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2025年6月27日金曜日

大阪・関西万博-インド館建設遅延報道が示す倫理観と正義感の多様性

2025年4月13日に開幕した「大阪・関西万国博覧会 EXPO2025」。各国のパビリオンが次々と姿を現す一方で、インド、ネパール、ブルネイなど一部の国は開館が間に合わず異例のスタートとなりました。特にインドパビリオン”バーラト”は、世界遺産の再現やインダス文明の遺産、最新の月探査船模型などの内容も充実し素晴らしい展示となった一方で、約2週間遅れての完成となりました。

 

開幕の数日前、まだ建設途中のインド館を背景にした報道陣インタビューで、インド人の現場責任者は「建設は100%間に合います!」と断言しました。しかし実際には、大方の予想通り開幕には間に合わず、ようやく完成を迎えた5月1日、在大阪・神戸インド総領事チャンドル・アッパル氏は穏やかな口調で報道陣に語りました。

 

「2週間で出来たし、遅れたとは思っていません。完成して本当にうれしいです。」

 

日本人には、「強がり」「責任逃れ」と受け取られるかもしれないこれらの発言ですが、そこには実はインドの哲学や文化、歴史や伝統に根ざした深い倫理観と正義感があります。筆者はインドに駐在していた際に、「インド人はすぐ嘘をつく」「インド人は虚勢を張る」と日本人に誤解されてしまっている残念な状況を幾度も目撃しました。しかし、インド哲学や文化の観点から見れば、こうした言動はむしろ倫理的に正当であり正義に適う行動なのです。今回の万博での報道は、こうした異なる価値基準による誤解を解く重要な契機となります。

 

ヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』には、「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」が説かれています。「あなたには行為に対する権利があるが、その成果・結果に対する権利はない。行為の成果・結果に執着してはならない」。アッパル総領事の「遅れたとは思っていません」という言葉はこの教えと深く共鳴します。彼が重視するのは「完成に導いた」という行為そのものなのです。

 

また、『マハーバーラタ』のウッディヨーガ・パルヴァンには、「人は正しい時機(カーラ)を待ちつつ努力すれば成果を得る。時機を得なければ、いかなる事業も成就しない」と記されており、すなわち「今、工事が完成した」という事実そのものが、これこそが何よりも時機を得たタイミングである、ということを示していることになります。

 

インド館の完成は総領事としてのダルマ(義務・本分)を果たした証であり、「本当にうれしい」という感情の表明は、ギーターが説くサットヴァ(純粋性)に基づく喜びを最も重視して、関係者や来場者とも分かち合おうとする行為です。インド思想は、困難を乗り越え達成した使命について精神的充足を感じることを重視しています。

 

一方で、日本社会では「期日を守ること」が広く共有された倫理観とされ、少しの遅延にも丁寧な謝罪が求められます。日程という形式的な結果が優先され、スケジュールを守ることが倫理観や正義感の尺度となります。しかしインドでは、形式的な遅延のみを理由にして謝罪をすることは、自分や仲間の誠意や努力を否定して台無しにする行為であると捉えられます。ここに両文化の価値観の大きな違いがあります。

 

すなわち、アッパル総領事の発言は、単なる外交辞令や言い訳ではないのです。心の底から、「私や工事関係者は私心なく任務を遂行し、自然な流れで適切な時期に完成に至った」と考えており、彼の深い信念と責任感の表れです。彼にとっては、「今、完成した」ことが天のタイミング(カーラ)に合致しており、自身の内的義務(スヴァダルマ)を果たしたことを意味しており、これこそが最も秩序(リタ)に適った完成であるという信念を表明しています。

 

このような態度は、形式を満足させることを重視し謝罪も付随させる日本的な社会の行動とは異なりますが、インドではむしろ行為の本質を重視している精神的成熟の証なのであるとして評価されます。インド人にとっては、このような態度こそが「責任を果たす姿」「誠実で精神的成熟度が高い証」「正義に適った高貴な行動」と映ります。

 

日本人が遅延を理由に深々と謝罪する姿は、インド人にとってはしばしば不可思議で倫理的に疑問視されることもあります。誠実な努力がなされた以上、形式的な遅延のみを理由に謝罪することはかえって正義に反する態度と捉えられ、自信の無い、頼りない、誠実さを欠いた道徳的に劣後した行為に映ってしまうのです。

 

大阪・関西万博におけるパビリオンの遅延は、単なる工程管理の視点を超えて、異文化間の倫理観や正義感が交錯する重要な場となりました。アッパル総領事の発言には、「結果に執着せず、行為そのものに誠実であれ」という、インドの古典哲学に根差した深いメッセージが、その根底にあります。

 

EXPO2025が掲げる「いのち輝く未来社会のデザイン」は、このような異文化間の深い対話と理解の上に築かれるものです。今回の遅延騒動は、多様な価値観を尊重し、学ぶ貴重な機会を提供してくれたのではないでしょうか。

 

 

栗原 潔(くりはら・きよし)

2005年、文部科学省に入省。

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

 

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2025年6月15日日曜日

『マハーバーラタ』を知らずして観るなかれ:日本から見るインドSFの衝撃

在インド日本大使館に赴任して以来、わが家の週末はすっかり“ボリウッド上映会”となりました。異国の灼熱と喧騒、その奥に息づく神話の鼓動をスクリーン越しに感じるたび、家族全員がインド映画の虜になっていきました。インド映画と言っても、ムンバイを拠点とするヒンディー語映画産業「ボリウッド」とは異なり、テルグ語映画はハイデラバードを中心に展開する南インドの映画文化に属し「トリウッド」と呼ばれています。そして今年、新たに心を奪われた一本が終末SFと叙事詩を融合させた『カルキ 2898-AD』。この作品も、日本で大きなブームとなった『バーフバリ』や『RRR』等と同じくテルグ語映画として制作されたものです。 

2025年1月日本公開の映画『カルキ 2898-AD』は、乾ききったガンジス川を舞台にした“インド版マッドマックス”ともいえる作品であり、華やかなビジュアルの裏側に、古典叙事詩『マハーバーラタ』の壮大な世界観を隠し持った知的な挑戦作となっています。2024年6月の世界での公開直後から、熱狂的な議論が巻き起こり、製作陣はすでに続編を2026年末に公開予定としています。 

本作は、ハリウッドのSF映画のような外観を持ちながら観客を巧みに引き込み、やがて神の弓ガーンディーヴァも現れ、さらに主人公が太陽神の子カルナであることが明かされます。ビーシュマが矢のベッドに橫たわる場面や、アシュヴァッターマンの呪いなど、インド神話ファンにとっては涙なしには観られないディテールが随所に織り込まれています。これらの“隠し味”を理解できるかどうかで、本作がSF作品として消費されるか、あるいは魂を震わせる叙事詩として昇華するかが変わってきます。 

なぜ主人公がカルナなのか。〈義〉と〈出自〉の狭間で揺れ動くカルナの運命は、「正義は一方の側だけにあるのか」という、今の私たちにも響く問いを投げかけてきます。まさにここに、本作の深い哲学が宿っています。善と悪という単純な二項対立を超えた倫理を提示することで、物語は神話の過去を未来の想像SF世界の中に折りたたみ、観客自身に“意味を解釈する責任”を与えているのです。 

『マハーバーラタ』は、世界神話の原型とも言われます。たとえば、大洪水から人類を救うマヌの話はノアの方舟と同じです。クンティの処女懐胎はキリストの出生との類似性があり、カルナが籠に入れられ川を流される描写は、モーセやサルゴン王の誕生譚に通じ、日本の桃太郎の誕生譚ともそっくりです。こうして見ていくと、『マハーバーラタ』は決して“遠い異国の物語”ではなく、私たちの文化の根底にも通じる、普遍的な原型を内包しているのだと気づかされます。 

 

しかし残念ながら、日本では『マハーバーラタ』に触れる機会は多くありません。原典は長大で難解なため、バガヴァッド・ギーターの抜粋などにとどまり、日本ではインド精神文化の中枢に十分にアクセスできていないという見えない文化的障壁が存在しているように思います。近年、若年層にとってスマホゲーム『Fate』シリーズに登場するカルナやアルジュナといったヒーローキャラクターが魅力となっていますが、それに並んで、本作『カルキ 2898-AD』は、多くの日本人にとってインド神話への扉を開く鍵になる可能性を秘めているでしょう。 

SF的なビジュアルと物語構成を取り入れたことで、本作は“神話=古臭い”という先入観を打ち破り映画ファンやゲーム世代の観客層を自然に取り込みます。ガンダーラ美術とサイバーパンクが融合したような美術設計はコアな層を魅了し、アクション豊富な戦いのシーンや随所に差し込まれるインド映画特有の笑いは幅広い層に楽しんでもらえるはずです。これをきっかけにして、カルナやアルジュナ、ドラウパディーといった名前がSNSや動画サイトのレビューでも自然に語られるようになれば、日本におけるインド文化の浸透とさらなる多方面の交流の深化にもつながっていくでしょう。 

現在の世界は、この映画のテーマに象徴される課題を抱えています。枯れたガンジス川が象徴する水の危機は、気候変動や災害リスクとも共鳴しています。そこに倫理的な葛藤の物語を重ねることで、作品は観客を遠い未来ではなく現在へと引き戻してくれます。『カルキ 2898-AD』は、圧巻のVFXと濃密な神話が交差する実験的作品であると同時に、文化の対話の起点にもなり得る映画です。この映画を語るとき、私たちは自然と日本の昔話や宗教的物語と比較し、深く考えるようになります。その往復こそが、真の意味での文化交流であり、理解への第一歩だと思います。  

『カルキ 2898-AD』のBlu-ray & DVDも2025年6月4日から販売開始されました。さらに来年の続編を楽しみにするとともに、公開されるその日まで、ぜひ『マハーバーラタ』を手に取り、その壮大な物語の大河を遡ってみてはいかがでしょうか。きっと、日印両国の精神的な河川が合流する音が聞こえてくるはずです。 

 

栗原 潔(くりはら・きよし) 

2005年、文部科学省に入省。 

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。 

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。 

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。 

 

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日本から見るインドSFの衝撃
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2025年6月7日土曜日

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2)

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(2) 

⚫師匠探しの旅 

1981年の2月の初旬。当時日本・インド間を就航していた航空会社は他にも何社かあったが、国営ということで1番安全そうなAir Indiaのチケットを、現トラベル・ミトラの大魔王こと大麻社長にお願いして取ってもらった。インドに行くのは勿論、海外も飛行機も初めてである。今のようにYouTubeSNSも無く、オディッシーのグルやダンサーの情報もほとんど無い。北インドのシタールやタブラ、南インドのバラタナティヤムなら若干の情報はあったが、東インドのオリッサの踊りの情報など蜃気楼のような心許ないものであった。オディッシーをインドで習ったことがあるバラタの先輩達からは一様に、オディッシーに焦点を合わせて習いたければ本場のオリッサに行った方が良いと言われた。が、どこで誰に習えるかなんかはわからないので、取り敢えずは行ってみたらわかるだろうというのが周りのインド関係者の意見であった。具体的なグルの名前やスクールの情報もほとんどなかったので、その意見に従うことにした。いまだにころころ変わるVISAの種類であるが、当時は30日以内のVISAが入国時に無料でもらえるサービスがあったので、それでとにかく現地に行ってリサーチの旅に出ることにした。 

京都在住だったので、大阪からの出発となった。当時はまだ関西国際空港はなかったので、大阪の伊丹空港からの出発となった。現在ではLCCなどを利用すれば、インドの様々な都市に飛行機で行くことができるが、当時はマイナーな都市ブバネシュワールにはカルカッタ(コルカタ)まで行って、Indian Airlinesに乗り換えるか、ハウラー駅から夜行列車で入るのが1番の近道だった。カルカッタまでの直通航空便は無かったと思うので、いろんな航空会社が乗り入れているタイのバンコクで何日もトランジット待ちをして、そこからカルカッタに入った。 

