダンスをしていた人たちとも知り合い、今まで絵の世界しか知らなかった私には、新しい世界が開けたような感覚であった。その頃のインド舞踊教室には、既存のものに飽きたあらない、まことに興味深い人たちが集まっていた。

その教室で実際にダンスを習う前の一年間くらいは、月1回あった「インド勉強会〜ガンジー学園」に顔を出していた。そして実際に習い出してから1年ほど経った頃、インドで勉強して一時帰国された方に立て続けに会う機会に巡り合った。まだまだ駆け出しであった私にも、本場インドで修行して来た方のそれが、みんなで楽しくお稽古しているのとは違うというのはすぐに分かった。そして、その時初めて、一口にインド舞踊といっても色々あることを知った。インドでもまだオディッシーが「セミ古典」くらいの位置づけだった時代なので、色々な踊り、例えばカタカリの一部を女性でも踊れるようにアレンジした「サリダンス」やラジャスターンのフォークダンスなどは、お客さまに取っては楽しい演目であったに違いない。しかしそのような経験の中で、私の興味は次第にオディッシーへと傾いて行った。

しかし、まだまだ好奇心の塊であった私は、舞踏家やアングラ演劇などの周辺もうろついて、気がつけば20代の前半が終わろうとしていた。そんなある日、父が「お前、いい加減、インド行って来い!!」と行った。え?行っていいの?お金もそんなにたまってないし、と思ったが、金は出してやると言われ、ありがたく行かせて頂くことにした。その頃には6歳下の弟も東京の伯母の家から高校に通っており、もう世話を焼く相手も居なかったからかも知れないが、あの父の一声が私をインドに送り出してくれたのには違いない。
<�続く> サキーナ彩子
京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。
帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。



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2024年10月11日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑮/河野亮仙

15回 インドの母系制社会 

 

昭和28年に、虎や豹がうろついているアッサムのガロ族が住むジャングルに出掛けて、虎狩りまで試みた女性がいる。 

虎狩りが目的ではなくて、アジアにおける親族関係を調査したのは社会人類学の中根千枝である。20年後にお札の顔になっても不思議はない、国際的な学者であった。 

インド政府の人類学研究所に受け入れてもらったようだ。 

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後に、日本はタテ社会であると喝破した。今も若手国会議員の後ろに長老がいて操っている。 

中根千枝『未開の顔・文明の顔』(角川文庫)によると、奥地に入る前の準備は、砂糖二貫目、塩五百匁、ランプと油、ろうそく、紅茶一ポンド、巻煙草百箱、新聞紙、トイレットペーパー五巻、DDT、アメ玉一貫目、折りたたみベッド、寝袋、着替え、カメラ、フィルム、薬、探検道具一式。アメや砂糖、煙草は調査を円滑に行うためのお土産である。 

 

中根探検隊 

テレビ番組の探検ものによくあるが、まずはジープに乗って行けるところまで行く。カヌーを漕いだり、象に乗ったり、最後は道なき道を歩いて傷だらけになる。 

わたしは大きい動物より蛇とかヒルやムカデとか虫が恐い。インドにはサソリがいて、ホテルの排水口から上がってきたりするが、アッサムはどうだったのだろう。サソリは乾燥地帯にいるのだろうか。 

ジャングルの大木の上には見張り小屋を作る。象が追いかけてきたら急いでそこに駆け上がるのだ。象は足が速い。 

虎や豹は人が飼っている豚や鶏、牛を狙うので、人が住んでいる側をうろついている。虎が出るのは薄暗くなった時で、水を飲みにくるのだそうだ。 

ガロ族の村で、昨日、妻が象に襲われて死んだという30歳そこそこの男に会った。乳児を抱え、4歳の女の子、2歳の素っ裸の男の子を連れてきた。そのままではどうしようもないので、村の会議で次の妻を誰にするか相談するために集まったのだった。それなりに社会保障のシステムができている。 

一般に男はガンドウと呼ばれる褌のみ着用、村の有力者はターバンを巻く。褌を取られるのは大変な恥である。 

 

母系制の社会 

中根は当時、27歳。東大助手の身分で、インド政府招聘の留学生としてカルカッタに向かった。また、別途、財団から奨学金ももらったようだ。やり手である。 

母系制について調査した。その旨を未開民族とされるガロ族の英語が分かるインテリに話した。 

 「日本ではお嫁入りをして、子どももお父さんの姓を取り、財産は夫のもので、妻は従順に夫に従うことになっている」と説明すると、 

「それはよくない制度だ。女は弱いんだから、自分たちのように財産は女に持たせるべきだ。日本の女の人たちはかわいそうだ」と言った。 

女が弱いかどうかはともかく、どちらが進んでいるのか分からない。折りたたみ式のベッドを広げ、寝袋にくるまると皆がよってたかって寝顔を見てわいわい騒いでいる。 

 翌朝はもっと大変で、外に大勢の村人が押し寄せた。昨日、たまたま斧でけがをした少年に薬をつけて包帯を巻いてやったら、医者だと勘違いされて病気を治してほしいと集まったのだ。目が見えるようにしてくれとか、マラリヤの高熱でがたがた震えている者などが来てもどうしようもないのだが、仁丹をやったりとにかく何かやらないと帰ってくれない。果てにはハンセン氏病の患者までやってきた。 

虎の吠える声を寝袋の中で聞きながら寝るジャングルの旅についてこう記す。 

「こうした肉体的な苦痛と交換に獲得できる野生の喜びに、たとえようのない精神的な享楽を私は味わうことができる」 

「私のこの、最小限の物質しかない小さなテントを、王侯貴族の宮殿に誰かが交換してくれようとしても、私はこの愛すべきテントをとるだろう。それほどジャングルの生活は楽しいものだった」   

 

首狩り族の村 

また、凄惨なインパール作戦が失敗に終わった10年後、ナガ族の住む高地のウクルルに赴いた。日本軍二個師団が駐屯し、通過した地である。 

アッサムの人々は色が浅黒いだけで顔立ちは日本人に近い。中根が日本人ということを知ると驚嘆の色を見せる。男だったら殺されるのではないかとも思った。 

「よくまあ、若いおなごがこんなとこまで来たなあ」「日本のおなごを見るのは初めてじゃ」と老婆が言ってくれて和んだ。 

そこからさらに奥に進むと馬も行けない山岳地帯で、雨期のぬかるみを滑りながら上ったり降りたりする。首狩り族であるタンコール・ナガの家を一軒一軒訪ねて聞き取り調査をする。 

ある朝泊まっている家の前に、褌一丁の男たちが大勢集まっていた。 

10年前に日本政府が食料を調達するために発行したルピー札!を、今、使えるお札に替えてくれといわれた。どうにかこうにか説明して納得してもらったが、長年、大事に持っていた小さな紙幣を手に、とぼとぼと帰って行く後ろ姿を見て申し訳なさに消え入りたいほどだったという。 

さらに、アンガミ・ナガの取材にコヒマを訪れる。10年前、日本軍は弾薬も食糧も尽き果てて、雨期のジャングルの中をよろよろ歩き、コレラ、マラリヤで倒れていった。満足な墓も建てられず草ぼうぼうのジャングルの中に幾百もの土まんじゅうがあるだけ。 

一輪の花もなく茨のとげに足をさされながら中根はひざまずき、長い祈りを捧げた。一陣の風が起き、折からの雨は激しさを増しコヒマの山河は慟哭するのだった。映画であれば最高の見せ場だ。中根千枝役をやる女優は誰だろうか。 

 さすがに朝ドラでは無理だが、虎狩りを始め楽しくも悲しくもあるエピソード満載の冒険談である。 

 

タゴール家に身を寄せる 

中根はチベットの民俗と歴史を調べるため活気に満ちた国境の町カリンポンに進む。第13回に記した西川一三と木村肥佐生が住んだ地であり、ネール元首相はスパイの巣窟と呼んだ。 

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ノーベル賞詩人ラビンドラナート・タゴールが愛した町でもあり、町から3キロほど離れたタゴール家の別荘「チトラバヌ」に中根は住んだ。タゴールの長男の夫人が一ヶ月ほど避暑にくるくらいで、ほとんど独りで研究生活を送った。いや、召使いがいるが。 

ロシア人でチベット学の権威G・レーリヒや、ラサから来た僧侶を講師にチベット語の僧伝を読んでもらっていた。そこから生活や地誌、歴史や哲学の情報をたぐり寄せるのだ。おそらく、中根とチベット関連のコネをつないだのは大谷光瑞に可愛がられた本願寺派の多田等観か青木文教だと思われる。東大でチベット語を教えた。 

カルカッタでは通称タゴール通り、ボウバザール、シャンバザール界隈のタゴール夫人の家に住んで研究した。二階には詩人タゴールが息を引き取った部屋がある。どういう伝手でタゴール家につながったのか、あらゆる手を尽くして周到に準備し、身の安全保障を図っている。 

また、中根はダライラマの兄であるタクツェ・リンポチェ(築地本願寺の社宅?に住んでいたようだ)から紹介された、ネパール人の大商人がハリソン通りに住んでいるので会いに行く。 

イタリアから届いたばかりの真っ赤な毛織物が山積みされていた。それはカリンポンに住む三男の店に送られ、さらにロバの背に乗せられて次男が経営するラサの店に運ばれる。なんとリンポチェ様の僧衣はイタリア製の高級生地だったのだ。現場を数踏むことは大切である。 

所属するインド政府人類学部というのはカルカッタ博物館の4階にあった。部長はグハ博士、同僚はムカジーとバタチァルジーというベンガルのバラモン。常に瞑想しているような静けさを持っていたという。 

1950年代カルカッタの街の描写が秀逸である。 

 

チベット寺院に住む 

シッキム王女クララ姫の紹介で、中根はガントックの東北24キロにあるボダンに進み、寺院の一隅に住んで、朝晩は勤行を聞き、昼間は民家を訪ねて調査する。 

ジープで進める道は半分で、後は険しい山道を上り下りする。山はすぐに天候が変わり雹や雷雨に襲われ、そうなると途中には民家も休むところも何もないつらい旅となる。 

この地区には一妻多夫の習慣がある。一つには、財産を相続するのに男子がそれぞれ独立して土地を相続すると、どんどん小さくなるからだ。例えば、三人兄弟で一人の妻を娶れば財産は保たれる。また、嫁を迎えるのには多額の支度金を用意しないといけない。 

