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2024年7月17日水曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード4)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

若葉のとき: 1990年代 

1990年代には、後年日本でオディッシー学校を開き、後進の育成に励む日本人ダンサーたちがぞくぞくとインドに渡り学ぶ。 

1990年、茶谷祐三子はプロティマ ガウリ ベディがバンガロール郊外に開校した少人数の内弟子制の学校、ヌリッティヤグラム(ダンスヴィレッジ)の最初の生徒の1人となった。茶谷は1986年のケルチャラン モハパトラとクムクム ラールの舞台を見てオディッシーを習いたいとずっと願っていた。 

バラタナティアムですでに日本で活躍していた田中裕見子はオリッサのラマニ ランジャン ジェナの元でオディッシーのマンチャプラベーシュ(お披露目コンサート)の準備を始め、デリーに拠点を移したラマニと一緒に移動し、1990年にデリーでマンチャプラベーシュを行った。ラマニにはだんだん日本人の弟子が増えていく。野中ミキはヴァサンタマラ研究所で学んだ後、1990年に留学、ラマニに学んだ。野中に師事していた桐山日登美も1997年、ラマニに師事。野中、桐山は2000年にラマニを日本へ招聘し、京都、神戸、大阪などで公演を5回、レクチャー&デモンストレーションとワークショップを行った。公演は日本人音楽家による生演奏があったり、毎回アイテムが違っていたり、充実した内容だった。 

その当時は関西のほうがオディッシーダンサーが多くいらっしゃいました。東京やデリーは白黒はっきりした直線的なイメージがあって、オディシャや関西は曲線的というかなんかのんびりした感じが、似てるのかな、と当時の私はそんなふうに思っていました。」(桐山日登美談)  

 

神戸アートビレッジセンターで「クルヤドゥナンダナ」を踊るラマニランジャンジエナ。 2000年6月4日、 オディッシィダンススタジオカマラカラ・ピータ主催の コンサート「オリッシィの魅力」 にて。 (写真提供 桐山日登美)

 

ほかには、櫻井暁美の招聘で、1993年にイリアナ チトリスティが来日し、大阪、徳島、京都、広島でオディッシーの公演やワークショップを開催した。イリアナのたっての希望で京都の禅寺での数日を堪能した。その後、2008年に再度来日した。 

1992年に安延佳珠子は、シャンティニケタンへ留学、その後オディシャのスルジャンでケルチャラン モハパトラに学ぶ。2000年前後は、ときどき安延佳珠子が上京する以外、オディッシーの先生は関東にいなかったという。じきに安延は東京で開校し多くのダンサーを育成した。1996年には日本のインド大使館でパンフレットを見た小野雅子がヌリッティヤグラムに入門する。同じく1996年、福島まゆみがオディッシーを始め、1998年にスルジャンでケルチャラン モハパトラに、1999年にムンバイでジェーラム パランジャペに学ぶ。2000年から毎年ケルチャランを訪ね、東京で開校した。また、福島に学んだ、名古屋の佐藤幸恵は2008年よりスジャータ モハパトラに師事。 

浜田さえ子に学んだ直原牧子は1993年に渡印してマダヴィ ムドゥガルに学ぶ。1996年に神戸商科大学でアメリカ文学を教えるために、ラトナ ロイが一学期間滞在した。この前後、ラトナは数回日本で公演やワークショップを行っている。浜田に1993年から学んでいた村上幸子は、浜田と一緒にラトナに学び始め、村上は翌年アメリカに移動したラトナの元に渡り、1999年にシアトルでソロデビューした。その後、インドでガンガダール プラダン、続いてロジャリン モハパトラに学ぶ。枡井由美子も浜田に学び、オリッサダンスアカデミーのシニアダンサー、ポビットラ クマール プラダンに師事。油谷百美もポビットラに師事し、Rudrakshya Foundationでも学んだ。 

などなど多くの日本人ダンサーが活躍し始めた。 

 

のびのびと枝をはる日本のオディッシー: 2000年以降 

2000年代に入ると、スバス チャンドラ スワイン、スジャータ モハパトラ、ラティカント モハパトラ、ラフール アチャリヤ、ロジャリン モハパトラ、ガジェンドラ クマール パンダ、ジェーラム パランジャペ、ヴィシュヌー タッタヴァ ダス、ミーラ ダス、ソナリ モハパトラ、ナムラタ メタなどさまざまなオディッシーの踊り手が日本を訪れるようになった。日本のオディッシーダンサー個人が師匠を本国から招待するだけではなく、民間のインド交流団体の日印文化交流 (India-Japan Cultural Exchange)や日印交流を盛り上げる会、ミティラー美術館などや、インド政府の文化交流派遣事業ICCRなどでアーティストが来日する機会が増えた。著名な踊り手が公演、レクチャー、ワークショップのほかに、学術的なカンファレンスに参加することもある。例えば、2008年前後にはシャルミラ ビスワスが、日本大学で行われた世界の巫女舞を研究する会議に参加し、シャルミラはマハリの踊りを披露した。大勢のアーティストをインドから招 

聘しているミティラー美術館の長谷川時夫が、2004年、2007年にゴティプア舞踊団を呼び、日本全国各地を周った。 

 

2004年、 東京のナマステインディアに出演したゴティプア舞踊団 (写真 河野亮仙)

 

それまでは日本のオディッシーはケルチャランスタイルのみだったが、2000年代に入ってからは、日本ではデヴァプラサード スタイルの人気が高まり、生徒が増えた。2006年に仲香織がデヴァプラサード スタイルをガジェンドラ クマール パンダに学んだ。2010年、ガジェンドラは来日し日本各地で公演、ワークショップをした。そこに来ていた、三浦知里が名古屋を本拠地にデヴァプラサード スタイルを日本に定着することに一役買う。その同時期に、ドゥルガー チャラン ランビールと弟子のラフール アチャリヤに学ぶ篠原英子が、2011年と2014年にラフール アチャリヤを招待した。篠原は2009年にインドへ渡りラフールの最初の日本人の弟子となり、東京を拠点に活動を続けている。日本ではマレーシアのスートラ舞踊団が大変人気がある。ガジェンドラとスートラ舞踊団、大阪のインド総領事は懇意にしていることもあって、2023年には、ガジェンドラ クマール パンダとスートラ舞踊団が来日して盛り上がった。 

