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2024年5月31日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑫/河野亮仙

12回 天竺ブギウギ・ライト 
インド舞踊入門その2/先駆者たち 
 
このゴールデン・ウイークに新国立劇場バレエ団が牧阿佐美版『ラ・バヤデール』を上演するというニュースが流れた。バヤデールとは踊り子のこと、インドの宮廷での愛憎劇だ。 
 
https://www.youtube.com/watch?v=ecosBtvpNnA 
https://www.youtube.com/watch?v=EeV8GE8dnDc 
 
牧幹夫と桝源次郎の留学 
自伝によると、2021年に87歳で亡くなられた牧阿佐美(本名・福田阿佐美)の父は、牧幹夫(本名・北沢牧三郎)、母は橘秋子(本名・福田サク)。両親ともにバレエ・ダンサーで、二人で橘秋子舞踊研究所を始める。入籍はしていなかった。牧三郎は生後すぐ、宇都宮に宣教師として赴任していたアメリカ人のフライ夫妻に預けられ、そこで育った。 
 
阿佐美が5歳の1938年に父はぷいと出国し、タゴールの下でインドの舞踊と文化を学ぶことになる。インドではジョン・マキ・アンダーソンと名乗り、スパイとも消息不明ともいわれたが、1953年にはボンベイで榊原帰逸を迎え、親切に世話をした。「インドに行ってインド人となって」と榊原は書いている。 
 
ボンベイの領事館に勤めていたので、1965年、留学してきた櫻井曉美の面倒を見た。奥さんもいたという。英語がネイティブなので日本政府の密命を帯びて、急に出国したのかもしれない。秋子や阿佐美とは連絡を取らなかったようだ。1970年にその訃報が届く。 
 
フランス語、サンスクリット語も学んだようだ。我妻和男『人類の知的遺産/タゴール』には、音楽学部舞踊科に入るとたちまちインド舞踊に上達し、タゴール劇にも出演したと書かれている。 
 
1935年、桝源次郎はタゴール大学にインド音楽を学ぶため2年間留学した。その3年前は中国で音楽事情を調査していて、インドから中国への影響を調べるという名目でやってきた。1938年の『東洋音楽研究』には、在支特務機関の一員として活躍中として報告されている。つまり、彼はスパイだった。牧が桝の後任で交代したと考えられないこともない。 
 
そもそも岡倉天心も現地ではスパイと見なされて、官憲につけ回され監視されていた。実際、危険分子とも接触していた。音楽舞踊、美術の調査という名目では比較的自由に飛び回れる。 
 今はどうなのか知らないが、我々が留学していた頃も、お茶屋で油を売っているように見えるお巡りさんに監視されていて、毎日、何処に行ったとか記録されていたようだ。それを帰国時に分けてくれれば日記の代わりになったのに。 
 
タゴールが先駆ける  
一昔前はインド四大舞踊といった。バラタナーティヤム、カタック、カタカリ、マニプリーにオリッシーが割り込み、今ではクチプリ、モーヒニーアーッタムでインド七大舞踊とか呼ばれているようだ。 
 
四大舞踊というのは、おそらくタゴール周辺がいい出したことで、北のカタック、南のバラタナーティヤム、演劇的要素の強いカタカリがインドの西南端、フォークのマニプリーは東北部とバランスよくピックアップしたのだろう。 
 
北インド、ラクナウの宮廷にはバーイジーと呼ばれるタワーイフ、すなわち、コート・ダンサーがいた。金持ち相手に歌や踊りを披露する遊女である。村の祭りや祝い事に招かれる庶民の生活の中で踊るダンサーはナーチニーと呼ばれた。 
 
英領インドになってからは売春婦のように見なされ、インド人も欧化されて彼女らを疎んじるようになった。近代化を急ぐあまり、芸術は国民を弱体化させると考えられた。しかし、喜びを表現することによって人生を豊かにし、決して仕事の邪魔をするものではないと、タゴールはインドの音楽、絵画の教育に重きを置いた。 
 
伝統文化復興のため、1919年、タゴールの学園に芸術学部を設立して、マニプリー・ダンスを導入した。当初は踊りというよりエクササイズ、日本でいう体育だとして遠慮がちに始めたようだ。音楽舞踊や美術は大学で学ぶものとは思われていなかった。本来、師匠の家に住み込みや通いで習うものだ。全身舞踊家にならないといけない。 
 
音楽学部にはタゴール・ソングの科と古典音楽科(西洋古典音楽ではなくヒンドゥーの音楽)を作り、マニプリー・ダンスを中核にタゴールの歌を合わせてタゴール・ダンスを工夫した。他にいわゆる四大舞踊と器楽のコースも作った。 
 
