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2023年8月16日水曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』番外篇

「二人の奇術師」

「5,  6,  7,  8,  9,  10,  11」

シュロポティは、トランクの数を数え終えると、オニルの方を振り向き、「これでよし、と。全部、貨物車に運んでくれ。あと、25分しかない。」

 

「先生の席も、ちゃんととってありますよ。一等寝台車です。上下二段とも、先生の席です。ご心配なく。」 オニルは、ここまで言うと、その後、くすりと笑って、「車掌の旦那も、先生の大ファンでしてね。新帝国劇場(1) で、先生のショーを見たんだそうです。さあ、旦那 –– こちらへどうぞ。」

 

車掌のビレン・ボクシ氏は、満面笑みを湛えてシュロポティに近づくと、自分の右手を彼に向けて差し出した。「さあ、先生、その手捌きで私をすっかり夢中にさせた、あなたのそのお手に、握手させていただけるとありがたいのですが …」

 

シュロポティ・モンドルの、11個のトランクのどれか一つに目をやれば、彼が何者かはすぐにわかる。一つ一つのトランクの、側面と蓋の上には、大きくはっきりした字で、「モンドルの奇跡」と書かれている。それ以上の説明は無用である –– なぜなら、今からちょうど2ヶ月前、カルカッタの新帝国劇場で、モンドルの奇術の腕前を目の当たりにした観客は、何度も大拍手を浴びせて彼らの熱狂ぶりを伝えたのだ。新聞にも、賛辞が山のように寄せられた。一週間の興行のはずが、後から後から観客が押し寄せたために、興行は4週間続くことになった。それでも観客は満足しない様子だった。劇場支配人のたっての願いで、クリスマス休暇に再びショーをすることを、約束せざるを得なかった。

 

「何か困ったことがあれば、仰っしゃってください、先生。」

 

車掌はシュロポティを車室へと案内した。シュロポティは、車室をひとわたり見渡して、安堵のため息を洩らした。居心地はよさそうだ。

 

「先生、ではこれで …」

 

「どうもありがとう。」

 

車掌が立ち去ると、シュロポティはベンチの隅にすわり、窓側に身をもたせかけ、ポケットから、タバコを一箱、取り出した。この旅が、彼の凱旋行進の、始まりになるだろう。ウッタル=プラデーシュ州のデリー、アーグラー、イラーハーバード、ワーラーナシー、ラクナウ。今回はこの5箇所だけだが –– その後さらに、一体いくつの州、いくつの都市、いくつの町が待っていることか。それに、インドに限った話じゃない。その外には、世界ってものがある –– 果てしなく広がる世界。ベンガル人だからって、野心がないなんて思うなよ。このシュロポティ様が、目にもの見せてやるからな! むかし、奇術師フーディーニ(2) の話を読んで、身体中、総毛立つ思いがしたものだが、そのフーディーニの国アメリカにまで、おれの名声を、轟かせてやる。ベンガルの若造が、どこまでやれるか、世界中の人びとの目の前で、証明してみせるのだ。これからの何年かを、見ているがいい! 今回の旅は、まだまだ、序の口にすぎない。

 

オニルが、息せき切ってやって来ると言った、「全部完了です。何もかも。」

 

「ちゃんと全部、鍵はかかっていただろうな?」

 

「はい、先生。」

 

「よし。」

 

「私は、二つ向こうの車輌にいますので。」

 

「発車の合図は?」

 

「もうすぐです。では、私はこれで … ボルドマン駅(3) に着いたら、お茶をお飲みになりますか?」

 

「悪くないな。」

 

「じゃあ、私がお持ちします。」

 

オニルは立ち去った。シュロポティは、タバコに火をつけると、窓の外に視線を投げた。プラットフォームの上では、苦力(クーリー)、旅客、物売りたちが、騒がしい声を上げながら、右に左に流れて行く。そちらを見ているうちに、シュロポティは、ぼおっとした気分になった。目に靄がかかったかのようだ。駅の喧騒が、次第に消え失せて行く。心は遥か彼方、遥かな過去へと、さまよい始める ……

 

*****

 

いま33歳の彼は、その時はまだ、7か8だった。ディナジュプル県(4) のちっぽけな村 –– パンチュプクル。秋のある穏やかな真昼時。一人の婆さんが、麻の肩掛け袋を手に、バンヤン樹の蔭、モティ・ムディの雑貨屋の真ん前にすわっている。婆さんを取り巻いているのは、子供や老人の群れ。婆さんは、いったい、何歳だっただろう? 60だったかも知れないし、あるいは90だったかも知れない。凹んだ頬に、無数の入り組んだ皺、笑うとその皺の数は倍になった。そして歯の抜けた隙間から、とめどないお喋りが続いた。

 

バーヌマティーの魔術(5)

 

バーヌマティーの魔術を、婆さんは見せたのだった。それが最初で、それが最後だった。だがその時見たものを、シュロポティは決して忘れなかったし、これからも忘れることはないだろう。彼自身の祖母だって、その時はもう65歳だったが、針の穴に糸を通そうとしただけで、身体中がブルブル震えたものだ。なのに、あんな婆さんの皺だらけの手に、あれほどの魔術があったとは! 目と鼻の先、1メートルも離れていない物を、呪文とともに息の一吹きでどこかに消してしまい、次の瞬間には、また一吹きで取り出して見せた。貨幣、ビー玉、独楽、檳榔子、グァヴァの果実まで! カル叔父さんから1ルピーを受け取って、それを消してしまったので、叔父さんは、どんなに怒りまくったことか! でもその後、婆さんがケラケラ笑いながらそれを取り出して、叔父さんに返してみせた時、叔父さんはびっくりして、目を丸くしたのだった。

 

シュロポティは、この奇術を見たせいで、その後何日かの間、よく眠れなかった。そしてその後眠れるようになった時も、数ヶ月の間、ときどき「奇術! 奇術!」と叫び声を上げたのだそうだ。

 

この後、村で縁日などがある時には、奇術を見たいがために、シュロポティは必ずその場に駆けつけたものだった。でも、驚きに値するようなものには、その後、何一つ目に留まらなかった。

 

*****

 

16歳の時、シュロポティはカルカッタに来た。ビプロダシュ通り(6) にある父方の叔父の家から、カレッジに通うために。カレッジの教科書と一緒に、奇術の本を読み漁った。カルカッタに来て1, 2ヶ月のうちに、シュロポティはそうした本を買い込み、買ってから何日も経たないうちに、本に載っている奇術を残らずものにした。トランプのセットを山ほど買う必要があった。何時間にもわたって、トランプを手に鏡の前に立ち、奇術の練習をしなければならなかった。カレッジでの学芸の女神サラスヴァティーの祭祀や、友人たちの誕生日等々で、シュロポティは、そうした奇術を見せることがあった。

 

カレッジ2年生の時だった。友人ゴウトムの妹の結婚式に招待された。シュロポティの奇術を学ぶ歴史において、それは記念すべき一日だった –– なぜなら、この結婚式の場で、初めて彼は、トリプラ・バブーに出逢ったのだから。スインホ通り(7) の巨大な館が立ち並ぶ、その裏側の原っぱに、大天幕が張られ、その片隅、広げられた一枚のマットレスの上に、招待客に取り囲まれて、トリプラチョロン・モッリクはすわっていた。パッと見には、まったく取るに足らぬ人物に見えた。48歳、縮れ毛を小分けに、顔には笑みを浮かべ、唇の両端には、パーンを噛んだ後の赤い痕がついている。こんな人は、そこらの街角で、いくらでもお目にかかる。だが、彼の真ん前のマットレスの上で起きている、とてつもない出来事を目にすれば、この人物に対する見方を変えざるを得なくなる。シュロポティは、最初、自分の目を、信じることすらできなかった。

 

一枚の銀貨が、転がりながら、2メートル近く離れて置かれた黄金の指環の傍に行き、その後、指環を引き連れて、また転がりながらトリプラ・バブーの許に戻って来る。シュロポティは唖然となり、拍手するのも忘れていた。

 

その一方、トリプラ・バブーは、次の瞬間には、またもや別の、とんでもない奇術を見せた。ゴウトムの叔父さんが、奇術を見ながら葉巻に火をつけようとして、持っていたマッチを、箱から全部、地面に落としてしまった。叔父さんがかがみ込もうとしているのを見て、トリプラ・バブーは言った、「そんなに苦労してまで、どうしてそれを拾おうとするんです、旦那? 私に箱をくださいな。拾ってあげましょう。」 その後、マッチ棒をマットレスの片隅に山積みにして、自分の左手に空箱を持つと、トリプラ・バブーは声をかけ始める –– 「おいで、一人ずつ、おいで、おいで、おいで ……」 すると、マッチ棒たちは、まるで飼い猫か飼い犬のように、後から後から一本ずつやって来て、箱の中に収まり始めたのだ。

 
二人の奇術師_1
 

この奇術の後、食事が済んでから、周りにあまり人がいないのを見計らって、シュロポティはトリプラ・バブーに話しかけた。トリプラ・バブーは、シュロポティの奇術に対する熱意を見て、驚きを隠さなかった。「ベンガル人は、奇術を見るだけで満足して、それを見せようなんて思う人は、滅多にいるもんじゃない。君がこんなに興味を持っているなんて … 本当に、驚いたな。」

 

*****

 

このすぐ二日後、シュロポティはトリプラ・バブーの家を訪れた。家と言えば間違いになる。ミルジャプル通り(8) の共同宿舎の、古びたちっぽけな一室だった。窮乏生活のこんなにあからさまな姿を、シュロポティはそれまで、見たことがなかった。トリプラ・バブーは、シュロポティに、自分の生業のことを話した。奇術の「謝金」は、一回に50ルピー。月に2回お呼びがかかるかどうか、疑わしい。その気になって努めれば、もう少し招ばれる機会を増やすこともできただろうが、トリプラ・バブーにそんな気がさらさらないことが、シュロポティにはわかった。こんなに熟練した技を持つのに、どうして、野心というものを、まるっきり抱かないのだろうか。このことを話題にすると、トリプラ・バブーはこう答えた、「何になるんだ? この情けない国に、「良き物」の価値を認めようなんて人間が、いるものかね? いったい誰が、本物の「アート」を理解できる? 本物か偽物かを見分けられる人が、何人いると言うんだい? 先日の結婚式での奇術を、君はずいぶん褒めてくれたが、他には誰一人、褒める者がいなかっただろ? 食事の準備ができたと聞いた途端、奇術なんかには見向きもせず、誰もがいそいそと、腹を満たすために、消えちまったじゃないか。」

 

シュロポティは、親戚縁者や友人の何人かの家で行事があった時、トリプラ・バブーの奇術の手配をした。いくらかはそれに対する感謝をこめて、しかし何よりも彼に対する自然な愛情のために、トリプラ・バブーは彼に奇術を教えることに同意した。シュロポティが謝金の話をすると、トリプラ・バブーは強く反対した。「そんな話を持ち出すんじゃない。私の後を継ぐ者が、一人現れた –– それこそが、重要なことだ。君の熱意が本物なのを見て、私は君に教える気になったのだ。だが、せっかちになるんじゃないぞ。これはな、一種の修行なんだ。急(せ)いては、何一つ、ものにならない。しっかり学べば、創造の喜びが得られる。大金持ちになるとか、名声を得られるとか、期待するんじゃない。もっとも、君は、私のような惨めな状態になることは決してあるまい –– 君には野心があるが、私にはないからな ……」

 