中根の調査によると、一人が修行僧でほとんど寺院で過ごし、一人は行商に出て、実質、一妻一夫である家もある。逆に姉妹で一人の夫を迎えることもある。しかし、そんなケースは2割程度で、たいていは一妻一夫だった。 

クララ姫は中根に一緒にラサへ行きましょう、素晴らしいからと誘う。あなたならチベット人と顔は変わらないから大丈夫よと。ロバの背中に乗って何回も往復していたようだが、何日かかるのだろう。休み休み二週間くらいの旅か。従者を伴ってのことだと思うが、4000メートルの険しいザリーラ峠を越えるのは決して楽な旅ではない。護衛を着けなければ山賊に襲われる。それに、中根は国境を越えることはできない。捕まれば本国送還で留学が終わってしまう。 

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ストックホルム 

喧噪のカルカッタからおよそ正反対のスウェーデンに飛ぶ。首都のストックホルムでさえ、人はまばらにしか歩いていない。上品ですれていない美しい人々。 

スターリン賞を受賞したという著名なアンドリーン女史のお宅を訪ねる。「カルカッタでお会いし、私にエリン・ワグネル奨学金授与に尽力してくださった」とだけ記している。手の内を明かしていないが、この方やタゴール家など日本から連絡をとって四方八方手を尽くして準備していたはずである。 

ワグネルは名誉あるスウェーデン・アカデミー会員となった小説家。どうしてそんな冒険ができるのですかとアンドリーン女史が聞くと、「ただ行くのよ。通訳とガイド、ポーターを連れて。何でもないことよ。ただ行けばいいの」 

人生の至言である。人は目の前にない事を思い巡らすので不安になる。虎に食われたらどうしようと。 

さらに、イギリスに駒を進め、江上波夫とロイヤル・アルバート・ホールで演奏会を聴きお茶をする。社会人類学の論文を書き、パリに二週間滞在してローマに着いたのは1956年の大晦日のことだ。 

あのチベット学の権威、トゥッチ博士のお宅に伺うとチベット犬がいた。一年の半分はネパールやチベットの国境で調査をしていた。中根は週に二、三回出掛けてテキストを読んでもらうが、その間にも政府や大学から電話が掛かってくる。終わると次の部屋に、外国から来た学者が待っているという状況だった。これも交友があった多田等観の紹介なのかと思う。 

駆け足で紹介したが、街々の記述や人間観察、文明批評が素晴らしく『未開の顔・文明の顔』は屈指の紀行文だ。用意周到な準備があって冒険旅行が成り立つ。 

 

ケーララの大家族制の家 

東京大学出版会からは『家族の構造』を1970年に出版している。ゼミの資料のような本だ。ここではケーララの大家族について語られているので紹介しよう。 

ケーララ州の支配カーストはナーヤル(ナイル)である。母系制を取ることで知られ、かつては何十人、百人以上が昔の学校の校舎みたいな木造の家に住んでいた。ヒンドゥ一般と同じく、ケーララのバラモンであるナンブーディリも父系制である。ナンブーディリは8世紀頃北方からケーララに来たとされる。比較的色白の彼らは、カシミールから来たとの説もあるがはっきりしない。また、土着といわれるナーヤルがいつ頃から住み着いていたのかも分からない。 

土地所有者であり、兵士を務めることが多かったのでクシャトリアを自称しているが、バラモン側からはシュードラだとみなされる。ナーヤルの母系制の家族では、源氏物語の時代の妻問婚のように、夜中に男が女の家を訪ねて交わり、朝になると家に帰る。夫は妻の家には住まず、母の兄弟、叔父が父親代わりになる。 

これをバラモン側から見ると、バラモンとしての純血を保ちたいから、ナンブーディリの家では長男だけがナンブーディリの女を娶る。これが正式な結婚、カリヤーナ(吉祥という意味)である。次男以下はナーヤルを娶るというか、愛人とする。この結婚形態はサンバンダム(結びつき)と呼ばれる。その子はナーヤルの家の子として育てられる。もともとナーヤルの家に夫は住まない。 

こうしてバラモンと血縁関係を持つことによって一族の地位を上昇させることができた家系は、ケーララにおいて貴族的な存在である。しかし、ナーヤルはナンブーディリの家に立ち入ることはできないのだ。 

中流ナーヤルは土地所有者や管理者であり、下層には傭兵として王や地方豪族に雇われたり、農業や召使い、大工、鍛冶屋など様々な職業に従事する。その下のカーストにティッヤ(イーラワン)があり、彼らは母系制で椰子の実取りとされる。チェルマンは父系制で農奴である。 

取り残されるのは結婚できなかったナンブーディリの女で、ひっそりと大家族制の家で一生を過ごす。厳しい戒律により自由恋愛というのか、姦淫が見つかるとカーストから追放され、家から放り出されて落ちぶれてしまう。 

中根は、ケーララの民衆のバラモンに対するあこがれのような心情、厳しいカースト間の距離について記す。70年前の話である。 

 

アムバラヴァーシー 

ケーララには寺院に奉職するアムバラヴァーシーという独特のカーストがある。ナーヤルと同じく母系制である。バラモンとナーヤルの間に位置するとされるが、その中にもバラモンに準じるナンピディがいる。太鼓のミラーヴを叩くナンビヤールについても中根は記すが、サンスクリット語劇を継承するチャーキヤールについての記述はない。彼らはバラモンに準じるカーストである。 

この話は、また、今度。 

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年10月1日火曜日

書籍紹介:『タゴール 10の物語』

『タゴール 10の物語』
ラビンドラナート・タゴール 著
大西正幸 訳・解説
西岡直樹 挿絵
A5判・仮フランス装 360ページ
価格 2,000円+税
めこん 2024年9月12日発売
http://www.mekong-publishing.com/books/ISBN4-8396-0339-7.htm
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この本に収められた10篇の「物語」(短編作品)は、タゴールが東ベンガル(現バングラデシュ)を中心に生活していた、30歳代に書かれたもので、どれもベンガル人に広く愛されている傑作ばかりです。タゴールというとノーベル賞受賞以降の、髭を生やした聖者然とした姿を思い浮かべますが、これらの作品には、青年タゴールの、実に瑞々しい感性が感じられます。

物語の雰囲気をより身近に感じていただくため、10篇のすべてに、西岡直樹さんに挿絵を描いていただきました。また解説では、写真入りで、20代から30代にかけてのタゴールの生活や、個々の作品の背景について、かなり詳しく説明しました。

表紙絵はタゴール晩年の作品。前作の『少年時代』と同様、フランス装のたいへん美しい装丁に仕上がっています。ぜひ多くの方に手に取っていただきたいと願っています。

なお、11月16日(土)午後、横浜市大倉山記念館ホールで、出版記念講演会の開催を予定しています。プログラム等の詳細については、追ってお知らせいたします。

著者 ラビンドラナート・タゴール(ベンガル語: ロビンドロナト・タクル)
インドとバングラデシュの国民詩人。近代ベンガル語の韻文・散文を確立、詩・物語・小説・劇・評論・旅行記・書簡など、あらゆる分野に傑作を残した。両国の国歌を含む数多くの歌曲(ロビンドロ・ションギト)の作詞作曲者、優れた画家としても知られる。
1913年、詩集『ギーターンジャリ』(英語版)によって、ヨーロッパ人以外で最初のノーベル文学賞受賞者となった。岡倉天心・横山大観・荒井寛方等と交流があり、日本にも5度訪れている。
自然の下での全人教育を目指して、彼がシャンティニケトンに設立した学び舎は、現在、国立ビッショ=バロティ大学(タゴール国際大学)に発展している。

訳者 大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。専門は、北東インド・沖縄・ブーゲンビル(パプアニューギニア)の危機言語の記述・記録とベンガルの近現代文学・口承文化。

1976〜80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。その後も、ベンガル文学の翻訳・口承文化の記録に携わっている。ベンガル文学の翻訳には、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。現在、めこんHPに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

(紹介者:大西正幸)



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2024年9月3日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑭/河野亮仙

第14回 天竺ブギウギ・ライト
インドに留学した先輩たち
 

昭和28年、舞踊家榊原帰逸がプロペラ機に乗ってタゴールの大学に向かったことは先に記した。わたしが生まれた年である。それに先立つ26年、戦後初めてのインド政府招聘の給費留学生として、浄土宗から藤吉慈海が派遣された。藤吉はわたしが大学時代に所属した心茶会(久松真一創設の茶道部)の大先輩であるが、お目にかかったことはない。

藤吉は視察気分で、かなり自由に旅行してインド生活を満喫したようであるが、翌年に採用されたインド史の荒松雄は、その分締め付けが厳しくなった、調査旅行に行きたいのに自由には出られなかったと書いている。藤吉はインドで迎える正月に、荒を誘ってガンジス河の水で抹茶を点てたことを記している。28年には採用枠が3人になり、ヒンディー語の土井久弥、社会人類学の中根千枝らが留学した。

中根はアッサムでトラ狩りをしたというが、ケーララの100人、200人が一緒に住む大家族制の家を調査した。『タテ社会の人間関係』で一躍ベストセラー作家となった。留学前、駒場の研究室にご挨拶に伺ったことがある。『未開の顔・文明の顔』も名文、名著である。山奥を歩いて首狩り族を訪ねたり、インパール作戦から約10年経ってまだ生々しい記憶の残る村人に話を聞いたり、驚くべきスーパーウーマンであった。
https://www.yomiuri.co.jp/column/henshu/20211220-OYT8T50016/

昭和29年には、京大からジャイナ教を専攻した宇野淳がバナーラス・ヒンドゥ大学(BHU)に、東大からは仏教学の高崎直道がプーナ大学に留学している。この年、タゴール大学に日本語学科が設立され、春日井真也が赴き、後には森本達雄、我妻和男らが日本語教師として赴任した。