大学より下の学校ではタゴール・ソング、タゴール・ダンスが必修で、タゴールの舞踊劇が開催されるときは、美術工芸部など全学的に参加した。 
 
タゴールの学園は、1921年、ヴィシュヴァバーラティー大学、通称タゴール国際大学として開学し、音楽舞踊部門は独立したカレッジとなった。インド文化のセンターを目指していた。ワラトールのカラーマンダラム、ルクミニー・デーヴィーのカラークシェートラに先駆けた動きである。 
 
タゴールが歌劇、舞踊劇を創作する中、ウダエ・シャンカルは1929年に帰国して母国の芸能を見て回る。ウダエ・シャンカルの舞踊団はカルカッタにもやって来る。彼の世界的な名声によって、インドの舞踊も芸術であるという意識が生まれる。 
 
モダン・ダンスからインド・バレエへ 
アメリカ・モダン・ダンスの祖といわれるルース・デニスは、1906年にラーダーとクリシュナの物語を上演しているが、その音楽はオペラ「ラクメ」からとったもので、バレエにオリエンタルなフレイヴァーを加味したものかと思われる。 
 
よく知られているようにバレエ・ダンサーのアンナ・パブロワは、イギリス留学中の画学生ウダエ・シャンカルを見いだして、「ラーダーとクリシュナ」を上演した。インド・バレエの誕生である。実は、それまでインド舞踊という概念はなかった。 
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%a7/ 
 
ベンガルにはベンガルの歌と踊りがあり、ラクナウやバナーラスにはタワーイフの歌と踊りがある。南インドには舞踊劇のバーガヴァタ・メーラーやカタカリ、ヤクシャガーナがあるという理解だ。他の藩王国で行われている踊りなど知るべくもない。 
 
阿波踊り、郡上踊り、カチャーシーや石見神楽、高千穂神楽、早池峰神楽が別個に存在しているようなものだ。 
 
ウダエ・シャンカルはカタックのみならず、バラタナーティヤム、カタカリ等を学び、物語を創作してインド・バレエとして展開した。インド人自身がインドの舞踊を知らなかった時代のことだ。ラーム・ゴーパルも、スジャーターとアショーカも、リタ・デーヴィーも皆続いた。昭和28(1953)年にタゴール大学に留学した榊原帰逸も和製インド・バレエを目指したのだと思う。 
 
榊原は留学の帰途、ビルマのラングーンに入り、タイのバンコクに抜ける。バンコクではインドネシア舞踊まで習う事が出来た。さらに、沖縄を回って羽田に帰国する、民族舞踊の旅を行った。その成果が昭和29(1954)年の公演プログラムに表れている。70年前の話だ。 
 

 
 

 
 

自伝的な「東洋の心」によると明治43(1910)年生。愛知県の田舎で育ち、仏門に入り、破塵館で占部惟順に教えを受ける。また別に、日本舞踊も習っていた。早稲田大学では印度哲学を専攻し、武田豊四郎(早稲田大学仏教青年会初代会長)に師事する。日本大学講師となり、児童教育教師養成所の仕事を担ったことから日本コロンビアの専属舞踊家となる。 
 
民謡や音頭、童謡、詩吟など二千数百枚のレコードに振り付けを付けた。私の実家では保育園をやっていたが、童謡のレコードの付録に振り付けが書いてあったような気がする。日本コロンビアは昭和16(1941)年にSPレコードで『東亜の音楽』というシリーズをリリースした。1997年にはこれが丁寧な解説付きでCD化された。中国、タイ、インド、ジャワ、バリ、イランの音楽が収録されている。 
 
インドにもコロンビア・レコードがあるので、インド・コロンビアが保証してタゴール大学に留学できた。当時は船でインドに行くのが当たり前だったのに飛行機、プロペラ機で渡印した。留学は、サールナートの初転法輪寺に釈尊一代記を描いた野生司香雪が、ムクル・デイを紹介してくれたことによる。 
 
榊原は昭和13(1938)年に、すでに日比谷公会堂で印度仏教舞踊劇「指蔓外道」を上演しているので、タゴールが仏教劇を上演しているのを意識していたに違いない。昭和21(1946)年には野生司香雪も長野市仏教会に協力して仏教舞踊劇を制作している。 
 
榊原の帰朝公演のプログラムを見ると、バラタの伝道者やカタックの継承者を志していたのではなく、東洋舞踊、オリエンタル・ダンスと印度バレエを創作していたことが分かる。 
 
野生司香雪との縁 
さて、野生司香雪の修業時代、インドで仏像を模写していると、毎日そのそばに来て見ている子供がいた。仲良くなってその子に絵を教えてやった。カルカッタ博物館での出来事だろうか。 
 
その子が成長してカルカッタの官立美術学校の校長となっていた。それがムクル・デイ画伯であり、香雪のため家の庭にアトリエを設けた。榊原は客員教授待遇でそこに住み、いろいろと便宜を図ってもらった。 
 