⚫旅の途中~バンコクにて 

インドどころか、海外も飛行機も初めての体験である。出発前は、ワクワクよりも不安の方が勝っていたと思う。下調べだけは入念に行なっていたので、バンコクでは現地の方と結婚して住んでいらっしゃるある日本人女性のお名前と住所を教えていただいていた。といっても、手紙や電話で連絡もしてないし、突撃のようなものである。どこをどうやって探したのかはよく覚えていないが、とにかくそのバンコク在住の女性の家を探し出し、事情を話すと、快く泊まらせていただけた。お家はホテルをされていて、その一部屋を無料で提供していただけた。ご主人はタイ人だが、中華系とのこと。聞けば、タイ人の半数くらいが中華系の血を引いているらしい。でも言葉もタイ語だし、たまに中国語も話されるが、読み書きは殆ど出来ないとおっしゃっていた。蒸し暑いバンコクで、ひんやりした床に清潔なベッドは有り難かった。私が貸していただいたお部屋は2階にあり、朝ご飯は1階に食堂があるので、そこにいるお姐さんに頼んだら作ってくれるとのこと。前日は夕方に到着したので分からなかったが、翌日目が覚めて起きると、窓の外に見たことのない風景が飛び込んで来た。ホテルの裏には小川が流れていて、その小川を何か植物の葉っぱのようなものが覆っている。なんか、子供の頃に図鑑か何かでみたような覚えがあって、記憶を辿ると思い当たったのはオオオニバスという蓮の葉だった。よくある蓮の葉のように茎が水から上まで伸びずに、水面に張り付いた葉の周りをぐるりと取囲むように端は立ち上がり、大きなお盆のような形をしていて、人が乗れるくらい大きい。叫びたいほどの熱帯の生命感を感じて、恐ろしくもあった。つくづく遠くまで来たんだなと思った。 

80年代当時の日本はアジア1番の先進国で、お金持ちの国だと思われていた。今の状況からは想像もつかないが。実際に旅行中は日本での1~2割程度の値段で食べたり買い物が出来たりした。お金をそんなに持っていなくても、日本では出来ないようなリッチな体験を味わうことが出来た。例えば、バンコクの中央郵便局の近くにあった高級ホテルのデュシタニ・ホテル(ホテルは今もあります)にも気軽に入れたし、そこのコーヒーショップでくつろぐのは最高だった。その頃の物価は日本に比べて、その他のアジアの国が圧倒的に安かった。インドに行ったら必要なものもバンコクで買おうと思っていたので、市内は結構歩き回った。タイ語は聞き取りすることも出来なかったが、バスなんかにも乗った記憶がある。バスの中から見る景色は、観光旅行をしているようだった。京都の夏を知っているからなのか、そんなに暑さを気にせずに、連日あちこち歩き回った。 

⚫初めてのタイご飯 

朝ご飯は困らなかったが、昼や晩御飯は何を食べて良いのかが分からなくて困った。まず、タイ料理というものを食べたことがなかったのと、注文の仕方が分からない。今ならタイ料理店は日本にもたくさんあるし、なんなら現地タイの屋台でさえ英語表記で値段も書いてあるが、その当時の庶民のレストランは、ガラスケースの中に鳥やら豚やら魚やらが詰め込まれていて、それを選んで、調理法を頼むというシステムだった(今でも基本的には同じ)。けれどほぼ100%タイ文字表記で、値段も分からないし、調理法なんてもっと分からない。日本人の奥さんに市場に連れて行ってもらって近所を歩いた時に教えてもらった「センミーという麺が唯一私が注文できる食べ物で、約1週間の滞在の間に何度食べたことか分からない。センミー・ラグナーは、米の麺に牛肉団子が入っていて、あっさりしたスープの麺料理である。でも、その頃の私は、いわゆる「パクチー」に慣れていなかったので、大量に入ったパクチーにはげんなりしたものだった。今ならきっと美味しいと思うし、また味わってみたいと思う。 

⚫カルチャーショック 

ある時、昼間のバンコク一人ツアーからの帰り、あまりにも疲れてしまったのでタクシーに乗った。お世話になっているご夫婦からは、道が分からなくなったりしたら、タクシーの運転手さんに「ヤワラー(だったと思う)、ホテル〇〇~これは数字~と言えば、みんな知ってるから連れて来てくれるよ」と言われていたので、運転手さんには、そのように伝えた。すると運転手さんは何故か少し沈黙して、「そんな所にどうして泊まっているの?そこがどういう所か知ってるの?」と言った。知り合いに紹介してもらって泊まっていると言うと、怪訝そうに、そのナンバーが振り分けられたホテル群は、いわゆる女性を呼んで売春を行う「特別な宿」ということだった。もちろん当時はそれは違法では無く、国から認められて営業しているホテルである。これは、ちょっとしたカルチャーショックだった。私が生まれる頃までは日本にも「赤線」というところがあったのを親から聞いていたが、持っていたイメージは暗いものだった。でも、ここバンコクの宿にはそんなジメジメした雰囲気はなく、あっけらかんとしていた。1階は小さな食堂になっていたので、誰かしらお姐さんが常駐していたが、化粧っ気もなく、Tシャツに腰巻きをつけた姿で極めてナチュラルだった。今から思うと、彼女たちは田舎から都会のバンコクに出て来た、事情のある貧しい家の出身の女性だったのであろうと思われる。世界で一番古い商売か、なるほどと思った。その少し前に見た、タイを舞台にした映画「エマニエル夫人」は、欧米人のアジア人に対する偏見と蔑視を感じたが、後々聞いたタイの恋愛事情から、日本のように暗いイメージは元々希薄なのではと思った。 

⚫インドへ

そんなこんなしている間にタイでの日々はあっという間にすぎ、いよいよインドに飛び立つ日が来た。朝早いので、ホテルのオーナーさんのお友達が空港まで車で送ってくれることになった。余裕をもってホテルを発ち、お友達のドライバーさんのお家まで行き、とても美味しいご飯をご馳走になり(初めて美味しいと感じたタイご飯)、空港まで送ってもらった。 

ここからやっと、インドへの旅は始まった。 

<続く> 

 

サキーナ彩子 

京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。 

帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。 

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2025年6月3日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑲/河野亮仙

第19回 天竺ブギウギ・ライト
東洋への憧れ、そしてやって来たのは 

ウプネカット
ムガル帝国第5代シャージャーハーンの長男ダーラー・シュコーは、帝位継承に破れる。弟のアウラングゼーブに処刑される2年前のこと、伝統バラモン学者パンディットや世を捨てた修行者サムニャーシンの力を借りて、ウパニシャッドのペルシャ語訳『大いなる秘密』を1657年に完成させた。

奥義書ともいわれるように、師から弟子へと伝えられる秘伝であるが、『大いなる秘密』にはウパニシャッドの解釈学ヴェーダンタの思想が紛れ込んでいたようだ。

フランス人のインド学者アンクティル・デュペロンによって、ラテン語に移されたのが『ウプネカット』(1801-1802)である。それを読んだショーペンハウアー(1788-1860)は、仏教やヴェーダンタ哲学を取り入れ自分の哲学を構築した。それはまたニーチェ(1844-1900)の『ツァラトストラはかく語りき』(1883-1885)に影響を与える。インド哲学と西洋哲学の邂逅であった。

インドの芸術への関心からインド舞踊に
詩聖カーリダーサの『シャクンタラー姫』は、1789年ウィリアム・ジョーンズによって英訳され、各国で重訳される。それを絶賛したのがゲーテ(1749-1832)で『ファウスト』の序に影響を与えたという。

仏教学者でパーリ語聖典協会を設立したリス・デイヴィッズは、裁判官として、1866年、イギリス領セイロンに赴任したが、上司の方針と合わず帰国。1877年に『仏教/ゴウタマ・ブッダの教えと生涯の素描』を著した。

その影響を受けてエドゥウィン・アーノルドは、仏陀の生涯を描いた長編の詩『アジアの光』を1879年に発表し、ベストセラーとなった。

アーノルドは、1856年、プーナのサンスクリット・カレッジ(後のデカン・カレッジ)に招かれ、5年間、校長を務めた。『バガヴァッドギーター』『ギータゴーヴィンダ』も翻訳している。1889年に来日し、再来日した1892年には愛宕の青松寺で講演し、日本の仏教会とも関係が深かった。

ロマン・ロラン(1866-1944)は『ラーマクリシュナ伝』『ヴィヴェーカーナンダ伝』『マハトマ・ガンジー伝』を著している。インドの文化・芸術を賛美していた。ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、釈尊伝『シッダ-ルタ』(1922)を著した。

西洋ではこのようにインド文化への関心が深まり、オリエンタル風味のバレエでは飽き足らなくなっていた。そこへ1920年代、颯爽と登場したのがウダエ・シャンカルである。まさに動くインド彫刻、踊る仏像だった。「インド人によるインド舞踊」に注目が集まる。

オリエンタル・ダンスからインド舞踊に
オリエンタル・ダンスについては以前にも書いた。先頃、三菱一号館美術館にて『異端の奇才ビアズリー展』が開催されていた。ビアズリー(1872-1898)はオスカー・ワイルド作『サロメ』に衝撃的な挿絵を描いたことで知られる。そこには日本趣味、中国趣味も見られた。

1900年、ロイ・フラーは第5回パリ万博で、自分の劇場を構えていた。そこに川上音二郎一座が出演し、貞奴が大変な評判を取ったことはよく知られている。

ロイ・フラーは電飾を施したスカートを翻し、棒を付けたスカートをバタバタさせて踊り、パリ中の芸術家たちの創造意欲を掻き立てた。時はアール・ヌーボー。そこで「サロメ」を上演し、それに刺激を受けて、ジョルジュ・ドゥ・フールやロートレックは舞姫サロメの絵を描いた。

ロイ・フラーに続いてモード・アランは1906年、ウィーンで「サロメの幻影」を初演した。イダ・ルービンシュタインは1908年にミハイル・フォーキン振り付けで「七つのヴェールの踊り」を披露している。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/ 

前述のように、ウダエ・シャンカルはラヴィ・シャンカルの生まれた1920年、父と共にロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタイン(1872-1945)は、1920年から1935年まで学長を務め、1931年にはナイトの称号を得たセレブである。タゴールはローゼンシュタインに『ギータンジャリ』を捧げている。 https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3&c=AND 

ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの前身である、サウス・ケンジントン・デザイン・スクールを卒業して23歳でインドに渡ったのが、美術史家、建築史家のアーネスト・ビンフィールド・ハーヴェル(1861-1934)。1884年、マドラス美術学校の校長となる。

日本では、お雇い外国人で建築学のジョサイヤ・コンドルが1877年(明治10年)に25歳で来日し、工部大学校(後の東京大学工学部)において建築教育を始める。フェノロサは、その翌年、政治学、理財学(経済学)を教えるために招かれ25歳で来日。インドも日本も同じ時代の波に乗っている。

インドではマドラス管区、カルカッタ管区、ラホール管区のそれぞれに美術学校が造られて、ハーヴェルは1896年、首都カルカッタの美術学校の校長となる。

ラホールではジョン・ロックウッド・キプリングが美術学校の校長になる。彼の息子が、1907年にノーベル文学賞を得た、「ジャングル・ブック」「キム」で知られるラディヤード・キプリング(1865-1936)。ショーン・コネリー主演の映画『王になろうとした男』の原作もラディヤードである。キプリングの作品には19世紀インドの香りがあって、とても面白い。

インド美術の理想
ハーヴェルは西洋の美術を教えるというより、インド美術の素晴らしさを讃えた。西洋で、ガンダーラの彫刻やインドの建築はギリシア・ローマの影響を受けて派生したものと見られていたが、その独自性、高い精神性を認めた。

ラビンドラナート・タゴールとも親しくし、岡倉天心と志を同じくした。ハーヴェルと天心が共に熱く語り合うことはあったのだろうか。彼の著書『インド美術の理想』(1911年)というタイトルは、まさに岡倉の『東洋の理想』の影響を受けたようだ。カルカッタ博物館の館長を務めたときには、出来のよくない西洋画を引っ込めてインドの美術作品の展示に切り替えたという。

日本は日本で文明開化、西洋化一辺倒の時代に、伝統的な日本美術、日本文化の価値を認めて、天心は復興運動、リバイバルを志した。

それに先立つ1873年(明治6年)のウィーン万博や1876年(明治9年)のフィラデルフィア万博では、日本の美術工芸品が高く評価されて収益をあげた。廃仏毀釈の頃、寺は壊され日本の工芸品、古美術品が二束三文で外国人に売られていた。

明治9年、工部省工学寮内に工部美術学校が設立されると、画家、彫刻家、建築装飾家の3人がイタリアから招かれて11月から授業が行われた。世界に先駆けた男女共学の学校でもあり、殖産興業を発展させ西欧のような近代的都市空間を創出しようという企みだったが、明治16年に廃校となる。

明治10年には上野で内国勧業博覧会が開催され、45万人の動員があった。ウィーン万博同様、ゴットフリート・ワグネル博士が顧問を務めたが、あまりに急速に油絵に移行するのが日本の美術産業にとって良いことなのかと疑問を呈し、水墨画など日本の古画の伝統を守るべきと主張した。この後、急に国粋文化の保護推奨に舵が取られる。

日本の伝統に回帰
東京大学のお雇い教師フェノロサの龍池会での1882年(明治15年)の講演が「美術眞説」というパンフレットにまとめられて全国に流布した。龍池会というのは官僚を中心に日本美術の振興を図ろうという国粋主義的な団体である。

