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2023年11月15日水曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記⑦

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記⑦

Oshoアシュラムで まずなんとも歯がゆかったのは、多くの人達がとても楽しそうに美しく踊っているのを目の当たりにすることだった。  私は今まで、クラッシックバレエや、インド舞踊をしてきて、「踊ってきた」と思っていたのだが、いざ、自由に踊る!!という段になると、なにをどう踊っていいやら、わからない!!!

なのに、みんなは、なんて楽しそうに踊っていることか!!!

そして、約10年の間、ボディワークのトレーニングを受けたり、内面と向き合う瞑想ワークをしたり、、、と  odissiを踊ることから離れることになる。

 

oshoアシュラム ブッダホールでのパフォーマンス

 

はじめ、どうしていいかわからなかったのだけれど、毎夜、osho講話の前にはライブミュージックによるダンスの時間があったり、、、などが積み重なり、しばらく経つと 音楽・エネルギーに身を任せて自由に踊ることが、非常に心地よくなってきた。

 

 

サニヤシ・セレブレーションにて

 

しかし、なんとも因果なものだろう。

 

10年後のある日のこと。

ミスティックローズという33週間、(笑い、泣き、静かに座る)の瞑想ワークの最後の週、突然、私の脳裏にodissiの曲が舞い降りてくるのだった。

 

サニヤシ・セレブレーションにて

 

ワークが終わると、一生懸命、昔習った振りやステップを思い出そうとする自分がいた。

すると、ちょうど、近くにodissiを踊っているという、Radhikaというサニヤシン女性に出会い、共にレッスンさせてもらうことに。

そこで、Prachiというボンベイからの女性が来て、いくつかの踊りを教えてもらうこともできた。

その後、オリッサに出向き、かつてお世話になったシブ・グルジやスジャータ女氏がいるSrjanを訪ねたり、ビチットラナンダ・グルジの開かれたRudrakshyaを訪ねたりして オディッシーを続けることになる。

時は、ちょうどインド・スイスでの15年に渡る海外生活を経て 日本に帰っていく途上のこと。

 

ガウリ・マ

 

ダンスヴィレッジに戻らなかったのは、私が中断していた間に、あまりにも残念なことながら、愛するガウリ・マは 既に お亡くなりになってしまったからだった。

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年11月5日日曜日

松本榮一のインド巡礼(その6)

カイラース巡礼

 

カイラース山は、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ボン教徒に聖山と崇められている。かつて八千メートル級のヒマラヤ連山の北方に位置し、チベット高原の中の独立峰として、その存在を際立たせているカイラース山は、世界最高峰と思われてきた。実際には6,656mの独立峰であるが、近くのマホナサロワル湖とともに、インダス、ガンジス、ブラフマプトラなどのアジアの大河の源流域を構成している。地球に最も影響している山といっていいのだろう。

大乗仏典に描かれている、菩薩たちの集うメール山は、このカイラース山がモデルになっているといわれている。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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天竺ブギウギ・ライト⑥/河野亮仙

第6回 一角仙人を誘惑したのは誰か

アマゾンを探検していたら『ガンダーラの高級娼婦たち/ガンダーラの仏教彫刻に表現された貴婦人像のモデルを求めて』柳原出版、金6000円也を見つけた。著者名は田辺理となっているが、田辺勝美の「一角仙人と高級娼婦」という論文も収められた、親子二代にわたるガンダーラ研究の賜物である。

2022年11月に200ページ、6000円で出版しているが、よく出版までこぎ着けたものだと思う。図版の収集が素晴らしいのだが、惜しむらくはどの写真も小さくてよく見えない。これを大きくしたら一冊8000円になってしまうから妥協の産物だろう。本屋で見たことはなく、私のような物好き、いや本好きでなければ研究者でも買わないだろう。大きな本屋に行ってもインド関係の本は極めて少ない。

ヤクシーのモデル

従来、樹木の精とされる豊満なヤクシー、ヤクシニー女神のモデルは当時の上流女性とされていた。ガンダーラの釈迦菩薩像についても、当時の貴族の姿を写したとされる。

マトゥラー・マホーリー出土でニューデリーの国立博物館に収蔵されている、酔っ払って片膝をついた女性の像はよく知られている。また、その裏にアショーカ樹の元、男二人と上半身裸の女と少女の図がある。

C.シヴァラームムールティーは、この図はカーリダーサ以前の作家シュードラカの戯曲『土の小車(ムリッチャカティカー)』から採った場面と比定した。国際的な大商都ウッジャイニーにおける、気前が良すぎて貧乏になった商人チャールダッタと遊女ヴァサンタセーナーの物語である。当時の暮らしぶりがうかがえる珍しい作品だ。

私は大学3年の時、小林信彦助教授の授業で大先輩たちと『ムリッチャカティカー』を購読した。大先輩というのは、今はもう退官しているが、その中の何人もが教授となって世界的な業績を上げたからだ。当時は若手だった小林先生は、今年の7月25日、87歳で亡くなられた。とても細かく面倒を見てくださる先生で、生徒のテキストをまとめてインドのモティラルに発注してくれた。あれから50年である。歳としては十分であるが悔やまれる。いや、学恩に報いることが出来ないのが悔やまれる。

インドから船便で届くのに2、3か月かかり、その間は湿式コピーのテキストを使った。独特の匂いがあった。

インドのガニカー、ギリシアのヘタイラ

話を戻すと、古代インド女性の姿、衣装は当時の貴婦人の姿を写したと理解されていたのだが、それは具体的にはガニカーと呼ばれる高級娼婦であると田辺は例証した。ギリシア・ローマの図像の分析に始まる。

古代ギリシアにはヘタイラと呼ばれる高級娼婦がいて、彫刻や陶器の絵のモデルとなっていた。饗宴において妻や娘は参加を許されなかったが、ヘタイラは参加して歌を歌い楽器を奏で、踊りを踊り、物語を聞かせた。

ギリシアの政治家ソロン(前640-560年頃)はアテーナイに娼館を造り、その利益から女神アフロディーティーの神殿を造ったという。娼婦の保護者とされる、豊満なアフロディーティー像はヤクシニーの造像に影響を与えたといわれている。

ローマ美術においてもギリシアの女性像を参考に女神や上流階級の女性、娼婦像が制作された。

ダルマ、アルタ、カーマ

古来、インド人の学ぶべきものとしてダルマ、アルタ、カーマがある。ダルマは宗教的義務を果たすこと。アルタは利、経済活動をして世を渡り、財産を築くこと。カーマは愛、すなわち性愛の学を学ぶべきとされる。

カーマ・スートラに付随して64の技芸を宮廷人や富裕な商人ナーガラカ(街人)、そしてガニカーは学ぶべきとする。

ガニカーというのは読み書きが出来て教養があり、音楽舞踊の嗜みがある高級娼婦の事だ。王宮にも出入りして王侯貴族と渡り合う存在なので、上流婦人といえばその通りである。

経典などでは漢語で婬女なので、ふしだらな女?と誤解されてしまうかもしれないが、ガニカーの事であり、売春婦とか娼婦と訳してしまうのが適当とも思えない。かといって白拍子とか花魁とかいっても文化が違うので誤解を招く。

大きな都市に娼館がないのは恥とされ、いろいろな国の言葉、巧みな話術で男を落とす、多芸多才で品性の高い美女を抱える必要があった。100年前ならオリエンタル・ダンサーのマタ・ハリである。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/

日本では仏教が中国大陸経由で入ってきたことから、漢文化を通してインドを理解してしまうが、本当はギリシア・ローマ世界の方向からアプローチした方が筋が通る。

64の技芸をすべては列挙しないが、楽のほかに、化粧や香、宝飾の知識、料理や針仕事、大工仕事、花輪の作り方、遊戯、賭博、絵画や劇、マントラ、詩作、叙事詩など物語の知識と朗唱などが求められている。釈尊が学んだという幾多の学芸、手業、遊戯、スポーツにも近い。

カタックの語は語り手カターカに由来するというが、おそらく宮廷に侍る遊女は歌と踊りのみならず、夜伽に物語を語って聞かせたのだろう。千夜一夜物語、天竺夜伽物語。

アームラパーリー

涅槃経などの仏典に、ヴァイシャーリーに住む遊女アームラパーリーの話が語られる。この商業都市はアームラ、すなわちマンゴーの名産地として知られ、アームラパーリーとはまさに、マンゴー園の守り手を意味する。

死期の迫った釈尊が阿難尊者と共にクシナガルに向かう途中、アームラパーリーのマンゴー園にとどまると、アームラパーリーがやって来て食事を供養する。弟子と共に彼女の大邸宅に赴くとそのマンゴー園を寄進すると申し出る。説法を聞いて出家し、弟子になったという話だ。教団の尼僧には元遊女もいた。