日印交流に尽くして勲四等瑞宝章を受けた牧野財士の本職は獣医であり、農業指導を依頼された。昭和32年、乗り込んだ船には音楽学者の小泉文夫がいた。インド政府の給費留学生としてマドラス大学に向かったのだった。カルカッタで小泉を出迎えたのは、プーナに留学中の社会人類学者、飯島茂であった。当時、ラクナウ大学には経済史の深沢宏が留学していた。深沢の留学は昭和31年7月から34年3月まで。

BHUには、続いて浄土真宗本願寺派の大物である豊原大成が赴く。昭和31年から33年までは大正大学から真言宗智山派の齋藤昭俊が留学している。その当時、カルカッタ大学にはインド哲学の服部正明、仏教学の奈良康明が留学し、ナーランダ大学には仏教学の梶山雄一が留学していた。今日のインド学・仏教学を築いた錚々たる顔ぶれである。

わたしは弟子というにはおこがましいが、服部門下である。一学年上のインド哲学史専攻には赤松明彦がいて、先頃、中公新書という形で『サンスクリット入門』を出版されたのには驚いた。これで学習者が増えるであろうか。

去る4月に齋藤昭俊が亡くなられ、葬儀の席で広島大学からやって来た伊藤奈保子に会った。宇野淳が広島大学に勤め、『ジャイナ教の研究』というモノグラフを広島インド学叢書として出版していたのを知っていたので、不躾ながら探してくれるよう依頼した。それがすでに広島大学の研究室にはなく、探し回って名古屋大学の研究室にあるのを取り寄せていただいた。

ジャイナ教研究のおまけとして、本の最後に「ジャイナ教覚え書き」があって、インド留学時の話が興味深い。

 

貧乏旅行
宇野は昭和29年6月に英国系の汽船会社所有の貨客船サンシア号に、高崎直道と共に乗り込んだ。横浜とカルカッタ間を往復する7000トンの船で、1ヶ月半に1回就航する。珍しいことなのか、出発時には新聞記者がカメラマンと共に取材に来たそうだ。香港、シンガポール、ペナン、ラングーン(ヤンゴン)を経て、23日後にカルカッタ港に到着した。二、三日博物館や旧跡を訪ね、それぞれの目的地に向かった。

「ジャイナ教の先生」を紹介され、それだけを頼りにBHUに向かい、大学構内にあるインターナショナル・ハウスに入寮する。当時は外国から来た留学生が10人ばかりいただけだという。わたしの留学時には何十人か寄宿していたと思うが、そこの食堂は安かったのでよく利用した。決してうまくはないが、京都大学吉田寮の100円カレーよりかなりましで、円換算で数十円だ。

宇野が支給された奨学金は200ルピー、当時の円換算で1万5000円。これが不思議なことに、わたしが留学した昭和55年頃も円換算で1万5000円相当、1ルピー30円で500ルピー支給された。今は3万円前後か。

振り込まれる預金通帳は手書きだった。大学構内にある銀行の前には鉄砲を持った警備員がいた。学内では時々発砲騒ぎがあった。番号札のトークンを渡され、長い時間待たされた。それはどこへ行っても同じだ。紙幣はホチキスで留める。穴が空いてぼろぼろになった紙幣を商店では受け取ってくれないことがあった。インド生活には理不尽なことがたくさんある。日本の美術工芸品のようなお札とはえらい違いだ。今じゃデジタル化が進んでいるそうだが。

宇野は「ジャイナ教の先生」に会ったが、実は心理学の先生だった。しかも大学に行くと、手違いなのか哲学専攻ということで、カントを学ぶようなことになっていた。インドの文部省に掛け合ったが、例によってらちがあかない。

高名なムールティ教授の力添えで3ヶ月後に手続きを終え、やっとジャイナ教のテキストを読んでもらえるようになった。さらに、サンスクリット学部のマルヴァニア先生、哲学科の修士号とサンスクリット学部のニヤーヤ・アーチャリヤ、論理学の阿闍梨という称号を持つ同年代の青年からも指導を受けた。

留学時代、宇野の旅行はインド人そのままであった。昔は列車に乗るとベッド一式、ヴィスターラという、布団にベッディングを巻き込んだ合財袋を持ち歩いている人をよく見た。それで列車やバスの屋根に乗り込んでいた。宇野もこのホールドオールを肩に掛けてカメラなどの機材をトランクに詰め、予約なしで寺院の無料宿泊所・ダラムシャーラに飛び込んだ。ホールドオールはおそらくイギリスの軍隊が持ち込んだ物であろう。

密偵・西川一三がモンゴルから青海省、チベットを経てカルカッタから帰国したのは昭和25年。モンゴル語でウールグという合財袋、背負子を担いで歩いた。昭和30年前後のインドの状況はその時と変わらないであろう。

仏教の沙門は三衣一鉢といって、今でいうドーティー、巻きスカート様の下穿きと一枚布の上衣、さらに外出用の大衣とか重衣と呼ばれる外套と、乞食用の鉢のみ所有が許された。その外套は、ぼろを何重にも継いで縫い合わせ、黄褐色、袈裟色に染めたものでサンガーティという。重いので肩に担いで遊行した。

それが仏教の沙門であることを示す元々の袈裟であるが、野営するときの座具、寝具でもある。それで雨風をしのいだのであろう。ホールドオールがその近代版かと思うと興味深い。寝袋がその現代版か。また、軍隊のカーキ色というのも、袈裟色を意味するカシャーヤと語源を同じくするという。

 

金銭事情と大学事情

当時の奨学金月200ルピーがどのくらいかというと、日印文化協会の『インド文化』第2号、昭和35年3月発行の奈良康明「カルカッタ通信/インド留学生の関心と話題」によると次のようである。このタイトルからすると、留学中、おそらく昭和34年頃にカルカッタで書いたものではないかと思う。

修士号を取った者は400ルピーくらいから始まって、老年にいたって7~800ルピーの月給を取れる。学士は300ルピーから。インターミディエイトといって2年終了して試験に通ると200ルピー。電車、バスの乗務員、下級のおまわりさんが200ルピー以下50ルピーくらい。玄関番や掃除人は50ルピー以下。そういえば、ケーララでカタカリの伴奏をしていたイダッキヤー奏者の本職?はバスの乗務員だった。

プーナやバナーラス、シャンティニケタンなどで寄宿舎に入っていれば、奨学金でかすかすの生活ができるが、デリーやカルカッタでは無理と記す。わたしは渡印前に、BHU留学の先輩から、僕たちはバナーラスでパイサ単位(1ルピーは100パイサ)で生活しているが、デリーではルピー単位で生活していると聞いてバナーラス留学を決めた。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%8a%be/

半世紀くらい前、インド首相の月給は6000ルピーと聞いたような気がする。それで、一般のほぼ10倍だ。日本の首相の歳費はなんだかんだ6000万円くらいか。

 

ラクナウ大学

『インド文化』第3号、昭和37年9月号には、深沢宏が「ラクナウの回想」を寄稿している。タイトルからして帰国後の執筆だ。インターミディエイトについて詳しく書いている。

大学に入るための試験はなく、その代わり高校後期、インターミディエイトの卒業試験として州内一斉に卒業試験をして資格が認定される。例年、半数近くが落第するという。その上で成績証明書を大学やカレッジに提出し、大学側は定員を超えた分だけ落とす。

インドの小学校は5年、中学校は3年。高校に相当するインターミディエイトのコースが前期、後期のそれぞれ2年ある。2年毎の卒業時に共通試験を受けて上に進学できる。インドの試験事情は厳しいようで、あの手この手のカンニングが話題になっている。
https://www.pen-online.jp/article/015725.html

ラクナウ大学の学生は当時7000人、そのうち女子は500名。文・理・医・アーユルヴェーダ、法、商の6学部あり、文・理両学部はキャニング・カレッジ時代の建物を用いた。上に小さなドームを置いたイスラーム風のきれいな建物だそうだ。

学生の寄宿舎が立派で、8つある寮は二流ホテル(ツー・スター・ホテルといいたいのか)に相当する堂々たる建物だそうだ。自宅から通う学生の他はウッタルプラデーシュ州出身が大部分だが、他州からも来る。

深沢は新しくできた寮に入ったが、それまでの古い寮には食堂がない。違うカーストとの共食は御法度だったので、数名で組んで共同でコックを雇って食事を作ってもらっていた。つまり、金持ち、エリートでなければ大学には入れない。

授業は植民地時代の習慣で英語だけで行われていたが、学士課程だけはヒンディー語が用いられるようになった。しかし、南インド出身者や非ヒンディー語圏の出身者が相当いるのでうまくいかなかったという。

ラクナウ大学文学部には、英文学、哲学、心理学、教育、歴史、古代インド史、考古学、政治学、経済学、社会学、人類学、アラビア語、ペルシア語およびウルドゥー語、サンスクリット語、ヒンディー語の15学部あり、各学科に10名から20名の教師がいたというから立派なものである。

ベンガル語とかグジャラティー語とか隣接するインド・アーリヤ語族の話者なら、ヒンディー語でも学術用語を用いる授業はおおむね理解できると思う。わたしが通ったBHUでは、シラバスに従い同じ授業を英語とヒンディー語と二本立てでやっていた。英語のクラスにはケーララから来た男子学生とマニプリーから来た女子学生がいた。ケーララから来た学生は、初めはヒンディーが分からずわたしが通訳するようなこともあったが、一年も経つとわたしより遙かにうまくなっていた。

 

プーナ大学

『インド文化』第2号、昭和33年7月号に、高崎直道が「大学の町プーナ」を寄稿していて、これはこの学園都市にある教育機関について詳細に報告している。プーナ大学は1948年に創立。それまでにあった単科大学、カレッジや研究所をプーナ大学の名の下に帰属させ、統合した。

ムガール帝国時代のプーナでは、シヴァージーがアウランゼーブ相手に勇敢に戦った。イギリスの侵略に対しても抗戦したが、1817年にイギリスが占領した。

文化的にも西インドにおけるヒンドゥ教育、学識あるバラモン養成の中心であり、寺子屋のような初等教育が盛んに行われていた。

高原にあって涼しいので、イギリスはボンベイ州の副首都とし、イギリス人が多く移り住んで英語学校を設立した。1939年に州立文科大学デカン・カレッジが設立される。講義は、当然、英語で行われ、イギリス人を補佐する英領インドの官吏養成が主目的だった。