そこで日本画が油絵より優れていることを力説し、狩野派に光を当てた。フェノロサとビゲロウ、モースの三人は東海道を旅して古美術を収集した。フェノロサは絵画2000点を集めて流派ごとに整理した。助手、通訳として同行したのが岡倉天心である。

ウィリアム・スタージス・ビゲロウはアメリカ人の医師で、その1882年に来日。いわゆるボストン・ブラーミン、血筋の良い大金持ち。フェノロサと共に三井寺法明院の桜井敬徳の元に受戒して仏教徒となる。二人の墓も法明院にある。ビゲロウは桜井阿闍梨が心配するほど熱心に修行した。収集した三万枚の浮世絵はボストン美術館に納められている。1877年(明治10年)に来日したアメリカ人の動物学者エドワード・シルベスター・モースは、大森貝塚を発見したことで知られる。

天心は明治13年、17歳で東大を卒業し、文部省音楽取締係、伊沢修二の元に配されるも、西洋中心の伊沢とはそりが合わず、明治15年には専門学務局に転じて美術制作を担うようになる。明治20年、東京美術学校と東京音楽学校の設置が告示される。後に東京芸術大学に発展するが、美術部門は日本画のみの専攻となった。

天心の最初の著作である『東洋の理想』は1903年(明治36年)にジョン・マリー社から出版されている。ハーヴェルは、1902年4月から著作のため一年ほどロンドンに戻っている。1908年に最初の著書『インドの彫刻と絵画』を出したが、主著である七部作はすべてジョン・マリー社から出版されている。
http://www.kamit.jp/15_kosho/26_tenshin/xeast_04.htm

ロンドンでハーヴェルは、10歳年下であるウダエの師ローゼンシュタインにインド芸術の素晴らしさを吹き込んだのだろうか。

欧化政策と演劇改良運動
明治4年、岩倉具視を全権大使として木戸孝允、伊藤博文、大久保利通らと共に、不平等条約解消のためアメリカに渡るがうまくいかない。そして、ロンドン、マルセイユへと。留守にした日本では西郷隆盛が征韓論を唱えるので、それを押さえるために明治6年、岩倉は呼び戻される。その頃、自由民権運動が盛んとなり、国会開設、憲法制定、不平等条約改正が求められ、壮士の演説会が行われた。

岩倉一行は、夜毎のようにオペラハウスで観劇をした。岩倉はそこで王侯貴族が正装して観劇しているのを見て、日本においてもこのようにあるべしと思った。お公家さんや大名、武士が嗜んできたのは格式が高い能楽なので、明治9年4月4日に天覧能を企画し実行した。

それはそれで成功したのかもしれないが、庶民の世界で演劇といえば歌舞伎である。新聞ネタの現代劇も歌舞伎の様式で行われていた。明治10年の西南戦争も、官軍は洋式だが西郷軍は和服に胴丸や小手、すね当てという江戸時代そのままの姿なので、翌年には歌舞伎として上演された。

明治5年、東京府長から歌舞伎の三座に対してお触れを出した。開国によって外国人(当時は偉い人しか来日しない)も増えていることだから、より上品かつ親子で楽しめるものを上演すべきだ。教育上、史実と異なるものは好ましくないと。

明治9年1月、中村宗十郎は演劇改良、興業改革の意見を発表した。欧化政策が採られると、歌舞伎のように史実に基づかない、荒唐無稽な話を上演するのはけしからん、欧米で演劇は紳士淑女の嗜みであるから、倣うべきだと改良運動が起こる。

鹿鳴館時代
井上馨の進める欧化政策が開始される。猟奇的、下品なものを廃して模範的な高尚なものを創り、作家や役者の地位を高め、小屋がけではなく西洋式の立派な劇場を建て、そこを社交場としようと考えた。まず、上流階級から西洋の真似をしようとした。

ある意味、隠微な江戸文化を薩長土肥の田舎侍が嫌って、西洋を範としようと考えたのだった。

明治16年になると鹿鳴館が創立され、夜会や仮面舞踊会が繰り広げられた。19年に演劇改良会が末松謙澄によって設立され、井上馨、伊藤博文、大熊重信、西園寺公望、渋谷栄一、森有礼らの有力者が名を連ねるが、演劇界からは一人も入っていない。上からの改革はうまくいかない。

明治20年(1887年)に外相だった井上馨邸で初めての「天覧歌舞伎」が催された。一流の国には一流の芸術があってしかるべきだ、悪所の歌舞伎を世界の歌舞伎に仕立てようと志した。

演劇改良運動は、インドにおいてさげすまれていたデーヴァダーシーや遊女の踊りを芸術に仕立てようという企てに先駆けること40年。しかし、そこに歌舞伎界からは市川團十郎が参加したくらいだった。西欧化が行き過ぎて女形や花道、後見を廃止するとか、台本を文学的で高踏なものにするとか現実離れした考え方だった。結局、近代的な劇場を建設するということ以外、上からの改革は失敗に終わった。

一方、天心は演劇改革運動にも関わっていた。明治22年、坪内逍遥、森田思軒と演芸協会を設立し、その文芸委員の中には森鴎外、尾崎紅葉も名を連ねた。守田勘弥、九世團十郎、五世菊五郎も賛同した。天心はオペラの戯曲『The White Fox』を書いているので、歌舞伎の台本も構想したかもしれない。ここでもタゴールと一脈通じるところがある。

森鴎外、幸田露伴、坪内逍遥らが歌舞伎を手がけた。明治23年に東京美術学校校長となった天心は、森鴎外にデッサンの基礎である解剖学の講義を受け持たせた。

どこにいても異端児
そんなところへ忽然と現れたのが、壮士芝居の川上音二郎である。元治元年元旦、博多に生まれたガンガン男。14歳のとき家出して大阪行きの汽船に潜り込み大阪に出る。ついで東京に出ると芝増上寺に拾われて掃除と使い走りをやった。お経は習っておくと何かと役に立つ。生没年やその伝については諸説ある。

芝公園を散歩している福澤諭吉と出会う。慶應義塾の学僕、つまり、給仕・小間使いをしつつ、月謝・食費が免除され働きつつ学ぶ。おそらく英語も習ったのだろう。その後、巡査などもやったようだ。

19歳で名古屋の寄席、花笑亭で演説をしていると、20歳未満の演説は禁止ということで、中止させられる。その後も京都南座などで演説をしては逮捕される。逮捕されるたびに有名になり、客が増える。

歌舞伎の中村宗十郎に心酔していたので近づいたのだが、何故か京都新京極阪井座の中村駒之助一座に参加して役をもらう。端から見ると行き当たりばったり、でたとこ勝負の人生だ。転がり続け、転んでも転んでも、ただでは起きないというキャラクターだった。

元々、紺屋の旦那である父の専蔵は、河原崎権十郎を贔屓にしていたので、一緒に東京に出て門弟にしてもらえるよう願い出た。自由民権運動をやっていたのに巡査となるとか、歌舞伎と相容れない壮士芝居とか矛盾したことを平気でやる。

オッペケペーの音二郎一座
音二郎は、もとより歌舞伎役者になるつもりもなく、改良演劇とか、改良落語とかいっていて、歌舞伎という枠から外れている。いや、あらゆる枠から外れて当意即妙、変幻自在だった。

明治22年、26歳でオッペケペー節を始める。「オッペケペー、オッペケペー、オッペケペッポー、ペッポッポー」と唱えつつ節を付けて演説する。一時期、日本中で流行った。演劇の範疇を超え、後から考えると音二郎は「現代劇」の創始者となって演劇界に大きな影響を与えた。

そして、明治26年1月、興業をすっぽかしてフランスに高飛びする。第一回の外遊では一ヶ月ほど滞在してフランスの演劇を学んだ。

どういう伝手かというと、おそらく伊藤博文の縁だろう。芳町(今の人形町)の芸者奴を水揚げし、妾とする。西園寺公望とも懇ろだったようだ。後に音二郎は奴を妻とし、本名が貞だったので貞奴という名の女優にする。抜群の器量の女性だったのだろう。貞奴は、押し出しの強いグラマラスな美女ではなく、しなやかでしっとりした別の美の基準、引きの美学を示した。また、音二郎は男前ではないものの愛嬌があって、もてたようだ。

当時の日本で女優は希で、日本初の女優ともいわれる。1900年(明治33年)、マダム貞奴はパリ万博で、日本のサラ・ベルナール(アルフォンス・ミュシャのモデル)と絶賛されたが、それを聞いたベルナールは不満で、貞奴をこきおろした。それは靴と雪駄を比べるようなもので、土俵が違う。

アンドレ・ジイド、イサドラ・ダンカン、ピカソらが貞奴の姿を見るため劇場に足を運び、ロダンは彫刻のモデルになってくれと頼んだが、ロダンって誰?という感覚だった。ピカソが貞奴をモデルにしたデッサン、ロイ・フラーの電気仕掛けの映像も以下に取り上げられている。貴重映像だ。ロイ・フラーもベルナールも歴史に残る文化人と交流したセレブだった。今年の大阪・関西万博からも新たな伝説が生まれるだろうか。
https://ameblo.jp/pheme-japan/entry-12124022343.html
 

参考文献
井上理恵『川上音二郎と貞奴』社会評論社、2015年。
岡倉登志『岡倉天心の旅路』新典社、2022年。
新関公子『東京美術学校物語』岩波新書、2025年。
外川昌彦『岡倉天心とインド』慶應義塾大学出版会、2023年。
山口靜一『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』宮帯出版社、2012年。
渡辺保『明治演劇史』講談社、2012年。 

 

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

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2025年4月22日火曜日

華麗なるインド⑧

第8回:「ニルヴァーナ ニューヨーク」(NIRVANA New York)―絶品のローガン・ジョーシュが食べられる

 

美術館の帰りにふらっと立ち寄った店で、まさか絶品のローガン・ジョーシュが食べられるとは思っていなかった。スパイシーなマトン料理で、カシュミール料理を代表する一品だ。これについてはあとでたっぷり語ることにして、まずはこのレストランを紹介しよう。東京ミッドタウン六本木にあるニルヴァーナ・ニューヨークというインド料理店。ニルヴァーナはサンスクリット語で涅槃を意味し、解脱することを炎が風でふっと吹き消される様子に喩えたもので、たいへん厳かな意味なのだが、普通は死を連想させるので料理店などの名前には用いない。

 

しかし、ニューヨークという言葉が付くと、ニュアンスがまったく異なってくる。アメリカではビートニクの詩人アレン・ギンズバーグが60年代のインドで火葬を手伝ったりしてヒンドゥー教の息吹に触れたり、80年代から90年代にかけてロックバンドのニルヴァーナが大流行したりで、この言葉は新しいファッション感覚で受け入れられた。ニルヴァーナ・ニューヨークは1970年にダッカ出身で交換留学生として渡米した青年がマンハッタンに開いた店で、数々の賞を受賞するなど本格的なインド料理店として人気を得ていたが、建物が老朽化したため2002年に閉店し、新たに六本木に開店することになったという。

店内は外国人も多くニューヨークにいるよう。

カレー・ビュッフェの並べ方も洗練されている。

 

私が入ったのはランチビュッフェで、5種類のカレーが選べる。定番のバターチキン、ホタテなどがいっぱいのシーフードカレー、何種類かの豆を挽いたダールカレー、南インド料理のラッサムスープ、もう一品は日によってチキンカレーだったり、骨付きのマトン(ラム)であったり、鹿肉のキーマカレーだったりするようだ。今までランチに4回行ったが、こんな感じである。大皿を取って並び、それにまず小さな器を2、3のせて好きなカレーを盛る。さらにサフランライスと小ぶりなパーパルを数枚取って席に戻る。サラダの種類が多いので別の大皿に取ってきたほうがよいだろう。ナーンは焼き立てを席に持ってきてくれる。アイスチャーイなどの飲み物もデザートも種類が豊富だ。あとはお腹が一杯になるまでひたすら行き来するのみである。

 

さて、ローガン・ジョーシュだが、これはランチビュッフェとは別で、基本はディナー・メニューである。最初に訪れたときには、たまたまランチのときにも対応できるというので作ってもらえたが、2回目、3回目のときにはローガン・ジョーシュがメニューから消えていた。それで店のマネージャーさんに熱烈にリクエストしたところ、4回目のときには久し振りにスパイシーなローガン・ジョーシュを用意してもらえた。感謝である。

左が絶品のローガン・ジョーシュ。ナイフを入れるとホロホロと肉が剥がれる。

右は5種類のカレーからまずは2品選んだ器とパーパル。

 