シュロポティは、おそるおそる尋ねた、「奇術を全部、教えてくれるんでしょうね? あの、銀貨と指環のやつも?」

 

トリプラ・バブーは笑って答えた、「一歩一歩、進むことだ。慌てるんじゃない。辛抱強く続けるのだ。何より、精進が大切だ。これはな、遥か昔から伝わってきた技だ。人間の心に、本物の力、本当の集中力があった時代に、こうした奇術が生まれたのだよ。今の時代の人間にとって、心をそのレベルまで引き上げるのは、容易ではない。私がこれまで、どんなに努力しなければならなかったか、君にわかるか?」

 

*****

 

トリプラ・バブーの許で6ヶ月ほど教えを受けた時、ある出来事が起きた。

 

ある日、カレッジに行く途次、チョウロンギ(9) の方をみると、四方の壁、電柱、家々の壁に、カラーの広告が貼り付けてある –– 「偉大なるシェファッロ」。近づいてその広告を読んで、シェファッロがイタリアの有名な奇術師であることを、シュロポティは初めて知った –– そのシェファッロが、カルカッタに奇術を見せにやって来るのだ。マダム・パラルモという、仲間の奇術師を伴って。

 

新帝国劇場で、1ルピーの二階桟敷席にすわり、シュロポティはシェファッロの奇術を見た。目を眩ませ、心を虜にする、驚くべき奇術ばかりだった。こうした奇術のことを、それまでシュロポティは、ただ本で読んだだけだった。目の前で、何人もの人間がまるごと煙に巻かれて姿を消し、再びまたその煙の中から、アラジンの魔法のランプのように彼らが現れ出る。一人の娘を木の箱の中に入れ、鋸で真っ二つに切ってしまうのに、その5分後には、その娘がまた、別の箱の中から笑いながら姿を現す –– その身体には傷痕ひとつない。その日、強い拍手を繰り返したせいで、シュロポティの掌は真っ赤になった。

それにその日、シェファッロという人物を観察していて、シュロポティは、何度も呆然とせざるを得なかったのだ。その男は、奇術師であると同時に、役者でもあった。黒いきらびやかなスーツをまとい、手には魔法の杖、頭にはシルクハット。そのシルクハットの中から、シェファッロの魔法で、取り出せない物はなかった。一度は、空っぽの帽子の中に手を突っ込んで、一匹の兎を、その耳を掴んで取り出した。その哀れな兎が、痛めつけられた耳を揺すり終えたと見るや、今度は鳩が出てきた –– 1羽、2羽、3羽、4羽。魔法の鳩が、パタパタと舞台の四囲を飛び回り続ける。一方、シェファッロは、今度はその同じ帽子の中からチョコレートを取り出して、観客に次々に投げやる。

 

そして、こうした奇術が次々に進行する間中、シェファッロの口上が続いていた。「早口口上」というやつだ。シュロポティは、英語の本で、それを ‘patter’ というのだと知った。この ‘patter’ が、奇術の重要な柱の一つなのだ。観客がこの ‘patter’ の洪水に溺れている間に、奇術師は、その隙を利用して、手を使った本来のからくりを、次々にやり遂げてしまう。

 

だが、その驚くべき例外は、マダム・パラルモだった。彼女の口からは、一言も言葉が出て来ない。無言の機械人形のように奇術を見せ続けた。だとすると、彼女は、一体いつ、からくりを仕掛けるのだろう? これに対する答も、シュロポティは、後になって知ることになった。舞台では、手のからくりをまったく使わなくても、奇術を見せることが可能なのだ。そうした奇術は、ただひたすら機械仕掛けに頼っていて、舞台の黒幕の背後には、そうした機械を操る人が控えている。人間を二つに切って、それをまた繋げたり、煙の中に消してしまったり –– これらはすべて、機械を使ったからくりだ。金さえあれば、誰だって、そんなからくりを買ったり作らせたりして、そうした奇術を見せることができる。もちろん、奇術を面白おかしく見せたり、派手な衣裳で観客の心を惹きつけたりすることの中にも、芸があり、「アート」がある。誰もがその「アート」を身につけているわけではないから、金さえあれば奇術師になれる、というわけにはいかない。誰しもが、いったい ……

 

シュロポティの追憶は、突然ここで、散り散りになった。

 

*****

 

汽車がガタンと大きく揺れて、ブラットフォームを離れた。そしてまさにその瞬間、勢いよく扉を開けて、誰かが客室の中に入り込んだのだ –– 何てことだ! 慌てふためいて立ち上がり、制止しようとして、シュロポティはその場に凍りついた。

 

何と、トリプラ・バブーではないか! あの、トリプラ・モッリクが ……

 

シュロポティは、これに似た体験を、過去に何度がしたことがある。知り合いの一人と、長いこと会っていない。ある日突然、その人のことを思い出したか、あるいはその人のことを話した次の瞬間、その人本人が目の前に姿を現す。だがシュロポティは、こうも思った –– トリプラ・バブーのこの日の出現に比べたら、以前のそうした出来事は、どれも、ものの数ではないのだ、と。

 

シュロポティは、数瞬の間、口から言葉が出て来なかった。トリプラ・バブーは、ドーティーの裾で額の汗を拭い、手にしていた荷物の束を床に置くと、シュロポティのベンチの反対の隅に腰をおろした。そうしてシュロポティの方に目を遣り、微笑んでこう言った、「驚いただろ、な?」

 

シュロポティは、何とか唾を呑み込むと言った、「驚いたの、なんのって –– そもそも、あなたが生きているなんて、ぼくは、思ってもいませんでした。」

 

「どうしてだ?」

 

「学士資格試験の数日後に、あなたの共同宿舎に行ったんですがね。鍵がかかっているじゃないですか。で、管理人の旦那 –– 名前は忘れました –– が言うことには、あなたが車に轢かれて …」

 

トリプラ・バブーは、ほーほーと高笑いして言った、「そうなってくれたら、助かったんだがな。山ほどある心配事から、解放されただろうに。」

 

シュロポティは続ける、「それに、もう一つ言いますと –– ここのところ何日か、ぼくは、あなたのことを思っていたんですよ。」

 

「何だって?」 トリプラ・バブーの表情に、暗い翳が差したかのようだった。 「私のことを思っていた、だって? まだ私のことを思うことがあるのか? 驚いたな。」

 

シュロポティは舌打ちした。「何てことを仰っしゃるんです、トリプラ・バブー! ぼくがそんなに簡単に忘れる、とでも? ぼくに最初に奇術の手解きをしてくれたのは、あなたでしょう? 今日は特に、昔の日々のことを思い出していたんですよ。今日、ぼくは、ベンガルの外に、『ショー』をやりに行きます。初めてです、ベンガルの外は。 –– ぼくがプロの奇術師になったことを、ご存知ですか?」

トリプラ・バブーは、首を横に傾げて同意を表した。

 

「知っているとも。何もかも知っている。何もかも知った上で、今日、君に会うためにやってきたのだ。この12年間、君が何をして何をしなかったか、どうやって成長してここまでになったのか –– 何かも、私が知らないことはない。あの日、新帝国劇場に、私はいたのだよ。初日に。一番後ろの列に。皆が君の奇術の腕前を、どんなに称賛したか、目の当たりにしたよ。もちろん、誇りに思わないでもなかった。だが ……」

 

トリプラ・バブーは、ここで口を噤んだ。シュロポティにも、言うべき言葉が見つからなかった。何を言ったらいいというのか? トリプラ・バブーが少しく気を害したからと言って、それをトリプラ・バブーのせいにすることはできない。実際、彼が奇術の基礎を鍛えてくれなかったとしたら、シュロポティが今日、こんなに上達することはなかっただろう。それなのに、それに対して、シュロポティは、一体何をしたというのか? むしろ反対に、この12年間、自分の胸から、トリプラ・バブーの追憶を次第に消し去ってきたではないか。トリプラ・バブーに対する感謝の念も、薄れてきたかのようだ。

 

トリプラ・バブーは、口を開いた、「君のあの日の成功を見て、私は誇りに思ったよ。だが、それと同時に、残念にも思ったのだ。どうしてか、わかるか? 君が選んだ道は、本当の奇術の道ではない。君が見せたのは、観客をたぶらかすための、派手な身振り手振り、機械を使ったからくりがほとんどだ。君自身の技ではない。それなのに、君は、私の奇術を覚えている、と言うのかね?」

 

シュロポティは、それを忘れてはいなかった。しかし同時に、彼にはこうも思えたのだ –– トリプラ・バブーは、自分の最高の奇術を、彼に教えるのをためらっているのだ、と。「まだその時ではない」が、トリプラ・バブーの口癖だった。そして、「その時」は遂に来なかった。その前に、シェファッロが現れたのだ。シェファッロのようになった自分を想像して、彼は、壮大な夢を見始めた。国々を回って奇術を見せ、金を稼ぎ、名声を広め、人々に喜びを与え、拍手喝采を浴びる。

 

トリプラ・バブーは、窓を通して、ぼおっと、まるで我を忘れたかのように外を見つめている。シュロポティは、彼をひとわたり観察した。本当に、困窮の極みにあるように見えた。頭髪は殆ど白くなり、頬の皮はたるみ、目は眼窩に落ち込んでいる。でも、その眼差しは、少しでも力を失っただろうか? そうは見えない。恐ろしく鋭い眼光。

 

トリプラ・バブーは、深いため息をつくと言った、「もちろん、君がどうしてこの道を選んだかは、わかっている。君がこう信じているのも –– 私にもその咎はあるかも知れないが –– 本物が、その価値を認められることは、ない。舞台で奇術を見せるとなれば、少々のまやかし、見せびらかしが必要だ、と。そうじゃないかな?」

 

シュロポティは否定しなかった。シェファッロを見てからというもの、彼はそう思うようになったのだ。だが、まやかし・見せびらかしそれ自体に、罪があるだろうか? 今は昔とは、時代が違うのだ。結婚式の場で、マットレスの上にすわって奇術を見せることで、どうやって日々の稼ぎを得ると言うのか? 一体誰が、その名を知ると言うのか? トリプラ・バブーの体たらくを、彼は、自分の目で見たのだ。本物の奇術を見せることで、腹を満たせないとするなら、そんな奇術の、どこに価値があると言うのか?