一方、BHUは神智学協会のアニー・ベサントが創設したバナーラス・セントラル・カレッジを前身とし、1916年、マダン・モーハン・マーラヴィーヤの総合大学設立構想と合体し、マハーラージャの援助を受けて設立された。他の大きな大学のように下属するカレッジを持たず、日本の大学のように多くの学部・学科を擁している。
https://spap.jst.go.jp/resource/university/3030009.html

プーナ大学は教育を多くのカレッジに任せつつ、一方では直属の学科も持っている。職業学校、プロフェッショナル・カレッジとして、理科大学、農科大学、工科大学、法科大学、医科大学を擁す。教育大学、アユルヴェーダ大学もある。日本でいうと、昔の高専みたいなイメージか。日本の戦前からある医大は医学専門学校と呼ばれていた。

私塾もあってそこでは、伝統的な教授方法でヴェーダ学、ヴェーダンタ哲学、ダルマシャーストラ(伝統的なヒンドゥ法典)、ミーマーンサー哲学、文法学、詩学、修辞学を学ぶ。パンディット養成講座なので、講義はサンスクリット語で行われる。女子大学もあり、ここでは英語ではなくマラーティー語で講義が行われる。

サンスクリット学では、デカン・カレッジと共にバンダルカル東洋学研究所が有名。日本からの留学生も多い。わたしが訪ねたときには、プーナ大学と提携している名古屋大学から留学した宮坂宥洪、和田壽弘がいた。

わたしの留学時にはBHUに宮本久義、橋本泰元がいたが、暑い中自転車をこいで、みんなでサールナート見学に行ったりした。プーナではバイクを買って乗っていると聞いて驚いた。
 

カラークシェートラ

昔マドラスといったチェンナイにあり、インド舞踊の殿堂とされ、日本からの留学生も多い。1936年(昭和11年)創立。最初の日本人留学生として、昭和41年から43年にかけて留学したのがレジェンドの大谷紀美子である。創立から30年経ってからのことだ。

一般にカラークシェートラはインド舞踊学校と理解されているが、当時は仏教よりヒンドゥ教に傾倒していた神智学協会のミッション・スクールの一つである。古き良きインドの復興というか、各地に残る伝統を調査し、新たに構成し直して新しい伝統を創造することを目指したのだろう。ウダエ・シャンカルにしても榊原舞踊団にしても、ザッツ・インド舞踊、インド各地の舞踊を集めたガラ・コンサートのようなものを目指していた。

神話的にインド舞踊はバラタ仙の『ナーティヤ・シャーストラ』に基づいているとするが、実際に舞踊家でサンスクリットでも英訳でも読んでいる人はほとんどいないだろう。あまり関係ないからだ。ヨーガ教師が『ヨーガ・スートラ』を読んでいないのと同じだ。

バラタナーティヤムの教育を主眼とするが、舞踊劇に必要なカタカリのコース、音楽コース、美術コースもある。創作劇のために舞台装置や衣装、美術を総動員で作り上げたのだろう。シャンティニケタンのタゴール劇もそうだった。

先にバナーラス・セントラル・カレッジに触れた。河口慧海は、大谷光瑞、井上円了らと共に1902年にブッダガヤーで神智学協会のアニー・ベザントと出会った。1906年、ベザントの紹介でカレッジの教授宿舎を与えられ、「名誉学生」として7年に留学してサンスクリットを学んだ。

慧海は初めにカルカッタ大学で学び、タゴールの学園に移ってサンスクリットを学んだ。それは西洋文献学の学習法ではなく、テキストを丸暗記して解釈していく寺子屋式の教え方と思われ、挫折した。そうやってかなりの量のテキスト、スートラや詩文を丸暗記して、ウォーキング・ディクショナリーならぬウォーキング・スートラとなるのが伝統的なパンディット養成法だ。タゴールともそりが合わなかったようだ。

セントラル・カレッジの宿舎にいる間に、『スリー・イヤーズ・イン・チベット』の出版準備をした。英文はカレッジのドイツ語教授が面倒を見て神智学協会から出版された。そのときの校長がジョージ・アルンデール。後にルクミニー・デーヴィーと結婚して、共に1936年、カラークシェートラを開設した。
 

カラークシェートラの教程

大谷紀美子は、川田順造、徳丸吉彦編『口頭伝承の比較研究(1)』に、「インド古典舞踊の伝承と学習」としてレポートしている。ちなみに紀美子は、浄土真宗本願寺派第23世法主として半世紀にわたり君臨した大谷光照の次女である。大谷光瑞は大谷探検隊に金を注ぎ過ぎたので退いて、弟・光明の子、まだ幼い光照を跡継ぎとした。冒険家の血筋だ。紀美子なんて呼び捨てしてはいけない。失礼しました。

カラーとは技芸、クシェートラは田地、フィールド、つまり芸術を育てる場、道場ということで人間教育が行われている。日本からは大学を出て留学することが多いので大学のように理解されているが、入学資格、年齢、宗教、国籍は問われない。技芸というのは特定の専門カーストの子が幼少の頃から習うもので、大学で学ぶものとは考えられていなかった。

大谷の留学当時、生徒は10歳から16歳の女子が大半。大谷も一緒に入寮してインド舞踊を習得した。その中には野火杏子の師であるウマー・ラーオもいた。先年亡くなられ、誠に残念である。

大谷はその後何回か渡印して、カラークシェートラ出身のV.P.ダナンジャヤンとシャーンター夫妻の学校バラタ・カラーンジァリに短期留学して習う。日本でバラタナーティヤムを踊る舞踊家の大多数がこの系譜にある。

今はどうなのか知らないが、大谷によると小学校には行かずカラークシェートラに直接入学する子もいた。その場合、インド舞踊を中心に学び、その合間に算数や社会など小学校の勉強をした。そして、神智学系列の他の学校で試験を受け、小学校卒業の資格を得ることになる。今や大変な受験社会なのでどうだろう。

自宅から通うパートタイムの生徒は普通の小中学校に通い、夕方から音楽・舞踊・サンスクリット語を習う。フルタイムの生徒は4年を終了すると成績によって、ファースト・クラス、セカンド・クラスのディプロマをもらう。さらに、2年間のポスト・グラジュエイトのコースを終了するとディプロマが与えられ、カラークシェートラで教える資格が得られる。いわゆるお免状だが、4年修了で教え始める人も少なくない。

その教育課程は1年次ではアダヴのみを習う。アダヴの語はモーヒニー・アーッタムのアーッタムと語源を同じくし、辞書的にはダンス、プレイを意味する。

2年次にアラリップ、ジャティスヴァラム、シャブダム、キールタナム、3年次にヴァルナム、パダム、4年次にヴァルナム、パダム数曲、ティッラーナという具合に4年かけて、1回の公演を一人で踊る曲目のセット・リスト一式が習得される。パダムとかティッラーナとかそれぞれジャンルの名前なので数曲、あるいはそれ以上ある。

アダヴは17教えられ、タッタアダヴとかターテイテイタ、タディギナトムなどと教師が口で唱え、そのそれぞれに動作が付いているのを踊る。さらにそれをノーマル・スピード、倍速、3倍速で踊る。2年次に最初に習うアラリップは2、3分で終わる短い曲。

本来、中腰で構えるバラタナーティヤムを踊るための身体を作るのに、何年もかかるのを1年で勘弁したるわいという感じ。同じく、ずっと中腰の24式太極拳だって、一日で型を覚える人もいるだろが、身について気が通るようになるまでは年期を要する。

隣のケーララ州の武術カラリパヤットでも、一連の動作の単位をアダヴと呼ぶ。同一ではないが共通のルーツを持つのだろう。

2曲目のジャティスヴァラムはほとんどが1年次に習ったアダヴの組み合わせで出来ている。ハスタ・ムドラー、手印は理論の時間に習う。

カラークシェートラでは組織化された基礎訓練に重きをおき、歌詞やその背景について丁寧に教える。踊りの動きを外形的に真似するのではなくて、自家薬籠中のものとして身につけて自分で再生産、自由に組み立てて使えるようにする意図かと思われる。踊りの文法をしっかり教えて、後は自分でバラタ作文しなさいという考え方だ。しかし、この遅いペースは外国から来る生徒にはよいのかもしれないが評判が悪く、平行して密かに外で習う生徒も少なからずいたようだ。

大谷が感心したのは生徒のもの覚えの早さ、記憶力のよさだ。意欲のある生徒は上級生が習っている曲を練習や公演を見て覚えてしまう。また、一度習った曲を何年も忘れない。曲名とラーガ、ターラ、歌詞をメモするだけで、踊りの動きを記譜する人はほとんどいない。2、30あるレパートリーを覚えていて、数年間踊っていない曲でも、2、3回のリハーサルで踊れてしまう。

例えはよくないかもしれないが、AKBグループなど、よくあんなに何十曲も歌だけではなく他グループの振り付けまで覚えているもんだと感心する。現場ではその日に習ってすぐにステージで踊ることも多いのだろう。

大谷の留学は半世紀以上前の話なので、どなたかカラークシェートラの現在地をレポートしてくれたらうれしい。大先輩の歴史があって今がある。その系譜、自分がどの位置にいるのか知るのは大切なこと。大谷はベルファーストにあるクイーンズ大学に留学し、平成6年、“Rukmini Devi and the Bharatanatyam/revival of classical dance in India”を提出し、民族音楽学の博士号を取得している。インドに留学して博士ダンサーとなる舞踊家が何人も出てくることを期待している。

インターネットでチダムバラムのナタラージャ寺院などに描かれる108カラナのポーズについて研究したBindu.S.Shankarの博士論文を見つけて読んでみたが、驚くべき経歴であった。
https://cdn.angkordatabase.asia/libs/docs/publications/dance-imagery-in-south-indian-temples-study-of-the-108-karana-sculptures/108-karanas.pdf?fbclid=IwY2xjawEui5VleHRuA2FlbQIxMAABHfCobNrVqxqKWeb0juxOpE2MqHXAk7OqZMBAG3tD4ttDhTosFR-RQyUXFA_aem_1oOZdFjlezsLiHLcBeiDvQ

