お釈迦様のお悟りとは
お釈迦様は菩提樹下でお悟りを開いたといわれるが、悟りとは何だろう。おそらく個人的なもので一人一人その内容は違うのではないか。お釈迦様の悟りというのは、実は、誰にも分からない。
例えば、王と長島、大谷の獲得したバッティング技術は違うし、大谷と山本、ダルビッシュの投球術も異なる。それぞれの来歴や身体性によって悟りがあるのではないかと思う。果たして生成AIにお悟りはあるのだろうか。
そもそも悟というのは中国語であり、菩提bodhiは、正覚、覚悟、開悟、得道と訳される。そんじょそこらの悟りとは違うお釈迦様の悟りは、無上にして完全な悟り、阿耨多羅三藐三菩提と音訳される。
八支ヨーガ
佐保田鶴治『解説ヨーガ・スートラ』平河出版社、1980年によると、第2章29のスートラは次の通り。瞑想の伝統はウパニシャッドの時代以来で、仏教でもバラモン教でも修行者の知識、技術は共有されている。
「ヨーガは次の八部門から成る。禁戒、勧戒、坐法、調気、制感、凝念、静慮、三昧」。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティアーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディとするするサンスクリットが出てくる方はインド通。
ヨーガの実践家であるアーネスト・ウッズの凝念、静慮、三昧に対する英語訳はconcentration、meditation、contemplationである。彼は19歳で神智学協会に入会し、インドにおいて高校、大学の学長となり、長年にわたり奉仕活動を行った。
瞑想は、まずは集中から始まる。凝念の段階では心を特定の所に結びつける。ヨーガというのは心が散漫にならないよう結びつけること、心に軛を付けること。ろうそくや梵字の阿の字、オームとかマントラ、あるいは呼吸に集中する。
静慮、禅那とは、凝念から引き続き同一の場所を対象とする想念が、一筋に伸びていくこと。
瞑想を続けると三昧に至る。思念する客体ばかりになり、自体(主観の存在)をなくす。ヨーガ・スートラ第1章43佐保田訳によると、
「定の心境からさらに深まって、分別知の記憶要素が消えてしまうと、意識の自体がなくなってしまったかのようで、客体だけがひとり現れている。これが無尋定である」
主客が未分化となり、至福アーナンダに満たされる。ここまで来ると悟りであろうか。そのまた先に無上等正覚があるようだが。ヨーガでは一切が止滅する無種子三昧を説く。
アーナンダというのは世俗の喜びではなくて宗教的な微妙な喜び。ヨーガを続けていると自分の奥から微妙な喜び、愛が湧き出てくる。それは「私」のない喜び。周りの人に移り、いい環境が周囲にできる。それがヨーガの本当の狙いだと佐保田鶴治はいう。
脳内で起きていること
マーク・ロバート・ウォルドマン『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか』ナチュラルスピリット、2019年によって略述する。彼が自らfMRI(機能的磁気共鳴画像法)のスキャナーに入り、我流の瞑想をすると頭頂葉の活動が低下した。
頭頂葉の働きというのは、脳に入ってくるすべての感覚情報を取り込み、自意識を作り出し、自分と自分以外の世界との関係を確立すること。この働きが鈍ると自分自身と周囲の世界との境界があやふやになる。
ふつう、人が聖なるイメージに集中するとき、前頭葉の活動は活発になる。ところが前頭葉の活動も低下していた。そこで、異常な神秘体験や悟りを経験するにはこの異常な活動低下が必須ではないかと想定した。
悟りは脳の異なる部位への血流の流れの極端な変化によって引き起こされる。すると新しい見方で世界を見て、驚異的な感動を伴うことも多い。このような認知上のシフトは主観的なものなので言葉では表現しにくい。
ヨーガ・スートラ
ヨーガ・スートラ第1章の1は「これよりヨーガ解説をしよう」。2番は「ヨーガとは心チッタの働きヴリッティを止滅すること」citta vritti nirodhaであると示されている。ニローダの意味は抑制するということだが、むしろ、三昧サマーディに近いニュアンスである。心に何もないという状況に至ると輪廻を断ち切れる、解脱し涅槃に至ると考え修行した。
毎日、瞑想を続けていると、だんだん深くなってきて、はっと気がつくと何時間も経っているということがある。また、宇宙と一体となる感覚があり、大宇宙の果てまで隅々を把握できる。いわゆる天耳通、天眼通である。
第3章には凝念、静慮、三昧の三者を修することによって智慧プラジュニャーの光が輝き出ると記される。すると、過去と未来を知り、前世を知り、他人の心を知り、宇宙の運行を知る、千里眼、天耳通を得るとされる。
超自然的な能力を肯定するのは、経験する世界のすべての事象は、物理的なものも心理的なものも、一つの根源的実在の各瞬間ごとの休みない転変の上に成り立っている、心と物質に区別を立てないというヨーガ・スートラの極めてインド的な考え方による。
般若の光が輝き出すのが釈尊の悟り、無上等正覚であろうか。それは、その近くまで修行した沙門たちには理解できても、普通の人に説くことは難しい。
お悟りの内容は十二因縁か