ガンダーラの仏伝図にそのマンゴー園の布施の話が描かれている。淫靡な雰囲気は全くなく、上品な貴婦人の姿として描かれている。ガニカーはさげすむべき売春婦ではなく、うらやましがられる存在なので、仏典にも大金持ちの功徳者として登場する。

マハーバーラタに登場する一角仙人

一角仙人の物語はマハーバーラタやジャータカほかの仏典に記され、日本に入ってからは、今昔物語、能楽や歌舞伎「鳴神」でも語られる。様々な伝承とその分析については、森雅秀『エロスとグロテスクの仏教美術』に詳しく書かれている。大変面白い本だ。田辺勝美は「一角仙人と高級娼婦」の中で仏典の『大智度論』から紹介している。ジャータカの話は以前に書いた。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%89%9e/

マハーバーラタの伝えるところでは(上村勝彦『マハーバーラタ』、『インド神話』)、聖仙ヴィバーンダカが沐浴していると、天女の中で最も美しいウルヴァシーがやって来る。その姿を見た仙人は思わず精を漏らし、その水を飲んだ牝鹿が妊娠する。そして生まれたのがリシュヤシュリンガで鹿の角が生えている。

アンガ国で祭官が王ともめて宮廷から去り、祭祀が行われなくなったため、雷霆神インドラ(帝釈天)が怒って雨を止めた。王が苦行を積んだバラモンに相談すると、森で父親と住んで苦行をして、女を知らないリシュヤシュリンガを連れてくれば雨が降るでしょうと答えた。

王は悔い改め大臣と相談し、最高級の遊女たちを集めてリシュヤシュリンガを誘惑し、宮廷に連れて来ることを提案した。しかし、遊女たちは苦行者に呪いを掛けられることを恐れて尻込みした。そこに一人の老女が現れて、私が連れてきますと請け負う。娼館のやり手婆だ。若さと美貌を誇る女たちを大勢引き連れて森に行き、自分の娘を派遣する。

リシュヤシュリンガは女の姿を見たことがないので、男の苦行者だと思って向かい入れると、果物や酒で饗応され、毬で遊び、抱きつかれ接吻される。帰った後に恋煩いに陥る。

その事、神の子のように美しい、髪を編んだ梵行者が来た事を父に告げる。その乳房や臍、脇腹や戯れの描写がポルノまがいで聞かせ所である。マハーバーラタは簡潔な韻文だが、おそらくサンスクリット語原文の朗唱者は、地方語で解説しながら身振りを交えて語ったのだろう。

そして父が、それは羅刹だから近づいてはならぬと諭す。しかし、父親不在の間に連れ出し、船に乗せて国王の下に連れて行くと雨が降った。王は喜んで一人娘のシャーンターをリシュヤシュリンガに嫁がせ、それを見た父親も満足してめでたしとなる。父親は結婚を認めたものの、息子が出来たら再び森に帰れと命じた。

跡継ぎの息子が出来ると妻と共に森に帰った。山あり谷あり繁みありの物語だが、四住期の学生期、家長期から林住期に入り、やがては北方のヒマラヤを目指して遊行するというバラモン的な規範を示しているように思える。

500人の美女が森の庵に

鳩摩羅什訳とされる仏典の大智度論巻17に描かれる物語は、これを翻案したものと思われる。娘のシャーンターの名はヴァーラーナシーに住むガニカー、扇陀の名となっている。

ヴァーラーナシーの国王が一角仙人の呪詛を止めるため、五神通を喪失させる事の出来る者を募る。すると比類のない美女のシャーンターが、およそ人である限り落とせない事はないと応募した。500台の鹿車を買い揃え、500人の仲間の美女を集めて森に向かった。様々な強壮剤の丸薬に色を塗って果物のようにする。酒を水と思わせて飲ませようとする。

ガニカーたちは樹皮や草をまとって森を歩き、仙人のごとくに振る舞い、一角仙人のそばに庵を結ぶ。仙人がそれを見つけると500人の美女が花と香で彼を出迎えて饗応する。この庵に住むように勧め、皆で互いに身体を洗う。つまりこすりつけるわけだ。そして、なるようになって五神通を失うと、七日七夜にわたって大雨が降った。

用意した酒も果物も尽きたので王都に向かう。一角仙人は宮殿に住むことになるが、五欲の楽しみを得ても森の閑静な暮らしが忘れられない。森に帰るといって修行し直し、再び、神通力を取り戻すことが出来たという話になっている。

500人の娼婦が森に押しかけて苦行者を誘惑する、簡素なはずの森の庵がハーレムに変わるという面白い話が、なぜ映画にならなかったのかと思う。インド映画にポルノはないが、寺院の彫刻や仏典にポルノまがいがあるのは興味深い。

一角仙人の姿はバールフットにも描かれ、マトゥラーやガンダーラにもある。前2世紀頃にはインド中で様々なヴァリアントが面白おかしく語られていたのだろう。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年11月1日水曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑩

ボバニプル(5)

カルカッタの北から南に移ったせいで、父方の親戚一族との繋がりが減ったとはいえ、ドンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの二番目の弟) (1) と下の叔父さん(父シュクマルの末弟、シュビモル・ラエ(1) は、しょっ中、ぼくらの家にやって来た。ドンお祖父ちゃんは、その頃、コナン・ドイルの小説をベンガル語に翻訳していた。服装は白人サヘブ風、ボルコト・アリ(2) の店からスーツを仕立て、夕方、外出する時には、ネクタイをつけた。市電の月ぎめ定期券を持っていて、週に少なくとも3回は家にやって来た。

ボバニプルに住んでいる時に、ドンお祖父ちゃんの口から、『マハーバーラタ』全巻の物語を聞いた。1日に1章ずつ。その中のある特別な出来事を、少なくとも4回以上、お祖父ちゃんに語ってもらった。ぼくには、その頃、その物語が、『マハーバーラタ』の中で、何よりも胸をドキドキさせる出来事だったのだ。クルクシェートラの戦い(3) の場面の、ジャヤドラタ殺戮のくだりだ。ジャヤドラタはクル一族の偉大な勇者だった。アルジュナは、さんざん力を注いだのだが、どうしても彼をやっつけることができない。この日、彼は、ジャヤドラタをやっつけることができなければ、自分が火に焼かれて死ぬことになると、誓いを立てた。この誓いのことは、クル一族の耳にも入った。戦いは日没まで続く。日没の時が近づいたけれど、その期に及んでも、アルジュナは、どうすることもできないでいた。この時、アルジュナの戦車に乗っていたクリシュナ神は、マントラを唱えて四囲を暗闇で覆い、太陽を隠した。クル族の人びとは、日が暮れたと思い込んで戦いの手を緩める。アルジュナは、その隙を狙って一枚の円盤を放ち、ジャヤドラタの首を刎ね飛ばした。

ところが、それでも困ったことがあった。ジャヤドラタの父ヴリッダクシェトラ王は、息子が生まれた時、神からのお告げで、息子の首が、将来、戦場で刎ねられることになるだろうということを、知ったのだ。ヴリッダクシェトラ王は、その時、刎ねられた息子の首が地上に落ちた瞬間、その首を地上に落とした人の首も散り散りになるようにとの、呪いをかけた。このことを知っていたクリシュナ神は、アルジュナに警告していた –– ジャヤドラタの首が地面に落ちないよう、気をつけろ。もしそんなことになれば、おまえの首も散り散りになるぞ、と。それで、アルジュナはまず、一枚の円盤でジャヤドラタの首を刎ねると、それが地面に落ちる前に、さらに6枚の円盤を次々に投げてそれを虚空に飛ばし、遥か彼方でジャヤドラタを加護する苦行に耽っている老いた父親、ヴリッダクシェトラ王の膝の上に落としたのだ。ヴリッダクシェトラが、自分の息子の首を膝の上に見てぎくりとし、立ち上がったとたん、刎ねられた首は地面に転げ落ち、それと同時に彼自身の首も裂けて散り散りになってしまう。

ドンお祖父ちゃんの口から『マハーバーラタ』の物語を聞いたように、下の叔父さんの口からは、お化けの話を聞いた。この叔父さんについては、短い言葉で言い尽くすことはとてもできない。なぜなら、叔父さんのような人が他にいるとは、とても思えないからだ。

叔父さんはシティー・スクール(City School)(4) の先生だった。短いドーティ、半袖のパンジャビ、肩にはショール、手には傘、そして足には茶色の布製の靴 –– これを見れば、その職業は想像できた。結婚はしなかった。独身だったせいで、たぶん、歩いたりバスに乗ったりして、あちこちに散らばっている親戚たちの家に行って、彼らの消息を得るのが叔父さんの仕事だったのだ。ぼくらの、散らばりまくったラエ家の人たちを残らず知っていたのは、叔父さんだけだったと、ぼくは信じている。