ローガン・ジョーシュとの出会いは、二度目にカシュミール地方のスリナガルを訪れた35年くらい前のときだった。あまりの美味しさに、毎日連続で食べていた。ニンニクとショウガ、クミン、カーダモン、シナモン、ローリエなどのグレイヴィーの海に、蒸し煮されたマトンが浸っている。グレイヴィーに少し赤みがあるのは、アルカネット(牛の舌草)というハーブの花か根を乾燥させたものを使うそうである。乾燥したカシュミールの高地で食べる、酸味と甘味が混ざったまったりとした濃厚な味がたまらない。それ以来、日本でもローガン・ジョーシュを供するレストランを探しているが、非常に少ないうえに、これだという味に出会わない。けれど、この店のローガン・ジョーシュを食べていると、インドにいるような感じがしてくる。

 

4月23日に、初の姉妹店「ニルヴァーナ 東京」(Curry & Biriyani NIRVANA TOKYO) が、東京駅八重洲地下街にオープンするそうだ。ここではメニューの定食(ターリー)にローガン・ジョーシュが載っているので、本店のより小振りだが、いつでも食べられると思うと、今から楽しみである。

(宮本 久義 記:2025年4月17日)

 

 

Information:

・「ニルヴァーナ ニューヨーク」(NIRVANA New York)

〒107‐0052 東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア ガーデンテラス 1F

予約・お問い合わせ:03-5647-8305

営業時間:施設の営業時間に準ずる

ランチブッフェ営業時間:11:00~14:30(最終のご案内) クローズ 15:30

※土日祝日は2時間の時間制

料金は細かく分かれているので、HPで確認のこと

ホームページ:https://ift.tt/PopOSmn

 

・「ニルヴァーナ 東京」」(Curry &Biriyani NIRVANA TOKYO)

〒104-0025 東京都中央区八重洲2-1

八重洲地下街 南1号 カレーカルテット

予約・お問い合わせ:03-6910-8808

営業時間:11:00 ~ 21:30(L.O)

 

 

宮本久義 略歴

1950年、東京浅草生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了後、1978年より7年間バナーラス・ヒンドゥー大学大学院哲学研究科博士課程に留学。1985年、Ph.D.(哲学博士)取得。2005年~2015年、東洋大学文学部インド哲学科教授。2015年から2020年3月まで大学院客員教授。現在、国際仏教学大学院大学、東方学院において教鞭をとっている。専門分野は、インド思想史、ヒンドゥー宗教思想。主な著書に『ヒンドゥー聖地 思索の旅』(山川出版社、2003年)、『インドおもしろ不思議図鑑』(共編著、新潮社、1996年)、など。

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2025年3月30日日曜日

天竺ブギウギ・ライト⑱/河野亮仙

第18回 天竺ブギウギ・ライト
インド舞踊入門その5/マダムたちの支えたインド舞踊

まず、今回の主要な登場人物の生没年から記しておこう。インド舞踊再生のキーパーソンとなった伝説のバレリーナ、アンナ・パブロワは1881-1931。

モダンダンスの祖といわれるルース・セント・デニスは1879-1968。これについては以下参照のこと。

河野亮仙の天竺舞技宇儀⑫

ラーギニー・デーヴィーは1893年、ミシガン州に生まれたアメリカ人で夫はバララーム・バージパイ。1982没。アメリカでインド舞踊家と自称するも習ったことはなく、1930年初めてインドに旅発ち、デーヴァダーシーのガウリ・アンマに師事する。また、ケーララ・カラーマンダラムに入門して、カタカリを習う初めての女性となる。そこにはグル・ゴーピナートも学んでいたので、後にダンス・パートナーとし、二人で1933年から1936年にかけてインド中をツアーする。

バーラサラスヴァティーの再デビューに関わる話はこちら。

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

ラ・メリは1899-1988。マダム・メーナカーは同い年だが惜しくも早世した。1899-1947。

ウダエ・シャンカルは1900-1977。弟のラヴィ・シャンカルは1920-2012。長生きも芸のうち。グル・ゴーピナートは1908-1987。ラーム・ゴーパルは1912-2003。

マダム・メーナカー
メーナカーというのは、マハーバーラタの物語に登場する天女アプサラスの名前で、ヴィシュヴァーミトラ仙を誘惑し、二人の間に生まれたのがシャクンタラー姫。ドゥフシャンタ王はシャクンタラーを娶る。その子がバラタでバラタ族の祖とされる。

メーナカーを芸名にした女優もいるが、ここでは伝説的カタック・ダンサーの話。

マダム・メーナカーは1899年、イギリスに留学した法廷弁護士の父の元、現在のバングラデシュで生まれたバラモン。母親はイギリス人とされる。独立前のインドに重婚罪はなく、富裕で地位のある人には現地妻もいたようだ。ウダエ・シャンカルより一つ年上でよく似た生い立ちだ。もともとはイギリスでバイオリンを習っていた。

1927年にアンナ・パブロワと出会ってインド舞踊の道に進むことを勧められた。どこかで聞いたような話だ。マハーラージ一族やシーターラーム・プラサードにカタックを学ぶ。

1928年にボンベイでリサイタルを行い、1930年にはパリに進出。1935年から1938年にかけてヨーロッパ・ツアーを行う。1936年のベルリン・オリンピックに際して催されたベルリン・ダンス・オリンピアードにも参加して一等賞を獲得する。カタックにグループ・ダンスを組み入れてショーアップされた舞台芸術に仕上げたのは彼女の功績ではないか。

1941年、ボンベイ近郊にヌリティヤーラームを開設し、カタック、マニプリー、カタカリを教習した。そこに参加したダマヤンティー・ジョーシは養女となる。メーナカーは難病のため1947年に47歳で夭折した。インド独立の3ヶ月前のことだった。

The Indian Ballett Menaka in Europe 1936–38

オリエンタル・ダンサーと呼ばれるルース・デニスは、1906年に「ラーダー」を上演している。「サロメ」は1909年だ。世界ツアーをして1925年から翌年に掛けて日本、中国、インドに渡った。

日本では松本幸四郎に「紅葉狩」を習い、レパートリーに入れる。中国では梅蘭芳と会い、『覇王別姫(英語版)』を基にした作品を作った。インドでは、インドに取材した作品を上演して熱狂的に受け入れられた。ウィーンでは「ナウチ」と「ヨーギー」をソロで踊る。YouTubeを見ると、大衆的な百年以上前のストリート・ダンサーの模様が分かって興味深い。


ツアーでインドにやって来たデニ・ショーン舞踊団は、遊女のバチュワー・ジャーンのカタックを紹介してもらって見学している。

タゴールはデニ・ショーンのショーアップされたモダンなステージに感激し、学園に来て指導してもらいたいと思うほどだったが、世界ツアーで稼いでいるのに無理な話だった。その代わりにマダム・メーナカーのダンス・パートナーであった、ジャイプル・ガラナのパンディット・ガウリシャンカルを招いてカタックを指導するように頼んだ。

なお、ルース・デニスは1940年に、ラ・メリと共にスクール・オブ・ナティヤという民族舞踊の学校を開設した。

こうした異国情緒のバレエやオリエンタル・ダンスの潮流に乗って、インド舞踊という概念を作ったのはウダエ・シャンカルではないのか。もっとも、その頃はウダエもラーム・ゴーパルもインド・バレエと称されていた。メーナカー・バレエという呼称もあった。ラーム・ゴーパルの顔、ここではマイケル・ジャクソンに似ていないか。

また、先駆者の一人にグル・ゴーピナートがいる。1908年生でケーララの母系制大家族ペルマヌール・タラヴァードの出身。この家系からは多くのカタカリ役者を輩出している。ケーララ・カラーマンダラムの第一期生であるが、特筆すべきはマニ・マーダヴァ・チャーキヤールにラサ・アビナヤ、ナヴァ・ラサを習ったことだ。

アメリカ人インド舞踊家のラーギニー・デーヴィーのダンス・パートナーとなって海外でもツアーをする。彼のおかげでカタカリ舞踊劇がインドのみならず世界中に知られるようになった。ラーギニーについてはこちらにも書いた。

天竺ブギウギ・ライト⑩/河野亮仙

1932年、ボンベイでデビューし、映画でも活躍するが、1987年、舞台で上演中に亡くなる。ケーララ・カラーマンダラムのモーヒニーアーッタム・コース第一期生のムラッカル・タンカマン・ピッライと結婚しダンス・パートナーとする。

ウダエは1920年、父に付いてロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ優秀な画学生だった。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタインは高名なバレリーナ、アンナ・パブロワの友人でもあった。また彼の家にはラビンドラナート・タゴールが滞在したこともあり、その甥の画家・詩人のアバニーンドラナート・タゴールとも交流があり、インドの芸術文化の優秀さを喧伝した。ウダエにブリティッシュ・ミュージアムに行ってアジャンタやエローラの壁画を学ぶように指導していた。

末弟ラヴィ・シャンカルが生まれて間もない頃、ウダエはロンドンに移住した。アンナ・パブロワは「ラーダーとクリシュナ」を上演するためダンス・パートナーを探していた。ウダエの父が主催した、第一次世界大戦に参加したインド兵のためのチャリティ・コンサートでウダエとアンナは出会う。そこには英王ジョージ5世も臨席していたようなので、彼らは文化的なハイソサエティに仲間入りしていた。それは1923年のこと。

父、シャーム・シャンカル・チョードリは現在のバングラデシュで生まれたバラモン。カルカッタ大学とオックスフォードで学んだ法廷弁護士である。バナーラスでサンスクリットと哲学を学ぶほか、音楽を愛好して古いドゥルパダの歌を習い、伝統的なヴェーダの朗唱も学ぶ。ラージャスターンにあるジャラーワルの藩王に首相格で仕えた大臣であり、また、何冊もインド哲学や仏教の本を著した文人でもある。

母は大地主の娘で、ジャラーワルにいたときは王妃と親しくした。母も音楽愛好家で、家には蓄音機やレコード、いくつもの楽器があり、音楽にあふれていた。

ところが、父が大臣を辞めると、突然、長兄ウダエを連れて二番目の妻となるミス・モレルと共にロンドンに渡ってしまう。バナーラスの家には4人の弟が残され、職についていない母は、后から頂戴した金銀や宝石を売って生計を立てていた。

ノラ・ジョーンズの母スー・ジョーンズは、ノラが4歳になるまでラヴィ・シャンカルと一緒に暮らしていたそうだが、その後8年間会わなかった。ノラは一人でレコードを聴いていたそうだが、母は苦労したことだろう。シタール奏者として売れっ子のアヌーシュカは、ラヴィとシュンカヤとの間にできた子。血は争えない。

インド・バレエ
ウダエ・シャンカルは子どもの頃、小作人に踊りのうまい男がいて一緒に遊んだようだが、それは古典舞踊と呼ばれるようなものではないだろう。今でいうバングラの元のような踊りだろうか。

ジャラーワルの宮廷にはクキ・バーイーがやって来て踊ったというが、これはカタックに違いない。王宮にはインド各地から高名な舞姫が集まって様々な踊りを王の前で披露したと思われるが、ウダエが習ったことはない。

父はロンドンに渡ってから法律の仕事をしながら文化活動を行い、インドの音楽や舞踊、演劇を制作していた。ウダエは音楽や振り付け、美術のアイデアを出して協力した。その舞台でウダエが「剣の舞い」を踊っているところをアンナ・パブロワが認めた。

一方、ラヴィ・シャンカルの自伝では「ウダイの舞踊家としてのキャリアは、1924年に父がロンドンで上演した音楽番組で始まったのだった。これが西洋で最初に上演されたインド・バレエだと思う」と述懐しているが、おそらくこれこそ「剣の舞い」を披露したチャリティ・コンサートで、1923年のことと思われる。聴き語りでは前後関係の記憶が曖昧なまま話すことがある。

バレエ・リュス
バレエ・リュスのリュスとはロシアという意味なので、ロシア・バレエ団のことである。20世紀初頭に天才興行師セルゲイ・ディアギレフが立ち上げて、パリを中心に活動した伝説的な団体である。彼のおかげで、廃れかけていたフランスの一民族舞踊ともいうべきバレエが世界的な総合芸術となった。

「ジゼル」とか「コッペリア」が19世紀のロマンティック・バレエであり、マリウス・プティバが振り付けた「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」、インドを舞台にした「ラ・バヤデール」がクラシック・バレエと呼ばれる。

プティバ振り付けの「ラ・バヤデール」に反発した振付師がフォーキンで、ディアギレフは彼と共に新しいバレエを試みる。それはモダンダンスのイサドラ・ダンカンの影響を受けたともいわれる。アンナ・パブロワもその影響を受けて素足で踊ったこともあるようだ。