1986年にマイソール大学でB.A.を取ると同時に、カラークシェートラのディプロマを取得している。さらに、88年には同大学でM.A.とカラークシェートラのポスト・グラジュエイトのディプロマを取っている。ダブルスクールである。

同じ市内のマドラス大学の学士、修士課程を終えたというのならまだ分かるが、遠く離れたマイソール大学とは驚きである。350ページにも及ぶ壮大な構想の論文にも感心した。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年8月2日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑬/河野亮仙

第13回 天竺ブギウギ・ライト

頭陀第一の西川一三
 
『チベット旅行記』の河口慧海は有名だが、その半世紀後の世界大戦中、モンゴルに潜入しチベットへ、そして戦後も帰国せずインドに抜けた人が二人いる。西川一三と木村肥佐生である。密偵、つまりスパイである。軍事訓練も受けてはいるが、潜入して調査し、報告を送るのが仕事である。支度金を受け取った後は、自分でなんとかしろとばかり、本人に支給は途絶える。

たまたま古本屋で沢木耕太郎『天路の旅人』を見つけ、夢中になって読んだ。西川一三の行程を検証した本である。その元となる芙蓉書房『秘境西域八年の潜行』は、やはり学生時代に神田の古本屋で見つけて読んだ。おそらく上巻だけ買って読んだのだが、偽名のロブサン・サンボーを名乗ったということ以外は何も覚えていなかった。

私も車に乗ってではあるが、東北大学の西蔵学術調査隊の人文班に参加し、1986年4月から6月にかけて青海省からラサを経由し、カトマンズまで走り抜けたので、およその状況は想像が付く。黄河源流を尋ねて荒野を疾走すると、あちこちに馬の骨が転がっていた。5000メートルの高地でキャンプしたこともある。

左上:子守をするチベットの少女  右上:人文班隊長 色川大吉

左下:遊牧民のテント       右下:ヤク

 

『チベット潜行十年』のダワ・サンボーこと木村肥佐生は、母と同じ大正11年生まれ。西川より年下だが、一年早く興亜義塾に学んだ。日蒙協会が前身で、人道的立場から中国の西北、モンゴルやウイグルなどの民族の文化向上に資すといううたい文句だ。辺境の民族が結集して漢民族の包囲網を作ろうと学校や診療所、牧場など建設した。

西川はわたしの父と同じ大正7年生まれだった。父は飛行機に乗って朝鮮半島を飛んでいたようだが、西川は地を這っていた。地球半周くらい歩いたんじゃないかと思う。ひたすら歩いた。危機を察知する能力、瞬間的本能的に対応する能力に秀いで、何回死んでもおかしくないような状況を生き延びてきた。

わたしの父も昔の人として背は高く、173センチくらいあって甲種合格を自慢していたが、西川は180センチの大男である。目が悪く甲種合格とはならなかったので満鉄に就職した。昔の中国では偉人の身長を2メートル以上と見ているが、玄奘三蔵も、おそらく180センチちょいの身長であろう。

わたしは玄奘三蔵の単独行は無理で、西遊記の方が実態に近いと思っている。孫悟空、沙悟浄、猪八戒が随行して馬にまたがるという姿が想像される。知らない所を旅行しようと思ったら、先に行って様子を調べて宿泊先と交渉する先遣隊、さらにボディガード、通訳あるいは道案内のガイド、荷物持ちや馬丁が必要である。

 

天竺行の常識

一人二役が可能としても4、5人が最小単位で、たいていは隊商について行く。それは大きければ大きいほど安心で、族に襲われる危険性が減る。一人二人失っても残った人が目的を果たす。法顕は11人で旅を始め、無事帰国できたのは法顕一人であった。64歳で出発し帰国は77歳だった。

国際情勢が悪く、玄奘は出国許可が出なかったので単独で挙行した。しかし、巡礼僧については大目に見てもらい、比較的自由に行けたのではないかという意見もある。西川や木村もそのようにして国境をくぐり抜け、無賃乗車をした。国禁を犯してというが、昔の中国人がそれほど律儀に法律を守ったとも思えないのだが。
 
伝記ともいうべき『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』によると、涼州からは慧淋、道整という僧が付き添い、昼は寝て夜歩くという隠密行動を取ったが、瓜州(ハミ)で分かれる。馬を買って、胡人を雇いガイドとして馬を引かせる。

唐の西境である玉門関の先には見張りの烽火台が3、40キロごとに5カ所あり、胡人が5烽まで案内しましょうということになった。そこから先は唐の権力の及ばない流砂、水ではなく、ただ砂が流れるだけで何もない沙河である。しかし、胡人が怪しい動きを見せたので放ち、道を知っているというやせ馬だけで行く。追っ手や検問をなんとかくぐり抜け、回り道をして行くつもりが道を失い、水をこぼして5日間生死の間を彷徨った。般若心経で救われたというのが、玄奘三蔵伝のヤマである。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%8053/

これはいろいろな話を組み合わせ、苦心して作り上げた物語であろう。話を盛り上げるため枝葉を語らず、胡人とやせ馬に焦点を合わせて粗筋を作った。その先、伊吾まで400キロもある砂漠を、慎重で用意周到な玄奘三蔵が軽装備で行くわけがない。従僧二人を帰し、道に迷って水がなくなったのも事実かもしれないが、他にも馬や苦力がいたはずだ。エキストラの名前はエンドロールに載らない。

馬だって水は飲むのだから大量に必要だろう。一人分の身の回り品なら50キロ、装備となったら100キロを超えるだろう。木村はラサに巡礼に行くモンゴル人の夫婦の弟という設定で、ラクダ5頭にテントや家財道具を積んで出発した。ラクダは背中に水筒を背負っているし、水陸両用車だ。玄奘が携帯した食料は何なのだろう。麦焦がしと団茶はあったと思うが、チベット人の常食ツァンパ(チンコー麦の麦焦がし)とバター茶はあったのだろうか。動物性タンパク質や脂肪を取らないと体力が持たない。野営用のテントは携行していないと思う。当時の人にとって当たり前のことは書かれない。

話をもどすと、玄奘三蔵は伊吾に到着すると高昌王に出会う。王族官僚のために講義をすると、お礼に法服30着のほか金貨100両、銀貨3万、綾絹等々行き帰りの旅費を布施してくれた。馬30匹、荷物持ち25人、少年僧4人も付けてくれた。これからは大キャラバンの大名旅行である。布施という文字の通り、布というのは貨幣相当の貴重品である。

また、護衛がつかなくても自衛が必要である。西川は蒙古刀や拳銃、槍を持って旅をしたこともあるが、僧侶は錫杖を手にする。あちこち訪ね歩くことを巡錫という。山道を行くのに杖になるし、じゃらじゃら音がするので熊よけにもなる。

しかし、道中で一番怖いのは犬である。強盗なら、話し合いをしたり、さっと金目の物を渡して勘弁してもらうということができるが、犬には通じない。ひたすら吠えるのを杖で追っ払う。インドやバリのやせ犬も狂犬病があるから怖い。チベット犬は特にどう猛で怖い。西川は十数匹のチベット犬に襲われ、必死に槍で防戦したこともある。

西遊記のようにどこに行っても族に襲われ、旅人にだまされ、女に誘惑される。しかし、あの構図にも嘘があるというか、足りない所がある。無人の荒野を行くのには、大量の食料や水を用意しないといけない。玄奘三蔵が馬に乗ってしまったら、荷物はどう運ぶのだ。ここに誰も気がつかない。そのことが西川の道中記を読むとよく分かる。
 

戸籍を抹消された密偵

西川は中国の張家口大使館調査室勤務という形で、大使館事務所から実家に給料が送金された。一方、行方不明ということにされて戸籍も抹消された。存在するのにいないはずの人、インドの世捨て人サムニヤーシン、仏教でいう頭陀行者である。

帰国するとGHQに呼び出された。朝鮮戦争の頃なので情報が欲しかった。蒙古、甘粛省、青海省、チベット、インド、ネパール、ブータンについて仏教寺院のことのみならず、各地の地勢、気候風土、民族の風習、軍事設備や兵力について聞き取り調査をした。そして、各地の地図を書いた。

GHQに一年間つきあっていろいろ思いだし、その後三年かけて『秘境西域八年の潜行』を書き上げた。これと同様のことを玄奘三蔵は太宗皇帝の元で行ったはずである。玄奘と共に訳経所で働き、筆の立つ弁機が聞き取って、様々な資料を駆使して『大唐西域記』を書き上げた。

西川の本は中公文庫版三分冊で計2000ページ近い。原稿は段ボール箱に詰められたまま、長い間、講談社編集室の片隅に眠っていた。面白いけれど長すぎるということだった。芙蓉書房からやっと出版できたのは昭和42年である。

ちなみに、当時、東方文化研究所に所属していた仏教学者の長尾雅人は1943年の夏、満鉄調査局の援助を受け、陸軍のトラックに乗り、北京に留学中の歴史学者佐藤長らと共に、貝子廟を訪れ調査している。それもやはり、中公文庫に入り、『蒙古ラマ廟記』として1987年刊行されている。

西川は出発時に6000円給付され、銀貨や外地で高く売れる阿片を調達した。蒙古人のラマ僧の3人とその弟子の少年と5人の巡礼僧となった。装備は家財道具と土産物も含めて7頭のラクダで隊を組みゴビ砂漠を渡る。ゴビというのは、まばらに草が生えている小石と砂の荒れ地のことだ。青海省・西寧のタール寺目指してトクミン廟から出発した。

1943年10月下旬のことだが、雪が降り出した。西川自身が2頭のラクダを引く。雪の中を歩いて進むのだ。大きなラクダは風よけにはなったが、困難な旅である。定遠営まで20日で行くところが一月近くかかってしまった。1945年の正月はタール寺で迎え、4ヶ月を過ごした。


左上:タール寺、青海湖、鳥島案内図  右上:鳥島

左下:タール寺の台所         右下:巡礼の家族

 