 

トリプラ・バブーを前に、シュロポティは、シェファッロの話を持ち出した。何千もの観客が見て喜び、称賛を浴びせているものに、何の価値もないと言うのか? 本物の奇術に、シュロポティが敬意を払わないわけではない。でも、その道には何の未来もない。だからシュロポティはこの道を選んだのだ ……

 

トリプラ・バブーは、不意に、興奮を抑えられなくなったかのようだった。ベンチの上に足を組んですわると、シュロポティの方へと身を乗り出した。

 

「いいか、シュロポティ、君がもし、本物の奇術がどういうものかわかっていたとしたら、まがい物の尻を追っかけたりはしなかっただろう。手を使ってのからくりなど、そのほんの一部に過ぎない。無論、それだって、どれだけの範疇、それだけの種類があるか、数え切れないほどなんだが。ヨーガの修行のように、そうした手品は、何ヶ月も、何年も修練しなければならないのだ。だがそれ以外にも、どんなにいろいろなものが、あることか。催眠術。眼差しの力だけで、完全に人間を、自分の思いのままに操ることができる。相手の手を、完全に萎えさせることだって、できるのだ。それから、透視術、またはテレパシー、または読心術。相手の頭の中を、自由自在に行き来できる。相手の脈を取れば、そいつが何を考えているか、当てることができる。しっかり技を習得すれば、誰にも触れる必要すらなくなる。1分かそこら相手の目を見つめただけで、そいつが心の奥で何を考えているか、全部知ることができるのだ。そんなものを、「奇術」と呼ぶのか、だと? 世界中の最高の奇術、すべての根本に、こうしたものがあるのだよ。そこには、からくりなんてものが、入る余地はない。あるのはただ修行、信念、そして一途な精進だけだ。」

 

トリプラ・バブーは、息を継ぐために言葉を切った。汽車の車輪の響きのため、声を張り上げてしゃべらなければならなかったのだ。おそらくそのために、彼はますます、疲労の色を濃くしていた。さらに身を乗り出すと、彼は続けた、「私は君に、こうしたすべてを教えてやりたかったのだが、君は関心を示さなかった。辛抱が足りなかったのだな。一人の外来の詐欺師の、薄っぺらなけばけばしい興行に、たぶらかされたのだ。本物の道を捨てて、たやすく金や名声が得られる道に走ったのだ。」

 

シュロポティは無言のままだ。この非難のどれに対しても、本心から反駁することはできない。

 

トリプラ・バブーは、今度はシュロポティの肩に片手を置き、声音を少し和らげて言った、「私はな、君に一つ、頼みがあって、やって来たのだよ、シュロポティ。私を見て気づいたかどうか知らんが –– 私はいま、本当に困っているのだ。こんなに奇術を知っているのに、金を得る奇術は、いまだに知らぬままだ。野心がなかったのが、私の破滅の原因だ –– さもなければ、食うのに困るはずはなかっただろうに。私はな、こんな歳になって、自分の足で立つ力すら、もう残っていない。だが、私が困っている時に、君なら私を –– 少々の犠牲を払ってでも –– 助けてくれるのではないか、という信念くらいは、まだ持ち合わせている。この一度だけだ –– その後、もう君を邪魔だてすることはしまい。」

 

シュロポティの頭はすっかり混乱した。この人は、いったい、どんな手助けを求めているのだろう?

 

トリプラ・バブーは続ける、「君にとって、この計画は、もしかしたら少し残酷に響くかも知れん。だが、これ以外に方法はないのだ。問題はな、私は、ただ単に金が必要だというだけではない。実は、この歳になって、どうしてもやりたいことがひとつ、出て来たのだ。たくさんの観客が見ている前で、私の最高の奇術をいくつか、一度、見せてやりたいという。たぶん、これが最初で最後だろうが、どうしてもこの気持ちを、抑えることができんのだよ、シュロポティ!」

 

いい知れぬ不安に襲われて、シュロポティの胸は震えた。トリプラ・バブーは、いよいよ、彼の提案を持ち出した。

 

「ラクナウでの奇術の興行が決まって、君は、そこに行くところだろう。だが、いいか、もしその興行の直前に、君が病気になったとしたら? 観客をすっかり落胆させて帰らせるのを避けて、もしも、君の代わりに他の誰かが ……」

 

シュロポティは呆然となった。何てことを言うんだ、トリプラ・バブーは! まったく、藁にもすがる状態なのに違いない。そうでなければ、こんなとんでもない計画を、どうして思いつこう?

 

シュロポティが黙っているのを見て、トリプラ・バブーは続ける、「止むに止まれぬ事情のため、君の代わりに、君の師匠が奇術を見せる –– こんな風に告知するのだ。それで観客が、落胆すると思うか? 私はそうは思わない。私の奇術を見れば、観客は喜ぶだろうと、私は堅く信じている。だがそれでも、私はこう提案する –– 初日の興行のあがりのうち、半分は君のものだ。私は残りの半分でやっていける。その後、君は好きなようにやるがいい。私はそれ以上、君を邪魔だてすまい。ただこの一日だけ、君は私を、舞台に立たせなければならんのだよ、シュロポティ!」

 

シュロポティの頭は熱くなった。

 

「そんなの、無理ですよ! 何を仰っしゃっているのか、あなたは自分でもおわかりになっていない。いいですか、これがぼくの、ベンガルの外での、最初の興行なんですよ。ラクナウでの『ショー』に、どんなにたくさんのことがかかっているか、おわかりになりませんか? ぼくの経歴の初っ端を、こんな嘘でもって、始めようなんて! どうして、そんなことが、思いつけるんですか?」

 

トリプラ・バブーは、シュロポティの方を、暫(しば)し、凝っと見つめていた。その後、汽車の車輪の音の上を漂うようにして、彼のゆっくりした抑制のきいた声が、シュロポティの耳に届いた。

 

「あの銀貨と指環の奇術に、君はまだ、執着があるかね?」

 

シュロポティはギクリとした。だがトリプラ・バブーの眼差しには、何の変化もない。

 

「なぜです?」

 

トリプラ・バブーは笑みを浮かべて言った、「君がもし、私の提案に同意してくれたら、私は君に、あの奇術を教えてやろう。同意すれば、いますぐに、だ。だが、もし同意しないなら ……」

 

途方もない大きな汽笛の音とともに、シュロポティたちの汽車の横を、ハウラー駅に向かう汽車が通り過ぎた。彼の車室の明かりに照らされて、トリプラ・バブーの目が、何度もギラギラ燃え上がった。明かりと音が消え去った後、シュロポティは尋ねた、「で、もし、同意しなかったとしたら?」

 

「よくないことが起きるぞ、シュロポティ。君が知っておかなければならないことが、ひとつある。私が観客の中にいるとしたら、その気になれば、どんな奇術師も、困らせたり、辱めたり、場合によっては完全に役立たずにすることもできるのだ。

 
二人の奇術師_2
 

トリプラ・バブーは、コートのポケットから一組のトランプを取り出し、シュロポティの方に差し出した。「君の手品を、見せてごらん。難しいやつではなく、一番初歩的なやつを。手の一振りで、後ろにあるこのジャックを、このハートの3の前に持ってくるんだ。」

 

16歳のシュロポティは、鏡の前に立ってこの手品をものにするのに、7日しかかからなかった。

 

なのに、今日は?

 

シュロポティがトランプを手にしてみると、指が痺れてきている。指だけではない –– 指、手首、肘 –– 腕全体が、完全に麻痺している。シュロポティの霞がかかった目に映るのは、トリプラ・バブーの唇の端に浮かぶ、薄気味悪い笑み。人間のものとは思えない鋭い眼差しで、彼はシュロポティの方を見つめている。シュロポティの額は汗ばみ、身体全体が震え出しそうだ。

 

「これで、私の力がわかっただろう?」

 

シュロポティの手から、トランプの束が、ベンチの上にポロリと落ちた。トリプラ・バブーは、トランプをまとめて手に取ると、言った、「同意するか?」

 

シュロポティの不快な麻痺状態は、解かれた。彼は、疲弊した弱々しい声で答えた、「あの奇術を、教えてくれるんでしょうね?」

 

トリプラ・バブーは、右手の人差し指をシュロポティの鼻先に突きつけたまま言った、「ラクナウの最初のショーで、君の病気のために、君の代わりに、君の師匠トリプラチョロン・モッリクが、奇術を見せる。そうだな?」

 

「はい、そうです。」

 

「君は、稼いだ金の半分を、私に渡す。そうだな?」

 

「その通りです。」

 

「それでは、見せてやろう。」

 

シュロポティは、ポケットをまさぐって、一枚の銀貨を取り出し、また、自分の指からサンゴを嵌め込んだ指環を外して、トリプラ・バブーに渡した ……

 

*****

 

ボルドマン駅で汽車が止まり、オニルが茶を持って、ボスの車室の前に来てみると、シュロポティは眠りこけている。オニルが、少しためらった後、「先生!」と、微かな声で一度呼びかけると、シュロポティは、すぐにあたふたと身を起こしてすわった。

 

「何だ … いったい、どうしたんだ?」

 

「お茶を持って来ました、先生。お邪魔立てして、申し訳ありません。」

 

「だがいったい … ?」

 

シュロポティは、混乱した眼差しで、車室の中をキョロキョロ見渡した。

 

「どうなさったんです、先生?」

 

「トリプラ・バブーは … ?」

 

「トリプラ・バブー、ですって?」 オニルは呆気にとられている。

 

「いやいや … トリプラ・バブーなら、もう1951年に … バスに轢かれて … だが、ぼくの指環は?」

 

「どの指環です、先生? 先生のサンゴのやつなら、指に嵌ったままですよ。」

 

「そうだな。で …」

 

シュロポティは、ポケットに手を突っ込んで、銀貨を一枚取り出した。オニルは、シュロポティの手がブルブル震えているのに気づいた。

 

「オニル、一度、中に入って来い。さっさと来るんだ。その窓を、全部、閉めてくれ。そうだ。さて、見ていろよ。」

 

シュロポティは、ベンチの一方の側に指環を、もう一方に銀貨を置いた。そうしてから、守護神の名を唱えて運を天に任せ、全神経を集中して鋭い視線を銀貨の方に注ぎ、夢で得た技を働かせた。銀貨は、親の命令にしぶしぶ従う息子のように、指環の傍まで転がって行き、指環を引き連れて、シュロポティのところまで戻って来た。

 

オニルの手からは、茶の入ったカップが、あやうく転げ落ちるところだった –– シュロポティが、見事な手捌きで、落ちる寸前に、それを自分の手に受け取らなかったとすれば。

 

*****

 

ラクナウの奇術ショーの初日。シュロポティ・モンドルは、幕開けに、集まった観客の前に立ち、彼の奇術の先生であった故トリプラチョロン・モッリクに対し、心からの敬意を表した。

この日の最後の演目は –– シュロポティはそれをインド古来の奇術と説明したのだが –– 指環と銀貨の奇術だった。

 

訳注

この作品は、『ションデシュ』誌1963年3~4月号に掲載された。サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑦参照。

(注1)新帝国劇場(New Empire Theatre)は、1932年に、カルカッタの中心エスプラナードの東側(現在のオベロイ・グランド・ホテルの南)に建てられた。この年、タゴールの劇『踊り子の礼拝』が、タゴールの演出のもとで演じられた。1950年代に改造され、映画館となった。

(注2)フーディーニ(Harry Houdini, 本名Erich Weisz, 1874~1926)は、ハンガリー生まれの、著名なアメリカ人奇術師・曲芸師。

(注3)西ベンガル州中部の町。カルカッタのハウラー駅を出て西インドに向かう急行が、最初に止まる駅。

(注4)東ベンガル(現バングラデシュ)の北西部に位置する。

(注5)バーヌマティーは、古代インドの伝説の王ビクラマーディティヤ王の妻。魔術に長けていたと言われる。

(注6)Bipra Das Streetは、北カルカッタのゴルパル地区、サタジット・レイの生家の近くにある。

(注7)Swinhoe Streetは、南カルカッタのバリガンジ地区にある。

(注8)Mirzapur Street (現在のSurya Sen Street)は、北カルカッタ、カルカッタ大学近くの路地。

(注9)カルカッタ中心部の目抜き通りチョウロンギ・ロード(Chowringhee Road)とその周辺を指す。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。

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導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記②

マハラシュトラ州 lonavalaにあるヨーガ道場 kaivalyadhama に着いたのは、夕方でした。

「ちょうど今からお祈りがあるよ!」と、庭の端の方にある小さなお堂のようなところに連れていかれました。

そこで耳に入ってきたお祈りの歌(バジャン)を耳にするや否や、私は何かとっても懐かしいものを感じ、突然、涙が溢れてきたのでした。

そんな中、魂の故郷というような感じもあり、とても落ち着いてそのアシュラムに滞在することができました。

毎日のアーサナの練習も気にいって続けていましたが、その頃、いらっしゃったかなり年老いたおじいちゃまのスワミジがとっても可愛らしくて、 ゆみこ  “you(ゆ)  “me(み)” “company(こ) ‥‥… 私とあなたは仲間だよ〜!と手ぶり身ぶりでおどけるように言って下さり、とても親しくさせていただきました。

また、そのアシュラムのドクターの息子さんウジュワルujwalさんがバラタナティヤムのダンサーだと分かり、「テイ ユン タッタ…」 少しの間、レッスンもさせて頂きました。

でも、私は「本当は オディッシーがしたいの!!!」と、みんなに言いふらしていたのです。

すると、びっくり!!