面白い人間だと、その人が見る夢の数々も面白いものになるのだろうか? 叔父さんの夢の話を聞くと、そう思えたのだ。一度、こんな夢を見たことがあったそうだ –– ある場所で、盛大に、キールタン(5) が歌われている。しばらくそれを聞いていて、その歌の文句が、次のたった一行の繰り返しだったことがわかった –– 「真実(まこと)に 茄子(なす)は 燃える」 どうやってこの一行が歌われていたかを、叔父さんは、自分で歌って聞かせてくれた。別の夢では、カルカッタの街頭を、行列が行進している。人間じゃなくて、猿の一隊だ。手に布の旗を持ち、スローガンを叫びながら歩いている –– 「力を! 力を! 阿片に、もっと、力を!」

親戚の多くを、叔父さんは、自分でつけたあだ名で呼んでいた。それだけではなく、彼らについて何か話そうとする時にも、そのあだ名を使った。繰り返し叔父さんの口から聞いたせいで、そうしたあだ名に、ぼくらはすっかり慣れ親しんでしまった。ドンお祖父ちゃんは「ディダックス(Dedux)」、二番目の義理の叔父さん(Arun)は「ボロイド(Voroid)」、ドンお祖父ちゃんの娘トゥトゥ叔母さんは「ワン(Wang)」、息子のパンク叔父さんは「ゴグリル(Gogril)」、父方の従姉妹ニニ姉さんとルビ姉さんは「大クシュム・プア」と「小クシュム・プア」、「稲妻かみさん」が母さんで、「ヌルムリ」がぼくだった。いったいいつ、どうして、どのようにしてこうしたあだ名がつくことになったのか、誰も知らない。一度、義理の叔父さんの名前がどうして「ボロイド」なのか、訊いたことがある。叔父さんは真面目くさった顔をして答えた、「あの人は、とても早起きだからな。」(6) 自分では特に際立つほど宗教心が厚いわけではなかったけれど、聖者・修行僧たちに対して、叔父さんは、ごく自然な好奇心を抱いていた。そうした人びとの伝記を読み、その中で叔父さんが尊敬を払っている人がいると、その人が街に来れば出向いて会ってきたものだ。ティッボティ・ババ(6) 、トロイロンゴ・シャミ(7) 、ビジョエクリシュノ・ゴッシャミ(8) 、ショントダシュ・ババジ(9) 、ラムダシュ・カティア・ババ(10)   –– こうした聖者たちについて、叔父さんの口から、どんなにたくさんの話を聞いたことだろう。

独り身で、自由気儘に生活し、僅かなもので満ち足りていたので、叔父さんを見ていると、時々は世捨て人のように思えたのだ。それに、叔父さんには、ふつうの人には滅多に見られないような、いくつかの性癖があった。口に入れた食べ物を32回噛む習慣については前に述べた。朝、顔を洗う時には、鼻から水を吸い込んで口から出すのが、しばらく続いた。これを「ナーキー・ムドラー(鼻の印)」(11) と言う。この他に、「カーキー・ムドラー(カラスの嘴の印)」というのもあったけれど、それがどんなものか、覚えていない。夕方に、「シャヴァーサナ(屍体のポーズ)」でしばらく横たわり、そのすぐ後、傘を持って外出した。

食事、休息、仕事、外出、おしゃべり –– こうしたすべての合間合間に、叔父さんは日記をつけていた。こんな日記を書いた人は、かつてどこにもいなかった、と断言できる。そこには、朝新聞で読んだ大事件の見出しから始まり、ほとんど一時間毎に、何をしたか、何を読んだか、何を食べたか、どこに行ったか、何を見たか、誰が来たか –– こうしたすべての描写。汽車に乗って出かけた時には、汽車のエンジンがどんな「型」か、それも書き留めた。エンジンにいろいろな種類があることを、ぼくは叔父さんの口から初めて知った。XP, HPS, SB, HB –– こうしたのが、その「型」の名前だった。当時の蒸気機関車のエンジンの横に、これが書かれていた。どこかに出かけなければならなくなると、叔父さんは、少し早めに駅に現れるのが常だった –– 車室に荷物を置くと、さっさと外に出て、エンジンがどの「型」か、調べなければならなかったから。もし何かの理由で来るのが遅くなると、最初の大きな駅に着くや、すぐに車室から出てその仕事を済ませて来るのだった。

叔父さんの日記は、四色の違った色で書かれた –– 赤、青、緑、そして黒。一つのことを言うのに、この四色全部を使うのが、日記の中によく見られた。色を交代させる決まりがあるらしかったけれど、いつになっても、ぼくには、それがはっきりとはわからなかった。わかったのは、自然描写が緑のインクで書かれ、名詞には赤いインクが使われたことだ。たとえば、「今日はひどい雨だった。マニクの家に行けなかった。」という二つの文があるとすると、最初の文は緑色のインク、二番目の文の最初の2語は赤で、残りは黒か青。寝台の上に四つ足のテーブルを置き、その上に色付きインクと筆を並べ、すごく集中して日記を書いている叔父さんの姿は、見るに値する光景だった。

もう一つ、日記について、どうしても言っておかなければならないことがある。

叔父さんは、食いしん坊ではなかったけれど、食べたり飲んだりはとても好きだった。毎日、あちらこちらの家に出かけて、そこで紅茶を飲むのが、特別の楽しみだった。日記にもこのことが書かれたけれど、ありきたりの書き方ではなかった。飲んだお茶について形容詞が付けられ、その形容詞の括弧付きの説明がその後に続いた。

一ヶ月の日記の中から、12の例を挙げる。これを見れば、それがどんなものか、わかってもらえるだろう。

(1) 人獅子(ヌリ=シンハ)(12) 向き茶(勇壮果敢、雄叫びを上げさせる、刺激性の茶)

(2) 信愛派(ヴァイシュナヴァ)(13) 向き茶(従順で、甘美で、柔和な、非暴力茶)

(3) ヴィヴェーカーナンダ(14) 向き茶(カルマ=ヨーガへの意欲を高め、弁舌増進、真理への情熱を与える茶)

(4) ボッタチャルジョ(15) 向き茶(学識増進、威厳を与える、刺激の少ない、心温まる茶)

(5) ダヌヴァンタリ(16) 向き茶(治癒力を高め、長寿・健康を増進させる茶)

(6) 監視人向き茶(注意力増進、精神高揚、眠気覚ましの茶)

(7) 集会向き茶(人をすっかり夢中にさせる茶)

(8) 書記向き茶(会計簿を見る意欲を増す、ミルクがたっぷり入った、美味な茶)

(9) 警視向き茶(勇猛心を与え、自尊心を高める茶)

(10) 一般大衆向き茶(特徴のない、その場限りの茶)

(11) 聖仙ナーラダ(17) 向き茶(音楽への愛を増進させ、真理の知恵を授け、献身への情感を呼び覚ます茶)

(12) ハヌマーン(18) 向き茶(信頼増進、障害の海を乗り越える力を与え、勇気をもたらす茶)

 

 

訳注

(注1)『ぼくが小さかった頃』③参照。

(注2)Barlat Ali & Pros、1910年創業。カルカッタで最も有名な洋服の仕立て屋。

(注3)『マハーバーラタ』のクライマックス、パーンダヴァ族とクル族の決戦場。アルジュナは、クリシュナ神の加護を受けたパーンダヴァ族の王子。

(注4)カルカッタ大学の学部レベルの教育機関City Collegeは、ブラーフマ協会の管理の下、1881年に創設された。その下にある中高レベルの学校。

(注5)ヒンドゥー教の神を、集団で歌い讃える讃歌。特に信愛派(ヴァイシュナヴァ)のヴィシュヌ神・クリシュナ神を讃えるキールタンは、ベンガルで広く行われている。

(注6)Tibbati Baba/Tibbeti Baba(?~1930) 「チベットの聖者」の意。東ベンガル(現バングラデシュ)シレート地方出身のベンガル人聖者。ヒンドゥー教ヴェーダンタ学派の理論と大乗仏教を結びつけたと言われる。チベット式の修行をしたことからこの名がある。

(注7)Trailanga Swami (1607~1887) 言い伝えでは280年生きたと言われる、アンドラ州生まれの聖者。後半生のほとんどを、ワーラーナシーで過ごした。

(注8)Bijoy Krishna Goswami (1841~1899) ベンガル近代の宗教改革者。ブラーフマ教の信者だったが後に信愛派に転じた。

(注9)Santadas Kathia Baba (1859~1935) 東ベンガルシレート地方出身の信愛派行者。Ramdasji Kathia Baba(注10)の一番弟子。