本国ロシアを飛び出してパリに向かい、ロシアの帝室バレエから精鋭を連れ、次々と意欲的な創作バレエを制作した。伝説的なニジンスキーやアンナ・パブロワも参加していた。

20世紀初頭のパリは植民地経営のおかげで潤っていて、異民族のエキゾティックな風物への関心も高まっていた。1909年に、ロシアの季節「セゾン・リュス」として「ダッタンの踊り」でロシアの身体性を発揮する。第二回公演ではストラヴィンスキー作曲の「火の鳥」が上演された。1913年作曲のストラヴィンスキー「春の祭典」ではロシア奥地の土俗的な姿が描かれる。花のパリから見れば、ロシアは最果ての辺境である。

バレエ・リュスの音楽については、ドビュッシーほか、サティ、ラヴェル、レスピーギ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフといった錚々たる作曲家に依頼している。今の日本人からするとすべてクラシックなのだが、当時は前衛だ。

時にはシャネルが衣装を手がけ、舞台芸術についてもマティス、ルオー、ピカソ、ユトリロ、ローランサン、デ・キリコが参加してまばゆいばかりだ。ピカソなどバレエ・リュスに入り浸ってバレエ・ダンサーと結婚してしまったほどだ。

通常のバレエ団が本拠地の劇場を持つのに対して、バレエ・リュスは旅の一座だった。そのため世界中に刺激を与え、モダンダンスの発展を促進する。それはまた、世界各地の舞踊家がバレエを踊ることによって、各民族が持つ身体表現を取り入れ、バレエの表現の可能性を広げる、内容を豊かにすることにつながった。

パブロワとウダエ
アンナ・パブロワはディアギレフの元を去って独立し、旅の一座として船に乗り、欧米のみならず世界各地を巡業して回った。バレエの伝道師だ。1922年には、日本、中国、インド、マレーシア、フィリピン、エジプト。1928年にはエジプト、インド、ビルマ、マレーシア、ジャワ、南アメリカオーストラリアを巡回する。

ジャワからオーストラリアに行く船で、ルクミニー・デーヴィーはアンナ・パブロワの一行と一緒になった。それは1929年のこと。バレエの手ほどきを受けたが、あなたはインドの伝統を勉強しなさいといわれる。

ウダエはアンナ・パブロワのプロダクションで「ラーダーとクリシュナ」「インドの結婚式」の二作品しか出番が与えられなかったので、やがて独立する。そうしたヨーロッパの伝統にないエキゾティックな異文化に興味を持つという流れからインド・バレエが誕生し、インド舞踊の覚めにつながる。

ウダエはそれをハイ・ダンスとかクリエイティヴ・ダンスと呼んで、インドの古い伝統を今日的に演出しようと努力した。それまでカタックもカタカリもインド各地の民族舞踊の一つとして存在するだけで、全体を包括するインド舞踊という概念はなかった。

インド・バレエからインド舞踊に
ウダエはロンドンに戻ったが、展望が開けずお金もなく苦悶する。また、1925年パリへ行き、1926年にはフランス人の音楽家シモン・バルビエル、通称マダム・シムキーが合流する。おそらく劇伴の楽譜を作ったりして、音楽監督として貢献したのだろう。シムキーは美貌を買われてのことだと思うが、ウダエに踊りを習い新たなダンス・パートナーとなる。

1927年には、スイス人の彫刻家でインド美術を学ぶマダム・アリス・ボナーを連れて帰国する。バナーラスに戻りアリスの資金援助を得てカンパニーを結成し、インド中をツアーしてその美術を探訪した。シャンテイニケタンにおいてはタゴール翁と面会する。アリスは舞台美術や衣装、装飾品などのデザインを担当したのだろう。

二人の協力を得て「洋装のインド舞踊」が誕生したことになる。古くてひなびた田舎の踊りではなく、モダンなインド舞踊を都会のインド人は歓迎したことだろう。

何人かの援助を受け、1928年にパリで公演し成功した。それからベルリン、ウィーン、ブダペスト、ジェノヴァで公演する。しかしそれは、西洋音楽を中心に伴奏を付けた借り物だった。専任の音楽家を養成して舞踊団を作らないと満足なことはできない。

1929年に帰国してツアーをし、カタックやバラタナーティヤムなどを見て回る。陣容を整えて、1930年秋には一族郎党を引き連れパリを本拠とし、周到な準備をして翌年から8年間ツアーをした。それは世界の舞踊地図の中にインド舞踊を位置づけたことになる。シャンカル一族についてはこちらに記した。

河野亮仙の天竺舞技宇儀⑧

1935年に帰国して新メンバーを選び、その中にはアラウッディン・カーンもいて、ラヴィ・シャンカルと共にヨーロッパ・ツアーをした。

1939年、ヒマラヤ山嶺のアールモーラにウダエ・シャンカル・インディア・カルチャー・センターを開設し、本格的なインド舞踊・音楽の研究所を設立するが、ひたひたと戦争の足音が迫ってきたため、1943年に閉鎖する。

それからは唯一の自伝的映画「カルパナ」にいそしむ。2年前からYouTubeで全編を見られるようになって評価されているが、経済的には採算が合わず大変だった。1948年に公開されたが、困難なときによくこんな大作を作れたものだと思う。翌年からは資金稼ぎのため、欧米を2年間ツアーした。借金してもやるべきことはやった方がいい。

ラーム・ゴーパル
もう一人、インド舞踊の黎明期に活躍した男がいる。ビルマ出身の母とラージプート出身の法廷弁護士を父に持ち、バンガロールで生まれ育ったラーム・ゴーパルだ。

ミーナークシ・スンダラム・ピッライとムットゥクマーラン・ピッライに男性舞踊家に適したバラタナーティヤムを習い、クンジュ・クルップにカタカリを習う。また、創設間もないケーララ・カラーマンダラムに学ぶ。カタックはジャイ・ラールに習った。

1936年、オリエンタル・ダンサーのラ・メリに見いだされ、ダンス・パートナーとしてビルマ、マレーシア、シンガポール、日本を巡る。しかし、ラーム・ゴーパルが激賞されたのに嫉妬したのか、どうも、ツアーの途中でラ・メリに置いてきぼりにされたらしい。日劇ダンシング・チームを指導するが、お金もなく病気になったようだ。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり、東京でポーランドの批評家アレキサンダー・ジャンタと出会い、彼がマネージャーとしてアメリカに渡って、ハリウッドやニューヨークに連れ出す。

後にダルパナを開設するムリナリニー・サラバイは、ラーム・ゴーパルと共にミーナークシ・スンダラム・ピッライにバラタナーティヤムを習う。ダンス・パートナーを勤め、インド中をツアーした。彼はインドのニジンスキーと賞賛され、身体の左側はバラタナーティヤム、右側はカタカリ、足はカタックといわれた。

そしてルクミニーのバラタナーティヤム
「ラ・バヤデール」を端緒としてインドの宮廷を舞台にしたインド風味のバレエが始まり、そこに本場のインド人を加えたインド・バレエが成立してくる。舞踊家個人の創意に満ちた、「インドの伝統そのままではない新しいインド舞踊」が繰り広げられた。しかし、インドの伝統といっても、それは昔の誰かが創作したものなので新作と等価値だと思う。残れば古典となる。

その間にインドでは、師匠の家で学ぶグル・クラ・システム、お家流の伝承が統合されて学院で学ぶインド舞踊の体系、正調インド舞踊が確立されてくる。特定の家系にしか学ぶことの許されなかったクーリヤーッタムでさえ、世界中の人が学べるようになった。

1930年代にヨーロッパをツアーしたウダエ・シャンカル、メーナカー、ラーム・ゴーパル、グル・ゴーピナートは、アンナ・パブロワやラ・メリ、ラーギニー・デーヴィーらが、ダンス・パートナー、あるいは興業主、パトロンとして引き立てたおかげで世界に広く知られることになった。タゴールやワラトールがそれに呼応してインドの文化伝統のリバイバルを志した。

ルクミニー・デーヴィーが舞踊家としてデビューしたのも1936年。1939年には南インドをツアーして「清純バラタナーティヤム」を知らしめた。クチプリのみならず、カタカリもマニプリーもバラタナーティヤムの一つ、『ナーティヤ・シャーストラ』に基づくものと想定した。

そしてそれは精神的な修養であり、ヨーガであるとルクミニーは考えた。バラタナーティヤムの厳しい訓練のためには身も心も神に捧げるバクティが必要である。ステージを寺院、聖なる空間として舞い、聖なる時間を作り出す。自身のみならず聴衆も至高のものと合一するよう導き、至上の喜びアーナンダを得る。

自己も他も融けこんで天も地も敵味方もなく、諸々の束縛から解放され寂静涅槃の境地に至る。解脱を達成する成就法サーダナ、それがバラタナーティヤムであると考える。

バラタ仙に帰せられる「ナーティヤ・シャーストラ」のバラタやバラタ族、最近はバーラタ国を自称するインドの踊りを超えて、志すところは世界平和の祈りということになる。

河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論

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2025年2月11日火曜日

天竺ブギウギ・ライト⑰/河野亮仙

第17回 天竺ブギウギ・ライト

インド舞踊入門その4/アビナヤは猫に習え!?

 

やはり、入門講座といって始めても、わたしが書くとインド舞踊破門講座になってしまう。通説を否定しているからインド人には嫌われるだろう。

いわく、インド舞踊の歴史は3000年、バラタナーティヤムは起源前にバラタ仙が書いた『ナーティヤ・シャーストラ』に基づいています云々。これはカラークシェートラの教義のようなもので、これを守らないと破門される?

わたしのインド舞踊論の特徴は、この連載や去年出版した『万博の世紀のインド舞踊』に見るように、仏典を利用していることである。これはインド人や西洋の学者にはできない技だが、ちゃんとネタ元がいくつかある。

京都大学時代に、最もお世話になった梵語学梵文学助教授の小林信彦が、若手を集めてクシャーナ研究会というのを主催していた。評論家、オヨヨ・シリーズの小説家の小林信彦の名はペンネームで、当然、別人。

その研究会に仏教学の佐々木閑や平岡聡らの若き俊英が参加していた。40年ほど前の話だ。二人とも、今や60代で仏教学会の重鎮である。君のやることは面白いからどんどんやり給えと発表の場を設けた。

一般に、比丘の間では歌舞音曲禁止と思われているが、佐々木閑は律文献を読み解いて詳述している。NHKテレビでも般若心経などの仏教講座を担当した。

平岡聡は仏伝研究から始まって、浄土教を中心に幅広く啓蒙書を出したが、『言い訳するブッダ』(新潮新書)はゲラゲラ笑ってしまう傑作だ。あんな本を書いてみたいものだ。

クシャーナ研究会はわたしの卒業後のことであって、わたしは外野、インドに留学した。ご親切にそれからも報告書を送ってくださっていたが、それが活きている。

小林信彦「金剛界マンダラの内供養菩薩と芸能の関係」はきわめて有益であったが、お礼もいわないうちに、一昨年ご逝去された。桃山学院大学に移られてからは、小池誠を代表とするインドネシア研究のプロジェクトに参加し、「バリ島に伝わるサンスクリット文献」などの報告書もお送りくださった。「サンガが演劇にかかわっていた可能性―建前と食い違う実態―」という論文もある。

さらに、「空海のサンスクリット学習―現代に生きる神話―」では、当時の梵語に対する中国人、日本人の向かい方を考察し、司馬遼太郎のみならず仏教学者までもが支持する、空海はサンスクリット文献を読んだという通説を否定している。

大学時代は『バガヴァッド・ギーター』などを読んでいただいたのだが、今振り返ると、現在のわたしのアプローチに近いので驚く。先生のおかげです。奥様の小林明美も円仁の梵語学習についての論文を送ってくださった。

思えば京都大学、大正大学でお世話になった先生のほとんどは他界された。わたしの学生時代からマスコミで活躍され、長くお世話になった松涛誠達、上村勝彦、頼富本宏も早く亡くなられ、同世代で健在なのは立川武蔵、津田真一くらいだ。大先生に敬称略で申し訳ない。

サンギータとナータカ

『バガヴァッド・ギーター』のバガヴァッドは尊者、ギーターは歌、サンギータは一緒に唄うという意味だが、器楽も踊りも根本は歌で、サンギータの中に入る。ナータカが演劇なので、インドの公的な芸能研究所はサンギート・ナータク・アカデミーという。ヒンディー語では語末の母音が短い。

ナーティヤは演劇。演劇形態は美術も含めるので文芸の中で最高とされ、神に捧げる祭儀、総合芸術であるという。ヌリッタは意味がない純粋舞踊と訳す人がいるが、ストーリー性のない単なる動作からなる踊りのこと。

古典サンスクリット語劇においては、劇場や舞台の造りは簡素で書き割りもなく、大道具も発達していない。その分、演劇的表現として、手振りでいろいろ示す必要があったのだろう。サンスクリット語の劇といっても、言葉より身振りや顔の表情を楽しんでいた。たいていは叙事詩から取材しているので、話の粗筋はみんな知っている。単なる抽象的、あるいは情緒的な踊りならハスタ・ムドラーはあまり必要がない。