ある日、イタリア人の方が新聞記事を見せてくれるのです。そこには、もうすぐ、オディッシー ダンサーのProtima Gauri Bedi女史により、バンガロール郊外にNRITYAGRAM という 少数精鋭のダンスヴィレッジが開校するということ、オーディションがあること、等が書かれていました。

私は、実は幼少期からクラッシックバレエをしていて、バレリーナになるのが夢でした。でも、あまりの才能の無さに断念、大学に進んだ、ということがあって、オーディションになど受かるはずがない、とは思ったのですが、とにかく先生宛にお手紙を書きました。

すると、数日後に先生からお返事が届き、

「あなたのことは、3ヶ月前から知っていました。だから、なぜ?とは訊かず、とにかく、すぐいらっしゃい!」と。。。

3ヶ月前というのは、私が、まさにインドに入る国境超えの頃。ケルチャラングルジとクムクム先生の公演を思い出し、ピピーっ!ときた、あの電波のようなオディッシーへの洞察を感じたとき、先生も夢で同時に感じてくださっていたのだ!!!

あまりの衝撃に開いた口が塞がらない状態のまま、さっさとパッキングして、バンガロールに向かいました。

バンガロールから約20キロにあるhesarghattaという小さな村。町から一人リキシャーで行ったのか、もう忘れてしまいましたが、そこで初めてお会いしたプロティマ・ガウリ女史… 先生は、私にこう言ってくださいました。

「3ヶ月前に、ゆみこという名前の日本人女性の夢をみたのよ。」

なんとも不思議なお話ですが、神様のお導きだとしか言えないこんなご縁にあっけにとられたまま、感謝と幸せいっぱいにここでの生活が始まりました。

 

 

 

 

 

 

花の宮祐三子hananomiya yumikoプロフィール

大阪生まれ。

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年8月8日火曜日

サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑦

ボバニプル(2)

ボバニプルのボクル=バガンの家に来てから、ショナ叔父さんが娯楽好きだったおかげで、時々ビオスコープ(1) 、サーカス、奇術、カーニヴァルといったものを見る機会があった。一度は、帝国劇場(現在のロクシー映画館)(2) に、ある白人(サヘブ)の奇術を見に行ったことがある。その白人奇術師の名前は、シェファッロ(Shefallo)。次から次へと奇術を見せ、それと一緒に言葉も噴水のように溢れ出た。後で知ったのだけれど、奇術師のこのおしゃべりを、「早口口上 (patter)」 と言うのだそうだ。この「早口口上」のおかげで、観衆の目は奇術師の方に惹きつけられ、そのために手を使ったからくりの多くが、注意の外になる。でも、シェファッロ一座の中には、マダム・パラルモ(Madam Palarmo)という名の奇術師がいて、彼女は完全に唖のふりをして奇術を見せたのだ。こんなもの、ぼくはそれまで、見たことがなかった。

 

このことがあってしばらくして、ある結婚式の場で、一人のベンガル人の奇術を見る機会があった。シェファッロ・サヘブが舞台で見せた奇術など、この人の奇術に比べたら、ものの数ではなかった。舞台での奇術では、いろいろな仕掛けが使えるし、照明を操ったり「早口口上」を続けたりすることで、観衆の目や心を混乱に追いやることができる。その結果、奇術師の仕事は、ずいぶん楽になるのだ。それに引き換え、このベンガル人の奇術師は、大天幕の下のマットレスにすわったまま、奇術を見せた。しかも、1, 2メートルくらいしか離れていない彼の周囲を、招待客が取り囲んでいたのだ。この状態で彼が次々に見せた奇術の数々には、今思い出してもただただ呆然とする他ない。この奇術師の話を、ぼくはずっと後になって、ある短編小説(3) の中で使ったことがある。

マットレスの上にマッチ棒を撒き散らし、自分の前に空になったマッチ箱を置く。そうしてから、「お前たち、一人ずつ、こっちに来なさい!」と呼びかける。それと同時に、散っていたマッチ棒が転がって、マッチ箱の中に入って行くのだ。

 

ぼくらの知り合いの客の一人から銀貨を一枚、もう一人の客から指環を一つ、もらい受ける。銀貨を2メートルばかり離れた場所に置き、指環を自分の前に置く。そして指環にこう命じる、「そら、あそこに行って、銀貨を連れて来るのだ!」 指環は、銀貨の方に、しぶしぶ転がって行き、その後、二つは一緒になって、奇術師のところに転がって来る。

 

さらに別の奇術では、一人の客の手にトランプを一組持たせ、もう一人の客に棒を渡してその先をトランプの方に差し出させ、こう言う、「スペードのエース、こっちに来なさい!」 すると、トランプの束の中から、スペードのエースがするりと出て来て、棒の先にくっつき、ブルブル震え出すのだ。

 

この奇術を見た数日後に、ボクル=バガンとシャマノンド・ロード(4) の交差点で、この奇術師とバッタリ出逢ったのだった。年齢は50か55くらい、ドーティーとシャツの、ありふれた服装。一目見ただけで、その人にあんな力があると、一体、誰が言うことができただろう。ぼくは奇術がものすごく好きで、すっかりその人の弟子になった気でいたので、その人に奇術を教えてほしい、と頼んだのだ。彼は、「もちろんだとも」と答えると、ポケットから一組のトランプを取り出して、道に立ったまま、ぼくに、ごくありきたりの奇術を一つ、教えてくれた。その後、その人と会うことはなかった。急に目の前に現れたので、すっかり慌ててしまい、その人の住所を聞くことすら忘れてしまったのだ。後になって、奇術の本を買って、鏡の前に立って自分で練習して、手でのからくりを使ったたくさんの奇術ができるようになった。奇術への熱は、カレッジ時代まで続いた。

 

サーカスは、今でも毎年やって来る。もっとも、その当時は白人たちのハームストン・サーカス(5) だったのが、今日ではマドラス・サーカス(6) が取って代わるようになった。その一方で今日見られなくなったのは、カーニヴァルだ。ぼくが子供の頃には、中央通り(Central Avenue)(7) の両側に広々とした野原があった。カルカッタの最初の高層ビル、10階建のタワー・ハウス(8) も、電気を供給するヴィクトリア・ハウス(9) も、まだできていなかった。こうした野原の内の一つに、サーカスと並んでカーニヴァルが開かれたのだ。

カーニヴァルの面白さがどこにあったか、それを今時の子供たちに説明するのは難しい。縁日の観覧車は誰でも見たことがあるだろうが、カーニヴァルの観覧車ないし「大車輪」は、5階建てビルの高さだった。光を発してぐるぐる回る観覧車が、ずーっと遠くからも見えたものだ。この観覧車の他にも、メリー・ゴーランド、旋回する飛行機、ゴツンゴツンぶつかり合うゴーカート、波に乗ったように上へ下へと走るジェットコースター、こんな乗り物が他にもたくさんあった。そしてその周りには、いろんな種類の賭け事の店が散らばっていた。そうした店には、ほしくてたまらなくなるような景品が山ほど並んでいて、やってみたいという気持ちを抑えるのは難しかった。最後には、政府が、公共の場で賭け事をすることを禁止したので、カーニヴァルはカルカッタから姿を消すことになった。たぶん、カーニヴァルの実際の収益は、この賭け事から上がっていたのに違いない。

 

***************

 

ボバニプルに来た最初の頃は、映画は有声ではなかった。その当時、外国映画を見せる劇場では、映画の背景に、台詞の代わりに、白人が弾くピアノか「映画オルガン」が鳴ったのだ。この「映画オルガン」というやつは、カルカッタでは、一つの劇場にあるだけだった。「マダン」、またの名は「ヴァラエティーの宮殿」(10) 。現在のエリート映画館(11) だ。オルガンの名前はウーリッツァー(12) と言って、たいそう派手な音を出した。それを弾いていたサヘブの名前は、バイロン・ホパー(Byron Hopper)。毎日、新聞には、その日に上映される映画と一緒に、ホパー・サヘブが演奏する曲目のリストが載っていた。

 

この頃見た映画の中で、一番よく覚えているのは、『ベン・ハー』、『巌窟王』、『バクダッドの盗賊』、そして『アンクル・トムの小屋』。グローブ劇場(13) では、当時、映画の上映と並んで、舞台で歌や踊りの実演があった。今日、映画館に行くと、布の幕が垂れ下がっているのが見られるけれど、その頃は、その幕の前に、もう一枚幕が垂れていた。広告満載だった。この幕は「安全幕(safety curtain)」 という名前だった。最初にこの幕が上がって、そのしばらく後に布の幕が上がった。グローブ劇場では、布の幕が上がるとその向こうに舞台が現れる。そこでのいろんな出し物が済むと、今度は映画の白いスクリーンが下りてくる。そうして映画が始まるのだ。スクリーンの前の一方の側にピアノがあって、上映が続いている間、映画の出来事の雰囲気に合わせて、白人サヘブがそれを弾き続けた。

 

『アンクル・トムの小屋』を見に行った時、面白いことが起きた。家族みんなで、グローブ劇場に見に行ったのだ。黒人奴隷のアンクル・トムが、彼の残虐な主人サイモン・レグリーの鞭を浴びて、二階の階段から転げ落ちて死んでしまう。ぼくらみんなの怒りは、レグリーの上に集中している。映画の終わりの方で、トムが亡霊になって、主人の許に戻って来る。主人は亡霊めがけて鞭を振るうが、トムの亡霊は笑いながら、彼に向かって近づいて来る。ぼくの隣にすわって、口をあんぐり開けて映画を見ていたカル叔父さんが、その時突然、もう我慢できなくなって、映画館を埋め尽くす観客のど真ん中で席を立つと、こう叫び始めた –– 「こいつを、まだ、鞭打つ気か? まだ鞭打つ気か、このクソ野郎! –– 今こそ、お前の悪行の報いを、受けるがいい!」

 

1928年に、ハリウッドで、最初の有声映画(トーキー)が作られた。カルカッタでトーキーが最初にお目見えしたのは、その一年後。その後も、一年あまり、一部が音声付きで一部が無声の映画が、いくつもやって来た。全部が有声の映画は、新聞に、「100% トーキー」という広告が出た。ぼくが初めて見たトーキーは、たぶん、『類猿人ターザン』だったと思う。グローブ劇場にその映画が来たので、見に行ったのだけれど、最初の日は、チケットが手に入らなかった。ぼくを連れて行ってくれたのは、母方の叔父さんの一人。ぼくのがっかりした顔を見て可哀想に思ったのだろう、この日、他に何か一つ映画を見ずに、家に帰るわけにはいかない、と思ったのだ。

 