榊原はマニプリー舞踊家として知られるラジクマル・セナリク・シンの指導を受けた。飲み込みが早く、難しいステップもすぐにものにして、二年のコースを短期間で習得したという。日本舞踊を披露して新聞に載ると、どこへ行ってもVIP待遇だった。我々が一介の貧乏留学生として留学したのとはえらい違いである。 
 
さらに、人の縁とは面白いもので、昭和62(1987)年に榊原はタゴール大学から文学博士号を認定されるが、同時にムクル・デイも授与されていた。インドには、少なからずインド舞踊で博士号を取得する舞踊家がいるが、日本人も続いてほしい。インド舞踊を踊る人は今や日本に数百人いるのかも知れないが、研究的な人は少ない。誰もインド舞踊の歴史を検証しないのでわたしがやっている。 
 
昭和29年の出来事  
榊原帰逸は帰国するや翌昭和29(1954)年6月6日に帰朝公演を行っている。また、同年10月16日から11月18日にかけて、読売新聞社の主催でSUJATA&ASOKAの全国公演11回が行われている。初めの3回と終わりの2回、合わせて5回も日比谷公会堂で公演が行われていて、果たして集客はどうだったのだろうか。 
 
インド舞踊専門の音楽家を帯同したわけではなく、シタール、タブラーの他、ギター、ヴィオラ、フルート等による劇伴のようなインド録音のレコードを伴奏に用いた。33回転のLPレコードは1948年に米コロンビアから初めて発売された。ひょっとしたら、2分半程度のシングル盤を一曲ごとに用いたのかもしれない。写真で見る限り出演者は二人で、宿は一部屋取ればいいのだから、経費はそれほどかからなかっただろう。 
 

 
 
スジャーターとアショーカは1948年以来、全米で何百回も公演を重ね、スジャーターは「情炎の女サロメ」などの映画に出演し、アショーカ(ドイツ系らしい)は振付師として知られる。彼は18年間中国、チベット、インドを転々として何年もの間、僧侶の踊りを研究したと謎の経歴が語られる。チベットの仮面舞踊を演じたようだ。 
 
パンフレットの解説には「シヤンカー舞踊を見てヒンヅー族に合流」とすごい訳文が付いているが、ウダエ・シャンカルの舞踊に出会って、ヒンドゥーの舞いを研究したということらしい。1939年にスジャーターと結婚したが、ヒマラヤで出会ったという。スジャーターはボンベイ生まれだがキリスト教徒のようだ。ユーチューブに映像がある。 
https://www.youtube.com/watch?v=lgRM0aeGFvI 
 
パンフレットには榊原の解説の他、淀川長治がビバリーヒルズでスジャーターとアショーカに会ったこと、そのパーティーの席でルース・セント・デニスを紹介されたとエッセイを寄せている。大正年間にそのデニショーン舞踊団を見てデニスの印度舞踊が美しかったと淀川は語る。 
 
昭和11(1936)年に日劇ダンシング・チームの一期生として参加した三橋蓮子も一文を寄せている。昭和13(1938)年頃、ラ・メリ女史に連れられて来た、ラーム・ゴーパルという青年が日劇ダンシング・チームを指導したことにも触れている。 
 
ラ・メリ(Russell Meriwether Hughes Jr.)はスペインとインドの舞踊を中心に研究し、1930年代にラーム・ゴーパルと共に世界中をツアーした。1940年にはルース・デニスと共にスクール・オブ・ナティヤというインド舞踊の研究所を作った。44年にはインド舞踊の振り付けで「白鳥の湖」を上演している。 
 
三橋はラーム・ゴーパルと出会って印度舞踊に魂を奪われた。翌年から韓国伝統舞踊の調査と習得に努め、中国、シャム、ジャワ、バリ、琉球の踊りを見るにつけ、インドの影響を受けてその国なりのものを創り出していると記す。「東洋舞踊の会」を何回か開いた。榊原の発想や行動と共通点がある。榊原は昭和36(1961)年の大映映画「釈迦」で振り付けを担当している。 
 
また三橋は、日劇ダンシング・チームで昭和29(1954)年に「印度珍道中」の振り付けを担当した。昭和26(1951)年の映画「ブンガワンソロ」の振り付けも行っている。プリヤゴーパル、ラクシュマンという舞踊家が2年前にやって来たことに触れているが、この二人については、まだ、調べが付いていない。 
http://jyunchan2007.web.fc2.com/s2901indo.html 
 
こんなことを書いていると「インド舞踊入門」ではなくて、「インド舞踊事始めの根掘り葉掘り」だな。アンナ・パブロワとウダエ・シャンカルが世界の舞踊界に衝撃を与え、日本にも波及したという話です。                                                         
 