元々は座長が中心になって、その都度、小屋を組んだとも考えられ、座長を意味するスートラダーラは糸を持つ者という意味で、糸を使って測量し地割りした指物師、棟梁との説もある。

ナーティヤ・シャーストラ

スートラはお経というか、本来は簡潔にまとめられた要項。シャーストラは学術文献なので、『ナーティヤ・シャーストラ』は演劇書、芸能大全。

扱う範囲は広く、演劇の起源、劇場建築、舞踊、演劇上の表現術(アビナヤ)、仕草、用いられる言語、詩文の韻律や修辞法、それに対する抑揚、節の付け方、演劇形態の種類、衣装やメイクアップ、主人公や従者の特徴、ヒロインや遊女について述べている。音楽理論、ラサの理論について語られる演劇百科。

世阿弥の『花伝書』のように秘蔵されていたのを、フリッツ・エドワード・ホールが探し出して、1865年にその内の4章を出版した。それまでほとんど誰も見ることがなかった。

アビナヤ

アビナヤは、広い意味の演技全般。手足を使った仕草を意味するアンギカ、情緒、心持ちを意味するサートヴィカ、セリフ、言葉で伝えるヴァーチカ、衣装、出で立ちを意味するアーハーリヤという4つの区分がある。

インド舞踊を見れば分かるように、ハスタ・ムドラーと呼ばれる、手によるしるし、印相、印契が極端に発達している。これは密教時代になって急速に発達した。

仏典では6世紀に漢訳された『牟梨曼陀羅呪経』に、初めて密教の手印が17種説かれている。7世紀に訳された『陀羅尼集経』には300以上の手印が表れるので、宗教儀礼で用いられる印は6世紀に発達したことが分かる。

インド舞踊でのハスタ・ムドラーの発達とどちらが先とは決しがたい。というか、わたしは密教化された寺院にもデーヴァダーシー、あるいはガニカーが出入りしていて、舞踊が行われたと考える。それが金剛界曼荼羅の八供養菩薩の中に反映され、金剛歌、金剛舞、金剛香、金剛華、金剛燈などと供養物が尊格化されて描かれる。

ただし、金剛界も胎蔵界もインドにおいて曼荼羅図は残っていない。地面の上に砂絵のように描いて、儀礼が終わると消したのだろう。お招きした神仏は本地にお帰り願わないと具合が悪い。

ラサ(rasa)とバーヴァ(bhava

ラサとは味、精髄という意味。演劇上の美的な喜びのこと。4、5世紀の大詩人カーリダーサは8種のラサを知る。『ナーティヤ・シャーストラ』においても8種であったのが、後に改変、追加されて9つ(ナヴァ)のラサとして、今日、知られる。

インド舞踊を習うとき、ナヴァ・ラサというと師匠が作った顔の真似をすることだと思っているかもしれないが、そうではない。インド人とは目の大きさだけでなく、骨格や筋肉の付き方が違う。手足が長く関節が柔らかい。インド人が踊るとき、手がヒラヒラと舞うのだが、日本人には真似できない。インド武術のカラリパヤットの表演でも足がしなっている。

アビナヤは、本来、顔真似ではなくてその感情の起こるところ、発するところを取り入れる。例えば、憤怒だったら犬や猫を観察するのだ。猫の顔になることはできないだろう。後述の108カラナにも動物の動きにヒントを得たものがある。

外界の刺激を脳が受けて全身で反応するのを観察して心身に受けとめる。アビナヤにおいては自然な動物や子どもの心持ちを学ぶべきだ。風が吹いて木の葉が揺れ、小川のせせらぎ、雷や嵐、カラスと猫のけんかなど、天然自然を心に取り込んで、それを表出する感応力を養う。気を発する。

バラタはラサとしてシュリンガーラ(恋)、ハースヤ(滑稽)、カルナ(悲)、ラウドラ(憤怒)、ヴィーラ(勇猛)、バヤーナカ(恐怖)、ビーバッツァ(嫌悪)、アドブタ(驚異)の8つを取り上げる。

ラサを味わうと心に眠っている基本的な感情が呼び起こされる。8ラサはラティ(恋情)、ハーサ(笑い)、ショーカ(悲しみ)、クローダ(怒り)、ウトサーハ(気力)、バヤ(恐れ)、ジュグプサー(嫌悪感)、ヴィスマヤ(驚き)というスターイ・バーヴァ(基本的感情)に対応する。

演劇上の表現を受けて、聴衆が作中人物の心的状況を追体験する、感応する。それによって心に残る印象のことをバーヴァと呼ぶ。

アドブタは宝くじに当たってびっくりしてというようなことではなく、超自然的なこと、神威に接して生じる身体に起こる変化である。

金剛頂経系の密教を中国にもたらした不空の『十八会指帰』には、九味としてシャーンタ・ラサ(寂静)が数え上げられているので、8世紀にはナヴァ・ラサが唱えられた。10世紀にアビナヴァグプタがタントラのラサ論を詳述する。すべての苦悩が消滅した状態がシャーンタ・ラサである。

教習課程の成立

バーラサラスヴァティーはアビナヤが素晴らしいと賞賛される。しかし、デーヴァダーシー系の踊り子は、今日習うようなナヴァ・ラサの練習はしなかったのではないかと思う。

おそらく、『ナーティヤ・シャーストラ』に近い伝統を持つクーリヤーッタムからカタカリの教習に取り入れられたのだろう。インド舞踊初期の大家は、ほとんど皆、カタカリを習っているので、教育課程に取り入れたものと思われる。複雑なハスタ・ムドラーもそうだろう。

物語を語るのには必要だが、仕草の範囲の舞踊には印契は必要ない。カタカリの語はカターが物語、カリは遊戯。昔はインド四大舞踊といわれたが、カタカリのみが物語を語る演劇である。カラークシェートラは舞踊劇を上演するためカタカリに学んで取り入れた。

それぞれの師(グル)の家(クラ)で秘伝的に教えるグルクラ・システムから、それらの技術を総合した教習システムを築いたのがインド舞踊の殿堂カラークシェートラである。

108カラナ

『ナーティヤ・シャーストラ』第4章に記述される108カラナについては以前も触れたことがある。きわめて優れた舞踊家のパドマー・スブラマニヤムが研究の先鞭を付けた。近年、その研究がちょっとした流行で、YouTubeに映像がいくつか上がっている。

それはちょっと無理だろうという中国雑伎団的なポーズがいくつかあるが、ジャータカ物語に描かれるように、最初期の演技集団はアクロバットが中心と思われる。

河野亮仙の天竺舞技宇儀⑰

カラナkaranaという語は動詞「する」の√krから来ているので、動作、所作の意味である。インド舞踊の基本ポーズとされ、似たようなポーズがないわけではないが、今日のバラタナーティヤムなどの舞踊の体系では伝承されていない。

つまり、インド舞踊の伝統は『ナーティヤ・シャーストラ』からバラタナーティヤムに直線的に継承されていない。断絶があるということだ。その代わりに、バラタナーティヤムの基礎として最初に習得する基本動作は、アダヴadavuである。

ケーララ州にモーヒニーアーッタムという踊りがあるが、モーヒニーとは魅惑的な女、アーッタムが舞い、踊りである。aは長母音のアーで、tは反舌音の動詞atu、アートゥは動く、踊る、遊ぶという意味だ。アダヴもその関連語で、それをカラナの訳語としたのではないか。アダヴの語は同じケーララ州の武術カラリパヤットでも用いられる。

インド舞踊の聖地チダンバラム

舞踊祭が行われているチダンバラムの108カラナが最もよく知られているが、今日5つの寺院に彫刻が残っている。これについては、Bindu S.Shankarが2004年、オハイオ大学に338ページの博士論文を提出し、インターネット上に上がっている。

前回も紹介したように、バローダ大学で出版されたナーティヤ・シャーストラの校訂版(これには108カラナのイラストが挿入されている)やゴーシュによる英訳という、入手しにくい基本文献までインターネットからダウンロードできるので驚きである。ゴーシュの英訳は今では評価されず再検討されている。

ビンドゥの頭が下がるくらい熱心な調査によると、古い順に、タンジャブールのラージャラージャ寺院(985-1015)、クンバコーナムのサランガパーニ寺院(12-13世紀)、チダンバラムのナタラージャー寺院(12-16世紀)、ティルヴァナマライのアルナチャレーシュヴァラ寺院(16世紀)、ヴリッダチャラムのヴリッダギリシュヴァラ寺院(16-17世紀)である。

インドネシア中部ジャワにある、サンジャヤ王家の建設したプランバナンのシヴァ祀堂チャンディ・シヴァに108カラナが描かれているのをパドマー・スブラマニヤムが発見した。一部は損失している。

これについては、アレッサンドラ・アイヤーが1990年にロンドン大学で博士号を取得し、1998年にタイで出版している。プランバナンはボロブドゥールと同時期か、やや遅れて建設されたと考えられる。

8世紀末に着工して9世紀半ばに完成、856年竣工という説も唱えられている。とすると、ラージャラージャ寺院の108カラナより150年も早く作られたことになってしまう。

実は、ボロブドゥールの仏塔にしても、密教の金剛頂経系の思想に基づいて構想されているが、これもまたインドにはない前代未聞の大建築で、本家のインドを凌いでいる。

アイヤーは108カラナの彫刻はジャワで最初に作られて、それがインドに伝わったと考えている。インドネシアにナーティヤ・シャーストラのテキストは残っていない。翻訳もない。

学者が舞踊論を説いたということもありえるが、舞踊家が大勢やって来て、俺たちがいなくなって分からなくなるといけないから、彫刻で残そうということになったのではないかというのがわたしの解釈だ。

それから100年、200年経つと、インドでも同じように寺院の壁に残しておかないと伝統がなくなると危機感を抱いたのだろう。実際に、カラナは忘れ去られ、バラタナーティヤムの基礎はアダヴとなっている。

わたしは王宮セットと呼んでいるが、インド的な宮廷を築くに当たって、儀礼を司るバラモンや仏教僧、学者、様々なジャンルの工人、職人、武術家、マッサージ師、舞踊家、占星術師、医者、薬剤師、錬金術師、料理人が大挙してジャワに移住したと考えている。6世紀以降のことか。7世紀後半にシュリーヴィジャヤ(スマトラのジャンビか)を訪れた義浄は、インドと同じように仏教を勉強できるとして修学した。

イスラームの進出により危機感を抱き、ナーランダー僧院や東インドのパーラ朝に僧侶たちは結集した。密教はヒンドゥのシヴァ派と結びつくようになる。ジャワ、バリにおいても然り。9世紀頃から仏教寺院の破壊が進んだので、北東へ、南方へとヒンドゥ教徒、主としてシヴァ派も一緒に亡命したのだろう。立体曼荼羅の構想は東インドのパーラ朝に始まるのだろうが、ジャワにおいて顕著に認められる。

立体曼荼羅とも見られるボロブドゥールは、シャイレンドラ朝の王家が建造したが、シャイレンドラ朝もシュリーヴィジャヤにしても、インドネシアの歴史はインド以上によく分かっていない。古マタラームの系譜のシンドック王は929年、首都を中部ジャワから東ジャワに移す。火山の噴火があり、そしてイスラームの支配を避けて東漸し、ヒンドゥ文化はバリ島に残る。

プランバナンには中心のシヴァ祀堂の両隣りに、ブラフマー祀堂、ヴィシュヌ祀堂が建設された。この時期にはジャワで、おそらく宮廷や貴族の間だけではないかと思われるが、ラーマーヤナの物語が知られるようになっていた。シヴァ祀堂の壁面にはラーマーヤナの浮彫が50枚の場面で構成されている。

同じ頃、9世紀後半に、ラーマーヤナの物語はジャワの古語、サンスクリット語の影響の強いカウィ語に翻訳された。マハーバーラタのカウィ語への翻訳も11世紀になされ、907年頃の碑文には、ラーマーヤナ、マハーバーラタの朗唱やワヤンが行われたことが分かる。

ただし、ここでワヤンといっても今日のような影絵芝居、ワヤン・クリではなく、紙芝居的なワヤン・ベベルの形態と思われる。その構図が彫刻に移されたわけだ。ワヤンというのは、語り部のダランが仕切る芸能のことで、仮面劇や木偶人形劇などがある。

インドからラーマーヤナ、マハーバーラタの朗唱者がやって来て、その朗々とした詠唱をジャワ語で解説するという形が最初と思われる。サンスクリット語では分からないのでカウィ語に移し替えられた。あるいは、サンスクリット語の話者がいなくなったため、その語感や韻律、抑揚を残してカウィ語で唱えた。