すぐそばに、アルビオン劇場(14) があった。現在のリーガル劇場だ。そこではチケットが手に入った。でもそれはベンガル映画で、しかも、何も音声が付いていなかった。映画の題は、『不幸な結婚』(15) 。この映画が子供向けでないことは、少し見ただけで、ぼくにもわかった。叔父さんはぼくの方を向いて、何度かひそひそ声で、「家に帰ろうか?」と聞いた。でもぼくは、その問いを耳に入れようともしなかった。一度中に入った以上、最後まで見ずに出るなんて、できるもんか! もっとも、この『不幸な結婚』を見てすっかり嫌気がさし、その後、ぼくは長いこと、ベンガル映画に近づかなくなったのだ。

 

その時、ぼくを映画に連れて行ってくれた叔父さんは、「レブ叔父さん」。母さんの従兄弟にあたる。カル叔父さんみたいに、この叔父さんも、ダッカからカルカッタに、職探しにやって来たのだ。そして、ぼくらの家に泊まることになった。

 

ここで、母さんのもう一人の従兄弟、ノニ叔父さんについて言う必要がある –– なぜなら、この叔父さんのような人を、ぼくは他に、滅多に見ることがなかったから。180センチもあるノッポで、背が矢のようにまっすぐで、短いドーティーの裾を格闘士のように腰の後ろに挟み込み、4分の3の長さしかない袖付きの、ゴワゴワした木綿織りの短めのパンジャビを着ていた。歩く時は、まるで軍隊の行進みたいにぐんぐん歩を進め、話す時はベンガル語で、すごく声を張り上げた。田舎に住んでいる人は、野原や道で、どうしても声を張り上げて話さなければならない。その癖が、歳をとって都会に来ても、そのまま残っていたのだろう。でも、ノニ叔父さんの場合、その張り上げる声の中に、女っぽい響きがあった。それに、叔父さんはいろんなことができたけれど、そのうちで本当に得意としたのは、全部女たちがする仕事だった。結婚していなかった。結婚したとしたら、主婦として叔父さん以上のことができる相手が見つかったかどうか、疑わしい。縫物、料理、どちらも超一流だった。後になって、革細工を学び、それについて本を一冊書いたくらいだ。『ベンガルの甘菓子』という本の原稿もできていたけれど、どう言う訳か、それはとうとう出版されなかった。

 

母さんは、このノニ叔父さんから革細工のやり方を習って、次第に自分で、革細工の専門家になった。一時期、母さんは、昼の間、ずっとすわってこの仕事をしていた。革に色をつけるためには、アルコールを混ぜなければならない。そのアルコールの匂いが、いつも部屋中にたちこめていた。器用な手で作られたバッグ、小袋、メガネケース等を、いくつか売っていたこともあった。さらに後になって、母さんは、今度は粘土で像を作る仕事を、当時有名だった陶工ニタイ・パールの許で学んだ。母さんが作った仏像や観音像は、今でも、ぼくらの親類縁者の家の多くに、飾られている。

 

こうした特別の仕事以外に、いい主婦であれば当然こなす仕事を、母さんは、もちろん、全部こなしたのだ。それに、母さんの筆跡は、とても綺麗だった。ベンガル語を書いても、英語を書いても。

 

**

 

次回の連載では、番外篇として、短編小説「二人の奇術師」の翻訳を掲載いたします。

 

**

 

訳注

(注1)ビオスコープは、35mm映写機によって上映された、初期の映画。Hiralal Sen が1898年に設立したThe Royal Bioscope Companyが、ベンガル最初の映画製作会社。

(注2)帝国劇場(The Empire Theatre)は、1908年に、カルカッタの中心エスプラナードの南に建てられた、オペラハウス。1940年代初頭に改造され、ロクシー映画館(Roxy Cinema)となった。この映画館は2019年に閉じ、現在はカルカッタ市役所の事務所として使われている。

(注3)短編小説「二人の奇術師」(『ションデシュ』1963年3~4月号)。次回掲載予定。

(注4)ボクル=バガンの東に位置する。

(注5)「ハームストンの大サーカス」(Harmston’s Great Circus)は、イギリスのWilliam Benjamin Harmston によって、1847年に創立。その後、その息子・孫に引き継がれ、英領植民地を広く巡業した。

(注6)「マドラス・サーカス」は、南インドから来たサーカスの総称。実際は、当時、ケーララ州がサーカス産業の中心地だった。

(注7)中央カルカッタのチョウロンギ通り(Chowringhee Street)北端から、北東に向けて延びる大通り。

(注8)1930年代後半に建てられた、アールデコ建築の一つ。第二次世界大戦中は、その最上階に「アメリカの声(Voice of America)」放送局があった。

(注9)ヴィクトリア・ハウス(Victoria House)はカルカッタ電力供給会社(CESC Ltd)の本拠。これも1930年代後半に建てられた。

(注10)「マダン劇場とヴァラエティーの宮殿」(Madan Theatre and Palace of the Varieties)は、エスプラナードの南側に位置した。マダン(J. F. Madan, 1857~1923)はインド映画産業のパイオニアの一人。1919年に設立したMadan Theatres Ltdは、カルカッタを含む、インド各地の多くの劇場・映画館を運営した。

(注11)エリート映画館(Elite Cinema Hall)は、マダン劇場(注10)を改装して、1940年に創業開始。20世紀フォックス社が運営していた時期もある。2018年に閉館。

(注12)ウーリッツァー(Wurlitzer)は、フランツ・ルードルフ・ウーリッツァー(ドイツ系アメリカ人)が1853年に創立した楽器製造会社。無声映画時代、ウーリッツァー製の劇場用パイプオルガン ‘Mighty Wurlitzer’ が、広く普及した。

(注13)エスプラナードの東側、ニュー・マーケットの南に位置する。1827年に建てられた木製のオペラハウスを、1906年に映画館兼劇場に改造。現在は巨大なショッピングモール。その一部にマルティプレックス映画館があったが、1, 2年前に閉館した。

(注14)エスプラナードの南に位置した、マダン系列の劇場のひとつ。もともと、「電気劇場(Electric Theatre)」の名前だったが、1920年代に「アルビオン劇場(Albion Theatre)」、1931年に「リーガル劇場(Regal Theatre)」に改名された。

(注15)ラムラル・ボンドパッダエのシナリオに基づくメロドラマ。監督:プリヨナト・ゴンゴパッダエ。1930年6月より、マダン系劇場にて上映。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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2023年8月2日水曜日

松本榮一のインド巡礼(その4)

スリランカ仏教 

スリランカの仏教は古くに、アショーカ王の王子マヒンダが伝えたといわれている。

6世紀ごろ書かれたこの国の歴史書「マハーワンサ」(大史)には、マヒンダ王子が、当時のスリランカ王デーワーナンビヤティッサに仏教への帰依を勧めたと書かれている。その後、王をはじめ多くの人々が仏教徒になったと書かれている。アショーカ王の布教活動が、功を奏したわけだ。おそらくそのころにインドからもたらされた、仏陀の「仏歯」がこの国の一番の宝物として、キャンディーの仏歯寺に納められている。

アショーカ王まで遡ることができる、南伝の仏教はスリランカが基になり、ここから、ミャンマー、タイ、ラオスなどに伝わった。インドの仏教がほぼ滅んで、スリランカ仏教のアナガリーカ・ダルマパーラが組織したマハーボーディ・ソサエティがインドの仏教遺跡各地も含め、仏教遺跡を守っている。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2023年7月27日木曜日

天竺ブギウギ・ライト③/河野亮仙

第3回もう一つのマイナー競技/カラリパヤットその3 カラリ上陸!?

「秘伝」という武術雑誌を、時々、読んでいるので、大分前から浅見千鶴子という方がカラリヨーガといって、カラリパヤットとヨーガを教えている事は知っていた。日本ヨーガ禅道院で発行している「たいまつ通信」令和3年の118号によると、2001年にカラリと遭遇し、以来、ヨーガやアーユルヴェーダと共にカラリパヤットを学び、2006年に帰国している。

身体訓練としては動物の型など一連の動きを学ぶが、見せ場は武器法である。一人だけの表演では限界がある。2011年にヴァスコ・ダ・ガマが上陸したカリカットの道場、CVNカラリから師範代のニディーシュ・カリンビルを招くことが出来て、表演と指導に厚みを増した。

彼の父と伯父は大家族の同じ家で育ち、伯父からカラリパヤットを習った。家族に男の子は彼一人だった。厳しい修行に明け暮れて、また、マッサージによる治療をしていた。ジャッキー・チェンに武術指導をしたり、映画や舞台に出て、インドのみならずヨーロッパ各地で巡業した。まさに、カラリパヤットの第一人者となった、道場の大事な跡取り息子である。

それがどうしたことか外国人と結婚して、日本に住むことになってしまった。インドでは外国人と結婚するのは大騒ぎ、猛反対にあうのがふつうである。しかも、伝統芸能の家を守るのは大変なプレッシャーだ。

お二人の誠実な人柄によって周囲の理解を得て可能になったのだろう。日本に渡ってカラリを伝導するのも大切な使命だという結論に至った。先日、初めてお二人にお目にかかることが出来て、カラリの将来について話し合った。現在は埼玉県の入間市に住んで、カラリパヤットの道場建設を志している。大スポンサーを得ないと建設は難しい。ケーララ出身のIT長者は日本にいないものか。

少林寺拳法は達磨大師が香至国カンチープラムからもたらしたと言い伝えられている。禅の公案に「如何なるか是れ祖師西来意」というのがある。つまり、達磨大師が南インドから中国にわざわざ渡ってきたのには、どんな意味があるのかということだ。これに対して師の趙州和尚は「庭前の柏樹子」と答えた。これじゃこれじゃと柏の木を指さした。自然の成り行きと解説するのも蛇足か。

グルカルとなったニディーシュが来日した意味は、10年、20年経って分かるのかもしれない。日本に住むマラヤーリ、ケーララ州出身者と日印人物交流を深め、様々な武術やスポーツ競技、舞踊と技術交流をしながら、新たな日印時代の創世ができないものか。

 

トリヴァンドラムの街角

 

オッタ武器術クラス

 

キック_ストレート

 

盾と剣

 

武器術オッタ

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑥

ボバニプル(1)

『ションデシュ』誌が廃刊になってから、しばらくして、なぜU. Ray & Sons も廃業することになったか、まだとても幼かったぼくに、知るすべもなかった。ある日、母さんがぼくに、この家を出て行かなくちゃならない、と告げたのだ。

ゴルパルを離れ、それと同時に北カルカッタを離れて、ぼくら二人は、ボバニプルにある母方の叔父さんの家に移った。6歳になろうという頃だ。ぼくには、大きな家から小さな家に移ることが、あるいは贅沢な暮らしから平凡な暮らしになることが、その歳頃の子供の心に、特に苦痛をもたらすとは思えない。「ああ、可哀想だ」という言葉を、小さな子供に向けて使うのは、大人たちだ。子供たちは、決して自分を「可哀想だ」とは思わない。

ボバニプルのボクル=バガン(1) の家に来て、まずびっくりしたのは、床が、磁器のかけらを埋め込んだ模様で、覆われていたことだ。こんなものを、それまで、見たことがなかった。目を丸くして見つめながら、こう思った –– 「おやおや、この床を作るために、一体いくつ、茶碗や受け皿や大皿を、割ったことだろう!」 かけらの殆どは白かったけれど、中にはそうしたかけらに混じって、あちこちの隅っこに、突然、細長い花模様とか、星とか、波打つ線とかが見えることがある。他にすることがない時は、こうした磁器のかけらを見ているだけで、時が経つのを忘れたものだ。