(注10)Ramdasji Kathia Baba (1800~1909) パンジャブ州出身の、著名な信愛派行者。

(注11)「ジャラ・ネーティ(鼻の洗浄)」の誤りと思われる。「ムドラー(手印)」は瞑想修行時に、手・指で結ぶ、象徴的なジェスチャーのこと。

(注12)ヴィシュヌ神の十化身のひとつ。ライオンの頭を持つ獣人。ヴィシュヌ神に逆らうアスラ族のヒラニヤカシプを退治した。

(注13)ヴィシュヌ神・クリシュナ神への信愛を説くヒンドゥー教の一派

(注14)Swami Vivekananda (1863~1902) インド近代の代表的な宗教・社会改革者。ヴェーダンタ哲学とヨーガ理論を初めて西欧社会に本格的に紹介した。カルマ=ヨーガ(人々への献身の実践を通して、悟りに至る道)を説いて、インドの愛国主義・社会改革の発展に、大きな影響を与えた。

(注15)ベンガルの高位バラモンの姓。「博識な教師・学者」の意。

(注16)神々を治療する医者

(注17)古代インドの伝説上の仙人。楽器ビーナの発明者とも言われる。

(注18)『ラーマーヤナ』で、ラーマに忠誠を尽くした猿の従者。ラーマ王子とともに、海を越えてスリランカに住むラーヴァナ一族と戦った。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2023年10月26日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記⑥

練習が進んでいくと、私達生徒5人は、幸運にもガウリ・マについてインド各地に公演に出向くことができた。ハイデラバード、ケララ、チェンナイ、デリー、、、

もちろん、ガウリ・マがソロで何曲か踊るのだが、そのうちの一曲を私達生徒5人のグループコンポジションで踊らせてもらう、という感じだった。

 

ガウリ・マと私

 

そんな中、ある日、ガウリ・マは私に言った。「ゆみこ、とってもラッキーだわ。今度、プーナのOshoアシュラムが公演に呼んでくれたのよ。あなたは瞑想が好きでしょ。特別にホリデーをあげるから、しばらく残って滞在し瞑想してらっしゃい!」

 

初めてのパフォーマンスの日に

 

言われた通り、プーナでの公演のあと、彼女の知り合いのお金持ちの邸宅にガウリ・マと共に滞在させてもらい、瞑想に通う毎日を過ごした。

何日か経って、ガウリ・マは、Oshoの弟子になった。正直、その時は、「え~っ?なんで?」っと信じられない気持ちだったのだが、それから6日後の金曜日の朝のこと。その頃、月の第2週目の週末、(金)(土)(日)は、瞑想キャンプで朝から行なわれるダイナミック瞑想が、その時のみ、大声が出せるloud dynamicだったのだが、そのあまりにもものすごいみんなの叫び声に圧倒されると同時に、私の中のなにかがクリックされて、、、「あ~!この3日間を逃しちゃだめだ~!!! 次の公演先デリーに行く列車を飛行機に替えて月曜に行けば間に合う~!」と。そして、「そうだ!明日は、サニヤシセレブレーション。私もサニヤシンになりたい!!!」そう思うやいなや、サニヤスオフィスに駆け込み、事情を話すと、にっこり「オッケー」と了解をもらえた。(普通なら面談があった後、翌週にしかもらえないのだが、そこは、ガウリ・マに恩恵を被るVIP待遇のおかげだった。)

 

Oshoアシュラム in Puneでの公演

 

デリーでの公演も終え、ダンスヴィレッジに帰ってきた私。

しかし、、、

どんどん、物事の見え方が変わっていくのだった。

これまで、「ここに骨を埋める」とまで言っていた私。。。それが、、、リアリティがどんどん薄れていってしまうのだった。。。

 

クラスメイトのShilpaと〜私は大のパパイヤ好きで、「パパイヤ・マ」とも呼ばれていました!(笑)

 

そして、挙句の果て約半年後、プーナに再び訪れ、ある日本人画家によるペインティングワークショップを受けたあと、私の中に決断がやってきた。

自分の魂は、ここにある!〜あんなにも可愛がってもらい、なんとも恵まれた環境で踊りができたのにも関わらず、ダンスヴィレッジを飛び出してしまった。

ガウリ・マは、私の1週間前にサニヤシンになったので、わかってもらえるかな?と少しは期待したのだが、そうは問屋が卸さず、彼女からの怒りに満ちた手紙を受け取った。ごめんなさい。

仕方がないことだっただろう。

だが、私の決意は揺るがず、私はOshoのアシュラムで瞑想を続けることを選択した。

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年10月2日月曜日

松本榮一のインド巡礼(その5)

インダス川     

ガンジス川とともにインド亜大陸を流れる主要河川。チベット高原のマーナサロワル湖近くに流れを発し、パキスタンの主要都市カラチ近くのアラビア海にそそぐ。3180キロの流域はそのほとんどが、パキスタンであり、チベット、インドはそれぞれ2パーセント、5パーセントにすぎない。

パキスタンは今でこそ、有力なイスラム国家だが、七世紀に玄奘三蔵がこの地方を旅したころには、仏教も盛んで、タキシラーや、タフテイバーイなどの仏教遺跡が残っている。有名なガンダーラ美術の素晴らしい仏像はこの地方で生まれたものである。


©Matsumoto Eiichi

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2023年9月28日木曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑨

ボバニプル(4)

ボクル=バガンの家に住んでいる時に、初めて、ポッド=プクルにあるボバニプル水泳クラブ (1) に、水泳を習いに行った。その頃、プロフッロ・ゴーシュ(2) が、身体に油を塗って76時間泳ぎ続け、世界記録を更新したばかりだった。そしてほとんど同じ頃、世界チャンピオンのアメリカ人水泳選手、ジョニー・ワイズミュラー(3) が、ターザン役で演技して、ぼくらをびっくりさせたのだ。水泳クラブの部屋に行き、額縁に入ったワイズミュラーのサイン入り写真が壁に飾ってあるのを見て、ますますクラブ贔屓になった。日曜の朝、何年にもわたって通い続けた。竹を掴みながら足をバタバタさせるのから始まり、しまいには、池のこちら岸からあちら岸へ、難なく泳ぎわたれるようになった。

健康増進のために、子供の時体操をする習慣が、今日どれくらい行われているか知らないが、ぼくらの時代には普通だった。朝、逆立ちや腕立て伏せをする人が多かった。身体の健康に普通よりも気を遣っている人たちは、ダンベルやエキスパンダーも欠かさなかった。ぼくは、自分では体操にあまり乗り気ではなかったけれど、プロモドロンジョンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの末弟)の手に落ちては、逃れるすべはなかった。お祖父ちゃんは、自分から望んで、人跡未踏の山や密林で測量の仕事をした。向こう見ずの冒険家の人生を送ったのだ。男が女々しくするのを、お祖父ちゃんは、まったく我慢することができなかった。タゴールが肩まで髪を波打たせているのにさえ、文句を言っていた。お祖父ちゃんにはたくさんの男の子がいて、みんなぼくより歳上だったけれど、誰もが例外なく体操をしていた。それにぼくが加わったので、ますます仰々しいことになった。

体操の話のついでに、ぼくが柔術を習った経緯についても、ここで書いておこう。もっともこれは、1934年、ぼくがボクル=バガンを離れて、ベルトラ・ロード(4) に移った後に起きたことなのだけれど。

柔術というものを最初に見たのは、シャンティニケトンだった。その時、ぼくの年齢は10歳かそこら。シャンティニケトンのポウシュ月祭(5) に行ったのだ。新しいサイン帳を買った。その最初のページに、タゴールに詩を一つ書いてもらおうと、意気込んでいた。

ある朝、母さんと一緒にウットラヨン(6) に行った。サイン帳を渡すと、タゴールは言った、「このまま置いて行きなさい。明日の朝来て、持って行きなさい。」

言われた通り、翌日、サイン帳を取りに行った。テーブルの上は手紙、ノート、本が山積みになっていて、その後ろにタゴールがすわっていた。そして、ぼくを見るとすぐ、その山の中に、ぼくのちっちゃな紫色のサイン帳を捜し始めた。3分あまりひっくり返したあげく、ようやくサイン帳が出てきた。それをぼくに渡すと、母さんの方に向いて言った、「この詩の意味は、この子がもう少し大きくなったらわかるだろう。」