西川が最初にヒマラヤのザリーラ峠を越えたのは1946年1月。風の噂に日本の敗戦を知る。ラサからはシガツェのタシルンポ寺、サキャ寺、ギャンツェ、高原の街パリからチュンビー渓谷を下り、6700メートルのザリーラ峠を越えるとカリンポンである。西川は連れのバルタンと共に峠で「ソルジェロー!」、人も家畜も安泰あれと絶叫した。万歳をしたい気分だったのだろう。

野宿しては雪の中に埋もれ、雨に打たれながら寝たこともある。氷河期を生き延びてきた人類の強さが現代人にも受け継がれているのかと感動する。中国から国境を越えたといっても、大戦中はインドも敵地である。

ようやくベンガル州、ダージリンの東のカリンポンに抜けた。しばらくチベット新聞社で職工として働いて、そこにある辞書を借りてヒンディー語、ウルドゥー語の勉強をしていた。次はインド巡礼、ブダガヤに詣でることを考えていた。パキスタンからアフガニスタンまで行くつもりだった。戦争はとっくに終わって密偵ではなくなった。時に1948年、ガンディー暗殺をニュースで知った。

 
最低限の生活

カリンポンにはチベット寺院も多く、火葬場の隣の寺院に住む老修行僧が気になった。このラマは東チベットのカム出身、洞窟で二十年修行した後インドに出て放浪し、カリンポンに住み着いた。もともと焼き場のそばに小屋を建て修行していたが、信者に尊敬され布施を集めてお堂や仏塔が建てられたという。

ふだん着る服は、焼き場に持ち込まれた死体をくるむ白い布だそうだ。仏教でいう塚間衣、糞掃衣だ。焼き場のすぐ下の崖には白骨が散乱した洞窟があり、そこで瞑想修行をしていた。西川は老僧に入門してでんでん太鼓、鈴、ガンドンという骨笛、毛皮の敷物、沐浴用の短いスカート、人の頭蓋骨で出来た鉢をもらった。釈尊の修行時代とほぼ同じことをしたのだから驚きである。そして、老僧からチベットのご詠歌を習った。これが後で大いに役に立つ。

西川は生計を立てるために行商、担ぎ屋を始める。タバコを密輸出するのだ。カリンポンから、ブータンへ、チベット方面へと何度も往復した。針が意外と珍重された。吹雪の中峠を死に物狂いで越えたとき、凍傷にかかって歩けなくなった。そのときはダラムシャーラ、本来は巡礼者用の無料宿泊所に乞食の群れと共に住んだ。物乞いに出た乞食に恵んでもらうという、およそ最低の生活をした。長い潜行生活において、西川が倒れたのは回帰熱と凍傷の二回だけなので超人的な体力だ。

戦争はとっくに終わり、カルカッタで木村と共に逮捕された。捕まることも何回かあったが、留置所は屋根が付いていて食事も出るので楽だと語る。洞窟に住んだときは、暖かくて燃料(動物の糞)もあり、豪華ホテルのようだと回想する。そのまま歩いてアフガニスタンまで行くつもりだった。あれだけの旅をして困難を乗り越えると、およそどこでも一人で生きていけるという気概が生まれる。大昔に、出アフリカをした人類も、そんな気持ちで未知の土地に進んだのだろう。

木村は155センチに満たない小柄なやさ男。西川のようにネアンデルタールごときの体力はなかったが、言葉が達者だった。口は災いの元となったこともあるが。昭和18年、ともに張家口にある日本大使館の調査員として雇われ、別々に行動しながらも時として同行した。

西川のような危機察知能力と体力、木村のような語学の才能、さらに学者としての卓越した能力と、僧侶としての政治力、そのそれぞれを数段高いレベルで兼ね備えたのが玄奘三蔵だということになる。希有の人物だ。

1950年、ついに二人はカルカッタのプレジデンシー刑務所に収容される。名前は豪華な別荘のようだが、4月になると蒸し風呂のように暑い。5月に日本行きの船があり、6月神戸港に到着。西川は数えで33歳になっていた。

木村も帰国するとGHQで10ヶ月間事情を聴取された。CIA傘下の外国語放送サービスに勤め、各国のモンゴル語放送の要点を英語でまとめるという仕事をした。後に亜細亜大学教授となり、モンゴルやチベットとの関係に協力し、チベット難民の少年少女を引き受けた。その中の一人がペマ・ギャルポである。

西川は玄米食で知られる桜沢如一の真生活協同組合で食品販売をしていた。桜沢はマクロビオティックの普及を努め、また、世界連邦運動をやっていた。元祖ヴィーガンである。西川はそこで妻となるふさ子と出会う。ふさ子がざら紙に書き付けた西川の原稿をペンで清書した。

盛岡では「姫髪」という美容品卸の店を営み、元旦以外は毎日営業した。西川は店を閉めたら、近所で日本酒を二合飲んで帰ってくるという淡々とした生活を続けた。平成20年に89歳で亡くなった。

釈迦の十大弟子の摩訶迦葉マハーカッサパは頭陀第一とされた。頭陀行とは、出家教団の原則通りに、僧院に住まず遊行し、森や樹下、洞窟に、寝泊まりする。ぼろを着て食を乞う生活だ。西川は世俗的な欲がなく、まさに頭陀行者だった。究極のエコロジー生活者だ。

特に大きな業績を上げたわけではないが、一本気な男。歴史学者の佐藤長はその観察力、他では得られないモンゴル、チベットの細かい生活情報に感心した。読んでみると独特の面白さがある。寡黙で義理堅く、淡々とした生活態度には共感が持てる。嘘をつくのが嫌いなのに、モンゴル人に扮した密偵という最大の嘘に、さらに嘘を重ねることに罪悪感を抱いていた。

旅の空でも日々の生活でも精一杯手抜きなしで頑張る。その日その日が行だった。これをカルマ・ヨーガというのだろうか。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年7月17日水曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード4)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

若葉のとき: 1990年代 

1990年代には、後年日本でオディッシー学校を開き、後進の育成に励む日本人ダンサーたちがぞくぞくとインドに渡り学ぶ。 

1990年、茶谷祐三子はプロティマ ガウリ ベディがバンガロール郊外に開校した少人数の内弟子制の学校、ヌリッティヤグラム(ダンスヴィレッジ)の最初の生徒の1人となった。茶谷は1986年のケルチャラン モハパトラとクムクム ラールの舞台を見てオディッシーを習いたいとずっと願っていた。 

バラタナティアムですでに日本で活躍していた田中裕見子はオリッサのラマニ ランジャン ジェナの元でオディッシーのマンチャプラベーシュ(お披露目コンサート)の準備を始め、デリーに拠点を移したラマニと一緒に移動し、1990年にデリーでマンチャプラベーシュを行った。ラマニにはだんだん日本人の弟子が増えていく。野中ミキはヴァサンタマラ研究所で学んだ後、1990年に留学、ラマニに学んだ。野中に師事していた桐山日登美も1997年、ラマニに師事。野中、桐山は2000年にラマニを日本へ招聘し、京都、神戸、大阪などで公演を5回、レクチャー&デモンストレーションとワークショップを行った。公演は日本人音楽家による生演奏があったり、毎回アイテムが違っていたり、充実した内容だった。 

その当時は関西のほうがオディッシーダンサーが多くいらっしゃいました。東京やデリーは白黒はっきりした直線的なイメージがあって、オディシャや関西は曲線的というかなんかのんびりした感じが、似てるのかな、と当時の私はそんなふうに思っていました。」(桐山日登美談)  

 

神戸アートビレッジセンターで「クルヤドゥナンダナ」を踊るラマニランジャンジエナ。 2000年6月4日、 オディッシィダンススタジオカマラカラ・ピータ主催の コンサート「オリッシィの魅力」 にて。 (写真提供 桐山日登美)

 

ほかには、櫻井暁美の招聘で、1993年にイリアナ チトリスティが来日し、大阪、徳島、京都、広島でオディッシーの公演やワークショップを開催した。イリアナのたっての希望で京都の禅寺での数日を堪能した。その後、2008年に再度来日した。 

1992年に安延佳珠子は、シャンティニケタンへ留学、その後オディシャのスルジャンでケルチャラン モハパトラに学ぶ。2000年前後は、ときどき安延佳珠子が上京する以外、オディッシーの先生は関東にいなかったという。じきに安延は東京で開校し多くのダンサーを育成した。1996年には日本のインド大使館でパンフレットを見た小野雅子がヌリッティヤグラムに入門する。同じく1996年、福島まゆみがオディッシーを始め、1998年にスルジャンでケルチャラン モハパトラに、1999年にムンバイでジェーラム パランジャペに学ぶ。2000年から毎年ケルチャランを訪ね、東京で開校した。また、福島に学んだ、名古屋の佐藤幸恵は2008年よりスジャータ モハパトラに師事。 

浜田さえ子に学んだ直原牧子は1993年に渡印してマダヴィ ムドゥガルに学ぶ。1996年に神戸商科大学でアメリカ文学を教えるために、ラトナ ロイが一学期間滞在した。この前後、ラトナは数回日本で公演やワークショップを行っている。浜田に1993年から学んでいた村上幸子は、浜田と一緒にラトナに学び始め、村上は翌年アメリカに移動したラトナの元に渡り、1999年にシアトルでソロデビューした。その後、インドでガンガダール プラダン、続いてロジャリン モハパトラに学ぶ。枡井由美子も浜田に学び、オリッサダンスアカデミーのシニアダンサー、ポビットラ クマール プラダンに師事。油谷百美もポビットラに師事し、Rudrakshya Foundationでも学んだ。 

などなど多くの日本人ダンサーが活躍し始めた。 

 

のびのびと枝をはる日本のオディッシー: 2000年以降 

2000年代に入ると、スバス チャンドラ スワイン、スジャータ モハパトラ、ラティカント モハパトラ、ラフール アチャリヤ、ロジャリン モハパトラ、ガジェンドラ クマール パンダ、ジェーラム パランジャペ、ヴィシュヌー タッタヴァ ダス、ミーラ ダス、ソナリ モハパトラ、ナムラタ メタなどさまざまなオディッシーの踊り手が日本を訪れるようになった。日本のオディッシーダンサー個人が師匠を本国から招待するだけではなく、民間のインド交流団体の日印文化交流 (India-Japan Cultural Exchange)や日印交流を盛り上げる会、ミティラー美術館などや、インド政府の文化交流派遣事業ICCRなどでアーティストが来日する機会が増えた。著名な踊り手が公演、レクチャー、ワークショップのほかに、学術的なカンファレンスに参加することもある。例えば、2008年前後にはシャルミラ ビスワスが、日本大学で行われた世界の巫女舞を研究する会議に参加し、シャルミラはマハリの踊りを披露した。大勢のアーティストをインドから招 

