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2024年4月23日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑯

学校生活(2 
 
6年間の学校生活で、ぼくは2人の校長を持った。最初入学した時は、ノゲン・モジュムダルが校長だった。君たちは、『ションデシュ』誌で、時折、ノニゴパル・モジュムダルが書いた物語を読むことがあるだろう。ノゲン・バブー(1) は、このノニゴパルのお父さんだ。この人のことを校長だと、わざわざ説明する必要はなかった。少なくとも、ぼくの「校長」のイメージに、ノゲン・バブーの容貌は、どんぴしゃりだった。中肉中背、色白、両側に垂れ下がった白い口髭、白髪、喉まで覆うコート、そしてズボン。その性格は、重々しいどころじゃなかった –– 彼の顔に笑いが浮かぶのを見た人が、学校の中に一人でもいたかどうか、疑わしい。年度末の、定期試験終了後の特別の日に、彼はすべての教室を回って、手にしたリストを見ながら、試験の成績第1位から第3位までの名前を読み上げた。教室の外に「ノガ」の靴音が響くや否や、胸のドキドキが収まらなくなる –– その恐怖は、今になっても忘れることができない。 
 
ノゲン・バブーの次に来たのは、ジョゲシュ・バブー –– ジョゲシュチョンドロ・ドット。この人の容貌は、ノゲン・バブーのそれに比べると、やや痩せぎすで、口髭も、唇の下に少し垂れているくらいだった。でも、彼もまた、校長の典型だった。そのズボンは、緩く垂れ下がるタイプ。その頃ぼくらは、授業で、「リップ・ヴァン・ウィンクル」(2) を読んでいた。その物語の中に、「ギャリギャスキンズ」という名前のズボンが出てくる。三、四百年前にアメリカで穿かれていた、この長々しい名前のついたズボンが、実のところどんなものだったのか、誰一人知らなかったけれど、ぼくらは、それがジョゲシュ・バブーの垂れ下がったズボンのようなものだと、勝手に決めてかかった。ジョゲシュ・バブーのズボンは、それ以来、「ギャリギャスキンズ」と呼ばれることになった。 
 
このジョゲシュ・バブーの渾名が、なぜ「ガンジャ」(3) になったか、その理由は、今となっては思い出せない。ひょっとすると、ジョゲシュ > ジョガ > ゴジャ > ガンジャというような変化が起きた結果かもしれない。でも、ある日、ぼくらの授業を受け持ってくれた結果、彼に対するぼくらの怖れは、だいぶ緩和されたのだった。担当の先生が一人休んだので、彼が代わりに授業を持った。驚くべきことに、その日のその授業ほど面白く、新しい知識の数々を学んだことは、それまでになかったのだ。 
 
「『ゲンジ』(下着のシャツ)という言葉がどこから来たか、知っているか?」 これがジョゲシュ・バブーの最初の質問だった。ぼくらは誰一人答えられなかった。 「この言葉はな、実は、英語のガーンジー ‘guernsey’ から来ている。イギリス海峡の、フランス沿岸近くに、Guernsey という名前のちっぽけな島がある。そこからこの名前が取られた –– 船乗りたちが、島民たちが着ているそれを、着るようになったんだ。」 
 
ジョゲシュ・バブーがさらに言うには、ベンガル人は、むかし、「オルスター」という名の防寒用コートの一種を着ていた。そのコートの元の名前は Ulster で、これもまた、地名に由来する。アイルランドにアルスターという名の町があって、このコートはそこで最初に使われた。 
 