サイン帳を開いて読んでみると、今日多くの人が知っている八行詩(7) だった:––

長かりし日々 はるかな道のり

費(ついえ)あまたに 国々を巡り

聳(そび)え立つ 山並み 望み

沸き返る 大海 訪(おとな)う。

眼(まなこ)開きて 見ることも無し

家の外 わずか数歩の

稲穂の先に 揺れ動く

ひとしずくの 露を。

1336年ポウシュ月7日(西暦1929年12月22日)

シャンティニケトンにて

ロビンドロナト・タクル

 

 

その時初めて、柔術または柔道を、この目で見たのだ。大昔、中国のラマ僧たちが、盗賊たちに対抗するために、手に武器を持たずに闘ったり自衛したりする技術を編み出した。この柔道は、中国から日本に行き、その後日本から世界中に広まった。タゴールは、日本に行って柔道を見て、シャンティニケトンの学生たちにこれを教える段取りをつけなければならないと、決心したのだ。時を経ずして、柔道の専門家タカガキ(8) がシャンティニケトンにやって来て、柔道の授業が始まった。でも、どういうわけか、この授業は、4年以上は続かなかった。しまいには、タカガキはシャンティニケトンを後にし、カルカッタにやって来ると、バリガンジのスインホー通り(9) にある、ぼくの義理の叔父さんの一人、ドクター・オジトモホン・ボースの家の一階を借り、そこで柔道を教える手筈を整えた。

何の前置きもなく、ある日突然、下の叔父さんシュビモル・ラエ(父シュクマル・ラエの末弟)(10) がぼくらの家に現れて、こう言った、「柔道を習うのは、どうだろう?」

下の叔父さんを見たことのある人なら、誰にだってわかるだろう –– 体操とか格闘技とかいったものと叔父さんとの間に、何らかの繋がりを想像するのが、どんなに難しいか。痩せぎすで弱々しい体格、いつもぼおっとしていて、修士号を取るとすぐ学校の先生になった。こんな人が、柔術を習う必要が、どこにある? そもそも、こんなことをしようという願望が、どうして頭に浮かぶのか? でもその願望が、どうやらある日、現実のものになろうとしていた。そして、ぼくも叔父さんと一緒に市電に乗って、バリガンジのスインホー通りに向かったのだ。日本人柔道家と話をするために。

今のバリガンジと、1934年のバリガンジが、どんなに違っているか、見たことがない人にそれを想像するのは難しい。ラシュビハリ・アヴェニュー(11) を少し進み、モハニルバン修道場(12) を過ぎてからは、石造りの家はほとんど見当たらない。道の両側には、マンゴー、ムラサキフトモモ、パラミツの木々が生え、その周りを藪や茂みが覆っている。ほとんど田舎の光景だ。

ゴリアハト(13) の交差点で降りて、泥池、竹藪、ウチワヤシとココヤシでいっぱいの野原を過ぎ、ようやくスインホー通り。たぶん、電話で前もって知らせてあったのだろう、義理の叔父さん一家の家を探し当て、一階の居間にすわり、紫色の着物を着た柔道家タカガキとの間で話を決めるのに、何の支障もなかった。タカガキの年齢は、たぶん40歳くらい。丸刈りの漆黒の髪に、黒い眉と口髭が似合っていた。ぼくは、叔父さんが柔道を習いたいと言うのを聞いて、タカガキが笑い飛ばすかもしれないと思っていた。でもそうしたことは一切なかっただけでなく、叔父さんは柔道の生徒としてまったく申し分ない、とでも言わんばかりだった。話し合いが終わると、仕立て屋が来て、柔道着を作るために身体のサイズを測って行った。生成りの綿のように厚ぼったい白い布で作られたジャケット、帯、そして短いパエジャマ(緩いズボン)。ジャケットの胸のところに、JUDOという大きな字が、黒糸で縫い付けてある。

柔道着ができると、25センチほどの厚さの畳を敷いた部屋で、柔道の授業が始まった。45年後の今、柔道の二つの技だけ、いまだに覚えている –– 「背負い投げ」と「一本背負い」(14) 。初めのうちは、ただひたすら、投げ飛ばされ方と、相手を投げ飛ばすことの練習。投げ飛ばされた時、どうやって衝撃を受けないようにするかが、柔道で、まず最初に学ばなければならないことだ。タカガキは言った –– 地面に落ちる時、身体から完全に力を抜くんだ、そうすれば苦痛も少ないし、骨を折る可能性も低くなる。 投げ飛ばすとは、完全に頭の上まで持ち上げて投げ飛ばすこと。柔道の技を使えば、12, 3歳の子供でも、太っちょの人間を難なく投げ飛ばすことができる。それは、まったく驚くべきことだ。

 

 

ぼくらが授業を受ける日に、男性があと二人やって来た。一人はベンガル人で、一人は白人。ベンガル人の方は、ぼくらと同様、初心者だったけれど、白人サヘブの方は、ウィリアム要塞に駐屯している軍人、キャプテン・ヒューズ(Captain Hughes)。この人はボクサーで、カルカッタのライト=ヘビー級チャンピオンだった。なかなかの美男子で、角張った顔、短く刈った波打つような金髪。柔道で彼が学ぶことは、何もなかった。すでに、柔道のエキスパートだったのだ。カルカッタには、彼の相手になれる人がいなかったので、タカガキを相手にしばらく闘って、自分の技を少々磨くために、ここにやって来たのだ。二人の闘いは見ものだった。ぼくらは、まるで呪文にかかったみたいに目を見張っていた。技また技、投げ飛ばすかと思えば投げ飛ばされ、しまいに、二人のうちのどちらかが押さえ込まれると、右手で畳の上を2回続けて叩いて相手に知らせ、相手は自分の技を緩めて、負けた方を許すのだった。

授業の後、タカガキはぼくらに、オバルチン(15) を振舞った。その後ぼくらは、夕闇の中、茂みに覆われた野原を通り、ボバニプル行きの市電に乗って、それぞれの家に帰り着いたのだ。

訳注

(注1)1917年創立。ポッド=プクル(「蓮=池」の意)は、南カルカッタのボバニプル地区、ボクル=バガンの北に位置する。

(注2)Prafulla Ghosh (1900-1980)、著名な水泳選手兼サーカスの曲芸師。1932年、ラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)のRoyal Lakeで、79時間24分、泳ぎ続けた。

(注3)Johnny Weissmuler (1904-1984)、オーストリア=ハンガリー帝国生まれの、アメリカ人水泳選手。後に映画俳優に転向、ターザン・シリーズで、ターザン役を演じた。

(注4)Beltala Roadは、ボクル=バガンのすぐ南を、東西に向かって走る通り。

(注5)タゴールが創設したビッショ=バロティ大学で、ポウシュ月7日(12月21~22日頃)から3日間催される、学園祭。露店が立ち並び、近郊からは歌い手・芸人・修行者などが集まる。タゴールの父デベンドロナトが、1843年のポウシュ月7日にブラーフマ教に入信したのを記念して、1891年のこの日に、シャンティニケトンにブラーフマ寺院を建設。1894年のこの日から、毎年、寺院の横の野原で、祭りが開かれるようになった。ビッショ=バロティ大学の前身、ブラフマ修養学舎が創設されたのも、1901年のポウシュ月7日。

(注6)Uttarayan(「夏至」の意)は、もともとは、1919年に、タゴールがブラーフマ寺院の北側に建てた、土造りの家の名前。後にこれは石造りの家に建て直され、コナルク(Konark, 「太陽の隅」の意)と命名された。サタジット・レイが訪問したのは、おそらくこの建物。その後、この家の周辺に、タゴールやその家族等のために、家が次々に建てられた。現在、この場所全体がウットラヨンと呼ばれている。

(注7)この詩は、後年、未発表の詩を集めた詩集『火花』に収められた。同詩集164番の詩。

(注8)高垣信造(1898~1977)は、1929年から2年間の契約でシャンティニケトンに滞在。女学生を含む学生たちに柔道を教えたほか、インド各地に柔道を広めた。その後、ネパール、アフガニスタンにわたり、戦後も講道館国際部長として、アジア各地や南米で柔道を指導した(我妻和男『タゴール [詩・思想・生涯]』による)。

タゴールは、実は、高垣信造の前に、佐野甚之助(1882~1938)を日本から招聘している。佐野甚之助はシャンティニケトンに1905年から1908年まで滞在、日本語と柔道を教えた。帰国後も、タゴールの来日時に交流があり、1924年には、長編小説『ゴーラ』の、詳しい解説付きの優れた翻訳本を出版した。

(注9)バリガンジ(Ballygunge)地区は、ボバニプル地区(南カルカッタ)の東隣に位置する。スインホー通り(Swinhoe Street)は、その南東隅にある。