中堅の日本人オディッシーダンサーたちは、舞踊学校を始め後進の育成に務めるだけではなく、多くはヨガや瞑想を教えたり、サリーの着方などの文化講座を開き、あるいはオディシャの民芸品や芸術品の販売など、踊りだけではなく幅広い文化交流を行っている。また、本国でさまざまに変化し続けているオディッシーダンスを反映して、日本のオディッシーにもさまざまな表現が見られるようになった。オンラインで学ぶことが普及してきたこともあって、特定の学校に属さないで学ぶ踊り手が増えている。

 

オディッシーが生まれたオディシャ州で信仰されている(右から)ジャガンナータ神、スバドラー神、バラバドラ神。大阪の国立民族学博物館には、この三柱の神様のほかに山車も展示されている。オディッシーダンスは、マハリと呼ばれた神様の世話をする女性たちが寺院で奉納した踊りに起源がある。毎年夏にプリーで執り行われる山車祭りには大勢の巡礼者が訪れる。オディッシーダンスも奉納され、ジャヤ デーヴァ作「ギータ ゴヴィンダ」の歌などが歌われる。(写真 田中晴子)

 

実り 

日本人になぜオディッシーがこんなにも広まり愛されるようになったのか?舶来のものを愛でる気持ちと、インドへ憧れの気持ちが根底にある。オディッシーの動きは柔らかく、円を描くようで、しなやかで好きだ、そして、オディッシーの感情表現が好きだ、自分に合っている、と言う日本人ダンサーは多い。「グル シシャ パランパラ」、つまりお師匠さんに弟子入りしてグルへ奉仕しながら学ぶスタイルも日本人には馴染みがある。献身の喜びを日本人は生得しているところがある。そして、なかなかわかりにくいインド舞台芸術の真髄、バーヴァとラサの概念を、とくに教えられなくても自然に受け止めることのできる感性が高い人が日本人には多いと思う。さらに、生来の真面目さ、緻密さ、正確さを愛する性分と、神道からくる浄を愛で不浄を忌む感覚も加わると、献身的情熱的オディッシーダンスの生徒ができあがる、と私は思っている。 

私財を投げ打ち、人生のすべてを捧げた先人たちのオディッシーへの献身の姿を想うと頭が下がる。大御所、中堅所の日本人オディッシーダンサーたちは、インドで偉大なグルと巡り合い、身近に接して教えを受けたという恩恵に恵まれている。生身のグルの存在感から受ける印象は、言葉にできないものであっただろう。生徒たちは献身の喜びを体験したに違いない。ところで、かのグルたちは、智慧を誰から授かったのだろう?オディシャの人たちならそれは神の恩寵にほかならない、と言うだろう。日本人オディッシーダンサーたちがグルから受け取ったのは、神の恩寵だったのではないだろうか? 
 

   私の中のオディッシーとは 

   あの夜の空に月が輝くとき 

   あの日の昇るとき、沈むとき 

   夜風に花の香りの満ちるとき 

   波の音を聞くとき 

   大きな滝の下に立つとき 

   そんなときどきに この世界の美しさの中 

   私は 酔っ払う 

 

   オディッシーのあの調べ あの動き そのすべてが 

   私の身体の芯を喜び震わす 

 

   初めてオディッシーをみたとき 

   私の中で何かが大きくシフトした 

   そしてそれから 私の前に踊りが現す世界を 

   私の内に外に 感じつづけている 

  (高見麻子 遺稿より) 

 

本文中に登場する偉大な師匠、恩師のみなさまの敬称を省略させていただきましたが、深い敬愛の念を常に胸に抱いて執筆いたしました。お力を貸していただいたサキーナ彩子さん、田中裕見子さん、桐山日登美さん、福島まゆみさん、村上幸子さんに篤くお礼を申し上げます。 

  

参考資料: 

河野亮仙の天竺舞技宇儀 

河野亮仙 日印文化交流年表 

My Journey: A Tale of Two Birthsイリアナ チタリスティ著 

 

プロフィール: 

サキーナ彩子 

京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。 

連絡先:maa.sakinadidi@icloud.com 

 

田中晴子 

東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記ーオディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023)、『神の手 治療家 坂井秀雄』(2024) 

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2024年7月2日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑲(最終回)

学校生活(5 

 

昼休みの1時間の間に、食事と遊びの両方があった。家から弁当を持ってくる生徒もたくさんいた。ぼくらは、1包み1ルピーの、アルー・ドム (1) を食べた。カレー味のジャガイモは、沙羅の葉の筒に入っていて、一本の串がついている。これでジャガイモを串刺しにして、口に頬張る。ある日、昼食の時間に、新しい、驚くべき食べ物が持ち込まれた。紙に包まれた、バターのように見えるアイスクリーム –– その名も、ハッピー・ボーイ(Happy Boy)。ベンガル人の会社の商品で、街頭で売られるアイスクリームの、先駆けだった。しばらくすると、街中に、ハッピー・ボーイ・アイスクリームを載せた押し車が見られるようになった。ハッピー・ボーイがなくなると、マグノリア、そしてそのずっと後に、クワリティ(Kwality)とファリニ(Farinni (2)  

 

昼休みの遊びの中には、棒弾き遊び (3) を除けば、特に人気があったのは独楽回しだ。ジョグ・バブー市場 (4) の側にある、ミトロ・ムカルジの店の階段に、夕方になるとカルカッタの最良の独楽作り、グピ・バブーが店を開いた。独楽がどんなによく回るか、グピ・バブーの作った独楽を見たことがない人にはわからないだろう。その独楽をぶつけて、他の独楽を壊す遊びが、昼休みに続けられた。その他、掌の上で回したり、回したまま宙に飛ばしたり、回っている独楽を、片方の掌から廻し紐の上にすべらせてもう一方の掌に渡したり –– こうしたいろんな遊びがあった。一度、投げた独楽が的から外れて、オモルの足に当たったことがあった。彼の足の甲から、すぐに血が迸(ほとばし)り出た。 

 

遊んでいる時、このような危険な目に遭うことは、他にもあった –– スポーツ大会の日のショシャントのように。彼はぼくらの同級生で、スポーツと勉強のどちらもよくできた。スポーツ種目の中に、目隠し競争というのがあった。運動場の一方の端からもう一方の端へ、100メートルほどの距離を、目隠しした状態で走らなければならない。競争が始まった。シュシャントはまっすぐ走ることができず、途中で左の方に逸れていくのが目に映った。誰か一人、彼の名を叫んで注意を促した。シュシャントは一瞬怯んで足を止めたが、次の瞬間、遅れを取り戻そうとして、猛烈な速さで走り出し、ゴールの柱から230メートル左にあった学校の境界の壁に、目隠しの状態でまともにぶち当たった。その光景、そのぶつかった時の音を思い出すと、今でも身体に震えが来る。その次の年から、もちろん、目隠し競争自体が禁じられた。 