そして、ワヤンなどの芸能によってインドの叙事詩も民衆に親しまれるようになる。語り物というのは、調子のよい韻文が唄われて、続いてそれを話し言葉で解説する。浪曲でもそうなっている。カタカリ舞踊劇でも、まず、歌で場面を提示して、それを具体的に身振り、仕草で物語るという形になっている。

お経というのも、本来、暗記物であり、サンスクリット語やパーリ語で朗唱された後に、現地語で解説して理解を深めたのだろう。それがお説教の型になっていて、次第に講談や落語などに芸能化する。

ラーマーヤナはヒンドゥ教徒のお経だ。オリッシー・ダンサーのクンクマ・ラールは、毎朝、お勤めのように古いヒンディー語のラーマーヤナ、『ラーム・チャリト・マーナス』を唱えている。それがラーム・リーラーという芸能化したお祭りとして構成される。宗教というのは学問ではなくて、芸能を通じて民衆の胸にすとんと入る。

参考文献

肥塚隆編『東南アジア/アジア仏教美術論集』中央公論美術出版、2019年

イラストはG. H. Bhatt, “Natyashastra”, Gaekwad’s Oriental Series, University of Baroda, 1956に拠る。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論

 



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2024年12月13日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑯/河野亮仙

16回 天竺ブギウギ・ライト 

インド舞踊入門その3/インド人は神話が好き 

インド人は神話が大好きなので、何でも神話にして説明する。例えば梵字ブラーフミー文字は梵天ブラフマー神が創ったという。ブラフマー神が世界を創造したのなら梵字もその中の一つに違いない。 

シヴァ神が勇壮な踊りターンダヴァを創り、妻のパールヴァティーが優美な舞いラースヤを始めたという。しかし、それはいつの時代の話なのだろう。 

図像の上でターンダヴァを確認できるのは5世紀以降、密教時代に入ってからだ。インド芸能の聖典、バラタ仙に帰せられる『バーラティーヤ・ナーティヤ・シャーストラ』も、その頃からまとめられ、それ以前の文献にターンダヴァの語はないと思われる。これもタンドゥという仙人が始めたからターンダヴァだという出来の悪い物語に拠っている。 

バラタ仙が何者かも分からない。そういうとき、インド人はバラタのバはバーヴァ(情感)のバ、ラはラーガ(音律)のガ、タはターラ(リズム)のタと取って付けたような解釈をして満足する。 

紀元前4世紀の文法家パーニニの著述にナタという語があるので、インドの学者は『ナーティヤ・シャーストラ』の起源をそこに求めるが、この時代は演劇未満で、ナタはアクター、踊る者、大道芸人ではないか。戯曲の成立は2世紀頃の馬鳴と称されるアシュヴァゴーシャ作『シャーリプトラ・プラカラナ』からである。文芸が栄えたグプタ朝、4-5世紀の詩人カーリダーサの戯曲は『ナーティヤ・シャーストラ』の内容を踏まえているので、中核はその頃にできていたのだろう。 

インド舞踊の起源はインダス文明の通称「踊り子像」にあって、インド舞踊の歴史は3000年とインド人は古いもの自慢をする。 

また、Dance Dialectsという言い方をして、インドの舞踊というのは『ナーティヤ・シャーストラ』に記述された大本のインド舞踊から地方毎に分かれたものだと一元論で理解したがる。ラテン語、ギリシア語、サンスクリット語、ペルシア語などに分かれる前の印欧祖語があったというような考え方だ。バラタナーティヤム、クチプリ、オリッシー、カタカリの元になった「インド祖舞踊」なんてないだろう。 

およそ『マヌ法典』『実利論』や建築書に描かれるそのままの社会や村、建築物は存在しない。事実を反映していないわけではないが、理論上の産物である。 

『ナーティヤ・シャーストラ』を反映していると思われるのはケーララ州のクーリヤーッタムのみであり、彼らの用いる寺院付きの劇場クータンバラムも『ナーティヤ・シャーストラ』に説明される劇場の造りとは異なるものだ。 

バラタ仙は何者 

さて、バラタ仙とは一体何者だろうか。これについては何も証拠がないので、誰も語らない。ドゥフシャンタ王とシャクンタラー姫の間に生まれた子ではなさそうだ。ラーマ王子の弟でもない。 

マッディヤ・プラデーシュ州ブンデルカンドにはラーイーという芸能がある。パンデーを名乗るバラモンたちと、別の村に住みカーストも低いベーリニーという踊り子が組んで、激しく太鼓を叩いて繰り広げる大道芸だ。1984年に、国際交流基金と日本文化財団が主催した「大道芸の世界」に来日した踊り子の一人はアニター・バーイーと名乗った。元をたどると遊女だろう。 

ラーイーは、かつて王侯貴族をパトロンに、結婚式、誕生会などの宴会や、祈願成就のために呼ばれて上演された。ラーイーのトップグループのリーダーであるラーム・サハイ・パンデーの村で、男達はインド・レスリング、クシュティの鍛錬をしている。ガダという大きな棍棒を振り回したり、石をバーベルのように持ち上げたり、剣など様々な武器を練習し、軽々と踊ってとんぼを切る。王様の周りを飾るのは遊女とレスラーなので両者が結びつくのはうなずける。 

バラタと称されたのは、このようなアクロバットや形態模写を得意とするようなチカラビトに、文学的才能を持つインテリのバラモンが合流した演劇集団だったのではないか。 

能楽の始まりも散楽、いわば雑伎団である。宮廷に召し上げられる前は路上で稼ぐほかない。 

チャーキヤールとナーヤルの婚姻関 

また、古典サンスクリット語劇を伝承するカーストのチャーキヤールについては次のように説明する。一般に上位カーストの男と下位カーストの女との関係は認められてアヌ・ローマという。逆はプラティ・ローマといって忌避される。 

ケーララ州にはナンブーディリという、カシミールから移住してきたともいわれるバラモンのカーストがあり、一方、ケーララの有力カーストは地主階層のナーヤルである。移住する場合は男の方が多い。 

ナーヤルの女は成熟する前にターリという黄金の飾りを首に巻く儀式を行う。仮の夫が同席する結婚式である。成熟してからは他の男性と継続的な関係を持つことができる。この関係はサンバンダムという正式な結婚で、相手の男は自分より下位のカーストではいけない。男は生まれた子の養育の義務はなく、ターラワドに住む叔父などが父親代わりになる。 

通い婚なので何人かの男の中でふさわしい男が産婆に贈り物をして自分の子として認知する。名乗り出る男がいない場合は、ふさわしくない男、つまり下位カーストの男との間に生まれたとされて母と子は大家族から追放される。 

ナンブーディリは父系制で、かつては長子のみがナンブーディリどうしで結婚し、他の男子はナーヤルと結婚したという。ナーヤルは母系制で、その土地は母系の親族集団であるターラワドが所有する。そこに源氏物語の時代のように男は通い婚をする。ナーヤルの女との間に子供が出来たら、その子はナーヤルの家族の中で育てられる。 

逆に、ナンブーディリの女がナーヤルの子を身籠もったと疑われたら、さあどうしようと裁判に掛けられる。潔白ならそれでよし、密通と認定されたら女は子と共にカーストから追放される。白黒が付けばよいが、破門が決まる前にどちらとも身分の決しがたい子が生まれてしまったらどうなる。 

その子はチャーキヤールとなると説明される。しかし、それではなり手があまりに少ないのではないかと思う。これも新しく創られた神話である。神話とはギリシア語でミュトス、作り話のことである。 

サンスクリット語劇の継承者 

チャーキヤールはバラモン格であり、サンスクリット語劇を伝承するということは、単にセリフを丸暗記して演技するのではない。サンスクリット語はもちろんのこと伝統的なバラモン教学と教養を身につけるということだ。 

1981年、バナーラス・ヒンドゥー大学に留学中のとき、大学で国際サンスクリット学会が開かれた。マニ・マーダヴァ・チャーキヤールがやって来て演技のデモンストレーションを行った。学会に集まったバラモンの高名な学者が、五体投地をしてマニ・マーダヴァに尊敬の念を表しているのを見て感心した。大学の先生方は西洋流の文献学を身に付けている。 

チャーキヤールはケーララで生まれた、8-9世紀の学匠シャンカラ・アーチャーリヤのように、完全に伝統的な教育法で学んだ。そんな無形文化財ともいうべき巨匠がインドの最南端には存在したのかという驚きだ。マニ・マーダヴァはサンスクリット語で挨拶をした。チャーキヤールと大学の先生はサンスクリット語で会話したことだろう。チャーキヤールの名は釈迦族に由来するとの説もある。ケーララで信仰されるアイヤッパ神の姿は釈迦像から来ているともいう。 

クーリヤーッタムというサンスクリット語古典劇においては女優が登場する。男優のみで演じられるカタカリやヤクシャガーナのような地方劇と違って、自然の性で演じるというのが『ナーティヤ・シャーストラ』の規定である。 

女優ナンギヤールはナンブーディリではなくアンバラヴァーシー、寺院付きのカーストであるナンビヤールの女が勤める。ナンビヤールは打楽器で劇の伴奏を勤める。ナンブーディリの女は演技に関わらない。何故だろう。 

ナンギヤールの出自 

ナンブーディリの女は普通の人だからだ。普通の反対は何かというとプロフェッショナルである。伝統的に公衆の面前で歌舞を演じるのはプロ、コート・ダンサーかテンプル・ダンサー。 

英語でいうと上品に聞こえるが、サンスクリットで前者はラージャダーシー、後者はデーヴァダーシー。宮廷に出入りできる女はガニカー、高級娼婦で、歌と踊りのみならずサンスクリット語やバラモンの教養を身に付けている。普通の女の人が学問をすることは想定されていなかった。 

ラージャダーシーとデーヴァダーシーの境界も曖昧だと思う。王が寺院に住むこともある。デーヴァダーシーは寺院付き、神に捧げられて手当を貰い、後は自分で稼ぎなさいということになる。才覚があれば寺の高僧や金持ちをパトロンにする。 

芸能人が初めは事務所に所属して薄給で働き、売れてくると独立して個人事務所を作るのに似ているのではないか。評判を呼ぶ芸能者、セレブは寺から独立し、是非、会いたい、一目見たいと金持ちが世界中から貢ぎ物を持って寄ってくる。それがガニカーである。お釈迦様の時代からいて、出家して弟子になったりしている。彼女らはインテリであり、釈迦教団のスポンサーともなる。ヴァイシャーリーで評判のガニカーであるアームラパーリーは、自身が所有するマンゴー園を釈尊に寄進した。 

デーヴァダーシーが制度化されるのはグプタ朝の頃で、8世紀頃南インドにも伝わり、9世紀にはケーララでも行われていたようだ。寺院で儀礼として歌舞を舞い、人寄せ、資金集めに協力する。元々は良家の子女が選ばれて寺に入り、尊敬される存在だった。おそらく待遇も良く大切にされたのだろう。 

9世紀のクラシェーカラ王の娘ニーラーはシュリーランガム寺院に捧げられた。ケーララに残る最初期の刻文には、チッタライル・ナンギヤールというデーヴァダーシーがチョークル寺院に土地を寄進したことが記されている。寺院を飾るための捧げ物は香華、灯明、歌舞、歌や踊りを供する人である。 

トリチュールのワダックナータン寺院は、もともと仏教寺院であったとも伝えられる。12世紀の刻文には多数のデーヴァダーシーがいたと記される。数百人の規模だろう。その中の優れた芸妓、遊女は大土地所有者にもらわれていく。詩人は遊女を讃える詩を盛んに作りもてはやされた。こうした文芸の流行と演劇の興隆は無関係ではあるまい。 

しかし、13世紀以降デーヴァダーシーは寺に奉仕するというより、大土地所有者や金持ちにおもねる売春婦に堕落していったとシュリーダーラ・メノンは記す。 

チョーラ朝においては戦争による略奪や交易によって巨万の富を得たが、歳入が減ると雇用者の待遇も悪くなり、自活の道を探すことになる。ケーララでは1930年にデーヴァダーシーは廃止される。  

チャーキヤールとナンビヤールの関係 

ナンビヤールも打楽器のみならず演技にも関わっていたと思われる。マニ・マーダヴァ・チャーキヤールの息子はナーラーヤナン・ナンビヤールと名乗る。ナンビヤールの女は厳しい修行を積んでアランゲットラムという女優デビューをして、初めてナンギヤールを名乗れる。芸妓となれる。 

クーリヤーッタムという総合劇においては主として端に座って小シンバルを叩き、サンスクリット語の詩節を唱える。つまり、サンスクリット語の学習が必須である。やはり、ガニカーの系譜を引いているのだろうか。クッティ・ナンギヤール・アンマはサンスクリット学者であったが、ほとんど舞うことはなかったという。 