(注10)『ぼくが小さかった頃』③参照。

(注11)Rashbehari Avenueは、バリガンジ地区の南側を東西に走る大通り。

(注12)聖者ニットゴパル・ボシュ(Nityagopal Basu, 1855-1911)が創設した修道場。

(注13)南カルカッタの南東側に位置する、大市場。

(注14)原文では「ニッポン・シオ」とある。「一本背負い」の誤りか。

(注15)Ovaltine、粉末の麦芽飲料

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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2023年9月14日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記④

Dance Villageでの舞踊のレッスンは、まずはガウリ・マから直接習うことができた。

その後、日本でいう人間国宝に値するPadma Vibushan ケルチャラン・モハパトラ・グルジの息子さんである、ラティカント・モハパトラ=シブ・グルジから。

その後、ビチットラナンダ・スワイン グルジ=ビチ・グルジも来てくださった。。。

シブグルジは、パカワジというオディッシーならではの横叩きの太鼓を叩いては、ステップレッスンをしてくれた。とってもシビアな指導ではあったが、レッスンの合間には、私達生徒と共に、ふざけた格好をさせては写真をとったりなどジョークいっぱいの時間も過ごした。

 

シブグルジのアレンジによるユニークショー

 

また、時には、なんともありがたいことに、大御所ケルチャラン・モハパトラ・グルジ=バレグルジ(大きなグルジ)自体が何日か滞在して下さり、指導や、グループコンポジションをして下さった。(最後にして下さったのは、ラーマーヤナで、私は鹿の役だった!)

 

ケルチャラングルジにポーズを直してもらう私

 

彼の滞在時のとても貴重な思い出は、夕方、日が暮れてくると、毎日オイルランプに灯をともし、お線香を炊いてはパカワジや、マンジーラ(小さなシンバル)と共に、バジャンを歌ったこと。

彼の敬虔な姿や、巧みなパカワジ演奏、そして特にゴービンダ ゴービンダ ゴパーラナーデ♪とクリシュナ神を讃えたある一曲は、私の中のdevotionalな部分が鼓舞されてか、泣きそうになるくらいに大声で歌い捧げていたのが思い出される。

 

ケルチャラングルジによるレッスン風景

 

あと、堅苦しい日本人気質がひっくり返されたのは、ホーリー祭りの日。

色とりどりのカラーの粉や、水をみんなに思いっきり投げつけあい、挙句の果てには、ウォータータンクに飛び込む!のだった!!!!!

幼い頃から結構マジメ少女だったわたし。ここまで、ぶっ飛んだことをしたことがなかった。まさに青天の霹靂だった!!!

 

ホーリーで色とりどりに染め上がった私達

 

「言葉はどうしたの?」とよくきかれる。

インドの各地から来た生徒の中には、ヒンディー語を話さない人もいたため、私もいることだし、と英語を共通語にして下さったおかげで、日常生活のことばにはあまり問題がなかったのは、幸いだった。

また、ここでは、深い井戸からの安全な生水を飲むこともでき、インドに居ながらも、いろんな意味でとても楽に生活することができたのだ。

もちろん、たまには、生活慣習の違いから、ひとり取り残された感覚になり、さみしい思いをしたこともある。

しかし、私の夢を見てくれたというガウリ・マは、ある意味、私のインドでのお母さんのような存在だった。彼女は、他の人からマッサージを受けるのはあまり好まなかったといいながら、私のマッサージは、プロ並みだと気にいってくれて、ちょくちょく、彼女が寝ていたテントに夜、マッサージに行き、彼女が寝たのを見計らって自分の部屋に帰る、ってことをさせてもらった。

また、ケララ出身のナヤール・ジのお料理は、とても美味しかった。朝から、マサラ・ドーサ(スパイス炒めのじゃがいも入り米粉クレープ)や、ウプマ(セモリナ粉の卯の花みたいなもの)、イドゥリ(米粉の蒸しパン)+ココナッツ・チャトゥニ(ココナッツペースト)やサンバル(辛味スープ)などなど。。。

南インド料理は、小麦ではなく、米の文化。特に、ケララでは、ココナッツやバナナをたくさん使った料理で、わたしはとっても好きだった!

そんな訳で、未だに、やっぱり南インド料理派なのです。

 

ビチットラナンダ・グルジ達との食事風景

 

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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天竺ブギウギ・ライト⑤/河野亮仙

第5回 競技スポーツとして定着したカバディ

「カバディ、カバディ」と連呼することだけが知られていた「インド発祥・謎のスポーツ」が、大分、定着しました。4年に一度のアジア競技大会の年には取材が増えてテレビにも出演します。

冬季オリンピックの時だけ注目を浴びたカーリングもまた、マイナーとはいえないくらいの人気スポーツになりました。お菓子を食べてほっこりする、ゆるいスポーツと思われていましたが、藤澤五月選手のボディメイクコンテストにおける活躍で、背筋や体幹の強さを必要とし、厳しい筋トレを行っていることが知られました。筋肉は一日にしてならず、です。

マンガ『灼熱カバディ』のおかげで、カバディも珍スポーツではなく、ちゃんとした競技スポーツとして認識され、愛好者が増えてきました。コンタクトスポーツなのでコロナ禍においては、他のスポーツ以上に対応が大変でした。

「カバディ、カバディ」と声を出すから危ないなどともいわれ、息も絶え絶えでしたが、ようやく息を吹き返してきた感じです。

さて、カバディの歴史については以前に書きましたので、今回は2023年7月22日、23日に行われた東日本大会のことをレポートします。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%8a%b1/

今回は参加チームが増えて男子18チーム、女子5チームの参加です。協会が公開で毎月練習会を開催しているのでその参加者も多く、カバディをよく知っています。逆にいうと、初期にはルールも知らない急造チームも参加していたのです。

初めてカバディが正式種目となった1990年。北京のアジア競技大会に参加した日本代表チームは、今の高校生にも負けると思います。ここ数年は、女子の参加が少なく試合を組むのにも苦労していましたが、やっと格好が付いてきました。

大学でカバディ部があるのは大正大学だけなので、平成の間は大正大学がカバディ界をリードしていましたが、令和のコロナ禍で部員募集もままならず、今回、大正大学のチーム、大正マイトリーは初戦で敗退しました。高校でカバディ部のある自由の森学園も、高校生であるのにかかわらず、常に上位入賞していましたが、栃木ガーナレンズに初戦敗退。

そのかわり、自由の森学園OGを中心として新チームを結成した摩耶が女子で初優勝。男子決勝は常に優勝争いに食い込むAKSABHIJIT KABADDI SANGA)とBUDDHAの闘いとなり、BUDDHAに軍配が上がりました。

茨城や栃木、新潟や鹿児島からもチームがエントリーし、カバディが各地に広まって新しい風が吹きました。

国際的にいうと、ほとんどアジアだけの競技なので、オリンピックに参加するのは難しい現状です。もともとベンガルなど北インドで流行っていたので、初期にはインド、パキスタン、バングラデシュが三強で、そこにネパールや日本が続くという格好で、日本も2010年広州大会で銅メダルを獲得しました。

その後、身体能力の高いイランがインド人コーチを招き、インドに迫るほどのチーム力をつけました。どちらもコシティというレスリングの土壌があります。韓国もセミプロ的な強化策を講じて上位を構成し、台湾も格闘技系の選手が多く参加し、力をつけてきました。

日本チームは今年6月の韓国・釜山における男子アジア選手権で韓国に勝つことができ、インド、イランに次いで、台湾と同率三位を獲得しました。終盤の競り合いで負ける傾向があるので、これを克服すればアジア競技大会でもメダルに手が届きます。

インドは「オレがオレが」という個人技で勝負していますが、日本はチームプレイで守りながら点をコツコツ取る闘い。ここに二、三人飛び抜けたレイダー、攻撃手が若手の中から育つとメダルにぐっと近づきます。サッカーでも点取り屋がなかなか現れないように、日本は組織で戦うチームです。

インド、イラン以外のタイ、マレーシア、インドネシア、韓国、台湾、日本は、やってみないとどちらが勝つか分からない状況です。混戦から抜け出してメダルを獲得するには選手強化が必要で、そのためにはスポンサーを獲得しないと運営が難しい。皆様に物心共に支援をお願いします。

 

日本カバディ協会

公式ホームページ https://www.jaka.jp/

Twitter https://twitter.com/jaka_kabaddi

 

 

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年9月7日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記③

NRITYAGRAMを創設したのは、プロティマ・ガウリ・ベディProtima Gauri Bediという著名なodissiダンサーだった。

彼女は、ボンベイ生まれで、カビール・ベディというとても有名な映画男優の妻として知られていた。だが、ケルチャラン・モハパトラ グルジのodissiを観て、彼女の人生は一変。すべてを捨ててオリッサに出向き、odissiに身を捧げたと聴いている。