注  
スジャーターとアショーカは、1953年の映画「情炎の女サロメ」で短時間ながら二人で踊っている。そして、サロメ役のリタ・ヘイワースに東洋舞踊を振り付けた。山川鴻三『サロメ』(新潮選書)によると、オスカー・ワイルドの「サロメ」は大正二、三年に島村抱月演出松井須磨子主演で127回も上演されたという。その後、川上貞奴、水谷八重子、岸田今日子らが演じている。
 
サロメはバレエやモダン・ダンス、つかこうへいのロック・オペラ!?でも取り上げられてきた。
https://www.zawazawa.com/joe/disc/salome.htm
 
1977年には長峰ヤス子がフラメンコ版を演じ、それに触発されたか、シャクティが1980年にインド舞踊版を上演した。その時私は留学中だったので見ていない。誰か見た人、「私出演しました」という人もいるかも知れない。これも歴史である。 
 
 
河野亮仙 略歴 
1953年生 
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史) 
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学 
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学 
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事 
専門 インド文化史、身体論 



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2024年5月28日火曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード2)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

インドへ舞踊を習いに行く 

当初はインドは気軽に旅行に行ける安全なところ、というイメージはなかったので、勇気のある先駆者が短期間インドに滞在してみた。それに物足りない人が、インドで本格的に舞踊を習い始めた。と同時にインドの治安が落ち着いて、徐々に外国人の長期留学が可能になった。現地の教える側も、外国人生徒を受け入れる体制を整えた。現地のインド芸術を習うところはもともとは修行道場(アシュラム)、内弟子制度(グルクル)のようなところが多く、外国から行った生徒が簡単に習えるような環境ではなかった。この時期はインドがイギリスから独立し、独自のアイデンティティを模索していたころで、インド舞踊の再構築の動きが各地で盛んに起きていた。上流階級出身のルクミニ デヴィがチェンナイに開校したカラクシェートラが初めての舞踊学校で、おかげで良家の子女がダンスを習うことが認められるようになっていった。そのうちあちこちの大学も留学生を受け入れるようになり、日本のインド大使館でパンフレットを見て舞踊留学を決めた人も多い。 

 

そんな中、1960年代半ば、大谷紀美子はカラクシェートラへ、桜井暁美はバローダ大学へ、ヴァサンタマラはウダイ シャンカールの学校へ飛び立った。 

 

日本で最初のインド舞踊学校 

京都のヴァサンタマラインド舞踊研究所は1968年に日本で一番最初にできたインド舞踊学校だ。創始者のヴァサンタマラはインド人と結婚した日本人で、のちに舞踊家になった娘のシャクティのために親子でコルカタに渡る。ウダイ シャンカールの学校で、バラタナティヤムを主に、オディッシーやさまざまな流派の踊りを広く学んで帰国し、研究所で教えた。オディッシーの演目は2−3つくらいあった。ちなみにマンガラチャランはデーバ プラサード派の振り付けだった。 

 

先駆者たち 

1977年、ヴァサンタマラインド舞踊研究所でインド舞踊に触れもっと学びたいと飛び出したのが、田中裕見子、岩切千鶴子だ。田中はカラクシェートラに入学、岩切は個人レッスンで、バラタナティヤムを習いながら、2人はラマニ ランジャン ジェナにオディッシーも学んだ。ラマニは当時チェンナイではあまり知られていなかったオディッシーの認知度を上げる、という使命を師匠のケルチャラン モハパトラに託されて頑張っていた。この年、田中はカラクシェートラを訪ねてきたケルチャラン モハパトラの踊りを見て衝撃を受けたと記している。 

 

「完全にダンサーの作り出す世界にはまり込んで同化してしまっている自分がそこに居 

た!…背景まで色つきで見えるのだ!」(田中裕見子『赤い靴を履いた人魚』) 

ケルチャランの左手にサンジュクタ パニグラヒ、右手にビルジュ マハラージ。背後は男性の弟子スレンドラ ナース ジェナ、ラマニ ランジャン ジェナ、ハレクリシュナ ベヘラ。1970 年代初頭、デリーにて。(『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳より) 

 

 

いっぽう、ヴァランタマラ研究所で踊りを習っていたサキーナ彩子は、一時帰国中の岩切がオディッシーを踊る姿を観て感銘を受けインド行きを決意する。サキーナも1981年にオディシャに渡り、ビデュット クマリ チョードリーに学んだ。帰国してから、ちょうど日本に滞在中のクムクム ラールのところに通う。その後1989年にデリーでハレクリシュナ ベヘラに、1999年、オディシャでケルチャラン モハパトラにも学ぶ。 

 