この後、ジョゲン・バブーがやったことは、ぼくらの目を見張らせた。黒板に行くと、彼は最初に、1から9を表すベンガル語の単語を、左から順に書いた:–– 
 

 
その後、単語一つ一つから、その一部を消すと、驚くなかれ、1から9のシンボルが姿を表す:–– 
 

 
この出来事の後、「ガンジャ」は、すっかりぼくらの身近な存在になった。 
 
校長の次に、ぼくらが一目置いていたのは、副校長のジョティルモエ・ラヒリ。この人を、ぼくらは、ラヒリ先生ともジョティルモエ・バブーとも呼ばず、いつもミスター・ラヒリと呼んでいた。その理由は、先生方の中で、この人ほど、白人サヘブ風に呼びかけるのに相応しい人は、他にいなかったから。長身の美男子で、肌の色は真っ白、髭はきれいに剃られていて、スーツにネクタイの出立ち。スーツに羽織るコートは、少し短過ぎたけれど、他にはまったく、非の打ちどころがなかった。大ホールで何か催しがある度に、彼は、お腹の上に手を結んだまま立っていた。拍手の必要がある時も、手を持ち上げることはなかった。片手をお腹の上に置いたまま、もう一方の手で、その掌の裏を軽く叩いた。 
 
ミスター・ラヒリの英語の発音は、白人同然だった。ウォルター・スコットの『アイ・ヴァン・ホー』(4) を読んだ時、この本に登場するフランス人たちの名前の発音を聞いて、彼に対するぼくらの崇拝の念は、天にも届かんばかりになった。 Front-de-Boeuf の発音が「フロン・ド・べ」になるだなんて、一体、誰が想像できただろう! 
 
ジョゲシュ・バブーの後、ミスター・ラヒリが校長になった。でも、そうなる前に、ぼくの学校生活は終わっていた。 
 
他の先生たちは、一人一人、タイプが違っていた。当時はまだ英領時代だったので、公立学校の規則に従って、先生たちの中に、ヒンドゥー教徒に並んで、イスラーム教徒や、ベンガル人のキリスト教徒がいるのが普通だった。イスラーム教徒の先生の中では、「コダック」を「コドク」と言った、アフマド先生(本名はジャシムッディン・アフマド)(5) 。この他に、担当の先生が二人いた。その一人は、詩人のゴラム・モスタファ(6) ) 。彼は一年あまり、ぼくらにベンガル語を教えた。彼が書いた詩の一つは、ぼくらの教科書に載っていた。その最初の二行は、こんなだった:––  

 

   なすことなく ただ一人 道を歩めば 

   目に留まる –– 小さな路地の、小さな娘 

 

モスタファ・サヘブは東ベンガル出身なので、チの音を英語の si のように発音した。思い入れたっぷりに、この詩を朗読したけれど、悪賢い級友の中には、その発音を聞いて、少々からかってやろうという魂胆を起こす者もいた。その一人のゴパルが、せき込んでこう訊く、「それで、しいさな路地の、しいさな娘って、本当に見たんですか、先生?」 
 
モスタファ・サヘブはお人よしだったので、こう答える、「ああ、本当だよ。本当に、ある日、路地を歩いていると、小さな娘が立っているのが目に留まった。その子の側を通り過ぎる時、その頭を、軽く小突いてやったんだ。」 
 
「小突いてやったんですって! へええ!」 
 
会話はそれ以上進展しなかった。と言うのも、背後から、「おい、ゴプラ、よせよ」という囁き声が起こったから。 
 
先生たちの中に、キリスト教徒が二人いた –– ビー・ディー先生とモノジュ・バブー。ビー・ディー先生の名字は、ビー・ディー・ラエ。名前の方は、たぶん、ビブダンかビドゥダンだろう。こんな名前、後にも先にも聞いたことがない。この先生は、英語担当だった。小柄な人で、英語が正しく発音されるようにと、いつも目を光らせていた。イソップ物語の中の The Ox and the Frog (牛と蛙)を読む前に、こう言った、「母音の前の the の発音は、ズィ、子音の前は、ダ。ズィ オックス アンド ダ フログ。そして、英語のth の発音は、ベンガル語の「ダ」とは違う。ベンガル語で「ダ」を発音する時は、舌と口蓋の間に隙間がないが、英語の方は少しだけ隙間があって、そこから空気が逃げる。英語のth の発音は、実のところ、z d の中間なんだ。」 
 