 

学校の最初の4年間、ぼくはボクル=バガン・ロードにずっと住んでいた。9年生に在学中、ショナ叔父さんとともに、ベルトラ・ロード (5) に引っ越した。この家は、ボクル=バガン・ロードの家より、少し大きかった。ベルトラのぼくらの家の隣には、チットロンジョン・ダーシュ (6) の娘婿の法律家、シュディル・ラエが住んでいた。彼らが持っていた薄黄色の車は、あの有名なドイツ製の車、メルセデス・ベンツ –– ぼくらそれを、初めて目にしたのだった。シュディル・ラエの息子のマヌとモントゥは、ぼくの友達になった。マヌも後に法律家になり、さらにその後政界入りして国民会議派の一員となり、西ベンガル州の首相にまでなった。その当時、彼は、シッダルトションコル・ラエ (7) の名前で知られていた。 

 

ベルトラには、男の子たちのクラブがあった。ぼくがベルトラに移って2, 3日経つと、近所の男の子たちが現れて、ぼくをクラブに入れるために連れ出した。マヌとモントゥもクラブの会員だった。ぼくらの家から二つ向こうの家には、もう一人の法律家、ニシト・シェンが住んでいたが、その家には広い地面があって、そこでクリケットとホッケーをしたものだ。いっぽう、マヌたちの家の狭い地面は、バドミントンをするのに使われた。ニシト・シェンの息子や甥の、チュニ、フヌ、オヌも、皆、クラブに属していた。その他、チャトゥッジェ家のニル、ボル、オナト、ゴパルもクラブの会員だった。在学中に、みんな、ぼくの友達になった –– 彼らは家の外の道から、ぼくの部屋に向かって、近所に響きわたる声で叫ぶ –– 「マニク、いるかい?」 やがて彼らには、もう一人新しい仲間が加わった。 

 

その子は ‘South Suburban School’ 南郊外校) (8) に通っていた –– ぼくより4歳ほど年上だったけれど、学年はぼくと同じだった。何度かたて続けに、落第した結果だったのだろう。名前はオルン、呼び名はパヌ。モエモンシンホ県(東ベンガル)出身の、オキルボンドゥ・グホの家の子だった。ニシト・シェンの家の向かいの家だ。ぼくらのクラブの会員になったけれど、頭が良くなかったので、誰にも相手にされなかった。そのパヌが、ある日突然、ドムドム (9) の飛行クラブに入り、飛行機の操縦を身につけたのだ。その後、飛行クラブの年に一度の催しに、彼はぼくらを、ドムドムへ招待した。彼は二人乗りの飛行機を操り、空に舞い上がったかと思うと次々に爆音を立ててダイブを繰り返し、ぼくらに向かって下りてくるかと思えばまた空に舞い上がる –– こうして、ぼくらをあっと言わせたのだ。この時以来、もちろんぼくらは、パヌに一目置くようになった。 

 

 

 

ぼくらの時代には、政府の法律で、15歳以上でないと大学入学資格試験の受験資格がないことが決められていた。試験は1936年の3月にある。その時には、ぼくの年齢は14歳10ヶ月。つまり、1年間、待たなければならない。困ってしまった。法律家の手を借りて年齢を水増しすることはできるけれど、母さんはそんなことを決して許そうとしない。ところが、驚くべきことに、試験のわずか数ヶ月前になって、政府はこの15歳の年齢制限を撤廃した。おかげでぼくは、1年待たなくてもよくなった。 

 

学校を卒業して10年あまり後、何かの催しで –– たぶん昔の級友たちの集いに参加するために –– 公立バリガンジ高等学校に行かなければならなくなった。大ホールに入った途端、こう思った –– あれ、一体どこなんだ、ここは! このホールが、あのホールだって? –– あんなにでっかいと思っていたのに? 入る時、扉に頭がつっかえてしまう! 扉だけではない、すべてが、とんでもなく小さく感じられた –– ベランダも、教室も、教室のベンチも。 

 

もちろん、そうなるのは当然だった。学校を卒業した時、ぼくの身長は160センチ足らずだったのに、10年後に学校を訪問した時には、195センチに届こうとしていた。学校はそのままで、大きくなったのはぼくの方だ。 

 

この後、二度と学校に戻ることはなかった。子供の頃の記憶に満ちた場所に、改めて行ったところで、昔の楽しさを取り戻すことはできない。追憶の山の中を手探りして、それらを取り戻すことの中に、本当の楽しみがあるのだ。 

 

 

訳注 

(注1)汁無しの、ジャガイモ・カレー。 

(注2)いずれも、アイスクリームやパン・菓子類の製造・販売で、有名な店。『ぼくが小さかった頃』② 参照。 

(注3)長い木の棒で木の小さな切れ端を弾き、遠くに飛ばして、遊ぶ。『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照。 

(注4)「ジョドゥ・バブーの市場」の名でも知られる。南カルカッタのボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)地区北部にある市場。 

(注5)ベルトラ・ロード(Beltala Road)は、ボバニプル地区の、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。 

(注6Chittaranjan Das (1870-1925)  著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」の呼び名で知られる。『ぼくが小さかった頃』⑧ 参照。 

(注7Siddhartha Shankar Ray (1820-1910)  著名な法律家・政治家国民会議派に属し、西ベンガル州の首相、のちにアメリカ合衆国のインド大使などを務める。 

(注8)ボバニプル地区の最南端にある、州立の学校。1874年設立。 

(注9)ドムドム(Dum Dum)は、カルカッタ北部、現カルカッタ空港のある地域。『ぼくが小さかった頃』② 参照。 
 
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
 
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2024年6月19日水曜日

日本のインド古典舞踊 オディッシーのはじまり(エピソード3)

サキーナ彩子(語)、田中晴子(まとめ) 

 

若芽クムクム ラール 
ケルチャラン モハパトラの初期の弟子で、デリーを拠点とした重要な1人、クムクム ラールは夫の仕事の都合で1983年から4年間、東京に滞在し日本でオディッシーを本格的に教えた。クムクムはそれまで生徒を教えたことはなく、東京で初めて日本人の弟子を育てることとなった。 

 