さらに、1984年には、小澤陽子がグジャラートのDarpana Academy of Performing Artsでバラタナティヤムを学んだ。小澤は1987年に再度インドへ渡り、クムクム ラールやマヤダール ラウトにオディッシーを学んだ。 

 

大阪の櫻井暁美はインド西部のバローダ大学に留学中に1年間、オディシャのカタック市のケルチャラン モハパトラの自宅でオディッシーを習った、ケルチャランにとって初めての日本人の生徒だった。帰国後しばらくしてから本格的に舞踊教室を始め、当時東京在住だったクムクム ラールを月に1回大阪に呼んでワークショップを主催した。ケルチャランが1986年に来日したとき、会場で「グルジーっ!」と叫んで駆けてくるサリー姿の女性が、櫻井だった、とサキーナは回想する。櫻井は来日中のケルチャランの身の回りの世話をしていた。櫻井は関西が拠点でそのころ関西でオディッシーをしている人はほかにいかなかったのではないだろうか。 

 

日本の生徒たちが飛び込んだのは、オディシャのヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌー派ヒンドゥー教)の篤い信仰心に育まれる暮らしだった。オディッシーの神、ジャガンナータ神はクリシュナ神の化身だ。「オディッシーミュージック」(オディシャの伝統音楽)と「オディッシーダンス」には独特な「オリヤー的な」情緒がある。クリシュナ神への献身の情が芯にあり、甘く胸を掻き立て、まるで恋のように熱量が高く、インド哲学の言葉を使えば「サトヴィック」、音楽と踊りは純粋な輝きに満ちていて、大きな魅力となっている。 

カタック市の自宅の祠にて、アラティ(灯明)をお供えするケルチャラン。(『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、写真: Avinash Pasrichaより) 

 

 

“グルジーのアシュラムにはお寺ともいうべき大きな神様のお部屋があった。専任のプジャリ(儀式を行う人)がいて、毎朝と毎夕のプージャ(礼拝)を執り行っていた。サンスクリット語のお経は心地よくて、よく聞き惚れていた。あの世代の方はみんなそうなのかもしれないが、グルジーはとても信心深かった。毎晩八時ころになると、グルジーが鳴らすドラの音が建物中に響きわたる。私たちはどこにいてもそのドラが聞こえたら、神様の部屋の前に集まって座る。そのドラは神様を招くために鳴らされ、そのときに神迎えの火も焚かれる。そこにはいつもパッカワージを始めマンジーラなどの鳴り物が用意されていて、私たちはグルジーやほかの先生、生徒たちと一緒にプージャでバジャンやキルタン(祈りの歌を歌って礼拝する事)をするのが日課だった。『ギータ ゴーヴィンダ』の作者がこちらの地方の出身だからなのだろうか、オディッシーをしているからなのだろうか、必ず『ギータ ゴーヴィンダ』から、「シュリタ カマラ」と「ダシャ アヴァターラ」、そして地元の歌である「マントラヒーナ」が歌われた。さすがダンスの専門家の家のプージャなので、歌もテハイが入って音楽的にも本格的である。少々歌詞がわからなくても一緒に歌い、マンジーラを鳴らして熱狂する。歌の最後は必ず「マハーマントラ」に続き、「ハレクリシュナ ハレクリシュナ‥‥」と繰り返しながら、どんどんスピードアップ、ヒートアップしていき、絶頂の極みでドーンと終わり、地面にひれ伏す。これこそ、ヒンドゥーのバクティ(献身の情愛)を感じる瞬間であった。プージャが終わったら、神様に供えられたプラサード(供物)のトゥルシー(ホーリーバジル)や果物などをいただき、神様にあげた火から出た黒い煤を額に付けて解散する。”(サキーナ彩子「私のオディッシー」) 

 

 

参考資料: 

河野亮仙の天竺舞技宇儀 

河野亮仙 日印文化交流年表 

『赤い靴を履いた人魚姫』田中裕見子著 

『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著 

 

 

プロフィール: 

サキーナ彩子 

京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。門下生の濱脇亜由美は2010年以降デリーのカストゥリ パトナイクに師事し活動中。 

連絡先maa.sakinadidi@iCloud.com 

 

田中晴子 

東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023 

ウェブサイト 



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2024年5月13日月曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑰

学校生活(3 
 
主席パンディット(1) のボトチャルジ先生については、その手書きの字の美しさが何よりも印象に残っている。あんなに美しいベンガル文字を、黒板の上に書けた人が、他にいるとは思えない。 
 
次席パンディットを、どうしてビャン・パンディットと呼ぶことになったのか、その理由はついに知ることができなかった。この渾名は、ぼくが入学する前に既につけられていた。この人が笑うところを、一度として見た覚えはない。でも、いつも不機嫌な顔をしていたとは言え、生徒たちの扱いは、それほど厳しくはなかった。ある時放ったこの先生の怒声は、今でも耳の中に貼り付いている –– 「大声を出しすぎて、わしの喉から、血がガンガーのように溢れ出ているというのに、それでもお前たちは、注意を払おうとしないのか?」 
 