モノジュ・バブーの兄弟の一人は、警察で仕事をしていた。その人の住居は、ぼくらの学校のすぐ隣の警察署だった。この警察官の二人の息子、シュクマルとシシルが、ぼくらのクラスに通っていた。この二人は壁を乗り越えて学校にやって来た。シュクマルは、ぼくらのクラスで一番の短距離走者で、100ヤード走では2度続けて勝った。一方、シシルの方は、小賢しい悪ガキで、本などというものにはまるで縁がなく、拳骨・平手打ちの罰を、とりわけこの叔父さんの手で、いつも喰らっていた。モノジュ・バブーは、教える時、椅子にすわることは、まずない、と言ってよかった。テーブルに寄りかかり、床に立ったまま、本を手に授業をする。とても奇妙な癖が一つあった –– 時折、右肩が不意に揺らぎ、上半身が右に傾く –– まるで、蠅を追っ払おうとでもするかのように。それに、おそろしく注意散漫で、いつどんなことが頭にあるのか、まったくの謎だった。その上、Very Good が口癖だった –– 「ちょっと、外に行ってもいいですか、先生?」 「Very Good」 ぼくらは、静まり返っている。外に行くのが、どうして Very Good なのか? 次の瞬間、自分の誤りに気づき、歯軋りしながらこう言う、「ついさっき、外に出たばかりじゃないか。どうして、また?」 
 
 
 
訳注 
(注1)「バブー」は、いわゆる中間層ベンガル人(主に上位カーストの、英語教育を受けたヒンドゥー教徒)への尊称。これに対し、イスラーム教徒(および白人)への尊称には「サヘブ」が用いられる。 
(注2)ワシントン・アーヴィング(Washington Irving, 17831859)の短編小説。「ギャリギャスキンズ」(galligaskins) は、当時アメリカで穿かれた、緩い半ズボン。 
(注3)「ガンジャ」(ベンガル語)は、吸引用の大麻(ハシシ)を指す。 
(注4)‘Ivanhoe’ は、スコットランドの詩人ウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 17711832)の長編小説。ノルマン人に征服された後の、12世紀のイングランドを舞台にしている。 
(注5)『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。 
(注6)Golam Mostafa (18971964) ジョショル県(東ベンガル)出身の詩人。 
 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年4月14日日曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑮


 
学校生活(1)
 
少年時代はいつ終わるのだろうか? 他の人のことは知らない。ぼくが覚えているのは、大学入学資格試験の最後の試験を終えて家に帰った時のこと –– テーブルの上から「力学」の教科書を手に取って、それを床に放り投げた瞬間、自分がもう子供ではなく、カレッジ生活が待っており、今から自分は大人なのだ、と感じた。
 
だからぼくは、学校生活の話を以て、ぼくの少年時代の話を終えることにしよう。
 
ぼくが学校に入学したのは、8歳半の時だ。母方の叔父さんの家に、もう一人の叔父さんがやって来て逗留した。その名前はレブ。この叔父さんのことは前に書いた(1) 。ある日の朝、レブ叔父さんと一緒に、バリガンジ公立高等学校(2) を訪問した。ぼくが入ることになったクラス –– 第5学年(後に第6学年と呼ばれるようになった)(3) –– そのクラスの先生が、ぼくにいくつか質問を書き、その上、4つかそこら、計算問題を出題した。ぼくは別室にすわって答を書き、また先生のところに持って行った。先生はその時、英語の授業を教えていた。ぼくの答をざっと見渡して、首を軽く振った。つまり、答に間違いはない、という意味だ。と同時に、ぼくの入学が許可された、という意味でもある。
 
木製の教壇の上に立って、先生の手から解答用紙を返してもらっていると、クラスの生徒の一人(ラナという名前だと後で知った)が、声を張り上げてぼくに訊いた、「おい、おまえ、何ていう名前だ?」 ぼくは自分の名前を告げた。 –– 「で、呼び名は?」 悪ガキのラナ・ダーシュは、すまし顔でこう訊いた。学校では、簡単に自分の呼び名を教えるものではない、とは、知る由もない。素直に呼び名を告げてしまった(4)
 
それ以来、同級生はもちろん、学校中の男の子たちが、ぼくを正式の名前で呼ぶことはなかった。そうしたのは、先生たちだけだった。
 
バリガンジ公立高等学校は、ランズダウン・ロードを過ぎて、ベルトラ・ロードの警察署の東側に接している(5) 。学校の東側の道の上に、デイヴィド・ヘア・トレーニングカレッジ(6) がある。そこから、一年に一度ずつ、BT(教育学士)を目指す学生たちが来て、ぼくらのクラスを教えた。
 