クムクムは、それ以前の1960から70年代にオディッシーがインド国内で「古典舞踊」と認められようと模索していた時代に一役買っている。東インド地方の一伝統芸能だったオディッシーは、初期のグルたちが力を集めて復興に尽力していた。とくにケルチャラン モハパトラはオディッシーをインドの古典舞踊として広く認めてもらいたいと強く願い、インド各地に弟子を送り、オディッシーを世に広めるたゆまぬ努力をしていた。芸術として復興し研鑽されたケルチャランらの踊りがムンバイの富裕層や、デリーの官庁や知識人層に支持を得て、ようやく古典舞踊としてのオディッシーが動き出した。そうした中、政府高官だったクムクムの父はケルチャランを熱烈に支持した。言ってみればクムクムの人生は、青春期にはオディッシーダンスそのもののインドでの復興と育成の中に身を置き、美しいダンサーとして花開き、そして壮年期に日本でオディッシーの礎を築く、という稀有な巡り合わせに彩られている。クムクムの来日は、インド大使館からサポートされる文化大使のような色合いがあった。ちなみに、クムクムの義姉のギータは、サンジュクタ パニグラヒが踊りを披露した1970年の大阪万博で6ヶ月間大阪に滞在して万博を支えるスタッフの1人として尽力した。 

 

もうひとつ特筆すべき点は、踊り手ではなくてインド文化を愛する日本の民間人が集まってクムクムの活動を盛り上げていた、ということだ。そのうちの1人は埼玉県の寺院住職で自身もインドに留学し、大学でも教えるインド文化の識者、河野亮仙。河野はクムクムが東京に落ち着いたころ、インド大使館の連絡を受けてクムクムに会いに行った。その後数年に渡って河野は、クムクムとクムクムの愛弟子、高見麻子の活動を熱心に支えた。 

 

東京でクムクムの公演を見て感銘を受けた数人がその場で弟子入りを決意したのを河野は目撃している。高見麻子が最初の生徒だった。クムクムのクラスは週に4日、朝から夜まで続く本格的な構成だった。基礎訓練、理論、数多くのパラヴィやアビナヤ曲を教えた。「捧げる気持ちで踊りなさい」とダンサーの心構えを繰り返し語った。サンスクリット語に堪能なクムクムはすぐに日本語を習い、日本語でヒンドゥの哲学や神話、詳細な演目の詩の解釈を講義した。 

 

インド古典芸術の核とも言える「バーヴァとラサ」という概念について、クムクムのレクチャーデモンストレーションがあったとき、河野は、舞台でクムクムが笑うと観客も笑い楽しい気分になり、クムクムが悲しむと観客の顔も悲しそうに変化していった様子を覚えている。これがラサなのだ、と感銘を受けた、という。クムクムはインド芸術の魅力と奥義を、日本で日本の生徒、愛好者たちにその存在をもって示した。 

 

“クラスでクムクムさんは、踊りの動き、理論的なことと共に、折にふれ、インド舞踊の中に流れる宗教、哲学、神話について話してくれた。その話を聞くたびに、私は目の前の世界が宇宙に拡がっていくようでドキドキした気持ちになっていた。彼女は、この踊りを踊る上で一番大切なのは、いつでも「捧げる」気持ちで踊ることだと繰り返し教えてくれた。 

 

稽古場で、彼女が練習用の黄色い木綿のサリーを着て踊り始めると、たちまちガランとした部屋の空気は濃く甘く匂い、その姿は淡い光に包まれて見え、それは私の中に悲しいような、満ち足りたような、あるいは、力がつきあげてくるような様々な感情を一度に巻き起こしながら私をカラッポにした。”(高見麻子『インド回想記 オディッシーダンサー 高見麻子』) 

 

1986年クムクムは、オディシャからケルチャラン モハパトラを招聘し日本でコンサートやワークショップを開いた。1988年にはケルチャラン モハパトラは国賓として再来日し、天皇陛下の御前でも公演した。 

 

 

1986年、東京におけるケルちゃん モハパトラとクムクム ラールのコンサート(写真 河野亮仙)
 

クムクムに学んだ生徒には、高見麻子、比護かおり、ミーナ(森田三菜子)、香取薫などがいた。高見と比護は、1987年に開校したばかりのオディシャのオディッシーリサーチセンターで、ケルチャラン モハパトラ、ガンガダール プラダン、ラマニ ランジャン ジェナに学んだ。高見はデリーのクムクム ラール宅でも学びを深め、1990年前後、夫の都合で米国サンフランシスコに渡り、サンフランシスコを拠点にファンを増やしていった。もともとは田中裕見子にバラタナティアムを習っていた比護は、クムクムに出会い、オディシャに渡りオーリヤ語を話すようになり、長いことケルチャランから学んでいたという。ミーナは、やがて台湾に渡り活躍する。香取はアーユルヴェーダ、インド スパイス料理研究家となった。 

 

一方、このころまでに九州に拠点を移していたサキーナ彩子は、ときおり請われて関西や東京に教えに行った。そこでインスピレーションを得たのが、浜田さえこ、安延佳珠子、茶谷祐三子、小野雅子らだった。1987年には、浜田さえこは渡印してマダヴィ ムドゥガルに師事し、1992年に帰国して大阪で開校した1988年には、奈良女子大学で身体表現を学んだ柳田紀美子が仕事の都合でオディシャに渡りオディッシーに魅了され、ハレ クリシュナ ベヘラ、スバス チャンドラ スワインに学び、のちに大阪で開校した。 

  

参考資料: 
河野亮仙の天竺舞技宇儀 
河野亮仙 日印文化交流年表 
『グル ケルチャラン モハパトラ』イリアナ チタリスティ著 
『インド回想記:オディッシーダンサー 高見麻子』高見麻子(文)、田中晴子(編) 
 

プロフィール: 
サキーナ彩子 
京都生まれ。オディッシー インド古典舞踊家。1981年初渡印。「スタジオ・マー」主宰、福岡を拠点に各地で独創的な作品を発表、献身的に後進の指導を続ける。 
連絡先maa.sakinadidi@iCloud.com 
 

田中晴子 
東京出身、米国サンフランシスコ郊外在住。オディッシー インド古典舞踊家、文筆家。コロラド大学宗教学科修士課程修了。晩年の高見麻子氏、高見が他界したあとはヴィシュヌー タッタヴァ ダス師に師事。高見から受け継いだ「パラヴィ ダンスグループ」主宰。クムクム ラール氏、ニハリカ モハンティ氏にも手解きを受ける。著書訳書:『インド回想記オディッシーダンサー 高見麻子』(七月堂、2019)、『オディッシー インド古典舞踊の祖 グル ケルチャラン モハパトラ』(イリアナ チタリスティ著、田中晴子訳、2021)、『数子さんの梅物語ー北カリフォルニア マクロビオティック人生』(2023 
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2024年6月11日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑱

学校生活(4 
 
子供の頃から、絵を描くのはけっこう上手だった。そのため、入学して間もないうちに、ぼくは、絵の先生アシュ・バブーのお気に入りの生徒になった。東ベンガル出身のアシュ・バブーが、「ショットズィトは、名前もショットズィトなら仕事もショットズィトだ」(1) と言うのを、何度も耳にした。でも、「仕事もショットズィトだ」という言葉で彼が何を意味していたのか、ぼくにはわからなかった。痩せぎすの弱々しい人で、角ばった鼻、薄い口髭、手の指は細長く、禿げ頭の後ろの方は油でテカテカした長髪。公立美術学校(2) で絵画を学んだのだが、英語はまったくダメだった。生徒たちは皆、それを知っていたので、クラスに通達が来る度に、声を合わせて叫ぶ、–– 「先生、通達です!」 アシュ・バブーは、門衛が入ってくるのを見るや、何か一つやることを選んでそれにすっかり没頭しながらこう言う、「ディリプ、通達をちょっと、読んでくれないかな!」 ディリプは学級委員だ。彼が通達を読み上げて、アシュ・バブーの問題を解決する。ある日、ぼくの絵の一つに、アシュ・バブーは「10 + F」と点数をつけた。皆が覗き込み、点数表を見て訊いた、「+ F って何ですか、先生?」 アシュ・バブーは真面目くさった顔で答える、「F はな、一番(First)の意味だ。」 
 年に一度の表彰式のしばらく前から、アシュ・バブーは忙しくなった。彼には大ホールの飾りつけが任されている。生徒たちが描いた絵の展示もあって、その責任者も彼だ。賞状授与の前のいろいろな演目の中に、とっておきのものが一つあるが、それにもアシュ・バブーは貢献している。その演目は、「音楽に合わせた描画(Music Drawing)」という名前だ。たぶんこれは、学校の創立の時から続いていたのだろう。舞台の上には、黒板とカラーのチョークが置かれている。生徒の一人が歌を一つ歌い、もう一人の生徒がその歌詞に合わせて黒板の上に絵を描く。ぼくの在学中、毎回同じ歌が繰り返された —— タゴールの歌だ: 
 
汚れなき 真白き帆 甘き風を 緩やかに浴びて 

進みゆく舟 その麗しさ —— かつて見しこと 無きが如くに。 
 
最後の2年を除き、毎回同じアーティストが絵を描いた –– ぼくらより3学年上級の、ホリポド・ダーだ。このことはぜひ言っておかなければならないが、ホリポド・ダーは、手先の器用さと図太い神経、この二つを、完全に自分のものにしていた。大ホールを埋めつくす観衆の前で、上がることもなく、黒板の上に淡々と絵を描き続けるのは容易なことではない。でもホリポド・ダーは、毎回その試練を見事に切り抜けた。1933年に大学入学資格試験に合格して、彼は卒業した。その後、その代わりを務めるのは、いったい誰か? アシュ・バブーの願いはぼくだったが、ぼくはその願いを、どうあっても受けつけなかった。その理由は単純だった —— ぼくほど舞台を怖がる人間は、滅多にいなかったから。何かの科目で受賞すると聞いただけで、ぼくは高熱にうなされる。こんなにたくさんの観衆の面前で、ぼくの名前が呼ばれ、席を立って舞台に上り、どこかの偉い人の手から賞を受け取り、その後また歩いて、自分の席に戻る —— これはぼくにとって、怖るべきことだった。というわけで、「音楽に合わせた描画」の役は、結局、シュロンジョンが果たすことになった。絵は前年と同じだ –– 川には白い帆を広げた舟、空にはいくつもの白雲の塊、太陽は雲間を縫って、向こう岸の木叢の蔭に沈もうとしている —— でも、彼の絵に、ホリポド・ダーの絵の持つ統一感と迫力はなかった。 
 
ぼくが学校にいた最後の3年間、催し物のリストから決して除かれることのない、二つの演目があった。一つはフルのタブラー演奏、もう一つはジョヨントの奇術ショー。フルは、ぼくらより3学年ほど下のクラスにいた。7歳の時からタブラーを叩いた。後でもう少し成長してから、コンサートでも演奏するようになった。ジョヨントはぼくらの2年上のクラスだったけれど、2度立て続けに落第してぼくらのクラスに入ってきた。彼がぼくらのクラスで試験を受けている時、彼がとうてい合格しないだろうことがわかった。彼が試験用紙の方を見ず何度も自分の膝に目を落としているのに、ぼくらも気づいた。膝の上に開いた本でもあるのだろうか? 試験監督の先生がこの様子を見て、急いでジョヨントの方に近づいた。 —— 「下に、何が見えるんだ?」 ジョヨントは手を上げて、掌の上に丸ごと載っている一本のマルタバン・バナナ(3) を見せて言った、「昼食の時食べるんです、先生。それで、ちゃんとあるかどうか、見ていたんです。」 
 

 

ジョヨントは、1011歳の頃から奇術の練習をしていた。舞台で見せる奇術の他にも、いろいろなトリックを知っていた。ぼくらのクラスに来て数日の間に、ポリモルが、教室にすわったまま気を失った。何が起きたのか? —— ジョヨントが数分間、ポリモルの喉の両側の血管を押さえてすわっていた。これが起きたのはそのせいだ。ジョヨントが説明するには、この二つの血管は頸動脈と言って、それを押さえていると脳へ行く血流が少なくなり、人間を失神させることになる。でも、頸動脈から手を放しさえすれば、数秒後にまた血が流れ始め、意識が戻る。 
 
手品にかけては、ジョヨントはプロ級だった。でも、彼の本当の実力を知ることになったのは、同級生オシトの誕生日に招かれた時だった。オシトは、奇術を見せてもらうためにジョヨントを呼んだのだ。奇術は、食後のはずだったが、ジョヨントは、食事の最中に、ガラスのコップを手にして水を飲んだかと思うと、突然そのコップをガリガリ咀嚼しながら食べ始めたのだ。ガラスを食べ、釘を食べる —— こうしたことを、彼は在学中に身につけた。卒業後2, 3年のうちに、硫酸を飲む奇術を見せようとして、死んだと聞いた。 
 
