インド国会での広島・長崎への祈り、モディ首相の訪日後の中国訪問
2025年8月、戦後80年。政府としての「首相談話」は見送られた一方、石破総理は8月6日の広島平和記念式典で”過ちを繰り返さない”旨を述べ、静かな共感を呼びました。インドでも、毎年8月6日には、議会や学校、地域社会も含めて、インド国内各地で広島・長崎を悼む時間が広がります。本年もローク・サバ(インド連邦議会下院)で原爆投下の言及と黙祷が行われ、在印日本大使館がその様子を公表したとおり、オム・ビルラ連邦議会下院議長は議場において、原爆犠牲者を追悼して、「原爆投下は、世界が初めて核兵器がもたらす壊滅的な結果を目撃した出来事だった。インド連邦下院議会は、大量破壊兵器の無い世界、核兵器の廃絶、そして世界平和の構築に向けて取り組むことを誓う。インド連邦下院議会は原爆の被害を受けた日本の人々を追悼するため、黙祷を捧げる。」との発言を行い、黙とうが行われました。これは1985年以来続いています。このように、インド国内では多くの学校や市民団体が「Hiroshima Day」を催し、特に、教育現場に浸透している事例は枚挙にいとまがありません。そして、インドの方々に「日本で訪れたい場所」を聞くと、かなり多数の方々(著者の滞在時の体感で、6割程度)が東京や京都・大阪に次ぐ、3点目か4点目の地名に広島を挙げ、実際に広島を訪れるインド人観光客もとりわけ多いところです。このことは、2023年G7広島サミットでも具現化されていました。モディ首相が自ら広島平和記念公園においてマハトマ・ガンジー像の除幕式を行い、「非暴力・不服従」の理念が広島の「平和文化」と深く共鳴する瞬間でした。
そして、2025年9月、訪日に引き続いて中国を訪問していたインドのモディ首相は、訪問中に開催された中国における「抗日戦争勝利80周年」の中国人民解放軍の軍事パレードへの参列を控えました。インド政府関係者が明かしたとして日本国内にも報道されたその理由は、「インドには日本を傷つける意図はない」。こういった行為や発言の背景にある要因の一つとして、インド国内で広く流布している日本ではあまり知られていないが着実に80年前から続く日印の絆の存在を、理解することが出来ます。
今、AmazonPrimeVideo(アマゾンプライムビデオ)日本版で日本語字幕や日本語吹き替えもついて視聴できるようになったドラマ『The Forgotten Army—Azaadi Ke Liye(フォーガットン・アーミー)』(インド国内では2020年に配信)が、この歴史的絆の原点を現代に蘇らせています。
日本では、東京裁判でのパール判事の日本に対する無罪判決は広く知られている一方で、イギリス支配からの独立を目指してインド国民軍を立ち上げたモハン・シン大尉、そしてその後に指導者となったスバス・チャンドラ・ボースの具体の活動は、なお十分に知られているとは言いがたいところが実情です。このドラマ公開時には、インド国内では大々的なキャンペーンが貼られ広告も多数みられました。インド国民軍の発足と、そこへの日本の関与を描くこの作品は、どのような意識の下で制作され、現代のインド人の心をも捉えるのでしょうか。
スバス・チャンドラ・ボースの遺産
インド国中に広くある日本への理解と共感の土壌の要因として、その重要な一つには、第二次大戦中にインド国民軍が参加した「インパール作戦」の歴史的記憶が深く根を張っています。
その日印の絆の象徴的とも言える人物が、インド国民会議議長・自由インド仮政府国家主席であったスバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)です。「ネタジ(指導者)」の敬称で親しまれる彼は、わずか41歳でインド最大の政治組織であるインド国民会議の議長となり、その後、日本軍とともにインパール作戦を戦いました。現在、インド国会議事堂のメモリアル・ホールには、右にマハトマ・ガンジー、左にジャワハルラル・ネルー、そして中央上部にボースの肖像が掲げられています。デリーには、数百メートル離れた世界遺産レッド・フォートを指差して進撃を呼びかけるボースの銅像が建っています。夜にレッド・フォートの中庭で開催されるショーでは、激しい銃声や戦車の地響きとともに、日本軍に支援されたインド国民軍の活躍シーンが登場します。これは日本の戦争がインド独立に役割を果たしたという評価にもなっています。
藤原岩市日本陸軍中佐によって結成されたF機関(フレンドシップ、そしてフリーダムからその名をとっています)が、マレーやシンガポールで捕虜となったイギリス軍インド兵から志願者を募って、「インド解放」をスローガンにインド国民軍を結成しました。インド国民軍の将兵は約45,000人に達し、「白人支配からアジアを解放するための組織」とされ日本軍とともに戦ったのです。