ゴルパルになくて、この家に来てよかったことが、もう一つある –– 道に面したベランダだ。寝室から出ると、すぐ目の前がベランダだった。朝も昼も夕方も、一日中ずっと眺めていた –– どんなにいろんな人たちが、前の道を行き来したことだろう。真昼時には、色とりどりの小物を押し車に乗せて、物売りが呼ばわりながら過ぎる: –– 

「ドイツ物だよ たったの2アナ…  日本物だよ たったの2アナ…」(2)

週に2日か3日、「ミセス・ウッドの箱」を持った物売りがやって来た。母さんや叔母さんは、ベランダから、「おおい、箱売り、こっちへ来なさい!」と呼び声をあげる。ぼくは嬉しくてわくわくする。なぜなら、夕方のおやつが豪勢なものになると、決まっているから。箱の中には、ミセス・ウッドが作った、ケーキ、ペーストリー、パテが入っていたのだ。

 

日が暮れかかる頃には、節回しをつけた物売りの声: ––

 

「メチェダの、チャナチュルは、いかが …  出来立ての、ホッカホカだよ …」(3)

その後しばらくすると、道の向かい側のチャトゥッジェ家(4) から、ハルモニアムの伴奏付きで、古典歌曲を練習する、かすれた歌声が響いてくる。

夏の昼間には、寝室の扉や窓は閉じられていたけれど、どういう訳か、窓の横型ブラインドの隙間から、光が差し込んできたのだ。その光のせいで、ある決まった時間になると、外の道の上下逆さまの絵が、窓の反対側の壁の上に、大写しで映し出された。締め切った部屋の中で、まるで魔術のように、道を行き交う人びとの姿を見ることができたのだ。その絵の中に、自動車、人力車、自転車、歩行者の様子を、何もかも、申し分なく見分けることができた。昼間、寝台に横になりながら、ぼくはいったい何度、この無料のビオスコープ映写会を見たことだろう。

ぼくらの家の表扉には、ちっちゃな穴が一つあいていた。扉を閉めてその穴の前に磨きガラスをかざした時にも、外の光景の上下逆さまの縮小版を、ガラスの上に、はっきりと見ることができた。別に目新しいことではない。これこそ写真術の第一歩で、誰でも自分の家で試してみることができる。でも、その頃のぼくはそれを知らなかったので、こんなことが起きるのを見て、とても驚いたのだった。

ぼくらが移った家の主人は、ショナ叔父さん。お母さんには、4人の兄弟と2人の姉妹がいた。一番下の叔父さんはぼくが生まれる前に亡くなった。一番上と二番目は、それぞれパートナーとラクナウ(5) の法廷弁護士だった。ショナ叔父さんは三番目。ショナ叔父さんはイギリスに行かなかったし、白人(サヘブ)風の雰囲気はまるでなかった。ぼくの義理の叔父さんの一人が保険会社の社長で、ベンガル人経営の会社の中では、すごく羽振りがよかった。ショナ叔父さんは、その保険会社に勤めていたのだ。

ショナ叔父さんは、算数がものすごく得意だった。後になって、ぼくが学校に入学した時のことだ –– ぼくの年に一度の試験の、「連分数」(6) の問題が載った紙を手にすると、一目目を通しただけで、「これの答は、8だろう?」と言ったのだ。ぼくにはそれが、まるで魔法のように思えた。

叔父さんは、ふだんは真面目くさっていたけれど、子供っぽいところもあった。叔父さんは、30歳近くになっても、まだ同年代の親戚の友達たちと、日曜の朝、大張り切りでキャラムとルードーのゲームをした。後にはバガテル(7) が流行ったけれど、それにも、最初の二つに負けないくらいの張り切りようだった。ぼくがそれを、立ったまま見ていると、時々、こんな言葉が飛んできた –– 「おい、マニク(8) 、大人たちの中にいるんじゃない!」 それでぼくは、しぶしぶその場から引き下がったけれど、叔父さんたちのやっていることが、大人にお似合いだとは、とても思えなかったのだ。

実のところ、ぼくは、殆どの時間を一人で過ごさなければならなかった。特にお昼時は。でも、だからと言って退屈を感じたことは、決してなかったと思う。‘Books of Knowledge’ 全10巻(9) のページをめくって、そこに載っている絵を見るのが、やることの一つだった。見飽きることは、決してなかった。後になって、母さんは、‘Romance of Famous Lives’ 全4巻(10) を買ってくれた。絵が満載の、外国の有名人の伝記を集めた本だった。

本の他にも、時間を過ごすのにうってつけの、びっくりするような器械があった。「ステレオスコープ(stereoscope)」という名前だった。その頃は、この器械を置いている家がたくさんあったけれど、今はもう、見ることはない。ヴィクトリア朝時代(11) の発明品だ。底に把手があり、それを持って、枠の中に嵌め込んである一対のレンズを、両眼の前に支える。レンズの前のホルダーには、写真が立ててある。一つではなく、横長のカードの上に、2枚の写真が並べてあるのだ。一目見ると同じ写真に見えるが、実はそうではない。風景は同じだけれど、それを撮ったカメラは、人間の眼と同じように、一つではなく二つのレンズを持っていたのだ。左のレンズは人間の左目が見るような写真を、右のレンズは人間の右目が見るような写真を撮る。一対のレンズを通して見ると、この二つの写真が一つに重なって、まるで本物の風景のように見えるのだ。このステレオスコープ用に、他にも、いろんな国のいろんなものを写した写真を買うことができた。

 

 

この他に、ぼくはもう一つ、おもちゃの器械を持っていた。これも、今日では見ることができない。「魔法のランタン(magic lantern)」という名前だった。箱のように見えるけれど、正面の膨れた管の中にレンズがあって、上に煙突が、右横には把手が一つ、ついていた。おまけに、箱の中にはフィルムを巻くためのリールが二つ。その一つにフィルムを入れて外についている把手を回すと、それがもう一つのリールに巻き取られる仕掛けになっていた。そのフィルムはレンズのすぐ後ろを通る。箱の中では灯油の明かりが燃えていて、その煙は煙突を通って外に出ていき、その明かりは巻かれていくフィルムを照らして動画を壁に映し出す。実のところ、ぼくが映画に惹かれるようになった最初のきっかけは、もしかすると、この「魔法のランタン」だったかもしれないのだ。

ショナ叔父さんの遊び仲間の中に、ぼくらの家の一階の東側の部屋に住んでいた、もう一人の叔父さんがいた。実は、彼は、本当の親戚ではなかった。ショナ叔父さんのダッカにある実家の、すぐ隣が彼の家だったので、それが縁で二人は友達同士になり、その繋がりで、ぼくは彼を、「叔父さん」と呼んでいたのだ。この「カル叔父さん」がカルカッタに来たのは、職探しのためだった。職が決まって何日も経たないうちに、カル叔父さんは、30ルピーもする、真新しいピカピカのラレーの自転車(12) を買ってきた。半年間乗った後でも、この自転車は、買って来た時そのままに、ピカピカだった。なぜなら、カル叔父さんは、毎朝、まるまる半時間かけて、自転車を磨いていたのだ。

訳注

(注1)ボクル=バガン(Bokulbagan)は、南カルカッタの中心地区ボバニプル(Bhabanipur/ Bhowanipur)の南側を占める地区。「ボクル(和名「ミサキノハナ」)の庭園」の意。

(注2)舶来の小物売り。「アナ」は古い貨幣単位で、1アナは1ルピーの16分の1に相当する。

(注3)「メチェダ」は、カルカッタの西、東メディニプル県の県境の町。「チャナチュル」は、豆粉を捏ねて細いヌードルの形で揚げたものに、南京豆やグリーンピースの揚げたものなどを混ぜ、塩辛い味付けをした、軽食。メチェダ産のチャナチュルは、人気があった。

(注4)「チャトゥッジェ」は、ベンガルの高位バラモンの姓「チャタルジ」の口語形。

(注5)「パートナー」はビハール州の州都。「ラクナウ」はウッタル=プラデーシュ州の州都。

(注6)分母に分数が含まれ、その分数の分母にさらに分数が含まれることを何度も繰り返す、複雑な数式。

(注7)キャラム(carrom)、ルードー(ludo)、バガテル(bagatelle)。いずれも、今日なおポピュラーなゲーム。

(注8)サタジット・レイの呼び名。

(注9)青少年向けの百科事典。1912 年に創刊されて以来、何度も改訂された。

(注10)‘Cassell’s Romance of Famous Lives’ を指すか。ただし、全3巻。1925年創刊。

(注11)ヴィクトリア女王の在位期間、1837~1901年を指す。

(注12)Raleigh Bicycle Company、イギリスの自転車製造会社。1885年創立。1910年代から、世界最大の自転車会社となる。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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2023年7月21日金曜日

華麗なるインド⑦

第7回 「三燈舎(SANTOSHAM)」 ― 南インドの懐石料理

4年ほど前、講演会を終えたあとに、教え子数人と来て食べたときの味が衝撃的だった。一品一品の料理はたしかにインドの味なのだが、私の知っているインド料理ではない。それでいて絶品なのである。この連載で是非取り上げたいと思っていたが、私の思っているインド料理とどう違うのかを確かめるまでに時間が経ってしまった。その後、数回立ち寄ったが、いつもお客さんが並んでいて断念した。私は並ぶのが大嫌いなので、今までも美味しいものを食べそこなって来たと思うが、性分なのでしかたがない。それが最近ラッキーなことに、午後にいったん閉じる前にカミさんと来て、スルリと入れた。

ランチは3種類の定食から選ぶようになっている。Aセット(¥800)は本日のカレー1種に、ライスと、ドーサあるいはバトゥーラー(揚げパン)というシンプルなものだが、ライスはおかわり無料とのことなので、軽くランチを取りたいときにはこれはお得である。Bセット(¥1,000)は本日のカレーが3種に増え、Cセット(\1,200)は3種にさらにサンバルとラッサムとパーパルが付く。ということで、迷うことなくCセットにし、一つがドーサ付き、もう一つがバトゥーラー付きを注文した。

本日の日替わりカレーは以下の3種である。

辛口:ビーフキーマといろいろ野菜

中辛:ケーララの卵カレー

マイルド:茄子とオクラ

運ばれて来た料理を口にするや、私がインド料理らしからぬと思った理由の一端がわかった。和食の料亭で供される懐石料理の持つ凛としたたたずまいが感じられるのである。辛口のキーマが中辛の卵カレーとともにしっかりと舌を刺激し、茄子とオクラのまったりとした味がそれを和らげてくれる。そのあいだに味わうサンバルとラッサムは、インド古典音楽で基底音を奏でるターンプーラーのように、常に南インド料理の原点の味を持続させてくれる。

茶会の席で出される本来の懐石料理は一汁三菜の簡素な料理だそうだが、サンバルとラッサムを二汁に見立てれば、三燈舎のそれは二汁三菜の懐石と言えよう。「サントーシャ」とはサンスクリット語で「満足」を意味し、「サントーシャム」はそれの南インドでの表記である。客人をもてなす茶会の真髄が店の名前にも込められている。デザートのココナッツプリンのマンゴーソースあえと茶会なら濃茶にあたるマドラス・コーヒーも申し分なかった。