同級生の中で、オニルについては、別に語る必要がある。なぜなら、彼にはちょっとした特色があったから。オニルは、まだ幼い時に、難病の治療のため、かなりの年月、スイスで暮らしていた。病気が治って帰国し、1933年にぼくらのクラスに入ってきた。その時ぼくは8年生だった。ションジョエがタゴール家と親戚関係にあったように、オニルも、祖先の中に、ある高名なベンガル人がいた。一度、デイヴィド・ヘア・トレーニングカレッジでBT(教育学士)のコースにいたある学生(4) が、ぼくらの授業を受け持ってローマ史を教えている時、エトルリアの王様ラルス・ポルセナ(5) の名前を出したことがある。それを聞くや、フォルルクがすまし顔で声を上げ、「何ですって、先生? ロード・シンハ、ですって?」 オニルの席は、そのすぐ後ろだった。彼はフォルルクの頭に、拳骨を一発、見舞った。その理由は他でもない —— ショッテンドロプロションノ・シンホ侯(6) が、オニルの母方の祖父だったからだ。オニル自身は、とても賢い生徒だった。長いこと外国にいたせいで、ベンガル語は出来が悪かったが、英語と算数の成績は、それを補って余りあった。金持ちの家の一人息子だったため、オニルの手に入るものはぼくらの想像を超えていた。ネッスル・カンパニーがその頃、1アナ(7) のチョコレートの包み紙に、ある種の絵を印刷し始めた。それらの絵は「世界の驚異」というシリーズに属していた。ネッスルは、空(から)のアルバムも用意して、その上にこれらの絵が貼り付けられるようにしていた。ぼくら生徒の間で、競争が始まった —— 誰のアルバムが、最初にいっぱいになるか。問題は、チョコレートを買う度に新しい絵が手に入るという保証がなかったことだ。オニルは金があったので、百個のチョコレートを一度に買って、一日でアルバムをほとんど埋めつくした。誰がいったい、彼に太刀打ちできよう? もっとも彼は、二つ以上重なった絵があると、それを他の生徒たちに気前よく分け与えたのだが、自分で買って集める楽しさを、それで、得ることができようか? 
 
ぼくらは、デスクの真ん中に置かれた青いインク壺の中の赤インクに替えペン先を浸して書くのに、オニルは、パーカー万年筆で書く。ぼくらは、5ルピーの箱型カメラで写真を撮るのに、オニルは、ある日突然、500ルピーのドイツ製ライカ・カメラを持ってくる —— 「カルカッタ・サウスクラブ・テニストーナメント」(8) の、拡大写真のおまけ付きだ。カルカッタで最初にヨーヨーが売り出された時、オニルはそれを、一度に8個あまり買って、学校に持ってきた。もっともその後、生徒の多くが、この面白いおもちゃを買うことになったのだが。またある日、彼はローラースケートを買って、学校に持ってきた。そして、昼休みの鉦が鳴るとすぐに教室の外に出て、車輪のついた靴を履き、ベランダのあちらの隅からこちらの隅へ、ガラガラ音を立てて走り続けた。 
 

 
訳注 
(注1)レイの名前、「ショットジト(Satyajit)」は、 「真理によって征服する者」の意。アシュ・バブーは東ベンガル出身なので ji zi と発音する。 

(注2)「公立美術学校」は、カルカッタの中央、インド博物館の横に位置する、インドで最も古い美術学校の一つ。1864年設立。ベンガルの近代美術の発展に貢献した。タゴールの従弟甥で著名な画家、オボニンドロナト(Abanindranath Tagore)が1905年から1915年まで副学長を務めた 

(注3)ビルマ(ミャンマー)のマルタバン島から輸入されたバナナ。 

(注4)『ぼくが小さかった頃』⑮ 参照 

(注5)紀元前510年前後に在位。ローマ帝国と戦ったことで知られる。Lars Porsena のベンガル語の発音「ラルス・ポルシナ」は、Lord Sinha の発音「ロード・シンハ」にやや近い。 

(注6Lord Satyendra Prasanna Sinha (18631928) 著名な法律家・政治家。インド人で最初のオリッサ・ビハール州知事、ベンガル司法裁判所法務官、インド総督行政委員会のメンバー。男爵の称号を持つ。インド人で初めて、インド担当副大臣として、イギリス政府の内閣府のメンバーとなった。インド国民会議派の総裁も務めた。 

(注71アナは4分の1ルピー。 

(注8Calcutta South Club 南カルカッタに1920年に設立された、芝生テニスを主体とするテニスクラブ。ボバニプル地区のウッドバーン・ロードにある。多くの優れたインド人テニス選手を育てた。 

 

大西 正幸(おおにし まさゆき) 

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。 

ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。 

 

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com// 



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2024年5月31日金曜日

天竺ブギウギ・ライト⑫/河野亮仙

12回 天竺ブギウギ・ライト 
インド舞踊入門その2/先駆者たち 
 
このゴールデン・ウイークに新国立劇場バレエ団が牧阿佐美版『ラ・バヤデール』を上演するというニュースが流れた。バヤデールとは踊り子のこと、インドの宮廷での愛憎劇だ。 
 
https://www.youtube.com/watch?v=ecosBtvpNnA 
https://www.youtube.com/watch?v=EeV8GE8dnDc 
 
牧幹夫と桝源次郎の留学 
自伝によると、2021年に87歳で亡くなられた牧阿佐美(本名・福田阿佐美)の父は、牧幹夫(本名・北沢牧三郎)、母は橘秋子(本名・福田サク)。両親ともにバレエ・ダンサーで、二人で橘秋子舞踊研究所を始める。入籍はしていなかった。牧三郎は生後すぐ、宇都宮に宣教師として赴任していたアメリカ人のフライ夫妻に預けられ、そこで育った。 
 
阿佐美が5歳の1938年に父はぷいと出国し、タゴールの下でインドの舞踊と文化を学ぶことになる。インドではジョン・マキ・アンダーソンと名乗り、スパイとも消息不明ともいわれたが、1953年にはボンベイで榊原帰逸を迎え、親切に世話をした。「インドに行ってインド人となって」と榊原は書いている。 
 
ボンベイの領事館に勤めていたので、1965年、留学してきた櫻井曉美の面倒を見た。奥さんもいたという。英語がネイティブなので日本政府の密命を帯びて、急に出国したのかもしれない。秋子や阿佐美とは連絡を取らなかったようだ。1970年にその訃報が届く。 
 
フランス語、サンスクリット語も学んだようだ。我妻和男『人類の知的遺産/タゴール』には、音楽学部舞踊科に入るとたちまちインド舞踊に上達し、タゴール劇にも出演したと書かれている。 
 
1935年、桝源次郎はタゴール大学にインド音楽を学ぶため2年間留学した。その3年前は中国で音楽事情を調査していて、インドから中国への影響を調べるという名目でやってきた。1938年の『東洋音楽研究』には、在支特務機関の一員として活躍中として報告されている。つまり、彼はスパイだった。牧が桝の後任で交代したと考えられないこともない。 
 