学校は高い塀に囲まれていて、その南側に運動場があった。空から見れば、学校の建物は、大文字のTのように見えたことだろう。その縦に伸びた部分は学校の大ホールで、横に伸びた部分が教室の列だ。門から入ると、右手に門衛の小屋。左に少し進むと、バンヤン樹が一本、立っていて、その幹をセメントで固めた露台が囲んでいた。木の下は、広い範囲にわたって草が生えていなかった –– なぜなら、そこでは、男の子たちが昼休みにビー玉遊びをしたから。遊びと言えば、運動場では、サッカー、クリケット、ホッケーのどれもが行われた。そして、年に一度、スポーツ・デーがあった。もちろんその他にも、ビー玉、棒弾き遊び(7) 、インド相撲、独楽回し等々があった。
 
門衛小屋を過ぎ、砂利道を通って少し進み、三段の階段を上がると、東西に広がる学校のベランダがある。ベランダの右側には教室が列をなし、左側を半分ほど行くと大ホールへの扉がある。桟敷席があるこのホールでの一番大きな出来事は、毎年催される、生徒たちの表彰式。その他、サラスヴァティー祭祀(プージャー)の日(8) には、葉皿を広げての供応があり、時折、講演会が開かれた。また、一度、グリーンバーグ・アンド・セリムという名の外国人俳優二人組が、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』のいくつかの場面を演じて見せたのを覚えている。ぼくらは皆、折り畳み式の椅子にすわって、生涯初めてのシェイクスピア劇を見ていた。ぼくらのすぐ隣に立っていた英語のブロジェン先生は、目を丸く見開いて舞台の方を見つめながら、俳優たちと一緒に唇を動かしていた –– たぶん、学生の頃読んだこの劇の台詞を、どれだけ覚えているか、試していたんだろう。ある時 –– サラスヴァティー祭祀の日だったと思う –– このホールで、チャールズ・チャップリンの映画が上映された。上映会があるという通知を、その前日、門衛が来て、ぼくらのクラスのアフメド先生の手に渡した。アフメド先生はそれを読み上げる –– 「コドク・カンパニーのご好意により・・・」 コダック・カンパニーの名前を知らなかったので、先生は、上映会のスポンサーを、ベンガルの甘菓子屋(モドク)と同類だと思ったわけだ!
 

 
ベランダの端まで行って階段を降りると、目の前の天蓋の下に、飲み水用のタンクが2台、並んでいた。背中を屈め栓をひねって、両掌で水を受けて飲まなければならない。2台のタンクの向こう側、西の壁に接して木工室があり、そこはトロフダル先生の縄張りだった。金槌、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、糸鋸盤、何一つ無いものはなく、クラスの中からは、絶えずいろんな機械音が聞こえて来た。
 
2階への階段を上がると、その正面、ベランダの手摺りの上に、学校の鉦が吊るされているのが目に入る。門衛以外、誰ひとりこの鉦を鳴らせる者はいなかった。紐を握ったまま棒を叩くと、鉦はそっぽを向いてしまう –– 一回鳴った後、もう鉦から音は出ない。門衛がそれをどうやって打ち鳴らすのかは、ぼくらみんなにとって、謎だった。
 
階段を上がって左に回り、事務室を過ぎると、校長室がある。事務室には、棚いっぱいに本が並んでいる。これが学校の図書室だ。本の中では、シンドバッド、ハテムタイ(9) 、ダゴベルト(10) の3冊が大人気で、生徒の手から手へ渡ったせいで、ボロボロになっていた。この3冊は、同じシリーズの本だ。シンドバッドは誰でも知っているし、ハテムタイの名前もいまだに時たま耳にするが、ダゴベルトの名前は、学校時代の後、聞いたようには思えない。
 
学校の簿記の仕事も、この事務室で行われた。丸い棒のような定規を転がしながら、帳面に赤や青のインクで平行線が引かれるのを見て、とても奇妙に思ったのを今でも覚えている。
 