マニ・マーダヴァ・チャーキヤールは、おそらくナンギヤールと結婚したため、ナーラーヤナンはナンビヤール家の息子ということになったのではないか。父系制の家を出て母系制の家に移り住んだのである。大学の講堂でバーサ作『夢のバーサヴァダッター』を上演し、マニ・マーダヴァはウダヤナ王を、ナーラーヤナンは道化ヴィドゥーシャカを演じた。 

大昔の話だが、クンチャン・ナンビヤールは失敗をしたためクーリヤーッタム劇から追放されて、オッタン・トゥッラルという、仕草と歌も交えた一人劇を創始したという逸話がある。 

ナンビヤールのカーストは、タミルにおけるデーヴァダーシーとその伴奏者を出すイサイ・ヴェーラーラルのカーストに相当するのではないか。 

シュリーダーラ・メノンによると、北インドのアーリヤ的な文化を保つバラモンは前3世紀ケーララに来て、続いて仏教徒、ジャイナ教徒もやって来たとする。ナンブーディリは8世紀頃にはケーララへの移住をして四姓のカースト制度を確立するようになる。 

移住者は人数が少ないため、長子相続で財産が分割されないように守る。2番目からの男子は家を出る。チャーキヤールもそれに準じる集団だ。ナンビヤールもナーヤルと同じようなケーララに土着の母系集団なのだろう。とはいえチャーキヤールもナンビヤールもその境界は曖昧なように思える。 

彼らが今日も伝承する一人舞いのクートゥや総合劇であるクーリヤーッタムは、9世紀頃からマホーダヤプラムに依拠するクラシェーカラ家の庇護の元に生成、発展したとされる。演劇の伝統として雅楽に匹敵する古さで、世界文化遺産に指定されている。 

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おそらく10世紀前後に地方語の文芸が発達してくるとともに、サンスクリット語劇は衰退し、ヤクシャガーナのような歌と地方語による語りによる親しみやすい舞踊劇が次第に発展したのだろう。 

サンスクリット語劇が連綿と保持されているのはケーララだけであり、また、ヴェーダ祭式もナンブーディリによって保持されている。その伝統がどこからもたらされたものかは解明されていない。 

サンスクリット劇の伝承はどこからもたらされたか 

ブッダの伝記『仏所行讃』を美文体の詩で描いた、馬鳴ことアシュヴァゴーシャは、『シャーリプトラ・プラカラナ』という舎利弗、目連がブッダに帰依するという戯曲を残している。 

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『大荘厳論経』なども著わしているため、同一人物なのか疑われる。インドには、しばしば同名の学者がいて混乱するが、馬鳴についても6人いたなどといわれる。 

一説ではウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー(舎衛城)のサーケータ出身という。カニシカ王に乞われてガンダーラ地方のプルシャプラ(ペシャワール)に赴き参与となった。また、『阿毘曇毘婆沙論』の編集に招かれてカシミールに行ったともいわれる。 

東北インド出身の馬鳴はガンダーラとかカシミールという西北インドで創作活動を行ったのだろうか。カシミールでは仏教も盛んで4-5世紀頃には説一切有部が発展して、中国僧はカシミールを目指した。玄奘三蔵も629年頃に一年ほど滞在して仏教の基礎であるアビダルマ、倶舎論を学んだ。 

9世紀に至るとカシミール・シヴァ派が発展し、11世紀頃、アビナヴァグプタが不二一元論を展開する。彼はまた、『アビナヴァ・バーラティー』という『ナーティヤ・シャーストラ』の注釈を書く。『ナーティヤ・シャーストラ』がどこで書かれ、どこで編纂されたかは分からないが、その写本はインド各地から発見されている。 

カーリダーサの活躍したウッジャイニー(現ウッジェイン)では300年以上前の写本が、ヒマラヤ山嶺のアールモーラでは500年以上前の写本が、ネパールでもネワーリ語の書体による写本が見つかっている。トラヴァンコール藩王(ケーララ州南部)の図書館には400年以上前と思われる非常によい写本が残っている。インドは暑いので300年以上前の椰子葉の写本が残っているのは珍しい。 

それによってどこで需要があったか、音楽、舞踊、美術など芸術理論の研究のために参照されたかが分かる。非常に驚いたことに、稀覯書のバローダ大学版“Natyasastra”がインターネットに上がっている。もちろんサンスクリットのテキストだが、序文は英語である。なんとも便利な世の中になったものだ。ゴーシュによる英訳も上がっている。 

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同書の写本はケーララ州にアビナヴァグプタの注と共に多く残っている。ナンブーディリのカシミール起源説と符合する。彼らの一部が下位カーストと通婚したため、チャーキヤールとなったのだろうか。 

新しい血の導入 

バラモンやチャーキヤールの純血など保てるわけがない。守っていたら子孫が絶えてしまう。 

インド留学中の1981年、マドラス郊外にあるアディヤール・ライブラリーに半年ほど滞在した。その時の図書館長がサンスクリット学者のクンジュニ・ラージャーであった。1964年にチャーキヤールとクーリヤーッタムについての論文をサンギート・ナータク・アカデミーで発表した。それまでは、地元の人や関係者しか知らなかったサンスクリット語劇の伝統を世に知らしめた。記憶によるので正確な数字ではないが、18あったチャーキヤールの家族が5家に減ってしまったと書いてあったように思う。現在はどうなのだろう。 

ケーララ・カラーマンダラムでは、いち早く1965年にチャーキヤール以外に門戸を開放して、シヴァン・ナンブーディリが優れたクーリヤーッタムの役者となっていた。 

かつての巨匠マニ・マーダヴァ・チャーキヤールも亡くなり、その後はアマヌール・チャーキヤールが、81年よりコチュクタン・チャーキヤールとともにマールギで、82年よりアマヌール・グルクラムで指導したが2008年に亡くなられている。コチュクタンの息子でいたずら小僧のマドゥは、40年近く前から撮った写真を上げたりして可愛がっていた。2013年に栄えあるパドマシュリーを受賞して第一人者になっている。文化功労者といったところか。 

役者であり研究者でもあるG.ヴェーヌはナーヤルだが、ナータナ・カイラーリという学院を開いてクーリヤーッタム、モーヒニーアーッタムの復興に努め、外国人にも門戸を開放した。 

1997年のナマステ・インディアは、すみだリバーサイド・ホールで催されたが、その際に来日したクーリヤーッタム一座は延命寺でも公演をした。ヴェーヌと娘のカピラーは役者として出演し、奥方のニルマラーは舞台脇で小シンバルを叩いていた。血統による縛りを解いて、滅びかけていたナンギヤール・クートゥをヴェーヌたちが復興した。 

日本とも関わりが深く何回か来日し、早くから入野智江が入門して優れた役者となった。日本においてアビナヤ・ラボを開設し、岩田豊美を一人前に育てた。 

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ニルマラーはモーヒニーアーッタムの指導者、研究者であり、その元に岡埜桂子が通って立派な舞踊家になった。 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2024年11月8日金曜日

サキーナ彩子の「オリッサ滞在記」(1​​)

序章 
オディッシーインド古典舞踊をしていて、今もよくされる質問の一つに、「何故インド舞踊をしようと思ったのですか?」と言うのが、未だにある。40数年続けていて、答えに一番困る質問だ。大抵ステージ後のインタビュー時などが多いので、なるべく簡潔に答えるように最近は努力をしているが。

画学生だったのが描けなくなったから?母が早くに亡くなって生と死の事をインド哲学に求めたから?好みとして東洋的なものが好きっだったから?人がしていない事がやってみたかったから?

色々と理由を考えてみるが、やはり、一言では言い尽くせない。
敢えて言うなら、使い古された言い方だが「そこにオディッシーがあったから」

インドとの遭遇
現在「太陽の塔」が残る万博記念公園で、1970年に日本で初めての「万国博覧会」が催された。近未来の新しい技術がテーマのパヴィリオンも多かったが、自国の伝統文化を紹介しているパヴィリオンも多かった。朝早くからゲート前で並んで、開場されると一斉に沢山の人がゲートに向かって走る。ものすごく暑かったのを覚えている。今のディズニーランドやUSJ並みに並んで、数軒見るのがやっとだった。当時中学生だった私は、外国のものには元々興味があったのか、万博の影響だったのか、外国パヴィリオンでは結構ワクワクした。父は「月の石」が見たかったらしく、見れたのかどうかは覚えていないが、インドパヴィリオンには家族揃ってゾロゾロと入っていった。お揃いのサリーを着たコンパニオンさんの姿が目に飛び込んで来た。あ、本物のインド人!みんな目が大きい。そして入り口近くに置かれた、彫刻が施された柱のレプリカ。結構な高さがあって、そこにはぎっちりと、隙間が無いほどに文様が詰まっていた。印刷だったのか、彫られたレプリカなのか記憶は危ういが、それを見たとき、まず、ウッと息が詰まりそうなほど苦しかった。多分カジュラホとかの寺院彫刻だったのだろうと思うが、この暑苦しさ、絶対に私は好きではないと思った。その後NHKで製作されたTV番組の「未来への遺産」では、インドのこの表現を「空間を恐れる表現」と解説していたのに納得した。「空=0」を発見したインドのまるでジョークのようなこの対比は面白い。信心深い祖母の影響もあり、仏教的なインドやお釈迦様の話はよく知っていたが、リアルなインドとの遭遇はこれが初めてだった。

インド舞踊との出逢い
その後、高校を卒業して浪人中に母が亡くなり、急遽家事を自分がすることになり、とりあえず精華短大(現精華大学)の美術科に進学したものの、心があちこちの方向に跳び、何事にも集中できず、鬱々としていた。絵筆を持つことは勿論好きなのだが、じゃあ、何が描きたい?と自分に問うと、わからない。ちょうどその頃、横尾忠則氏がインドの様々なモチーフを題材にいろんな作品を世に出されていた。あの神様の絵が目にとまった。ああ、こう言うのをモチーフの一つにするのもいいなと思い、それからインド関係の本や写真集などをあれこれ集めた。そんなことをしている時に千本通の北の一角に、不思議なポーズを取った踊り子が描かれた看板を見つけた。それは、日本で初めてのインド舞踊専門の舞踊教室だったのである。

今はもう無くなってしまったが、京都市電に乗ると、千本北大路の電停からその看板が見えた。でも、私はまず体育は苦手だったし、小さい時から絵描きになると言う目標があったので、いや、ダンスは絶対にありえないと強く思っていた。でもそれとは裏腹に、私の好奇心の眼は、掌で覆った指のあいだから、その看板の踊り子の絵をずっと覗いていた。ちらっちらっと。それからしばらくして、ついに誘惑に負けた私は結局、その教室に通うようになっていた。そして、それがきっかけで、舞台などにも興味を持つようになり、アングラ劇団の稽古場や、舞踏というジャンルのダンスをしていた人たちとも知り合い、今まで絵の世界しか知らなかった私には、新しい世界が開けたような感覚であった。その頃のインド舞踊教室には、既存のものに飽きたあらない、まことに興味深い人たちが集まっていた。

その教室で実際にダンスを習う前の一年間くらいは、月1回あった「インド勉強会〜ガンジー学園」に顔を出していた。そして実際に習い出してから1年ほど経った頃、インドで勉強して一時帰国された方に立て続けに会う機会に巡り合った。まだまだ駆け出しであった私にも、本場インドで修行して来た方のそれが、みんなで楽しくお稽古しているのとは違うというのはすぐに分かった。そして、その時初めて、一口にインド舞踊といっても色々あることを知った。インドでもまだオディッシーが「セミ古典」くらいの位置づけだった時代なので、色々な踊り、例えばカタカリの一部を女性でも踊れるようにアレンジした「サリダンス」やラジャスターンのフォークダンスなどは、お客さまに取っては楽しい演目であったに違いない。しかしそのような経験の中で、私の興味は次第にオディッシーへと傾いて行った。

しかし、まだまだ好奇心の塊であった私は、舞踏家やアングラ演劇などの周辺もうろついて、気がつけば20代の前半が終わろうとしていた。そんなある日、父が「お前、いい加減、インド行って来い!!」と行った。え?行っていいの?お金もそんなにたまってないし、と思ったが、金は出してやると言われ、ありがたく行かせて頂くことにした。その頃には6歳下の弟も東京の伯母の家から高校に通っており、もう世話を焼く相手も居なかったからかも知れないが、あの父の一声が私をインドに送り出してくれたのには違いない。
<�続く> サキーナ彩子
京都生まれ。20歳の頃インド・オディッシーダンスに魅了され、1981年にオディッシーの故郷オリッサ・ブバネシュワールに、当時はまだマイナーだったオディッシーを目指して単身渡る。
帰国後、結婚、子育て、離婚を経験しながら、オディッシーを人生の友として、舞台活動、教室などでの生徒の育成に励む。スタジオ・マー主宰。



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