そもそも岡倉天心も現地ではスパイと見なされて、官憲につけ回され監視されていた。実際、危険分子とも接触していた。音楽舞踊、美術の調査という名目では比較的自由に飛び回れる。 
 今はどうなのか知らないが、我々が留学していた頃も、お茶屋で油を売っているように見えるお巡りさんに監視されていて、毎日、何処に行ったとか記録されていたようだ。それを帰国時に分けてくれれば日記の代わりになったのに。 
 
タゴールが先駆ける  
一昔前はインド四大舞踊といった。バラタナーティヤム、カタック、カタカリ、マニプリーにオリッシーが割り込み、今ではクチプリ、モーヒニーアーッタムでインド七大舞踊とか呼ばれているようだ。 
 
四大舞踊というのは、おそらくタゴール周辺がいい出したことで、北のカタック、南のバラタナーティヤム、演劇的要素の強いカタカリがインドの西南端、フォークのマニプリーは東北部とバランスよくピックアップしたのだろう。 
 
北インド、ラクナウの宮廷にはバーイジーと呼ばれるタワーイフ、すなわち、コート・ダンサーがいた。金持ち相手に歌や踊りを披露する遊女である。村の祭りや祝い事に招かれる庶民の生活の中で踊るダンサーはナーチニーと呼ばれた。 
 
英領インドになってからは売春婦のように見なされ、インド人も欧化されて彼女らを疎んじるようになった。近代化を急ぐあまり、芸術は国民を弱体化させると考えられた。しかし、喜びを表現することによって人生を豊かにし、決して仕事の邪魔をするものではないと、タゴールはインドの音楽、絵画の教育に重きを置いた。 
 
伝統文化復興のため、1919年、タゴールの学園に芸術学部を設立して、マニプリー・ダンスを導入した。当初は踊りというよりエクササイズ、日本でいう体育だとして遠慮がちに始めたようだ。音楽舞踊や美術は大学で学ぶものとは思われていなかった。本来、師匠の家に住み込みや通いで習うものだ。全身舞踊家にならないといけない。 
 
音楽学部にはタゴール・ソングの科と古典音楽科(西洋古典音楽ではなくヒンドゥーの音楽)を作り、マニプリー・ダンスを中核にタゴールの歌を合わせてタゴール・ダンスを工夫した。他にいわゆる四大舞踊と器楽のコースも作った。 
 
大学より下の学校ではタゴール・ソング、タゴール・ダンスが必修で、タゴールの舞踊劇が開催されるときは、美術工芸部など全学的に参加した。 
 
タゴールの学園は、1921年、ヴィシュヴァバーラティー大学、通称タゴール国際大学として開学し、音楽舞踊部門は独立したカレッジとなった。インド文化のセンターを目指していた。ワラトールのカラーマンダラム、ルクミニー・デーヴィーのカラークシェートラに先駆けた動きである。 
 
タゴールが歌劇、舞踊劇を創作する中、ウダエ・シャンカルは1929年に帰国して母国の芸能を見て回る。ウダエ・シャンカルの舞踊団はカルカッタにもやって来る。彼の世界的な名声によって、インドの舞踊も芸術であるという意識が生まれる。 
 
モダン・ダンスからインド・バレエへ 
アメリカ・モダン・ダンスの祖といわれるルース・デニスは、1906年にラーダーとクリシュナの物語を上演しているが、その音楽はオペラ「ラクメ」からとったもので、バレエにオリエンタルなフレイヴァーを加味したものかと思われる。 
 
よく知られているようにバレエ・ダンサーのアンナ・パブロワは、イギリス留学中の画学生ウダエ・シャンカルを見いだして、「ラーダーとクリシュナ」を上演した。インド・バレエの誕生である。実は、それまでインド舞踊という概念はなかった。 
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%a7/ 
 
ベンガルにはベンガルの歌と踊りがあり、ラクナウやバナーラスにはタワーイフの歌と踊りがある。南インドには舞踊劇のバーガヴァタ・メーラーやカタカリ、ヤクシャガーナがあるという理解だ。他の藩王国で行われている踊りなど知るべくもない。 
 
阿波踊り、郡上踊り、カチャーシーや石見神楽、高千穂神楽、早池峰神楽が別個に存在しているようなものだ。 
 
ウダエ・シャンカルはカタックのみならず、バラタナーティヤム、カタカリ等を学び、物語を創作してインド・バレエとして展開した。インド人自身がインドの舞踊を知らなかった時代のことだ。ラーム・ゴーパルも、スジャーターとアショーカも、リタ・デーヴィーも皆続いた。昭和28(1953)年にタゴール大学に留学した榊原帰逸も和製インド・バレエを目指したのだと思う。 
 
榊原は留学の帰途、ビルマのラングーンに入り、タイのバンコクに抜ける。バンコクではインドネシア舞踊まで習う事が出来た。さらに、沖縄を回って羽田に帰国する、民族舞踊の旅を行った。その成果が昭和29(1954)年の公演プログラムに表れている。70年前の話だ。 
 

 
 

 
 

自伝的な「東洋の心」によると明治43(1910)年生。愛知県の田舎で育ち、仏門に入り、破塵館で占部惟順に教えを受ける。また別に、日本舞踊も習っていた。早稲田大学では印度哲学を専攻し、武田豊四郎(早稲田大学仏教青年会初代会長)に師事する。日本大学講師となり、児童教育教師養成所の仕事を担ったことから日本コロンビアの専属舞踊家となる。 
 
民謡や音頭、童謡、詩吟など二千数百枚のレコードに振り付けを付けた。私の実家では保育園をやっていたが、童謡のレコードの付録に振り付けが書いてあったような気がする。日本コロンビアは昭和16(1941)年にSPレコードで『東亜の音楽』というシリーズをリリースした。1997年にはこれが丁寧な解説付きでCD化された。中国、タイ、インド、ジャワ、バリ、イランの音楽が収録されている。 
 
インドにもコロンビア・レコードがあるので、インド・コロンビアが保証してタゴール大学に留学できた。当時は船でインドに行くのが当たり前だったのに飛行機、プロペラ機で渡印した。留学は、サールナートの初転法輪寺に釈尊一代記を描いた野生司香雪が、ムクル・デイを紹介してくれたことによる。 
 
榊原は昭和13(1938)年に、すでに日比谷公会堂で印度仏教舞踊劇「指蔓外道」を上演しているので、タゴールが仏教劇を上演しているのを意識していたに違いない。昭和21(1946)年には野生司香雪も長野市仏教会に協力して仏教舞踊劇を制作している。 
 