彼が手を上げることは、あまりなかったけれど、一度、オジョエの耳の横に平手打ちをかませて、彼を失神させたことがある。その日、学校中が大騒ぎになった。昼休み前の授業でこの出来事が起き、昼休みの合図の鉦が鳴ったが誰も教室から出なかった。オジョエは顔を真っ赤にして手で耳を押さえ、屈み込んですわっていて、生徒たちは彼を取り囲み、パンディット先生も、教室の中で、ほとんど囚われの身にされている。外では、教室の閉じた扉の横型ブラインドの隙間から、他のクラスの生徒たちが、「ビャン! ビャン!」と揶揄の声をあげる。 
 
先生たちの中には、打擲(ちょうちゃく)以外に、もう一種類の武器を使う人がいた。それは打擲にも増して効果的だった。その武器とは、言葉の矢を浴びせること。ロモニ・バブーは、これに関しては、他の追随を許さなかった。彼のひん曲がった顔は、皮肉・冷笑を浴びせる機会を、いつも窺っていた。ションジョエという名の新しい生徒が一人、入ってきた –– たぶん、8年生の時だったと思う。彼とタゴール家との間に、何らかの親縁関係があることが知られた。同級生が、こんな嘲弄の機会を、みすみす逃したりするものか? ぼくも同じ目に会った。ぼくがシュクマル・ラエの息子で、ウペンドロキショルの孫であることは、最初から知られてしまっていた。その後、さらに時が経つにつれ、HMV の歌手コノク・ダーシュ(2) がぼくの母方の叔母で、ベンガル人最強のクリケット選手カルティク・ボース(3) がぼくの父方の義理の叔父であることも、わかってきた。その数日後に、ぼくが聞かなければならなかったのは、「おい、マニク、オモルがな、ジョージ5世(4) がお前の母方の祖父さんだと言うんだが、本当かい?」 
 
ションジョエの場合も、同様に、「ロビ・バブー(5) は、いったい、お前の何になるんだい? お前の父さんの兄貴か?」 –– こんな質問を、繰り返し聞かなければならなかった。彼の難点はと言えば、その身体の色が目立つほど白い上に、バラ色の色斑までついていたこと。いわゆる、「ミルクにアルタ」(6) というやつだ。その上、タゴール家の人びとが持つ才能の分け前を、彼がそれほど多く授かったわけではないことも、時を経ずして明らかになった。ロモニ・バブーはそれに勘づいて、彼に向かって言葉の矢を浴びせた –– 「おい、見てくれ良しのカラスウリ・タゴール君(7) 、お前のバラ色の耳を、もう少し赤くしてやろうじゃないか? こっちへ来な!」 
 
ロモニ・バブーの、この棘だらけの言葉に耐える力を、ぼくらは誰一人持たなかった。でも、先生たちの怒りをほどほどに封印するやり方を、生徒たちが心得ている場合もあった。ブロジェン・バブーは、ぼくらの人気者先生の一人だ。彼の口から辛辣な言葉が出ることはあまりなかった。生徒たちが騒ぎ立てると、彼はとても慌てて、「おしゃべりはやめなさい! やめなさい!」(Cease talking! Cease talking!)と言うのだった。この言葉が、いつも特に効果があったわけではない。一度、こんな状態が耐えられなくなり、ブロジェン・バブーは生徒の一人に向かって叫んだ、「おい、立ってここに来るんだ!」 
 
どんな罰が下されるか、わからなかった。もしかすると、教室の隅に立ちん坊になるよう、命じるのかもしれない。呼ばれた生徒が立ち上がって前に進もうとした時、突然、オロクが席を立って駆け寄り、ブロジェン・バブーに抱きついた。 
 
「先生、今日だけは、あいつを赦してやってください、先生!」 
 
ブロジェン・バブーの怒りがまだ収まった訳ではなかったけれど、思いがけない邪魔が入ったので少々気を削がれ、こう言った、「どうしてだ? どうして今日だけなんだ?」 
 
「マーチャント(8) が、今日、百打点を達成したんです、先生!」 
 
このブロジェン・バブーに、ある日、ある有名な殺人事件の裁判の陪審員になるよう、政府からお呼びがかかった。この招集を、断るわけにはいかなかった。ブロジェン・バブーは、だから、時々学校を休んで法廷に出向かなければならない。「パークル県殺人事件」(9) の裁判をめぐって、カルカッタは、その頃、騒然としていた。大地主(ザミンダール)殺しの裁判とのことで、毎週毎週、どんなにたくさんの本が出回っていたことか。道の角という角でそうした本が売られ、人びとは、我先にそれを買い込んで、読み漁った。ブロジェン・バブーが出廷した翌日、学校に来るや、ぼくらは皆集まって、彼を取り囲む –– 「先生、法廷で何があったか、話してくださいよ、先生!」 勉強は棚上げ。なぜなら、ブロジェン・バブーの方も、話したくてうずうずしていたから。まるまる一時間、ハウラー駅の群衆に紛れ、注射器で身体に毒を注入して殺すという、身の毛もよだつ話を、ぼくらは聞いた。 
 
