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2024年6月19日水曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード3)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

若芽クムクム ラール 
ケルチャラン モハパトラの初期の弟子で、デリーを拠点とした重要な1人、クムクム ラールは夫の仕事の都合で1983年から4年間、東京に滞在し日本でオディッシーを本格的に教えた。クムクムはそれまで生徒を教えたことはなく、東京で初めて日本人の弟子を育てることとなった。 

 

クムクムは、それ以前の1960から70年代にオディッシーがインド国内で「古典舞踊」と認められようと模索していた時代に一役買っている。東インド地方の一伝統芸能だったオディッシーは、初期のグルたちが力を集めて復興に尽力していた。とくにケルチャラン モハパトラはオディッシーをインドの古典舞踊として広く認めてもらいたいと強く願い、インド各地に弟子を送り、オディッシーを世に広めるたゆまぬ努力をしていた。芸術として復興し研鑽されたケルチャランらの踊りがムンバイの富裕層や、デリーの官庁や知識人層に支持を得て、ようやく古典舞踊としてのオディッシーが動き出した。そうした中、政府高官だったクムクムの父はケルチャランを熱烈に支持した。言ってみればクムクムの人生は、青春期にはオディッシーダンスそのもののインドでの復興と育成の中に身を置き、美しいダンサーとして花開き、そして壮年期に日本でオディッシーの礎を築く、という稀有な巡り合わせに彩られている。クムクムの来日は、インド大使館からサポートされる文化大使のような色合いがあった。ちなみに、クムクムの義姉のギータは、サンジュクタ パニグラヒが踊りを披露した1970年の大阪万博で6ヶ月間大阪に滞在して万博を支えるスタッフの1人として尽力した。 

 

もうひとつ特筆すべき点は、踊り手ではなくてインド文化を愛する日本の民間人が集まってクムクムの活動を盛り上げていた、ということだ。そのうちの1人は埼玉県の寺院住職で自身もインドに留学し、大学でも教えるインド文化の識者、河野亮仙。河野はクムクムが東京に落ち着いたころ、インド大使館の連絡を受けてクムクムに会いに行った。その後数年に渡って河野は、クムクムとクムクムの愛弟子、高見麻子の活動を熱心に支えた。 

 

東京でクムクムの公演を見て感銘を受けた数人がその場で弟子入りを決意したのを河野は目撃している。高見麻子が最初の生徒だった。クムクムのクラスは週に4日、朝から夜まで続く本格的な構成だった。基礎訓練、理論、数多くのパラヴィやアビナヤ曲を教えた。「捧げる気持ちで踊りなさい」とダンサーの心構えを繰り返し語った。サンスクリット語に堪能なクムクムはすぐに日本語を習い、日本語でヒンドゥの哲学や神話、詳細な演目の詩の解釈を講義した。 

 

インド古典芸術の核とも言える「バーヴァとラサ」という概念について、クムクムのレクチャーデモンストレーションがあったとき、河野は、舞台でクムクムが笑うと観客も笑い楽しい気分になり、クムクムが悲しむと観客の顔も悲しそうに変化していった様子を覚えている。これがラサなのだ、と感銘を受けた、という。クムクムはインド芸術の魅力と奥義を、日本で日本の生徒、愛好者たちにその存在をもって示した。 

 

“クラスでクムクムさんは、踊りの動き、理論的なことと共に、折にふれ、インド舞踊の中に流れる宗教、哲学、神話について話してくれた。その話を聞くたびに、私は目の前の世界が宇宙に拡がっていくようでドキドキした気持ちになっていた。彼女は、この踊りを踊る上で一番大切なのは、いつでも「捧げる」気持ちで踊ることだと繰り返し教えてくれた。 

 

稽古場で、彼女が練習用の黄色い木綿のサリーを着て踊り始めると、たちまちガランとした部屋の空気は濃く甘く匂い、その姿は淡い光に包まれて見え、それは私の中に悲しいような、満ち足りたような、あるいは、力がつきあげてくるような様々な感情を一度に巻き起こしながら私をカラッポにした。”(高見麻子『インド回想記 オディッシーダンサー 高見麻子』) 

 

1986年クムクムは、オディシャからケルチャラン モハパトラを招聘し日本でコンサートやワークショップを開いた。1988年にはケルチャラン モハパトラは国賓として再来日し、天皇陛下の御前でも公演した。 

 

 

1986年、東京におけるケルちゃん モハパトラとクムクム ラールのコンサート(写真 河野亮仙)
 

クムクムに学んだ生徒には、高見麻子、比護かおり、ミーナ(森田三菜子)、香取薫などがいた。高見と比護は、1987年に開校したばかりのオディシャのオディッシーリサーチセンターで、ケルチャラン モハパトラ、ガンガダール プラダン、ラマニ ランジャン ジェナに学んだ。高見はデリーのクムクム ラール宅でも学びを深め、1990年前後、夫の都合で米国サンフランシスコに渡り、サンフランシスコを拠点にファンを増やしていった。もともとは田中裕見子にバラタナティアムを習っていた比護は、クムクムに出会い、オディシャに渡りオーリヤ語を話すようになり、長いことケルチャランから学んでいたという。ミーナは、やがて台湾に渡り活躍する。香取はアーユルヴェーダ、インド スパイス料理研究家となった。 

 

一方、このころまでに九州に拠点を移していたサキーナ彩子は、ときおり請われて関西や東京に教えに行った。そこでインスピレーションを得たのが、浜田さえこ、安延佳珠子、茶谷祐三子、小野雅子らだった。1987年には、浜田さえこは渡印してマダヴィ ムドゥガルに師事し、1992年に帰国して大阪で開校した1988年には、奈良女子大学で身体表現を学んだ柳田紀美子が仕事の都合でオディシャに渡りオディッシーに魅了され、ハレ クリシュナ ベヘラ、スバス チャンドラ スワインに学び、のちに大阪で開校した。 

  

参考資料: 
河野亮仙の天竺舞技宇儀 
河野亮仙 日印文化交流年表 
『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著 
『インド回想記:オディッシーダンサー 高見麻子』高見麻子(文)、田中晴子(編) 
 

プロフィール: 
サキーナ彩子 
京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。 
連絡先maa.sakinadidi@iCloud.com 
 

田中晴子 
東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記オディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023 
ウェブサイト



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