インド解放を目指して始まったインパール作戦は、日本軍約8万6000人が投入され、帰還できたのはわずか1万2000人という壊滅的失敗であり、飢餓・マラリア・赤痢など補給破綻が主因でした。作戦の過程では、司令官である牟田口中将の強硬な前進命令に対し、現地の窮状を重く見た第31師団長・佐藤幸徳が抗命に近い撤退を実施し、すべての師団長が事実上更迭されます。2019年に日本財団により現地に建設されたインパール歴史博物館の解説も、この日本軍の敗北の背景に補給崩壊があったことを指摘します。
しかし、この敗北だけでは終わりませんでした。1945年11月、デリーのレッド・フォートでインド国民軍のシャヌワーズ、サイガル、ディロンの3士官が「反逆罪」で裁かれたレッド・フォート裁判が始まりました。ネルーを含む著名な弁護士団が弁護に立ち、「彼らは祖国独立のために戦った愛国者である」と主張しました。裁判の進行は全国的な反英世論を呼び起こし、カルカッタやボンベイでの大規模ゼネスト、さらに英印海軍の反乱にまで波及しました。最終的に被告3人は無期懲役を宣告されましたが、イギリスは民衆の怒りを恐れて釈放に追い込まれます。この裁判は、戦場で敗れた国民軍が法廷を舞台にして再び「独立の炎」を燃え上がらせた出来事であり、2年後に実現するインド独立への大きな推進力となったのです。
現地村民が語る記憶
インパール郊外のロトパチン村に残るレッド・ヒル、1944年5月に激闘の末、インパール包囲を成功させた日本軍が最後に辿り着いた場所であり、現在は「インド平和記念碑」が建ち、日印そしてイギリスの元兵士や遺族も弔いの場として訪れる地です。
1944年5月20日、第33師団(弓師団)歩兵第214連隊(宇都宮の作間連隊)第二大隊および歩兵第215連隊(高崎の笹原連隊)の一部がレッドヒル(2926高地)まで到達しましたが、連合軍の激しい反撃を受け、5月29日に撤退を余儀なくされました。作間連隊第二大隊540名のうち、生還したのはわずか37名という壮絶な戦いでした。この丘の名は文字通り、戦闘で流れた血で土が染まったことに由来しています。日本軍とイギリス軍が繰り返し攻防を重ね、一日のうちに何度も支配者が変わるような激戦地でした。
特筆すべきは、アジアで唯一ともいわれる、現地村民が自ら建てた日本兵の慰霊塔です。村民の言葉がその思いを物語っています:
「私達は日本兵がインド解放の為に戦ってくれた事をよく知っていました。私達は食糧や衣類を喜んで提供しました。ところが英軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてインド独立の為だったのです。私達は何時までもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思い慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と、独立インドのシンボルにしたいのです。その為、村民で毎年慰霊祭を挙行しています。」
現在も村民によって慰霊祭が続けられているこの慰霊塔は、まさに広島平和記念公園のガンジー像が体現する「国境を超えた平和」の精神が、80年前の激戦地においても息づいていることの証なのです。
筆者も現地を訪れましたが、現地では今も、包帯、眼鏡、慰問袋等の当時の日本兵の様子がわかる遺品が地元住民の手により大切に集められ、保存されています。地元で「日本戦争」と呼ばれるこの戦いで住民は日英両軍の爆撃や砲撃、物資徴発、対空砲弾落下等による大きな被害を受けましたが、それでも戦死者への敬意を忘れていません。日本の方向を向いて建てられた慰霊記念碑は、地元マニプール観光協会幹部とその家族による清掃、除草活動で環境が保たれています。
筆者がマニプール州チャンデル県への日本政府草の根無償資金協力「マニプール州指定部族のための中等教育段階の学校建設計画」による施設供与のため現地中学校を訪れた際、現地の校長先生はこう語ってくれました:
「私の祖父はこの村にいましたが、ちょうど今この中学校のある谷を越えて、砲弾が飛び交っていました。日本もまた苦しんでインドの独立を助けようとした戦いだということを忘れていない」
こうした体験談が世代を超えて語り継がれ、現在のインドの対日感情の基盤の一つとなっていることは、日本人がインドに対して忘れてはいけない事実でしょう。ガンジーの非暴力主義と、戦場での人間的な絆——一見矛盾するようでいて、実は同じ人間の尊厳への敬意から生まれた記憶なのかもしれない、と考えました。
アマゾンプライムドラマ「The Forgotten Army」
アマゾンプライムで日本語版も見ることが出来る『The Forgotten Army – Azaadi Ke Liye』は、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の活動を描いた5話のシリーズです。この作品は、シンガポールからデリーまで3,884kmを行軍したインド国民軍の兵士たちの真実の物語として制作されました。特に注目すべきは、作品中で描かれる日本軍とインド国民軍兵士の交流シーンです。言語や文化の壁を越えて、イギリスからのインド解放のために、時に対立しながらも理解し合い協力する様子が丁寧に描かれ、単なる軍事同盟を超えた人間的な絆の形成、現代の日印関係の礎となる要素を見て取ることができます。