公立バリガンジ高等学校には、その当時、制服はなかった。ぼくらの中には、半ズボンの者もいれば、ドーティー(10) をまとう者もいた。イスラーム教徒の生徒の中には、パエジャマ(11) を着て通学する者もいたのを覚えている。ドーティーの上には白シャツを着るのが習いで、少しませた生徒になると、シャツの後ろの襟を立てて見せたものだった。スポーツ選手であればなおのこと。上級クラスのケシュト・ダー、ジョティシュ・ダー、ヒマンシュ・ダー、彼らは皆スポーツ選手で、残らず襟を立てていた。中でも、大学入学資格試験の受験クラスにいたケシュト・ダーは、すっかり口髭・顎髭を生やしていた。少なくとも19か20歳くらいに見えた。一方ぼくらは、せいぜい4学年下にいたに過ぎなかったのにまったくの子供で、口髭・顎髭の気配すらない –– 近い将来、それが生えるとも思えなかった。 
 
でも、襟を立てた王様は、生徒ではなく、先生だった。教練教官のショノト・バブー。この人が学校に来た時、ぼくはすでに、3年間学校生活を送っていた。夢みがちな目、ビオスコープ(12) の俳優のような容貌、そしてシャツの襟はとてつもなく大きく広がり、肩にまでかかっていた。肩の上にそれを立てた時、先生は、まるで空に飛び立とうとしているかのように見えた。今日「体育」(PT)と呼ばれているものは、当時「教練」(drill)と呼ばれていた。週に二日か三日、1時間、校庭で過ごさなければならなかった。教練教官は、その時、軍事訓練の気分だった。 
 

 
さまざまな訓練の中に、高跳びの種目もあった。地面から1メートルほどの高さに横たわる竹棒を、跳び越えなければならない。まごまごしている者に対し、先生は、「おーい、ジャハーンプだ!」の掛け声でどやしつける。英語の穏やかな jump のジャの発音に h 音を加え、母音を長く発音することで、その指令に重みを加えた。この「ジャハーンプ」 の指令は、ぼくも聞かなければならなかった –– なぜなら、子供の時、デング熱という名の醜悪な病気にかかって、ぼくは右足にあまり力が入らなくなり、跳ねたり飛んだりするのが決して得意にならなかったから。 
 
 
訳注 
(注1)「パンディット」(ベンガル語:ポンディト)は、サンスクリット語の経典に精通するバラモンの学者への尊称。「ボトチャルジョ」(「ボッタチャルジョ」の短縮形)は、典型的なバラモン学者の姓。学校では、サンスクリット語のほかに、ベンガル語の文法も教えた。 
(注2)『ぼくが小さかった頃』⑧ 参照 
(注3)『ぼくが小さかった頃』④ 参照 
(注4)当時のイギリス国王。在位:1910~1936年。 
(注5)「ロビ」は、ラビンドラナート・タゴールのベンガル語名「ロビンドロナト」の縮小形。「太陽」を意味する。 
(注6)「アルタ」はシェラック(ラックカイガラムシの分泌液)をベースにした赤い汁。化粧として女性の足の周りに塗られる。「ミルクにアルタ」は、赤味がかった白く美しい肌の形容。 
(注7)「オオカラスウリ」は赤く美しい果実を持つが、その中身はまったく食用に適さない。見てくれだけ良くて、中身がないものの喩え。 
(注8)ビジャイ・マーチャント(Vijay Merchant, 1911~1987)、ボンベイ生まれの伝説的なクリケット選手 
(注91933年11〜12月に起きた有名な殺人事件。「パークル県」は当時のビハール州(現ジャールカンド州)にある。殺された大地主のアマレンドラ・パーンデーは、父から受け継いだ広大な土地をそこに所有していた。彼は親戚一同とともに、ハウラー駅から汽車に乗って、そこに出かけるところだった。 
(注10)インドのヒンドゥー男性の日常の下衣。狭い裾模様のついた長く白い布で両足を巻くように包み、余った裾を畳んで腰や腹に差し込む 
(注11)布製の、緩いズボン 
(注1235mm映写機によって上映された、初期の映画。『ぼくが小さかった頃』⑦ 参照 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年5月2日木曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード1)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