今回、Informationを書くためにホームページなどネットを検索したら、ミシュランガイド東京2023でビブグルマンに選出され、食べログでアジア・エスニック TOKYO 百名店 2022に選ばれたことを知った。また、テレビの人気番組・孤独のグルメのSeason8で「第9話 東京都千代田区御茶ノ水の南インドのカレー定食とガーリックチーズドーサ(海老カレーバナナの葉包み)」として放映されたそうである。4年前に訪れた時は、開店(2019年5月)したばかりだったと思うが、独自の日本的なインド料理(オーナーはどう思うか知らないが)を提供し続けたことが、多くの客の心をつかんだのだと思う。本格的なインド料理を作ろうとするシェフと、何とか日本人の口に会う味を出したいオーナーが、長い時間をかけて妥協のない味を作り上げてきたのだと思う。スタッフを含めた全員に敬意を表したい。

(宮本久義 記:2023年7月11日)

 

午後の休みに降りてきたRateeshさん。黄金の腕の持ち主。

ベテランシェフのThomasさんはインド帰省中とのこと。

 

上が3種類の本日のカレー。下がサンバルとラッサム。

ライスはバースマティー。右がバトゥーラー、上方が

パーパル。写真がうまくないので失礼。

 

コーヒーのネーミングは「マドラス・コーヒー」以外には

考えられない。器もカワイイ。

 

Information:

〒101-0052 千代田区神田小川町3-2古室ビル2階

予約・お問い合わせ:050-3697-2547(夜のみ予約可)

営業時間:11:00~15:30(L.O.15:00)、17:30~22:00(L.O.21:00)

定休日:月曜(その他臨時休業の場合あり、SNSにて告知)

支払方法:カード不可・電子マネー不可

ホームページ:https://santosham.tokyo/

 

宮本久義 略歴

1950年、東京浅草生まれ。早稲田大学大学院修士課程修了後、1978年より7年間バナーラス・ヒンドゥー大学大学院哲学研究科博士課程に留学。1985年、Ph.D.(哲学博士)取得。2005年~2015年、東洋大学文学部インド哲学科教授。現在、東洋大学大学院客員教授。
専門分野は、インド思想史、ヒンドゥー宗教思想



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2023年7月17日月曜日

松本榮一のインド巡礼(その3)

インド西部地震          

インド西部地震は、2001年1月26日、インド西部グジャラート州カッチ県で発生した大地震です。この地震の規模はマグニチュード7.7、震源の深さは約16キロでした。

死者は2万人以上、負傷者は15万人以上、家屋を失った人は、百万人以上と数えられました。

カッチはインド有数の手工芸布の生産地であり、私はこの地震の一か月後に、インド・ハンドローム公社の元総裁のB. B. BASINさんと一緒に、カッチの中心都市ブジに飛びました。

その前日,私たちは、インド駐在の平林大使のご厚意で、大使館内で、カッチの布のバザーを開き、その売り上げを持って、被災した布の職人たちを訪ねました。

このスライド動画は、その時の記録です。

多くの人間国宝級の職人の人々が、涙を流して迎い入れてくれたことを昨日のことのように思い出します。

©Matsumoto Eiichi

 

松本 榮一(Eiichi Matsumoto

写真家、著述家

日本大学芸術学部を中退し、1971年よりインド・ブッダガヤの日本寺の駐在員として滞在。4年後、毎日新聞社英文局の依頼で、全インド仏教遺跡の撮影を開始。同時に、インド各地のチベット難民村を取材する。1981年には初めてチベット・ラサにあるポタラ宮を撮影、以来インドとチベット仏教をテーマに取材を続けている。主な出版、写真集 『印度』全三巻、『西蔵』全三巻、『中國』全三巻(すべて毎日コミニケーションズ)他多数。



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2023年7月13日木曜日

導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記①

私がインド古典舞踊 オディッシーを 修養したのは、故プロティマ・ガウリ・ベディ女史がバンガロール 郊外に創設したばかりのNRITYAGRAM(ダンス ヴィレッジ)でのことです。

そこにたどり着いたのは19902月のことだったと思います。

日本で心の病に悩んでいた私にある友人が言ってくれました。 「あなたは絶対に踊ってた方がいいよ 〜!」勧めてくれたのは 堺にいらっしゃった モダンダンスの林田鉄先生。言われるままに通っていたら、ちょうど中国への公演が決まり、ご一緒させていただくことになりました。バイトをやめ、オイリュトミー留学をしようと貯めていたお金を全部持って中国へ旅立ちました。

瀋陽での公演の後、私は1人居残り、かねてから日本人のルーツだと聞いていたミャオ族に惹かれ、一人旅をすることにしました。

それまでの2年あまり何も決められない病になっていた私が、この頃から急に一人旅ができるようになり自分でもびっくり!!

ミャオ族の住む雲南省では120円ぐらいの安宿に泊まって約3ヶ月。「歌掛け」と言って男女が離れ離れのところから歌を送っては返事に歌が送り返されてくるといった何とも ロマンチックな恋愛 歌 遊びの場に一緒に入れてもらって楽しんだり、雲南省各地から少数民族の方々が、それぞれ異なった素敵な刺繍の民族衣装などを着て、それぞれの民族舞踊を披露する大会を観に行ったり……と、とても楽しい時間を過ごしました。私が一番気に入ったのは排村と言われる経済的には貧しい村の方々でしたが、真っ黒なとてもシンプルな服を着た、とても躍動的な踊りをする人たちの踊りでした。

そんな中、例の天安門事件が勃発。両親はさぞ心配したことでしょうが、連絡を取る術もなく私も田舎にいた方が安全だと判断し、ほとぼりが冷めるまで郊外で待機していました。 そして次はシルクロードだ!と 23日かけてたどり着いたウルムチ。その時にハタと気付いたら、さてさて入国から3ヶ月が過ぎようとしているではありませんか。。。このまま 上海に戻るのも癪なのでよし パキスタンに入って新しいビザを取り、ゆっくりシルクロードを堪能しようと決意 。

バックパッカーたちとの出会いもあり、カラクルム峠などを通ってパキスタンに入りました。

ただ、パキスタンに入ってみるとなんだか こちらの方が血が騒ぐのです。。。えーっ~! どうしよう!荷物を中国に置いたままなんだけどな 〜。。。そう思っていたら、結局大雪が降り中国への陸路は閉鎖され、「あ〜! これは神様がインドへ来なさいとおっしゃっているんだ」 そんな風に感じた 私はバスに乗ってインドへ向かうことになりました。しかもデリーからカラチに来たバスの帰りに乗ればただで乗っけてくれるんだ、という情報をうまくゲットして(笑)

そうしてインドの国境を越えたのが198912月。その時なんと また天からのメッセージが降り注いできたのです。。。 実は1986年、兵庫県尼崎ピッコロシアターでオディッシーの公演を観ていました。オディッシーの総師とも言える偉大な故ケルチャラン・モハパトラ グルジーと、愛弟子のクムクム・ラール先生のデュエット公演で、あまりにも感動して日記にも書いていたほど素晴らしかったのですが まさか自分がそれを踊ることになるとは夢にも思いませんでしたし、すっかり忘れていました 。ただ 国境を超えた瞬間、「あー そっか 〜!!! 神様は私にこの踊りをするように、と色んな手を使ってここまで導いてくださったのだ」と感じました 。でも待てよ。。。あの踊りはちょっとやそっとでできるものではない… 何か精神的な修行が必要だと直感し、まずはヨーガを学びにロナバラ(ムンバイから列車で2時間位?)にあるKAIVALYADHAMA というアシュラムに滞在を決めたのでした。

 

花の宮祐三子hananomiya yumikoプロフィール

大阪生まれ。

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年 中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissiPadma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ グルジや、ガウリ・マ等から 住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。



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2023年7月9日日曜日

天竺ブギウギライト河野亮仙

第2回 もう一つのマイナー競技/カラリパヤットその2 武術と舞踊

インド留学前は佐保田ヨーガをやっていたのに、帰国すると太極拳を始めた。長拳にも挑戦した。時はバブルで金余り、また、日中友好を演出するため、京劇のみならず、四川省の川劇などの伝統演劇団や雑技団の来日公演が毎年のようにあった。彼等の立ち回りは中国拳法そのものである。

実際に映画「少林寺」の主役、李連傑は体育学院の出身なので武術の専門家だが、共演したヒロイン丁嵐は地方劇の戯芸院(演劇舞踊学校)出身である。伝統演劇のトレーニングには立ち回り、武術の訓練も含まれているから立派にこなしている。ケーララ州のカタカリ学校も、武術家養成とも思えるような厳しいトレーニングを積む。

1983年、ケーララの劇団ソーパーナムとカタカリ役者が自坊の延命寺に来た時には、カラリパヤットの型とカタカリの型の違いというのを表演してもらった。平成10年頃にはインドから来日した研究者によって、東インドの地方劇チョウとその基礎となっている武術パリカンダの違いを表演してもらったこともある。パリは盾、カンダは剣である。

オリッシー・ダンスの前提となる基礎訓練もクンクマ・ラールや高見麻子に見せてもらった。ほとんど武術の訓練である。バラタナーティヤムにしても同様の厳しい修練が必要で、現今のインド舞踊というのは基本的に男踊りの要素が強い。

伝統的に踊りの師匠、演出家は男であった。一方、女踊り、デーヴァダーシー系の動きというのはケーララ州のナンギヤール・クートゥやカタカリの女舞い、それに基づくモーヒニーアーッタムに継承されている。

また、東南アジアに目を向けるとインドネシア、マレーシアではプンチャック・シラットが盛んだ。男踊りや立ち回りの基礎になっている。もともとはインド系武術と思われるが、現今では中国拳法の影響が強い。ジャカルタで行われた2018年アジア競技大会では正式種目に選ばれ、インドネシアに金メダルをもたらした。日本からも選手が参加した。

3年後に名古屋で開催されるアジア競技大会は、予算不足のため種目の削減が叫ばれている。プンチャック・シラットどころかカバディまで消滅するかもしれない。インドでアジア競技大会が開かれることになったら、カラリパヤットは正式種目に選ばれるだろうか。

タイにはクラビ・クラボーンという様々な武器法も含めた武術がある。中国雲南省から伝わったというが、それはタイ族の故郷ということなのだろうか。その道場からムエタイの選手が出ている。もう日本でキック・ボクシングのテレビ中継を見ることはなくなったが、タイの選手は、試合前に伴奏と共にグルや神のために踊っていた。タイ舞踊の立ち回りは、武術そのままではなくて、ある程度様式化されている。ベトナム相撲も音楽が伴奏に付く。武芸も祝祭的で神に奉納するという性格がある。

 

カラリパヤットには関節技もある

 

タミル・ナードゥ州の棒術

 

盾と剣を振るうパリカンダ(ビハール州)

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論



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2023年7月3日月曜日

サタジットレイぼくが小さかった頃

ゴルパル(4)

小さかった頃から、いつも少しイライラさせられたことが、一つある。それは、ブラーフマ教のマーグ月祭(1) に、ヒンドゥー教の祭祀にあるような賑やかさがなかったことだ。ブラーフマ教祈祷式と、神様についての歌があるだけだった。祈祷式は、一度始まると1時間半から2時間続く。ぼくらの家では、誰かの命日になると、祈祷式を執り行う習慣だった。居間の椅子とテーブルをどけて、白い大理石の床の上に模様入りの敷物を広げ、ぼくらはその上にすわった。その後、祈祷式と歌。母さんは歌がとても上手だったけれど、祈祷式の日には、歌があんまり上手じゃない人たち –– ドンお祖父ちゃんとか、叔父貴とか –– まで、歌に加わった。年々同じ敷物の上に首を垂れてすわったまま、お祈りを聞いていたせいで、ぼくにはその敷物の模様が、完全に頭に焼き付いてしまった。