榊原の帰朝公演のプログラムを見ると、バラタの伝道者やカタックの継承者を志していたのではなく、東洋舞踊、オリエンタル・ダンスと印度バレエを創作していたことが分かる。 
 
野生司香雪との縁 
さて、野生司香雪の修業時代、インドで仏像を模写していると、毎日そのそばに来て見ている子供がいた。仲良くなってその子に絵を教えてやった。カルカッタ博物館での出来事だろうか。 
 
その子が成長してカルカッタの官立美術学校の校長となっていた。それがムクル・デイ画伯であり、香雪のため家の庭にアトリエを設けた。榊原は客員教授待遇でそこに住み、いろいろと便宜を図ってもらった。 
 
榊原はマニプリー舞踊家として知られるラジクマル・セナリク・シンの指導を受けた。飲み込みが早く、難しいステップもすぐにものにして、二年のコースを短期間で習得したという。日本舞踊を披露して新聞に載ると、どこへ行ってもVIP待遇だった。我々が一介の貧乏留学生として留学したのとはえらい違いである。 
 
さらに、人の縁とは面白いもので、昭和62(1987)年に榊原はタゴール大学から文学博士号を認定されるが、同時にムクル・デイも授与されていた。インドには、少なからずインド舞踊で博士号を取得する舞踊家がいるが、日本人も続いてほしい。インド舞踊を踊る人は今や日本に数百人いるのかも知れないが、研究的な人は少ない。誰もインド舞踊の歴史を検証しないのでわたしがやっている。 
 
昭和29年の出来事  
榊原帰逸は帰国するや翌昭和29(1954)年6月6日に帰朝公演を行っている。また、同年10月16日から11月18日にかけて、読売新聞社の主催でSUJATA&ASOKAの全国公演11回が行われている。初めの3回と終わりの2回、合わせて5回も日比谷公会堂で公演が行われていて、果たして集客はどうだったのだろうか。 
 
インド舞踊専門の音楽家を帯同したわけではなく、シタール、タブラーの他、ギター、ヴィオラ、フルート等による劇伴のようなインド録音のレコードを伴奏に用いた。33回転のLPレコードは1948年に米コロンビアから初めて発売された。ひょっとしたら、2分半程度のシングル盤を一曲ごとに用いたのかもしれない。写真で見る限り出演者は二人で、宿は一部屋取ればいいのだから、経費はそれほどかからなかっただろう。 
 

 
 
スジャーターとアショーカは1948年以来、全米で何百回も公演を重ね、スジャーターは「情炎の女サロメ」などの映画に出演し、アショーカ(ドイツ系らしい)は振付師として知られる。彼は18年間中国、チベット、インドを転々として何年もの間、僧侶の踊りを研究したと謎の経歴が語られる。チベットの仮面舞踊を演じたようだ。 
 
パンフレットの解説には「シヤンカー舞踊を見てヒンヅー族に合流」とすごい訳文が付いているが、ウダエ・シャンカルの舞踊に出会って、ヒンドゥーの舞いを研究したということらしい。1939年にスジャーターと結婚したが、ヒマラヤで出会ったという。スジャーターはボンベイ生まれだがキリスト教徒のようだ。ユーチューブに映像がある。 
https://www.youtube.com/watch?v=lgRM0aeGFvI 
 
パンフレットには榊原の解説の他、淀川長治がビバリーヒルズでスジャーターとアショーカに会ったこと、そのパーティーの席でルース・セント・デニスを紹介されたとエッセイを寄せている。大正年間にそのデニショーン舞踊団を見てデニスの印度舞踊が美しかったと淀川は語る。 
 
昭和11(1936)年に日劇ダンシング・チームの一期生として参加した三橋蓮子も一文を寄せている。昭和13(1938)年頃、ラ・メリ女史に連れられて来た、ラーム・ゴーパルという青年が日劇ダンシング・チームを指導したことにも触れている。 
 
ラ・メリ(Russell Meriwether Hughes Jr.)はスペインとインドの舞踊を中心に研究し、1930年代にラーム・ゴーパルと共に世界中をツアーした。1940年にはルース・デニスと共にスクール・オブ・ナティヤというインド舞踊の研究所を作った。44年にはインド舞踊の振り付けで「白鳥の湖」を上演している。 
 
三橋はラーム・ゴーパルと出会って印度舞踊に魂を奪われた。翌年から韓国伝統舞踊の調査と習得に努め、中国、シャム、ジャワ、バリ、琉球の踊りを見るにつけ、インドの影響を受けてその国なりのものを創り出していると記す。「東洋舞踊の会」を何回か開いた。榊原の発想や行動と共通点がある。榊原は昭和36(1961)年の大映映画「釈迦」で振り付けを担当している。 
 
また三橋は、日劇ダンシング・チームで昭和29(1954)年に「印度珍道中」の振り付けを担当した。昭和26(1951)年の映画「ブンガワンソロ」の振り付けも行っている。プリヤゴーパル、ラクシュマンという舞踊家が2年前にやって来たことに触れているが、この二人については、まだ、調べが付いていない。 
http://jyunchan2007.web.fc2.com/s2901indo.html 
 
こんなことを書いていると「インド舞踊入門」ではなくて、「インド舞踊事始めの根掘り葉掘り」だな。アンナ・パブロワとウダエ・シャンカルが世界の舞踊界に衝撃を与え、日本にも波及したという話です。                                                         
 
注  
スジャーターとアショーカは、1953年の映画「情炎の女サロメ」で短時間ながら二人で踊っている。そして、サロメ役のリタ・ヘイワースに東洋舞踊を振り付けた。山川鴻三『サロメ』(新潮選書)によると、オスカー・ワイルドの「サロメ」は大正二、三年に島村抱月演出松井須磨子主演で127回も上演されたという。その後、川上貞奴、水谷八重子、岸田今日子らが演じている。
 
サロメはバレエやモダン・ダンス、つかこうへいのロック・オペラ!?でも取り上げられてきた。
https://www.zawazawa.com/joe/disc/salome.htm
 
1977年には長峰ヤス子がフラメンコ版を演じ、それに触発されたか、シャクティが1980年にインド舞踊版を上演した。その時私は留学中だったので見ていない。誰か見た人、「私出演しました」という人もいるかも知れない。これも歴史である。 
 
 
河野亮仙 略歴 
1953年生 
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史) 
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学 
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学 
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事 
専門 インド文化史、身体論 



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