日本のオディッシーダンサーでおそらく最年長のサキーナ彩子さんから、オディッシーの種が誰によってどんなふうに日本に蒔かれ、育ってきたかについて貴重なお話を伺いました。数回にわたってご披露します。 
 
日本人はインド好き 

日本の街を歩いていると、インド布の服やお香が店にあったり、カフェにチャイがあったり、インド映画がロングランで映画館にかかっていたり、インド芸能や学問が多くの愛好家に愛でられているのは言うまでもないが、インド文化が一般人の生活の中に浸透してきた感がある。「ナマステ」とか「マサラ」という言葉は定着しているし、インド料理の食材を街のスーパーで買うことができる。1980年代には珍しかったが今や、わりと小さな街でもネパール移民が経営するインド料理店が各地にある。ここ10年から20年の間に、日本人がインドで食べられているご飯を習ったり教えたり、マサラワーラーのようなイベントを行っているし、インドカレーがスパイスカレーというジャンルになっている。東京の「ナマステインディア」というインド文化を楽しむフェスティバルは1993年から続いていて大人気だ。ここ数年は、川崎のラタヤトラ、京都のオディシャデー、名古屋ヤタヤトラ、関東のラーマ寺院などでオディッシーダンスの故郷、オディシャに焦点をあてた催しも見られるようになった。日本人はインドが好きなのだ。 

少し大きな視点で見ると、日本人の精神性は6世紀に中国から伝来した仏教と土俗の神道が混ざりあって形作られ、生活の隅々まで仏教の教えや習慣が行き渡っている。ところが明治のころから原始仏教を直接インドに赴いて学び直したいという動きがあった。日本人の心の根底に、インドへの憧れの気持ちがある。さらに遡ると、歴史学の世界では、あまり表立って取り上げられて来なかったが、仏教の伝来以前にインドの文化は日本にたどり着いていた可能性がある。オディシャの古代人が舟で海流に乗って日本にたどり着いた、という説もあながち間違いではないのではないか。それだからこそ、多くの日本人にとってインドの音楽や芸能がどことなく懐かしい感じがするのかもしれない。不思議なことに、ほかの東アジアの国々よりもよけいに日本ではインド文化が愛でられているような気がする。 

 

種まき: 1960年代から1980年代 

インド芸術と触れる 

第二次世界大戦で敗戦を迎え、どん底にいた日本の経済復興が少し落ち着いた1960年代ころ、インドの踊りを披露する「榊原舞踊団」の存在があった。「榊原舞踊団」は日本舞踊家、榊原帰逸氏が1930年に結成した日本で最初の舞踊学校だという。榊原は1953年にインドの西ベンガル州のシャンティニケタンへ留学した。「榊原舞踊団」は世界に日本の文化を見せる活動をしていた。インドに行くと日本舞踊を披露し、日本国内では「オリエンタルダンス」と称してアジアの踊りを、とくにインド舞踊を紹介した。まだ日本の人々がインドの芸術に触れる機会のまったくない時代に大変、衝撃的だった。それを観てインド舞踊に惹かれた人がたくさんいたことだろう。 

 一方、インドのほうから著名な芸術家が来日するようになった。シタール奏者のラヴィ シャンカールは1958年にインド政府派遣文化使節団の団長として来日している。オディッシーダンスでは、1970年にサンジュクタ パニグラヒが大阪万博に参加している。ボノマリ マハラナ(パッカワージ)、モヒニ モハン パトナイク(フルート)、ビシュヌ モハン プラダン(シタール)が同行した。サンジュクタは1983年に再び来日している。このときは、ケルチャラン モハパトラ(パッカワージ)、ブバネシュワール ミシュラ(ヴァイオリン)、ラグナート パニグラヒ(歌)が同行した。1979か1980年に、リーラ サムソンとマダヴィ ムドゥガルが来日している。 


1970年の大阪万博のオディッシー舞踊団。サンジュクタ パニグラヒ(左手前)、クンクミナ、ママタ、シェンハプラバらが参加した(サビャサチ パニグラヒのコメントより)。この写真はフルート奏者のモヒニ パトナイクからサキーナ彩子に贈られた。 

 


1983年のサンジュクタ パニグラヒのコンサートポスター 
 

インド大使館が主催したマダヴィ ムドゥガルのコンサート(写真 T. Monden) 

 

参考資料: 

河野亮仙の天竺舞技宇儀 

『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著 

 

プロフィール: 

サキーナ 彩子 

京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。門下生の濱脇亜由美は2010年以降デリーのカストゥリ パトナイクに師事し活動中。 

連絡先maa.sakinadidi@iCloud.com 

 

田中 晴子 

東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023 

ウェブサイト 



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