階段を上がって右に行くと、まず先生たちの共同利用室があって、その後に列をなして教室が並ぶ。1階と2階を合わせて全部で8学年 –– 3年生から10年生まで。教室にはどれも、二人並んですわるデスクが16台。どのクラスも、30~32人以上の生徒はいなかった。学校は10時に始まる。1時になると1時間の昼休み。その後また、4時まで授業。夏休みの後は、1ヶ月あまり、朝だけのクラスがある。7時に授業が始まる。その頃は、夏至の陽射しが窓を通って教室に差し込み、教室の姿はすっかり別物になる。先生たちに対する恐怖も、朝の内は、どういう訳か、少し和らぐように思われた。太陽が頭上に昇るにつれて、人間の気分も、どうやら、より怒りっぽくなるらしい。朝のクラスは、だからずっと心地よく感じられた。
 
もっとも、このことから、先生たちのほとんどが怒りっぽかった、という印象を与えるとしたら、それは公平とは言えない。むしろ、何人かの選ばれた悪ガキたちに対し、何人かの先生の怒りが時折爆発した、という方が正しい。拳骨、平手打ち、耳つねり、揉み上げをつかんで上への引っ張り、ベンチでの立ちん坊、両耳をつかんだままの片足立ち –– あらゆる種類の懲罰を見た。でも、ぼく自身は、一度もこうした罰を受けた記憶がない。初めから、ぼくは良い子、穏やかでおとなしい子(「尻尾のついたお猿さん」と形容する者もあった)と見なされていた。
 
訳注
(注1)『ぼくが小さかった頃』⑦ 参照。
(注2)Ballygunge Government High School 1927年創立。David Hare Training College の実験校として設立された。カルカッタ大学の提携校で、多くの優秀な人材を輩出した。
(注3)当時は、初等から高等までの学年を、1年生から10年生まで下から順に数え、10年生が最高学年だったが、後に、逆に10年生から下に数え、1年生を最高学年とするようになった。
(注4)正式名はショットジト(Satyajit 「真理によって征服する者」の意)。呼び名ないし愛称はマニク(Manik 「宝石、とりわけ紅玉(ルビー)」の意)。
(注5)Landsdown Road (現在はSarat Bose Roadと呼ばれる) は、南カルカッタ・ボバニプル地区の中心部を南北に走る大通り。Beltala Road はこの通りを西に向けて分岐する。
(注6)David Hare Training College 1908年に北カルカッタに創立された教師養成機関。設立後まもなく南カルカッタのバリガンジに移転した。カレッジの名前は、スコットランド出身の時計製造者David Hare (1775-1842) を記念している。彼はカルカッタに英語近代教育を普及させることを目指し、Hindu School, Hare School, Presidency Collegeの設立に貢献した。
(注7)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。
(注8)学芸の女神サラスヴァティー神の祭祀は、西暦で1月終わりか2月の初め(ベンガル暦マーグ月、白分の月齢5日目)に行われる。
(注9)6世紀のアラビアの王。寛大なことで知られた。シンドバッドと同様、『千一夜物語』に登場する。
(注10)7世紀のフランク王国の王、ダゴベルト1世。『ダゴベルトの偉業』と題する9世紀頃のラテン語の文献があり、この王が行った数々の奇跡を描いている。
 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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2024年4月10日水曜日

松本榮一のインド巡礼(その11)

ガンダーラ仏 

 

ガンダーラ美術は、現在のパキスタン西北部にあるガンダーラ地方を中心に紀元前後から5世紀ごろまで栄えた仏教美術です。このガンダーラ美術の最大の特徴は、仏像を作ったことです。ギリシャ美術の影響を多大に受け、きわめて写実的なブッダのお姿を造りました。

それまでの仏教美術では、ブッダの姿を現すのに、仏足石や、悟りの象徴である菩提樹のモチーフで表していました。

ガンダーラでは、端正で、美しくも凛々しいブッダ像がつくられました。

紀元前後に始まった、この写実的な仏像のお姿は、その後の仏教美術の本流になり、仏教各派の多くは、写実的な仏像を礼拝するようになりました。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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