 

プロティマ・ガウリ・ベディ女史のフライヤーから

 

そんな彼女が、インド古典舞踊においても、かつて存在していたguru shisha parampara ——日本でいう内弟子制度のようなものが途絶え、単なるお稽古事になってしまっている状況を憂い、再復興させようと創設したのが、このNRITYAGRAM(ヌリッティアグラム=ダンスヴィレッジ)だった。

いろいろなスポンサーをあたり、辿り着いたのが、このカルナタカ州、バンガロール郊外のこの村だったのだ。

私達は、彼女のことを敬愛を込めて、ガウリ・マと呼んだ。なので、ここでも、以下、ガウリ・マと呼ばせて頂く。

 

ガウリ・マ in NRITYAGRAM

 

NRITYAGRAMは、荒野を開拓して作られたダンスヴィレッジ。

バンガロールから20キロ程離れたhessaragatta村のそのまたはずれにあり、隣はたった一軒家があるのみ。

1990年 2月頃だったか、たどり着いたNRITYAGRAMは、まだ建築がまだ完了していず、そこにいたのは、ガウリ・マと、ゴア出身のジェラード(Gerard da Cunha)という建築家、そしてカルナタカ州の村から来たウダエという最初の男性生徒だった。

ダンスヴィレッジの素晴らしい点の一つは、その建築にあった。西洋のシュタイナー建築を彷彿させるような、曲線に満ちた建物。土、ココ椰子などの自然素材だけですべてが作られていた。

 

ダンスヴィレッジの門(奥に見えるのはヨガセンター)

 

私達、生徒の部屋は2畳あるかないか、くらいだっただろうか?

作り付けの石の棚にマットレスを敷いたベッドと、備えつけの土の机があるのみ。

私は、女性で最初の生徒だったので、一番好きな部屋を選ぶことができた。とっても小ぢんまりした部屋だったけれど、とってもキュートで大満足だった!

 

インドの建築雑誌より

 

さて、どのようにレッスンが始まったんだったかなぁ〜 はっきり思い出せない。

でも、住込みで料理を作ってくれたナヤール一家の三女であるアニータと、バンガロール市から来たシルパと共に、4人の生徒でレッスンが始まったと記憶している。いま、NRITYAGRAMを継いでいるスルパは、しばらく後でやってきた。

最初の数ヶ月は、踊りの演目を教えてもらうことはなく、ひたすら、基本のステップの練習ばかり。odissi独特のチョーカとトリバンギという2つの直線的、曲線的ポーズに基づく10のステッピング練習、それぞれのステップでは、1st speed、2nd speed、3 speedと、どんどん速くステップをとっていくのだった。

また、目や首、胴の動きをする練習など、いろいろだったが、インド舞踊独特の首を左右に動かす動きは、私にはとても難しく、1年位かかってようやくできたように記憶している。

 

オディッシー・グルクルの屋上へ向かう階段にて

 

朝5時半くらいに起き、ジョギング、そしてヨガ。

朝食後 8時から13時は 朝のクラス。昼食 お昼寝、午後のガーデニング、17時〜20時は夕方のクラス 晩飯、時には、夜のクラスも、、、

と、1日8時間、またはそれ以上レッスンする毎日だったけれど、これ程まで踊りに明け暮れていられる喜び、そして自然に囲まれ、ほぼ裸足で過ごすここでの生活は、とても幸せに満ちていた。

 
 

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAM(The Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiを Padma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年9月3日日曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑧

ボバニプル(3)

ショナ叔父さんは、アースキン・セダン車 (1) を手に入れた。今のフィアットやアンバサダー (2) の時代に、この車の名前を知る者は、ほとんどいない。夕方になると、この車に乗って、時々マイダーン (3) まで出かけたのだ。その頃、マイダーンでは白人たちがゴルフをしていて、安心して車を走らせる環境ではなかった。ゴルフボールが、いつどこから弾丸のように飛んで来るか、知れたものではなかった。一度、少しぼおっとしていて、気付かないうちに、ボールが一つ、すごい勢いでぼくらに向かって飛んで来たことがある。運転手のシュディル・バブー (4) が、ぼくの身体を掴んで、急にぐいっと横に逸らした。ゴルフボールはぼくら二人の耳元をかすめ、道を越えてヴィクトリア記念堂の柵の方に飛んで行った。

シュディル・バブーは、ぼくらの家の屋上の部屋に住んでいた。その頃は、マハートマー・ガーンディーの不服従運動が続いていた。ある日、突然、巨大な紡錘とひとかたまりの綿を買って来て、自分の部屋で綿糸を紡ぐ作業を始めた。これももちろん、不服従運動の一環だった。その後、あっという間に、綿糸を紡ぐ作業が、そこら中の家々に伝染病のように広がったのだ。ぼくらの家でも、家族一人一人のために、紡錘が持ち込まれた。ぼくにも、だ。1ヶ月あまりのうちに、ぼくも、難なく綿糸を紡げるようになった。でも、シュディル・バブーは、ぼくらのチャンピオンだった。自分で紡いだ綿糸で、フォトゥア(前開きの緩い上衣)を作るなんて、他に真似できる人は、誰もいなかった。

 

 

その頃、カルカッタでは、大掛かりな愛国祭(スワデーシー・メーラー)が催されていて、ぼくらはみんなで、それを見に行った。エルギン・ロードの交差点の傍に、その当時は、広大な野原が広がっていた。「ジムカナ・クラブの野」 (5) と呼ばれていた。(今では、そこに家が建ち並んでいる。)その野原で愛国祭が開かれたのだ。

愛国祭の何よりの目玉は、インドの指導者たちの蝋人形だった。それらの人形の特徴は、機械仕掛けで、その頭や手足が動くことだった。仕切られたひとつひとつの部屋に、別々の光景があった。ある部屋では、マハートマー・ガーンディーが、監獄の独房の床にすわったまま何かを書いていて、扉の外には武器を持った見張りがいる。マハートマー・ジー (6)の手にはペン、膝の上にはメモ帳。手はメモ帳に何かを書いているように動き、それにつれて頭も左右に動く。別の部屋では、「母なるインド」 (7) の巨大な像があり、「国の友」チットロンジョン・ダーシュ(8) の屍を、両手で捧げている。「母なるインド」は「国の友」の方を凝っと見つめ、次の瞬間には目を閉じて悲しげに頭を左右に振る。誰がいったい、こうした蝋人形を作ったのか、覚えていない —— おそらく、ボンベイのどこかの職工だろう —— でもそれらは、本当に生きているように見えた。カルカッタの市内でも、これらの肖像は、ずいぶん評判になったものだ。

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ぼくの母方のお祖母ちゃんは、ぼくらと一緒に、ボクル=バガンの家に住んでいた。色白で細身の美人だった。素晴らしい歌声を持っていた。お祖母ちゃんが歌ってくれた、モエモンシンホ (9) 地方の歌、「糸車が踊るのを、おまえたち、見て行きなさい」は、今でも耳に残っている。

たぶん1926年だったと思う —— ぼくの母方の叔父さん・伯母さん、その連れ合いや子供たちが、カルカッタに一堂に会したことがある。こんなことは、めったに起きない。2番目の叔父さんはラクナウに住んでいたし、一番上の叔父さんはパトナー(ビハール州都)だったし、上の伯母さんは、東ベンガルのカキナに住んでいた —— 旦那が、カキナにある地主領の、管理人だったのだ。

みんながカルカッタに集まることになったので、お祖母ちゃんと一緒に集合写真を撮ることになった。その当時、カメラのある家は少なかった。もしあったとしても、4, 5ルピーのボックスカメラが、せいぜいだ。このカメラでは、あまりいい写真は撮れない。少なくとも、飾っておくに値する集合写真を撮るのは、無理だ。だから、何か特別の時には、白人の店に行って、集合写真を撮ってもらう習慣だった。ベンガル人の店がなかったわけではないけれど、それは、殆どが北カルカッタだった。白人の写真館の中では、二つの店が、かつて、カルカッタで一番よく知られていた。「ボーン・アンド・シェパード(Bourne & Shepherd)」 と、「ジョンストン・アンド・ホフマン(Johnston & Hoffman)」。この二つの店は、その頃、創業して70年ほど経っていて、昔ほど繁盛していなかった。この二つに代わって名を成したのが、当世風の「エドナ=ロレンツ(Edna Lorenz)」。この店は、チョウロンギ通りとパーク・ストリートの交差点にある、チョウロンギ・マンションの中にあった。ぼくら、お祖母ちゃん・母さん・伯母さん・叔父さん・その連れ合いと子供たち、全部で18人が、総出でこのエドナ=ロレンツ写真館に出向いたのだ。