 

もう一つ頭に焼き付いたのは、サンスクリット語の祈祷の文言と、それのベンガル語版。このベンガル語の祈祷には、どの祭司も必ず守らなければならない、決まりがあった。この決まりによれば、単語はどれも、長く引き延ばして発音しなければならない。たとえば、「まやかしより我らを真実の道へ」の唱え言葉の、ベンガル語版の最初の三行は、こんな風に発音する:——

 

まやかしー よーりー わーれーらーをー  まことへ えーと 導き たまえー

くらやみー よーりー わーれーらーをー  ひかりへ えーと 導き たまえー

めつぼうー よーりー わーれーらーをー  ふめつへ えーと 導き たまえー

 

この、「真実(まこと)へ えーと」とか、「不滅(ふめつ)へ えーと」とかいう唱え方に、すごくいらいらしたのだ。こんな風に言わずに、「真実(まこと)へと 導きたまえ」とか、「不滅(ふめつ)へと 導きたまえ」と言えば、済む話だ。どうしても「へ」を延ばしたいなら、「真実(まこと) へーと」、「不滅(ふめつ) へーと」と区切って言っても、特に問題はないだろうに。でも、もちろん、どの祭司たちも苛立つことはなかったのだ —— だって、彼らは皆、毎年繰り返し、同じ調子で唱え続けていたのだから。

 

ブラーフマ寺院は、ボバニプル(南カルカッタ)にも一つあって、そこでもマーグ月祭が行われる。でも、ゴルパルを去ってボバニプルに移った後でも、ぼくらは、マーグ月11日の大祭の日には、コーンウォリス・ストリート(Cornwallis Street(2) のブラーフマ寺院の他には、どこにも行かなかった。その界隈こそ、「ブラーフマ協会居住区」と呼ばれていたのだ。冬の明け方、4時半に起きて、沐浴してから行かなければならなかった。最初に1時間あまりブラフマン讃歌、その後2時間半、歌と祈祷が続く。木のベンチが用意されていたのだけれど、背もたれがどうしようもなく真っ直ぐで、そのすわり心地は、快適というにはほど遠かった。

マーグ月祭では、ぼくら子供でも少し楽しめる日が、3日間だけあった。決められた特別の日に、祈祷式の後、野菜粥(キチュリ)(3) のご馳走があり、別の一日にはピクニック、そしてあと一日は、少年少女の集い。この最後の催しには、真面目くさった祈祷式の雰囲気はまるでなかった。

でもそれでも、大太鼓・両面太鼓を叩いたり、大テントを設営してその中に神像を飾りつけたりといった、ヒンドゥー教の祭祀にはつきものの賑やかで派手な側面が、ブラーフマ教の祭祀には一切なかった。カーリー女神祭祀の時、皆と一緒に爆竹を鳴らしたり、天灯を飛ばしたりもしたし、ぼくらが子供の頃あった、いろんな種類の小さな爆竹を鳴らす楽しさは、今日の、耳をつん裂き胸を震わせる本物の爆弾のような爆竹の時代には、とうてい得られないものだった。でも、ドゥルガー女神やカーリー女神の祭祀が続く、一年の中の特別の何日か(4) 、カルカッタ中が喜びに沸き立つのに、ブラーフマ教徒の間にはそうした楽しみはなかった。

 

それでたぶん、ブラーフマ教徒たちはいつも、キリスト教のクリスマスを、自分たちの祭日の一つに数えようとしていたのだろう。そんな訳で、クリスマスが来ると、ぼくらは胸がドキドキしたものだった。

 

カルカッタには、その頃、白人たちの大きな店(今日の言葉で「デパートメント・ストア」)、ホワイトウェイ・レイドロー(Whiteway Laidlaw(5) があった。チョウロンギ通り(6) の、いまメトロ映画館(7) がある場所には、その当時、『ステイツマン』(8) の事務所があった。そしてその横のシュレン・バナルジ・ロード(9) に入る曲がり角に、時計台付きの大きな建物が立っている —— それがホワイトウェイだった。その広大な二階建ての建物の、2階のフロア全体が、クリスマス前の何日か、「おもちゃの国(toyland)」になったのだ。母さんに連れられて、ぼくは一度、この「おもちゃの国」を見に行ったことがある。

 

その頃、インドは白人たちが支配していた。ホワイトウェイは白人たちの店だ。店員は皆白人で、買い物客も、そのほとんどが、白人の男女だった。中に入ると目がチカチカした。でも、「おもちゃの国」に行こうにも、階段は、一体、どこに? 生まれて初めて、「エレベーター」がどういうものか、知ることになった。ホワイトウェイのこれが、たぶん、カルカッタで最初のエレベーターだっただろう。

金色に塗った鉄の籠に乗って2階に上がり、降りた時には、本当に夢の国に来たかと思った。フロアのかなりの部分を占めて、山・川・鉄橋・トンネル・信号機・駅付きの曲がりくねった線路が広がり、その上をおもちゃの汽車がぐるぐる回りながら走っている。この他にも、フロアの周りには、いろんな色の風船、色紙で作った鎖飾り、垂れ飾り、造花、果物の模造品、そして中国風の提灯。それに加えて、彩り豊かな球と星をいっぱいに飾りつけたクリスマスツリー、そして何より目を惹いたのは、赤い服に赤い帽子をかぶり、髭を生やした顔に満面笑みを浮かべた、人間三人分の巨体の、サンタクロース。

そこにあったおもちゃは、全部外国製だった。その高価なおもちゃの中で、何とか買うことのできた爆竹の一箱を持って、家に帰った。その頃の爆竹は、もう今日、どこにもお目にかからない。音も素敵だったし、その中から飛び出るいろんなちっぽけな物も、どれもとても素敵だった。

 

その頃、大きくて豪華な店と言えば、そのほとんどはチョウロンギ通りにあった。その中に、ベンガル人が店主だった店が一つ、ホワイトウェイのすぐそばにあった。カー・アンド・モホラノビシュ(Carr & Mahalanabis(10) 。円盤式蓄音機(グラモフォン)とスポーツ用品を扱っていた。その店の店番をしていた人を、ぼくらは「ブロ叔父さん」と呼んでいた。この店には、豪華な椅子が一つあった —— それは実は、体重計だったのだ。チョウロンギ界隈に行くと、ブロ叔父さんの店に必ず立ち寄り、その椅子にすわって体重を計ってくるのが習慣になってしまった。父さんが死んでから、ぼくのために蓄音機を一台持って来てくれたのも、このブロ叔父さんだった。その時からぼくは、蓄音機でレコードを聴くのが、面白くて堪らなくなった。ぼくにはおもちゃの蓄音機が二つあったけれど、それもたぶん、ブロ叔父さんがくれたものだ。その一つの名前は「小人蓄音機(pygmy-phone)」、もう一つは「チビ蓄音機(kiddie-phone)」 。その機械と一緒に、ヨーロッパの歌や楽曲が入ったレコードが、結構たくさんあった —— どれもルチ(11) の大きさだった。

 

カルカッタのラジオ局(12) が始まって間もない頃、ブロ叔父さんは、ぼくの誕生日に、ラジオを一台、プレゼントしてくれた。そのラジオは、今時のラジオとは似ても似つかぬもので、「鉱石ラジオ(crystal set)」と呼ばれていた。耳にヘッドフォンを当てて聞かなければならなかった —— つまり、一度に一人しか、番組を聞くことができなかったのだ。

 

ブロ叔父さんと一緒に、ぼくらは一度、ウートラム・レストラン(Outram Restaurant)に行ったことがある。ウートラムの船着場(13) にあったこの豪華なレストランは、水の上に浮かんでいて、まるで、船のデッキのように見えた。今ウートラムの船着場に行っても、その頃の風景はもう見られない。その当時、船着場の後ろ側には、イーデン公園を囲んで豪華なガス燈が灯り、公園の真ん中にあるステージでは、夕暮れ時になると、白人たちの楽隊(14) が演奏したものだ。ウートラム・レストランで、ぼくは生まれて初めてアイスクリームを食べた。もっとも、この時のことで、ぼくは長いこと、みんなから、からかわれることになった。なぜなら、最初の一口が歯にものすごく染みたので、ぼくは、アイスクリームを少し温めてほしい、と言ったのだ。

 

訳注

(注1)「ブラーフマ協会」は、1830年1月23日、インド暦マーグ月11日に正式に発足。毎年この日に、「ブラーフマ協会」の大祭が催される。

(注2)現在のビダン・ショロニ(Bidhan Sarani)、北カルカッタを南北に走る大通り。

(注3)さまざまな野菜・豆を入れ、バター油(ギー)等で味付けして作られる。

(注4)毎年、アッシン月(9月半ば〜10月半ば)の新月の日から、ドゥルガー女神の祭祀(ドゥルガー=プージャー)が10日間にわたり祝われる。その4日後の満月の日がラクシュミー女神祭祀、その半月後の、カルティク月(10月半ば〜11月半ば)の新月の日がカーリー女神祭祀。この1ヶ月間が、ベンガルのヒンドゥー教徒にとって、一年で最大の祭祀と長期休暇の時節。

(注5)イギリス植民地各地に開かれた、最大のデパート・チェーン。カルカッタでは、1905年にチョウロンギ通り(注6)に開店。この建物は、インド独立後、メトロポリタン生命保険会社(Metropolitan Life Insurance Company)の所有となったため、現在は、「メトロポリタン・ビルディング」と呼ばれている。

(注6)「チョウロンギ」は、中世のナート派の聖者「チョウロンギナト」がここに逗留していたことに由来する。英語読みは「チョウリンギー・ロード(Chowringhee Road)」。中央カルカッタのエスプラナードの東に発し、カルカッタの中心部を、下部環状道路(Lower Circular Road)に至るまで南北に走る、最大の目抜き通り。

(注7)Metro Cinema Hallアメリカの映画制作会社Metro-Goldwyn-Mayerにより、1934年建設、1935年より創業。カルカッタで最も有名な映画館。

(注8)The Statesman’、1875年に創刊した、インド最大の日刊英語紙。

(注9)Suren (dranath) Banerjee Roadチョウロンギ通り(注6)の北端近く、「メトロポリタン・ビルディング」(注5)の南側から東に向かって走る通り。インドの愛国主義者で国民会議派の創始者の一人、シュレンドロナト・バナルジ(Surendranath Banerjee, 1848–1925))に因んで名付けられた。

(注10)プロボド・モホラノビシュ(Prabodh Mahalanobis)が、ニルロトン・ショルカル(Nil Ratan Sarkar)とともに開店。店の名前の Carr は、SarkarKar から取られたと言う。

(注11)小麦粉を捏ねて延ばし、油でふっくら膨らむようにして揚げた、丸パン。ベンガル人が好む常食のひとつ。

(注12)インド放送会社(Indian Broadcasting Company Ltd)がボンベイとカルカッタでラジオ放送を始めたのは1927年。1930年にこの会社が倒産すると、英領政府が引き継ぎ、1932年から定期的に放送するようになった。

(注13)フグリ川の東岸、イーデン公園の西端にある船着場。インド大反乱(1857–58)に際し、イギリス軍を指揮して功績のあった軍人、ジェイムズ・ウートラム卿(Sir James Outram, 1803–1863)の名に因む。

(注14)ウィリアム要塞に配属された軍楽隊。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。


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