聘しているミティラー美術館の長谷川時夫が、2004年、2007年にゴティプア舞踊団を呼び、日本全国各地を周った。 

 

2004年、 東京のナマステインディアに出演したゴティプア舞踊団 (写真 河野亮仙)

 

それまでは日本のオディッシーはケルチャランスタイルのみだったが、2000年代に入ってからは、日本ではデヴァプラサード スタイルの人気が高まり、生徒が増えた。2006年に仲香織がデヴァプラサード スタイルをガジェンドラ クマール パンダに学んだ。2010年、ガジェンドラは来日し日本各地で公演、ワークショップをした。そこに来ていた、三浦知里が名古屋を本拠地にデヴァプラサード スタイルを日本に定着することに一役買う。その同時期に、ドゥルガー チャラン ランビールと弟子のラフール アチャリヤに学ぶ篠原英子が、2011年と2014年にラフール アチャリヤを招待した。篠原は2009年にインドへ渡りラフールの最初の日本人の弟子となり、東京を拠点に活動を続けている。日本ではマレーシアのスートラ舞踊団が大変人気がある。ガジェンドラとスートラ舞踊団、大阪のインド総領事は懇意にしていることもあって、2023年には、ガジェンドラ クマール パンダとスートラ舞踊団が来日して盛り上がった。 

中堅の日本人オディッシーダンサーたちは、舞踊学校を始め後進の育成に務めるだけではなく、多くはヨガや瞑想を教えたり、サリーの着方などの文化講座を開き、あるいはオディシャの民芸品や芸術品の販売など、踊りだけではなく幅広い文化交流を行っている。また、本国でさまざまに変化し続けているオディッシーダンスを反映して、日本のオディッシーにもさまざまな表現が見られるようになった。オンラインで学ぶことが普及してきたこともあって、特定の学校に属さないで学ぶ踊り手が増えている。

 

オディッシーが生まれたオディシャ州で信仰されている(右から)ジャガンナータ神、スバドラー神、バラバドラ神。大阪の国立民族学博物館には、この三柱の神様のほかに山車も展示されている。オディッシーダンスは、マハリと呼ばれた神様の世話をする女性たちが寺院で奉納した踊りに起源がある。毎年夏にプリーで執り行われる山車祭りには大勢の巡礼者が訪れる。オディッシーダンスも奉納され、ジャヤ デーヴァ作「ギータ ゴヴィンダ」の歌などが歌われる。(写真 田中晴子)

 

実り 

日本人になぜオディッシーがこんなにも広まり愛されるようになったのか?舶来のものを愛でる気持ちと、インドへ憧れの気持ちが根底にある。オディッシーの動きは柔らかく、円を描くようで、しなやかで好きだ、そして、オディッシーの感情表現が好きだ、自分に合っている、と言う日本人ダンサーは多い。「グル シシャ パランパラ」、つまりお師匠さんに弟子入りしてグルへ奉仕しながら学ぶスタイルも日本人には馴染みがある。献身の喜びを日本人は生得しているところがある。そして、なかなかわかりにくいインド舞台芸術の真髄、バーヴァとラサの概念を、とくに教えられなくても自然に受け止めることのできる感性が高い人が日本人には多いと思う。さらに、生来の真面目さ、緻密さ、正確さを愛する性分と、神道からくる浄を愛で不浄を忌む感覚も加わると、献身的情熱的オディッシーダンスの生徒ができあがる、と私は思っている。 

私財を投げ打ち、人生のすべてを捧げた先人たちのオディッシーへの献身の姿を想うと頭が下がる。大御所、中堅所の日本人オディッシーダンサーたちは、インドで偉大なグルと巡り合い、身近に接して教えを受けたという恩恵に恵まれている。生身のグルの存在感から受ける印象は、言葉にできないものであっただろう。生徒たちは献身の喜びを体験したに違いない。ところで、かのグルたちは、智慧を誰から授かったのだろう?オディシャの人たちならそれは神の恩寵にほかならない、と言うだろう。日本人オディッシーダンサーたちがグルから受け取ったのは、神の恩寵だったのではないだろうか? 
 

   私の中のオディッシーとは 

   あの夜の空に月が輝くとき 

   あの日の昇るとき、沈むとき 

   夜風に花の香りの満ちるとき 

   波の音を聞くとき 

   大きな滝の下に立つとき 

   そんなときどきに この世界の美しさの中 

   私は 酔っ払う 

 

   オディッシーのあの調べ あの動き そのすべてが 

   私の身体の芯を喜び震わす 

 

   初めてオディッシーをみたとき 

   私の中で何かが大きくシフトした 

   そしてそれから 私の前に踊りが現す世界を 

   私の内に外に 感じつづけている 

  (高見麻子 遺稿より) 

 

本文中に登場する偉大な師匠、恩師のみなさまの敬称を省略させていただきましたが、深い敬愛の念を常に胸に抱いて執筆いたしました。お力を貸していただいたサキーナ彩子さん、田中裕見子さん、桐山日登美さん、福島まゆみさん、村上幸子さんに篤くお礼を申し上げます。 

  

参考資料: 

河野亮仙の天竺舞技宇儀 

河野亮仙 日印文化交流年表 

My Journey: A Tale of Two Birthsイリアナ チタリスティ著 

 

プロフィール: 

サキーナ彩子 

京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。 

連絡先:maa.sakinadidi@icloud.com 

 

田中晴子 

東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023)、『神の手 治療家 坂井秀雄』(2024) 

ウェブサイト 



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2024年7月2日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑲(最終回)

学校生活(5 

 

昼休みの1時間の間に、食事と遊びの両方があった。家から弁当を持ってくる生徒もたくさんいた。ぼくらは、1包み1ルピーの、アルー・ドム (1) を食べた。カレー味のジャガイモは、沙羅の葉の筒に入っていて、一本の串がついている。これでジャガイモを串刺しにして、口に頬張る。ある日、昼食の時間に、新しい、驚くべき食べ物が持ち込まれた。紙に包まれた、バターのように見えるアイスクリーム –– その名も、ハッピー・ボーイ(Happy Boy)。ベンガル人の会社の商品で、街頭で売られるアイスクリームの、先駆けだった。しばらくすると、街中に、ハッピー・ボーイ・アイスクリームを載せた押し車が見られるようになった。ハッピー・ボーイがなくなると、マグノリア、そしてそのずっと後に、クワリティ(Kwality)とファリニ(Farinni (2)  

 

昼休みの遊びの中には、棒弾き遊び (3) を除けば、特に人気があったのは独楽回しだ。ジョグ・バブー市場 (4) の側にある、ミトロ・ムカルジの店の階段に、夕方になるとカルカッタの最良の独楽作り、グピ・バブーが店を開いた。独楽がどんなによく回るか、グピ・バブーの作った独楽を見たことがない人にはわからないだろう。その独楽をぶつけて、他の独楽を壊す遊びが、昼休みに続けられた。その他、掌の上で回したり、回したまま宙に飛ばしたり、回っている独楽を、片方の掌から廻し紐の上にすべらせてもう一方の掌に渡したり –– こうしたいろんな遊びがあった。一度、投げた独楽が的から外れて、オモルの足に当たったことがあった。彼の足の甲から、すぐに血が迸(ほとばし)り出た。 

 

遊んでいる時、このような危険な目に遭うことは、他にもあった –– スポーツ大会の日のショシャントのように。彼はぼくらの同級生で、スポーツと勉強のどちらもよくできた。スポーツ種目の中に、目隠し競争というのがあった。運動場の一方の端からもう一方の端へ、100メートルほどの距離を、目隠しした状態で走らなければならない。競争が始まった。シュシャントはまっすぐ走ることができず、途中で左の方に逸れていくのが目に映った。誰か一人、彼の名を叫んで注意を促した。シュシャントは一瞬怯んで足を止めたが、次の瞬間、遅れを取り戻そうとして、猛烈な速さで走り出し、ゴールの柱から230メートル左にあった学校の境界の壁に、目隠しの状態でまともにぶち当たった。その光景、そのぶつかった時の音を思い出すと、今でも身体に震えが来る。その次の年から、もちろん、目隠し競争自体が禁じられた。 

 

学校の最初の4年間、ぼくはボクル=バガン・ロードにずっと住んでいた。9年生に在学中、ショナ叔父さんとともに、ベルトラ・ロード (5) に引っ越した。この家は、ボクル=バガン・ロードの家より、少し大きかった。ベルトラのぼくらの家の隣には、チットロンジョン・ダーシュ (6) の娘婿の法律家、シュディル・ラエが住んでいた。彼らが持っていた薄黄色の車は、あの有名なドイツ製の車、メルセデス・ベンツ –– ぼくらそれを、初めて目にしたのだった。シュディル・ラエの息子のマヌとモントゥは、ぼくの友達になった。マヌも後に法律家になり、さらにその後政界入りして国民会議派の一員となり、西ベンガル州の首相にまでなった。その当時、彼は、シッダルトションコル・ラエ (7) の名前で知られていた。 

 

ベルトラには、男の子たちのクラブがあった。ぼくがベルトラに移って2, 3日経つと、近所の男の子たちが現れて、ぼくをクラブに入れるために連れ出した。マヌとモントゥもクラブの会員だった。ぼくらの家から二つ向こうの家には、もう一人の法律家、ニシト・シェンが住んでいたが、その家には広い地面があって、そこでクリケットとホッケーをしたものだ。いっぽう、マヌたちの家の狭い地面は、バドミントンをするのに使われた。ニシト・シェンの息子や甥の、チュニ、フヌ、オヌも、皆、クラブに属していた。その他、チャトゥッジェ家のニル、ボル、オナト、ゴパルもクラブの会員だった。在学中に、みんな、ぼくの友達になった –– 彼らは家の外の道から、ぼくの部屋に向かって、近所に響きわたる声で叫ぶ –– 「マニク、いるかい?」 やがて彼らには、もう一人新しい仲間が加わった。 