シンガポールでの訓練、ビルマ戦線、そしてデリーに至るまでを描き、女性部隊「ジャンシー王妃連隊(イギリス植民地支配に抵抗したインドのジャンヌ・ダルクといわれる、国民的英雄ラクシュミー・バーイーから取った名前)」の結成も重要な軸として扱われます。インド側の情熱だけでなく、日本軍の現地での行動が結果的に及ぼした負の影響や軋轢にも目配りしつつ、言語・文化の壁を越えて形成された人間的な連帯を描く点で、単なる賛美でも断罪でもない、記憶の再構成に資する作品となっています。印象的場面について一言添えるならば、
— バガヴァッド・ギーターを引用し、クルクシェートラの物語になぞらえて、同胞との戦いをも厭わぬ覚悟を語る場面。
— ラーニー・オブ・ジャンシー連隊の発足で、「民族・信条・性別のいかんを問わず、愛国心のみが加入条件」と語られる場面。
— 現代パートにおいて、東南アジアの民主化への関与や海外での挑戦を志す若者の姿が、戦時世代と響き合う描写。
いずれも、当時の空気を現代の価値観に橋渡しする「装置」として機能していました。
チャンドラ・ボースの遺骨は現在も東京・杉並の蓮光寺に三重の箱に納められて丁重に保管されています。1945年9月18日、マッカーサー総司令部の目を盗んでの秘密の葬儀が行われました。戦後、蓮光寺には、プラサード大統領、ネルー首相、インディラー・ガンジー首相など歴代のインド首脳が訪問しており、その時の言葉も碑文として残されています。
筆者も家族で昨年2024年の慰霊祭にも参列しましたが、部屋に入りきれない多くのインド人観光客や在日インド人が訪れていました。こういった記憶の共有が、広い意味での背景として、現代の外交関係の深層にある日印の信頼関係を支えているのです。コルカタには「ネタジ・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」が存在するように、日本と協力したボースは、インドで現在も非常に高い人気を誇っています。
おわりに——記憶の共有から未来の構築へ
現在、マニプール州やナガランド州の学校教育において、インパール作戦は単なる「日本軍の敗北」としてではなく、「複雑な歴史の一部」として教えられています。教科書には、戦争の悲惨さと同時に、異なる文化的背景を持つ人々がいかに理解し合い、協力できるかという視点も含まれています。
インパール作戦から80年を経た今、この歴史的経験が現代の日印関係にもたらす示唆は多岐にわたります。困難な状況における相互理解と協力の可能性、言語や文化の違いを超えて共通の目標に向かって協力することの重要性——これらは現在の経済協力や技術移転においても活かされ、現代の企業経営や国際協力においても参考になる価値観を提供しています。
インパール作戦全体の戦死者数は、日本軍26,000名、戦病30,000名以上、連合軍死傷17,500名、戦病47,000名以上という膨大なものでした。しかし、この犠牲の上に築かれた記憶が、現代の平和な日印関係の礎となっていることに、歴史の深い意味を感じざるを得ません。
終戦80年の節目に立ち、広島への思いを共有するインドとの関係を見つめ直すとき、私たちはインパール作戦という歴史的経験の持つ意味を改めて認識する必要があります。それは単なる軍事的敗北の記録ではなく、異なる文化的背景を持つ人々が極限状況で見せた人間性の記録でもあります。
平和記念公園に立つガンジー像は、「非暴力・不服従」の理念を通じて広島の「平和文化」と共鳴しています。そして80年前の「レッド・ヒル」は今「平和の丘」として両国民が共に祈りを捧げる場となっています。ロトパチン村の村民による慰霊塔、東京・蓮光寺に眠るボースの遺骨、アマゾンプライム「The Forgotten Army」のような現代への継承、そして現代外交における影響——これらすべてが、日印両国の未来に向けた貴重な財産となっています。
戦争の記憶もまた、平和な未来への糧として昇華されているのです。これこそが、歴史を乗り越えて築かれる真の友好関係の象徴なのかもしれません。モディ首相が広島で除幕したガンジー像と、インパールの平和記念碑——二つの場所に刻まれた「平和への祈り」が、80年目の今日、新たな意味を帯びて響いています。
栗原 潔(くりはら・きよし)
2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。
2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。
帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。
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