前もって言ってあったので、白人店主は、集合写真を撮る準備を、何もかも整えていた。巨大なホールには、6脚の椅子が並べてあった。その真ん中の一つにお祖母ちゃんがすわった。男たちは全員列をなして後ろに立ち、母さん・伯母さん・義理の叔母さんたちは残りの椅子にすわり、上の叔父さんの二人の幼い娘たちは正面の腰掛けにすわり、ぼくはお祖母ちゃんと母さんの間に立った。白人写真家たちは、部屋の中で写真を撮るのに、フラッシュやライトを使わない。(当時は、そうした習慣がなかったのかも知れない。)片側に並ぶ窓から漏れてくる光で十分だ、と言うことだった。馬鹿でかいカメラで、レンズの前には蓋が嵌められていて、その蓋は、2秒間だけ開かれて、その後また閉じられることになっていた。その2秒間の間に、写真が撮られるのだ。その間、少しでも動くことはできない。

白人サヘブが準備完了を告げ、みんなは凍りついたようになった。目はカメラの方に釘付け。写真を撮る人の横に、もう一人サヘブがいて、その手にはシンバルを持ったカラクリ人形。おなかを押すと、カタンカタンと音を立てて、両手がシンバルを打ち鳴らす。この人形は、2番目の叔父さんの息子、幼いバッチュのために必要だったのだ。バッチュは生後たったの数ヶ月、母親の膝の上にすわっていた。そのバッチュの目がカメラから離れないようにと、サヘブはカメラの後ろに立って、シンバルを鳴らし始めた。そのタイミングに合わせて、もう一人のサヘブがレンズの蓋を開け、また閉じて、撮影を完了した。

この写真を撮ってから4, 5年のうちに、お祖母ちゃん、一番上の叔父さん、そして上の伯母さんの息子モヌ=ダーが亡くなった。ドンお祖父ちゃん (10) が、この集合写真の中から、この3人の写真を、別々に拡大したのだった。

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ボクル=バガンの家では、一番下の叔母さんが、ぼくらと一緒に暮らしていた。叔母さんは、歌手として、とても有名だった。もっとも、この叔母さんの歌を、家の外の人たちは、ぼくらが聞くようには決して聞くことがなかった。なぜなら、人びとの前で歌おうとしただけで、叔母さんの喉はカラカラになってしまったから。

ある日、叔母さんの歌がHMVレコードになることになって、その歌を録音するために、叔母さんは、グラモフォン社の事務所に行かなければならなくなった。お膳立てをしたのは、ブラ叔父さんだった。ブラ叔父さんは、グラモフォン社の、カルカッタで一番評判のいい店の主人だったので、グラモフォン社にとっては、重要人物であったに違いない。

ブラ叔父さんの赤い色のT型フォード (11) に乗って、ぼくも叔母さんと一緒に、会社の事務所へ行った。グラモフォン社の事務所は、当時、ベレガタ (12) にあった。(ドムドム (13) に移ったのは、もっと後のことだ。)サヘブの会社に行って歌わなくちゃならないと聞いて、叔母さんは、二日前から、夜眠れず食事も喉を通らない。ブラ叔父さんは、ただひたすら励まし続ける –– 何にも怖がることはない、すごく簡単なことだ。何もかもうまく行くさ。ブラ叔父さんは、歌を習ったことはまったくなかったけれど、竹笛でタゴール歌曲の調べを奏でたし、オルガン演奏が上手だった。

白人サヘブの会社は、支配人も白人、録音技師も白人。当時、マイクロフォンはなかった。細長い管に向かって歌わなくちゃならなくて、その歌は、隣の部屋の蝋製の円盤に刻み込まれた。

叔母さんが、朝から何杯水を飲んだか、数え切れない。録音室に入って、管の前に立たなければならず、ぼくは隣の部屋のガラス窓から、成り行きを見守っていた。若造の録音技師が来て、長い管を左右に揺り動かし、叔母さんをちょうどいい位置に立たせた。そうしてから、叔母さんの目の前でタバコを箱から取り出し、それを宙に投げ、唇で受け止めて火をつけると、部屋から出て行った。後でブラ叔父さんから聞いたところでは、女の歌手が来るたびに、録音技師は、歌手たちにこうした芸当を見せつけるのだ。サヘブのタバコ芸を見て、叔母さんの喉がますます乾いてしまったのは、間違いない。とにもかくにも、叔母さんは歌を歌った。それを聞くと、喉の緊張が完全になくなったのではないことがわかった。でもその歌はレコードになって、やがて売り出された。この後、叔母さんは、長い間にたくさんの歌をレコードにした。最初の頃の名前はコノク・ダーシュ。結婚してから、コノク・ビッシャシュになった。

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ボクル=バガンのぼくらの家から、歩いて5分の距離に、シャマノンド・ロードがあって、そこには父方の叔父さん(父シュクマルの次弟)、シュビノエ・ラエが住んでいた。この叔父さんが、その頃のある日、『ションデシュ』誌を新たに刊行したのだった。

1929年9月に父さんが死んでから、2, 3年のうちに、『ションデシュ』誌は廃刊になった。その頃、ぼくはまだ、この雑誌を読む年齢ではなかった。出版されたばかりの雑誌を、手に取って読む体験を得たのは、この二度目の出版の時だ。表紙には3色刷りの絵、象が二つ足で立ち、その長い鼻で、甘菓子ションデシュの入った壺を支えている。この二度目の『ションデシュ』では、創刊号から毎号、タゴールの『彼』 (14) が掲載された。リラ・モジュムダル (15) が最初の短編小説を書いたのも、この『ションデシュ』だ。その短編に合わせて、彼女は自分で面白い挿絵を描いた。他の画家の中には、今日有名になった、ショイロ・チョクロボルティ (16) がいた。彼の描き初めは、おそらく、この『ションデシュ』だったのだろう。

その当時、ぼくが愛読していた児童向けのベンガル語月刊誌が、もう一つあった。『虹』誌だ。『虹』の事務所は、ボクル=バガン・ロードとシャマノンド・ロードの交差点にあって、ぼくらの家から200メートル足らずの距離だった。この雑誌の編集長、モノロンジョン・ボッタチャルジョ (17) と知り合いになれて、とても嬉しかった。彼の書いた、日本人探偵フカカシが主人公の、『ルビー』と『ゴーシュ・チョウドゥリの時計』が、ぼくはとても好きだったから。

訳注

(注1)アメリカのスチュードベーカー社の社長、アルバート・アースキンの名を冠して、1920年代に売り出された箱型の車。

(注2)フィアットは、イタリアの小型車製造メーカー。アンバサダーは、ヒンドゥスターン・モーターズが生産した、インドの国民車。

(注3)フグリ川東岸、カルカッタの中心部に広がる緑地帯。北はイーデン庭園(Eden Gardens)、西はウィリアム要塞(Fort William)、南はヴィクトリア記念堂(Victoria Memorial Hall)に囲まれている。

(注4)「バブー」は、ベンガル人中間層のヒンドゥー教徒男性に対して用いられる敬称。

(注5)「ジムカナ」(Gymkhana)は、英領時代にできた、白人とインド人上流階級のための、スポーツを通しての社交クラブ。エルギン・ロード(Elgin Road)は、ボバニプル地区(南カルカッタ)の北側を東西に走る通り。

(注6)「ジー」は、インド人の主にヒンドゥー教徒に対する、親しみをこめた敬称。

(注7)「母なるインド」(Bhārat Mātā)は、インドを母神として人格化したもの。

(注8)Chittaranjan Das (1870-1925) は、著名な弁護士・詩人・愛国運動家。マハートマー・ガーンディーが主導した第一次不服従運動(1919~22)で、中心的な役割を果たす。「国の友(デシュ=ボンドゥ)」は、彼につけられた呼び名。過労のため、1925年に死去。

(注9)東ベンガル(現バングラデシュ)北部の県

(注10)レイの祖父ウペンドロキショルの、2番目の弟。『ぼくが小さかった頃』⑤参照。

(注11)フォード・モーターズが1908年に発売した大衆車。

(注12)中央カルカッタ、シアルダー駅の東側の地区。

(注13)北カルカッタ、現在カルカッタ空港のある地区。

(注14)タゴールの中篇小説。1937年出版。

(注15)リラ・モジュムダル(Leela Majumdar, 1908-2007)、著名な女流作家。児童文学作家として名高い。

(注16)ショイロ・チョクロボルティ(Shaila Chakraborty, 1909-89)、著名なイラストレーター・漫画家。

(注17)モノロンジョン・ボッタチャルジョ(Manoranjan Bhattacharya, 1903-39)、児童文学作家。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//



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