バラモン教の主神であるブラフマー神が釈迦に説法してくれと頼んだのは、世間一般の人々のために法を説いて救いの道を示してほしいということだから、まずは出来ないと断ったことだろう。微妙にして深遠な法は、貪欲にまみれ、暗闇に覆われた者は見ることが出来ないと。
しかし、再三要請されて、迷妄を捨てた心ある者に微妙なる正法を説くことを決意する。
それなら諄々と当たり前のこと、分かりやすいことから人々に説けばよいと考えた。それが生老病死、四苦八苦であろう。
教科書的には十二因縁や八正道を説いたということになるが、それは釈尊の説法を後の人が理論的に再構成したものだ。悟りの内容も鹿野苑での初転法輪も当事者にしか分からない。教えを理解させようと、大変、上手に演出された脚本、釈尊劇がお経であり、阿弥陀経や維摩経も釈尊劇のスピンオフ・ドラマである。般若心経は観音経のアンサーソングだ。
比丘たちよ、両極端に親近してはならない。快楽を貪ってもいけないし、極端な苦行も自分を苦しめるだけであって、聖なる行いではないと不苦不楽の中道を説く。苦集滅道の四聖諦を説明し、道諦として苦を逃れるための道筋、八正道を列挙する。それが正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
四苦八苦
赤子にとっては真っ暗な羊水に漂っているのは安定した状況で、そこから追い出され窮屈な膣道を通ってまぶしい外の世界に出ること、生れるのは大冒険であり苦痛である。生から苦が始まる。
時間軸において成長することは老いることでもあり、病原菌など外界からのアタックに対抗して病ということが起き、それは修復作用であっても苦痛である。そして、必ず訪れるのが死であり、分からないもの、未知なるものは恐い。
四苦八苦というのはこの四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)、愛しいものとは必ず別れがあり、怨憎会苦(おんぞうえく)、憎きものとは必ず相対することがある。求不得苦(ぐふとくく)、何でも手に入ると思ったら大間違い、五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊とは色受想行識、五つの働きによって成り立つわたしは、生きている限り苦のてんこ盛り。名言である。
仏教は苦しみの元を十二縁起(十二因縁)として説明した。それは無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)をいう。
風が吹けば桶屋が儲かるというように、「無明によって行がある」から始まって老死が最後にやってくる。これを克服するにはどうしたらよいのか。
無明とは迷いの根本であり、これを滅すると次は行である。行とは無明から作り出された善悪の行業。無明を滅するとこの無意識のうちに働きかける苦をもたらす心作用、行を滅することができる。
行が滅すると識、認識の活動を滅することができる。識が滅すれば、名、すなわち形のない精神的な要素と色、形を持つもの(身体)を滅することができる。名色が滅することによって六入、六つの感覚器官、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意を滅する。六入が滅すれば触という感覚が滅する。触がなくなれば受、感受作用が滅する。受ということがなくなれば、愛が滅する。
愛というのは西洋的なラブではなく、トリシュナー、タンハーで渇愛と訳される。ストーカー的な飽くなき欲望である。この偏愛をなくすと取、執着ということがなくなる。執着がなくなれば有、輪廻を繰り返す存在を滅することができる。
生存がなければ生まれることもない。生まれさえしなければ、当然、老死もない。無明を滅ぼすことができれば、最後は老死もなくなる、輪廻しないで解脱できる。
環境の厳しい地において、インド人は生まれ変わり、すなわち、生は苦しみという諦観を持っている。生まれ変わったら誰それと結婚してお菓子を作って、一緒に喫茶店を経営してケーキを売りたいなどという甘ったれた考えはしていない。
しかし、心経の本文には「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道」とあり、この観法をも無であると否定している。四聖諦、苦集滅道も否定している。「無智亦無得」と知る働きとそれによって真理を得ることも否定している。ならどうすりゃいいのということになる。禅宗の公案のようにショック療法で悟る人もいるかもしれない。
悟りの智慧さえ、そして、空そのものも空じて無上菩提に至る。般若波羅蜜によって菩提薩埵は心が無明に覆われることなく、こだわりなく、恐怖もなく、間違った考え方を超克して涅槃に赴く。
たたみかけるように、現在過去未来の三世の仏たちも般若波羅蜜多に依って、心の中に何も対象がなく、無上の完全な正覚を得るという。菩提薩埵、菩薩とは私たちのことであり、仏たちと重ね合わせられている。
「以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
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般若心経とヨーガ・スートラ first appeared on つながる!インディア.
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