 

その子は ‘South Suburban School’ 南郊外校) (8) に通っていた –– ぼくより4歳ほど年上だったけれど、学年はぼくと同じだった。何度かたて続けに、落第した結果だったのだろう。名前はオルン、呼び名はパヌ。モエモンシンホ県(東ベンガル)出身の、オキルボンドゥ・グホの家の子だった。ニシト・シェンの家の向かいの家だ。ぼくらのクラブの会員になったけれど、頭が良くなかったので、誰にも相手にされなかった。そのパヌが、ある日突然、ドムドム (9) の飛行クラブに入り、飛行機の操縦を身につけたのだ。その後、飛行クラブの年に一度の催しに、彼はぼくらを、ドムドムへ招待した。彼は二人乗りの飛行機を操り、空に舞い上がったかと思うと次々に爆音を立ててダイブを繰り返し、ぼくらに向かって下りてくるかと思えばまた空に舞い上がる –– こうして、ぼくらをあっと言わせたのだ。この時以来、もちろんぼくらは、パヌに一目置くようになった。 

 

 

 

ぼくらの時代には、政府の法律で、15歳以上でないと大学入学資格試験の受験資格がないことが決められていた。試験は1936年の3月にある。その時には、ぼくの年齢は14歳10ヶ月。つまり、1年間、待たなければならない。困ってしまった。法律家の手を借りて年齢を水増しすることはできるけれど、母さんはそんなことを決して許そうとしない。ところが、驚くべきことに、試験のわずか数ヶ月前になって、政府はこの15歳の年齢制限を撤廃した。おかげでぼくは、1年待たなくてもよくなった。 

 

学校を卒業して10年あまり後、何かの催しで –– たぶん昔の級友たちの集いに参加するために –– 公立バリガンジ高等学校に行かなければならなくなった。大ホールに入った途端、こう思った –– あれ、一体どこなんだ、ここは! このホールが、あのホールだって? –– あんなにでっかいと思っていたのに? 入る時、扉に頭がつっかえてしまう! 扉だけではない、すべてが、とんでもなく小さく感じられた –– ベランダも、教室も、教室のベンチも。 

 

もちろん、そうなるのは当然だった。学校を卒業した時、ぼくの身長は160センチ足らずだったのに、10年後に学校を訪問した時には、195センチに届こうとしていた。学校はそのままで、大きくなったのはぼくの方だ。 

 

この後、二度と学校に戻ることはなかった。子供の頃の記憶に満ちた場所に、改めて行ったところで、昔の楽しさを取り戻すことはできない。追憶の山の中を手探りして、それらを取り戻すことの中に、本当の楽しみがあるのだ。 

 

 

訳注 

(注1)汁無しの、ジャガイモ・カレー。 

(注2)いずれも、アイスクリームやパン・菓子類の製造・販売で、有名な店。『ぼくが小さかった頃』② 参照。 

(注3)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。 

(注4)「ジョドゥ・バブーの市場」の名でも知られる。南カルカッタのボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)地区北部にある市場。 

(注5)ベルトラ・ロード(Beltala Road)は、ボバニプル地区の、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。 

(注6Chittaranjan Das (1870-1925)  著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」の呼び名で知られる。『ぼくが小さかった頃』⑧ 参照。 

(注7Siddhartha Shankar Ray (1820-1910)  著名な法律家・政治家国民会議派に属し、西ベンガル州の首相、のちにアメリカ合衆国のインド大使などを務める。 

(注8)ボバニプル地区の最南端にある、州立の学校。1874年設立。 

(注9)ドムドム(Dum Dum)は、カルカッタ北部、現カルカッタ空港のある地域。『ぼくが小さかった頃』② 参照。 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年6月19日水曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード3)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

若芽クムクム ラール 
ケルチャラン モハパトラの初期の弟子で、デリーを拠点とした重要な1人、クムクム ラールは夫の仕事の都合で1983年から4年間、東京に滞在し日本でオディッシーを本格的に教えた。クムクムはそれまで生徒を教えたことはなく、東京で初めて日本人の弟子を育てることとなった。 

 

クムクムは、それ以前の1960から70年代にオディッシーがインド国内で「古典舞踊」と認められようと模索していた時代に一役買っている。東インド地方の一伝統芸能だったオディッシーは、初期のグルたちが力を集めて復興に尽力していた。とくにケルチャラン モハパトラはオディッシーをインドの古典舞踊として広く認めてもらいたいと強く願い、インド各地に弟子を送り、オディッシーを世に広めるたゆまぬ努力をしていた。芸術として復興し研鑽されたケルチャランらの踊りがムンバイの富裕層や、デリーの官庁や知識人層に支持を得て、ようやく古典舞踊としてのオディッシーが動き出した。そうした中、政府高官だったクムクムの父はケルチャランを熱烈に支持した。言ってみればクムクムの人生は、青春期にはオディッシーダンスそのもののインドでの復興と育成の中に身を置き、美しいダンサーとして花開き、そして壮年期に日本でオディッシーの礎を築く、という稀有な巡り合わせに彩られている。クムクムの来日は、インド大使館からサポートされる文化大使のような色合いがあった。ちなみに、クムクムの義姉のギータは、サンジュクタ パニグラヒが踊りを披露した1970年の大阪万博で6ヶ月間大阪に滞在して万博を支えるスタッフの1人として尽力した。 

 

もうひとつ特筆すべき点は、踊り手ではなくてインド文化を愛する日本の民間人が集まってクムクムの活動を盛り上げていた、ということだ。そのうちの1人は埼玉県の寺院住職で自身もインドに留学し、大学でも教えるインド文化の識者、河野亮仙。河野はクムクムが東京に落ち着いたころ、インド大使館の連絡を受けてクムクムに会いに行った。その後数年に渡って河野は、クムクムとクムクムの愛弟子、高見麻子の活動を熱心に支えた。 

 

東京でクムクムの公演を見て感銘を受けた数人がその場で弟子入りを決意したのを河野は目撃している。高見麻子が最初の生徒だった。クムクムのクラスは週に4日、朝から夜まで続く本格的な構成だった。基礎訓練、理論、数多くのパラヴィやアビナヤ曲を教えた。「捧げる気持ちで踊りなさい」とダンサーの心構えを繰り返し語った。サンスクリット語に堪能なクムクムはすぐに日本語を習い、日本語でヒンドゥの哲学や神話、詳細な演目の詩の解釈を講義した。 

 

インド古典芸術の核とも言える「バーヴァとラサ」という概念について、クムクムのレクチャーデモンストレーションがあったとき、河野は、舞台でクムクムが笑うと観客も笑い楽しい気分になり、クムクムが悲しむと観客の顔も悲しそうに変化していった様子を覚えている。これがラサなのだ、と感銘を受けた、という。クムクムはインド芸術の魅力と奥義を、日本で日本の生徒、愛好者たちにその存在をもって示した。 

 

“クラスでクムクムさんは、踊りの動き、理論的なことと共に、折にふれ、インド舞踊の中に流れる宗教、哲学、神話について話してくれた。その話を聞くたびに、私は目の前の世界が宇宙に拡がっていくようでドキドキした気持ちになっていた。彼女は、この踊りを踊る上で一番大切なのは、いつでも「捧げる」気持ちで踊ることだと繰り返し教えてくれた。 

 

稽古場で、彼女が練習用の黄色い木綿のサリーを着て踊り始めると、たちまちガランとした部屋の空気は濃く甘く匂い、その姿は淡い光に包まれて見え、それは私の中に悲しいような、満ち足りたような、あるいは、力がつきあげてくるような様々な感情を一度に巻き起こしながら私をカラッポにした。”(高見麻子『インド回想記 オディッシーダンサー 高見麻子』) 

 

1986年クムクムは、オディシャからケルチャラン モハパトラを招聘し日本でコンサートやワークショップを開いた。1988年にはケルチャラン モハパトラは国賓として再来日し、天皇陛下の御前でも公演した。 

 

 

1986年、東京におけるケルちゃん モハパトラとクムクム ラールのコンサート(写真 河野亮仙)
 

クムクムに学んだ生徒には、高見麻子、比護かおり、ミーナ(森田三菜子)、香取薫などがいた。高見と比護は、1987年に開校したばかりのオディシャのオディッシーリサーチセンターで、ケルチャラン モハパトラ、ガンガダール プラダン、ラマニ ランジャン ジェナに学んだ。高見はデリーのクムクム ラール宅でも学びを深め、1990年前後、夫の都合で米国サンフランシスコに渡り、サンフランシスコを拠点にファンを増やしていった。もともとは田中裕見子にバラタナティアムを習っていた比護は、クムクムに出会い、オディシャに渡りオーリヤ語を話すようになり、長いことケルチャランから学んでいたという。ミーナは、やがて台湾に渡り活躍する。香取はアーユルヴェーダ、インド スパイス料理研究家となった。 

 

一方、このころまでに九州に拠点を移していたサキーナ彩子は、ときおり請われて関西や東京に教えに行った。そこでインスピレーションを得たのが、浜田さえこ、安延佳珠子、茶谷祐三子、小野雅子らだった。1987年には、浜田さえこは渡印してマダヴィ ムドゥガルに師事し、1992年に帰国して大阪で開校した1988年には、奈良女子大学で身体表現を学んだ柳田紀美子が仕事の都合でオディシャに渡りオディッシーに魅了され、ハレ クリシュナ ベヘラ、スバス チャンドラ スワインに学び、のちに大阪で開校した。 

  

参考資料: 
河野亮仙の天竺舞技宇儀 
河野亮仙 日印文化交流年表 
『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著 
『インド回想記:オディッシーダンサー 高見麻子』高見麻子(文)、田中晴子(編) 
 

プロフィール: 
サキーナ彩子 
京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。 
連絡先maa.sakinadidi@iCloud.com 
 

田中晴子 
東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記オディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023 
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